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2005年7月 3日 (日)

俗流若者論ケースファイル31・細川珠生

 前回は憲法にかこつけた俗流若者論を検証したけれども、「憲法」というものに対して過剰に何らかの意味・幻想をもっているのは、保守系の政治家よりもむしろ保守系の自称「識者」のほうに多い。しかも、彼らの抱いている「幻想」は、政治家のそれよりも格段に強いものだ。憲法を変えて、憲法に「国家意識」を取り戻せば、少年犯罪も不登校もなくなる、と彼らは言う。このような奇妙な論理に接するたびに、私は彼らの「国家意識」こそ問いたくなる。所詮、彼らの言う「国家」は、俗流若者論的な懐古主義に基づくものでしかないのか、と。俗流若者論という排除の論理に基づく共同幻想に支えられた「国家」など、どこが国家だ。

 今回はそのような「国家」、すなわち自らの幻想としての「国家」を取り戻すために憲法を改正しろ、と主張する自称「識者」の文章を検証する。ジャーナリスト・細川珠生氏の「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」(「諸君!」平成16年5月号に掲載)である。なにせこの記事、編集部がつけたものだろうが、のっけからリード文で《昨今の日本の衰弱、自己中心的な若者の増加の原因は「憲法」に起因するのではないか!?》(細川珠生[2004]、以下、断りがないなら同様)とかましているのだから情けない。そして本文を読んでいても、飛躍の連続であった。まったく、《自己中心的な》細川氏の登場の《原因は「憲法」に起因するのではないか!?》と思ってしまったほどだ。自分の不愉快に思う問題の全てを「憲法」(という幻想)に結びつけるのは、もうやめていただけまいか。

 67ページ3段目において、細川氏は《民主党幹部の言うように、「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と書く。このブログの愛読者であればここで笑うべきだろう。なぜなら、細川氏がなぜ《「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と言えるのかについての理由を述べたのが67ページ3段目から68ページ3段目までなのだが、その部分が個人的な恨み節をただ綴っているだけなのだから。

 67ページ1段目、《今、テレビでは、身近で何かトラブルが発生した場合、弁護士にその法的根拠を指導してもらい、どういう解決の方法があるかを取り上げる番組がはやりである》状況について、細川氏は68ページ1段目において《あまりにも私的なケースが多い》と指摘し、《冷静に話し合えば解決する問題》と言う。それについては私は異論を挟むつもりはないし、そもそもこの手の番組はそのような理由から見ていない。しかし細川氏は、このようなことに過剰な難癖をつけてしまう。曰く、《冷静に話し合えば解決する問題でも、裁判沙汰にする風潮が日本でも高まってきているが、これも現行憲法の悪しき「理念」――「権利の重視」と「義務の軽視」が拡大してきているからではないだろうか》と言ってしまう。正直言って呆れてしまった。まず、この手の番組で、何らかの些細な行為に法的な根拠が与えられたからといっても、実際に裁判沙汰にしてしまう人が何人いるだろうか。多くの人は、これらの番組を単なる「ネタ」として楽しんでいる程度ではないだろうか。

 私が笑ってしまったのは、68ページ2段目の投票率について述べたくだりである。このようなことさえも「憲法」のせいにできる細川氏の感性というもののほうが異常なのではないか、と思ってしまう。例えば細川氏は、《「誰が(総理大臣を)やったって、同じ」「選挙なんて、自分ひとりがマジメに行ったところで、何も変わらない」と、政治への無関心を、あたかももっともらしく語る人が多いが、本当にそうだろうか。ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》と述べるけれども、論点がずれていやしまいか。要するに、《ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》という問いかけが、政治に対して何も関心も期待も持っていない人に対して少しでも意味のあるものになりうるか、ということだ。一回、細川氏は、出馬してみたらどうか。
 さらに同じページで、《ましてや、国民が、「国のため」に命をささげるなどとは、とんでもないことだと思っている。ロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾、シンガポール、マレーシアなど日本の周辺国のほとんどが採用している徴兵制も、「とんでもない」という意見が大勢を占めている》と書いているけれども、恣意的な選定ではないか。どうしてアジアなのだろう?アメリカやヨーロッパはどうなのだろうか(ちなみに多くの先進国が徴兵制を廃止している傾向にあるというのは周知の通り)。また、韓国では、徴兵制に否定的な考え方を持つ若年層が増えているというデータもある(尹載善[2004])。ちなみに本筋から外れるけれども、徴兵制が決して「ひきこもり」の解決につながらないことも指摘しておきたい。

 さて、本筋に戻ろう。案の定、細川氏は、68ページ3段目において、《独断かもしれないが、私は、これらの問題は全て、今の「日本国憲法」に起因すると思うのだ》と言ってしまう。漫画やアニメでは「お約束」は許されるけれども(もちろん製作者の技量にもよる)、憲法論で「お約束」が許されるわけがない。さらに細川氏は、このように妄想を堂々と開陳するのだから、たまったものではない。

