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2005年8月30日 (火)

統計学の常識、やってTRY!第5回

 たとい統計といえども、客観的な指標を表しているとはいえない統計も存在する。若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探る企画「統計学の常識やってTRY」の第5回は、そのような統計を検証することとしよう。

 今回検証する統計は、朝日新聞社の発行する週刊誌「AERA」の編集部と、教育評論家の尾木直樹氏が行なった統計である。そして統計の結果が、「AERA」平成17年9月5日号に「父よ母よ 園児が壊れる」なる記事として刑されている。その統計の内容は、《ここ数年の子供たちの変化について、教育評論家の尾木直樹法政大教授の協力を得て全国の保育園と幼稚園(筆者注:215箇所)にアンケートした》(各務滋、坂井浩和、小田公美子[2005]、以下、断りがないなら同様/31ページ)というものらしい。

 この時点で疑問がある。「AERA」編集部(以下、単に「編集部」と表記した場合は「AERA」の編集部を指すものとする)と尾木氏は、どうして子供の体力などに関する直接的・客観的なデータを採らずに、このような方式を採用したのだろうか。編集部や尾木氏は、幼稚園や保育園で指導に当たっている人たちは客観的に子供を見ることができる、と思っているのかもしれないが、このようなアンケート調査は結局のところ主観だけを調査しているのであって、客観的なデータを表しているとはいえない。

 編集部は、この記事において、例えば《バスのわずかなステップを、一人では降りられない》という《青森県の幼稚園で実際にあった事例》(以上、31ページ)みたいなものを立て続けに提示することで、昨今の子供たちの身体に異変が生じている、と主張している。しかし私が疑問に思うのは、そのような事例が果たして本当に一般化しているのか、ということと、また仮に増加していたとしても、都市部や郊外部や農村部の如く、あるいは社会階層の問題に関して、どのような違いが見られるのか、ということだ。そのようなさまざまな社会階層に関する差異も検討せずに、子供たちと親たちをバッシングするということは、果たして調査を行うものとして正しい行為ということが出来るのだろうか。たとい事例を引っ張ったからといって、具体的な数値での裏づけがない限り、そのような調査は決して説得力を持ったものにはならない。

 32ページでは、《疾患を持つ子が増えたと答えた園は、全体の8割を超えた》とある。だがこれに関しては原因論は一切語られていない。また疾患に関する内訳も書かれていない。こと疾患に関しては、どうしても子育て還元論にしえない要素が多いので、全体として還元論として書かれているこの記事では深くは触れたくない、ということか。

 調査に関して言うと、32ページの最後の段から34ページ1段目までに採り上げられている《こころ》に関する調査はかなり主観が入っている。ここで取り上げられている調査項目は、《友達とかかわることの苦手な子が増えている》《集団遊びをしているときに、ルールが分かっていても守れない子どもが増えている》《落ち着きのない子どもが増えている》《攻撃的な行動をする子どもが増えている》《自己中心的な子どもが増えている》《「パニック」状態になる子どもが増えている》というものなのだが、果たしてこのような調査において「増えている」と感じているという結果が多かったからといって、本当に増えているかどうかとは決していえないのである。人間は過去の記憶を美化する傾向があるから、そのようなことに関することも考慮しなければならないし、あるいはここ最近の「今時の若者」「今時の子供」をめぐる言説が過度に横行し、そのため人々が規範(《こころ》!)に関して神経質に成っているからそのような見方になっているのではないか、という可能性も否定は出来ない。いずれにせよ、客観的なデータではないということだ。

 35ページに掲載されている尾木直樹氏の談話にも疑問が残る。尾木氏はこのアンケートの結果を分析して《・生活が崩壊し身も心もボロボロ/・家庭の子育て環境は最悪/・これでは、日本の未来が危ない》などと鬼の首を取った如く書いているけれども、尾木氏も学者であれば、このようなアンケートが、決して客観的な事例を切り取ったものではない、ということぐらい理解していただきたいものだ。また尾木氏は、35ページの3段目から4段目にかけて、《虐待が「増えている」は16%、「登園拒否」も5%と少ない。が、安心は禁物。これもまた、ここ数年の「増加」が少ないというだけのこと。自由回答を見ると既に広く“定着”した感さえある》と語っているのだが、例えば児童虐待は過去何度か深刻化したことがある(例えば、立花隆[1984])。尾木氏はそのような時代とどのように違うのか、ということを具体的に挙げなければならないだろう。また、《今日の幼児にも「新しい長所がある」(40%)との回答は喜ばしい。だがそれも、多くがパソコンを操作でき、言葉が大人びているなど「情報通」ぶりを指しているだけ。回答者自身、本当に長所といえるのか判断に迷っている》と書いている。ではどうして過去から続いている長所には触れようとしないのだろうか。しかも尾木氏のこの文章は、子供が《情報通》になることを拒んでいるようにも見える。そうなることにより、親の権威が崩されていることを恐れているのか。

 そもそもこの記事も尾木氏も「親がおかしいから子供がおかしくなる」という認識に立っているようだ。確かに子育ての問題に関して子供に責任を押し付けることはできないのは事実だ。だが、過度に親のばかり責任を押し付けると、社会的な変動を見逃すことにもならないか。ここ最近になって、子育てに関して残酷な還元論が増加しているけれども、東京大学助教授の広田照幸氏によれば、これほど「親の責任」が問われる時代がない、とも言えるようだ(広田照幸[1999])。ここ最近保守系の子育て論者の間では、「「育児の社会化」を推し進めると子育てにおける父性や母性が喪失され、社会が崩壊する」という論理が広がっているようだが(例えば、松居和[2003])、広田氏によると、戦前から高度経済成長直前までの農村共同体において家庭が子育てにかかわる割合は極めて少なかった(広田照幸[2003])。その代わり地域共同体が担っていた、という話になるが、戦後の高度経済成長によりそのような図式が解体されて、子育ては親に一元的に負担されるようになった。そのような状況を無視して安易な子育て還元論に収束させるのも暴力的だろう。この問題は、「子供はどこまで「監視」されるべきか」という問題も含まれており、昨今の状況に見ると、全て監視されれば健全に育成される、という傾向があるようだ(例えば、神奈川県横浜市における、深夜徘徊を禁止する条例において、違反した子供の親の責任が問われることや、鴻池祥肇氏の「市中引き回し」発言など)。

 これだけ問題点を述べておいて難なのだが、最後にこのアンケートにおけるとてつもなく大きい問題を提示して私は去ることにしよう。このアンケートの設問14個の中で、子供の可能性をポジティブに捉える設問は一つしかない(《新しい長所を持っていると感じる点がある》)。このアンケートは、あらかじめ現代の子供たち、そして親たちを問題視する前提で設計されているのである。このようなアンフェアなアンケートが行なわれ、しかも地域差とか社会階層の差異に関するコントロールが行なわれず、ただ不安を煽り立てるだけのこのアンケートは、もはや必要性からして疑問視されるものであろう。

 まあ、編集部や尾木氏が、本当に不安を煽る目的でこのアンケートを作ったのであれば、もはや私は何も言うことはない。

 参考文献・資料
 各務滋、坂井浩和、小田公美子[2005]
 各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」=「AERA」2005年9月5日号、朝日新聞社
 立花隆[1984]
 立花隆『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 松居和[2003]
 松居和「モラルと秩序は「親心」から生まれた――子育ての社会化は破壊の論理」=文藝春秋(編)『日本の論点2004』文藝春秋、2003年11月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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トラックバック雑記文・05年08月30日

 「俗流若者論ケースファイル」25連発なんて、本当に骨の折れる作業でした。おかげで、このブログのコンテンツ(これを含めて125個)の内56%(70個)が「ケースファイル」になってしまった。しかも「ケースファイル」で取り上げたい文章って、まだたくさんあります。まあ、今後の予定はさておき、まず雑記文から。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]公職選挙法こそ、ブログの敵だ!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:ブログ中断の不条理、公選法改正を(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 公職選挙法によれば、文書や図画の頒布について極めて厳しい基準がしかれているようです。ここ最近、政治かもウェブサイトやブログを持つようになりましたが、公選法によれば選挙期間中はホームページやブログの更新は許されていないらしい。ただし、厳密に「許されていない」というのではなく、ウェブサイトやブログが「文書図画」であるかどうかを規定されていないため、公選法に抵触する「虞がある」ということだそうです。

 私は基本的にはウェブサイトやブログによる選挙運動には賛成です。多くの人がインターネットに繋げるようになる現代、インターネットを選挙活動の道具の一つとして利用するのは大きな意味があると思います。

 さて、私は公選法の改正だけではいけないと思います。もしウェブサイトやブログが選挙活動として認められているのであれば、立候補者はポスターに自分のウェブサイトやブログのアドレスを明記すべきでしょう。携帯電話の「QRコード」を印刷してもいい。わざわざ政治家のサイトを検索して見る人は少ないでしょうから、人を呼び集めるためにはポスターにそのような工夫を施すことも必要だと思います。

 今の選挙活動は、ほとんどが「名前」を売ることにまい進していると思います。しかし、利権誘導型政治の欺瞞が明らかになった今、「名前」だけでは考える市民を取り込むことが出来ないでしょう。だからこそ、「名前」だけでなく「政策」を売り出すことが出来るようになって欲しい。インターネットを利用した選挙活動は、選挙活動に政策を「売り出す」プレゼンテーションのスキルが重視されるように変革されるでしょう。マニフェスト型政治を定着させるには、まずインターネットを政治活動として認めるべきです。

 しかし、インターネット選挙活動がみんな善であるというわけではないようで…。

 kitanoのアレ:ウヨク工作活動:民主党アンケートに大量組織票

 リンク先の記事によると、7月20日から25日にかけて民主党がネット上でモニター選挙を行なったところ、7958名のモニターの内3877名が実施期間中に新規登録した人のようです。ここまでならいいのですが、ここから先に何かきな臭い動きが…。

    Q1. 時の首相が靖国神社を参拝することについてあなたはどう思いますか?
  賛成である 1267 票 (工作後 5144 票)
  反対である 2438 票
  わからない 376 票
  Q3. 民主党の岡田代表は政権交代後、首相になった場合、自分の意思で靖国神社に参拝しないとしています。あなたはどう評価しますか?
  大いに評価する 1769 票
  多少評価する 888 票
  あまり評価しない 769 票
  全く評価しない 440 票 (工作後 4317票)
  わからない 215 票
  Q4. 首相の靖国神社への参拝問題で日本の国益に叶うのは、参拝の継続か中止どちらだと思いますか?
  参拝継続 1098 票 (工作後 4975票)
  参拝中止 2436 票
  わからない 547 票

 すごすぎますよ。いくつかの左派系のブログでは所謂「ネット右翼」によるコメント欄荒らし・トラックバック荒らしが問題化されているようですが、これだけの「工作員」がいるとは…。まあ、所謂「ネット右翼」の世界は、「世界」平成17年7月号で鈴木謙介氏が言っている通り、所謂「学級会民主主義」の世界、すなわち多数派の正義ですからね。そのような「多数派の正義」は、そのまま勝ち馬に乗ればいい、という価値観を生み出す。これは所謂「ネット右翼」だけでなく、そのまま彼らの批判するマスコミや、メディア規制派にも言えることです。すなわち…。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:各局の報道で全国に晒されてしまった加害少年の部屋(古鳥羽護氏)
 弁護士山口貴士大いに語る:松沢知事はエコノミストの記事を読んだのでしょうか?(山口貴士氏:弁護士)
 カマヤンの虚業日記:[日本会議][勝共連合]「日本会議」の街宣車、コミケへ来る
 走れ小心者 in Disguise!: 「黙ってられるかこんな話聞いて!」(克森淳氏)
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):自由民主党の公約
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(2):民主党の公約
 「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳:[健全育成政策] 自民党&共産党もエロゲー撲滅に必死

 我が国のマスコミや政治家には、相手がオタクであれば倫理も矜持もプリンシプルも無視してバッシングに走ってもいい、という不文律があるそうです。先日宮城県で起こった警官襲撃事件でも、加害者の部屋が全国放送によって委細もらさず報じられてしまったらしい。そして案の定アニメやゲームやモデルガンが原因である、という印象操作報道を行なってしまったようです。

 はっきり言って、これは報道加害以外の何物でもありませんね。少年法61条はもはやあってなきものと化しているようです。もちろん少年法61条には問題点が多くありますが、このような報道の行き過ぎはもはや壊滅的です。我が国の中において、どれだけの青少年がアニメやゲームやモデルガンには待っているか、マスコミの人たちは分かっているのでしょうか。その中の一人が犯罪をしでかしたからといって、アニメやゲームやモデルガンに愛着を示す人はみんな危険だ、という論理を展開してはなりません。しかし、そのような印象操作こそが受ける、とマスコミの人たちは確信しているのでしょうか。視聴者をなめているのか。少なくとも若年層をなめているのは事実でしょうね。

 山口貴士氏のブログでは、ゲーム規制を推し進める松沢成文・神奈川県知事が英国の「エコノミスト」という雑誌でゲームの有害性は実証されていない、という記事が掲載されていて、松沢氏はこれを呼んだのか、と糾弾していますけれども、自分に都合の悪い情報を封鎖するのもまたマスコミクオリティです。例えばフリーターや若年無業者の分野に関すると、書籍ではかなり優れた分析や報告が展開されているのですが、雑誌や新聞やテレビ報道のレヴェルになるとあいつらは甘えているとか親が悪いんだとかいった画一的・一方的な批判になってしまう。どうして彼らは重要なデータをひた隠すのでしょうかね。やはり自分の構築した「今時の若者」のイメージを綿密なデータによって解体されたくないからなのか。所詮マスコミは、マスコミ報道の主たる受け手となっている社会階層の人を擁護するものでしかなく、公器としての役割を期待するほうが無理なのかもしれません。

 「kitanoのアレ」では、自民党だろうが民主党だろうがメディア規制の動きをとめることは出来ない、と書かれております。私がこのことに関して思うことは、自民党も民主党も、更には共産党すら「今の子供たちは「異常」である。それは有害な情報が蔓延しているからである」という認識を共有しているということです。しかし、彼らのいうところの子どもたちの「異常」とは、一体何を指しているのか。少年犯罪の急増?凶悪な少年犯罪は現在よりも昭和40年ごろのほうが圧倒的に起こっていた。規範意識の低下?このような論理は論じる側のイデオロギーに左右されやすく、まず彼らが持ち出す「規範意識の低下」という視点が相対化されるべき問題です。更には疑似科学まで持ち出して、今の子供たちはかつての子供たちと「本質的」に違うのだ、という人たちまでいます。しかし、そのような論理が、レイシズムにつながるということに関してはどうして無頓着なのだろう?

 「カマヤンの虚業日記」では、かの有名な「コミックマーケット」に、メディア規制の急先鋒である右翼政治団体「日本会議」の街宣車が、自らの出自を偽って街宣活動を行なったようです。そしてその「日本会議」は、右派系の「人権擁護法案」反対派の肩を持っている存在ですけれども、このような人たちと一緒になって「人権擁護法案」に反対している人は、やがてこれらの人たちがメディア規制に走り出す、ということにどうして無頓着なのでしょうか。それとも長いものに巻かれていれば害はない、と考えているのか。やはり「学級会民主主義」の徒ですか。

 ついでに私も「人権擁護法案」に反対した文章を書いたことがあります。しかしその視点は、まず論壇において「人権」という言葉がいかに曲解されてきたか、ということと、立憲主義において国家・国民・憲法とはどのような位置にあるか、ということを中心に論じました。ですので、私の批判は、かなり相当性があるように思えます。まあ、その理由で、一部の人からは「近代国家礼賛なのか無政府主義なのか分からない」「電波」などと罵られているわけですが。

 本日の「産経SHOW」:「丸の中に平」は、「平蔵」ではなく「平和」
 産経新聞の「産経抄」を検証しているブログなのですが、平成17年8月23日付の「産経抄」にあったこの文章を見たとき、私の眼が止まりました。

 昔、自民党が総裁選びでもめていたときのこと。識者への談話取材を命じられた筆者は、サルの研究者に電話をかけ、当時の編集幹部に怒鳴られた。ボス猿選びと比較するとは、政治を冒涜(ぼうとく)するものだ、というのだ。

 《サルの研究者》?もしかして信男ちゃん?信男ちゃんなのかっ!?(笑)なんて、違うでしょうけどね。

 さて、8月7日から8月30日にかけて、「俗流若者論大賞」と称して、「俗流若者論ケースファイル」25連発という荒業をやり遂げてしまいました(盆休みあり)。ここで発表した文章は以下の通り。せっかくなので短評つきで。

 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 石堂淑朗、「正論」だけでなく「新潮45」でも活躍しております。

 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「プログラム駆動症候群」なる珍概念を批判的検証抜きで宣伝。しかし箱を開けたら暴力的なレトリックの山だった。

 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 ついに単独で登場、澤口俊之。

 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 教師ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝
 歴史ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 論理が散乱しまくっています。ビートたけし=北野武氏にはこういう側面もあったのか。

 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「バトル・ロワイヤル」のトンデモ珍解釈、とでも言うべきか…。

 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 治安悪化は全部少年のせいだ!とでも言いたいのかな。しかし対談者は元検事の自民党国会議員、少年犯罪報道御用達の精神科医、元警察官。

 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 中江兆民の「三酔人経綸問答」ならぬ、「三酔人俗流若者論問答」。

 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大
 アクセス解析によると、この人の名前で検索したらこのページにぶち当たった、という人がいるようですが、この人、ネット上の評判悪すぎ。

 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 片岡直樹も単独で登場。

 「俗流若者論ケースファイル57・清水義範
 元祖「フィギュア萌え族」論!?

 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子
 この程度の「憂国」エッセイが教育「論」として認められてしまう現実。

 「俗流若者論ケースファイル59・林道義
 この時期に及んで、「環境ホルモンで動物が女性化」はないだろう…。

 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 何と眼科医学から俗流若者論が飛んできた。

 「俗流若者論ケースファイル61・野田正彰
 俗流若者論で「心のノート」に反対したらまずかろう。

 「俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦
 文化ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹
 遅れてきた「スキゾ/パラノ」(@浅田彰)!?

 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 清川輝基まで登場。

 「俗流若者論ケースファイル65・香山リカ
 政府や右派言論人を叩かずに若年層ばかり叩く、それが若年層右傾化論クオリティ。

 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 ここまで疑似科学を批判的検証抜きに紹介できるノンフィクション作家って…。

 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣
 しかし瀧井宏臣は小林ゆうこよりもすごい。

 「俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
 これだけの「文化人」がそろっておきながらこの貧困。

 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄
 小林道雄二重人格説。要するに警察に関する仕事と青少年に関する仕事で落差ありすぎ。

 「俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様
 トンデモカルタの世界。

 今後の予定。
 ・「統計学の常識、やってTRY!第5回」を近いうちに公開します。採り上げる記事は、「AERA」平成17年9月5日号に掲載された、各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」です。
 ・「俗流若者論ケースファイル71・遠山敦子ほか」を近いうちに公開します。8月26日付の読売新聞で、遠山氏が識者16名を集めて結成した「こころを育む総合フォーラム」の基調報告が掲載されていますが、そこでは取り立てて俗流若者論が見られるわけではないのですけれども、この団体の動向を見極めなければならない、という目的で執筆します。
 ・三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)の検証記事を来月中に公開します。また、同じ著者の『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)にも問題が見られれば、短期集中連載という形で来月一遍に検証を行ないます。
 ・小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証記事を再来月までに公開する予定です。
 ・9月14・15日に、愛知万博に行ってきます。そこで何か感じることがあれば、万博観覧レポートを書きます。
 ・その前日の9月13日に、東京で今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞したベルギー映画「ある子供」のマスコミ試写会に参加してきます。そこで何か感じることがあれば、映画評を書こうと思います。生まれて初めての映画評です。
 ・再来月までに、巷に出回っているフリーターや若年無業者に関する本の書評をbk1にて一気に公開します。さらに、その公開とあわせて、それらの本に関する分析を行なった記事をブログで公開します。
 ・平成18年仙台市成人式実行委員会に参加しています。それにあわせて成人式関係のコンテンツも充実させていくつもりです。その嚆矢として、近いうちに「成人式論は信用できるかSPECIAL01・大谷昭宏」を掲載します。「通販生活」2005年春号に掲載された大谷氏のインタヴューを検証します。

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俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様

 講談社から発行されている月刊誌「現代」は、全体としては面白いんだけどさ、一つだけ素晴らしくつまらない連載がある。しかもこの連載ときたら、「現代」の平成16年1月号で何と100回を突破したんだよ。そして今でも続いてる。

 それが、イラストレーターの山藤章二氏が主宰する「山藤章二のぼけせん町内会」。この連載は、もう「町内会」という表現が極めてヴィヴィッドに現している通り、そこらの「酒場の愚痴」を川柳にしただけのないように過ぎないんである。当然の如く、この連載は俗流若者論の鉱山だ。こんな内容で100回突破できるのかしら、と思っていたら、ほんとに100回突破しちゃったんだよ、これが。で、山藤氏ときたら、気をよくしたのか、100回記念だとかなんだとか言ってこの川柳でいろはカルタを作ってしまった。それが「現代」平成16年1月号に掲載された、「山藤章二のぼけせん町内会 川柳いろは歌留多」である。

 作家の山本弘氏のサイトに、「トンデモ本の世界」ならぬ「トンデモカルタの世界」なるコンテンツがある。例えばそこで採り上げられている「起動戦士ガンダム」において、「サイド7に たつ ガンダム」なる絵札では、何とコロニーの外壁面に立つガンダムが描かれているんだが、「ガンダム大地に立つ」って、コロニーの内部の地面なんだけど。というわけで、あたしも山本氏のこの企画を真似て、「山藤章二のぼけせん町内会 川柳いろは歌留多」の織りなす「トンデモカルタの世界」を皆様に堪能していただこうじゃないか。

 山藤氏は219ページにおいて《過去四年間に誌上で紹介した約九百句をもとにして、鮮度が落ちてないもので歌留多を編んでみました。傑作句秀句が星の数ほどもあるので大いに悩みましたが、新春のお遊びとおぼし召してお楽しみください》(山藤章二[2003]、以下、断りがないなら同様)と書いてる。でもさ、「ぼけせん」愛好家(笑)のあたしにしちゃ、あんなののどこが《傑作句秀句》なんだ、って言いたくなるんだけどなあ…。まあ、十分楽しませていただいたから、その点では山藤氏の思惑通りかもしれんがね。

 というわけで、チェキ!

 あ、言い忘れたけど、あたしのブログの趣旨どおり、ここでは俗流若者論だけ採り上げることにするよ。ついでに川柳の後に続いている文章は山藤氏のコメントね。

 ろ:老人は金持ちらしい俺若い(井上正伸)
 金と若さと、どちらの男を選ぶのか。渋谷のギャルに訊いたら五割が金と答えた。若さと答えたのは一割。後の四割は両方と抜かしやがった。馬鹿。

 どこの調査なんだ。あんたの妄想なんじゃないか。あと、あんたら俗流若者論の共通思考として、《渋谷のギャル》だけで若年層全体を論じたがる傾向があるんだが、それは明らかに思考停止っちゅーもんさ。わかんねえだろうなあ。

 は:禿頭なのに毛嫌いされている(竹内卓二)
 最近の若い男たちはスネ毛ムナ毛を毛嫌いし、金をかけてツルツルにしている。何を考えているのかとMRIで脳を見たらヒダがなくてツルツル。

 おいおい、脳が《ヒダがなくてツルツル》だったら、それは植物人間だってばよ。それにさ、そういう思考って森昭雄とか澤口俊之とか小林道雄みたいにレイシズムにつながる。それはさておき、毛の濃さっていつから男の強さの証明になったんだい?男根主義ならぬ男毛主義かよ。某大谷昭宏の「フィギュア萌え族」みたいに、我が国では「男が弱くなった」という夢想に浸って自分を肯定したいが為に大量の珍概念が捏造されている。こういう俗流若者論にはまるのはあんたみたいな人だよ。蛇足だがあたしはあたしの父親よりも毛深い(笑)。

 わ:悪ガキに効く良薬はビンボーだ(山岸眞)
 「貧乏暇なし」で、暇がなければ真面目に働くだろうとは昔の話。いまの悪ガキは貧乏に耐えられないから悪事に走る。ことわざに有効期限あり。

 この人は、《「貧乏暇なし」で、暇がなければ真面目に働くだろうとは昔の話》がつい最近になって表面化したことだと思っているようだ。でも、終戦直後は、生活の貧窮を背景にした凶悪犯罪がたくさん起こっていましたから!!残念!!!《ことわざに有効期限あり》なら、少なくとも終戦直後には消えてた、ということなのさ。ちなみにこの人には、最近になって正社員もフリーターも問わず労働時間が激増していることに気がついているのかなあ(玄田有史[2001]、森岡孝二[2005])。それでもサービス残業とフリーターは増え続ける。こういう人には見えないのかもしれないけど。

 よ:養殖の親に自然の子は出来ず(松島紀義)
 若い親の育児ぶりはなっとらん。食事はファミレスか電子レンジ。道徳も日本語も教えられない。そんなダメ親に誰が育てたんだ?ア俺たちだ。

 評論家の斎藤美奈子氏によれば、我が国が近代化されてからの時代、女学生を中心とする「今時の若者」に対する誹謗中傷が繰り広げられていたんだとさ(斎藤美奈子[2003])。それから、あんたらがそういう思考にはまるのは、はっきり言ってあんたらの自我を否定してることになる。なぜって?高度経済成長期まで、一部の中上流階級を除いて、伝統的な農村共同体においては、家庭はほとんど子育てには関与してなかった(広田照幸[1999][2001])。時代に闇に抗っている「はず」のあんたはね、家庭中心主義というもっとも大きい時代の闇にすっかりはまってるのよ。

 こ:怖いのはアメで育った子へのムチ(小泉親種)
 物がない時代の子は自然に我慢を覚え、あり余る時代の子は小さな不快にも耐えられず暴走寸前。この矛盾。学校給食にイモのツルでも食わせるか。

 はい、こんな暴力的な世代論なんてとっとと引っ込めましょーね。こうゆう認識もまた、あんたがマスコミの俗流若者論に踊らされている証拠なのよ。あんたらも暇なら過去の少年犯罪調べてみろよ。今起こったらぜーったいに「キレる」「逆ギレ」とプロファイリングされるような少年犯罪などガンガン見つかるぜ。

 さ:最後には加害者だけが残る国(伊藤友久)
 「一人くらい殺したって七年もすれば出て来られるんだよ、この国は」とよく聞く。百年たっても消えない被害者遺族の怒りはどこへぶつければいい。

 いい加減そうゆう付け焼刃の正義面はやめろよ。確かに我が国における犯罪被害者への配慮はほとんど充実してないし、その点に関しては我が国の法体系は抜本的に改正されるべきだけれども、あんたは被害者の救済についてなんか対案あるの?嘆くだけで何もしない、それが「ぼけせん」クオリティ。

 せ:洗脳というがほとんどは染脳だ(竹田登)
 なるほど、染められるんだから「染脳」。阪神の選手は「仙脳」だね。私はこの歌留多で「川脳」です。街に出れば、「銭脳」や「浅脳」がウヨウヨ…。

 《街に出れば、「銭脳」や「浅脳」がウヨウヨ…》なんていうけれども、《浅脳》はあんたたちですから、残念!!

 す:スカートを脱いでグッチを手に入れる(寺内伸弥)
 グチも言わずに女房の小春~、は昔の話。いまじゃグッチのためなら下着も売るわ~。純潔も貞操も恥ずかしいも、すべて永久死語、チーン。

 あんたらは知らないだろうが、所謂「援助交際」はアジア諸国に波及してるんだ。読売新聞解説部の永峰好美記者によれば、「国際ECPAT」の「世界の子どもの商業的性的搾取関する年次報告書」によると、《「援助交際」にかかわっている子どもの特徴は、各国とも似通っている。金銭面などで不自由のない仮定の重大で、圧倒的に少女に多い。家庭の崩壊や親とのコミュニケーションの欠如などで、非常に孤独》(永峰好美[2004])という特徴があるそうだ。もう一つ言うと、これは永峰氏も指摘してることなんだが、「援助交際」なる言葉によって、両者共に利益を得ているというニュアンスが生まれてる。この詠み手もそうゆう罠にはまって、正常なバランス感覚を取れなくなってる。つまり、たとい「援助交際」であっても少女への性的搾取であることは変わらない、ということを忘れちゃってる。あ、この人やこの人の友達とかが「援助交際」少女に金貢いでるからか。納得。調査も情報収集もプリンシプルも、《すべて永久死語。チーン》。

 以上、「山藤章二のぼけせん町内会 ぼけせんいろは歌留多」の織りなす「トンデモカルタの世界」をお送りしました。皆様お楽しみいただけたかな?ここで採り上げたのは俗流若者論だけで、他にもたくさんの思考停止や歪曲や自分勝手が見られるから、皆様もぜひとも読んで目を回して欲しい。

 それにしても、こういう俗流若者論がエンターテインメントとして成立しちゃう世界って、一体何なんだろうね。要は、人の不幸や事件を笑いものにしているわけさ。風刺とは全く違う。風刺にはユーモアがあるし、社会を明るくするけれども、この人たちのやってることは閉鎖的共同体の中で酒飲みながら愚痴ってるだけさ。要は自分だけは安全で善良で犯罪を犯さないんだ、と勝手に思ってる連中がこういう妄想を垂れ流してるわけなのよ。ここにあたしは俗流若者論の本質を見た。要は、俗流若者論っちゅうものはな、自分の大事にしているものが「今時の若者」に壊されている!!っていう陰謀論的な妄想にはまっている人たちが自らの正当性を証明するための道具なのよ。でも実際には、例えば少年による凶悪犯罪は今よりも昭和40年ごろのほうがたくさん起こっていた。でも、報道の量は今のほうが断然勝っている。高度経済成長が昔の話となった日本人ってのは、経済という妄想に頼りきれなくなったら俗流若者論という妄想にすがりたくなるのかな。そこまで考えたくはないけれども、この「ぼけせん」読んでると、そういうことを考えさせざるを得ない。

 このいろは歌留多は、俗流若者論幸う社会の一つの帰結を表してるんだと思う。その点においては、他のいかなる俗流若者論よりも、俗流若者論というものが造りだす社会というのがいかなるものになるのか、というものを如実に表してる。

 参考文献・資料
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤美奈子[2003]
 斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
 永峰好美[2004]
 永峰好美「アジアの援助交際」=2004年4月30日付読売新聞
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2001]
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森岡孝二[2005]
 森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 山藤章二[2003]
 山藤章二(編)「山藤章二のぼけせん町内会 ぼけせんいろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月

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2005年8月29日 (月)

俗流若者論ケースファイル69・小林道雄

 この連載の第64回において、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏が「世界」平成15年7月号に書いた文章を批判したとき、コメント欄に「「世界」ですらこのような俗流若者論を書いているのか」というコメントを頂いた。なるほど確かに「世界」には俗流若者論が掲載される確率は低い部類に属するけれども、だからといって俗流若者論が完全に出ないわけではない。今回は2000年代に「世界」に掲載された俗流若者論の中でも真打を検証する。

 今回検証するのは、ジャーナリストの小林道雄氏が「世界」平成12年12月号から平成13年3月号まで行なっていた短期集中連載「少年事件への視点」の第3回と第4回と、「世界」平成13年4月増刊号に掲載された小林氏の文章である。小林氏の最近の仕事に関しては、警察に関するものと、青少年に関するものの二つに大別されるのだが、この二つの仕事を見比べてみると、この二つの仕事は本当に同じ小林氏によって行なわれたものなのか、ということだ。警察に関する仕事は権力の深層にもぐりこむ、という気迫が感じられるけれども、こと青少年に関する仕事を読むと小林氏は俗流若者論しか知らないのではないか、と錯覚してしまうほどそのレヴェルは落ちる。中には疑似科学に陥ることまである。ここで検証する小林氏の文章は明らかに青少年に対する小林氏の蔑視の感情を感じることができる。

 まず短期集中連載の第3回「何が子どもを歪めさせたのか」(「世界」平成13年2月号に掲載)を検証しよう。この文章のリード文において、《小児神経学の知見から、幼児期の発達と思春期の犯罪の関係をさぐる。子どもが健やかに育つための環境が損なわれている現代において、「育つ」ことがいかに難しいことか》(小林道雄[2001a]、以下、断りがないなら同様)とかかれており、このような視点でかかれる俗流若者論というものが、いかに恣意的な《小児神経学の知見》やそれ以外の「科学」の濫用で構成されているか、ということに関しては、この連載の第485660646667回を参照していただきたい。そして小林氏のこの文章もまた、そのような疑似科学の隘路にはまっているのである。

 案の定、小林氏は102ページにおいて《いびつになった脳》と称した項に入ってしまうのである。ちなみにここまでの97~102ページの記述に対しては、その全てが家裁調査官などの回想や懐古主義で埋め尽くされており、そこで聞いた事例がどこまで広がりを持っているか、ということに小林氏は行なっていないので検証しない。しかし小林氏が、そして「世界」が俗流若者論において疑似科学、そしてそこから派生するレイシズムを肯定してしまうことは何度でも批判する必要があろう。

 小林氏は103ページにおいて以下のように書く。

 取材の結果、今の子どもには他人の痛みが分からない子が多いこと、きわめて感受性の未熟な子がいること、総体として思考能力が低下していること、またかこの心の傷や不満を位置人称的に悩んで申そうかさせる子がいることなど、いくつかのことを知らされた。

 それらの問題について、私は調査官の見解と共に状況から考えられる理由を述べてきたが、果たしてそれだけだろうかという思いは常につきまとっていた。そして、その想いをもっとも強く感じさせられたのは、保護監察官I氏の話を聞いたときだった。

 「今の子どもたちの問題は規範以前、人間としてのものがトータルとして足りないという感じがします。……」

 実を言えば、私には前から話を聞きたいと願っていた人がいた。それは〈少年事件の分析には小児神経学の眼が必要です〉と書かれた朝日新聞の『ひと』欄を読んだことによる。レット症候群(筆者注:「這い這い」や手を振って歩くことができないために大脳連合野が働くなった病気とされている)国際会議を主宰した医師として紹介されていた瀬川昌也氏は、〈一定年齢でおきることには必ず発達が関係しています。十七歳の事件も、乳幼児期の発達の問題だし、廊下も発達の繁栄です〉と述べていたのである。

 しかしこの瀬川氏ときたら、この時期の少年犯罪にして疑似科学的な俗流若者論を展開して全てを語った気になっている。発達の問題で全てが解決されるのであれば、犯罪を誘発する「発達の歪み」を生み出す家庭を摘発して矯正する、という言説が生まれかねないし、このような疑似科学的な俗流若者論を展開する人は我が国において少年が凶悪犯罪をしでかす確率が諸外国に比べて著しく低いことを引こうとはしない。まあ、彼らにとって少年犯罪は格好の飯の種だからそこまで想像力が及ばないのであろうが。

 小林氏の文章の分析に戻ろう。小林氏は瀬川氏から聞いた話を基にして、104ページにおいて以下のように述べているのだが、小林氏は明らかに疑似科学の罠にはめられている。

 結論から言えば、調査官が指摘している今の子供たちの問題点、未熟さ、他人の痛みが分からないこと、妄想への傾斜、保護監察官I氏が語ったような行動のアンバランス、そして私が感じている不登校児の問題などは、いずれも生後四ヵ月までの正常な睡眠と、その後の「這い這い」がきちんと行なわれてこなかったことに起因しているようである。

 なんとも意外に感じるが、瀬川氏に寄れば生後四ヵ月までの睡眠と、十ヵ月後に始まる「這い這い」のありようが、脳の土台というべき機能を決定するということなのである。

 つまり、言語や社会的理性など人間を人間たらしめている能力は、前頭葉にある大脳連合野の働きに夜が、その土台となる脳の仕組みが間違いなく作られていなければ大脳連合野は正常に作動しない、未熟になるということなのだ。

 小林氏はこのように書いているけれども、小林氏は昨今の犯罪少年、更にいえば今の子供たちにおける「這い這い」の実態を示した定量的なデータを最後まで示していない。これはむしろ小林氏が瀬川氏に問い詰めるべきことなのであったが、しかし小林氏は小林氏の思い込みだけで子供たちについて語ってしまっているので、データ抜きのステレオタイプにはまってしまうのも理の当然だと思うが、理の当然だからといって許されるわけではない。しかもここで語られている如き大脳前頭葉の発達の歪みが社会性を失わせる、というのははっきり言って脳機能障害者に対する差別につながる。「世界」の岡本厚編集長は気づかなかったのだろうか。

 さて、瀬川氏は明らかに俗流若者論御用達の疑似科学者の振る舞いをする。瀬川氏は何と不登校の原因は睡眠障害だ、という珍説を開陳してしまうのである。もちろん、瀬川氏は最近になって不登校が急増したと思いこんだ上でこのような珍説を語る。不登校に長い間付き合ってきた奥地圭子氏の話を、小林氏も瀬川氏も正座して聞くべきだろう(最近になって不登校が急増した、ということが以下に虚偽であるかについては奥地圭子[2003]を参照されたし)。106ページ。

 「ある方が不登校というのは時差ボケの状態が続いているのと同じだと指摘していますが、その通りなんです。というのは、おきたり寝たりする時間と体温のリズムが全然合っていないんです。体温のリズムというのは明け方に近い深夜がいちばん低くて、夕方五時ごろがいちばん高いという周期になっていて、起きたときには上昇に向かっているから気合が入るんです。それが遅れていてまだ低い状態にあったら、ぜんぜんやる気は起こらない。だから行きたくないとなるんです」

