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2005年7月 3日 (日)

暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~

 さて、このブログでしつこく批判している曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏であるが、正高氏のマスコミに対する影響力、というよりも読売新聞に対する影響力はいまだに大きいらしく、読売はいまだに教育面の「学びの時評」というコラムの執筆者に採用している。また、正高氏は、平成14年ごろに俗流若者論に走り出してから、学者としての評価をすっかり落としてしまった代わりにマスコミに重宝されるお手軽な「評論家」としての評価を飛躍的に高めてしまい、文章のレヴェルは低下の一途を辿るばかりである。

 そしてその低下の帰結なのだろうか、とうとう正高氏、何を言いたいのかわからないコラムを「学びの時評」に2回連続で書いてしまっているのである。今回検証するのは、それらの文章だ。

 一つ目は、平成17年5月9日付読売新聞の「教科書に権威、今は昔」である。正高氏はこのコラムの冒頭において、《あまり品のよい表現ではないけれど、ほかに思いつかないのであえて書くが、今どきの日本の子どもは教師の話す内容など屁とも思っていない》(正高信男[2005a]、以下、断りがないなら同様)と書くけれども、なぜ正高氏はそのように述べるのだろうか。これ以外にも、正高氏のこのコラムには、根拠のない断定が続出するのである。また、正高氏は、コラムの1段目から2段目にかけて、《教科書に書いてあるから真に受ける子どもなど、天然記念物に近いのではないだろうか。「そう」書いてあるからこそ、疑ってかかる者の方が多いようにすら私には思える》とも書いているのだけれども、そのことに関する根拠を正高氏が示さないのが不可解である。

 はっきり言うがこのコラムは、主張というものがない。文末の《少なくとも、教育手段としての影響力を極端に低下させた教科書にこだわることで、多大なエネルギーの浪費をしているいとまは、ないように私には見えるのだが》というのが主張にあたる部分なのかもしれないが、そもそも正高氏の主張の根拠となっている「教科書の影響力が低下した」という事実が正高氏によって証明されていないのだから、このコラム自体が意味を成さないものになっているとしか言いようがないだろう。本来なら、教科書の影響力を低下せしめたのは何か、そもそも教科書の影響力は低下しているのか、というところからはじめなければならないはずなのだが、そのようなことを正高氏は放棄している。このような無意味・無内容な文章を書いても受け入れられてしまう正高氏とは一体なんなのであろうか。

 これは私の推測であるのだが、正高氏は、中国の「反日」騒動で江沢民政権以降の中国が若年層の反日感情を培養するために「教科書の影響力」なるものについて触れたのであるまいか。中国の江沢民政権移行の対日外交の変容に関しては、東京新聞論説委員の清水美和氏が詳細に検証しているのでそちらを参照してもらうとして(清水美和[2003])、教科書が強い影響力を持つ中国と、それがほとんど影響力を持たない(らしい)我が国の比較をするためにわざわざ取り繕ったのであろうが、それだったらもっと中国の教育の現状についての考察、あるいは我が国の教科書をめぐる状況についての考察を深めるべきだろう。この程度の比較では、表層をあげつらっただけで、結局のところどちらの国の教育のことも語ったことにはならないのではないか。正高氏のこのコラムは、主張というものが見られず、ただ無味乾燥な「お話」に終始しているだけなのである。正高氏は、まず自分の執筆するコラムの限界文字数を認識すべきではないか。

 そして、正高氏の無味乾燥な「お話」は、次のコラムにも引き継がれることになる。それが、平成17年6月20日付読売新聞に掲載された「そびえ立つ父を持つ苦悩」である。まあ、このコラムは、結局のところいわゆる「若貴騒動」とドラマの「エンジン」にかこつけた俗流若者論なのだけれども。

 実際、こちらのコラムは、単に二子山親方の死去をめぐる騒動と「エンジン」を強引に結び付けて現代の家族を語っているだけであった。それが表れているのが、下の3段落であろう。

 そして『エンジン』が高視聴率なのは、見ていて多くの人に「かつての日本の親と子は、こんなだったなぁ」とノスタルジーを喚起するからだろう。現実の世界では、疲れた我が子の背中をたたき、励ましを与えてやれる父親など、そうそうお目にかかれなくなってしまっている。

 思えば私が小学生だった頃は、『七人の孫』や『ただいま十一人』といった大家族ホームドラマが全盛だった。核家族化が急速に進行するなか、やはり「以前は…」と、懐かしさをかき立てていたのだろう。

 家をめぐるドラマをヒットさせるには、少なくとも日本では設定をひと昔前のそれにすることに、あるのかもしれない。(正高信男[2005b]、以下、断りがないなら同様)

 解釈自体は正高氏の勝手なのだけれども、正高氏の解釈が実際のヒットにつながっているか、ということに関しては、検証が必要だろう。また、正高氏が《家をめぐるドラマをヒットさせるには、少なくとも日本では設定をひと昔前のそれにすることに、あるのかもしれない》と語るのであれば、他のヒットしているドラマとの比較が必要である。しかも《現実の世界では、疲れた我が子の背中をたたき、励ましを与えてやれる父親など、そうそうお目にかかれなくなってしまっている》なんて、安易に語らないでいただけないものか。あと、これは蛇足なのだけれども、正高氏の推測を多くの製作者が真に受けてしまい、世の中が一昔前を懐かしむ構成になっているドラマばかりになったら、北朝鮮のような気持ち悪さを覚えてしまいそうだ。

 この2つのコラムを通して見えてくるのは、正高氏が、現代社会や教育に対する違和感を表明するなら、中途半端な文章でもいい、という無責任な態度である。正高氏は、学者としての良心を捨て、「世代」という幻想や、安易なアナロジーに頼った、内容のない文章ばかりを生産し続けるようになった。事実、正高氏は、京都大学の学生の多く集まるネット上の掲示板でも、正高氏の醜態が報告されており、私のブログにも正高氏を「告発」するコメントが書かれている。

 また、正高氏は、エッセイの書き手としても中途半端である。学者としても、エッセイの書き手としても中途半端な正高氏の文章を、このコラム欄の執筆者としてとどめておく意義があるのだろうか。私はかつて「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」という文章で、正高氏に「破綻宣告」をしたが、どうやら正高氏は本当に破綻してしまったようである(ちなみに「学びの時評」で今のところ秀逸なのは市川伸一氏と平野啓子氏。市川氏は学者として、平野氏はエッセイの書き手として非常に良くまとまっている。堀田力氏は微妙。藤原正彦氏は、正高氏とは逆に主張がありすぎて暴走しており、問題が多い。機会があったら「俗流若者論ケースファイル」で採り上げる)。

 最後に読売にも言っておく。

 やめさせるのも英断である、と。

 参考文献・資料
 清水美和[2003]
 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書、2003年5月
 正高信男[2005a]
 正高信男「教科書に権威、今は昔」=2005年5月9日付読売新聞
 正高信男[2005b]
 正高信男「そびえ立つ父を持つ苦悩」=2005年6月20日付読売新聞

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

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