俗流若者論ケースファイル33・香山リカ
昨今のCDの売り上げにおいて、アニメのキャラクターの名義で出されるCD(キャラクターソング)の売上がすさまじい。平成14年ごろからアニメ「テニスの王子様」のキャラクターCDがオリコンで高い順位を記録するようになり、さらに平成16年から発売が始まり、現在のアニメ放送につながる「魔法先生ネギま!」は、所期の2枚を除いて(それでも初登場15位以上であったが)全てが初登場10位以上にランクインするようになっている。
かく言う筆者も、この論文を書いた前日(平成17年7月6日)に、能登麻美子、相沢舞、皆川純子、井ノ上ナオミ、猪口有佳の各氏が歌う「魔法先生ネギま!」の平成17年6月分のオープニングテーマ「ハッピー☆マテリアル」を購入している。この論文の執筆時点ではオリコンの週間順位はわからないが、高い順位をマークするのはほとんど間違いないと思われる。これ以外にも、最近ではアニメ・声優関係の楽曲の売上が上昇している。私はアニメは見ないけれどもアニメ・声優関係の楽曲はよく購入している。
このような新しいカルチュアのムーヴメントの一つになっているのが「萌え」である。一般に認知されている限り、「萌え」とはアニメや漫画のキャラクターに愛情を持つことであるといわれている。ポイントは「萌え」がアニメや漫画のキャラクターを志向している、ということだ。一般の人から見ればこのような行為は「妄想に欲情する気持ち悪いオタクの行為」と認知されるかもしれないが、個人的にそれを嫌うのは勝手だけれども、それに対して誤解と曲解を重ねて、猟奇犯罪と結びつけて過剰に危険視するのは許されざる行為であり、排他的ナショナリズムの発露にしかならないだろう。
私がこのように前置きしたのも、この論文が前回の「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」の続編であり、前回に引き続いて今年5月に起こった少女監禁事件にかこつけた俗流若者論を検証するものだからである。
多くの人の期待(?)を裏切って申し訳ないが、あまりにもひどい俗流若者論なので、「ブルータスよお前もか!」といわなければならない。というのも、今回検証するのが、精神科医であり、オタク・カルチュアにある程度の理解を示していると見られてきた香山リカ氏の文章だからである。香山氏は、硬派なメディア批評で有名な月刊誌「創」の平成17年7月号において、香山氏の連載「「こころの時代」解体新書」で「監禁事件と「萌え」文化」としてこの事件を採り上げているからだ。一読して、香山氏はいったいどうしてしまったのか、と不安になった。
冒頭で述べたとおり、我が国のカルチュア・ステージにおいて「萌え」が一つの大きなムーヴメントになっている。香山氏は冒頭において平成17年4月23日付毎日小学生新聞における「萌え」の説明を引用しつつ、このように批判している。曰く、
ここで「萌え」は、全面的に“よいもの”“もうかるもの”として扱われており、“危険なもの”“警戒が必要なもの”といった視点はまったくない。また、「萌え」の中核は「愛情」とされており、そこに「性的な欲望」がからんでいるかどうかについては、触れられていない。(香山リカ[2005]、以下、断りがないなら同様)
と。もちろん、香山氏が一般論として、物事を認識する際には《“危険なもの”“警戒が必要なもの”といった視点》もまた必要である、と言っているのであれば私は大いに共感を示す。しかし、本文を読んでみる限り、香山氏はどうも一般論としてこのような物言いをしているわけではないようだ。
なぜか。
ここで少女監禁事件の登場である。香山氏はこの文章の中で、一連の少女監禁事件事件と「萌え」を強引に結び付けようとしている、というのがこの答えだ。香山氏は犯人・小林泰剛の特徴を述べた上で、79ページ2段目においてこのように述べている。曰く、
小林容疑者が、小学生新聞の「アニメ、マンガ、ゲームの登場人物に愛情を覚える」という定義によるところの「萌え」の要素を濃く持っていたことは、間違いないだろう。
と。確かにそうかもしれないけれども、精神科医の斎藤環氏や(太田啓之、太田サトル[2001])ライターの本田透氏(本田透[2005])が言っている通り、「萌え」とはあくまでも虚構=アニメやゲームや漫画の中で完結できる性的志向であり、実際に少女監禁とか強姦とかを起こしてしまったら、もうその時点で「萌え」ではなくなる。であるから、たとい小林がアニメやゲームなどに欲情していても、実際に現実の女性に犯罪をしでかしてしまったら、小林は「萌え」という感情を本質的に持っていないということになり、また「萌え」が犯罪に結びつくと断言することはできない。