 不躾ながら、私は中学から高校にかけて学校に行きたくない、と思うことは何度もあったし、授業を放棄して保健室に行っていたこともしばしばあるし、大学に入っても人付き合いがうまく行かずに困惑したことがよくある。また、私の近くには何名か不登校児がいた。そのような経験から私は不登校や「ひきこもり」は社会的要因ではなく発達の歪みから来るのだ、という論理がいかに暴力的であるか、ということについて十分熟知しているつもりである。もちろん一部には瀬川氏の述べた如き理由から不登校になる人もいるかもしれないが、不登校になる人の大抵の原因は学校内でのいじめや人間関係の悩みなどが大半である。このような社会的な影響を無視して不登校について語るのであれば、瀬川氏は不登校を語る上では明らかに能力として欠けているものがある、というほかない。小林氏も小林氏だ。小林氏が青少年に関して取材を重ねているのであれば、少しでも反証になりそうな事例を挙げて反論すべきだろう。小林氏は107ページにおいて《困ったことに不登校の子どもは、決まったように昼夜逆転の生活になる。行けないものを行かすわけにはいかないが、これではいつになっても時差ボケ状態は改善されない》と語っているけれども、原因と結果が逆転していないか。

 小林氏は108ページにおいて更に以下のように述べる。

 日中の活動が低下して深い睡眠がとれず、セロトニンが減ってドーパミンが編に活発になることは、まず他動になるということだが、それだけではなかった。小学校時代には無気力になって依頼心が強くなり、中学三年ぐらいの年代で甘えの反面の粗暴行為が出てくるようになる。また、セロトニンの減少は対人関係に問題を起こしがちで、環境への順応を難しくするということなのである。

 このような物言いは、自分は不登校とも「ひきこもり」とも、更には人間関係に支障をきたすことにすら関係ない、と思い込んでいるからこそ言えるのだろう。確かにそういう人たちはうらやましいけれども、だからといって不登校も「ひきこもり」も人間関係に支障をきたす人も病気だ、脳とか発達に障害を抱えている劣等人種だ、という論理を開陳するのを見ていると、かえって人付き合いは少ないほうがいいのかもしれない、とすら思ってしまうことがある。このような物言いを、「ひきこもり」とか不登校とかの当事者が見たらどう思うだろうか。もしこの文章を読んでいる人が「ひきこもり」とか不登校とかの経験を抱えているのであれば、あるいは人間関係で悩んでいれば考えて欲しい、あなたが悩んでいる(悩んでいた)のは脳や発達に障害があったからなのだ、といわれればあなたは納得するか?少なくとも私は納得しない。

 瀬川氏や小林氏は更に109ページにおいて以下のようにも述べてしまう。ここまで来るともはや与太話以外の何物でもない。

 「覚えるけど忘れないというのは、自閉症の子がそうなんです。最初に入ったパターンを覚えていて、決まったことはきちんとやれる。そこで最初に数が頭に入ると、算数から高等数学までどういう頭の回転でやるのかわかりませんが、ものすごい才能を発揮する。他のことは全然できませんが。で、ノーマルな子がそうなった場合も、ドリルなんかを早期教育でやらせると、答えがあることについてはどんどん伸びて、偏差値の上のほうに言ってまっすぐに一流大学に入る。だけど、そういう人は答えが出ないことにはすごく困る。それでも学歴社会ですからエリートコースに乗る。しかし、行政機関であれ学問の世界であれそういう人が指導的役割に就くと社会としてはちょっとまずいことが起こる。批判する人がいればいいけれど、修正しませんから硬直化が起きるんです。それと、答えの出ないことは分からないから、おかしなことも起こる。勉強の面で優秀な人にはときどきそういう脳の持ち主がいるということです」

 私が瀬川氏への取材で何より感じさせられたことは、臨床医としてレット症候群や自閉症という難病に取り組んで研究を深め、国際会議を主宰するほどの意思の知見が、なぜ一般に知られていないのかということだった。ことに寄れば、ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化がそれを阻んでいるのではないか、そんな気がしてならない。

 なるほど、この論理に従えば、いかなる社会問題でさえも《ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化》のせいにできる。しかし、このような問題意識は、社会や組織における人間関係がもたらす力学を無視する方向に走ってしまうのではないか、というよりも走ってしまっている。

 更に小林氏はこの直後にこのように語っている。

 とにかく、はるか昔から戦後二十年ぐらいまで、子どもたちは「遊びをせんとや生まれけむ」と詠まれた姿でそのままに戸外で遊び暮らしてきた。私たち世代は、家でぐずぐずしていると「子どもは風の子」と追い出されたものである。思えば、それはいかに正しかったかということだ。

 このような自己肯定を行い、現代の若年層を平然と貶める小林氏が、果たして「世界」という左派系のメディアに執筆する資格があるのか。いや、左派系のメディアでも、俗流若者論はどういうわけか徳移転となっており、ほとんど無法地帯であるから、このような物言いも許されるのだろう。しかし、先の引用文の如き、小林氏や小林氏が取材した人たちの話だけで、現代の若年層全体を貶めて、人間的に劣った人間だと差別する小林氏の正当性の主張は、いかに小林氏がマスコミによって捏造された「今時の若者」のイメージに踊らされているか、ということを映し出している。それに賛同する読者も然りである。

 2月号の文章だけでもこれだけ問題点があるのに、小林氏の暴走は3月号でも続いてしまう。3月号では、ついにかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏が登場する(3月号56ページ)。

 小林氏は3月号に掲載された短期集中連載の第4回(最終回)において、以下のように述べている。57ページ。

 そうであれば、われわれが「人間性」と読んでいるものは心の理論や社会的理性そのものであるということになり、それが未発達だということは人間性を書いているということになる。そのような存在には、われわれが当然視している人間性や人間としての規範意識というものさしは通用しない。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためであって、単に未熟と受け止めては間違うこととなる。未熟や非常識と映る最近の少年や若者たちの変質は、実はそういうことのようで、……(小林道雄[2001b]、ここから先は断りがないなら同様)

 これは明らかにレイシズムであろう。「世界」はやはり俗流若者論であればレイシズムすら肯定してしまうらしい。岡本厚編集長も散々だ。このような疑似科学によって裏付けられたレイシズムが、いかに若年層に対する意識を貧困化させているか、ということは澤口氏などの疑似科学系の俗流若者論を読めばすぐにわかることだろう。また、小林氏は《最近の少年事件に感じる「不可解さ」》などと語っているけれども、私はむしろ情報が多すぎるが、しかしそれらの情報が全て「今時の若者」を文スタートして敵視するところから生まれているからこそ、たとえ情報だけ多くても全く本質を射抜くことはできない、と思っている。小林氏がさも現代の少年や若年層について当然だと思っている《変質》は、むしろ小林氏の認識の問題であろう。

 小林氏は澤口氏の疑似科学にのっとって、更に幼稚園まで敵視する。58ページ。

 私は幼稚園には行っていない。その頃いっていた子は良家の子女ばかりで、私はそうでなかったということだが、理由はそれだけではなかった。私の両親に限らず、当時の親には「幼稚園なんかに入れたら子どもがひ弱になる」という思いが強く会ったようなのだ。私はその判断は正しかったと思うのだが、戦後の経済成長とともに幼稚園にいくのは当たり前になった。それだけに抵抗のある人もいるかと思うが、やはりそれは本然の発達環境ではないのである。

 幼稚園というのは保母さんという大人を介在させた年齢輪切り社会であって、子どもたち自身が作る子ども社会とは本質的に異なる。ここでの遊びは、多くが与えられ指導されてのもので、何もない空間での自然発生的な遊びではない。しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で、「○○ちゃん、お友だちぶったらいけないんだなぁー」などといった口調での始動がもっぱらとなっている。

 いい加減にしてくれ。このような議論は一見正鵠を得ているように見えるが、しかし全くのデタラメ、というよりも小林氏の単なる思い込みをちっとも抜け出されていない。その上《しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で》などという文句が続けば、もはや小林氏は筆を折れ、などと浴びせかけたい衝動に駆られてしまう。

 その上小林氏と着たら、62ページにおいて《虐待された子どもが心に刷り込まれるのは「近い(親しい)関係は怖い」ということである。親密な関係を危険だと避けたとしたら、正常な人間関係は作れない。そうなれば、人間としての心は育たない》とまで言い出す始末。だったら何か。小林氏は、たとい子供が虐待を受けていても、《近い(親しい)関係は怖い》という感覚が生まれるのはもっと怖いから、虐待は我慢しろ、とでも言うのか!もちろん虐待は対処されて然るべきだけれども、しかしたとい近い関係であっても、その人が理不尽な暴力を振るったりするのであれば、一見距離を置くことも大切だ、と教えることもまた重要なのではないか。そもそも小林氏のこのような暴論は、親密なコミュニケーションこそ善である、という価値観につながり、コミュニケーション能力差別として現れている。

 それでも小林氏の暴走はまだ終わらない。62ページから63ページまで小林氏が述べていることもまた、現代の家庭に対する差別以外の何物でもない。小林氏は《教育中心家庭》で育った子供に《親への尊敬や長幼の序といった道徳をといたところで入るものではない》と書いているけれども、「世界」にこのような文章が載っていいのか。やはり俗流若者論は特異点なのか。蛇足だけれども、小林氏は学校教育というものをことごとく無視している。小林氏は、最近において少年による凶悪犯罪が諸外国と比して、あるいは昭和40年ごろに対して件数が極めて低い水準で推移していることをいかに説明してくれるのだろうか。

 65ページにおいて、小林氏は《現在の日本がなぜここまで政治や経済に停滞を招いているかを考えさせる。おそらくそれは、政界・財界に二世が増えたこと、つまり厳しい環境にもまれていない人間がその任に就いていることの結果にほかなるまい》とも述べるが、これも第3回の最終回と同じ問題意識だろう。ようは自分の問題意識の捌け口として疑似科学が使われているわけだが、そのような科学の濫用が、科学の氏につながる、ということに関して小林氏は極めて無頓着だ。

 3月号に掲載されている文章は、短期集中連載の最終回である。65ページには、小林氏が連載を終えるに当たってのことが書かれているのだが、そこで連載を始めたときに聞いた、横浜家庭裁判所の元調査官である野口のぶ子氏の言葉が引用されている。

 「厳罰化なんていってますが、これまで大人は子どもにどうかかわってきたんですか。子どもたちが何をしようと、どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけじゃないですか。どうしてそのことが問われないんでしょうか」

 これは小林氏自身に突き返されるべき問いかけである。小林氏のやっていることは、《どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけ》ということと罪の深さでは全く変わらない。小林氏のやっていることは、現代の青少年に対する差別を疑似科学でもって「正当性」を持たせ、青少年に対する不安をあおることでしかない。そのような態度が正しいとしている小林氏に、この野口氏の問いかけはどう響いたのだろうか。これが小林氏の残酷な態度を正すことになればいい、と思ったのだが、あいにくそうはならないらしい。66ページにおいて小林氏は《中には、異星人を見るような目を若者たちに向けている人もいる》とぬけぬけと語っているけれども、それは小林氏自身にも当てはまる。小林氏は自分のやっていることは全て正しい、と考えているようだが、小林氏の行為は倫理的にも誤りだ。そもそも小林氏は疑似科学によるレイシズムを肯定している。事実、小林氏は、《たとえば電車の中での化粧は、公徳心の欠如といったものではない。他人の気持が分からない、従って、他人の眼が期にならないから堂々とやれるのであって、公衆道徳という次元の問題ではないのである》と67ページにおいて語っている。このような文章が「世界」に載ることもまた大きな問題ではないのだろうか。

 一連の小林氏の狼藉から確認できることは、疑似科学がいかに小林氏の世代の正当性、つまり小林氏自身の正当性を主張することに役立っているか、ということだ。疑似科学がこのような形で役に立つためには、まず小林氏が現代の青少年に対して差別的な感情を持っていなければならないが、この短期集中連載の第3回と第4回では、その小林氏の持っている若年層に対する差別意識と、自意識の裏返しでしかない小林氏の自己肯定がことごとく繰り返されている。それは結局のところレイシズムしか生み出さず、不毛な議論にしかなりえない。

 小林氏のやっていることは、本当に「世界」という左派系のメディアに載るべきことなのだろうか。我が国の「論壇」の底の薄さ、特に左派論壇の底の薄さは、俗流若者論になったらいきなりプリンシプルを捨てて俗流右派論壇人と一緒になって若年層に罵声を浴びせかける。このような状況を、果たして放置しておいていいのだろうか。このような状況を俯瞰すると、我が国において、俗流若者論というものは自民党も公明党も民主党も社民党も共産党も諸派も無所属も無党派も巻き込んだ極めて大規模な「オール与党」というほかない。俗流若者論の名において行われる政治に争点などない。あるのはステレオタイプのみ。

 このような状況下で、若年層に対する適切な施策や救済が行なわれることを期待するほうが無理かもしれない。たとい若年層の投票率が上がったとしても、俗流若者論が多く席巻する状況を打破しない限りは、当分の間青少年にとっての暗黒時代は続くだろう。NPOなどが頑張ればいいのかもしれないが、そのような頑張りは一部のメディアで採り上げられるくらいで、国民的な理解が定着しているという状況には達していないし、フリーターや「ひきこもり」や若年無業者をめぐるバッシングにも見られるとおり、マスコミや大衆は適切な研究も参照せずに彼らに石と糞ばかり投げつける。「善良」を自称している大衆にとって、所詮は若年層は敵愾心のはけ口でしかない。若年層の政治利用は当分やみそうもない。そのような絶望的な状況に立っていることこそ、我々は自覚したほうがいいのかもしれない。そのような状況下において、それでも(ありもしない)希望を信じてやっていくことしか、我々にはもはや残されていないのかもしれない。

 最後に小林氏、「世界」平成13年4月号の増刊号に当たる「日本の選択肢」という雑誌において、小林氏は「少年犯罪」の項を書いているが、小林氏はこのサッシの211ページにおいて、以下のように書いている。

 少子化と都市化によって、そうした環境と機械は大きくうすなわれてしまいました。他人の気持ちが分からなくなったのはその結果ということなのですが、それは決して犯罪を犯すような少年に限ったことではありません。近ごろは電車の中で化粧をしている若い女性をよく見掛けますが、これも他人の気持ちが分からないから周囲の目垣に習いということで、同じことなのです。

 私たちが「人間性」と読んでいるのは社会的理性や心の理論そのもので、それが未発達だということは人間性を書いているということになります。ですから、そういう少年や若者には、私たちが人間として当然と考えているものさしは通用しません。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためで、単なる未熟ではないのです。(小林道雄[2001c])

 ……世界の辺境で叫ばせてくれ。

 助けてください!小林氏を、疑似科学の魔の手から、誰か助けてください!!

 そして私に、もうこれ以上同じことを言わせないでください!!

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 小林道雄[2001a]
 小林道雄「何が子どもを歪めさせたのか」/「少年事件への視点」第3回=「世界」2001年2月号、岩波書店
 小林道雄[2001b]
 小林道雄「「社会的理性」を育てるために必要なこと」/「少年事件への視点」最終回=「世界」2001年3月号、岩波書店
 小林道雄[2001c]
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波書店、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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 関連リンク
 「正高信男という頽廃
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保
 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

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2005年8月28日 (日)

俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美

 俗流若者論を研究しているものにとって、過去に喧伝された「今時の若者」をめぐる事例や言論に関して、今振り返ってみると「あれはなんだったのか?」と思い返さざるを得ない。我が国において「今時の若者」をめぐる言説は、中にはそのまま(その非論理性が指摘されずに)ずっと使われ続けるものもあるし、あるいはすぐに消失してしまうものもある。「あれはなんだったのか?」と考えざるを得ないものは、もちろん後者に当たる。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成12年11月号に掲載された、「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」という特集の中におけるいくつかの論文である。このような問いかけは、今ではめっぽう聞かれなくなった。それがいい事なのか悪いことなのかは一概には言えないだろう。

 検証の前に、私なりに「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに関して書きたいのだが、なかなかいい理由が見つからない。最大の理由としては、やはり「刑法で禁止されているから」であろう。しかしこのような解答をすると、「人を殺していい。ただし、警察権力に見つからないように最後まで隠し通せ」ということを容認してしまうことになる。ただこの答えは、法学的に突き詰めるならばある程度は正しい答えとなる。しかし「それではなぜ「人を殺してはいけない」ということが法律よって定められるようになったか」ということに関しても答えなければならないはずである。それに対する理由としては「人を殺すことが許されるならば多くの人が人を殺すようになり、社会秩序が崩壊する」というのがもっとも妥当かもしれない。要はホッブズの説明である。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する戦争状態」と捉え、そこから生まれる死の恐怖から回避するためには主権の確立が必要だ、という論理である。

 しかし、世の中にはたくさんの「殺人」で溢れている。もちろんここで言うところの「殺人」は人が人に対する殺人行為のみを指すのではなく、例えば国家が凶悪犯罪の被害者の代行として恩讐を行なう場合=死刑や、国家の主権の拡大のために自らの「敵」を殺す行為=戦争などといったものが溢れている。更には最近になって、脳死とかホスピスなどを巡る議論に代表されるとおり、そもそも「生」と「死」の境目に関する議論もまた存在している。このように考えれば、今ではめっぽう聴かれなくなった「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いもまた、「生」と「死」の境目が曖昧になった現代社会であるからこそ問われる問題なのかもしれない。もう一つ言えば、昨今のマスコミ、特に少年犯罪報道は、あまりにも「死」を物語化しすぎており、彼らの「死」に対する認識こそ私は疑いたくなる。

 本来ならそのような問いかけを真摯に受け止めることによって、我が国の社会にとって「死」とはいかなる意味を持っているか、ということを問い詰めなければならなかったのである。しかし我が国の自称「識者」にとって、そのようなことは許されなかったらしい。まあ、我が国の自称「識者」の役割が、ただ「今時の若者」の「問題行動」に「驚いてみせる」ことでしかないから、この特集の如くただページ数だけ多くて内容は空疎なものばかりそろってしまうのかもしれない。

 さて、検証に入ろう。

 ・瀬戸内寂聴氏(作家)「仏教第一の戒律「不殺生戒」」
 この文章において、瀬戸内氏は仏教の戒律に基づき、殺人のみならず戦争も死刑もいけない、と述べている。その一貫性は実に美しく、厳格であるのだが、どうも気になるのは瀬戸内氏が現代の若年層に対して偏狭なイメージしか持っていないのではないか、ということだ。

 例えば瀬戸内氏は、166ページにおいて、以下の如く述べている。曰く、

 最近の子供は、命の大切さ、重さを、家庭でも、学校でも教えられていないようだ。

 「なぜ人を殺してはいけないの」

 と母親に問うた子供に、その母親は何と答えて言いかわからなかったという話が、新聞に投書されて話題になった。多くの母親が投書者の困惑に共感を示した。八十近くまで生きた私は、それを聞いて心から驚愕してしまった。
 私の世代の者は、少なくとも物心つかない幼いうちに、人はもちろん、動物も鳥も殺してはならないと、誰からともなく教えられていたように思う。……(瀬戸内寂聴[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 瀬戸内氏の如き力のある知識人ですら、この程度の「憂国」しかできないのだから哀しくなる。少なくともこのような瀬戸内氏の「憂国」エッセイレヴェルの議論が本当に論理として成立するためには、それは本当に瀬戸内氏の世代の特徴なのか、それとも瀬戸内氏の単なる思い込みなのか、ということにも検証が必要であろう。

 瀬戸内氏はまた、167ページにおいて、《青少年の自殺の増加も只ならぬものがある。彼等は、自分の命さえ軽んじているのである。自分を愛せない人間は他者を愛することも出来ない》と書いている。しかし自殺統計を見ればわかるとおり、我が国において人口10万人に対して最も自殺者が多いのは50歳代であり、青少年(未成年)の自殺は我が国において全世代と比較して低い。瀬戸内氏は、我が国でもっとも自殺している50歳代の人たちに、この文章の如き罵倒をすることが出来るのだろうか。ちなみに現在の50歳代は生涯を通じて自殺率の高かった世代であり、この世代が40歳代だったときは40歳代の自殺が急増している。瀬戸内氏の罵倒がいかに的はずれであるか、ということを証明しているだろう。

 ちなみに瀬戸内氏がらみで付け加えておくと、瀬戸内氏は日経新聞において「生少年の想像力が衰退したから、犯罪や自殺が増えた」ということを述べていたが、このことについては皇學館大学助教授の森真一氏が批判している。森氏は、瀬戸内氏の「想像力衰退説」に対し、《このような主張の裏には、「文字文化のほうが絵や映像の文化よりも高級である」という価値観、または信念が潜んでいると思われます。なぜなら、テレビや新聞で「衰退説」を唱えるのは作家や評論家、学者などのいわゆる知識人・文化人たちが圧倒的に多いからです。彼らは読書によって知識を獲得し、思考を鍛えてきた人たちです。その彼らが、テレビ・映画を観たりマンガを読んだりすることよりも、読書のほうに価値を置いても不思議ではありません》(森真一[2005])などと多方面から痛烈な批判を述べているので、参照されたし。

 ・乃南アサ氏(作家)「「なぜだと思う?」と問い返す」
 乃南氏がタイトルで掲げた如き理論もまた、大筋としては批判すべきものではないと思う。しかしやはりここでも乃南氏の若年層に対する認識の残酷さが見られる。

 乃南氏は171ページにおいて、《今の子どもたちは、特に外見の成長は早いから、ついこちらも一人前のような扱いをすることが多い。だが、その内面の成長といったら、呆れるほど遅滞している場合が珍しくない。情報の多様化、その量の豊富さと、大人が植えつけた「権利」についての強い意識によって、子どもは、言葉だけは巧みに弄するようになったし、見事なほどに物怖じしなくなったと思う。だが、そのことと精神的な成長とは別の問題であることを、大人自身が忘れている》(乃南アサ[2000]、この部分では断りがないなら同様)と書いているのだが、これはむしろ乃南氏が《内面の成長》をいかに捉えているか、ということの問題であろう。そもそも《呆れるほど遅滞している場合が珍しくない》といっているけれども、それがいかなる事象を指すのかがわからない。

 172ページにおける《想像力の欠如。生の実感の希薄化。事実、死ぬことなんて怖くないという子どもが増えているとも聞いた。長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という物言いもまた然り。そもそも《死ぬことなんて怖くない》《長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という子供が本当に増えているとしたら、それは《想像力の欠如。生の実感の希薄化》ではもはや済まされない大変な問題が起こっていると考えるべきかもしれない。そもそも我が国において、平成に入ってから一貫して自分の生活を「苦しい」と思う人の割合が増加傾向にある(厚生労働省の国民生活基礎調査より)。乃南氏の如く《想像力の欠如。生の実感の希薄化》という俗流若者論お得意のレトリックで茶を濁せば、間違いなく事態は悪化する。それでもいい、と乃南氏が考えるのであれば、乃南氏こそ《想像力の欠如。生の実感の希薄化》と罵倒されて叱るべきであろう。もっとも、この文章が書かれた時期は青少年と社会階層の問題についてまとまった本や研究がほとんど世に出回っていなかった(例えば、東京大学助教授の玄田有史氏の著書『仕事のなかの曖昧な不安』が刊行されたのは平成13年)から、一概に責めることは出来ないのかもしれないが。

 ・久田恵氏(作家)「問われてからではでは遅すぎる」
 どういうわけか作家が多いな。ついでに言うと久田氏のひとつ前に掲載されている精神科医の野田正彰氏の文章が意外とまともだったことを付け加えておく(野田氏の青少年に対する認識の支離滅裂さについてはこの連載の第32回第61回を参照されたし)。

 さて久田氏の文章に映るのだが、久田氏がこのように述べている時点でもはやアウトである。

 現代の子どもたちは、幼児期から個別に育てられ、喧嘩などで他者とまみれて心身を通して共感性を養う体験を持たずに育っている。学校では陰湿ないじめ関係を泳ぐようにしてわたり、思春期とに友と哲学を語って他者と共に思考を鍛える機会もない。

 毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない。この時期に至って慌ててなにかを大人が語っても、向こうなのだ。

 こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけの中で、その環境に抵抗力を持ち、危険な思春期をサバイバルできるかどうかは、幼児期からどれほど豊かな対話が他者となされ、自尊の心がその子どもの内面にかっちりと形成されているか、もうその一点にかかっていると私は思う。(久田恵[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 このように単なる自意識の発露でしかない俗流若者論を読んでいると、我が国においていかに自称「知識人」というのが現実を見極め、対峙する能力を失っているのか、ということを実感する。そもそもこのような奇麗事で社会が良くなるのであれば、誰だって苦労はしない。しかし昨今の状況と照らし合わせてみれば、このような「奇麗事」ばっかり論壇では溢れかえって統計やフィールドワークなどを中心としたリアルな論議が「奇麗事」乱発の中で霞んでしまうことによって、事態が改善されたか、と考えれば、決して改善されていない。しかしそれでも「奇麗事」を乱発できる人たちは、本当に恵まれた人たちなのだなあ、とつくづく思ってしまう。

 とりあえず本文の検証をしてみれば、特に久田氏の現代の青少年に対する認識の残酷さが現れているのが《毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない》《こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけ》みたいなくだりであろう。しかし、こういったものがなかったはずの過去においては、例えば昭和40年代には青少年による凶悪犯罪の件数がピークを迎えている。ついでに言うと我が国において10歳代における殺人率よりも50歳代における殺人率のほうが若干多い。このような傾向は我が国独特である。久田氏はそこにも触れるべきであろう(評論家の岸田秀氏はこの点に触れていた。岸田氏は《日本では、殺人事件は欧米、とくにアメリカよりはるかに少ないとのことであるが、これは、日本人が心やさしいとかのためではなくて、人殺しに対する文化的ブレーキの違いによると思われる》(岸田秀[2000])と述べている)。

 ・藤原智美氏(作家)「また造ればいいじゃん!」
 真打登場である。藤原氏の文章は、もう全部が全部突っ込みどころといってもいいほど残酷かつ支離滅裂で、藤原氏が青少年問題について語ることは一切信用してはならぬ、といいたいくらいだ。ちなみに、藤原氏がタイトルに掲げたのは、藤原氏の答えではないのだが、これは後々触れていくこととする。

 とにかく藤原氏、一番最初にこのように語っているのだから。189ページ1段目から2段目にかけて。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」と、面とむかって訊かれた人はむしろ幸運だと思う。そもそも「問い」を可能にする対話じたいが、ほとんど成り立っていないのが現実だからである。奇妙なことに、だれに訊かれたわけでもないのに私たちは、人を殺してはいけない「理由」を探しているのだ。それは子どもたちのもつ理解をこえた「命への感覚」に気づき、私たち自身がひどく不安になっているからにほかならない。たとえばこういう十代の「気分」が存在する。

 「いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら」

 この言葉をまえにしたとき、これまでの倫理、道徳観に根ざした殺してはいけない「理由」は無力だ。……私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ。(藤原智美[2000]、以下、断りがないなら同様)

 これだけでも事実誤認なのである。そもそも《いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら》なる《十代の「気分」》なるものが本当に存在しているか、ということに関して疑問視されるべきなのは、昨今の殺人統計を見ても一目瞭然だろう。そもそもこの文章、そして藤原氏の青少年問題に関する記述は、そのほとんどが懐古主義という名の自意識の塊、あるいは青少年に対するステレオタイプの蒸し返しがほとんどである。それにしても藤原氏、《私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ》としたり顔で言うけれども、そのようなことは昨今のマスコミや青少年「問題」に蠢動する政治家や自称「知識人」の醜態を見てから言うべきことだろう。少なくともこれらの人たちは、少年による凶悪犯罪を俗流若者論を垂れ流す好機、あるいは自分の政策の正当性を主張する好機としか捉えていない。このような人たちにこそ藤原氏は問いかけるべきであろう。

 藤原氏の論理はまだ暴走する。前の引用文の直後ではこのようにも述べている。

 いうまでもなく命を奪うのが殺人である。その「尊い」命はどのようにして生まれるのか。男と女の愛によってか?かもしれない。そう信じている人々にとっては、まさに命はそのように誕生するだろう。だが、こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている。「尊い」命の誕生は神秘でも感動でもなく「技術」によって支えられている。生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ。

 もしかすると「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される。そういう状況をむかえるかもしれない(私はそうなると革新しているが)。……簡単に作ることが出来るものは、簡単に壊すことも出来る。「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれるのもそう遠い将来ではない気がする。

 これもまた事実誤認と歪曲に満ちた文章である。例えば藤原氏は昨今の生殖技術の発展に関して《こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている》《生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ》と書いているけれども、それは事実誤認で、現実には多くの子供たちが男女の性行為(=自然受精)によって生まれている、というのは今でも変わらない。昨今行なわれている生殖技術は、例えば子供を産むことのできない体を持ちながらも子供を産みたい、という人(不妊治療)などに対して行なわれているくらいで、本格的な精子ビジネスなどが成立している状況ではない。無論そのようなことが将来的に起こる可能性が全くないとは言い切れないけれども、少なくとも現在では起こっていない。この文章が書かれた5年弱後に当たる現在でも然りである。そもそも藤原氏は出産に関する社会的な状況を無視しており、女性が陣痛などを経験しないで遺伝子操作で体外で胎児を、自然出産により生まれた胎児と同様に周囲の環境に耐えうるほどに成長できるようになるには、気の遠くなるほど時間がかかるだろう。さらに胚の状態から即時にある年齢の状態に達成させるのは生物学的に不可能だし、言語や社会性についても一瞬で身につくものではない。故に《「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される》という状況が生まれたとしても《「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれる》というのは完全に誤りである。藤原氏のアナロジーは安易な科学信仰の単なる裏返しでしかない過剰な科学敵視でしかない。

 藤原氏は先ほどの引用文の次に、以下のようにも述べている。曰く、

 第二次大戦中のアメリカ軍兵士の発砲率はわずか二割だったという。戦闘中、八割の兵士が引き金を引かなかった。人を殺せなかったのだ。が、ベトナム戦争での発砲率は九割に上昇する。シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果である。ピンポイント爆撃の現代、それはモニター上の仮想戦の様相を呈して、発砲率という言葉がもはや意味を成さないほど無自覚に殺せるようになった。それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない。ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている。殺人への衝動をゲームによって解消させるということはあるだろう。けれど群の訓練実態を見れば、反対に殺人へのアレルギーをなくすという可能性も否定しきれない。いまの十代はそんな危うい環境の中にいる。

 そもそも発砲率に関するデータの出所はどこだ。出所な不明瞭なデータは最初から疑われて叱るべきであるし、また藤原氏はヴェトナム戦争になって発砲率が上昇した理由を即座に《シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果》と答えているけれども、例えば戦争に対する軍人のモチベーションとか、あるいは政府や軍の上層部による圧力とか(かの有名な「アイヒマン実験」の例を引くまでもないだろう)への想像力は働かなかったのか?しかも《それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない》いこうのレトリックは支離滅裂もいいところだ。そもそも藤原氏は《ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている》と書いているけれども、そのようなものがなかったはずの時代のほうが青少年による凶悪犯罪は多かった。藤原氏はそれをどうやって説明してくれるのだろうか。前掲の岸田秀氏が述べている通り、殺人とは極めて文化的な状況に左右される。もし我が国において青少年が人を殺さなくなっており、逆に中高年が人を多く殺すようになっている、という状況があるとすれば(実際にある状況であるのだが)、そのような状況を生み出した「原因」に対する想像力こそ問われるべきだ。藤原氏の文章は、現代の青少年どころか社会に対する偏狭な認識の塊でしかなく、この文章は藤原氏の力量のなさを如実に表しているのである。

 問題の大きかったのはこの4つであり、他にも問題のあるものはいくつかあるのだが、検証は控えておこう。もちろんこの特集が俗流若者論ばかりで凝り固まっていたわけではなく、今日と造形芸術大学大学院長(当時)の山折哲雄氏、作家の重松清氏、ノンフィクション作家の髙山文彦氏の文章は特に読み応えがある。しかし裏を返せば、この深刻な問いかけに、「知識人」が多く集まるはずの「文藝春秋」に14人も執筆して、読むに堪えうるのが先の山折氏、重松氏、髙山氏と、あと岸田秀氏と作家の野坂昭如氏くらいしかないことは深刻な問題ではないだろうか。他の執筆者は、多かれ少なかれ俗流若者論を含んでいる。しかし人生観・自然観・文明観の根本に関わるこの問題に対して知恵を絞って答えられる人が少ないことに、私たちはもっと危機感を持っていいと思う。

 私は、ジャーナリストの櫻井よしこ氏の著書『日本の危機』に引かれている、国語作文研究所所長(当時)の宮川俊彦氏の異見に全面的に賛同する(とはいえ、この宮川氏の発言が引かれている櫻井氏の著書の第10章のこれ以外の部分に、私は全面的に賛同できないのだが)。

 「作文教室をやってますと子供たちからハッとする問いかけをされます。“人を殺してもいいじゃない”“したい事をしてなんでいけないの”という問いかけに、大人はどう答えていくか」

 宮川氏が語る。

 「こういう問いかけをする事はとても大切です。客観しできる人間はすぐには行動に移りませんから。

 子供たちは深い部分で秩序を求めている。哲学を求めていると僕は感じます。対する社会が単にこれはいけないことだというだけでは押さえきれないと感じます。

 子供たちに性の実感、展望をもって生きていく指針、自分が自分であってよいのだという安心感を与えることが出来るか否かだと思います」

 日本の母親は、そして家庭は、子供たちにその前向きの生の実感を抱かせることが出来るか。

 「現代の母親は論理や知識を見につけていても、子供の教育には失敗しています」
 と宮川氏。(櫻井よしこ[2000])

 このようにポジティブに考える人が、どうして我が国には少ないのだろう。我が国は青少年に関するネガティブな情報ばかり溢れ、それらが家庭を、社会を、学校を圧迫している。そして我が国の自称「知識人」は自らの役割を誤認し、ただひたすら「憂国」言説を繰り返してこれらの情報の主たる受け手である人たちの自意識を満たすことしか考えていない。このような状況下において、世の中を変えてくれるような先駆的な言論など生まれるはずもない。

 このような言論の貧困は、執筆者と編集者と読者の共犯関係において起こる。執筆者の認識が貧困であり、態度が甘ければその程度の言論しか算出されないし、編集者にそのおかしさを見破る能力がなければその程度の言論が平気で流通し、読者がその偏向性に気づかずに踊らされてばかりでは執筆者や編集者を助長させることにしかならない。我が国における自称「知識人」の貧困ぶりは俗流若者論にこそ現れる。我々は言論の「死」としての俗流若者論を真剣に見つめるべきかもしれない。

 人々は、疑うことを捨てて、俗流若者論に走るのだろう。

 参考文献・資料
 岸田秀[2000]
 岸田秀「仲間を殺す動物は人間だけ」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 櫻井よしこ[2000]
 櫻井よしこ『日本の危機』新潮文庫、2000年4月
 瀬戸内寂聴[2000]
 瀬戸内寂聴「仏教第一の戒律「不殺生戒」」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 乃南アサ[2000]
 乃南アサ「「なぜだと思う?」と問い返す」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 久田恵[2000]
 久田恵「問われてからではでは遅すぎる」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 藤原智美[2000]
 藤原智美「また造ればいいじゃん!」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年6月
 エミール・デュルケーム、宮島喬:訳『自殺論』中公文庫、1985年6月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「♪これぞ真のクローンだ節――ラエル『クローン人間にYes!』」=と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年6月
 加藤尚武「日本クローン法は欠陥品である」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店
 根津八紘「不妊治療のためなら推進すべきだ」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社

 参考リンク
 「kitanoのアレ」から「小泉内閣の実現力(3):国民生活4年連続悪化の実績
 「少年犯罪データベースドア」から「養老孟司先生世代の脳は狂っている
 「自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告」(厚生労働省)

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2005年8月27日 (土)

俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

 岩波書店から発行されている月刊誌「世界」では、平成15年の一時期に、ライターの瀧井宏臣氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を平成15年11月号まで行なっていた。その内容は、これが本当に「世界」に載っていたものなのか、というくらいで、その反動性は文芸評論家の斎藤美奈子氏にも《岩波書店の『世界』は「進歩的」な雑誌ということになっているのだろうけれど、こと子どもや家庭の問題となると、驚くほど「保守的」になるのがおもしろい》(斎藤美奈子[2004])と突っ込まれているくらいである。この連載は平成16年1月に書籍としてまとめられて岩波書店から発行されており、そこに収録されている分の内容についてはそちらを検証するときに触れることにしよう。今回検証するのは、書籍版には掲載されていないこの連載の最終回となる瀧井氏と筑波大学教授の中村和彦氏の対談「育ちを奪われたこどもたち」である。蛇足だが中村氏は発達運動学専攻である。日本大学文理学部教授の森昭雄氏や、前回採り上げた日本体育大学名誉教授の正木健雄氏もそうだったけれども、つくづくメディア御用達の体育学系統の学者はこんなにも疑似科学に親和的な人が多いのだろうか。私が高校時代までに出会った、「恩師」と呼びたい教師の中に、体育教師が多いので、複雑な気分である。

 この対談は瀧井氏の連載(この連載自体が疑似科学や論理飛躍、懐古主義のオンパレードなのだが。森昭雄氏や澤口俊之氏も当然出てくる!)を瀧井氏がたびたび意見を求めてきた中村氏に報告する形になっているのだが、瀧井氏も中村氏も、子育てや子供の身体についてある種の(残酷な)「幻想」を共有し、そのような態度に少しも疑問を示さない、あるいは彼らが勝手に最近の青少年「だけ」異常になった、と決め付けているので、はっきり言ってここでも論理飛躍や疑似科学や懐古主義のオンパレードが繰り広げられる。

 まず、瀧井氏がかなり最初のほう(209ページ)で発言している内容に、私は笑ってしまった。瀧井氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を始めたきっかけというのは、《自分のこどもが重度のアトピーだったという非常に個人的な理由》(中村和彦、瀧井宏臣[2003]、以下、断りがないなら同様)だったというのである。まあそれだけなら問題がないのであるが、瀧井氏はそれに続いて《唯一の父親として公園デビューして地域のこどもたちに接してみると、アトピーの子が驚くほど多かっただけでなく、無表情だったり、ボーっとして不活発だったり、キレたり落ち着かなかったりする子が見られました。私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いたのです》と発言している。私はこれを読んで瀧井氏は正気の沙汰なのだろうか、と心配になった。《私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いた》からといって、今の子供たちを「異常」と決め付けていい理由はどこにもないのである。

