正高信男という斜陽
かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成17年7月25日に、最新刊『考えないヒト』(中公新書)を上梓した。ちなみにサブタイトルは「ケータイ依存で退化した日本人」である。本書の構成は、かつて私が批判した『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)の各章を各種テーマ、すなわち「出あるく」「キレる」「ネット依存症」「文化の喪失」「サル化する日本人」に基づいて再構成されたものである。
本書を読んでみる限り、何も変わっていない、と感じた。基本的に本書における疑問点の全てが、『人間性の進化史』を批判した「正高信男という頽廃」と完全に重なっているので、詳しくはそちらを参照されたい。もちろん、新しい知見もなく、かといって修正された箇所もなく、反省もなく、ただ前掲のテキストを少しばかり話題を足しただけの本に過ぎなく、基本的に若年層のこと、あるいは自分の気に食わない行動を「退化」と罵るというスタンスも、霊長類に関するアナロジーを乱用するという行為も、まったく変わっていない。そもそも青少年問題であれば、例えば就業の問題とか、もっと語るべき問題があると思うのだが。マスコミで興味本位で採り上げられている「問題行動」ばかり、というのが、また本書の哀しいところだ。『人間性の進化史』を新書にしただけ、という極めて手軽な本である。
NHK人間講座テキストと各章の対応は次の通り。
「出あるく」…第3回「家族って何」、第4回「父親が求められる時」
「キレる」…第2回「はじめに言語ありき」、第6回「なぜ「キレる」のか」
「ネット依存症」…第5回「愛と性の分離」
「文化の喪失」…第7回「文明が文化を滅ぼす」
「サル化する日本人」…第1回「人間はいつ人間になったか」、第8回「「自分探し」のはじまり」
ただし、ここで新しく指摘しておきたいことは、第2回と第6回が一つの章にまとめられていることによって、さも第2回で論じられている「ギャル文字」(蛇足:私はこの文字が嫌いである。しかし、そのことと、その文字を使う人たちに対しての正高氏の差別的な目線を批判することは矛盾しないと考える)と、近年多発しているといわれている(その実は単にマスコミが興味本位で採り上げているのに過ぎなかったりする)「キレる」少年犯罪と関連がある、と捉えられかねない、ということである。
だが、このように第2回と第6回が一つの章としてまとまることによって、正高氏は《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)文字を「今時の若者」は用いており、その結果言語能力が退化して、結果としてワーキングメモリーの機能が低下し、そして「キレる」犯罪が起こってしまう、と正高氏は主張していることになる。
笑止千万なりき。まず、「キレる」という言葉が、極めて政治的に捏造されたものであるということをなぜ正高氏は考え付かないのか。具体的にいうならば、定義が曖昧なまま乱用されているとか、無責任なマスコミ人が時流に迎合して作り出した言葉だとか。また、正高氏は具体的な事例にあたろうとしない。さらに、正高氏は、印象だけで《行動の理解に苦しむ事件は、まちがいなく増えているだろう》と語っているのだが、まず「行動の理解」というのが極めて恣意的、すなわち自らの「物語」をそのまま犯罪者の性格にそのまま当てはめるもので検証としてかなり怪しいし、昨今のマスコミが若年層バッシングにばかり熱心になっているのではないか、という疑念も浮かんでいないようだ。これも、『人間性の進化史』の頃とまったく変わっていない問題点だ。
何度も指摘していることだが、正高氏は、マスコミで問題と喧伝されている(注目!)ことに、彼らを人間と見る以前にサルとして見ることで、その行動を「退化」だと決め付けるだけの単なる御用評論家に過ぎない。そもそも、そのような「観察」方法自体、正高氏の傲慢さを表すものであることに他ならないからである。
この本と同時期に発売された、評論家の斎藤美奈子氏の著書『誤読日記』(朝日新聞社)で、斎藤氏は、正高氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)を評して《サル並みに扱われた若者たちこそいい迷惑。愚書でもいいが、むしろ現代の奇書であろう》(斎藤美奈子[2005])と述べている。しかし正高氏は、若年層をサルとして見なすことに対してまったくの葛藤や躊躇がない。所詮正高氏にとって若年層とは、自分の「飯の種」でしかないのだろう。そして、このような人がもてはやされている現在のメディア状況にもまた、疑問を呈さざるにはいられない。
参考文献・資料
斎藤美奈子[2005]
斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
正高信男[2005]
正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月/正高信男『人間性の進化史』NHK人間講座テキスト、2004年12月
基本的に参考文献は「正高信男という頽廃」と同じですが、それ以降に新しく読んだ参考文献を追記しておきます。
鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月
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コメント
トラックバックありがとうございます。今回の検証はボリューム薄め…。結局のところ妄想に対して、妄想であることの指摘、その妄想を生んでいる背景に対する考察の繰り返しになるんですよね。それでも性懲りもなく次から次へと妄言が生産されるイタチゴッコである以上、後藤氏のように誰かが王様は裸だと指摘し続けなければいけないのですが…実に不毛ですよね。
宮城までもがとんでもゲーム規制法案を作らないことを祈っておきます(浅野知事はかなり好きな政治家であっただけにショックです)。
投稿: 遊鬱 | 2005年7月25日 (月) 23時33分
>「キレる」という言葉が、極めて政治的に捏造されたものであるということをなぜ正高氏は考え付かないのか。具体的にいうならば、定義が曖昧なまま乱用されているとか、無責任なマスコミ人が時流に迎合して作り出した言葉だとか。
これも君の決め付けだよ
証明してみろよ
君のやってることって
自分で何も構築せず
生きず
他人の仕事の「科学的」あいまいさを揚げ足取る
というレベルのありふれたものでしかないんだよ
じゃあ実際どうなのか自分で研究して、自分で
確信を掴み取るものでなければ、自己満足でおわりますよ
投稿: けん | 2006年5月 3日 (水) 11時56分