 結局のところ、他国の占領下にあった時に、他国の人の手によって作られた憲法によって治められている国というのは、そこに住む人々も、“それなりの人”にしかならないのではないだろうか。何か他人任せで主体性もなく、さまざまな矛盾にも気づかずに、九条のようにただ「戦争放棄の日本」を外に唱えればそれで世界が「日本はいい国だ」と納得してくれるものだと思いこんでいる。日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが今の普通の「日本人」の姿であり、ふと考えてみれば、まさに「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民ばかりになっただけともいえるのかもしれない。

 まったく、細川氏の現在の社会に対する認識が、透けて見えるような文章ではないか。細川氏は、自分の不愉快に思う事例は全て「憲法」のせいだ、と思い込み、それらを変えれば即刻日本は良くなる(=自分の思い道理になる)とでも妄想しているのだろう。まったく、《何か他人任せで主体性も》ないのは細川氏であり、《日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが》細川氏なのだ。つまり細川氏の理論に従えば、細川氏こそ《「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民》と言えるのである。何かにつけて「憲法」に責任をなすり付け、「国家」を持ち出したがるのは、自分の精神が脆弱な証拠である。

 案の定、同様の妄想を、細川氏は72ページでも開陳してしまうのである。曰く、

 この間に、「憲法」というものの、国家における重要性を説いてこなかった政治やマスコミの責任は大きい。……その結果、憲法に無関心であり無知な国民が出来上がり、その国民の代表者である国会議員が、憲法をどうするべきかということに、意見もないような国となってしまった。政治かも、国民も、自分の懐だけが潤えばいいという意識にどっぷりと漬かっている。親としての責任、子供としての務め、社会人としての自覚、仕事における使命感など、お金に換算できないことには関心をもたないという、“空っぽ”な人間ばかりがはびこる社会となってしまった。

 一体、何を基準として語っているのだろう。所詮これらの物言いは、自分こそが国家(=細川氏の幻想としての「国家」)を救うことができる存在であり、自分の不愉快に思う人々を罵倒するためだけのロジックである。それにしても、この極めてステレオタイプな細川氏の認識はなんなのだろう。保守論壇という狭い世界でしか生きていけなかったからこうなるのか。それともこの「諸君!」の読者に媚びるためなのか。いずれにせよ、細川氏の認識が極めて一方的なのは確かだ。

 これ以降の文章に対する検証は、細川氏の同様の妄想が開陳されているだけか、あるいは単なる保守論壇の俗流憲法論の受け売りでしかないので省略するけれども、この文章で問いかけたいのは、細川氏の如く「憲法」を過剰に敵視「するため」に「今時の若者」をはじめとする「今時の日本人」を批判するというのが、憲法を論じる態度として許されるべきなのか、ということである。

 立憲主義の考えに基づくのであれば、憲法とは、国民が国家に充てた命令である。それゆえ、細川氏の如き改憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法が国民の義務を解いてこなかったから、日本はここまで堕落してしまった」という妄想や、護憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法の理念を生活に浸透させなければいけない」という妄想の入り込む余地はない。しかし、現実において憲法は、限りなく「政治的」なものとして語られている。憲法にかこつけて俗流若者論を開陳する政治家や自称「識者」は(改憲派だけでなく護憲派にもいる。改憲派に比べれば極めて少数であるが)、憲法というものの本質を殺してしまっているのである。

 ここからは俗流保守論壇に限定して話を進めるけれども、憲法を批判するためだけに「今時の若者」及び「今時の日本人」を感情的に批判する、ということはすなわち、憲法とは何かという問いかけを最初から飛び越えて、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ためだけに憲法が持ち出されることになり、憲法の歴史や学説や性質をまったく踏まえないものになってしまう。それだけではなく、彼らは憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくる、というけれども、では聞こう、憲法はすべからく無謬であるべきなのか。憲法が無謬であれば、「今時の若者」「今時の日本人」はどうにかできるのか。

 憲法といえど人間の作ったものであるから、いくら改正されてもそれは無謬であるはずはない。ましてや、憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくるなど、倒錯した議論もいいところだ。結局のところ、憲法にかこつけた俗流若者論というものは、自分の不愉快に思う事は全て憲法改正が解決してくれる、というヒロイズムであり、自分の妄想を国家に反映させようとする自分勝手な政治認識であり、現実の政治問題を通り越してまず「今時の若者」を何とかすべきだ、という生活保守主義に過ぎないのである(ちなみに細川氏はこの文章の中で何度も「今時の日本人」を罵倒しているけれども、そのロジックのほとんど全てが細川氏自身に当てはまる)。

 憲法にかこつけた俗流若者論というものは、ここまで問題を持っているのである。そして、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ことが至上命題となり、憲法や教育基本法などの改正もそれにしたがって行われなければならない、という、社会で解決されなければならない問題、あるいはそのような考え方の基盤となっているものこそを問われなければならない問題を最大の政治問題として国家に丸投げすることこそ、最大の政治的無関心なのである。投票率ばかりが問題なのではない、そのような考え方の蔓延のほうがよほど問題である。

 参考文献・資料
 細川珠生[2004]
 細川珠生「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」=「諸君!」2004年5月号、文藝春秋

 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
 橋爪大三郎『人間にとって法とは何か』PHP新書、2003年10月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 井上達夫「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 河野勝「なぜ、憲法か」=「中央公論」2005年5月号、中央公論新社

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