 それにしても瀧井氏と中村氏が共に現在の子供と親を過剰に蔑視し、彼ら自身の世代と親を過剰に擁護しているのが痛いところだ。例えば中村氏は《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件などがあって、文部省(当時)が危機感を募らせていた1998(平成10)年6月30日の中教審の答申では、地域や家庭での遊びの重要性を訴えているのですが、あくまで言葉だけで、どのような処方箋を施すかには至っていない》と発言しているのだが、このような俗流若者論に心酔する人たちは決まって《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件》などといった最近マスコミで報じられた「衝撃的な」事件をもって今の子供たちは異常だとするけれども、例えば過去に起こっていた「杉並切り裂きジャック」みたいな異常犯罪はことごとく無視するし、そもそも少年による凶悪犯罪が昭和45年ごろから一貫して極めて低い水準で推移していることにも触れようとしない。しかも中村氏は《どのような処方箋を施すかには至っていない》といっているようだが、それは中村氏だって然りだろう。中村氏は《遊び》を復活させよ、といっているけれども、それをどのような手段でもって行えばいいのかということを中村氏は少なくともこの対談では一度も提示していない。

 あまつさえ中村氏と瀧井氏が思い込みだけで語っているようなくだりを見つけた。212ページ。

 中村 親の側に危機感がなさ過ぎます。自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる。(筆者注:この文章では一貫して子供を《こども》と表現しているのに、この部分だけなぜか《子ども》となっているのはなぜだろう)。大きな社会環境の変化との関係で見ると、24時間営業のファミレスやコンビニに、夜中に赤ちゃんを抱き幼稚園くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます。便利だと渇仰がいいとか言われていた文化が、逆に私たちの生活を崩壊させ、生活パターンの乱れが生体リズムを崩しています。

 瀧井 私がこどもの時代には、親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います。それがどうしてこんなに壊れてしまったのでしょうか。

 中村 勉強して成績が上がればゲームを買ってあげるとか、試験が終わったから今日は遅くまでテレビを見てもいいよというように、大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています。……

 突っ込みどころ満載で、どこから突っ込んでいいのか困るのだが。とりあえず、中村氏も瀧井氏も今の子供たちを「異常」と決め付けて悦に入っていることは触れておこう。突っ込む順番がわからないので文章の最初から順番に検証することとする。中村氏は《自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる》といっているけれども、これは明らかな「決めつけ」であろう。またこの直後の《夜中に赤ちゃんを抱き余地円くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます》という発言にも、具体的な数値データが出ていないし、親の職種や社会階層などにも触れられていない。おまけに中村氏がどこで「観測」を行なったのかも触れていない。都市部なのか?郊外なのか?農村部なのか?中村氏がこれが科学的に実証されたデータと言い張るのであれば、そこまで開示しなければ習いのだが。瀧井氏も同様。《親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います》と発言しているけれども、なぜこれらが《こどもを尊重する文化》と瀧井氏が考えているのかがわからない。中村氏の発言に移るけれども、中村氏は更に《大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています》と発言するけれども、それ以前の発言の内容がなぜ《大人の「知的学力」への偏向》へとつながるのか、私には皆目わからないのだが。おそらく私の不勉強・無学のせいだろう。

 同じ212ページで、瀧井氏は《睡眠について警鐘を鳴らす数少ない研究者のひとりが東京医科歯科大学の神山潤先生です。「これはもう人体実験だ」とかなり激しい言葉で警告していらっしゃいます》と発言している。また来たか、《人体実験》。この手の人たちはなぜこのような残酷な言葉を使うのか。これでは大人たちが「ある悪意」を持って子供たちを「異常」にさせているかのごときイメージを抱かせてしまうのではないか。これは陰謀論ではないのか?いい加減この手の学者は《人体実験》なる言葉を安易に使うのをやめたらどうか?警鐘を鳴らしたい気持ちは分かるが、もっと適切な言葉を見つけるべきだろう。ついでに言うと「人体実験」という言葉は自分の世代を免責するための言葉でもある。

 213ページでは中村氏、《テレビゲームは自分で考えているように見えるが、あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内であり、結果的にはコミュニケーションに至っていない》と発言している。これを額面どおり受け取れば、ある程度のルールが存在した盤上のゲームやカードゲーム(将棋や双六や麻雀やトランプなど)ですら許されないことになる。これらのゲームもまた《あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内》で行っているものに過ぎないからである。中村氏がここまで強弁するのであれば、普通のカードゲームとテレビゲームにおけるパズルゲームの、思考に関する違いを説明していただきたいのであるが。

 214ページにおける瀧井氏の発言にも大いに疑問を持つ。

 瀧井 乳幼児に母親とかかわり、兄弟や友だちと遊び、その後大人社会にかかわることによってこどもは発達するというのが「サル学」の常識であり、ヒトでも当たり前だったわけですが、それがいつのまにか忘れ去られ、軽視されている。乳幼児期から始まる人間関係の学習不足が、学童期以降、思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなどといった異変の引き金になっているのではないかという疑いを、今回の取材で強く持ったわけです。

 このような発言を見る限り、「世界」もまた澤口俊之や正高信男といった疑似科学者に接近してしまうのか、と嘆きたくなる。少なくともここで瀧井氏が言っていることは、澤口氏が「諸君!」平成13年8月号の論文で、ヒトは大昔から大脳を発達させるための子育てを戦略として行なっていた、それが昨今の社会状況によって崩壊してしまった、という擬似社会生物学と全く等しいのである!しかも瀧井氏ときたら、《思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなど》などと軽々しく語る。もう何度も言ってきたのではっきり言おう。《キレる》はもはや「政治」の言葉だ。「ひきこもり」は昭和55年ごろから存在した。ついでに言うとその前兆といわれている「退却神経症」や「スチューデント・アパシー」などの《問題行動》は更に前、昭和45年ごろから存在していた。いじめに関しても現在に名って急激に問題化したという事実はない。

 しかも瀧井氏と中村氏が互いに矛盾したことを言っているのになぜか同意している部分もある。214ページ。

 瀧井 自分でも子育てをしていて、非常に苦しいのです。最初は親としての力量が低いからだと思ったのですが、それだけではなく、こどもを育てるゆりかごが消失し、いつも親子が一対一でこどもと向き合わざるを得ないからではないのか。そのけっか、こどもをしばり、かつこどもにしばられています。実際に子育てをしてみて、教育評論家の尾木直樹さんが言われた「母子カプセル」の意味がわかったのです。

 中村 ゆりかごがなくなって、虫かごになった。虫かごはいつも覗けるわけです。中の虫は、どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです。

 瀧井氏よ反問せよ!瀧井氏の言っていることは大筋で正しいのだが、中村氏ときたら《虫かご》なるアナロジーを用いて《どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです》などと言い放っているけれども、瀧井氏の言い方が正しいのであれば《虫かご》に入っているのは親子共々ではないか?しかも中村氏が、《それがいまのこどもたちです》などといっている部分を読んでいると、中村氏の現代の子供たちに対する残酷な考え方が見て取れる。

 だから中村氏が215ページにおいて、瀧井氏の《ひきこもりという現象は、失敗の一つの例として捉えた方がいいのでしょうか》という質問に対して《その時点の現象としてみれば、失敗でしょう。けれど、ひきこもっていた子が、ひきこもらないような気持ちになれるとか、少しずつ心を開いていくところに本当の人間関係が生まれてくると思います》と答えていてももはや驚かない。このような思考もまた、中村氏が「ひきこもり」を現代の青少年に特有な病理的な現象と考えているからだろう。少しは「ひきこもり」に関する研究、特に精神科医の斎藤環氏の議論や研究でも参照してみろ、と愚痴をこぼしたくなる。しかも中村氏が金科玉条の如く掲げる《本当の人間関係》というけれども、それはなんなのか?このような言葉は、石原慎太郎氏や石堂淑朗氏が平気で振りかざす「本質」という言葉と響きも意味もまた大変似通っている。「世界」は俗流若者論なら急速に保守化化してもいいのだろう。

 あまつさえ中村氏ときたら、最後のほう(218ページ)でも《大人に危機感を持ってもらうことが大切です。たぶん育児雑誌も「きれいごと」ばかりでしょう。逆に「いまのこどもたちはこんなに追い込まれた生活をしていて、このままではあなたのお子さんにはこんなところにこういう影響が出ますよ」と危機感を煽らない限り、なかなか親は問題を直視しにくい》とまで発言してしまっている。私はもう絶望している。所詮中村氏は「この程度」だったのか、ということを(いや、大体予想はしていたが)。中村氏は、いかに我が国において青少年問題視言説ばかり売れるか、ということをもっと直視すべきではないか。中村氏はその状況に屋上屋を架することしか考えていないようだが、これだけ青少年問題視言説ばかり溢れているのに一行に状況が改善されない、というのであれば、まずやり方を変えるべきだろう。「もっと青少年危機扇動言説を!」では、もっと親たちを追いつめるだけだ。それどころか我が国にはびこっている子育て言説(中村氏はこれらも《きれいごと》として扱うのだろう)の大半が、マスコミが興味本位で採り上げる青少年問題を貴店としているのであるが。中村氏のかくのごとき態度を見ていると、故・山本七平氏のフィリピン戦論を想起してしまう。

 ちなみに山本氏は、大東亜戦争時の日本軍がフィリピンに兵を送る際、上層部が大量の兵を送ることばかり専念し、終いには老朽化した船に3000人もの兵士を詰め込んでフィリピンに送ったと述べているが、そのような船は当然の如くバシー海峡で簡単に落とされてしまう。しかも撃沈するまで15秒であるから、かのアウシュヴィッツをも上回る(!)殺戮システムが登場してしまうのである。この状況を、山本氏は以下のように述べている。

 ……バシー海峡ですべての船舶を喪失し、何十万という兵員を海底に沈め終ったとき、軍の首脳はやはり言ったであろう、「やるだけのことはやった」と。
 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探究し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方項に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして事故を正当化しているということだけであろう。(山本七平[2004])

 そして中村氏が瀧井氏が青少年問題視言説を散々振りまいても一向に状況が改善されずに、ネタが尽きてしまったら、瀧井氏や中村氏も「やるだけのことはやった」と言うのだろう。

 そして218ページ、最後の発言。

 中村 ……大学生の生活を調査したことがあるのですが、朝から一日中ひとこともしゃべらない人もいます。約800人を対象に無記名のアンケート調査をしたところ、5%、40人の学生がそうでした。食事も昼と夜は絶対に友だちと食べない。クラブ活動やサークルは一切やらない。そういう人たちは、かかわりたくないから、アルバイトもしないのです。講義が終わるとビデオ屋でビデオを借り、「ほか弁」を買って帰る。コンパも成り立たないのです。新歓コンパも合コンもなし。大学祭も出典以外は成り立たない。大学祭=休みの日(笑)。

 瀧井 卒業しても、社会生活を遅れるんでしょうかね。

 中村 まともに子育てなんかできないでしょうね。知的なマニュアルに頼っていけるところだけで生きているから、生活体験が無きに等しい。本当の意味のかかわりを知らず、自分で何かを考えたり工夫したり、総合的にものを考えたりといったこともできないのです。まさにライフハザードです。

 瀧井 ゾッとするような話です。乳幼児の次は、大学生のライフハザードを取材しなければなりませんね。今日は、どうもありがとうございました。

 私は、瀧井氏が《大学生のライフハザード》を取材する前に、まず中村氏と瀧井氏のモラルハザードについて反省すべきだと本気で考える。なぜならこの最後のやり取りは、単なる「酒場の愚痴」、更に言えば彼らが思い込みでしか青少年問題を捉えていないことを如実に示しているのだから。

 これでいいのだろうか。

 中村氏も瀧井氏も、はっきり言って子供たちをヴァーチャル・リアリティーでしか捉えていない。ここで言うところの「ヴァーチャル・リアリティー」とは、彼らが好んで用いる子供たちに対するステレオタイプであり、あるいはこの文章の中で飽きるほど出てきている《本当の意味のかかわり》だとか《本質》みたいな幻想である。瀧井氏も中村氏も、彼らは自分が青少年に対して真剣に向き合っていると考えているのかもしれないが、本当はまんざらでもないのではないか。要するに、瀧井氏も中村氏も、自分の世代と自分の親と自分の子供はみんな正しいが、今の親と子供はみんな異常である、という残酷な認識で共通しているのではないか。だからこのような疑似科学や論理飛躍や我田引水や懐古主義も平然と語れるのではないか。このような人たちが、どうして青少年問題に関して真剣に言えるといえるのだろうか?

 さて、私が、この対談のみならず、瀧井氏の連載全体を俯瞰して感じたのは、瀧井氏が極めて残酷な「自己責任論」に依拠しているということだ。ここで言うところの「自己責任論」とは、いうなれば親に対する「自己責任論」で、子供が(実際はマスコミが過剰に問題化している)ある問題を起こせば、それは全て親のせいだ、という議論である。

 今、青少年言説の大半が「自己責任論」化している。要するに、子供がこれこれの問題を起こすようになったのはこのような子育てを行なったからだ、という言説である。最近では、滝意思にも見られるとおり、この「自己責任論」に疑似科学が混入され、更にこのような議論は勢いを増している。しかし、このような言説は、子供たちは親子関係だけでなく、例えば学校や友達の関係でも成長していく。更に言えば子供たちは家庭の経済的な影響の側面、更にはマスコミや情報雑誌などが喧伝するメディア的な側面にもまた影響される。それらを一切無視して、青少年が「問題」ばかり起こすようになったのは親が無能だからだ、という議論が勢いを増しているのである。このような議論は往々にして、やがては今の親はみんな無能だ、という差別につながる。瀧井氏と中村氏のやり取りはそれを如実に表している。

 中村氏や瀧井氏の振りかざしている《本当の意味でのかかわり》みたいな幻想は、はっきり言って例えば「ひきこもり」などのコミュニケーション不全からくる状態を改善することはできないだろう。何故なら、このような《本当の意味でのかかわり》を煽るような言説が、やがては人とコミュニケーションできるような人が偉い、いつも一人でいるような人は病的だ、ということにコンセンサスを与え、コミュニケーション能力に対する差別が起こるからである。一部の「ひきこもり」の人には、そのようなコミュニケーション能力差別に苦しんでいる人が存在する。

 青少年言説がことごとく「自己責任論」化すると、全ての親子は言説によって「監視」される状況になる。現在の俗流若者論/子育て論をめぐる状況にこそ、まさしく社会が子供を、親を、そして社会を「監視」したがる状況を見ることができる。平成17年8月25日付の産経新聞社説にも、子供が犯行に向かうシグナルを親や教師や地域社会は見逃すな、という論調が掲載されていた。ここで親や教師や地域社会に求められるのは、監視カメラとしての役割である。しかしそのような状況を巻かされている親や教師や地域社会が、空疎な言説ばかりを基盤にしており、例えば暴力や不満の捌け口を許すような環境を整えていなかったら、子供たちはどこにも行き場所を見つけられなくなり、鬱屈した不満を抱えたまま暴走する、あるいは自殺するだろう(これもまた極めて深刻な「ひきこもり」の人に見られる状況である)。そのような言説状況を考慮してこそ、地域社会の再生は行なわれるべきだ。青少年問題の安易な「解決」を起点にしては、青少年にとって息苦しい社会を再生産する以外の成果はない。

 果たして瀧井氏や中村氏に、そのような覚悟、それどころかそのような認識があるか!我々が撃つべきは、瀧井氏や中村氏の如く自分を理想化して今の親たちの「自己責任」を過剰に煽り立てる、俗流若者論である。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2004]
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 中村和彦、瀧井宏臣[2003]
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われたこどもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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2005年8月25日 (木)

俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ

 それにしても、我が国には俗流若者論が得意とする、昨今になって急激に青少年による犯罪が凶悪化したとか、あるいは青少年における規範意識が弱くなった、とかいうレトリックを平気で引いていい気になる自称ジャーナリストやノンフィクション作家がこんなにも多いのだろうか。もちろん多くのジャーナリストやノンフィクション作家は良心的だけれども、たまに俗流若者論を言いふらしては世間に媚びて自分だけは安全だ、正常だと思いこんでいる「善良な」人たちの耳目を集めていい気になる人が出てくるのだから困る。最近になってこのような悪しき傾向に乗ってしまった人には、例えばノンフィクション界の古参である柳田邦男氏が上げられようが、柳田氏は自分の経験した、あるいはマスコミが興味本位で取り上げたがる「今時の若者」の行動に関して全てを携帯電話とインターネットなどのメディアのせいにしては論理飛躍・牽強付会・狼藉を加えていて、これが柳田氏の本なのか、と驚いてしまうほどのないようだったけれども、安易に俗流若者論に依拠したがるジャーナリストやノンフィクション作家は他にも結構いる。

 今回検証するのもそのような人の一人だ。書き手はノンフィクション作家の小林ゆうこ氏(声優の小林ゆう氏ではない)、記事は「「母子密着」男の子が危ない」(「新潮45」平成15年10月号に収録)である。また「新潮45」である。つくづく「新潮45」はこのような記事が好きだ。そしてこの記事は、具体的に言えば疑似科学系の俗流若者論の検証抜きのオンパレードである。

 そもそもこの記事、書き出しの118ページにおいてこのような文章が書かれているのだから救いようがない。

 少年犯罪が年々兇悪化して、「キレる17歳」が流行語になった。一歩間違えばわが子も犯罪の被害者か加害者になってしまうのではないか。その時に槍玉に上げられるのは母親と相場が決まっている…。(小林ゆうこ[2003]、以下、断りがないなら同様)

 それは誤解、あるいは事実誤認というものだ。犯罪白書を読めばわかるが少年による凶悪犯罪は年々減少しており、昨今になって青少年による凶悪犯罪が多発するようになったかのごとき錯覚が小林氏を含めて多くの人に共有されているのは、警察の方針転換ということもあろうが、基本的にはマスコミが少年による凶悪犯罪に対して「騒ぎすぎる」ようになったことが挙げられよう。そもそも小林氏、《「キレる17歳」が流行語になった》と安易に言っているけれども、昔の少年による凶悪犯罪を見れば、今だったら絶対「キレる」とか「逆ギレ」とか言われるような事件はたくさんあるし、このような「意味付け」は普通であれば殺人事件の中ではありふれた、例えば諍いが過ぎて相手を刺殺してしまった、というような犯罪を、わざわざ「キレる」「逆ギレ」みたいな言葉で装飾することで昨今の青少年に特有の犯罪として認識されるようになった、というのが正しい認識であろう。

 小林氏は、この文章の中で安易に疑似科学系の俗流若者論を濫用するのである。まず120ページ、《テレビにやられた子ども》という節において日本体育大学名誉教授の正木健雄氏の理論を紹介するのだが、正木氏の理論がもう噴飯ものだ。

 「72年は子どもの問題を考えるときのターニングポイントです。実はその年から死んで生まれてくる男の子の割合が急に増えたのです。当時はテレビの出荷高が頭打ちの横ばいになり、リモコン式のカラーテレビが出回ったので、原因は電磁波ではないかと考えています。72年に子どもたちの“手が不器用になる”調査結果が出て、74年に“目の悪い子”が増え、中学の不登校が減少から増加に転じました。75年から“背骨グニャ”“ボールが目に当たる”“背筋力が弱い”、78年“ちゃんと座っていられない”“朝からあくび”“朝礼でバタン”。すべて脳系統の問題ですね。85年からテレビゲームが流行すると、小学生の不登校が増加しました。子どもたちはテレビやゲームにやられたと、私は思っています。メディア環境によって体の調子が狂わされたのです」

 このような思考停止や論理飛躍、牽強付会に満ちた文章を読んでいると、《メディア環境によって》頭の《調子が狂わされた》のは、むしろ正木氏ではないかと思えてくる。まず正木氏はリモコン式のカラーテレビが普及してから男子の死産が増えた、といっているけれども、まずそれより過去のデータ、そして最近のデータも示すべきだろう。もし72年だけ急増して、その後は一貫して減少しているのであれば、正木氏の論理はそこで崩壊するし、また過去のデータを示さないのもアンフェアーである。更に言えば正木氏は電磁波によって死産が増えるというけれども、電磁波が原因というならばなぜ女子の死産が増えないのだ?また堕胎についても検証したのであろうか。更に言えば正木氏はこの頃から問題化した子供たちの体にかかわる問題(しかし正木氏は「この時期に増加した」といっているだけで現在はどうなっているか、ということは全く述べていない。正木氏は最初からテレビやゲームを敵視する目的でこのようなことを言っているのではないか、と疑われても仕方あるまい)を《すべて脳系統の問題です》といっているけれども、なぜそう言い切れるのか?このような脳還元主義には、むしろ思想的な批判が必要だろう。このような脳還元主義は、この連載で何度も示したとおり、「健全な心は健全な脳に宿る」みたいな錯覚を起こさせることによって、「今時の若者」の如き「異常な脳」を生み出した「原因」を排除しなければならない、という議論につながりかねない(というよりもつながっている)し、更に言えば彼らの言うところの「脳の異常」が所詮は彼らの私憤に過ぎないこと、またそのような疑似科学という補助を得て個人の私憤がそのまま国家による「対策」につながってしまうこと、もう一つ言えばそのような説明では少年による凶悪犯罪が減少していることなど、更にしつこく言えばそのような脳還元主義によって貧困とかあるいは怨恨などといった社会的な背景がことごとく隠蔽されてしまうことなど、問題は極めて多い。名誉教授ほどのポストについている正木氏であれば、そのようなことに対する想像力を働かせることはできるはずだが。それともテレビやゲームを敵視するためなら想像力など要らぬ、ということなのか?

 更に正木氏は大脳前頭葉未成熟というストーリーにも触れてしまう。この部分についても、具体的な数値データを正木氏は提示しようとしないし、小林氏もまたそれを求めるようなそぶりはしない。このような文章は、疑似科学とそれに疑いを持たないジャーナリストや編集者などの共犯関係によって生まれる。たとい疑似科学者だけいても、彼の妄想だけで社会に表出しないならば問題は生み出さないが、この手の疑似科学は最近になってニーズが高まっているので、自分こそが青少年問題の「本質」を知っているという曲学阿世の徒が続出してしまう可能性も否定できない、というよりも最近の我が国はそのような状況に陥っている。

 ここではかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏も登場する(122ページ)。当然の如く小林氏が引くのは、《PQの障害》である。《PQ》の説明に関してはこの連載の第48回でやったのであまり詳しくは説明しないけれども、《PQ》とは「Prefrontal Quotient」すなわち「前頭前知性」の略称であり、これが障害を起こすと不登校にも家庭内暴力にもひきこもりにも「恥知らず」にもなるんだとさ(ちなみに最近《PQ》という言葉は「HQ(=Humanity Quotient;人間性指数)」という言葉に変容している。正高信男氏もそうだが、この手の疑似科学者の好きな言葉の一つに「人間性」がある)。この手の疑似科学者は、自分が不快に思う問題の全てを「脳」に還元させてしまうという態度にどうして疑いを持たないのだろうか。問題の全てを「脳」に押し付けるということは、すなわちレイシズムであって、あいつは俺たちとは違って脳が異常なんだ、だからあいつらは俺たちが不快に思う行動をとるんだ、という残酷なイメージの押し付けである。澤口氏は森昭雄氏と並んでそのパイオニアだ。要するに現代日本にはびこる俗流若者論と言う名のレイシズムを生み出した人として、澤口氏と森氏の名前を決して外すことはできまい。

 案の定、澤口氏は《それら困った若者たちに共通するのは母親に過保護に育てられたという点です。ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合に、子どもは前頭連合野の知性PQの障害に陥る》と書いている。では澤口氏に訊きたいのだが、澤口氏は《それら困った若者たち》について、彼らが本当に《母親に過保護に育てられた》のか、ということを調査したのか?沢口氏の著書や論文などを読んでいる限り、そのようなデータは全く見当たらず、全て「「今時の若者」はみんな母子密着で育てられた」という澤口氏の思い込みで書いているような気がしてならないのである。蛇足だけれども、澤口氏は《ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合》は危険である、としているけれども、そのような《敏感、几帳面な》母親たちを疑似科学によって煽っているのは果たして誰なのだろうか。本当は虚構である「少年犯罪の凶悪化」とか「キレる17歳」などといったイメージを垂れ流しているマスコミや自称「識者」であり、澤口氏もまさしくその中に入る。澤口氏は自分の言論に対する反省をいい加減したらどうか。

 そしてこのような疑似科学記事が往々にしてたどり着く結論が、父親の育児参加である。この文章の結論においても、以下のように書かれているのである。126ページ。

 社会が“母子密着”を防ぐシステムを持たなくては、不登校の子どもたちは100万人いるといわれる“ひきこもり”予備軍と化すかもしれない。いや、“母子密着”そのものが、すでに社会からひきこもっている状態にも見える。密着する母と娘が“一卵性母娘”と呼ばれ、通りを闊歩するのに比べ、母と息子の今日依存は家庭というカプセルで日々育まれる。父親の存在をありのままに望む時代を、私たちは初めて迎えている。

 はっきり言って私は、「母子密着の子育てをすると青少年問題が深刻化するぞ、子供がフリーターや「ひきこもり」や無業者になってしまうぞ、だから父親が子育てに参画しろ」という言説は、害悪しか生み出さないと思っている。このような言説は、子供たちを過度に政治化してしまうことによって、一人一人のリアルな現実を政治の下に取捨・希釈してしまう可能性を持つことのみならず、虚構にまみれた青少年言説に借りた垂れて、そのような青少年問題の「防止」のために父親が始めて子育てに参画する、という状況に私は不気味さ以外のなにものも覚えない。いまだ20歳、子供を持っていないどころか妻も持っていない、更には実家暮らしである私が言えることではないのかもしれないが、やはり子育ては楽しいほうがいいのではないか。

 「中央公論」平成15年5月号は、「少子化日本――男の生き方入門」という特集を組んでいるが、この特集は少子化社会における新しい父親像を模索しよう、というポジティブな感情に支えられている。詳しくは特集を読んで欲しいのだが、やはり実感することは青少年「問題」をベースにした扇動言説は人々を不安に駆り立てるだけで何も生み出さないのに対し、子育てに対してポジティブに取り組むことはやはり楽しそうだ、ということだ。自分を母親と父親の両方の役割を持った新しい親として生きることを実践している作家の川端裕人氏の文章や、育児休暇中の父親による座談会には、どこにも青少年問題に対する不安扇動言説は出てこない。しかし、これこそが子育て言説のあるべき姿ではないだろうか。

 世の中に流通している扇情的な青少年言説は、青少年のみならず多くの親たち、教師たちもまたゲットーに追いつめようとしている。そのような言説の暴走を止めるのがマスコミや知識人の役割だと思うのだが、世の中は移ろいやすいもの、なのかどうかはわからないが、少なくない良心的な知識人の働きかけも俗流若者論市場の中では無視される。このような状況を少しでも変えたいと思う人こそが、やがては日本を変えるのだと思う。青少年問題を過剰に、興味本位で採り上げている内が華であろう。そのような思考停止を繰り返していると、それこそ我が国は滅びるのである。

 参考文献・資料
 小林ゆうこ[2003]
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 吉川浩満、山本貴光『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

 大津和夫、重石稔、平野哲郎「子どもの笑顔と過ごす豊かな時間」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社
 川端裕人「マーパーの誕生」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社

 参考リンク
 「少年犯罪データベース

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 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹

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2005年8月23日 (火)

俗流若者論ケースファイル65・香山リカ

 精神科医の香山リカ氏は、平成14年の中ごろあたりから、若年層が右傾化している、と言う仮説を大々的に発表して大きな話題の人となっている。爾来、特に朝日新聞社の「AERA」などではたびたびお手軽なコメンテーターとして登場し、単純な「憂国」言説を振りまいている。もちろんここで言うところの「憂国」は、俗流保守論壇人お得意の「憂国」ではなく、むしろ俗流左派論壇人によく見られる「憂国」である。

 私が香山氏の議論においてどうしても理解できないのは、香山氏が若年層ばかり問題視していることだ。私はこの連載において、想像力の欠片もなく、ただひたすら詳細な現実や統計データ、及びフィールドワークやNPOなどの実践などの積み重ねをことごとく無視してきた「憂国」言説を散々批判してきたし、そのような言説は探せば数知れない。この連載も少なくとも第70回までは企画が入っているし、成人式をめぐる俗流若者論も私は10本以上持っているし、書庫にはまだ検証していない書籍もまた5冊ほどある。そのほか、私の如きネット左翼には手が届かないほどの綿密な批判を既に権威ある評論家などが行っているものもある。特に「正論」や「新潮45」を読んでいると、我が国の論壇、特に保守論壇がいかに若年層に対して思考を失っているか、ということが良く分かるし、ベストセラーのリストを見てもその傾向が仄見える。

 それなのに、香山氏は若年層ばかり危険視するのである。今回検証するのは、香山氏とオーストラリア国立大学教授のテッサ・モーリス=スズキによる対談「「ニッポン大好き」のゆくえ」(「論座」平成15年9月号に収録)である。モーリス=スズキ側には特に問題のある発言は見当たらないので、香山氏の発言のみを検証することにする。この対談では、香山氏の「若年層ばかり問題視する」傾向が如実に現れている(ついでに言うとこの対談が収録されている「論座」の特集「愛国心って何だろう」は全体としては良質。特に東京工業大学教授の橋爪大三郎氏や横浜国立大学教授の齋藤純一氏の文章は読み応えがある)。

 例えば香山氏は37ページにおいて次のように述べる。曰く、

 私が「ぷちナショナリズム」を実感したもう一つは、大学教師としての体験からです。……神戸は97年に「連続児童殺傷事件」があった場所で、学生たちとほとんど同世代の少年が犯人だったので、「あの事件をどう振り返るか」といったレポートを学生たちに書いてもらったんです。……

 ところが、レポートの九割以上は、……「そんな少年は死刑にするしかない」とか、あるいは「仮出所をして彼がまた神戸に戻ってくるから、もう怖くて神戸には住めない」とか「どっかへ言って欲しい」といった具合でした。……「もし自分が彼だったら」というふうにイマジネーションを働かせることができない若者たちが多いということに気がつきました。(香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ[2003]、以下、断りがないなら同様)

 さて、ここで疑問の種になる最大の事象は、香山氏はそもそも何人にこのようなアンケートをとったのだろうか、ということだ。もし人数が数十人程度であるならば、《「もし自分が彼だったら」というふうにイマジネーションを働かせることができない若者たちが多い》と簡単に言い切ることはできまい。また香山氏は、犯罪をしでかした犯罪者の同世代の人たちは押し並べて「世代的な共感」をしなければならない、あるいは犯罪の言説に接する際には《もし自分が彼だったら》とイマジネーションを働かせなければならない、と考えている節があるが、なぜ層でなければいけないか、ということを香山氏は開示していない。もちろん犯罪者に対して簡単に「死刑にしろ」と言い放つことは私もあまり快くは思わないが、所詮は自ら勝手な解釈に過ぎぬ「世代的な共感」みたいなもので茶を濁すことは、本質的に(!)犯罪者と同世代はみんな危険な思想の持ち主である、という誤解を招きかねないし、もう少しうがった見方をすればたとい《自分が彼だったら》とイマジネーションを働かせたとしても「俺は壮大な犯罪をしでかしたから死刑になっても全く悔いはない!」みたく考えている人もいるかもしれない。さすがにそれはいないか。

 いずれにせよ香山氏が見落としているのは、これ以降良識も想像力もあるとされる高い年齢の人たちがデータを参照することを放棄して安易に「今時の若者」を「憂国」するような言説があふれ出したことであろう。なぜ香山氏はそれらの言説を見ようとしないのか?そもそもこの「酒鬼薔薇聖斗」事件の直後にもさまざまな自称「識者」による益体のない「憂国」が溢れかえった。

 もう一例引用しておこう。40ページ。

 いま、大学でメディアと人間の関係の授業をしているんです。で、映画がプロパガンダに使われる危険性がある例として、レニ・リーフェンシュタールの『意思の勝利』というナチの党大会の映画を見せたんです。そうしたら、反応の中で一番多かったのが「かっこいい」。あの映画は政治的な主張のために作られたというよりも、美しさという観点から作られた映画だから、それは映像的にはものすごくかっこいいし、きれいだというふうにだけ見ることもできる。

 でも、学生たちに「この後に六百万人のユダヤ人が殺された」と言葉で説明しても、「それはこの映画には出てこないから関係ない」と言う。その“割り切り”が大人のスマートな態度だと勘違いしている若者さえいます。……テッサさんも本の中に書かれていますが、いままでの知の体系の中で使われてきた専門用語とか説明は、彼らに対してはもはや使えないなという感じですね。……想像力が欠如しているからなのか、そうやってクールに振舞うのがトレンドなのかうよくわからないんですけど、彼らに対しては専門的、歴史的な説明が説得力を持たない。

 俗流若者論において、自らの矮小な体験を簡単に一般化して世の中を語った気になるのはもはや日常茶飯事であり、そのような態度に対する思想的な検証こそ行なわれるべきなのに香山氏はそれを行なおうとしない。そもそも香山氏はここでも若年層ばかり問題化しているけれども、彼らよりも高い年齢層の人はどうなのだろうか。少なくとも俗流若者論を検証していく限りでは、俗流若者論を言いふらす「善良な」人たちに専門的・歴史的な説明が説得力を持つとは到底思えない。これはあくまでも私の推測でしかないのだけれども、香山氏は同様の調査を高い年齢の人たちにやってみてはどうか。

 香山氏がナショナリズム関連の仕事においてやっていることは、全てがマスコミや言論において多く深く流通している俗流若者論における想像力やクリエイティビティの欠如を完全に棚において、若年層ばかり敵視しているということにまとめることができよう。香山氏が若年層ばかり問題化するのは、香山氏がこれまで精神科医として若年層のことやカルチュアを中心に取り扱ってきたことのアイデンティティを保つためなのか、それとも若年層に対する批判は売れるからあえて既存の言論の問題を取り扱わないからなのか。どちらにしろ、香山氏の若年層ばかり問題化して、既存の政治や言論の危険な動きを無視するのは、極めて恣意的な活動、といわざるを得ない。

 香山氏はナショナリズムなどに関する執筆を精力的に行なった理由として、「論座」編集部の取材に対して、サッカーのワールドカップにおける若年層の熱狂に違和感を持ったことを挙げている(朝日新聞社[2004])。もちろん世の中のさまざまな問題に関して疑問を持つことは否定しないが、香山氏はもう少し物事を大々的に採り上げるのに慎重になったほうがいいのではないか。最近の香山氏の文章はどうも全て上滑りの感じがしてならない。私の如き素人の眼から見ても、香山氏の「分析」は所詮は「今時の若者」の受けいかなるものについて考えているつもりの自分を理想化した議論に過ぎない。あるいは時流や左派論壇に迎合した当たり障りのない「解説」でしかない。最近の香山氏は評論家の宮崎哲弥氏などから社会科学や現代思想に関する無知に関して批判されているけれども、それも理の当然かもしれない。

 ついでに言うと香山氏の「ぷちナショナリズム症候群」という表現は、明らかに心理学主義的な傾向、要するに「症候群」みたいな心理学用語の濫用が見られる。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2004]
 「論座」編集部「ニッポンの論客:香山リカ」=「論座」2004年6月号、朝日新聞社
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ[2003]
 香山リカ、テッサ・モーリズ=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月尾久、朝日新聞社

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年11月

 齋藤純一「愛国心「再定義」の可能性を探る」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 橋爪大三郎「愛国心の根拠は何か」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

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2005年8月22日 (月)

俗流若者論ケースファイル64・清川輝基

 今回検証するのは、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏による「“メディア漬け”と子どもの危機」(「世界」平成15年7月号に収録)である。この連載の中で何度か示したとおり、清川氏もまた森昭雄氏や澤口俊之氏や片岡直樹氏などと並び、青少年問題において疑似科学を安易に用いる人である。結論から言えば、清川氏のこの論文も、疑似科学の検証抜きの濫用と安易な懐古主義に満ち満ちた文章であった。ちなみに清川氏は出だしのほうの206ページにおいて《この40年間、日本という国は、子どもたちにとってきわめて残酷な環境の変化をさせてしまった》(清川輝基[2003]、以下、断りがないなら同様)と書き、この文章の入っている段落の次の段落において清川氏は《60年代以降の40年間に日本の大人たちのやってきたことの結果が、現在の「人体実験」状態をつくり出し、それがいま明確に子どもの心とからだにあらわれている》と書いている。清川氏を含め、疑似科学系の自称「識者」は《人体実験》という言葉が好きだ。このような言葉は最初から彼らが現在の青少年に関して偏狭な認識しか持っていないことの証左なのだと思うがどうか。

 この以降に並べられる疑似科学のオンパレードの前に、いきなり私が噴き出してしまった部分がある。207ページ上段。

 NHKが1941年に実施した調査では、当時国民学校五~六年生の男子の一日の生活時間の中で「外遊び」の時間が一時間四六分、「癒えの手伝い」の時間が一時間二一分あった。「外遊び」は、子ども集団のなかにある、子ども自身の文化である。それはたとえば、缶蹴りや鬼ごっこやかくれんぼという集団の遊びが、緊張と弛緩の繰り返しによって心臓や肺、筋肉の機能をきわめて安全に有効に高めるように、子どもの文化は、文字通り豊かな子どもの心とからだを育てる時間でもあった。

 1941年とは、大東亜戦争の最中ではないか。しかも現在から見てかなり昔の話だ。そのような極端な時点の統計を持ち出して一体どうなるというのか。しかもこの文章を字面そのままで捉えるのであれば、清川氏は戦前に戻るべきだ、戦前はもっと子供が人間らしく生きていた、とでも主張することになる。「世界」の岡本厚編集長は疑問を持たなかったのだろうか。あるいはこのような主張であっても疑似科学系の俗流若者論なら許していい、という規定でもあるのだろうか。しかもこの文章においては、頻繁に《子どもの心とからだ》という表現が出てくるけれども、清川氏はこの言葉を明らかにイデオロギーとして用いている。すなわち、過去の《子どもの心とからだ》はいたって健全だが、今の《子どもの心とからだ》は病んでいる、それは《メディア漬け》が原因であって、直ちにその状況を「撲滅」しなければならない、というイデオロギーに、清川氏は染まっているのである。そのような態度を疑うことを捨てて清川氏は現在の青少年に対する偏見を振りまいているのである、しかも月刊誌の中ではもっとも「左寄り」とされている「世界」で。まあ、俗流若者論においては右も左も大同団結してしまうから、ある意味ではこのようなことが生まれるのも「正常」なのだが。悲しい話だ。