香山氏は79ページ末尾において《「女性を自分の思うがままにしたい」「女性を性的に開発したい」という男性の欲望そのものが異常というわけでは》ない、と前置きをし、さらにこの事件の報道において集中的に採り上げられている「調教ゲーム」に関しても80ページ1段目から2段目にかけて《「現実はこの正反対なのだ」とよく知っているからこそ、ゲームでファンタジーを満たしている》と書いている。しかし、香山氏が、それでも「萌え」が犯罪につながる、と強弁する所以とは何か。
それはインターネットである。香山氏は80ページ2段目から3段目にかけて、インターネットのチャットにおいては《百にひとつ、千にひとつの確率でもファンタジーが現実になるチャンスがある》として、《男性が調教ゲームで抱いた歪んだ女性観は、「ネットだから」と気軽に相手の期待にこたえる女性たちによってかえってより強化されてしまうこともある》と、チャットによる性犯罪の危険性を書いている。しかしこのようなアナロジーには問題が多い。そもそも《調教ゲーム》が女性観をゆがめるものであるのか、ゆがめるものであるとしたらどれほどか、ということについての検証が必要であるし、小林の事件がこのような仮定で起こった典型的なものである、と証明するに足る証拠が必要であるだろう。
しかし、香山氏の偏見はむしろ81ページにおいて噴出する。まず香山氏は81ページの冒頭、1段目において、このように述べる。
よく考えれば、モニター上で調教ゲームをやり続け、その同じモニター上でゲームと同じノリで実際の女性とチャットをしている人が、いつの間にか「やっぱり現実の女性もゲームのキャラと同じなんだ」と思い込んだとしても、それほど不思議はないような気がする。
と。相当に無理のあるアナロジーの後に《それほど不思議はないような気がする》などと憶測し、それだけであるひとつのもののついて敵愾心を煽るのは俗流若者論の常套手段である。そして香山氏は、81ページの1段目終わりから最後にかけて、相当にひどいことを言い出してしまう。全文を引用しよう。
では、どうすればいいのか。いつものようにアダルトゲーム規制の話も出ているが、ネットや携帯電話がこれほど普及し、誰もが“なりすまし”で見知らぬ相手とコミュニケーションすることが可能になった今、ゲームやコミックの一部を規制してみても問題は解決しないだろう。「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが、小学生新聞にもあるように「萌え」はいまや巨大市場となっていること、「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると、そんな思い切った措置を提案できる人がいるとはとても思えない。
これからもおそらく、「萌え」は日本を代表する産業として、文化として発展の一途をたどり、そして時おり今回のような犯罪や事件が起き、世間は「とは言っても、これからのにほんは『萌え』に頼るしかないわけだし……」と事態を静観しつつ、記憶が薄れるのを待つしかないのだろう。
しかし、せめて「『萌え』は侘び・寂びに並ぶ日本特有の美意識」「『萌え』こそ今後の日本の主力産業」とその興隆を肯定、礼賛する人たちは、実はほとんどの「萌え」を支えているのは性的な欲望であり、そうであるからには明るく清潔なことばかりは期待できない、ということをきちんと自覚しておくことが必要だ。「小学生にも安全な『萌え』」などといったイメージは、「お金だけもうけたいがリスクは背負いたくない」というおとなの無責任きわまりない発想に基づいていると思う。犯罪や事件覚悟で「萌え」を推進するか、さもなくば大損承知で全面規制するか、とるべき道はふたつにひとつしかない。
事実誤認、情報操作、恫喝。問題を列挙すれば切りがない。無数の問題点の中から得の重要と思われる部分を抜き出して検証することにしよう。
まず、《「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが》という部分。例えばインターネット上の相談に代表されるとおり、匿名であるからこそ言うことができるものもあり、インターネット上のコミュニケーションでさえも全て実名でやらなければならないとしたら、かえって「世間」の息苦しさがインターネット上に持ち越される、という結果にしかならないだろう。また、香山氏が《「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」》と主張しているのであれば(香山氏はこれ以外の案を示していないので、香山氏はそう主張したいと判断せざるを得ない)、それによるリスクも勘案しなければならないはずだし、リスク教育も考えなければならない。そもそもこのようなことが実を結ぶためには、北朝鮮並みの情報統制ができないと、可能性として限りなく0に近い(ちなみに「後藤和智」は実名である。あしからず)。