 少し筆が滑ってしまった。本題に戻ろう。さて清川氏は、208ページにおいて以下の通り述べる。曰く、

 当時(筆者注:1970年代後半)すでに「警告」という番組タイトルをつけなければならないほど子どもたちの発達の遅れや歪みは深刻だったが、その子どもたちは、生まれたときに既に茶の間にテレビがあった「テレビ第一世代」である。電子映像、テレビ画面にほとんど抵抗感がなく、テレビ画面は環境そのものである。

 その世代がいま親となり、子育てをしている。……

 要は、今は親が既に異常だから、子供も異常になるのは当たり前だ、というストーリーであるな。しかしこのようなストーリーの暴力性は指摘しておかねばなるまい。そもそも清川氏は今の親世代が「異常」である、という証拠を一つも提示していないし、子供に関するデータすら209ページから210ページにかけての《家ではほとんど勉強しない子の比率》だけだ。当然、これも《メディア漬け》が犯人とされているわけだが、このような調査は東京大学教授の苅谷剛彦氏がかなり前から調査しており、かなり蓄積されたデータがあるのだが、そこには触れようとしなかったのだろうか。

 清川氏のこの文章は、読者が現在の子供たちは「異常」である、という認識を持たなければ納得できないだろう。何せ清川氏は何が「異常」であるか、そして本当に「異常」と呼べるのか、というデータはほとんど示しておらず、あらかじめ「今の子供たちは異常である。その原因は《メディア漬け》である」ということを最初から設定して、それにかなうデータしか持ってこないのだから。少年による凶悪犯罪が減少している、というデータを示しても清川氏は馬耳東風だろう。

 だから清川氏が、210ページにおいて、かの曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論を好意的に紹介していても何の不思議はないのである。当然のことながら清川氏、この「ゲーム脳」を紹介する文脈において《人間としての心をコントロールし表現する大脳の前頭前野とよばれる部分が、ゲームをやっている子どもの脳ではほとんど働いていないことを示している。自分を制御できないとは、切れやすいと言い換えてもいいが、そういう人間らしい心の欠如も、メディア接触ときわめて強い関係があることがわかってきたのである》と書いているのだが、これもまた現在の若い親たちと子供たちに対するステレオタイプが固定化されている清川氏であれば当然の振る舞いであろう。更に、明治大学の三沢直子教授による調査における《ゲームを長時間している子どもの方が現実と非現実を混同する率が高い》という結果も清川氏は引いているのだが、果たして清川氏は三沢氏のデータを引用する段階で《現実と非現実を混同する》ということがいかなる事を指しているのか、ということを検証しなかったのだろうか。ついでに前出の三沢氏もまた「ゲーム脳」を信奉していることを書き加えておく。

 これ以上は検証しない。これ以降も、安易なアナロジーの濫用、牽強付会、我田引水の連続だからである。そして結論が「テレビを消そう」。やはり安直な結論になったか。
 それにしても、清川氏の如き専門家として高い地位を得ている人が、その辺のワイドショーとかテレビ報道とか誰かの愚痴で語られているだけの内容と自分の狭い経験だけで、現在の青少年を「異常」と言い切ってしまうという態度をとっていていいのだろうか。これは清川氏に限らず、疑似科学系の俗流若者論を振りかざす、あるいはそれに何の疑問も持たず好意的に引用する人たちに言える。結局のところこのような策動は、自分の「理解できない」ものに責任を押し付けることによって自分だけは安全で正義なのだ、という錯覚に陥りたいだけなのだろう。このような態度が、専門家の、そして科学の死を意味する。

 清川氏らにとって、青少年とは単なる「自己実現」の道具でしかないのだろう。この論文において頻出する《子どもの心とからだ》は、それ自体がイデオロギーの言葉として作用している。現在の我が国において、このような言葉にこそ反動的なイデオロギーが宿る。要は「子供」を生け贄にしたナショナリズムが台頭しているのである。彼らにとって青少年問題とは自分の立場を上げてくれる格好の舞台装置でしかない。このような人たちに青少年問題を語らせるのは、もうやめにしないか。

 参考文献・資料
 清川輝基[2003]
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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2005年8月21日 (日)

俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹

 この連載の第47回で武田徹氏の文章を批判したときにも少し触れたけれども、俗流若者論において精神科医とか心理学者の「ご託宣」もまた期待されている。彼らによる「ご託宣」は、自らは善良であると思い込んでいる人たちが一方的に排撃している「今時の若者」に対するフラストレーションを正当付けるためにしか働かず、例えば具体的な検証や反証とか、あるいは精密な分析は最初から放棄される。俗流若者論における心理学主義プロファイリングは、もはや「言った者勝ち」の状況であり、いかに刺激的な(=一見刺激的に聞こえるけれども内容が空疎な)プロファイリング概念を出した人が勝者となる。あるいはそのようなプロファイリングをして「善良な」大衆に「癒し」を与えることで自らの私腹を肥やすことができる。故に我が国には「~~症候群」とか「~~人間」とか「~~シンドローム」みたいなプロファイリングが続出する(武田氏の文章における「プログラム起動症候群」もその典型)。若年層は言説によって一方的に売り飛ばされる存在である。もっとも「善良な」大衆にとっては若年層とは言説によって売り飛ばされる存在でしかないのであるが。

 さて、連載第47回における武田徹氏の文章の検証では、精神科医による安易なアナロジーの捏造を無批判に紹介しているジャーナリスト(=武田氏)のことを検証したが、今回検証するのは本職の精神科医による心理学主義的なプロファイリングである。とはいえ、その文章の書き手が、最近までは主要な守備範囲の教育問題のみならず経済問題や北朝鮮問題にまでさまざまな問題に首を突っ込んでいる精神科医の和田秀樹氏であるから、このようなプロファイリング合戦に参加するのもまあ理解できないことではあるまい。

 その和田氏が「中央公論」の平成15年6月号の論文「日本はメランコの総中流社会に回帰せよ」で発明しているのが「シゾフレ人間/メランコ人間」である。このような分類は、昭和59年の流行語対象にもノミネートされた、浅田彰氏の「スキゾ/パラノ」を想起する人もいるだろうが、浅田氏の分類に関してはあまり知らないけれども、少なくとも和田氏のプロファイリングと浅田氏の分類において徹底的に違うのは、和田氏のプロファイリングは最初から最後まで青少年問題=「今時の若者」を意識していることだ。和田氏はこの文章の最初のほう、206ページにおいて《七〇年代後半に若者文化を支えていた世代から、日本人の主流となるパーソナリティは大きく変わり始め、さらにいえば、1985年以降に生まれた日本人から、決定的に別のタイプに変化を遂げたと私は考える。そして私は彼らを「シゾフレ人間」と名づけた》(和田秀樹[2003]、以下、断りがないなら同様)と書いている。そして和田氏は208ページにおいて、「シゾフレ人間/メランコ人間」の特徴を表にしているけれども、この表を見て私は一気にこの論文のからくりが解けてしまった。

 ・メランコ(鬱)人間とシゾフレ(分裂)人間の特徴(読み方:メランコ人間の特徴/シゾフレ人間の特徴)
 心の世界の主役:自分/他者(周囲)
 対人関係:特定他者への献身/不特定他者への同調
 周囲の世界の認知:理論的・現実的/魔術的・被害的
 自己・アイデンティティ:堅固なアイデンティティ/自分がない
 常識・価値観:内在/外在
 時間軸:過去へのこだわり・首尾一貫/周囲との同調・過去との不連続
 世代(日本):1955年以前生まれに多い/1965年以降生まれに多い

 要は和田氏は、巷で囁かれる「今時の若者」に対する不満に「わかりやすい」用語を与えただけだろう。和田氏はこのような分類をさも自分が始めて発見したかの如き説明をしているけれども(206ページの《若者が個性化しているという諸説はウソではないか》みたいな書き方など)、「今時の若者」に対するこのような批判はもはや噴出しているのだが。

 案の定、この論文には《シゾフレ人間は》とか《彼ら(筆者注:《シゾフレ人間》)は》といった言葉が頻出する。和田氏は最初から現代の若年層を《シゾフレ人間》と規定して、彼らを危険視することしか考えていないのだから、この文章全体がないよう空疎なものになるのももはやわかっている。その証左として、和田氏が《シゾフレ人間》の対等に関する検証を行なっていると思える部分が207ページ3段目の次のくだりしか見当たらないことが挙げられよう。

 なぜ、日本にシゾフレ主流の時代が訪れるようになったのだろうか。その最大の要因は、何はともあれ日本が経済的な豊かさを享受したことであろう。戦後、だれもが努力次第で豊かになれる社会になり、「運命を自分で切り開いていけるからこそ頑張る」メランコ人間が増え、受験や出世競争に勝ち抜くことに没頭した。やがて生活がある程度豊になると、今度は「みんなと同じだったら十分苦っていける。目立たずにみんなと一緒が大切」なシゾフレ人間が台頭する時代に移行してきた。

 本当にこれだけなのだ。しかもこれが全体6ページの中の2ページ目で、後はいかに《シゾフレ人間》が危険な存在であるかを喧伝しているだけなのである。このような文章に関してはもはやどうでもいい話なので検証は差し控えるけれども、少しだけ和田氏の事実誤認や歪曲が見られるので指摘したい。例えば208ページにおいて《先般の都知事選の結果(筆者注:平成15年4月12日に行なわれた東京都知事選挙。石原慎太郎氏が再選した)に、庶民のシゾフレ化を後列に感じたのは私だけではあるまい。石原慎太郎氏はシゾフレ人間たちからすれば崇め奉る対象。七割超の大量得票は、みんなと一緒でいたいのだという圧倒的な大衆が神様を求めている証しである》と述べている。ちなみにこの都知事選挙の投票率は約45パーセントで、確かにそのうち七割以上は石原氏に入れていたけれども、有権者全体からすれば約33パーセント半強に過ぎない。だったら和田氏は投票しなかった人を問題視すべきではないか?

 それにしても、和田氏の立論に従えば、和田氏が(勝手に)問題化している《メランコ人間》を生み出さないためには、たくさん競争をして、ひたすら成長しなければならない、ということになろうけれども、果たしてそれが我が国の採用すべき戦略なのだろうか。経済的な成長だけを重視する時代は、やがては格差の拡大、地球環境の破壊、資源の枯渇などにつながっていく。更に我が国は人口減少社会に突入する。そのような状況を考えたとき、我が国が採るべき社会システムは、むしろ経済成長「しないこと」を前提にしたシステムであり、全ての人がそこそこの豊かさを享受できるような社会である。和田氏の如く、ひたすら経済成長せよ、そうしないと「今時の若者」の如き無能な人間が量産されてしまうぞ、とひたすら大衆の尻を叩くのは、結局のところ自分を肯定して若年層を否定したい人たちの残酷な願いをかなえるだけではないのか。

 また、精神分析に関する倫理の面からも和田氏を批判してみたい。和田氏はこの文章では明らかに個々人を診断しないで専門用語を弄して若年層をバッシングしている。直接の臨床を抜きにして診断する、ということに関しては例えば「ひきこもり」の人に対する精神分析などではありえることらしいし、精神分析の概念に安易に自分が診断していない個人を当てはめてタイプを規定すること、例えば精神科医の斎藤環氏が「諸君!」平成14年4月号でやったような(斎藤環[2002])政治家の「精神分析」などのように、明らかにネタと認識できるものであれば許容できるが、和田氏は本気(ベタ)だ。明らかに現在の青少年について「警鐘」を鳴らす目的でやっているが、そのような安易なレトリックの濫用に熱中するのであれば、まず自らさまざまな臨床事例の積み重ねやアプローチの変更などを繰り返す必要があるのではないか。これは和田氏に限らず、安易に心理学主義的なプロファイリングを安易に振りかざす人たちにも言えることだ。

 ちなみに和田氏のプロファイリングと同様の分類に、斎藤環氏の「ひきこもり型/自分探し型」という分類がある(「ひきこもり型」は《メランコ人間》に、「自分探し型」は《シゾフレ人間》に近い)が、こちらの分類は和田氏のプロファイリングよりもより説得力がある。斎藤氏もまた「今時の若者」に対する思い込みの安易な類型化という点では和田氏と同様の問題点を持っているけれども、少なくとも斎藤氏はある程度のフィールドワークを行なっているし、このような分類が和田氏のような「日本が経済的に豊かになって、努力する必要がなくなった」みたいな安易なアプローチではなく、コミュニケーションに対する指向性に目をつけていることもまた興味深い。

 これは蛇足なのだが、「中央公論」の平成15年7月号に、和田氏の立論を絶賛する投書が掲載されていたのだが、この投書を読むと、すくな事もこの投書子にとっていかに和田氏の文章が自分の世代(=自分)の肯定と若年層の否定の役に立ったか、ということがよく分かる。

 参考文献・資料
 斎藤環[2002]
 斎藤環「気になるあの人たちの「精神分析」報告」=「諸君!」2002年4月号、文藝春秋
 和田秀樹[2003]
 和田秀樹「日本はメランコの総中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社

 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 十川幸司『精神分析』岩波新書、2003年11月

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俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦

 現代の我が国におけるナショナリズムを支えている最大の基盤は俗流若者論である。俗流若者論において、マスコミが問題にしたがる「今時の若者」の「問題行動」を鬼の首でもとったの如き採り上げては、彼らを「国家」の喪失した存在とかいったレトリックで罵り、教育で愛国心を教えよ、とか日本人の歴史や言葉を取り戻せ、といった飛躍した論理が見られるのは最近ではもはや日常茶飯事である。とりわけ数学者の藤原正彦氏はその典型であろう。というわけで、今回検証するのは、藤原氏の文章「数学者の国語教育絶対論」(「文藝春秋」平成15年3月号に収録)である。藤原氏のこの文章を検証することは、現代の我が国、特に俗流若者論において「日本語」がどのようなスタンスでもって用いられているか、ということを検証するためにも大変重要だと私は思うが、それに関してはこの文章の終盤で述べていこう。

 まずは藤原氏の事実認識から検証していきたい。この部分にも、藤原氏のナショナリズム的に潤色された事実誤認がいろいろあふれ出しているのである。例えば藤原氏は最初のほう(179ページ上段)において《世界一といわれた治安のよさも失われた。正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加し、恐るべき援助交際や少年非行に加え、金銭にからむ不正が政官財民に蔓延するなど、国民一般の道徳も地に堕ちた》(藤原正彦[2003]、以下、断りがないなら同様)と言って、《教育を立て直すこと意外に、この国を立て直すことは無理である》《教育の質はそれを受けた者の質を見ればたちどころにわかる。大学生を見れば質の低下は著しい》(共に179ページ後半)と書く。しかし、例えば《世界一といわれた治安のよさ》=所謂「安全神話」に関しては、例えば少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろと比して大幅に減少しているとか、また検挙率に関しても最近になって警察の被害届けの取り扱いが変わったことによるものが大きいし、諸外国に比べれば我が国の犯罪率は極めて低い水準を保っている。特に諸外国に比して我が国の20代が殺人をしでかす割合は極めて低く、総体として見れば「治安が悪化している」という言説がかえって人々の治安に対する不安を更に高めているということが見抜ける。更に藤原氏は《正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加》と語っているけれども、これはフリーターを指しているのだろうが、あくまでフリーターは社会構造の問題から切り離せなくなっているし、《国民一般の道徳も地に堕ちた》とは言われているけれども、そう見えるのはそれまで経済成長が全てを隠蔽してくれたからであろう。さらに《大学生を見れば質の低下は著しい》と藤原氏は書いているけれども、このような主観から安易に教育の「劣化」を語らないというのが物書きとしての良心であろう。

 また藤原氏は《国語が思考そのものと深く関わっている》(180ページ)と語っているけれども、これに関しては別段異論はないどころか、大いに賛同する。しかし藤原氏のこの文章は、藤原氏の思考力が「それほどのものでしかない」ことを如実に表しているかのごとき表現もまた頻出する。例えば藤原氏は183ページ下段において、《高次の情緒には、なつかしさ、という情緒もある。人口の都市集中が進み、故郷をもたない人々が増える中で、この情緒も教えにくくなっている》と藤原氏は書くけれども、では《なつかしさ、という情緒》は藤原氏の言うところの《故郷》でしか育たないのだろうか。この文章を読んでみる限り、藤原氏の言うところの《故郷》とは、都市とはまた対比されるべきものであると捉えられるかもしれないが、例えば私は物心ついてから2回ほど引越しをしたことがあるけれども、全て郊外の団地であった。しかし今では小学生や中学生の頃の想い出、更には高校生の頃、更に最近では成人式実行委員会として活動したときの想い出が今でも懐かしく思い出される。藤原氏の論理に従えば私はずっと《なつかしさ、という情緒》を持つことができない、ということになるはずだが。藤原氏はもうちょっと広義の「故郷」というものに眼を向けるべきではないか。また藤原氏は185ページ下段において《脳の九割の内容を利害得失で閉められるのは止むを得ないとして、残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害損失では救われない。/ここを美しい情緒で埋めるのである。……もし官僚のう脳の一部に、もののあはれが農耕にあれば、その判断は時に利害を離れることもありうる》と書いている。しかしそのような文章の直後にこのような文章が続いていると一気に落胆してしまう。曰く、

 たとえば日本の農業を考えるとき、経済的には外国から安い農産物を自由に輸入することが最善としてもすぐにそういう決断しないかも知れない。農業の疲弊は田園の疲弊であり、美しい自然の喪失である。もののあはれは、四季の変化にめぐまれた日本の繊細で美しい自然によりはぐくまれるものだから、この情緒も衰退するであろう。世界に誇るこの情緒は日本文化の淵源であり、経済上の理由で大きく傷つけてよいものだろうか、と反問するに違いない。……

 一般的な解釈では、これもまた《利害損失》というべきものではないのだろうか。藤原氏が《利害損失》=経済的な利害損失としか考えていないとしたら、それこそ藤原氏の思考の貧困さが出ている文章といえよう、先ほどの《故郷》と同じように。

 さて、藤原氏は《祖国とは国語である》(186頁下段)と考えているらしい。これは確かに正しいのであるが、もう少し踏み込んだ説明するならば国語(言語)とは自分の所属している共同体に対する帰属意識を確認するための記号である。何も所謂「ギャル文字」「2ch言葉」みたいな極端な例を表さなくとも、例えば声優の野川さくら氏と野川氏のファンのやり取りを見てもそれを垣間見ることができる。基本的にこの場におけるやり取りはごく普通の日本語によって行なわれるけれども、例えばその中でさりげなく野川氏を中心とするコミュニティを象徴する言葉、すなわち「おはよう」とか「こんにちは」を意味する「にゃっほ~♪」などという言葉が入ったとき、そこにおけるコミュニティが野川氏を中心とするコミュニティであることが表される。他にも声優のラジオ番組などを聴いていれば、このような日常とは違う言語表現が少しだけ入ることによってそのコミュニティの特徴が表されるような言葉は時々見かけることができる(堀江由衣氏のラジオにおける「こんばんてん」という挨拶なども然り)。数学には数学の言語が、建築学には建築学の言語が日常言語と並立して置かれ、日常言語とは違ったコミュニティ独特の言語が日常言語の中にさりげなく組み込まれることによってコミュニティの特性が表される、ということは少し探せばたくさん見つかる。

 さて、このあたりで藤原氏流の《祖国とは国語である》という論理の危うさについて触れてみよう。明治維新以降の過程において、日本の近代化のために、「日本人」とか「日本民族」が最初から一体のものであるというフィクションを捏造する必要があった。それに大きく役割を買ったのはもちろん教育であった。更に明治時代から現在にかけての都市政策や教育政策によって、地域のコミュニティ、そして地域言語としての方言が破壊され、都市居住者は(もう少し広く言えば都市から独立していないコミュニティの居住者は)標準語によってコミュニケーションしなければならぬ状況が生じた。藤原氏の立論の危うさは、国家が「正しい日本語」「美しい日本語」を規定し、それにかなわぬ言葉は全て「乱れている」とか蔑視されることによって、言葉の持つ柔軟性が失われるのではないか、ということだ。「今時の若者」における「言葉の乱れ」をしきりに嘆く自称「知識人」が、同時に「方言を大切にしよう」と喧伝するのはなんとも皮肉なことだ。

 藤原氏がこの論文において国際的なパワー・ゲームとしての「日本語」の一体性を重視していたり、あるいは藤原氏のこの文章が収録されている「文藝春秋」の特集「日本語大切」におけるおそらく編集者によるものであろうリード文における《言語の衰退は国家の衰退。巷にはびこる珍妙な日本語を見直し、今こそ「私たちの言葉」を手に入れよう》という表現にも見られるとおり、日本人全員が教育によって「正しい日本語」「美しい日本語」を習得しなければ国際社会で勝ち残ることができない、という認識に立っていることを見るにつけて更に私の疑問は深くなる。そもそも彼らはなぜ国際社会で勝ち残ることや生き残ることを絶対視するのだろうか。いや、私は何も我が国が米国の51番目の衆になってもいい、と言っているわけではない。そうではなく、私はそのための「手段」を問題化している。すなわち、国際社会で生き残るための手段が、「内なる他者」というよりむしろ「内なる汚物」としての言葉の「乱れ」をしきりに攻撃することで、「日本人」「日本文化」という同一性を保つことにより、国際的な力を得ようとする行為が、果たして本当に正統の行為であるか、と私は問いたいのである。そもそも我が国の文化は彼らの認識の外で着々と広がっている。我が国の伝統文化から、更には我が国におけるアニメや漫画といった最近のサブカルチュアが「クール・ジャパン」として認識されつつある。このような(広義での)日本文化の広まりは、彼らの妄想する「強い国家」とは別のところで動いている。

 俗流若者論の恐ろしさは、個人的な「今時の若者」に対する憤慨がそのまま国家とか歴史とかに短絡されてしまうことである。俗流若者論に依拠する人たちは、「国家」や「歴史」みたいな幻想をバックにつけることによって「今時の若者」を「国家を喪失した存在」とかいったレトリックで批判するのだが、これを「虎の威を借る狐」という。そして国家という「虎」の威厳を借りることによって「今時の若者」をゲットーに囲い込む人たちは、さも駝鳥が穴の中に首を突っ込んで世界は平和である、と認識する如き錯覚に陥る。殊この藤原氏の文章や藤原氏の文章が収録されている特集には、かくのごとき「駝鳥の平和」の思想が底流として流れている。このような「駝鳥の平和」がやがてレイシズムにつながった例が、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏による「ギャル文字」への評価、すなわち「ギャル文字」はもはや言語的な認知を超えたものであり、このような文字の蔓延は日本人の言語能力の対価を意味する、というわけのわからぬアナロジーであろう。我々が最も撃つべきはこのような「駝鳥の平和」の如き錯覚であって、他者に対する攻撃でなく寛容をベースとした真の平和を築かなければならない。

 最後に藤原氏についても述べておこう。藤原氏は「祖国は国語」だとは言うけれども、藤原氏のこの文章における「日本語」や「日本文化」や「故郷」などの言葉を観察するにつけ、藤原氏にとっての「祖国」とはその程度のものなのか、と嘆かざるを得ない。すなわち、藤原氏の言うところの「祖国」とは、所詮藤原氏の利害や自意識の範囲を出ることがなく、他の人が自分とは違う形で「祖国」や「故郷」を構築していったり、あるいは「日本語」や「日本文化」がさまざまな変化と分化と同一化を経て形成されたものであるということに対する想像力もない。藤原氏は、もっと「故郷」とか「文化」とかいった言葉に対する広い視野を持つことが必要であろう。

 ついでに、この特集に収録されている、ジャーナリストの日垣隆氏の「判決文は悪文の見本市」は面白いから一読をお勧めする。

 参考文献・資料
 藤原正彦[2003]
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月

 多和田葉子、田中克彦「ことばを知る、ことばを語る」=「論座」2004年12月号、朝日新聞社

 参考リンク
 「野川さくらオフィシャルサイト「さくらメロディ♪」

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 参考記事
 「正高信男という頽廃
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信
 「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

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2005年8月20日 (土)

俗流若者論ケースファイル61・野田正彰

 このブログにおいて、私は一貫して「心の教育」なるものに反対してきた。私がこれに反対するロジックとしては、青少年問題を「心」の問題として捉える現在の傾向は、それが「ひきこもり」やフリーターや若年無業者問題に関して用いられるならばそれらを生み出した社会的・経済的背景を無視して「心」の問題として処理することによって不当な「自己責任」をそれらに苦しんでいる人たちに押し付けてしまうこと、また少年犯罪も含めてこのようなロジックは正常な「心」と異常な「心」という図式が前提としてあり、「今時の若者」の異常な「心」を「正常化」しなければならない、そのためには異常な「心」を生み出したものを撲滅しなければならない、というロジックにつながり、その代替物として安易に愛国心とか情操教育とかいったロジックが持ち出されることに対する疑問である。

 その点からすれば、関西学院大学教授の野田正彰氏が「世界」平成14年10月号に寄稿した「「心の教育」が学校を押し潰す」という論文は、本来であれば私の味方となる論文なのかもしれない(ちなみにこの論文が発表されたときの野田氏の肩書きは京都女子大学教授)。野田氏はこの論文の冒頭において、平成11年6月の中教審の答申「新しい時代を拓く心を育てるために――次世代を育てる心を失う危機」を以下のように批判する(88ページ)。曰く、

 続いて答申を説明していくのだが、その前に文部省(筆者注:中教審の答申が発表された当時は文部科学省ではなく文部省だった)の文章は表題から日本語の体をなしていないことを理解しておこう。副題の「次世代を育てる心を失う危機」とは何を意味するのか。「次世代を育てる心」とは大人たちの心のことか。「育てる心」という表現はありえない。「心を失う危機」とは何か。精神的危機という概念はあるが、心を失うとは失神することなのか。ましてや「心を失う危機」とはどんな危機なのか、想像すらできない。通して「次世代を育てる心を失う危機」と読み直すと、頭がおかしくなってくる。「次世代の心を貧しくする危機状況」とでも言いたいのだろう。さらに「新しい時代を拓く心を育てるため」の答申なのに、なぜ副題は「心を失う危機」なのか。もう少し正常な日本語を書ける人はいないのか。(野田正彰[2002]、以下、断りがないなら同様)

 この批判に関しては異存はない、むしろ大いに賛同する。

 しかし野田氏のこの論文において問題なのは、所謂「心の教育」が青少年の「病理」を加速させる、という視点に野田氏が立っていることだ。これは、野田氏は中教審の答申のタイトルにある「新しい時代を拓く心を育てるために」とか「次世代を育てる心を失う危機」といった美辞麗句を批判しているけれども、しかし野田氏もまた現代の青少年が精神的な病理状況に陥っている、と認識しており、結局のところ「心の教育」推進派と同じ認識を共有しているのであって、そのような野田氏が「心の教育」推進派を撃っても所詮は俗流若者論の中の内ゲバにしかなりえないのである。もっとも、野田氏がこのような認識を持っているのは、この連載の第32回で紹介したのだが、そのときは週刊誌の記事のコメント程度だったので、まとまった論文として野田氏の立論を批判するのは今回が始めてである。

 さて、野田氏のこの論文において問題が出ているのは95ページから98ページの4ページである。野田氏は95ページ1段目から2段目にかけて、「心のノート」が次のように記述していることを問題視する。曰く、

 「街中で 大きな硝子窓に映った自分に気づいた。いつもまっすぐに胸を張って歩いているつもりなのに なんだか 自信なさげにうつむきかげんに歩く私がいた。上方や服装、スタイルばかり気になっていたけれど 自分の中身は、ぜんぜん気にもしなかった。――でも、この硝子窓には、わたしの心が映っているよう」といったふうに。一方では「心を形に表して以降」、「T.P.O.を考えた行動ができているか?」、「礼儀には脈々と受け継がれている伝統がある」と畳み掛ける。

 野田氏はこのように紹介するのだが、しかしこのあとに続く野田氏の立論は、あらかじめ現代の青少年が精神的な病理的状況に陥っている、あるいは現代の青少年は自分たちとは違う「異常な「心」」を持っている、と読者が認識していなければ意味を持たない文章が来るのである。

 そこで子どもは何を求められているか、すぐ察知するであろう。自分を見つめ、良い自分と悪い自分を分割し、場面に応じて良い自分を装うこと。これが学校の先生の要求する「こころ」であることを、心から、知るであろう。何のことはない、これでは、現代の若者が得意とする、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである。

 私が疑問を持ったのは《何のことはない、これでは、》以下の文章である。野田氏は《現代の若者が徳意図する、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである》と書いているけれども、野田氏が何をもって《ファッションとなった乖離体験》を指しているのかがわからないし、そもそも《現代の若者が得意とする》といったくだりに、野田氏の若年層に対する認識が表れているように見える。野田氏はこの文章において、《ファッションとなった解離体験》を推奨することは現代の病理状況を広めるかのごとき説明をしているけれども、それが本当に問題なのか、あるいは本当に現代の病理状況として捉えるべきなのか、という議論を野田氏は最初から放棄している。読者に「今時の若者」は精神的な病理を持っている、という前提が共有されない限り意味を成さない。もう一つ言うと、野田氏は96ページにおいても《精神障害としての解離――解離性健忘、遁走、昏迷、憑依などと違った、若者ファッションとしての解離の言い訳は枚挙にいとまがない》とも述べている。

 野田氏は更に、この段落の直後に、更に《八〇年代より、日本の子どもは他の子どもと深い交流を避け、表層の情報の交換を好み、周囲のT.P.O.に応じた行動を取る適応力を高めてきた。……ただ(筆者注:現代の子供たちが)自分ら勝手な言動をとっていると見えるのは、大人たちのT.P.O.とズレがあるからである》と述べている。だったら、例えば製造年月日や生産地を偽装して、店舗では何の操作もしてなかったかのごとく売る店員とか、トラブルが生じてもひたすらひた隠しにしてさも何の問題も起こっていないかのごとく装う人たちとか、またあるいは大銀行や大企業に対しては甘いのに民衆にはいまだに極めて低い金利を押し付ける経済政策などは野田氏の理論では説明することができるのだろうか。それとも野田氏は、「田中均は右翼に爆弾を仕掛けられて当たり前」と言った石原慎太郎氏や「少年犯罪の加害者の親は市中引き回しにして打ち首にしろ」と言った鴻池祥肇氏や「少女がカッターで頚動脈を切る事件が発生したのは女性が元気になった証拠だ」と言った井上喜一氏や「公約が達成できなかったからといって大したことはない」と言った小泉純一郎氏は「今時の若者」よりもマシと考えているのか?いずれにせよ、野田氏が現代の若年層を過剰に危険視していることは明らかであろう。

 更に野田氏は、以下のようにも述べる。96ページ。

 このような切りかえ(筆者注:《過剰反応する自分》=周囲に対して敏感になりひたすら事故を抑えることと《自閉思考に安らぐ自分》=ビデオや漫画やアニメや情報雑誌などの接触を通じて自分だけの世界を構築すること。このような図式化は野田氏もまた漫画やアニメなどを病的な青少年が部屋の中で自分の殻に閉じこもって一人でやるもの、と認識していることが窺える)のの敏速さを表現した若者言葉に「切れる」がある。「切れる」とはどういうことか。中学生たちは、「副が切れて、髪の毛が逆立って、威嚇して、エラ呼吸しはじめてジャンプ」、「澄んだ眼をしていて、口をきかない」、「ちょっと肘が当たっただけで、一発殴って叫びだした」、「先生に怒られて、その先生の強化のノートをビリビリにしたり、黒板で“死ね”と大きく書いていた」と説明している(深谷昌志教授らによる調査、「モノグラフ・中学生の世界」、98年12月、「キレる、ムカつく」)。明らかに現代日本の子ども文化として定着した「解離」が述べられている。

 解離(あるいは転換性)障害とは、困難な葛藤に直面したとき、自己同一性と直接感覚の意識、身体運動のコントロールに関する東郷が、部分的あるいは全面的に失われることを言う。子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ。「それは誤っている」、「いやだ」と言葉で表せないので、替わりに「切れる」事が定型表現として許容されている。現代日本の子ども文化としての「解離」が「切れる」である。

 野田氏は何を血迷ったのか。この引用文から読み取れることは、明らかに「キレる」なる表現が極めて政治的に脚色・潤色・希釈・拡大解釈されることによって、現代の青少年の病理的状況を表しているかのごとく使われていることである。しかし、このような状況が、果たして現代の青少年に特有のものなのか、ということに関する検証は、この調査者たる深谷昌志氏はは一切していない。その点を野田氏は指摘しないのだから、野田氏が「キレる」なる表現の政治性に見事にすくい取られていることがわかるだろう。そもそものだしが引いている部分からも、「キレる」という言葉が至極広く希釈されていることを垣間見ることができる。

 とりわけ野田氏が「キレる」という表現がもたらす青少年幻想に酔っていることは後半の段落にこそ見ることができるだろう。野田氏は《子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ》と書いているけれども、前出の深谷氏の(狭小なる)事例からどこをどうすればこのように解釈できるのだろうか。このように、野田氏はあらかじめ青少年は精神的な病理を持っている、と認識しているので、たとい野田氏が「心の教育」に関して反対の論陣を張っていても、「心の教育」推進派はそもそも野田氏と同様に現代の青少年は精神的な病理を持っている、というパターンから始まっているので、その反対論は空疎に響くだけであろう。

 改めて指摘しておくけれども、野田氏は「「心の教育」は現代の青少年における病理的状況を加速させる」という理由に基づいて「心の教育」に反対している。しかしこのような論理は、「青少年における病理的状況」というものが至極イデオロギー的なものであることに対する注意を少しでも払っていれば展開できないものであろう。「心の教育」を撃つのであれば、まず推進派が共有している「青少年における病理的状況」という認識それ自体を撃ったほうが戦略的には有効である。要するに、例えば彼らは少年による凶悪犯罪の増加、不登校や「ひきこもり」の増加、及び青少年による「問題行動」の増加をもってして「青少年における病理的状況」としている。しかし、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比して大幅に減少しているし、不登校や「ひきこもり」にしても最近になって爆発的に増大したわけではない。青少年による「問題行動」にしろ、まず青少年に対する社会の認識、及びその認識を構築するマスコミ報道から疑う必要があろう。「心の教育」の推進派と反推進派が「青少年における病理的状況」という、例えば地球環境の悪化や経済成長の低下といったものとは違って定量化や数値化が不可能であり、イデオロギーによって大きく左右されやすい認識を共有している限り、議論は果てしなく不毛な俗流若者論の応酬にしかならない。野田氏の文章は、それを見事に表しているのである。

 参考文献・資料
 野田正彰[2002]
 野田正彰「「心の教育」が学校を押し潰す」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 保阪正康『戦後政治家暴言録』中公新書ラクレ、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年8月19日 (金)

俗流若者論ケースファイル60・田村知則

 これまで私はさまざまな俗流若者論を相手にしてきたけれども、敵は思わぬ方向から飛んでくるものである。今回は、何と眼科医学の視点からの俗流若者論だ。執筆者は視覚情報センター代表の田村知則氏で、タイトルは「警告!子どもの「眼」がおかしい」である。ついでに言うと掲載誌は「新潮45」平成14年10月号。澤口俊之氏や片岡直樹氏のときもそうだったが、つくづく「新潮45」は擬似医学系の俗流若者論が好きだ。

 田村氏は最初のほうである206ページにおいて、《最近の子ども達の目を見ていて気になることがあります。それは立体視能力の低下です》(田村知則[2002]、以下、断りがないなら同様)と書く。その理由として田村氏は、207ページにおいて、《空間を認知する能力が多いはずの集団(筆者注:高校生から大学生を中心としたスポーツ選手)にもかかわらず、近年この能力の低い子ども達が非常に目立つようになっています》と書いているのだが、まず過去との比較がない。この手の擬似医学系の俗流若者論は、データも出さずにただ不安だけ煽るのが好きだ。田村氏はこの直後に《数年前はこの検査で、こちらが何も言わなくても「立体的に見える」と瞬時に答えてくれる人がほとんどでした。しかし近年は、「立体的に見えませんか?」と誘導して「ああ…見えました」と答える人や、それでもわからない人が目立っています》とも書いているけれども、具体的なデータの提示はまだない。そして最後までない。

 そしてこの手の擬似医学系の俗流若者論ではお決まりの展開、テレビゲーム有害論である。田村氏は208ページにおいて、いきなり《あくまで推測ですが、視覚能力が構築されるよう時期から、テレビやテレビゲームに没頭し、平面の世界を見続けた弊害ではないかと考えます》とでっち上げるのである。田村氏が他の要因を無視しているのを見る限り、田村氏は森昭雄氏や片岡直樹氏などと同じような思考回路、すなわち「今時の若者」が異常なのは体の部位のどこかが以上なのであり、そしてその「以上」を作り出したのはテレビやテレビゲームだ、という思考回路を持っているのは間違いないだろう。そしてこのような仮説は、この次の段落を読んで確信に変わる。

 たとえば実際に野球場に野球を見に行ったとしましょう。ファウルボールが飛んできたら、自分の目で見て、判断して避ける必要があります。しかし、テレビで野球を見ていたとしたらどうでしょう?仮にボールが飛んで来たとしても、視線を移動させながらピントを合わせ続ける調節運動をする必要は全くありません。何故ならボールは飛んでくるように見えるだけで、実際は人とボールの映像の距離はいつも同じなのですから。テレビゲームはテレビよりもやっかいかもしれません。身体は本来とは違う形でゲームに参加し、眼も筋肉運動による調節力を活動させる必要はあるません。つまり、現実と違った身体運動と意識の奥行き感だけになります。

 私はどこか壮大なデ・ジャ・ヴュを感じずにはいられなかった。つまりこの文章の趣旨の一部を変えると、テレビやテレビゲームは実際の感覚運動とは違う運動しかしないので、大脳前頭葉が異常になるのだ、とすれば、森昭雄氏とか片岡直樹氏のような論理と化してしまうだろう。違うのは脳が異常になる、というのと眼が異常になる、という部分くらいで、あとはほとんど同じだ。つくづく擬似医学系の俗流若者論というのは曲学阿世の縮小再生産の繰り返しであるよ。

 しかも田村氏、210ページから俗流若者論において使い古された論理に固執する。例えば「活字離れ」。田村氏は《活字を媒介にしながら、外の眼(筆者注:光学的な役割としての眼球の働き)と内の眼(筆者注:学習によって獲得される眼球の働き)をつなげたり、離したりしていくというのが、本を読む行為です。ところが、いまの子どもは、こうしたことが非常に苦手なために、本が読めなくなっている。それが活字離れの一つの要因ではないかとも思っています》と飛躍した論理を展開するのだが、田村氏の論理に従えば、読書は動きすらないため、眼球のどこも発達されない、という論理になりかねないのだが。読書はオーケーで、テレビやテレビゲームはだめだということか。それでは田村氏の認識そのものを疑わざるを得ない。これは田村氏に限ったことではないのだけれども、読書を擁護しテレビやテレビゲームを非難する論理というのは、読書は健全な青少年が豊富なコミュニケーションのもとに行われるもので、逆にテレビやテレビゲームの視聴は病的な青少年が一人で部屋に閉じこもって黙々と自分の世界に閉じこもってやるもの、と最初からステレオタイプで規定されているからではないか。このような妄想でもって最初から善悪が決定されることに、私は憤りを感じ得ない。ちなみに田村氏は、同じページで《本を読む際には、外の眼と内の眼を絶えず情報を交互にやりとりしながら読む必要があります。ところが、テレビは観たままですから、イメージを膨らませ、想像する必要がない。内の眼を使う必要がないのです》とも書いている。田村氏がゲームを最初から眼球の機能に悪影響を及ぼすものと規定する態度がここでも見えてくる。

 ちなみに田村氏は最近の子供たちが急速に本を読まなくなった、と規定しているけれども、国民生活時間調査によると、確かに活字一般に接している時間は青少年・若年層よりも中高年や高齢者のほうが多いけれども、中高年や高齢者に関して言うとそのほとんどが新聞であり、新聞を読んでいる時間を減ずるとむしろ青少年・若年層のほうが本を読んでいる計算になる(パオロ・マッツァリーノ[2004])。

 もちろん田村氏は、《人と接するときも、相手の変化を刻々と捉えながら、こちらの反応を変化させていかないといけない。……テレビゲームだと、こうしたシステムは作られにくく、自分ではゲームの中で判断しているつもりであっても、ゲームを作成した誰かの意図の範囲の中で判断しているに過ぎません。そこには主体性貼りません》(210ページ3段目~211ページ1段目)とか書くのもやぶさかではない。田村氏は208ページにおいて《あくまで推測ですが》とエクスキューズしているけれども、いつの間にかテレビやゲームが「悪玉」として糾弾されているのは確かであろう。

 更に田村氏は211ページ3段目においても、《私は検眼の実務家ですから、推測でしかありませんが、活字離れ、ひきこもり、友だちとのつきあい方がわからない――こうした子どもが多くなっているのも、目の働きから見れば、以上のように説明できるのではないでしょうか》と書いているのだが、これもまた俗流若者論のお決まりのレトリックであろう。そもそも《私は検眼の実務家ですから》と前置きすることで問題を深く考えたり調べたりすることを放棄して、単なる自分の思い込みだけでさも最近になって青少年問題が急速に深刻化した、とマスコミ報道の受け売りだけで済ませてしまう態度というものが、田村氏がこのような雑誌において発言する資格を問われかねないものであろう(いや、「新潮45」だから許されるのかな?)。何度も言うけれども、所謂《友だちとのつきあい方がわからない》青少年に関わる問題など、70年代安保の頃から現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏とか、精神科医の故・小此木啓吾氏などによって論じられてきた。「ひきこもり」にしても精神科医の斎藤環氏が20代の頃、すなわち80年代から斎藤氏の研究テーマとなっていたし、不登校にしろこれもまた最近になって急増したものと喧伝されているけれども、そのような宣伝には統計の取り方によるバイアスがあり、実際には昭和50年ごろから増加の一途を辿っている(奥地圭子[2002])。田村氏のこのような態度を見るにつけ、たとい社会科学の専門家でなくとも最低限のことは調べるべきだろう、と私は憤りを感じずにはいられない。

 あまつさえ田村氏ときたら、212ページ1段目から2段目にかけて、《内の眼タイプ》と《外の眼タイプ》という2種類の人間を規定し、《深夜、物音がした時に、いったい何だろうといろいろと考え想像を広げていくのは内の眼タイプです。すぐに起き上がって確かめに行く人は外の眼タイプです》などと俗流健康番組の真似事までやってのける。他の真面目な眼科医が田村氏のこの文章を読んだらどのように考えるのだろうか、と私は心配でならない。

 また、田村氏は212ページ2段目において、《私のところへ検眼や目のトレーニングに凝られる肩は、基本的には一般の方が主体です。……子どもの場合にはLD(学習障害)や引きこもりといった症状の人もいます(筆者注:「ひきこもり」は病気ではない!故に《症状》という表現は不適切・不謹慎極まりない!まあ、このような人にとっては、「ひきこもり」もフリーターも若年無業者も病気として取り扱われるのだからいまさらこのようなことを言っても徒労だろうが)。こうした子どもたちが眼のトレーニングをすることで変わっていくのです》と書いているのだが、このような文章を読んでいると、つくづく森昭雄氏や片岡直樹氏の自分礼賛を思い出してしまう。

 カール・マルクスは、「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」という言葉を残した。しかし擬似医学系の俗流若者論の歴史は、2度と言わず3度も4度も、そして何度も繰り返し、その全てが喜劇の歴史である。要するに、多くの「善良な」民衆が憤っている「今時の若者」の問題に対し、「本質的な問題があるのだ!」と喧伝する曲学阿世の徒が現れ、その「本質的な問題」を身体の機関や脳の異常から引き起こされる問題として喧伝し、それが多くの支持を集める。そしてそのような状況がやがて日常として定着すると、次から次へとこの疑似科学市場に参画するものが続出し、疑似科学・曲学阿世の拡大/縮小再生産が繰り返され、この市場に参画するものは「今時の若者」に対する敵愾心だけで結束し、そして支持を集める。そして、次々と「若者論」というカーニヴァル的な状況が作り出され、大衆は偽りの「安心」「癒し」に狂奔し、やがて認識は堕落の一途を辿る。

 それら疑似科学に対する科学的・論理的・倫理的な検証は最初から放棄される。これは明らかに我が国における科学の死を意味する。要するに、一部の跳ね上がりの異端によって、大衆の科学に対する認識が俗流若者論に屈服してしまうのである。今回検証した田村氏の文章により、眼科医学にすら俗流若者論の要請を受ける医師の登場を許してしまった状況がまた一つ明らかになった。他にも俗流若者論の要請を受け、それに唯々諾々としてしまった分野はあるのか?少なくとも脳神経科学や発達心理学、及び小児科学と動物行動学は世間では俗流若者論ばかりが横行する事態になっている。かように実証性を大事にするはずの科学分野に論理飛躍や概念の押し付けを酒とする俗流若者論が侵入してしまうことに、私は俗流若者論というローレライの歌声の恐ろしさを感じずにはいられない。

 ところで、1度目は一体誰なのだろう?

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 田村知則[2002]
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、2000年11月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月

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2005年8月18日 (木)

俗流若者論ケースファイル59・林道義

 それにしても、最近の保守論壇における、特に「男女共同参画社会」とか「ジェンダー・フリー」に対するバックラッシュというものは、既に陰謀論と化しているような気がする。もちろん私もこれらの論理を手放しに礼賛していい、と考えているわけではないけれども、少なくとも俗流保守論壇人が行なっているこれらの概念に対する批判は、あまりにも感情的であり、中には自らの被害妄想に埋もれているものすら存在するくらいだ。

 その代表格が、東京女子大学教授の林道義氏であろうが、どうやら林氏の暴走は平成13年ごろから始まっていたようだ。というわけで、今回検証するのは、「諸君!」平成14年2月号の特集「日本を襲う「怪しい言葉」群22」に掲載されている、林氏の文章「子どもの自己決定権――暴走する「個人」」である。この文章の特徴を一言で言うなら「羊頭狗肉」であり、一見「子どもの自己決定権」なる言葉を批判していると思ったら、結局この文章は「子どもの自己決定権」という言葉にかこつけて自分の不満を垂れ流しているだけの文章である。

 とりあえず、冒頭における《「子どもの権利条約」にさえ、「子どもの人格の成熟に従い」という条件が明示されている。その前提条件を削除してしまったのが、川崎市の「子どもの権利条例」である》(林道義[2002]、以下、断りがないなら同様)という文章には私は賛意を示すけれども、私が敢えてこの文章を採り上げた最大の理由は以下の文章にある。181ページ2段目。

 では人格が成熟しているはずの大人ならば、なんでも「自己決定」していいのか。たとえば、女性は自分だけで「子供を産む産まない、育てる育てない」を決めてもいいのか。いいはずがないのである。周囲に及ぼす影響、子供の心への作用など、考えなければならないことは多い。

 たとえばピル。「女性の選択肢を増やす」という理由で正当化されているが、じつは環境ホルモンとして垂れ流され拡散し、人間の男性を含めたオスのメス化を促進する重大な影響を与えている。ピル先進国のイギリスでは、たとえばテムズ川の魚のオスの精巣の中には精子がなくなり、かわって卵子がみられるという。

 もう、この2段落だけでも俗流「男女共同参画社会」批判として読む価値があるというものだ。特に後半の段落における「環境ホルモン」をめぐる与太話など、かつて「諸君!」と同じ版元の雑誌である「文藝春秋」において、ジャーナリストの日垣隆氏がダイオキシンや環境ホルモンに関する「神話」のトリックを暴いていた時代(といっても平成10年から11年にかけての話だが)を懐かしく思う。それはさておき、なぜこの2段落、特に後半が「与太話」と私が断定したのかというと、それに関する理由が第2段落のほぼ全体にわたっている。

 まず、《テムズ川の魚のオスの精巣の中には精子がなくなり、かわって卵子がみられるという》という記述であるが、これはどのような種類の魚なのだろうか。少なくともサンゴ礁に生息する魚の中では性転換を行なう種類の存在が確認されているけれども(桑村哲生[2004])、とりあえずそのような魚はテムズ川では確認されないだろうが、しかしどのような種類の魚にそのような事態が生じたのかということを紹介すべきであろう。また、環境ホルモンが身体に与える影響に関しては、魚類と人類では全くといっていいほど違う。たとえば魚類に関しては大量に環境ホルモンを浴びると性転換することはあるが、人類に関してはそのようなことは生物学的に見てありえない。人間の性転換手術において、たといこれに関する技術が発達してもいまだに生殖器の機能を変えることはできない、というのがその証左となろう。更に言えば、テムズ川における環境ホルモンの量の増加が本当にピルの影響なのか、そもそも本当に増加しているのか、ということに関しても林氏は検証するべきである。ちなみに、多摩川のコイのメス化に関して、をれを促しているのが、人工的に排出されたものではなくむしろ天然の環境ホルモンによるものであるという報告がある(西川洋三[2003])。以上の理由から、《人間の男性を含めたオスのメス化を促進する重大な影響を与えている》というアナロジーが全く意味を成さないことも証明しうる。そもそも林氏のこの認識においては、ピルというものが社会をメス化することによって社会を衰亡させしめるものとして描かれているけれども、そのような与太話は環境ホルモンとしてのピルが人体に及ぼす影響を勘案してから言うことだろう。「環境ホルモン」という誇大宣伝によるイメージ(環境ホルモンそれ自体ではない)によって心が「撹乱」されてしまった人はもうこの時点で滅亡したと思っていたが、まだいたとは。しかも「環境ホルモン」不安扇動者とは全く対極の政治的スタンスにいる人に。

 それ以外にも、林氏のこの文章には、安易な被害妄想が多い。《ピルや生殖技術……を利用し、女性が性を自己管理し、男性の意思ぬきで子供を産み育てることができるようになることは、人類の未来を女性だけで決定することになりかねない》(181ページ2~3段目)とか、《シングルマザーという形態も、女性の自己決定の結果である》(181ページ3段目)とか、「子どもの自己決定権」はどこに行ったのか、という罵倒が多いし、やっとそこに戻ってきたとしても《たとえば宮台真司は「自己決定権」を「迷惑をかけなければ何をしてもいい権利」と定義している。しかし「迷惑」とは何かを定義していないし、たとえ定義できたとしても現実に何が迷惑かを決めることは不可能である。だとしたら、それはなんの拘束力も持たない条件であり、結局は無限定に「何をしてもいい」といっているに等しいのである》(181ページ3段目~182ページ1段目)というような飛躍した論理だし、《こういう屁理屈を弄して、利己主義やわがままを広め、社会の基本となる型や枠を崩そうというのが、反体制派の隠された意図である。この勢力は、日本文化の基本型をやっきになって崩そうとしている》(182ページ1段目)という、最近ではもはや林氏他俗流右派論壇人のお家芸と化した、《反体制派の隠された意図》みたいなものを過剰に見出そうとする陰謀論になっている。

 私とて「自己決定権」なるものを無批判に礼賛することははばかれるけれども、林氏の立論において深刻なのは、自分の被害妄想や個人的な私怨がそのまま《反体制派の隠された意図》みたいに国家や社会を揺るがす深刻な問題と勝手に結び付けられて、林氏の誇大妄想が展開されてしまうことである。最近の林氏の文章は、ほとんどが「マルクス主義勢力や反体制派が「男女共同参画社会」や「ジェンダー・フリー」を推進することによって女性が男性と同等の権力を持つようになって、権力を持った女性が男性社会を脅かし、我が国の伝統と社会を脅かす」、という内容に収束されるものとなっており、もはや最初から一つの「物語」に沿って林氏の思考全体が動いているように見える。そしてこのような思考形式は右派論壇人や右派政治家にも広まっており、「女性に権力を持たせるな」という言説は、女性のみならず子供やオタクでもまた然りとなっている。

 一体なぜ彼らは、女性や子供やオタクをかようにも敵視するのだろうか。所詮彼らは自分の利害や世間体にしか想像力が働かないのではないか、と私は見ている。彼らの眼には自分と利害を共有してくれる人しか見えていないから、いくら科学的に間違った論理や、更には陰謀論が展開されていてもそのような論理はせいぜい蛸壺の中でしか消費されないから、そこで展開される論理も全て「身内向け」になってしまうのだろう。

 これは蛇足なのだが、「男女共同参画社会」もまた表現規制につながる危険性があるらしい。まあ、「週刊金曜日」の記事など読んでいると、一部の跳ね上がりのフェミニストやそれに追従する人(大谷昭宏氏など)が表現規制を求めるのはよく分かるけれども、まず成年漫画やアダルトゲームにおける性表現がフィクションであることをいい加減認めるべきだろう。人権擁護法案のときもそうだったけれども(この法案は廃案となったが)、「男女共同参画社会」とか「人権擁護」といった概念が曲解されるなり暴走することによって表現規制が生まれてしまうという事態も注視しなければならないだろう。

 参考文献・資料
 桑村哲生[2004]
 桑村哲生『性転換する魚たち』岩波新書、2004年9月
 西川洋三[2003]
 西川洋三『環境ホルモン』日本評論社、2003年7月
 林道義[2002]
 林道義「子どもの自己決定権――暴走する「個人」」=「諸君!」2002年2月号/特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」、文藝春秋

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 日垣隆『それは違う!』文春文庫、2001年12月

 粥川準二「こうして疑似科学になった『環境ホルモン入門』」=別冊宝島編集部(編)『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月

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2005年8月17日 (水)

俗流若者論ケースファイル58・林真理子

 どういうわけか、我が国の所謂「知識人」の間において、「教育」について語る=「今時の若者」を批判する、という変な図式が成り立っているらしい。我が国において教育の問題を社会経済構造および階層化の問題として長い間語っているのはせいぜい苅谷剛彦氏くらいしか見つからないし、社会学や社会システム学などの学説を駆使して抜本的な教育改革論を語っているのもせいぜい宮台真司氏や内藤朝雄氏、自らの実践を元に授業論を語っているのも陰山英男氏や藤原和博氏くらいしかいなく、我が国において信頼できる教育論者というのはせいぜい20人弱(これだけいれば十分、という見方もできるが)、あとはほとんどの自称「知識人」が「今時の若者」を反面教師とした教育改革を断行しなければ我が国の未来は危ない、という論調でまとまっているようだ。むしろこのような動機付けで「教育」という大きなテーマについて語っている人を反面教師としなければ我が国の未来は危ない、と私は言っておこう。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成13年12月号の特集「教育、教育、そして教育」の特集の中にある、作家の林真理子氏の「この国の子どもたちは」という文章なのだが、はっきりいってこの文章は最初から最後まで「私語り」に過ぎない。要するに、自分は素晴らしい親に育てられてきたから自分はこんなに素晴らしく育ってきたが、今の親はみんな無能だから、巷で見かけるような無気力な「今時の若者」を大量に生み出してしまった、そして「今時の若者」が国を滅ぼす、というお決まりの展開であり、はっきり言ってこれだけの内容なのである。従って、まともに評価するに値しない文章といってもいいだろう。蛇足だが、この林氏の論考(と言っていいのかどうかすらわからないのだが)が掲載されている特集のタイトルとなっている「教育、教育、そして教育」というのは、英国のトニー・ブレア首相の就任演説における発言を基にしている。

 さて、本来ならば単なる「私語り」でしかないから検証するに値しない、と取り扱った林氏の文章であるが、ではなぜ私がここで改めて林氏の文章を採り上げるかというと、それは林氏の文章の不毛さがそのまま我が国における教育「論」の不毛さを映し出しているからである。

 林氏は冒頭において、《私はこの原稿を引き受けたことを、かなり後悔している》(林真理子[2001]、以下、断りがないなら同様)と書いている。私としては、その意志を断固として最後まで貫き、できればこの文章自体を書かない、あるいはもっと考えを練った上で書いたほうがいいのではないか、と思う。なぜなら、先ほども述べたとおり、林氏のこの文章が最初から最後まで「私語り」に終始しているからである。例えば183ページの次の文章を見てみよう。

 電車や街中で多くの少年少女や若者を見るたび、私はこの国の子どもたちがどうやらあまりよくない方向に行くことを感じていた。彼らの顔つきから、知的なものや真摯なものがまるで感じられないのだ。……

 ……戦争というものは、指導者が愚かな民衆を操ることによって起こる。戦争を拒否するためには、実に多大なエネルギーが必要だ。本当に強い意志と行動力を持っている人だけが、平和を持続させることが出来るということを、今回のことで実感した。

 そうした視点から見れば、本当にこの国の子どもは大丈夫なのだろうか。ケイタイをぼんやりと押し続けている間に、国民番号制と同じように、徴兵制が法案化されても気づかないような気がする。

 まったくどうしてこの国の子どもは、これほど悪くなったのだろうか。あたり前だ。親が悪いからである。またここで私の筆がにぶる。教育を語ることは、自分の親、自分、そして自分の子どもと三代にわたって肯定することに他ならない。……

 この程度の文章で原稿料がもらえてしまうのだから、青少年問題に関してあれこれ考えてついでに新聞・雑誌の記事も文献も見たくない思想的現実(=俗流若者論)も読んで更にあれこれ考えて金にならない文章を殴り書きしている私はうらやましい限りである。それはさておき、この程度の文章でさえ、「教育」を語っている論考として、すなわち教育「論」として許容されることに、我が国の論壇における「教育」というものの位置づけを見取ることができるだろう。そもそも林氏は、この程度の自分の体験談と単なる強引かつ恣意的なアナロジーによって教育「論」を展開しているのであれば、最初から教育「論」など書くべきではない。この文章は明らかに低レヴェルな「憂国」エッセイであって、最初から「論考」として期待すべき質の文章ではないのである。

 しかし――我が国の論壇においては、このような文章こそが「教育論」として受け入れられる。論壇にとって、「今時の若者」とは財政赤字や北朝鮮などと同様に深刻な問題であり、かつもっとも身近な問題であり、故にファースト・プライオリティーとして「解決せねばならない」問題として捉えられる。従って「今時の若者」に対する「対策」としての最も手っ取り早い政策として「提言」(現実には「提言」ということが憚れるほど下らない次元の議論なのだが)として「教育」が持ち出される。我が国の論壇において、「教育」とはまず「今時の若者」に対する「対策」として語られるのである。だが教育の問題というのは「今時の若者」に対する敵愾心では語れない場所に本来はあり、例えば社会構造の問題などに対する幅広い関心が必要となるのだが、自称「知識人」は俗情に媚びた短絡的な「提言」しかしないので、我が国の論壇において教育とは限りなく上滑りなだけの議論となりがちである。

 我が国において求められている教育論とは、そのような教育「論」ばかりが跋扈する状況に一石を投じるものであるはずだ。しかし我が国において、かような教育「論」はますます力を強め、ついにはプロフェッショナルであるべき人たちですら、最初から「今時の若者」を貶めることを目的とした「調査」までを行ってしまうほどである(これについては「統計学の常識やってTRY」の第2回第3回を参照されたし)。

 林氏の文章の紹介(検証とは言わない)に戻るが、林氏の文章は、ただ自分を肯定して現代の親と若年層と青少年を貶める文言がただ続くだけの文章なので、これ以上いちいち検証する気にはなれない。なので紹介だけにとどめておくと、例えば《こういう私にとって、現代の「友だちのような親子」というのは、本当に薄気味悪い》(185ページ)とか、《これだけ長いこと日教組に子どもたちを任せ、これだけ子どもたちが悪くなっているのに、よく変革が起こらないということだ》(186ページ)とかいった、いかにも思い込みと反射神経だけでしか語っていないことが良く分かる文言ばかりが並んでいる。そして最後に林氏が言うのが《クスリさえしなければ、売春さえしなければ、自殺しなければ、というマイナスの期待からは何も生まれないだろう。世の中のためになる人間になって欲しい。強く正しい人になって欲しい。この素朴な思いを、いったいいつ頃から私たちは口にしなくなったのだろうか》(168ページ)などという誰でも言えるような空疎な文言であるのが痛い。林氏は《マイナスの期待からは何も生まれないだろう》と書いているけれども、実際に子供に対する《マイナスの期待》ばかり親に、そして社会に押し付けているのは一体誰だ?青少年「問題」を針小棒大に採り上げ、「今時の若者」というイメージばかり肥大化させているマスコミや自称「知識人」ではないか。林氏はなぜこのような残酷なる言論体系を撃たないのか。

 しかし、このような実にないよう空疎な林氏の「憂国」エッセイに、一つだけ意味を見出すことにしよう。それは、この文章が、「文藝春秋」平成13年12月号の教育特集の一番最初に据えられていることである。これはすなわち、林氏のこの文章が、この教育特集の柱として据えられている、ということを意味するのではないか。林氏の、この程度の「憂国」エッセイが、一つの大きなオピニオン雑誌の教育特集の巻頭論文として据えられているのだから、我が国における、少なくとも「文藝春秋」における「教育」というものがいかなる位置づけを持っているのか、ということがわかる。林氏の文章の不毛さは、そのまま我が国の教育「論壇」の不毛さとして映るのが、ここで明らかになろう。

 参考文献・資料
 林真理子[2001]
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年6月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年8月13日 (土)

俗流若者論ケースファイル57・清水義範

 奇妙な話がある。ここ最近、少女を狙った犯罪者がロリコンなどの倒錯した性的嗜好を持っていることが判明するたびに、マスコミは「少女が犯罪者に狙われやすくなる時代が来た」などとほざくことである。

 おかしくはないか。

 もしその論理が正しければ、まず我が国において父親という存在が許されてはならない、ということになる。なぜなら我が国において、性犯罪の加害者/被害者の関係の中で、最も多いのは父親などの肉親/家庭内の女性であるからだ。ロリコンまたはペドファイル/見ず知らずの幼女、という関係は肉親/家庭内の女性に比べて格段に少ない。しかも我が国においては児童虐待で殺されている子供が諸外国に比べて多く(それも今に始まったことではないのだから恐ろしい)、特に母親に殺されているケースが多いため、母親という存在も許されてはならない、ということになろう。更に言えば、我が国では毎年自動車による交通死亡事故=自動車を凶器とした殺人が毎年数千件起こっており、その中には幼女が被害者となるのも少なくないから、歩行者通行止めの道路以外に自動車を走らせるな、という論理も組み立てられよう(何せ未成年の最大の死因が「不慮の事故」だ)。

 マスコミは、例えばロリコンやオタクやゲーマーといった「叩きやすい対象」が浮上すると、事件や犯人に対する検証など即刻放棄して、それらに対する敵愾心を煽る。自動車が叩かれないのは、彼らがひとえにその利益を被っているからであり、結局のところ彼らは自分の利益になることしか考えていないのである。だから、自分が理解できないだけで国家崩壊、社会崩壊のシンボルと勝手に位置付けることもやぶさかではないし、そのように煽ってメディア規制を盛り上げると自分にもやがてはその影響が降りかかってくる、ということも知らずに「排除」に与する。

 今回検証するのは、そのような「憂国」エッセイである。著者は教育問題にも詳しい作家の清水義範氏、記事のタイトルは「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」(「現代」平成13年11月号に掲載)である。この論文は、最初になぜ児童買春がいけないか、ということに対する清水氏の答えが出てくるの。というのも、この文章では、この論文が発表される少し前に起こった、教師による少女売春事件に触れられているからである。先の質問に関して、清水氏の答えは至極単純で、法律で禁じられているからである、と。少なくとも法治国家である我が国において、そのように答えることは全く正しい。しかし、清水氏は、ここでやめておけばよいものの、以下のように述べることによって、事態を乱暴に一般化してしまう。217ページにおいて曰く、

 そして教師たちも、そういうあるはずのない愚行に走る者が増えているらしい、99年度一年間に、全国の公立小中学校などの教員で、問題行動によって処分を受けた者が4930人あまりだそうだ。そしてその中に、わいせつ行為で処分されたのが115人で、これは前年度の約1.5倍で過去最多なのだそうである。

 つまり、その職業(筆者注:ここでは教師)についているからには、絶対にしないことがある(筆者注:ここでは「問題行動」によって処分を受けること)、というあたり前の前提が崩れかけているということであろう。

 我々の社会の危機なのだと思う。

 自分の仕事への誇り、というものが失われかけているのだ。私たちのすべてに、そういう誇りの喪失が忍び寄っているのだ、とまで考えてみるべきだと思う。

 まともな社会なら、人間は自分の職業に誇りを持っているのではないか。……それが社会秩序である。

 どうもそれが壊れかけているらしい。自分のしている仕事に、何の誇りも持てず、ただやむなくやっているだけの人間が出てきているのだ。ただ、教員の採用試験に通ったからという理由だけで教師をし、子供をよいほうに導いてやりたい、ということは少しも考えていない教師というのは、そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう。(清水義範[2001]、以下、断りがないなら同様)

 まず、清水氏が親の教師や学校に対する目線の変化について触れないのはどうしてだろうか。我が国において、昭和55年ごろを境に市井の学校に対する視線は変化し、管理教育などが告発されるようになり、子供の教育に対して「学校の責任」が強く問われるようになると同時に、校内暴力などもこの時期から問題化し始める(広田照幸[1999])。更に最近、学校をめぐるさまざまな事件に関する報道が溢れるようになって、市井の学校に対する目線はますます険悪化した。「問題行動」によって処分を受ける教師の増加には、このような背景によるものも少なからず含まれていると思われる。さらに清水氏は、一番最後の段落において、《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと述べることによって、比較的若い教師がそれらの「問題行動」を起こしているのだ、ということを示唆しているようだ。しかし、このような物言いは、教員採用をめぐる現実を全く無視した文言といわざるを得ない。というのも、我が国において教員の年齢は高齢化の一途を辿っており、公立小学校教員の年齢構成としては、平成10年現在では43~46歳が一番多く(18000人弱)、特に大阪府では年齢が40歳の教師から、その数が飛躍的に増加し、およそ47~53歳で最高の水準(1600人弱)となる。他方若い教師はというと、国立の教員養成系の大学や学部の新規卒業者の教員への就職率は平成11年まで一貫して低下の一途を辿っており、昭和55年ごろが80%に迫る勢いだったのに対し平成12年は40%にも満たない(丹羽健夫[2002])。教員養成系のトップクラスである東京学芸大学でさえ、たとい補欠となっても正式採用となる教師は極めて少ないという事態が起こっているようだ(太田啓之[2001])。「デモ・シカ教師」(=「教師にでもなるか」「教師にしかなれない」という理由で教師になった人)と揶揄されたのも今は昔、教師になるのは極めて厳しい状況に現在はある。

 翻って、清水氏は「問題行動」を起こす教師の年齢構成を調べたことがあるのだろうか。これに関しては私も具体的なデータがないのでなんとも言えないけれども、この側面に関する検証を怠って、ただ《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと簡単に述べてもらっては困る。例えば、ストレスゆえ手を出してしまったとか、教師というものに絶望して手を出してしまったとかいうこともあるわけで、その点に関しても検証すべきだろう。もちろん、「問題行動」を起こした教師にはそれ相応の罰が必要だけれども、ここで述べたファクターを無視して安易に「憂国」する、という態度は望ましくない。この点について清水氏が隠蔽するのは、清水氏と同世代の人が「問題行動」を起こしていることを隠蔽したいからではないか…という邪推はやめておこう。

 更に清水氏は、218ページから最後の220ページにおいて「性の虚弱化」について述べるけれども、特に219ページにおいて述べられている清水氏の文言は、はっきり言って今大谷昭宏氏などが喧伝しているイメージと完全に重なる。

 ところが、その方向で女性が元気になってきたせいで、一部の男性が、女性とうまく性関係を築けなくなっているのだ。人間として当然性欲はあるが、ちゃんと女性とそのつきあいとするのが、こわくて、面倒で、どうもうまくいかない、というような傾向が出てくるのである。その面を捕らえて、私は、性が虚弱化しているなあ、と思う。

 そういうわけで、昨今の世の中はフェティシズムだらけである。女性そのものにかかわるのがおっくうなので、その周辺の物質で性欲をかなえようとするわけだ。女性に触れるのはいやで、その下着や靴に欲情したり、ということになる。

 アニメのキャラクターに惚れ込んで、フィギュアと証するお人形を何体も集めることが性の活動だ、というような青年も出てくる。

 いや、私はそのことを非難はしない。性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから。

 ただ、私が言いたいのは、ちゃんと女性に性欲が向けられず、虚弱な性を別のものに向けていく蛍光からは、児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケースが(もちろん、まれにだが)出てきて、それがこわいな、ということである。……

 児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする。今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから。

 ここまでの問題発言を、自らの言説の政治性も考慮せずに語れる清水氏というのはどうかと思う。まず、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲を何の根拠もなしに「性の虚弱化」だとか《児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケース》などと短絡してしまうのは、我が国における性犯罪の現実を調べていないからこそいえるのだろう。そもそも清水氏は《性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから》と述べているけれども、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲はここから除外されているのは言うまでもないだろう。

 さらに、清水氏は最後の段落において《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律》に関して述べているけれども、例えば社会学者の宮台真司氏のように、その危険性や、特に児童ポルノ禁止法に関して「表現の自由」への抵触という観点、更には児童ポルノの視聴が性犯罪と関連しているというデータがない、という観点から批判も多かった。もちろん児童ポルノ禁止法を批判する人たちは、ただ自分たちに児童ポルノを見させろ、という歪んだ動機から反対しているのではなく、根拠もなしに権力がトートロジーによって一方的に規制することがおかしいから反対しているのであって、これは昨今盛り上がっているゲーム規制論に対する批判論も同様である。

 清水氏は、《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする》と述べているけれども、むしろ一つのメディアに対する規制が更に他のメディアや表現に対する規制につながってしまうことの恐ろしさを多くの人々が気がついていないことのほうがもっと怖い。もちろん、児童ポルノや児童買春に関しては、ひどいものは刑法で処罰すればいい話で、特別法を作ったからこそ責任の所在が曖昧になったり、あるいは罪が軽くなったりするという側面も現れている。

 そして清水氏は《今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから》と述べる。このようなレトリックがおかしな話であることは、冒頭で述べたとおりだ。もう一度言う、それなら清水氏は父親と母親を撲滅せよ、子供を産んだら直ちに政府に預けよ、となぜ言えないのだろうか。我が国において性犯罪の温床となっているのは肉親だし、我が国の母親は歴史的に児童虐待を起こすものが諸外国に比して極めて多い。清水氏はこの点にも着目して言わなければならないだろう。清水氏が児童ポルノやアニメやフィギュアを叩くのは、所詮それらが「叩きやすい対象」だから、という理由に過ぎないのではないか。

 「叩きやすい対象」さえ叩けば犯罪は撲滅できる、というのは過激な共産主義者の考えである。現在盛り上がっているオタクメディア規制論は、所詮自分がそれを嫌いだから、という理由以上のものはない。表現の自由に対する抵触とか、我が国において性犯罪の発生率が低いこととか、更に我が国において性犯罪や強制わいせつ罪の被害者の中でも未成年者が被害者となる数は減っているということとか、それらに対する言及は一切ない。

 いつぞやかの選挙の中で、田中眞紀子氏が「主婦感覚の政治」などと語っていた記憶がある。しかし私は、我が国において軽々しく語られる「主婦感覚」「市民感覚」という言葉を疑っている。我が国において、政治哲学的な意味においての市民(シチズン)、すなわち一人の責任ある市民として、あるいは政治への責任ある参画者としての市民という態度を貫ける人が、果たしてどれほどいようか。同調圧力が強く、その場その場の「空気」において流される我が国において、大衆は自分が「理解できない」少年犯罪・若年犯罪の「犯人」を血眼になって追い求め、青少年を貶める小気味良い言説が登場したらすぐにそれに飛びつき、そのような行為に対する責任をとる人など誰もいない。所詮そのような人にとって、大切なのは自分の「生活」だけ、守るべきものは自分の価値観と利益だけである。

 そしてそのような悪しき傾向を、短絡的な情報ばかり流して大衆をそれに溺れさせ、そして自分もまたそれに溺れるマスコミや、自分の言説に責任を持たずにただ不安を煽る言説ばかり垂れ流す俗流言論人が最も強めているのである。まあ、彼らにとって「責任」という言葉は鴻毛よりも軽いから、このような物言いも通用しないだろう。

 参考文献・資料
 太田啓之[2001]
 太田啓之「教師になれない卵たち」=「AERA」2001年2月5日号、朝日新聞社
 清水義範[2001]
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 丹羽健夫[2002]
 丹羽健夫「教員養成系大学再編私案」=「論座」2002年5月号、朝日新聞社
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
 ジャン・ジャック・ルソー、桑原武夫:訳、前川貞次郎:訳『社会契約論』岩波文庫、1954年12月
 ジョン・ロック、鵜飼信成:訳『市民政府論』岩波文庫、1968年11月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「厚生労働省統計表データベースシステム」から「第2章 人口動態
 「少年犯罪データベース」から「幼女レイプ被害者統計
 「メディアリテラシーの視点で見た子供を性犯罪から守る方法

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 「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ

 ※8月13~16日は盆休みに入るので、一時更新を中断させていただきます。

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2005年8月12日 (金)

俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹

 さて、川崎医科大学教授・片岡直樹氏の登場である。片岡氏に関しては、この連載の37回目で検証したが、片岡氏単独の論文の検証は始めてである。検証する論文は、「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」(「新潮45」平成13年11月号)である。片岡氏が、テレビの視聴により所謂「新しいタイプの言葉遅れ」が生じる、という説を発表しているのは、丁度この時期からだと推測される。この記事が発表される数ヶ月前に、片岡氏は『テレビ・ビデオが子どもの心を破壊している!』なる著書を発表しているので、この推測はおそらく正しいだろう。

 しかしこの文章において、片岡氏の自閉症というものに対する認識はこの時期から現在まで変わっていない、という気がするのである。また、片岡氏の、現代の子育てや若年層に対する認識に関しても同様である。例えば片岡氏は、133ページにおいて、《先に示した症状(筆者注:所謂「新しいタイプの言葉遅れ」)がある子どもの普段の生活などを細かく聞きますと、共通点があるのです。生まれながらにしてテレビが付いている環境で育っている、または生まれた時にはテレビがなくても生後半年や一年ぐらいからテレビ漬けになっており、母親など生身の人間との情緒的なかかわりが非常に乏しい》(片岡直樹[2001]、以下、断りがないなら同様)と書いている。ならば片岡氏は、テレビ以外のファクターをコントロールした(影響を排除した)のだろうか。もちろん、排除することは無視することとは違う。「排除」とはさまざまな影響を考慮した上で取り除くのに対し、「無視」は最初からないものとして扱うことを言う。

 そのほか、このような問題発言もある。135ページから136ページにかけて。

 言葉が遅れて出てきた子は、大人とは会話が出来ます。それは大人が子どものことを配慮しながら、応答してあげるからです。ところが同世代の子どもとは無理。周りに上手に反応することが出来ないので、一緒に遊べない。ここで強い子だと、友だちがワーッと寄って来たときに、逆にボンと叩いたり、突き飛ばしたりする。弱い子だと、逃げて独りぼっちになる。こうした状態は、ADHDと言われているものと酷似しています。

 そのまま大きくなると、学童期に入って、LD(学習障害。知的な遅れはないが、聞く、話す、読む、読む、書く、計算するなどの特定の能力の習得や使用に著しい困難を示す)と言われるものにつながる可能性もあります。
 今年になって、私が診た中学1年の男の子C君が、そのような症例に当たるでしょう。

 この子は、毎日、家でテレビゲームばかりしているので、親がゲームを取り上げたところ、学校で先生に「死にたい」などと言い出し、先生が驚いて親に連絡しました。それで、親が近くの病院に相談しに行き、そこから、私のところへ紹介があったのです。

 まずこれのどこに問題があるかというと、まず片岡氏のADHD(注意欠陥/多動性障害)に関する認識である。片岡氏は、どうもADHDという言葉だけを乱発して、その不安を煽ろうとしているのではないか。実際問題、ADHDに深く関わってきた医者からは、このような傾向に対して不安の声も少なくないようだ。ADHDに深く関わってきたライターの品川裕香氏は、現状を《児童がADHD的な行動を取るからといって、必ずしもADHDとは限らないのに、DSM-Ⅳ(筆者注:アメリカ精神医学会が定めた、「精神疾患の分類と診断の手引き」の第4版)の診断基準などに照らすだけで「チェック項目がいくつですから、あなたのお子さんはADHDの○○型です」などと「コンビニ診断」している医療現場がある》(品川裕香[2002])と批判する。片岡氏の行動は、DSMこそ出てこないものの、まさしくこれに当てはまる。

 しかも、この引用部分の後半2段落に関しては、かつて「潮」平成17年4月号に掲載された曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の文章(この連載の第7回にあたる)における、《「この子は覚えることや考えることが苦手なんです。どうしたらいいでしょうか」と、小学生の子どもをつれて相談にきたお母さん》(森昭雄[2005])と同様の危なさを覚える。この《中学1年の男の子C君》の親もまた、自分の子供が問題のあると思われる行動(ここでは《先生に「死にたい」などと》言い出すこと)を病気だと短絡させ、病院に相談にいく、という態度をとっているのである。もしこの親が『ゲーム脳の恐怖』を読んでいたら(とはいえ、この論文が掲載されたのは『ゲーム脳の恐怖』が出版される遥かに前だが)、間違いなく森氏のもとに駆けつけるだろう、という邪推はここで終わりにしておくが、少なくとも我が国の子育て言説の一部において「親の思うとおりに育たなければ子供は病気である」という思考が蔓延しつつある、ということに関して我々はもっと危機感を持ったほうがいい。

 また、片岡氏は136ページにおいて《現在も精神安定の薬をもらいに通院している30歳になるDさん》の事例も紹介しているけれども、片岡氏は《彼も白黒テレビのコマーシャルが大好き。3歳になっても多動であり意味のある言葉が話せないので、ここへ診察を受けに来たわけです》という理由だけをもって《テレビがなければ、普通の子だったのではないかと思っています》などと短絡している。

 また、片岡氏は、138ページにおいて曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏の「PQ」概念という問題の大きい珍概念(これについてはこの連載の第48回を参照されたし)を好意的に紹介しているほか、信憑性の極めて低い《オオカミ少女》の話も真に受けている(この連載の第37回を参照されたし)。当然の如く、他の曲学阿世の徒の論法がそうであるとおり、片岡氏もまた、他の曲学阿世の徒の論理を自分の曲学阿世の都合のいいように歪曲して用いる。その証左として、片岡氏は、《テレビや早期教育はPQの発達を阻害するものです。先に症例で示したように、言葉が出ないだけではなく、周りとコミュニケーションが取れなくなり、ADHDになってしまうのも、PQが育たないためだと思われます》(138ページ)と述べている。疑似科学市場とは所詮曲学阿世の縮小再生産なのである。

 片岡氏は最後の139ページにおいて、特に高学歴の親に警鐘を鳴らしている。曰く、《高学歴で神経質な方だと、お母さん自身がノイローゼになるし、子どもも良くならない》《高学歴なお母さんは他の子どもがどんどん賢くなるのを見ていられなくて、無理やり言葉を教え込もうとする》と。しかし、テレビの視聴が子供を自閉症にする、という自閉症に関する誤解をまき散らし、この手の言説に至極敏感な高学歴の親たちを脅しているのは一体誰なのか?親の「自閉症かもしれない」「ADHDかもしれない」という不安をそのまま「自閉症である」「ADHDである」と短絡的に昇華しているのは一体誰なのか?