また、香山氏は《「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると》と述べている。香山氏がこのように述べている根拠は、同名の著書があるライブドア社長の堀江貴文氏が絶大な人気を持っていることなのかもしれないが(ついでに私は堀江氏があまり好きではない。あしからず)、多くの人は堀江氏を時代を変えてくれる風雲児として、いわば「キャラ」としてみているのではないか、というのが私の印象であり、どうも堀江氏の経営哲学(あるのかどうかもわからないが)そのものに対する人気はあまり見られない。要するに、堀江氏の考え方全体に賛同している人はあまり多くないのではないか。
もう一つ、香山氏は《そして時おり今回のような犯罪や事件が起き》と書いているが、香山氏はこの事件が明らかに「萌え」が引き起こしたものとしてとらえているようだ。しかし、香山氏は、多くの「萌え」の感情を持つ人たちがなぜ犯罪を起こさないのか、ということに対する考察を欠いてはいまいか。
そして最後に――。香山氏は、この文章の中で、明らかに「「萌え」を推進して経済的に発展しつつ犯罪も増加する道を選ぶか、それとも「萌え」を全面規制して犯罪も経済発展も抑制するか」という二項対立を煽っている。香山氏にとっては、「萌え」とは経済ナショナリズム、文化ナショナリズムのためのものと認知されているのだろうか。しかし、「萌え」による経済ナショナリズム及び文化ナショナリズム(そのようなものが生じるかどうかもわからないけれども)の大綱として香山氏が提示している全面規制もまた、ナショナリズムなのだ。簡単に言えば「現実」という名の。もっと具体的に言うと、「現実こそが至上であり、アニメやゲームの美少女に欲情する「萌え」は退廃的なものだ」というイデオロギーである。香山氏は明らかにこの「現実」ナショナリズムの隘路に嵌っており、そこらの俗流経済学者が提示しそうな「経済か、安全か」という二項対立は、所詮は「現実」ナショナリズムによる狼藉でしかない。そもそも《とるべき道はふたつにひとつしかない》などと、勝手に選択肢を狭めないで頂きたい。
そもそも香山氏のみならず規制論者(この文章を読む限り、香山氏は「隠れ規制論者」と見なせるかもしれない)に共通していることだが、この手の人たちは「ゲームが犯罪を起こした。たといゲームをやって犯罪を犯す確率が極めて少ないとしても、現実に起こってしまったのだから規制するしかない」という人たちは、なぜ他のファクターに関しても同様のことを言わないのだろうか。彼らは、明らかに「ゲーム」なら何を言っても許される、と思っている。「ゲームの登場人物にも人権を認めよ」という似非人権論者を批判する人にも、このように「ゲームの犯罪性」という虚構を振りかざす人たちが多い。彼らこそ、(彼らの常套句を引けば)「現実と虚構の区別がつかない」人たちではないか。
彼らは、「ゲームという虚構が我々の生きる現実を犯す」という「物語」を共通して持っている。しかし、そのような「物語」に仮託して自らの優位性を正当付ける論理は、ナショナリズムとしてしか析出しないし、現実に「現実」ナショナリズムが(こういう言い方も少々変だけれども)青少年を苦しめる規制を生み出している。それを象徴するのが、神奈川県であろう。
「現実」ナショナリズムの横行が、やがては青少年を苦しめる。我が国で現在怪物の如く横行しているナショナリズムは、多分に俗流若者論を含んでいる。要するに「今時の若者」に対する敵愾心の共同体としてのナショナリズムである。これが現在、メディア規制や秋葉原の再開発として表れているのである。インターネットにも、ゲームにも逃避できなくなる社会が登場したら、我々はどこに逃避すればいいのだろう?これが、ここ数年横行しているオタクバッシングから私が得た疑問である。これは多くの人に考えて欲しい問題だ。
参考文献・資料
太田啓之、太田サトル[2001]
太田啓之、太田サトル「「オタクの風上にも置けない」」=「AERA」2001年9月3日号、朝日新聞社
香山リカ[2005]
香山リカ「監禁事件と「萌え」文化」=「創」2005年7月号、創出版社
本田透[2005]
本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年10月