 自らの言動に無責任で無頓着なのもまた、曲学阿世の徒の一つの特徴である。

 参考文献・資料
 片岡直樹[2001]
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 品川裕香[2002]
 品川裕香「「ADHD」にとまどう教育現場」=「論座」2002年11月号、朝日新聞社
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2005年4月号、潮出版社

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2001年1月

 品川裕香「大人のADHDにも理解と支援を」=「論座」2002年12月号、朝日新聞社
 村田和木「「片づけられない女」と片づけないで」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社

 参考ウェブサイト
 「こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね」から「「テレビ・ビデオの長時間視聴が幼児の言語発達に及ぼす影響」
 日本自閉症協会東京都支部ウェブサイトから「繰り返される「テレビ視聴=自閉症」の発言

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2005年8月11日 (木)

俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大

 高校時代、NHKで現在もやっている「真剣10代しゃべり場」という番組は、私の周りでは極めて評判が悪かった。私は2年生の頃から若者論の研究を始めていたのだが、そのことを知っていた私のクラスメイトはこの番組を私に見るように勧めた。といっても、批判的材料としてで、「あれを見てみろ。絶対お前は怒るから」などといった具合で勧められていたのである。しかし私はこの番組をずっと見ていない。

 実を言うと今回検証するのは、この「真剣10代しゃべり場」なる番組で保守の立場から論陣を張って話題になった(らしい)人、予備校生(当時)の遠藤維大氏による文章「自傷行為「リスカ」と日教組」(「正論」平成13年9月号)である。遠藤氏は1982年生まれで、私は1984年生まれであるから、私よりも2歳ほどしか年齢が違わず、またこの連載で採り上げる人としては最も若い(次に若いのは、おそらく「AERA」編集部の福井洋平氏(第39回で採り上げた)と推測される。福井洋平[2005]における《本誌記者(27歳独身)》という記述が福井氏のものであれば、福井氏は1978年または1977年生まれということになる)。この文章を一読して、保守とはここまで軽いものなのか、と頭が痛くなった。なんというか、俗流保守論壇人が若年層に抱いている妄想をただ列挙した感じなのである。

 当然如く、この文章のタイトルとなっている「リスカ」というのはリストカット(手首切断)のことなのだが、遠藤氏はこの行為のほか、《集団暴走行為への非行化や、定職につかないフリーター、または不登校・引きこもり等の現代の若者だけに見られるさまざまな悪しき現象》(遠藤維大[2001]、以下、断りがないなら同様、276ページ)の原因を、《「所属意識」の実感の仕方》(277ページ)に求める。ちなみに暴走族だのフリーターだの不登校だのひきこもりだのが《現代の若者だけに見られるさまざまな悪しき現象》などというのは完璧に事実誤認であると指摘しておく。少なくとも暴走族はずいぶん前からあり、犯罪白書によればその人数は減少している。不登校にしろひきこもりにしろ、笠原嘉氏(名古屋大学名誉教授)や斎藤環氏(精神科医)などの長年の研究の蓄積がある。フリーターもまた経済社会構造の問題として捉えたほうが本質がつかめる。

 それはさておき、遠藤氏は277ページから278ページにかけて2つの事例を挙げる。一つは《高校生のときは頻繁にリスカをしていたが、最近就職をして社会人になったとたんにリスカをする必要性が全く無くなった》というケースであり、遠藤氏はここから飛躍して、以下のように述べる。曰く、

 これは全てに置き換えることができる。生まれてこの方、公的空間において国歌も国旗も実感する機会が全く無かった子供たちは、「自分が日本人である」という意識を持ち合わせていないのだ。……それでいて、しっかりと国民としての権利は受け取っているのでなんともいえない。今の子供は自分が病気になった時に国民健康保険で補助をしてくれるのは日本国だという事を知らない。自分の持つ生命や人権を保障してくれているのは、酷いのになると「子供の権利条約」だと勘違いし、国民の生命財産を守ってくれている日本国を「当たり前」とまで錯覚している。……

 しかし、問題の本質はそういった甘えている子供達ではなく、その子供の甘えを助長している大人達にあるのではないか。よく、制服を撤廃して私服登校に切り替えている高校に見られる現象だが、高校としての制服は無い癖して、部活動では統一されたユニフォームを部員が購入し「全体としての団結心」を孝養させた上でスポーツに励むといった現象が見られる。自分はこれに露骨な矛盾を感じられずにはいられない。単純な話、「全て個人として」という前提の上に高校の制服を無くしているのにも拘わらず、部活動だけに制服を導入すると言うことは、高校という組織はどうでも良いが、自分の好きな事だけはみんなで団結してやっていきたいので、そのためには制服を導入して意識の団結と高揚を図りたいんだという子供たちのとてつもない「甘え」の現われなのだ。……

 少々引用が長くなってしまったことをお詫びしたいが、なんともデ・ジャ・ヴュに満ちた文章ではないか。しかも高校の部活動の話に関しては、全くアナロジーとして不適切極まりない。私の母校(宮城県仙台第二高校)は、私が入学した頃には既に制服は廃止されていたが、その立場から見てもこのアナロジーにはやはり強い疑問を感じざるを得ない。我が国において、左翼思考に染まった大人を批判するために「今時の若者」を批判するというスタイルを演じることが保守である、というのであれば、何と我が国において保守という立場の脆弱なことか。少なくともこのような安易なアナロジーに賛成してしまう人の思考力を疑わざるを得ない。

 遠藤氏は278ページにおいて、もう一つの事例、《高校入学と同時にテニス部に参加》し、《先輩たちの勝ち取った勝利の栄典の数々と、先輩達の優れた技術による試合》に感銘してからリストカットをしなくなった、という例も挙げ、先ほどのアナロジーに更に正当性を加えるのだが、遠藤氏に問いかけたい、果たしてその高校に制服はあったのか?もし制服がなかったとすれば、先に引用したアナロジーの後半部分はすぐに潰えてしまうことになるのだが。当然の如く、他の俗流保守論壇人と同様に、遠藤氏も「本質」という言葉が好きだ。279ページ、《こうも現代の若者達の精神基盤が虚弱となっているのは、本質の理由が必ずある。それは、現代の少年少女達は「自分」以外の全ての心の基盤となるものを剥ぎ取られ、「一人で生きる事」を強制されているからであると自分は考える》、と遠藤氏は述べる。《こうも現代の若者達の精神基盤が虚弱となっているのは》などと遠藤氏は言っているけれども、あなたはそこには含まれないわけか。なんとも無責任な。

 そして当然の如く、《今の子供達の心の空白感と今の公教育は非常に強い関連性を持っている。歪曲した歴史教育を思考能力が未熟である児童へ押し付けて子供達の憧れをかき消し、一切の所属意識を否定した「個性の」「個人として」といったような教育を、彼ら組合構成員は半年にわたって布教してきた》と述べる。当然《組合構成員》とは日教組の構成員だ。今日教組の影響が強い学校がどれほどあるのだろうか。更に280ページでもまた、《そんな子供達にもしも「日本」という集団に所属している意識があったのならばどうだろうか。日本の為に生きよう、日本の為にがんばろうという目的意識によって向上できるかもしれないのではないだろうか。実際、この私がそうなのだ》と述べる。

 ここで遠藤氏の国家意識に関して検証してみるのだが、遠藤氏の国家意識というものは、あまりにも牧歌的過ぎまいか。遠藤氏は国家に所属している、という意識を涵養することによって青少年問題の全てが解決する、と言っているけれども、現代はそのような「国家意識」の涵養だけによって解決できる問題などない。例えば「ひきこもり」に関して言うと、斎藤環氏他多くの報告により、「ひきこもり」の人の多くは家族に対して自分は迷惑をかけている、という意識を強く持っていることから「ひきこもり」が更に深刻化する傾向がある、ということが明らかになっている。もしここに「国家」という「家族」よりも更に大きなものを設定したら、それに対する責任感も強くなるわけで、遠藤氏が夢想する《日本の為に生きよう、日本の為にがんばろうという目的意識によって向上できる》どころか、むしろ更に「ひきこもり」の人たちを追いつめるのではないか、と私には思えてならない。

 しかし、遠藤氏にとって、国家というものは何と軽いことか。このように言うと遠藤氏は怒るかもしれないが、しかし遠藤氏のこの文章において国家というものは所詮は遠藤氏の不快に思う現象を簡単に解決してくれるものとしてしか取り扱われていないのである。そして遠藤氏における国家の「軽さ」は、そのまま俗流保守論壇における国家の「軽さ」に当てはまる。遠藤氏他、俗流保守論壇人は「自分の信奉している「国家」に「今時の若者」も所属させれば、青少年問題など簡単に解決できる!」などと簡単に述べる。しかし、果たして現在の状況がそれだけで解決できるものであろうか?世の中には若年層をバッシングする言説ばかり溢れ、フリーターも若年無行も「ひきこもり」も全て「心」の問題として「自己責任」の美名の下で処理される。自分だけは善良だと思い込んでいる多くの人たちが既得権にしがみつき、その既得権の傘の下で若年層ばかりバッシングする。若年層バッシングは自分を傷つけず自分の鬱憤を晴らす最高の方法である。しかしそれゆえに危険度はきわめて高い。彼らがしがみついている既得権にしがみつくためには、現実を無視しても彼らに媚びるしかない。俗流若者論は甘い甘い奈落への歌声である。

 しかし遠藤氏の文章を読んで私がもっとも実感したのは、俗流保守論壇は縮小再生産だけで成り立つ、クリエイティビティのない場所である、ということだ。

 参考文献・資料
 遠藤維大[2001]
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 福井洋平[2005]
 福井洋平「メイド掃除でモテ部屋に」=「AERA」2005年5月30日号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一

 平成13年、この時期は、少年犯罪のほか、電車内における若年層による暴力事件が話題になった時期でもある。著名人では評論家の坪内祐三氏も被害にあったようだ。今回検証する、「文藝春秋」平成13年7月号に掲載された「電車で殴り殺されないために」という鼎談で出席している鬼澤慶一氏(芸能レポーター)も同様の被害にあったらしい。私は、それらの事件の被害者には、強い同情を禁じえない。

 だが、それらの被害者が、公のメディアでそれらの事件を元に若年層に対する敵愾心を煽っていたら、やはり批判せざるを得ないだろう。この鼎談は、鬼澤氏のほか、青少年による暴行事件の被害者となった花村萬月氏(作家)と大和田伸也氏(俳優)も出席している。まず、この対談は、全体としては単なる「世間話」なので、取り立てて検証すべき箇所は少ない。

 まず、鬼澤氏の発言から。131ページから132ページにかけて。

 鬼澤 ……実際に暴走族の若者とあって話をしてる中で「君だったらどうしてた?」という質問をした。すると「そんなのかったるいや」って、こう言うんですよ。

 「なんでかったるいんだ?」と聞きましたらね、つまり、「駅を降りて、尾行して、途中に建築現場が二つあったからそこから鉄棒拾って、人気のないところで殴る。そんなかったるいことするかい」って言う。「じゃ、どうするんだ?」と聞いたら、「駅を降りたら刺すよ」と、そのひと言でしたね。いまの若い人たちは人の命を何だと思ってるのか。(花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一[2001]、以下、断りがないなら同様)

 とりあえず最後の一つ前の文章までは鬼澤氏の体験した事実なので批判すべきところはないが、ここで鬼澤氏に問いただしたいのは、なぜたった一つのことだけで《いまの若い人たちは人の命を何だと思ってるのか》などと飛躍してしまうのだろうか。少なくとも鬼澤氏が話していた暴走族(このような言い方もどうかと思うが。最近は「珍走団」なる言い方が定着しているようだけれども、私はこれには賛成する。とはいえ、ここでは便宜のため「暴走族」と表記することにする)が、現代の若年層の心理を代表していないことぐらいすぐにわかろう。ちなみに同様のことに関しては、これの数ヶ月前に朝日新聞に掲載された鬼澤氏とタレントの遙洋子氏との対談でも述べられていた(あいにくその記事は紛失した)。

 次は、大和田氏と花村氏のやり取り。133ページ。

 大和田 それにしても花村さんの話で怖いのは、携帯電話という新しい武器が登場してきたことですね。

 花村 子供たちの世界には、俺達の世代では思いもつかないような新しいネットワークができてるんですよね。あいつら、一人じゃないんですよ。形態があることによって全部繋がってるんです。

 大和田 確かに、いま会ってきた友達とでも、すぐに携帯で話してるものね。
 花村 俺、ほんとに怖かったんですよ。俺が彼らにケリ入れたのも、二人なら喧嘩しても何とかなるという発想があった。けど、一人は逃げて携帯でみんなに連絡してるんですよ。

 大和田 ああ、そうか。

 花村 いまの子供たちが居丈高なのは、背後にそういうネットワークがあるからということを、すごく実感しました。あ、こいつら単純にツッパッてるんじゃねえやと。俺らは一人だけど、あいつらはいざとなりゃ仲間呼べるんですよ。

 これも一つの事件の過剰な一般化であろう。花村氏も大和田氏もこのような場所で発言するのであれば、まず具体的な事例を調べてから行なうべきである。この程度の「世間話」であれば、とりあえず自分の経験が元になっているのでリアリティはあるが、だからといって公の言論として載せるほどの価値があるのだろうか。そもそも花村氏も大和田氏も、青少年を過度に敵視しているのが気になる。その点鬼澤氏は青少年に対する敵愾心というものが比較的低いように思えた。ついでに言うと《いまの子供たちが居丈高なのは》と言っているけれども、本当にそうなのか検証してみるべきである。

 しかし、この鼎談の最後における花村氏と大和田氏と鬼澤氏のやり取りは、完全に事実を無視した問題発言であった。137ページ、この鼎談の結びである。

 鬼澤 いまの若い人たちに、ある一定の時期、共同生活できるような場があるといいのかなあって感じはします。

 花村 俺も前から、軍隊が必要なんじゃないかと思ってます。戦争するためではなくて。

 鬼澤 そうそうそう。

 花村 若者のエネルギーを吸収するためにもね。軍隊という言い方が悪ければ、何らかのシステムが必要じゃないかと思う。

 鬼澤 共同生活をすると、そこに憎しみや軽蔑が生まれますが、逆にほんとに好きな同士でも会話も弾む。清濁、いろんなものが存在するわけですよ。その中を経験しながら抜け出してくると、ちょっと違うかなってかんじがします。いまの人たちはちやほやされてばかりで、そういう強制的な枠組みがありませんからね。

 大和田 ただ彼らが、そういうところに参加するかしら。

 花村 強制ですよ。

 大和田 強制?そんなバカな。

 花村 当然です。徴兵ですよ。

 大和田 で、その強制に従わなかったらどうなるんだろう。

 花村 刑務所にでも入ってもらえばいいんです。とにかく、俺たちがたとえば電車に乗ってムッとしたときに、若造に何か言えるのは、日本という国家では銃の所持が禁止されているからです。これがアメリカだったらどうか。これからは自分のみを守るためには、相手が銃を持っていると仮定しちゃったほうが早いんじゃないか。いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから。

 ここまで断言できるのも、やはり若年層に対する敵愾心なのか、それとも自分たちが社旗正義であると錯覚しているからか。いずれにせよ、なんとも安直、というほかないだろう。

 まず、この3氏は徴兵制を敷けば青少年の犯罪は減少する、と安易に考えているようだが、実際にはそうでもないようだ。韓国の例を引くと、韓国においては徴兵制がしかれているのは常識であるが、そのような軍事文化の影響により軍隊経験者の暴行事件が増えるなど、暴力的な指向を示す傾向があるようだ(尹載善[2004])。また、徴兵制は「ひきこもり」を解決する力は持ち合わせていないようであるし、同様に韓国では上流階級の親は子供を外国に住まわせることによって子供がその結果徴兵を逃れる、という事態も起こっている(斎藤環[2003])。現在の若年層が理解できないからといって、安易に徴兵制の導入を叫ばないで頂きたい。徴兵制によるリスクを検証せずに、また明確な信念もなしに、ただ若年層に対する敵愾心を煽る言説により、国家的な一大事である徴兵制が導入されたら、それこそ我が国は俗流若者論によって動かされる国となってしまう…と書いて、私はこの連載の第30回で検証した、自民党の憲法調査会における森岡正宏氏の発言を思い出してしまった。

 あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。……私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務付けられるような国にしていかなければいけないのではないかと。(朝日新聞社[2005])

 少なくとも森岡氏の徴兵制、あるいはそれに近いものの導入論が、先に引いた花村氏や鬼澤氏の発言とほとんど同レヴェルであることは指摘するにたやすいであろう。更に、戦後の憲法が米国に押し付けられたもので、その欺瞞の上で戦後の我が国が存在してきたのだから青少年問題が深刻化するのも当然だ、という論調まである(伊藤貫[2003])。徴兵制にしろ戦後憲法体制の悪影響論にしろ、いまや「強い国家」が「今時の若者」の問題を「解決」する、という言説が一部で吹き上がっているのである。

 また、花村氏は《いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから》などと簡単に述べている。ならば、《世代間の内戦状態》を演出しているのは果たして誰か。花村氏や鬼澤氏は青少年だ、と答えるかもしれないが、私はむしろ青少年を過剰に敵視するマスコミや言論の動きも無視できないのではないかと思う。また、青少年をビジネスチャンスとしか認識せず、徒に消費を煽る言説ばかり煽ってきた人たちも同罪であろう。少なくともこの鼎談は、読んでみる限りでは単なる「世間話」の領域を超えておらず、散々若年層を敵視して終わり、という構成になっている。このレヴェルの話は、同業者の中の話し合いであれば大いにやってもいいが、だからといって一つの大きなメディアで若年層に対する過剰な危機感を煽る目的で行なわれていいのだろうか。

 ちなみに平成12年6月21日付の読売新聞では、駅構内における暴力事件に関して、平成11年度においては162件発生したが、その中で20代はもっとも少なくて25人、逆にもっとも多いのは50代で39人であった、という報告がなされている。ちなみに30代は29人、40代は33人であった。同様の内容の記事を、平成15年の朝日新聞で見た記憶があるが、記事を紛失している。それ以外にも、凶悪犯罪に関しては、青少年と「ひきこもり」の人とオタクによるものばかり報じられているが、実際に我が国においてもっとも殺人事件を起こしているのはむしろ50歳代である。青少年を徒に敵視する報道ばかりが溢れる背景には、もしかしたら自分の世代を免責したい、という中高年の感情が表れているのかもしれない。いささか穿ちすぎたか。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2005]
 「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 伊藤貫[2003]
 伊藤貫「「NO」とは言わないアメリカ」=「諸君!」2003年8月号、文藝春秋
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一[2001]
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月、文藝春秋
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』朝日新聞社、2002年3月

 歌代幸子「キレるサラリーマン、急増中」=「THE21」2000年11月号、PHP研究所
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

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2005年8月10日 (水)

俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯

 今回検証する、佐々木知子氏(参議院議員・自民党、元検事)、町沢静夫氏(精神科医)、杢尾堯氏(元警視庁捜査一課課長)の対談「検挙率はなぜ急落したのか」は、「中央公論」平成13年7月号の特集「「安全な国・日本」の崩壊」という特集の一つの記事として収録されている。要するに、今喧伝されている「治安の崩壊」という問題は、この時期から起こっていたことになる。犯罪白書や警察白書においては、平成12年ごろから「体感治安」の悪化、要するに実際の検挙件数や検挙率とはまた違ったところにおける、人々の「体感」としての治安の悪化が取り沙汰されていたようだ(酒井隆史[2005])。

 ただ、この対談において気になるのは、検挙率の低落や治安の悪化が、一貫して青少年が原因とされていることである。現実には青少年だけのせいにできないほど治安の悪化というものは複雑であり、例えば外国人犯罪や、更には青少年以外の世代にも触れなければならないのである。更には、我が国におけるスペクタクル的状況が、実際はマスコミが少年犯罪に関して過剰なまでに取材して、さも少年による犯罪だけが急増しているかのごとき錯覚に世間が陥っている疑いがある、という面からも検証されなければならないだろう。青少年ばかり治安悪化の「原因」としてつるし上げるのは、はっきり言ってポピュリズムにしかなりえない。少なくとも戦後の我が国の社会が若年層の「封じ込め」に成功して来た社会である、ということに関する認識は持つべきだろう。

 さて、ここから検証に入る。まず町沢氏の発言から。ついでに言うと町沢氏は平成12年5月に起こった佐賀県のバスジャック事件の際、朝日新聞社の「論座」平成12年7月号において、この事件の原因を、自らこの犯罪者の母親にアドヴァイスした経験から母子関係の歪みに求めているが(町沢静夫[2000])、そのような論証立ては後に「論座」同年10月号で臨床心理士の矢幡洋氏に論破される運びとなる(矢幡洋[2000])。話を戻して、この鼎談における町沢氏の最初の発言を見てみよう。100ページから101ページにかけて。

 町沢 従来の少年犯罪というのは「非行少年型」でした。……彼らは友達を作って徒党を組む傾向がある。また計画性がなく、ちょっとしたいたずらを契機に、そのときの集団真理で、殺すことが兵器になっていくという段階を踏みます。これは家庭崩壊を背景としていることが多いんです。

 ところが、1990年を過ぎた頃から、「単独犯行型」とでも言うべき新しい犯罪が増え始めた。このタイプの犯罪者は、過保護な環境で暮らしてきて、対人関係がうまく取り結べない。非常に内向的なんですね。……

 このように、従来の、徒党を組んで犯罪を起こす非行少年型ではなく、非行歴もない少年が被害妄想的になって、計画的にバッサリ犯行に及んでしまうというのは、従来の精神医学から分断された特殊な傾向をもっています。日本独特といってもいいでしょう。(佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯[2001]、以下、断りがないなら同様)

 残念ながら、町沢氏のこの発言は事実誤認を含んでいる。なぜなら、我が国の少年による殺人・強盗殺人・強盗致死事件において、被害者の数に対する加害者の数は増加傾向にあるからだ。東京大学助教授の広田照幸氏の分析では、少年による凶悪犯罪のピークであった昭和40年ごろは被害者の数に対して加害者の数がおよそ1.3倍程度だったのに対し、近年(平成元年以降)はおよそ2~2.5倍くらいで推移している(広田照幸[2003])。つまり、過去のほうが単独による殺人・致死事件が多かったのである。加えてこの時期に取り沙汰されていた所謂「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪は、集団によるものが多かった。すなわち、加害者数から見れば、この時期の少年犯罪の傾向としてはむしろ町沢氏の主張とは逆の事態が生じていることになる。また、町沢氏の現状認識を認めるとしても、なぜ《従来の精神医学から分断された特殊な傾向》さらには《日本独特》といえるのか説明が必要であろう。ちなみにこのあと(102ページ)において展開される佐々木氏の発言はおおむね正鵠を付いているのだが、やはり《一般にはりかいしがたい凶悪な少年犯罪が増えてきました》と安易に言っていることに関しては警鐘を鳴らしておく。また、103ページにおける杢尾氏の発言は、自らの警視庁時代の実体験を元にした発言であるが、ここにも目立った間違いは見られない。
 104ページにおいて、佐々木氏が問題のある発言をしている。

 佐々木 いま日本は非常に画一化していると思います。地方も都市も。ようするに情報は全部同等に流れていきますし、地方の片田舎でもみんな携帯は持っています。ネットでチャッティングというのはどこでもやっています。だから私は、地方も都市も関係なく、画一的に犯罪は増えていると認識しています。

 まず、佐々木氏は《日本は非常に画一化していると思います》と書いているけれども、では佐々木氏はその責任を何に求めているのだろうか。戦後になって、我が国の社会は公共事業をあまねく全国に広めるような公共投資の乱発が起こった。これによって我が国全体の経済水準が上がったことは間違いないが、しかしそれに伴う問題点もまた生み出してきた。そのような田中角栄的な状況に対する精算を自民党は怠ってきた。佐々木氏も自民党であればまずその点を反省すべきであろう。また、そのような状況が起こると同時に、特にバブル期においては消費社会的なものを礼賛する如き言説もまた溢れた。今となってはそのような言説を乱発してきた人がそれに対する反省もなしに都市の画一化を嘆き、それが青少年の心の荒廃をもたらしている、と訳知り顔で語っているという倒錯が起こっているらしいが、そのような状況に関する検証がまず必要になろう。また、佐々木氏は《画一的に犯罪は増えていると認識しています》と言ってのけるが、その程度の《認識》ではなくまず数値的なデータをそろえるべきだろう。

 更に町沢氏の問題発言、105ページ。

 町沢 いまの青少年を見ていますと、「殺す」という言葉を非常に簡単に使います。そこにナイフを持っているから、障害も起こる。中高生の男の子はいま、二割はナイフを持っています。だからあまり強く叱ることができない。

 しかも殺すということが非常に簡単になってきているから、死ぬということも簡単になる。子供たちを見ていると、死ぬというのは隣の部屋に行くようなものなんです。ものすごく軽いし、生きることと、死ぬことに落差がない。

 ほとんど全部が問題発言といっていい箇所であろう。まず俗流若者論における詐術としての《いまの青少年を見ていますと》だとか《子供たちを見ていますと》といった表現はいかにも青少年の現実を的確に写実しているように感じられるが、しかしこのような「観測」には過度に主観が入る可能性が極めて高いので、客観的な分析ということはできない。従って《「殺す」という言葉を非常に簡単に使います》とか《死ぬということも簡単になる》などといった町沢氏の「分析」にはまったく信憑性を持つことができない。更に町沢氏は《中高生の男の子はいま、二割はナイフを持っています》と述べているが、果たしてこれはどのような調査から導き出された結果なのか。調査を読む際には、いつ、どこで、誰が、どのような目的で調査を行ったか、ということを意識して読まなければならないが、少なくとも町沢氏はそのような調査の情報源を示すべきである。更に町沢氏は青少年において自殺が急増していることを示唆する如き発言をしているけれども、我が国においては青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうがはるかに多い(厚生労働省の調査による)。しかも青少年による自殺は、戦後になって一貫して減少傾向にある。しかも諸外国に比して、我が国において青少年の自殺は極めて少ない。町沢氏はこれらの事実をいかに受け止めているのだろうか。佐々木氏もまた、106ページにおいて、

 佐々木 正しい言葉かどうかわからないんですけど、閾値というんですか、低くなっているという感じがするんですよ。たとえば、すごく腹が立ったからといって、普通はここで抑えたりとか、コミュニケーションをとって互いに納得したりとか、せいぜい手を出して終わるというのが常識でしたけど、いまはもうすぐに沸点まで上っちゃって、パッと殺しちゃうとかですね。

 それっていうのは、コミュニケーションをとる訓練ができていないんですよ、小さいときから。だって家に帰っても遊ぶところがないですよね。自分でゲームやったりと課して、少子化で、周りに兄弟もいないし、生と死、と言ったって、おじいちゃんもおばあちゃんも近くにいないし、死ぬということも実感できない。

 と発言しているのだから、その安易な図式化をまず疑うべきであろう。
 そして、杢尾氏もまた問題のある発言をする。107ページ。

 杢尾 確かに過去のデータから比べると、検挙率はもう右肩下がりです。たとえば、過去五年間の凶悪事件を見ると毎年千件ずつ増えている。限られた捜査員で、いくら犯人を検挙していっても、発生件数に追いついていかないというパターンですね。

 検挙率が低下した最大の原因としては、各種凶悪犯罪よりも格段に件数の高い軽微な窃盗罪などの検挙率における著しい低下に求めることができる。検挙率というものは、検挙件数を認知件数で割った数を100倍して求めるのだが、検挙率が低下した、というのであれば、検挙件数が減少したか、それとも認知件数が増加したか、という二つのファクターが考えられるのだが、事実認識として正しいのは認知件数が急増したからである。

 しかしここ最近の認知件数の急増というものは、単に犯罪そのものが急増したから、とはいえない。なぜなら(本当は虚像である)少年犯罪の多発化・凶悪化を見越して警察は少年犯罪に関する捜査を強化した。その結果として検挙率が低下する。ついでに検挙率の低下は平成元年あたりにもあったことなのだが、その理由としては警察が自転車泥棒を重点的に取り締まっていたのを昭和末期から平成元年あたりにかけてやめた、ということが影響している(浜井浩一[2005])。さらに最近の傾向として、平成11年に起こった桶川のストーカー殺人事件における警察の態度、すなわち被害が出ているにもかかわらず警察が被害届けの受理を拒否する態度が批判されたことをきっかけに、警察は被害届けを素直に受理するようになった。しかし検挙人数は変わらないから、故に検挙率は更に低下する。近年の検挙率低下には、このようなからくりが存在する。

 この鼎談の終盤、108ページにおいては、外国人犯罪について述べられているが、これに関する言及はせいぜい1ページ程度なので、この鼎談においては少年犯罪こそが治安悪化の原因である、と考えられているのだろう。しかし、このような認識は、実際にはそれほど影響の大きくない事象を過度に過大視することによって、間違った「治安政策」が行なわれることになる。近年の警察の態度や刑事政策の変化が現在の如き状況を引き起こしている、というのは警察も認めていることなのだが、しかしマスコミではそのようなことは報じられず、ただ扇情的な情報だけが溢れることになる。マスコミは警察の広報係どころか、もう完全に不安扇動装置と化してしまっているようだ。

 しかし、青少年のせいで治安が悪化している、という認識はもはやかなりのコンセンサスを得ているようだ。例えば、東北大学助教授の五十嵐太郎氏は、平成13年10月の衆議院議員総選挙の近くに、東京新聞で発表された、著名人による、もし自分が選挙に出馬したらどのような公約を抱えるか、ということについて、その一つである作家の室井佑月氏の「公約」を挙げる。曰く、

 作家の室井佑月は、「バーチャル総選挙」という新聞のコーナーにおいて、自らが立候補した場合の公約を次のように要約している。「1、国会議員の財産は一代限りに。2、十代のボランティアを義務化。3、警察官を大幅に増員します」。第一の公約は、治安のいい場所が高級住宅街になっていることへの疑問から導かれたものだ。第二の公約は、潜在的な犯罪者であるティーンエージャーを災害救助や老人介護などのボランティア活動で働かせること。……おそらく彼女は一般人の感覚を代表しており、治安への強い関心がうかがえる。国民にとって、今、セキュリティが最大の問題なのだ。(五十嵐太郎[2004])

 要するに、五十嵐氏が引いている室井氏の認識は、悪いのは自分ではなく、自分にとって「外部」のものなのである、というものなのだろう。そしてこのような認識は、あまねく全てのマスコミを覆っているように見える。もちろん五十嵐氏は室井氏に対して批判的な立場で書いているのだけれども、自分だけは犯罪を起こさない、犯罪を起こすのは「あいつら」だと思いこんでいる「被害者の共同体」を強化するために我が国のセキュリティや政策は動員されている。言論もまたこれに動員されており、近年高まっているオタク・バッシングもこれと同種のものとして見なせよう。また、「させてはならない目標」(=「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」など)としての俗流若者論が蔓延するのも同様の傾向であろう。明治大学専任講師の内藤朝雄氏は、現在の状況をこのように批判する。

 全体主義とは、教育が社会を埋め尽くす事態をいうのではないか。あるグループの人々が社会解体の「しるし」としてターゲットにされ、「憂慮すべき未曾有の事態」がくりかえし指摘される。生まれてからの年数が短い人、置いた人、所属しない人、交わらない人、理解や共感ができずに不安を与える人は、そういう「しるし」にされやすい。そして人々の不安と被害者感と憎悪が動員され、社会防衛のキャンペーンが起こる。問題は「困った人たち」のこころや生活態度であるとされ、彼らが内側から変わるように、社会に教育網が張り巡らされる。人権や経済や社会的公正の問題は、いつの間にか教育の問題にすりかわり、公論のスポットライトから外される。(内藤朝雄[2005])

 「全体主義」に関する説明には大いに疑問が残るけれども、それを除けば現在の我が国の状況を極めて的確に言い当てている。我が国は、言説によって規定された恐怖に多くの人が脅えており、それらの恐怖の元は実感というよりは言説に由来する。そして自らの見聞きした経験もまた言説によってある種の傾向に方向付けられてしまう。大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏は、現在の状況に関して《一方で個性をもて、とたえず命令しながら、他方で「個性をもつ」ための条件である「寛容」という土壌を取り除き続けている》(酒井隆史[2005])と指摘しているが、まさにその通り。我が国において「個性」というのは、「世間」の許容する範囲での「個性」、あるいは「世間」に利益をもたらす範囲での「個性」のみが許容される。我が国においてオタク産業が脚光を浴びているのは、その多くの場合においてそれがビジネスの創出や対外的なソフト・パワーとなっているからに過ぎないのであって、経済という枠を取り除いた上でのオタクへの「寛容」など最初からない。同様に、わが国においては若年層が一つの大きなビジネスのターゲットとなっている。しかし、そのようなビジネスは、若年層の費用が携帯電話の使用量に偏っていることや、少子化によってビジネスが縮小することから、まもなく成り立たなくなるであろう。近年において若年層バッシング、特に「ケータイを持ったサル」なる疑似科学の蔓延は、そのような状況を反映しているのかもしれない。我が国には若年層に対する「寛容」などない。

 我が国において俗流若者論、あるいは若年層を敵視する言説ばかりが蔓延する背景には、若年層はもはや「世間」の人間ではない、子供を「世間」の人間ではない「今時の若者」にしてはならない、という認識の広まりがあるのかもしれない。徒に若年層ばかり敵視する治安言説も、無関係ではないだろう。

 蛇足だが、中央公論新社のウェブサイトでは、早くも正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)の続編にあたる『考えないヒト』(中公新書)をトップページで宣伝していた。中公新書にはたくさんの名著があるのだが、今では中公新書のトンデモ本メーカーとなっている正高信男氏の著作を喧伝することは、我が国において社会や科学が危機に瀕していることを助長しかねないのではないか?

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 酒井隆史[2005]
 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯[2001]
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 町沢静夫[2000]
 町沢静夫「佐賀バスジャック事件は防げた」=「論座」2000年7月号、朝日新聞社
 矢幡洋[2000]
 矢幡洋「佐賀バスジャック事件を検証する」=「論座」2000年10月号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 河合幹雄、杉田敦、土井隆義「犯罪不安社会の実相」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「「NO!監視」ニュース第6号

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俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦

 連載第19回の荷宮和子批判において、私は深作欣二監督の「バトル・ロワイヤル」という作品に触れた。この時点ではまだ件の作品を見ていなかったが、残念ながら今も観ていない。なぜここで「バトル・ロワイヤル」を持ち出したかというと、今回検証する評論家の佐藤貴彦氏の文章「残虐なのは誰か?」(「正論」平成13年4月号に掲載)が、この「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論だからである。ちなみにタイトルとなっている「残虐なのは誰か?」という問いかけは、果たして映画の登場人物なのか、それとも観客なのか、ということに関してである。佐藤氏はそれは観客である、と結論付ける。しかし、この部分に関しては俗流若者論とは特に関係がないし、例えば《大人がコドモに人殺しを強制するという、この設定が、これまたズレまくっている。殺し合いは上から下へ強制するものだという設定》(佐藤貴彦[2001]、以下、断りがないなら同様)という記述は、一般論としては一応正しい。ただしこの文章における佐藤氏の「バトル・ロワイヤル」に対する認識が、例えばこのような設定を《左翼思考にはまった設定》《全共闘時代の左翼知識人がもっとも好んで用いた図式》と評している通り、どうも佐藤氏はある種の党派的な認識に囚われているようである。

 しかし、この文章における問題点は、54ページと55ページにおいて集中している。まず、54ページの文章を引用してみよう。

 現実を見てみよう。現在起こっている数々の少年による凶悪事件は、まさしく少年地震の意思によるものなのである。「人を殺してみたかった」、「人間がバラバラになって、悲鳴を上げるのを聞きたかった」などなど、明らかな殺意を抱いているのは少年自身である。彼らは強制されて殺すのではない、彼ら自身の快楽として自発的に殺しているのである。すなわち、そういういみで『バトル・ロワイヤル』は完全にズレており、現実をちっとも反映していないのである。大人がコドモに殺しを強制するのではなく、逆にコドモが大人を殺しまくるという設定にしたほうが、今の世の中、はるかにリアリティーがあるのである。

 作品に関してこのような批判をするということが、創作物の幅を狭めてしまう、ということに佐藤氏はなぜ気がつかないのだろうか。また、監督である深作氏がいかなる主張をこの映画にメッセージとして入れたのか、ということを無視して、このように罵ってしまうのも、佐藤氏が評論家として適材であるか、という点での疑問になろう。そもそも、この連載で何度も述べている通り、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比べて大幅に減少している。もう一つ言えば、《明らかな殺意を抱いているのは少年自身である》ことを現代の少年犯罪に特有の現象として扱っている節があるが、犯罪者が殺意を抱くのはいつの時代にもある話である。

 この直後に来ている文章もまた、佐藤氏の少年犯罪に対する思考停止を象徴するような文章である。

 異常な少年犯罪が多発する以前では、この世の悪はもっぱら「悪い大人のせい」とするのが決まり文句だった。そしてまた、そうした発想こそが戦後日本の平和主義・民主主義を支えていたのである。つまり、従来の日本の戦後民主主義はある種の性善説に基づいていて、「我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ一部の悪い政治家のせいなんだよ」とか「一部の悪い政治家が戦争を企んでいるんだよ」とかいっておけばよかったのだ。

 ところが、昨今ではコドモ自身が積極的に自身の内部の悪を臆面もなく主張してくるので、これまでのそうした図式がだんだん通用しなくなってきたのである。そこで我々は、我々のこの現実をもう一度考え直さなければならないという重大な局面にさしかかっていたのだ。

 まず最近になって異常な少年犯罪が多発している、というのは間違いで、過去の事例をたどっていけば現在とは比べ物にならないほど残虐な犯罪も存在する(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。また、この時期からの傾向として、というよりも「酒鬼薔薇聖斗」異常の傾向として、少年犯罪の「原因」を犯罪者の、更には若年層全体の「心」の問題として捉える傾向が強くなった。これ以降、少年犯罪報道、そして若者報道全体が「《我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ》若年層と若年層が熱狂している文化の《せいなんだよ》」、と言わんばかりの報道が目立つようになった。

 要するに、この文章は「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論なのであり、更には「今時の若者」にかこつけた左翼批判に過ぎないのである。要するに佐藤氏が最終的に批判したかったのは我が国を覆っている(と佐藤氏が勝手に規定している)左翼思考、すなわち「権力者=悪」という思考である。しかし現状においてそのような図式を貫き通している人がどれほどいるのだろうか。現実には、自分の生活が良くならないのは政治のせいだ、と愚痴をこぼしながらも、例えばゲーム規制の問題になると権力に規制を求める人が多くなる。要するにここでは「権力者=悪」という図式が崩壊しているのである。

 佐藤氏のこの文章が虚しいのは、結局のところこの文章が極めてテキスト化された「正論」による左翼批判に過ぎないのである。このような文章ばかり載せている雑誌が最も売れる、というのは、ある意味では我が国の言論における危機的状況を映し出しているのではあるまいか。

 参考文献・資料
 佐藤貴彦[2001]
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』朝日新聞社、2002年3月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

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俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし

 ビートたけしこと北野武氏は、映画監督やコメディアンなどといった顔のほかに、一人の論客としての顔も持っているらしい。北野氏を論客として特に重用しているのは、新潮社の月刊誌「新潮45」だが、私が平成12年から15年の「新潮45」を検証している中で、特に平成12年中ごろから平成13年の終わりごろにかけて、北野氏はこれでもかと俗流若者論を連発していた。ただし、北野氏の俗流若者論の根底を支えるのは、要するに自分の世代(=自分)は正しくて、それより下の世代はみんな「異常」である、という安易な図式化である。今回検証するのは、一連の北野氏の俗流若者論の中でも最もひどかった、「新潮45」平成13年4月号に掲載された「バカ母世代」という文章である。

 北野氏は、冒頭(34~35ページ)において、この時期に立て続けに起こった、子供が被害者となる事件に関して述べている。この2ページにおいて北野氏が触れているのは、愛知県小牧氏で37歳の母親が2歳の娘を死なせて、クーラーボックスに入れて半年間ベランダに放置した事件であるが、北野氏はこの事件から更に北の死が伝聞した和解母親をめぐる事象に関して、《何を考えてるんだって。おいらにはとうてい理解できないよ。/これはほとんど犬を連れて歩くのと同じ感覚だと思うね》(ビートたけし[2001]、以下、断りがないなら同様)などと感想を述べるのだが、少なくとも一人の論客として文章を書く場を与えれているのであれば、まずその程度の感想で茶を濁すのではなく、もう少し事実を深く掘り下げるべきであろう。

 さて、私は先ほど「もう少し事実を深く掘り下げるべきであろう」と書いたが、これはこの部分のみならず北野氏の文章全体に関して言えることである。北野氏はこのような事態が生じてしまったこと(1億歩譲って北野氏の状況認識を受け入れることにする)の「犯人」探しをするのだけれども、どれも単なる表層的な罵倒にとどまっているのが痛いところだ。まず、北野氏は35ページから37ページにおいて所謂「真人類」が大人になって子供を育てていることを「犯人」とする。37ページ終わりごろから39ページ半ばまではテレビが「犯人」、39ページ後半から41ページ半ばごろまでは食べ物が「犯人」、そして41ページでは日教組も少し触れる。まったく、限りなくテキスト化された俗流若者論のオンパレードである。少なくともそれらの一方的な「決めつけ」が本当に正当なのか、ということに関しては議論の余地が大有りなのだが、所詮は「新潮45」なのだから諦めるしかないのだろうか。

 諦めている暇はないので検証に移ろう。まず35ページから37ページの暴力的な世代論に関する検証だが、これは結局のところ自分の世代は正しくてそれ以降の世代は全部間違い、という俗流若者論にありがちな妄想を振りまいているだけなので、検証するに値しない。そこまで自分を理想化できる神経こそ、私は北野氏の論客としての技量を疑いたくなる部分である。北野氏は38ページにおいて《要するに、今の母親ってのは、みんな自分のことしか考えていない。欲望前回で自分勝手なだけなんだ》と述べているけれども、これは北野氏にそのままお返しする。

 次に37ページから39ページまでのテレビ有害論である。これも検証するに値しない単なる「私語り」である。

 39ページから41ページの食事有害論に関しては、ここには極めて重大な事実誤認があるので指摘したい。とはいえこの部分以外はみんな「私語り」なので検証する気も失せるのだが。40ページ。

 ここまでヘンなことが続いて起こると、これはもう、日本人の脳がイカれてるんじゃないかと思うね。

 狂牛病だって、脳の病気だよ。あれと同じで、現代人は脳がおかしくなってるんじゃないか。

 原因はやっぱり食い物だよ。

 昔と今と何が一番違ってしまったといったら、やっぱり食生活だもの。

 インスタントラーメンとかポテトチップスみたいなスナック食品を、これほど食っている時代は今までない。

 インスタント食品を食べ過ぎると、アドレナリンの分泌が異常になるって言ってる学者もいる。

 そう考えると、キレる子供が増えるものわかる気がする。

 事実誤認が多すぎる文章である。例えば、我が国においてインスタント食品が普及する前の時代のほうが少年による凶悪犯罪は多い。平成12年には所謂「17歳の犯罪」も含めて多数の少年による凶悪犯罪が報じられて、ほとんど狂騒状態といってもいい状況であったが、岩波書店の「科学」平成12年6月号において、早稲田大学教授の長谷川真理子氏と東京大学教授の長谷川寿一氏が、戦後において一貫して少年による殺人が減少し続け、また諸外国に比べて我が国では母親による子殺しが極めて多いことなどを実証して話題に上ったことがある(長谷川真理子、長谷川寿一[2000])。北野氏の言うとおり、現代人の脳が異常になっているならば、まず少年による殺人の現象を説明することは出来まい。殺人をめぐる状況は、優れて文化的なものである。また、自分の気に入らない問題を、社会構造の問題などを通り越してそのまま「脳の問題」としてしまうのは、科学倫理の面からしても問題が大きいだろう。また、北野氏は安易に《キレる》なる言葉を使うけれども、少しはこのような言葉の出自のいかがわしさを疑っていただきたい。また、北野氏は《インスタント食品を食べ過ぎると、アドレナリンの分泌が異常になるって言ってる学者もいる》と書いているが、誰なのだろうか。もし『買ってはいけない』みたいな不安扇動本の著者なら、北野氏の科学リテラシーも疑わざるを得ない。

 北野氏は40ページにおいて《実際、おかしな奴が増えてる》として、例えば外務省の機密費使い込み事件や、森善朗首相(当時)、名古屋の《主婦を拳銃で撃ち殺して自分も自殺したオッサン》とか《児童虐待を疑われて児童相談所に子供を取られちゃった母親の記者会見》などを採り上げてその証左としている。そのような事例ばかり並べられたら確かに日本が異常になっている、と思いこみたくなるのは痛いほどわかるが、少なくともそのような自体がどこまで広がっているかということを少しは検証すべきであろう。

 そして最後はお決まりの「憂国」。もう読むのも嫌になる文章である。この程度の駄文を書き飛ばしている北野氏が、本当に論客としての力量を兼ね備えているのか、と言われれば否としか答えようがない。北野氏は結び(42ページ)において《やっぱり日本の明日は真っ暗闇だよ》と平然と言ってのけるが、少なくとも《日本の明日は真っ暗闇》だというイメージを事実誤認と偏見によって植えつけようとしているのは北野氏であって、北野氏の文章は、若年層に対する偏見にまみれた俗流若者論に過ぎないのである。

 しかし、このような文章ばかり受ける背景というものには、やはり国民が若年層の現状に関する思考を停止しているというのがあるのだろうか、と私は疑わざるを得ない。確かに戦後の少年犯罪に関する歴史を紐解いて、現在の少年犯罪が果たして「異常」なものか、ということに関して検証することよりも、今ここで報じられている少年犯罪の異常性を喧伝し、更に自分の矮小な体験を一般化して若年層に対する敵愾心を煽ったほうが手間がかからないことは大いにわかる。しかし、若年層に関する状況を分析するという、少々地味で面倒でも大事な行為を省略して、安易に扇動に走ってしまうと、現実に苦しんでいる青少年を救済することは不可能にならないか。

 現状において、青少年を過剰に貶める珍概念ばかりが量産されているが、それも思考停止の反映なのだろうか。少なくとも我々が安易に使っている概念、この文章なら《キレる》なる言葉を安易に使うことは控えて、更にそれらの言葉がいかにして生成されたか、また以下にして利用されているか、ということに関する想像力を働かせたほうがよほど重要であろう。現在の我が国の青少年をめぐる言論状況は、青少年に対する不安を不当に煽る言説の蔓延が、更にそのような言説を生み出しているという状況になる。安易な「犯人探し」よりも、まず自らが信奉している俗流若者論を疑うことから始めてみてはどうか。

 参考文献・資料
 ビートたけし[2001]
 ビートたけし「バカ母世代」=「新潮45」2001年4月号、新潮社
 長谷川真理子、長谷川寿一[2000]
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 日垣隆『それは違う!』文春文庫、2001年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 斎藤環「知の超訳にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部(編)『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月
 髙橋久仁子「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 山本弘「ジハイドロジェン・モノキサイドの恐怖――『週刊金曜日』別冊ブックレット2『買ってはいけない』」=と学会『トンデモ本の世界R』太田出版、2001年10月

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2005年8月 9日 (火)

俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝

 歴史とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確に表すならば、俗流論壇人の自意識にとって歴史とはどのような意味を持つのだろうか、ということになる。現在において、歴史修正主義に基づく俗流若者論が左右を問わず増殖していることを、私はこの連載の第29回におけるノンフィクション作家の吉田司氏に対する批判において触れた。この手の歴史修正主義者は、過去のある時代に憧憬し、その時代はよかったとして現在を嘆く。しかしそこで引き合いに出される時代の時代背景というものは、その多くが過度に美化されたもので、陰陽が入り混じったリアルとしては決して描き出されない。

 今回検証するのは右派系の歴史修正主義的俗流若者論である。ジャーナリストの工藤雪枝氏による「平成“美顔男”たちへの憂鬱」(「正論」平成12年9月号に掲載)は、前半、すなわち314ページから320ページにおいて特攻隊への憧憬が描かれる。まあ、過去に対する純愛なら幾らでもやってください、というほかないのであるが、320ページから俗流若者論が登場する。曰く、

 ……「特攻」を知ることは、我々一人一人が生きることの意味、平和の意味、そして国家の意味を考えることに他ならない。特攻隊員達が、そのような大きな問いかけを後世に残したという意味において、彼らの死は決して犬死ではないと思う。

 しかし、現実に今の日本国民がそのような彼らの魂にどう答えているかということを考えると、私は暗澹とせざるを得ない。……

 また最近、街を歩くたびに多く見かける、若者達の公衆道徳のなさ、眼の輝きのなさ、背筋を曲げてだらだらと歩く様子。そのくせ化粧などに注ぐ情熱には驚くべきものがある。こうした彼らを見るにつけても、美しい、凛とした日本人はどこにいってしまったのだろうと思う。少なくとも、かつての特攻隊員達の遺影の美しさとは比べ物にならない。

 加えて、最近増え続けている若者による犯罪。……最近の若者には、ミーイズムが横行し、権利と義務という民主主義国家が持つべき二つの概念の中で、権利の主張のみが強調、正当化されている。(工藤雪枝[2000a]、以下、断りがないなら同様)

 このような文章を見るにつけ、何か病理的なものを感じてしまうのはなぜだろう。俗流精神分析家の真似事をさせてもらうと、工藤氏のこのような物言いは間違いなく特攻隊員の遺影を自らの恋愛対象としているのであり、その恋愛対象が工藤氏の中で絶対化され、その絶対像に見合わないものは全て劣ったものとしてみなされるといえよう。

 そして工藤氏の文章では、特攻隊が極度に美化されると同時に、現在の社会が極度に醜悪化される。特攻隊の話についてはここでは触れないで置くけれども、気になるのは工藤氏の国家に対する、そして若年層に対する態度である。例えば工藤氏は次のように述べる。323ページ。

 ……今実現されている平和と繁栄は、過去からの流れの中で常に意識されるべきである。日本人が自ら大東亜戦争を侵略戦争と卑下し、戦犯が祭られているという理由で靖国神社の背を向け、特攻隊員達の死を「無駄死」と考えることは、国家の歴史の連続性を否定し、また民主主義国家の国民としての過去と未来に対しての自分の義務の放棄につながる。

 今の日本はどうだろう。国家の庇護を当然のことと見なし、有り難さを感じていないのみならず、国旗や国歌に関する態度を見る限りでは「国家」という概念でさえ否定しようとする国民も少なくない。国民を啓蒙していく役割を持つマスメディアの多くは、戦後一貫して「国」を否定し続けてきた。民主主義においては、国民が国家をつくり、国家が国民を守るという国家と国民の弁証法的関係がある。自らの義務に向って努力しない「国民」には、それ相応の「国家」しか与えられないという現実的危機感を、日本人はもっと持つべきだろう。

 この論文全体が工藤氏の特攻隊員への純愛物語として構成されているのだから、このようにもっともらしい言われ方をしてもただ虚しいだけだ。そもそも工藤氏は、この論文において、「国家に尽くす自分」を過度に理想化していないか。すなわち工藤氏にとって国家とは単なる憧憬と純愛の対象に過ぎないのであり、従って工藤氏の目に映る「国家の存在を否定するような行為」は自らの恋愛対象に対する否定として映るのであろう。

 そして工藤氏の国家に対する意識は、「中央公論」平成12年10月号に掲載された「ミーイズム日本の迷走」でも引き継がれている。この文章は総理府(当時)によって行なわれた「社会意識に関する世論調査」の結果を読み解く、という内容なのだが、この文章は特攻隊に対する純愛がないことを除けば全て「正論」の論文と内容が同じ、すなわち現代の日本人における「国家」意識の喪失を嘆く、というものだ。しかもその「国家」意識の喪失というものが若年層において強まっている、と工藤氏は調査から読み取っている。例えば工藤氏によると、平成3年において「国民全体の利益を大切にすべきだ」と答えた人が45%、「個人の利益が大切だ」と答えた人が24%だったのに対し、平成10年では前者は37%、後者は30%となったという。しかし、社会が成熟していくと何が国民全体の利益であるか、ということの判断が難しくなってくるので、そんなに唐突に問われても困るような気が駿河。しかも工藤氏は、年齢層が低くなるにつれて「国民全体の利益を大切にすべきだ」と回答する人が減るといっているけれども、具体的な数値を示していないのでどのように減少しているかはわからない。同様に、工藤氏は防衛意識に関する世論調査においても、自衛隊や防衛問題への関心について年齢層が低くなるほど「日本の平和と独立に関わる問題」から「災害派遣への対応」に移行していることについても触れているけれども、工藤氏はそこでも具体的な数値を出していない(工藤雪枝[2000b])。

 あまつさえ、工藤氏は以下のように書いてしまうのだから滑稽である。

 最近の若者向けの雑誌や、街を歩いている大半の若者から得る印象というのは、自分の外見やファッションといったことには大きな関心があるものの公や国といったものには、いかに関心がないかということがしっかりと実証されている。(工藤雪枝[2000b])

 その程度で《実証》としてしまっていいのだろうか。

 今回検証した工藤氏の2つの論文から言えることは、工藤氏は少なくとも「国家」というものに対しては強い帰属意識を持っているけれども、しかしその帰属意識がなんとも漠然としたものに過ぎない、ということだ。工藤氏は「国家に対して忠誠を尽くすことは素晴らしいことだ」と考えていることはよく分かる。しかし、その先がまったく見えないのである。すなわち、なぜ素晴らしいのか、そしてなぜ工藤氏はそこに素晴らしさを感じるのか、ということはまったくわからないのである。

 このような態度は、確かに「今時の若者」における「国家」意識の喪失を嘆く人には受けるかもしれない。しかし、このような文章で若年層に「国家」に対する意識を植え付けられるのか、と問われたら大変疑問である。なぜか。それは、この論文における「国家」というものが単なる工藤氏の妄想を超えていない、もう少し言えば人々の営みや風土、国土としての国家がすっぽりと抜け落ちているからである。これらの一連の論文において、現在のことに関しては、ただ過度に醜悪化されているだけの話で、果たしてそのような文章で若年層を「説得」できるか、ということに関しては大いに疑問が残るのである。

 このような現象が生じているのは、ひとえに工藤氏にとって国家というものが、あるいは歴史というものがいかなる位置を占めているか、ということに関する疑問を紐解いていく必要があろう。工藤氏の国家や歴史に対する態度は、これまで何度か述べてきたとおり、工藤氏は国家に対して純愛をしている、という表現がもっとも適切であろう。確かに国家に対する純愛、というスタイルを私は否定するつもりはないが、だからといって自らの崇拝している偶像としての国家を過度に絶対視し、自らの気に食わないものは全て「国家」を喪失したものとして攻撃するという態度はやめていただきたい。それにしても、この文章を読んでいると、(幻想としての)国家に対する後ろ向きの屈折した態度のないナショナリズムというものが、いかに自分の個人的な不快感と国家を結び付けてしまうか、ということがわかる。確かに今の日本にはたくさんの問題があるが、それでも私はこの国を愛する、というのが愛国心だと私は思うのだが。余計なお節介かもしれないが。

 工藤氏が妄想の「国家」しか抱けない、というのであれば、それは愛国心でも国家意識でもないのではないか?

 蛇足だけれども、工藤氏の「国家」意識は、この連載の第31回で検証したジャーナリストの細川珠生氏の「国家」意識と似ているような気がした。

 参考文献・資料
 工藤雪枝[2000a]
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝[2000b]
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月

 齋藤純一「愛国心「再定義」の可能性を探る」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

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2005年8月 8日 (月)

俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤

 教師とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確な言葉で表すなら、論壇において教師とはなんなのか、ということになる。少なくとも我が国のマスコミにおいて教師とは実践者として捉えられている。陰山英男氏や藤原和博氏を思い出していただければよい。この2人の教師(といっても藤原氏に関しては正式な教員免許を持っているわけではないが)の実践に基づく教育理論は、多くのマスコミで採り上げられている。この2人の名前を知らなくとも、「100ます計算」(陰山氏)や「[よのなか]科」(藤原氏)といった言葉を聞いた人は少なくなかろう(ただ、陰山氏は制度論や授業論に関しては秀逸なのだが、「ディスプレー依存症」なる概念について語りだすと限りなく疑似科学に接近してしまうから困ったもの)。

 ところが我が国の論壇において一人の論客として教師が登場する場合は、実践者というよりは、むしろ「告発者」としての側面が強い。例えば都立高教諭の池ノ谷泰氏は、現在東京都において行なわれている教育政策が以下に教師を追いつめるか、ということを告発している(池ノ谷泰[2005])。この場合において告発されるのは東京都政であり、このようなスタイルの「告発」は、岩波書店の「世界」においてよく見られる。しかし、「新潮45」や「正論」における、教師による「告発」は「世界」の「告発」とは内容が全面的に違う。

 「新潮45」や「正論」において教師が「告発」する場合、そこにおいて告発されるのは日教組か文部科学省のどれかである。それだけなら「世界」と同じだろう、と思われるかもしれないが、私が全面的に違う、と述べる所以は、それらが推し進めている教育政策によって青少年が「異常」になっている、という内容になっているからである。「新潮45」ではもっぱら樽谷賢二氏がこの手の文章を書いているけれども、この手の執筆者は現在の青少年や社会状況を「異常」と断定し、そしてその状況を作り出した「張本人」としての文部科学省や日教組を告発する。このような姿勢で書かれているわけだから、この手の文章に俗流若者論が多くなる。

 「新潮45」においては執筆者は樽谷氏ばかりなのだが、「正論」では執筆者は多様だ。しかしそれぞれの論旨に関してはほとんどワンパターンといってもいい。今回検証するのは、そんな論文の一つである、大阪府枚方市立桜丘中学校社会科教諭・長谷川潤氏による「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」(「正論」平成12年7月号に掲載)である。

 残念ながらこの論文の執筆者たる長谷川氏は、少年犯罪がここ最近になって多発化・凶悪化したと思い込んでいるのが痛いところだ。まず、長谷川氏は95ページにおいて、上智大学名誉教授の福島章氏の分析に文句をつける。福島氏は、この時期に多発した所謂「17歳の殺人」について、特に豊川における、所謂「人を殺してみたかった」殺人事件に関して、福島氏は《「純粋殺人」と規定し、サカキバラ(筆者注:酒鬼薔薇聖斗。平成9年の神戸市児童殺傷事件の犯人。ただ、この「酒鬼薔薇聖斗」なる殺人鬼が本当にそこで逮捕された14歳の少年なのか、という疑問の声が、弁護士の後藤昌次郎氏などから提示されている)の快楽殺人と異質なものと結論づけた》(長谷川潤[2000]、以下、断りがないなら同様)と分析していた。しかし長谷川氏はこの事件に関して、《豊川の「経験しようと思って」は「したかった」と動議である。神戸事件と同様に、「殺したいから殺した」のである》と述べている。しかしここで疑問が残る。確かに豊川の事件のほうは「殺したいから殺した」という解釈ができそうだが、「酒鬼薔薇聖斗」事件のほうは「殺したいから」というロジックは成り立たないのではないか。少なくとも犯行声明文や調書など(マスコミで公開された範囲で)を読んでみる限りでは、単純に「殺したいから」という理由で割り切ることはできないのではないかと思われるのである。長谷川氏は、「酒鬼薔薇聖斗」事件の記憶が薄れているのを見計らってこのような的はずれな比較を行なっているのではないか。

 さて、長谷川氏は豊川の事件のような殺人を《ワガママ殺人》とプロファイリングする。そして長谷川氏は95ページから96ページにかけて、このような犯罪は現在では例外ではない、とぶち上げる。しかし疑問なのは、過去との比較がないことだ。だが、長谷川氏はそのような行為を放棄して突き進んでしまう。例えば長谷川氏は96ページにおいて《筆者の授業中、余談の中で、ある生徒が「戦争になってほしい」と発言した》事例を紹介する。その生徒の発言の理由は《人が殺せるから》ということだそうだ。長谷川氏はこれにショックを受けたらしい。確かにこれにショックを受ける感覚は私にもよく分かる。しかし長谷川氏は更に妄想を強めてしまうのだから滑稽だ。96ページ2段目。

 その筆者の体験は、決して極端な例外とは言えない。平成9年の神戸事件(筆者注:「酒鬼薔薇聖斗」事件)発覚後一週間たって生徒に実施したアンケートでは、サカキバラの「きもちがわかりますか」との設問に「よくわかる」と答えた生徒が実に7%もいたのである。

 しかし、たといその7%が「酒鬼薔薇聖斗」の気持ちが「よくわかる」と答えたからといっても、その理由が「人を殺したい」ということに結びついているか、ということは疑問になろう。そもそもこの手の「共感」において最もよく聴かれたのはむしろ「酒鬼薔薇聖斗」の「犯行声明文」における「透明な存在」なる文句だったと私は記憶しているのだが。それを逆手にとって教育改革論を喧伝したのは社会学者の宮台真司氏であるけれども、少なくとも長谷川氏の決めつけがいかに暴力的であるか、ということを認識していただければ十分である。

 97ページでは長谷川氏が、当時大流行りだった(しかし今ではすっかり聴かれなくなった)「人を殺してなぜ悪いか」という質問に応えられない人たちを罵倒する。しかしアメリカがアフガンやイラクに対して行なった惨状を目の当たりにしている現在の私は、長谷川氏にこれらの状況を以下に捉えているのか、と問いただしたくなる。

 長谷川氏は99ページにおいて、長谷川氏が生徒に対して行なったアンケートを紹介している。とはいえそこにおけるサンプル数は188人、決して多い数ではない。しかし長谷川氏はこの程度のアンケートから現代の青少年の心理に関して述べたがるのだから救いようがない。長谷川氏は100ページにおいて以下のように述べる。

 このアンケートで理解、再確認されたことは、少数とはいえ今回の二人の十七歳に共感を抱く者が少なからず存在するという事実である。すなわち「ワガママ殺人」の潜在的予備軍が全国に展開している事実を、私たちは認識しなければならないのである。

 まったく、この程度のアンケートで《理解、再確認》理解していただきたくないものだ。
 しかし長谷川氏はこの先から本格的に暴走してしまう。長谷川氏は広辞苑の初版におけるテロルという語句の説明《あらゆる暴力手段に訴えて敵方を威嚇すること》を引き、《「バスのっとり事件」こそ、まさに「テロル」そのものではないか》と書いている。しかし、なぜ初版なのだろうか。ちなみに私の電子辞書に収録されている広辞苑の第5版には《あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること》と書かれている。

 長谷川氏は101ページにおいて、現在において「テロル」が激増していると書いてしまう。曰く、

 これ以外にも、「京都小学二年生殺害事件」(筆者注:所謂「てるくはのる」事件)や「新潟少女監禁事件」、あるいは少し年月をたどれば宮崎被告(筆者注:宮崎勤)による「連続幼女殺害事件」などの青少年による凶悪事件が相次いでいるが、その社会的影響力の大きさを考慮すれば、それらはすべて社会への「テロル」であると考えられる。

 このようなプロファイリングが許されるのであれば、全ての犯罪を《テロル》ということができそうである。長谷川氏はこの直前において、件のバスジャック事件に関して《五月十三日になって、内閣、文部省などへよく声明を事前に送付していたことが判明》していたことを引き合いに出し、その点から見れば京都小学二年生殺害事件も1億歩ほど譲って《テロル》ということができる。しかしそれ以外の2つの事件は、1000兆歩譲っても《テロル》ということは到底できない。そもそも新潟少女監禁事件があれだけ耳目を集めたのは犯人が「ひきこもり」状態に近い状態にあったからで、それが後に「ひきこもり」=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまい、精神科医の斎藤環氏が必死になってその誤解を解消しようといそしんだ。また宮崎勤事件に関しても、その犯人たる宮崎勤がホラービデオやロリコンビデオなどに過剰なまでに嗜好性を示していたという理由であれだけ話題になっており、これもまたオタク=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまった。少なくとも言えることは、長谷川氏が自らの勝手な定義に縛られていることであろう。

 101ページから102ページにかけて長谷川氏はこのような状況を生み出した原因(そもそも長谷川氏の状況設定が間違いだらけなのだが、この際1兆歩譲って認めることにしよう)について述べるのだけれども、私にとってはデ・ジャ・ヴュの連続であった。何せ長谷川氏、その「原因」なるものを「児童の権利に関する条約」(所謂「子供の権利条約」)に求めてしまうのだから。で、その条約が、管理教育を否定し、その結果学級崩壊や援助交際が激化して…どこかで聞いたことのあるストーリーだ。少なくともこのような手垢にまみれたストーリの正当性を一度は長谷川氏自身で検証してみてはどうか。私はもう検証・批判することすら面倒である。そして結びの104ページで訴えるのは少年法の厳罰化である。

 この論文の結びは次のとおり。

 今回、スペースの都合で教育問題は割愛させていただいた。当然ながら社会を正常化させるための最大のそして最も基本的要素は、正しい教育、就中朝日新聞のお嫌いな道徳教育の徹底が必要不可欠である点を最後に強調しておく。

 まず、この論文で教育問題は割愛されていないと思う。ただし、これは私と長谷川氏が何を「教育問題」として捉えるか、ということの差異に起因していると思うので、これに関する突っ込みは避けておこう。だが散々不安を煽っておいて、結局この程度のことしか言えないのであれば、この文章全体が砂上の楼閣のようなものである、と罵られても仕方がないであろう。

 この文章を読んで、私は改めて教師とは何か、ということについて深く考えさせられた。少なくともこの論文における長谷川氏は、自らの目の前の状況をまず解決しようとする意欲はまったく感じられず、単純にして短絡的な「憂国」を唱えることによって偽りの危機感や敵愾心を煽っているだけである。このような文章は、単純に現場をよく知っている中学校の教師が言っているのだから間違いない、という文脈で受容されるのかもしれないけれども、私にとってすれば長谷川氏の「理解」は偽りの理解であり、長谷川氏自身のイデオロギーに現代の青少年を当てはめているだけの話である。

 目の前の問題を解決しようとせずに、徒に自らのイデオロギーに生徒たちを当てはめてその危険性を喧伝している長谷川氏の如き教師は、私は不要だと思った。仮にこの論文の執筆者が教師であることを意識しなくても、この文章は容易に読めてしまう。要するに、この論文は「正論」によく登場する俗流右派論壇人が書いたものとなんら変わらないのである。この論文が、執筆者が教師ということだけで権威を持っているとすれば、私はもう一度、教師とはなんなのか、ということを問いかけざるを得ない。

 参考文献・資料
 池ノ谷泰[2005]
 池ノ谷泰「際限なき都教委版「日勤教育」」=「世界」2005年7月号、岩波書店
 長谷川潤[2000]
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 森川嘉一郎、他『おたく:人格=空間=都市』幻冬舎、2004年9月

 佐保美恵子「現代の肖像 藤原和博」=「AERA」2004年3月29日号、朝日新聞社

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俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之

 曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏の登場である。澤口氏に関しては、この連載の第37回で一回登場したが、澤口氏単独の論文の検証は今回が始めてである。検証する文章は、「新潮45」平成13年1月号に発表された「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」と、「諸君!」平成13年8月号に発表された「「スポック博士」で育った子はヘンだ」で、特に前者を中心に検証することにしよう。前者の論文が発表された数ヶ月前に、澤口氏はイラストレーターの南伸坊氏との共著で『平然と車内で化粧する脳』(扶桑社文庫)を出し、「今時の若者」は脳が異常だから恥知らずになるのだ、という、現在流通しているさまざまな擬似脳科学の基盤となるような論理をでっち上げた。これはマスコミには大きな喝采をもって迎えられたが、斎藤環氏(精神科医)や宮崎哲弥氏(評論家)や山形浩生氏(シンクタンク研究員・翻訳家)といった専門家や評論家からは冷淡な目で見られている。

 そんな澤口氏の思想を、「新潮45」の論文をテキストに検証してみよう。澤口氏は論文の冒頭、92ページにおいていきなり《昨今の若者たちの脳は機能障害に陥っているといわなければならない。早急になんとかしなければ、わが国の将来は危うい》(澤口俊之[2000]、以下、断りがないなら同様)とぶち上げる。そして澤口氏は以下のように述べる。

 近頃の若者たちで目立つのは、周りの目を気にしない行動だ。ひと目を気にしないで路上でキスする、駅で着替えをする。あるいは車内で平然と化粧し、携帯電話で私生活を暴露する。さらには、授業中に悠々とパンをかじったり、携帯電話を受けたりする。

 こうした恥知らずな行動」を「周りの目は気にしているけれどもあえてしている」というのであれば、問題は、まあ、それほど深刻ではない。ところが、事実はそうではない。周りの目を気にできない、のである。

 なぜか?脳科学からみれば、非常にシンプルな答えが返ってくる。彼らは、脳機能に傷害を負っているということだ。こうした「不可解な若者たち」の全てで、脳に具体的な傷や腫瘍があるわけではあるまい。そうではなく、「ある事情」で脳機能障害に陥ってしまったとみなせるのだ。

 このような論理が学者のものとして捉えられるのだから、我が国の論壇において科学というものがいかに軽視されているか、ということがわかるだろう。まず、澤口氏が「今時の若者」の行動に脳機能障害を見出す、というのであれば、この程度の単なる印象論ではなく、もっと具体的に数値化されたデータを提示するべきであろうし、安易に脳科学の知見を「今時の若者」にて起用することが倫理的に正統であるかどうかも検証すべきであろう。なお、澤口氏は、93ページにおいて、大脳前頭葉の傷害が人間性の欠落を引き起こす、ということに関する事例をあげているが、ここで採り上げられている事例の怪しさはこの連載の第37回において既に検証済みであるので、ここで触れることはしない。また、95ページで、澤口氏は所謂「狼少女」の事例にも触れているけれども、これも極めて信頼性の低い事例であり、第37回で検証済みなのでここでは触れない。

 さて、澤口氏の擬似脳科学の根本を支える(珍)概念とは何か。それは《PQ》と《ネオテニー》だ。いずれも澤口氏独自の概念である。《PQ》とは澤口氏の説明によると《前頭知性、Prefrontal Quotient》であり、《将来への展望・計画、自分の行動や感情のコントロール、他人の心の理解》という大脳前頭葉の基本的な働きの能力を示すらしい。また《ネオテニー》に関しては、この語句に関しては以前から存在するけれども、澤口氏の使い方では語句は同じでも本来の「幼形成熟」の意味からはかけ離れている、というよりは《PQ》概念に都合のいい形に換骨奪胎されている(ちなみに最近になって《PQ》は「HQ」(Humanity Quality;人間性指数)なる語句に変貌している)。当然の如く、澤口氏の説明によると、「今時の若者」は《PQ》が不足しているから《この観点からいえば、彼らは「周りの目を着にできない」という症状に加えて、「他人の気持ちがわからない」「欲望を抑えられない」「夢をもてない」「目標に向かって努力できない」といった症状も併発しているはずである》(94ページ)ということになる。ちなみに澤口氏は「今時の若者」における《PQ》障害という捉え方を《脳科学の観点からは当然》としているけれども、このような捕らえ方は澤口氏の独自のやり方であり、当然どころか異端である。

 しかし澤口氏は容赦しないようだ。澤口氏は「今時の若者」において《PQ》が不足している(と澤口氏が勝手に見なしている)原因を、母子密着型の子育てに求める。澤口氏は以下のように述べる。

 幼少期での不適切な環境によってPQは傷害されてしまうわけだが、このことをさらに議論する前にぜひとも抑えておくべき点がある。「ネオテニー」である。「日本人の幼少期」を議論する際にはこの点は避けて通れないからだ。(97ページ)