五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』1980年3月
笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
森川嘉一郎『趣都の誕生』幻冬社、2003年2月
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
石田衣良、森川嘉一郎「秋葉原は「萌え」ているか」=「Voice」2005年4月号、PHP研究所
石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年6月号、岩波書店
大沢千秋「アホっぽい超になってると指摘されて、「あっ、しまった」って(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年7月号、音楽専科社
河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
小林ゆう「今度は木乃香お嬢さまとデュエットをしてみたいです(照)」=「hm3 SPECIAL」2005年6月号、音楽専科社
齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
斎藤環「診断名は「社交的ひきこもり」」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
志村由美、門脇舞「2-Aのメンバーとは長い間一緒にやってきたのでもうどんな組み合わせでもすんなりやれます(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年8月号、音楽専科社
杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
福井洋平「アキハバラ萌えるバザール」=「AERA」2004年12月13日号、朝日新聞社
福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社
渡辺明乃「主題歌では茶々丸っぽくするならむしろ音を消して録ってくださいって(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年5月号、音楽専科社
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コメント
トラックバックありがとうございました。
別の記事にもしていただきましたが、私からそちらへのトラックバックを付け間違えたのだと誤解して消してしまいました。すいません。ブログを扱いだしてから日が浅いものですから…
投稿: 古鳥羽護 | 2005年7月 7日 (木) 19時26分
トラックバックありがとうございます。香山氏は大学時代に講演に来られた際に「テレビゲームと癒し」の実証研究の続きがどうなったのか聞いた覚えがあります(なかなか実証は難しいとお答えになられていました)。おそらく、アニメからオタクを汚れ役として切り離して持ち上げているように、ゲームからもオタクを切り離して…ということでも考えているのか、もしくは下らないナショナリズム関連に被れるあまりに現実と虚構の区別がつかなくなったwというところではないでしょうか。今回の一件で、宮崎哲弥氏に引き続き、理解を示していると思っていた知識人(?)の背信言説に嫌な気持ちにさせられましたよ。
投稿: 遊鬱 | 2005年7月 7日 (木) 22時54分
>「ゲームの登場人物にも人権を認めよ」
これだと、
・作中のキャラにも選挙権・被選挙権がある。ガンダムのギレン総帥が内閣総理大臣になれる。
・作中で戦死したキャラ、土方艦長や沖田艦長が靖国神社に祭られる。
・作中で「英雄」とされているキャラや優れた功績を残したキャラが表彰されたり天皇陛下から勲章を授かる。
etc・・・
こんなことが成り立ちますよ。規制派の理屈は「無理なこと」で出来ているのか・・・・
かつてエレキギターが弾圧されたこともありますが、そのときと何も変わっていないのですね。
若者叩きをする連中は「私的な道徳・潔癖」にこだわって時代についてゆけず、本当の進歩を忘れてしまったのでしょうか。(どこかで聞いた台詞だなぁ・・・)
こんな連中がのさばっているようでは、万が一に再び戦争が起こったら、また日本が負けそうです。想像したくもありませんが。
投稿: 日本ハッテン党幹事長 | 2011年4月 1日 (金) 07時14分