 近代の日本、とくに戦後の日本の状況をみると、「複雑で厳しい社会関係」とはまさに層反する環境が「普通」になっているといわなければならない。少子化が進んで兄弟姉妹の数は少ない。少ない子どもを(とくに母親が)大事に大事に(過保護に)育てる。母親による過保護がPQの障害をもたらすことは多くのデータからはっきりしていることだ。家の作りも問題で、LDKという欧米流の住居が蔓延してしまっている。……

 「モンゴロイド流幼少期環境」とは相反するこうした「単純で甘い社会関係」の中で育ったらどうなるか、答えははっきりしている。長じてもPQは未熟のままで、夢も希望もなく、その日暮らしで、努力知らず、恥知らずな若者ができあがる。(98~99ページ)

 このような物言いを見ていると、以下に俗流若者論における擬似脳科学というものが単なるロールシャッハ・テストに過ぎないか、ということがわかるだろう。ここで澤口氏が採り上げている事例は、どう考えてもマスコミの俗流若者論において散々取り上げられ、既に手垢が付きまくったイメージでしかない。また澤口氏は《母親による過保護がPQの障害をもたらすことは多くのデータからはっきりしていることだ》と自信満々に語っているけれども、あなたも科学者ならそのデータの情報源を提示するべきだろう。そして澤口氏、99ページにおいて《不可解な若者たちが激増しているのは、日本の現状からみればいわば当然のことなのだ》と書いている。しかし《不可解な若者たち》の《激増》というものが、極めて政治的なものである、ということに澤口氏は無頓着すぎる。

 そして、澤口氏のこの論文がどこに着地するか、というと、何と戸塚ヨットスクールを礼賛するのである。まあ、「戸塚ヨットスクール」というのは結局のところたとえ話に過ぎず、澤口氏は《子どもをたくさん作って大家族にし、LDKを壊して長屋を復活させ、学校教育を根本から見直し……ということになる》(100ページ)のが理想だと考えているようだ。もっともそれが無理難題であることは澤口氏も認めるところであるが。

 しかしここで我々が衝くべきは、澤口氏がここまで安易なアナロジーの濫用の問題点に無頓着である、ということだろう。そして澤口氏はその点に関してはなんら反省せずに「諸君!」の論文でも同様の論理飛躍を展開する。

 ただ「新潮45」の論文と違うのが、我が国において《PQ》を欠如させる(と澤口氏が勝手に規定している)子育てを『スポック博士の育児書』に求めていることである。ここでも澤口氏の安易な前頭葉信仰は変わらず、《進化生物学や脳科学を総合して考えると、私たち人類にとっての子育ての機軸は「前頭連合野を豊に育てること」にある》(澤口俊之[2001]、この段落に関しては断りがないなら同様)書いている他、ここで提示されている「子育ての失敗」の例もまた、マスコミで採り上げられている程度のもの、例えば《今の日本人がおかしいことは誰でも画漢字、指摘していることである。……若者たちでなく、我が国では首相さえこのことができていないようで、状況にふさわしくない発言(失言)を繰り返す始末だ。「状況に不適切に欲望を発露する」ということなど、有名人、一般人を問わず頻繁に見聞きする》というもので、根源的な問題点は「新潮45」の論文と変わらない。このように自分を無垢な場所に置ける人を、私は極めてうらやましく思う。

 澤口氏は「諸君!」の論文において、育児書の氾濫を批判している。しかし、澤口氏の如き安易な「憂国」言説こそ、育児書の氾濫という状況を生み出している真犯人ではないか。澤口氏が幾ら育児書など不要だ、生物学的伝統に従った子育てをしさえすればいいと叫んでいても、所詮は育児書の氾濫という状況を助長しているに過ぎないのである。

 それにしても俗流若者論がらみの澤口氏の言動で目立つのは、安易に科学の知見を換骨奪胎して「今時の若者」を批判したがる「善良な」人々に都合のいいように再構築して「今時の若者」に対する蔑視を煽る行為である。これはもはや科学者の行為ではなく御用学者の行為ではないか。このような俗流若者論の書き手により科学がないがしろにされ、科学の知見が歪められるのは、澤口氏のこれらの論文が発表された時期よりももっと深刻化している。それはマスメディアにおける「今時の若者」に対する敵愾心の高まりと動きを一つにしている。我々には、巷で「科学的」として語られている論理が、本当に科学的なものであるか、それとも科学ではないかを見極める能力が求められているのである。

 参考文献・資料
 澤口俊之[2000]
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 澤口俊之[2001]
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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2005年8月 7日 (日)

俗流若者論ケースファイル47・武田徹

 私が俗流若者論の研究で培ったものの中でもっとも大きいものの一つは、物事をさも安易に説明するかのごときアナロジーを濫用してはならぬ、という精神である。巷には「今時の若者」を「説明」するための(=彼らの行動を過度に図式化し、彼らの精神の問題として捉えることによって、彼らを「劣等」と見なすための)珍概念が溢れている。「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」さまざまだ。そしてそのような概念を用いる際は、その概念によって世界が簡単に説明されることに関する危機感を常に持たなければならない。少なくとも世界も人間の行動も単一の概念で説明できないほど複雑であり、俗流若者論は人間の、というよりも「今時の若者」の行動は簡単に説明できる、という錯誤に陥っているから、最終的にはいかなるアプローチでもレイシズムに辿り着く。森昭雄、正高信男、大谷昭宏など、採り上げると切りがない。

 たとい若者論であっても、そのような安易な概念に依拠して簡単に若年層を説明することを疑うことは、良識ある書き手であれば必然だ。もし誰かの発明した概念をそのまま批判的検証もなしに広めてしまったら、それは言論でもジャーナリズムでもなく大本営発表になる。そのような事態をもっとも避けるべきはジャーナリストであろう――。

 ここから本題に入る。今回検証する記事は、ジャーナリストの武田徹氏による「プログラム人間に「心」を」(「Voice」平成12年11月号)、である。この《プログラム人間》という表現は、心理学者の三森創氏による概念であり、武田氏は三森氏のこの概念を《何かを自分で感じて、それをきっかけとして行動を動機づけてゆくメカニズムを、彼(筆者注:三森氏)は「心」と読んでおり、最近の若い世代はそうしたメカニズムを形成させることなく育ってしまっているのが、三森の指摘だ》(武田徹[2000]、以下、断りがないなら同様)と紹介している。

 なぜ武田氏がこの概念に惹かれたのか。そのことについて、武田氏は、104ページから105ページにかけて、当時テレビで大流行りだった「片づけができない若者」なるものを紹介している。武田氏によると、それらの人は《たしかに大学や会社から帰宅した部屋の主は、服装などもこざっぱりしている。つまり社会的にはごく「まとも」な普通の若者なのだが、ただ片づけをする意欲だけが欠けていた》という。それが武田氏には、《ごくまともな若者の唯一の奇行》として片付けることができなかったらしく、武田氏は105ページの最後で、

 たしかに先にあげた例では、乱雑な部屋を不快に感じる「心」、不快感を動機として掃除という行動を選択する「心」が存在しなくなっていると考えれば、常軌を逸した散らかりぶりをうまく説明できる。

 と述べている。武田氏がジャーナリストであれば、まずそのように安易なアナロジーをテレビで見た程度の「今時の若者」のイメージに重ね合わせる前に、まずそのような事態がどこまで広がっているか、ということを取材すべきであろう。しかし武田氏は最後までこのアナロジーに依拠してしまう。ちなみに106ページにおいて、この三森氏の著書の一説が紹介されているのだが、その著書のタイトルが「プログラム駆動症候群」ときた。つくづく心理学主義系の俗流若者論は「症候群」が好きだ。

 武田氏のこの文章は、単純な概念に依拠すると、多面的な見方を拒絶するようになる、という格好の事例として見ることができる。例えば107ページの記述を見てみよう。

 そこで、まず注意すべきなのは、彼らが全面的に無責任なのかということだ。なぜ避妊しないのかと尋ねられた若い女性の多くは、それが最愛の恋人への忠誠の証なのだと答えるだろう。なぜ中絶しないで産んだのかと尋ねられたら、せっかく授かった生命を殺すなんて人道的に許されないことだと主張するのではないか。育児を放棄して遊びに行くことは、友人をなにより大事にしたいからだと述べるかもしれない。つまり、大人の眼からは一様に無責任だと移る行動は、彼らにしてみればそれぞれに「スジを通した」結果なのであり、彼らなりに責任を取ろうとしているのだ。

 ……

 若い世代の場合は、そうしたすべての行為に責任をとる個人であろうとはしない。部分的に筋が通れば突進して行ってしまう。それもまた「心」ではなく、「プログラム」で駆動されているということと関係している。動機づけがすべて「心」に統合されていれば、行動のすべてを統一的に見渡し、取捨選択をすることが可能となるが、若い世代は「心」を育んでいないからそれができない。読み込んだ「プログラム」どおりに行動する彼らの選択は、大人から見るとあまりに唐突で配慮に欠けており、無責任に映る。

 まず中絶に関する記述なのだが、ここで採り上げられている(武田氏の図式化による)若い女性の考え方は、ある意味極めて正統的だと言えるかもしれないし、あるいは相手である男性を傷つけたくないから自分で責任を取らなければいけない、と思いこんでいるのかもしれない。これは極めて文化的な状況の問題であり、決して武田氏=三森氏の如き安易なアナロジーで説明すべき問題ではない。また、前半の段落の途中において、武田氏は唐突に《育児を放棄して遊びに行くこと》を採り上げているけれども、これが若い世代で広まっているのか否かを武田氏は説明しようとしない。これは問題ではあるまいか。武田氏は「今時の若者」だからそういうこともしているだろう、と安易に思い込んでいるのではないか。

 それにしても後半の段落において、安易な断定が目立つのが気になるところだ。武田氏がこのような安易なアナロジーの使用に疑問を持たないのもまた、武田氏がこの文章を書く際《「心」ではなく、「プログラム」で駆動されている》からではないか。もちろんこのような表現は単なる冗談でしかないのだが、少なくとも武田氏が安易なアナロジーの使用に疑問を持たずに突き進んでいるのは確かであろう。

 この文章において、例えば近代以前からの刑罰の取り方に関する説明は特に間違っていると思われる部分はない。ただ、武田氏のこの文章において、問題は110ページにおいて再燃する。

 武田氏が安易なアナロジーの使用から脱却できていないことは、110ページの記述からも確認できる。武田氏は110ページにおいて、(武田氏=三森氏の勝手な規定による)現代の若年層の精神(無)状況の原因として、以下のように述べている。

 産業化の進展で一応は衣食足りた日本社会で、商品やサービスは欲望の対象となる異常の徒歩を求められるようになる。それは次官をこのように使えばいいという手順を示すという付加価値である。……

 これは多くの商品やサービスが「プログラム」内蔵型になったということだ。こうした状況が若い世代の生活様式に変化を及ぼす。

 たとえば冒頭に引いた散らかされたモノが積み上げられた部屋は、そこに内蔵されていた「プログラム」の作動が終了してしまい、もはやどういう手順で扱えばよいのかわからないまま、使い手によってモノが放置されていた光景だった(散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない)。

 論理飛躍の目立つ文章である。そして、そのような論理飛躍の根源は、武田氏が単一の安易なアナロジーに依拠し、それによって全体のバランスを顧みずに、見かけだけの整合性に満足して文章を進めていることであることはもはや明らかであろう。そもそも武田氏が現代の若年層の病理的状況の典型として書いている「片付けられない若者」は、ある意味では掃除しようと思っているがなかなかできない、という状況としても読み取ることができるし、少なくとも《散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない》などという若年層を蔑視したことを言うにはかなりの留保が必要となるだろう。

 そして武田氏はこの文章全体の結びにあたる111ペーにおいてこれまた問題の多い文章を書いてしまう。

 それぞれの文脈の限定された範囲内ではスジが通っているのかもしれないが、そうした作業にいかなる建設性があるのか。そして断片的にスジを通す姿勢は、統合された責任主体の目配りによって制御されることがないので、時にコミュニケーション不全の段階を飛び越えて具体的な暴力にまでいたることもなる。キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう。

 そのような事態を望ましいと思わないのなら、責任主体を解体させているいまの社会状況をもう一度冷静に見直し、適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか。

 残念ながら、これもまた飛躍の目立つ文章だ。この文章を読んできた人であれば、ここでも武田氏がこれまで用いてきたアナロジーに批判的な視座を加えていないことが結局のところ最後まで改善されていないのがわかるだろう。武田氏は前半の段落の結びで《キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう》と書いているけれども、《キレる》という表現が、極めて政治的に捏造された語句であるということを少しは気に留めておくべきだろう。まあ、このような主張は、この表現が恐ろしいまでに定着してしまった現状においては虚しく響くだけかもしれないが。

 武田氏は最後において《適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか》と書いている。しかしこのような物言いに関して、まず武田氏は散々安易なアナロジーに依拠し、そのアナロジーに対する批判的な視座を書いた論理を展開してきて、そして最後にこれまた安易で抽象的な「提言」を持ってくるということは、私から見れば明らかに無責任としか言いようがないのだが。もう一つ、ここで武田氏は唐突に《教育システムの構築》と書いているけれども、そもそも武田氏はこの文章において教育について少しも触れていない。おそらく教育について触れたらこの文章が崩壊するか、あるいは大幅に膨張するからだろうが、唐突に教育を持ち出されても困る。

 安易なアナロジーに依拠した俗流若者論は、「今時の若者」に対するフラストレーションを簡単に説明してもらえる、という点ではきわめて強い魅力を持っているようだ。しかし、そのような論理の蔓延が人々の思考停止や、あるいはレイシズムを招くことになりはしまいか。武田氏はその点に関して最後まで無頓着であった。武田氏はいくつかいい仕事を残しているだけに残念である。

 また、ここで用いられた「プログラム駆動症候群」なる珍概念は、心理学主義的なプロファイリングであるが、これに限らず我が国においてこのような心理学主義的なプロファイリングが増加している。このようなプロファイリングは、「今時の若者」の内面をその提唱者の中で勝手に構築し、若年層全体の内面を彼らの都合のいいように構成して「世間」に説明する。若年層の内面が、一人の心理学主義者(心理学者ではない)によって規定され、それがイメージとして定着してしまう。このような状況を思想的に批判する視座が、蔓延する心理学主義に対する批判には必要になる。

 まあ、このような心理学的なプロファイリングが大量に流通されると、かえって各々のプロファイリングの価値が薄まるかもしれないが、現実はそうでもないのが哀しいところだ。

 参考文献・資料
 武田徹[2000]
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月

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俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗

 平成12年5月は、所謂「17歳の犯罪」が多発した時期であった。平成12年から13年にかけての月刊誌において俗流若者論が多かったのは、このことから来るのかもしれないが、かといって益体にもならぬ「憂国」言説を垂れ流して、過去の事例に触れようともせず、また青少年を取り巻く現実をまったく無視することが許されるはずはない。これは少年犯罪に限らず、青少年に関する論考を書くものであれば、全ての人がわきまえなければならないことであるし、そのようなことをわきまえて書く人は秀逸な論考を書くことが多い。

 その点からかんがみると、脚本家の石堂淑朗氏は、青少年に関する論考を書くものとしては最も質の悪い分類に入る。石堂氏は、「正論」で「平成餓鬼草子」なる俗流若者論ばかり飛び出す連載で、自らの思い込みに基づく思考停止を遺憾なく発揮するほか(「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」ではこの連載の第86回と87回を検証した)、「新潮45」ではことあるごとに箸にも棒にもかからぬ単なる「憂国」言説ばかり書き飛ばしている。

 故に、石堂氏が平成12年5月に起こった一連の「17歳の犯罪」に関して、俗流若者論を書き飛ばすことは想像に難くないことだろう。そして、本当に書いていた。「新潮45」平成12年6月号に掲載された「こんな「十七歳」に誰がした」である。何せ石堂氏、冒頭から《一人逃げたら一人殺すという言い方は正しくゲーム感覚のものである》(石堂淑朗[2000]、以下、断りがないなら同様)などと勝手に定義をでっち上げているのだから。このように、この石堂氏の文章においては、石堂氏自身の思い込みに過ぎぬ論理飛躍が華麗に展開される。

 とはいえ、この文章は、はっきり言って現在の青少年を最初から「異常である」と決め付けた上での暴論でしかないのだけれども。この文章では過度に「私語り」、要するに自分のことを語り、それを素晴らしいとして、今は(石堂氏の自意識のよりどころとなっている)それらが失われたからこのような犯罪がたくさん起こるようになってしまったのだ、という口調が目立つ。いい加減やめてくれないか。そのことで青少年問題が解決するとしたらもはやお笑いである。

 例を挙げてみる。45ページの1段目から2段目。

 ……それが叔父(筆者注:石堂氏)も甥(筆者注:石堂氏の甥)も大過なく人生を送ってこれたのは(筆者注:「今時の若者」を不当に嘆く文章で「ら抜き言葉」はまずかろう)、ヴァーチャルリアリティー…なぞは幾ら人の心を奪っても所詮は絵空事ということをチャンと弁えていたからである。これこそが本当の人生という、あるときは嬉しい、別の時には鬱陶しいまでに細々示威事柄がいっぱい詰まった日常生活の仕組みこそが本当の世界という認識から逸脱するようなことは絶えてなかったのである。この日常があらゆる面で滅んでしまった。

 カー付き、ババ抜きの核家族がその犯人である。老人がいないのが建前のこの生活の特徴は、人間関係の希薄化にある。祖父母と孫、嫁姑、婿舅の関係が消え、それは必然に叔父叔母、甥、姪の来訪といった現象の消滅を伴う。今日は従兄弟が遊びに来るといった嬉しい日は消えた。何と言う淋しいことになたのだろう、にぎやかな一族集合の情景は幼い私の記憶に強く、懐かしく残っているというのに。

 面白い。何が面白いかというと、石堂氏がここまで自分を絶対化できることが。まず、核家族化が進行したからといって、それが《祖父母と孫、嫁姑、婿舅の関係が消え、それは必然に叔父叔母、甥、姪の来訪といった現象の消滅を伴う》などということを引き起こすか、ということに関しては相当に留保が必要であろう。また、石堂氏は前半の段落において、ヴァーチャルリアリティは《所詮は絵空事》であるからこそ犯罪を起こさない、と言っているのだろうが、我が国にはヴァーチャルリアリティを「絵空事」以上のものとして認識する人がたくさんいるのに、だからといって我が国において青少年による凶悪犯罪が増えているわけでは決してない。ぜひとも、このような物言いを、ライターの本田透氏はどのように考えているか聞いてみたいところ。

 ちなみに本田氏は、著書『電波男』(三才ブックス)において、ヴァーチャルリアリティへ性的欲望を持つことの正当性を訴えている(本田透[2005])。この本は傾聴に値する部分も多いが論理飛躍も多いので評価としては微妙な部類に入るけれども、この本を読んで少なくともわかることはヴァーチャルリアリティを「絵空事」以上のものと認識することによって、かえってヴァーチャルリアリティが「絵空事」であることが強調されるという逆説である。45ページ2段目において石堂氏は《現実とゲームの世界を同一化させてしまうのは、ゲームに吸い込まれてしまうほどに現実が現実としての迫力を喪失しているからである。子供は短くて髭根のない青首大根と化して、核家族という名の畑からいとも簡単に抜けるのである》と書いているが、あまりにも単純すぎる図式化だし、このような幻想に取り付かれている限り本田氏の著書における逆説を理解することはできるだろうか。

 それにしても、どうも石堂氏はテキスト化した俗流若者論しか書くことができないようだ。結局のところそれは石堂氏の俗流保守論壇に対する媚びであり、またそのような行為によって脆弱な自意識を埋め合わせることにしか過ぎないのではないか。

 46ページ1段目から2段目を紐解いてみよう。

 戦後五十五年を閲してついに日本は十七歳のバスジャック犯一人に振り回される情けない、国ともいえない国に変貌堕落したのである。

 最大の犯人はオンナである。専業主婦を馬鹿呼ばわりして止まぬフェミニストと、小刀は狂気であり、武器であるという訳の分からぬ屁理屈で小学校工作の時間から小刀を奪った、平和教育主義者左派社会党系列のオンナとそれに迎合する日教組連中であった。こういう手合いが黴のように増殖したのが戦後民主主義という名のシャーレに他ならないのである。

 さてフェミニストに相当する勢力を別の角度から見るとそれはさしずめ人権主義者たちと言うことになるだろう。

 石堂氏のこのような過剰な被害者意識は、そのまま俗流保守論壇における被害者意識につながる。要するに、この社会を悪くしたのは自分たちではない、自分とは反対の意見を持った《平和主義者左派社会党系列のオンナとそれに迎合する日教組連中》だ、ということである。こういう人たちが好んで青少年に「責任」を押し付けるのだからもはや状況はお笑いを通り越して凍土である。もちろん、犯罪者になったからには法の下に行為相当の責任を取らなければならないが、少なくとも被害者意識にまみれた石堂氏の如き「国粋主義者右派自民党系列のオトコとそれに迎合する俗流右派論壇連中」(笑)に「責任」を語る資格はないのである。ちなみに私は「反俗流若者論主義者左派民主党系列のオトコ」である。

 このような石堂氏が、《少年法改正の声が高くなっている今、かれら悪党ショーネンどもの間で、やるんなら今のうちだぜという声が飛び交っていることを知っているのは、更に一層の常識と言うものだ》(46ページ)などと妄想を語っていることは、もはや驚くに値しないであろう。

 石堂氏のこの文章は、我が国の一部の雑誌においていかに短絡的で即発的で差別的な「憂国」が好まれるか、ということを如実に示している。このことは、石堂氏のこの文章のみならず、そのまま石堂氏の執筆活動全体に当てはまることかもしれぬ。石堂氏はこのような下らないことばかりしているなら本業の脚本家に戻れ、と私は言いたいけれども、このような状況ははっきりいって執筆者、編集者、読者の共犯関係の上に成り立っているので、まず編集者と読者の良識によりこのような下らない文章ばかり量産する執筆者が文章を書けないようにするのが望ましいのだが、少なくとも論壇、特に俗流保守論壇は石堂氏の如き「下らないこと」で儲けている人が多い。金と俗流若者論の魅力には勝てないということか。

 だが、文章で金を得る人は、その金相応の仕事をしているか、ということを意識しなければならない。それが文筆家の誇りというものだろう。その誇りを失って単なる空疎な金儲けに走ってしまったら、堕落の一途を辿るだろう。まあ、石堂氏に「誇り」があるのかどうか疑問だが。

 石堂氏のこの文章の結び(47ページ)はこの通り。

 ……それがこういう想像を絶する自己中心主義を生むに至ったのは、度の過ぎた人権主義同様にこれまた戦後民主主義の泥沼の故なのである。

 かくしてバスジャック事件は日本の大人とショーネンが同時に、世界相手に恥を晒した滑稽にして悲惨なテレビショーであったことが知れるのである。

 《それがこういう想像を絶する自己中心主義を生むに至ったのは、度の過ぎた》拝金主義《同様にこれまた》俗流若者論主義の《泥沼の故なのである》。

 《かくして》石堂氏の仕事は日本の俗流保守論壇と読者が《同時に、世界相手に恥を晒した滑稽にして悲惨な》論壇ショーであったことが知れるのである、まる。

 参考文献・資料
 石堂淑朗[2000]
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

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トラックバック雑記文・05年08月07日

 夏本番というか、なんというか…。暑すぎる!

 仙台ではいよいよ七夕が始まりました。東北三大祭の一つで、商店街の各店舗や各企業の努力による色とりどりの吹流しがアーケードに並びます。機会があればどうぞ。

 東京脱力新聞:ブログの実力 きょう発売の「論座」で(上杉隆氏:ジャーナリスト)
 えこまの部屋:kuriyama爺からTB届いた(黒ヤギさんの節で♪)

 現在発売中の「論座」平成17年9月号の特集の一つに「ブログの実力」があります。タイトルに違わぬ濃い内容で、一読をお勧めします。
 この特集における、ライターの横田由美子氏の論文において、「東京脱力新聞」の上杉隆氏も紹介されています。そこで、上杉氏がブログを始めたきっかけとして、上杉氏が書いた週刊誌の記事に関して国会議員の平沢勝栄氏が上杉氏を提訴し、平沢氏が上杉氏に対する批判キャンペーンを張ったので、それに対する保身の為にブログを作ったとか。
 以前にも書きましたけれども、ブログの台頭によって「書き手」になる敷居は低くなっています。もちろんインターネットの登場により、個人がサイトを持てるようになって、その時点で「書き手」への敷居は低くなっていますが、それでもある程度の知識か道具が必要だった。それが、企業がテンプレートを提供するブログの台頭により、誰でも掲示板感覚で自らのサイトを作れるようになった。つまり現在は、インターネットにつなげられる環境さえあれば自分のサイトが持てるようになっているのです。

 しかし、ブログと鋏は使いようです。もちろん日記形式のブログ、というあり方も私は否定しませんけれども、だからといって個人情報を過剰にばらしてしまうと、自分、あるいは他人が多大な迷惑を被ってしまうこともある。ですから、ブログにおいて(もちろん普通のサイトを利用する場合もそうですが)個人情報の取り扱いには注意しなければならない。

 それだけではありません。文章や写真をインターネット上に公開する、ということは、世界中の人がそれを見ることになる、ということに他ならないのです。ですから、インターネットで文章を書くには、それなりの覚悟が必要になります。

 ブログの方向性を決めておくことも必要ですね。私はこのブログの方向性を「巷に溢れる「今時の若者」をめぐる言説を斬る」(旧ブログ)「俗流若者論から日本社会の一面をのぞく」(新ブログ)としており、基本的にこのブログを若者論を扱うサイトとしています。で、余興としてその他の時事問題、読書、建築、都市計画、音楽、声優の話題を入れる。

 なぜ私がこのようなことを言おうと思ったかというと、もちろん「論座」のブログ特集とか上杉氏の記事を読んだこともそうなのですが、もう一つ、「えこまの部屋」に以下のような疑問が書いてあったからです。

 それにしてもkuriyamaさん(筆者注:「千人印の歩行器」の栗山光司氏)にご紹介いただいた後藤さんによる俗流若者論批判テクストの「追求度」には頭が下がりますが、そのテクスト内容よりも、何がそこまで彼を執拗に俗流若者論で若者批判する著名人斬りに駆り立てるのか、個人的にはそちらのほうが興味があります。(苦笑)

 私は高校時代から趣味で社会時評を書いていました。当然、社会に関して何か不満を持っており、どうにかしたいという殊勝な動機で。雑誌にも投稿せずに日記形式で書いていて社会を変えられるわけがない(苦笑)。そもそも私が若者論というものの存在を意識するようになったのは、平成12年(私が高校1年のときです)に、所謂「17歳の犯罪」が多く報じられていた。そのような情報環境において、私は世間から犯罪者として見られているのではないか、という強い強迫観念に囚われており、17歳には絶対になりたくない、その前に死にたいとも思っていたのです。ただ、それでも(惰性で)17歳まで生きてきた。私が若者論の分析を本格的に始めたのは、朝日新聞社の週刊誌「AERA」の成人式報道(後田竜衛「成人式なんかやめよう」=「AERA」2001年1月22日号)を読んだとき、あまりにもひどい、批判するしかない、と思ったので、批判に着手した。これが17歳になる1ヶ月前です。そして平成15年3月に卒業するまで、高校時代は(大学受験期でも)成人式報道の研究ばかりやっていた(それでも東北大学には現役で合格しました)。大学に入ってからは「論座」の読者投稿に積極的に投稿するようになり(成人式報道に関する苦言が「論座」平成14年12月号に掲載されたことがあるので「論座」を選定しました)、批判の範囲を成人式報道から若者論全般に広げていった。最初はその辺の若者論に感情的に反論していた程度ですが、大学2年の後半あたりから社会における青少年の捉えられ方、及び若者論が生み出すナショナリズムや歴史修正主義、疑似科学、メディア規制を気にかけるようになり、我が国の思想的状況における若者論というものを意識して書くようになった。

 ちなみに「俗流若者論」というのは、ただ単に「俗流~~論」という呼び方の「~~」に「若者」を代入しただけの話です。他に適切な呼び方がなかったので、「俗流」というのがわかりやすいかな、と思ったわけです。

 ついでに「論座」の今月号についても触れておきますと、ブログ特集以外でも戦後60年特集とか、群馬大学教授の髙橋久仁子氏による「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」や、大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏による「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」は特に読ませます。しかも、編集長の薬師寺克行氏が、来月号からリニューアルすると公言しております(329ページ)。リニューアル後の「論座」がどうなるか、楽しみです。

千人印の歩行器:[働く編]おたく/フィギュア/ペット(栗山光司氏)
 堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)という本を買いました。この本では、いまや2兆円市場となっている「萌え産業」の現状をルポルタージュしたもの。一応私はこの本は声優の項から先に読みました。声優の清水愛氏とか、大手声優プロダクションの一つである「アーツビジョン」社長の松田咲實氏や、漫画家の赤松健氏などのインタヴューも掲載されています。あと、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の「おたく:人格=空間=都市」のパンフレットも借りて読んでいます。

 ところで、マスコミが「萌え」を発見するときは、大きく分けて2つの場合があります。一つが、「萌え」が一大市場と判断されたとき。もう一つは、残虐な犯罪(特に少女が被害者となる性犯罪)においてその犯人がアニメやゲームや漫画に異常な嗜好を示していたとされるとき。しかし私は、どちらの見方に組しても理解(それが無理でなければ許容)には辿り着けないかと思います。

 なぜか。これは特に後者の形で「萌え」が発見されるときにいえることですが、よほどオタク的なものに理解のある記者(例えば、朝日新聞社「AERA」編集部の福井洋平氏や有吉由香氏など)が書いていない限り(大半のマスコミ人がそうですね)「オタクの世界は仮想現実で、それに没頭する人は異常であり、現実に生きることこそが至上である」と考えている節が大きいからでしょう。故に凶悪犯罪を起こすのは現実と空想の区別がついていない「異常な」奴であるから、という論理が形成される。

 まあ、確かに「萌え」で腹が膨れないことは誰にでもわかる。しかし、「萌え」というのは相手(キャラクターでもアイドルでも声優でもいいです)のある部分あるいは全体がその人にとって「萌える」と認識しているからこそ起こる。さらには虚構に対して欲望を持つことができるので、精神科医の斎藤環氏が指摘するとおり、こういう人たちこそ虚構と現実の区別が厳格である、とも言えるでしょう。マスコミは、そういう人たちが現にかなりの割合で存在するということをまず理解する、そこまでできないなら少なくとも許容する、という態度を持つべきです。もし誰かが現実の少女に対して政敵にか害してしまったら、その犯人は少なくともオタク的な性的嗜好からは逸脱している、と考えるほかないのです。

 石原慎太郎氏や日本経団連などは、オタク経済効果は認めていますけれども、オタクメディア規制も推進すべきだ、という考えの持ち主です。結局のところこのような人たちは、国民は経済的な成長だけにまい進していればよろしい、と考えているのでしょうね。しかしオタクの先駆性は経済とは別なところにあります。そもそも規制論の根本は自分が気に食わないから、という単純な理由でしょう。

 ちなみに「AERA」に関しても触れておきますけれども、「AERA」は平成17年5月30日号において、他の週刊誌が今年5月に起こった少女監禁事件に関してオタク・バッシングを書いていたのに、「AERA」はそれに関する記事はなしで、編集部の福井洋平氏が「メイド掃除でモテ部屋に」なる記事を書いていた。まあ、メイド喫茶ならぬメイド掃除サーヴィスの体験記ですが、ここまでやってしまう「AERA」はある意味すごい。

性犯罪報道と『オタク叩き』検証:フィンランド憲法・『may be』、アイルランド憲法・『shall be』
 海外のメディア規制の例が紹介されています。例えばフィンランドでは、憲法では青少年に有害だと思われる情報の規制は法律で可能である、としておりますが、実際には規制の対象になるのは映画やテレビだけで、また法律で規制できるといっても現状は業界の自主規制に任せていたり、さらには厳格な情報公開制度が整っていたりとか。あと、アイルランドがイギリスから独立した国であることを知らないでいる人とか。

保坂展人のどこどこ日記:佐世保事件から1年、長崎の教育は異常事態に(保坂展人氏:元国会議員・社民党)
 「心の教育」とは一体なんなのでしょうか。そもそも彼らの考えている「心」とはなんなのか。「心の教育」を推進すべきだ、という人たちは、現在の青少年の「心」は異常であり、彼らに正常な「心」を涵養しなければならない、といいます。しかし、正常な「心」とはなんなのでしょうか。殺人を犯さない?少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は、昭和35年ごろのほうが現在に比して数倍深刻です。

 「心の教育」を推進すべき人たちは、結局のところ人々の心と現在を生きる青少年をイデオロギー化しているに過ぎないのです。彼らにとって青少年とは単なる人気取りの道具に過ぎない。そして俗流若者論の蔓延により、青少年をイデオロギー化する傾向が高まり、政治がそれと結託すると、青少年に対する敵愾心を煽ることがそのまま政治的な人気の高さになる。政治から実態としての青少年が消えるとき、我々は政治に何を見出すのか。青少年の意見を代弁する政治家よ現れよ、とは私は言わない。「青少年の意見」なるものを代弁できる人などいない。しかし、せめて「今時の若者」を冷静に見ることのできるような政治家は、ぜひとも現れて欲しい。

 お知らせ。まず、ブログで以下の文章を公開しました。

 「正高信男という斜陽」(7月25日)
 「俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子」(7月27日)
 「俗流若者論ケースファイル40・竹花豊」(7月29日)
 「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」(7月30日)
 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」(8月2日)
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」(8月5日)
 「俗流若者論ケースファイル45・松沢成文」(8月6日)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 title:俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 title:雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 title:皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 title:少子化を「イデオロギー」にするな
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年7月
 title:「希望」としての若年無業者問題

 さて、前から喧伝していた夏休み特別企画を次回更新からスタートします。企画の内容は、「俗流若者論大賞・月刊誌部門」です。要するに、平成12年から平成15年にかけて、月刊誌で発表された俗流若者論の中でも、特にひどいものに関する論評です。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、論座(朝日新聞社)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、潮(潮出版社)、新潮45(新潮社)

 今日、以上の全ての雑誌のチェックが終わったのですが、平成12年・13年は大豊作(笑)でした。逆に平成14年は不作だった。厳選した結果、グランプリと準グランプリは以下の通りに決定しました。

 ・グランプリ
 平成12年
 「文藝春秋」平成12年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋

 平成13年
 小林道雄「少年事件への視点」第3回・4回=「世界」2001年2・3月号、岩波書店
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 平成14年
 該当作なし

 平成15年
 山藤章二(編)「山藤章二の「ぼけせん町内会」いろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 ・準グランプリ
 平成12年
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号、中央公論新社

 平成13年
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋
 ビートたけし「バカ母世代」=「身長45」2001年4月号、新潮社
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月号、文藝春秋
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 平成14年
 「諸君!」平成14年2月号特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」から、林道義「子どもの自己決定権」、文藝春秋
 正高信男「日本語の「乱れ」とルーズソックス」=「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号、文藝春秋
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 野田正彰「「心の教育」が学校を押しつぶす」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 平成15年
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社
 中村和彦「育ちを奪われた子どもたち」(聞き手:瀧井宏臣)=「世界」2003年11月号、岩波書店

 以上の記事を次回から論評します。ちなみに同じ著者のものは一つの論文にまとめて検証します。平成14年準グランプリの正高信男氏の記事は、この企画とは別のところ(正高信男批判の企画で検証します)で検証しますので、夏休み特別企画は「俗流若者論ケースファイル」25連発(!)になります。なお、論評の順番に関しては、まず各年の準グランプリを一通り検証したあと、最後に各年のグランプリを検証します。

 ちなみに、石堂淑朗氏の連載「平成餓鬼草子」(「正論」)は、相変わらず俗流若者論連発でしたが、別のところで検証するので採り上げませんでした。また、「世界」で連載されていた、瀧井宏臣氏の「こどもたちのライフハザード」も問題が大きかったのですが、これも既に書籍化されているので、そちらを批判するときに検証します(ただし書籍版では、事実上連載の最終回となる中村和彦氏へのインタヴューが掲載されていないので、こちらで採り上げました)。

 そういえば次回の更新でもって丁度このブログの100本目の記事になるので、このブログの新たなるスタートを飾るにふさわしい企画になるように極力努力します。

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2005年8月 6日 (土)

俗流若者論ケースファイル45・松沢成文

 また頭が痛くなってきそうだ。

 ゲーム規制を推し進める神奈川県知事の松沢成文氏が、平成17年8月3日付朝日新聞の「私の視点」欄に、「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」なる文章を寄せている。はっきりいってこの文章は、松沢氏のブログに寄せられた多数の批判にまったく答えていない。結局のところ、いつもどおりの論理飛躍とトートロジーを繰り返しているだけである。

 松沢氏はこのコラムの3段目において、《ゲームを有害図書に指定した、この先駆的な取り組みは、大きな反響を呼び、多くの意見が寄せられている》(松沢成文[2005]、以下、断りがないなら同様)と松沢氏が書いている。ここで《先駆的》という言葉を使って、いかに松沢氏が自分の行動が正しいことであるか、ということを証明したいかのようだ。しかしこのような松沢氏の行為は、はっきり言って基礎から腐っている、としか言いようがない。それに関しては、松沢氏の文章を検証する過程で明らかにすることにしよう。

 松沢氏は4段目において《その大半は批判的なものだ》と書いている。ならばそれらの批判に答えてくれるのか、と思ったが、冒頭で述べたとおり、答えていない。松沢氏はこの直後で《青少年の健全育成のために、はんらんする情報をどのように扱ったらよいのか。奥深い課題であり、これを機会に大いに議論をし、対策を考えるべきだ》と書いているのだが、果たして《健全育成》とはなんなのだろうか。松沢氏の議論に従えば、子供を「有害」な情報のない環境に置けば子供たちは健全に育成される、と考えているのだろうが、それは青少年の健全育成なる美辞麗句を楯に取った言論統制ではないか。

 私が笑ったのは以下の文章だ。5段目から6段目である。

 このゲーム(筆者注:神奈川県が「有害図書」としている米国のゲームソフト「グランド・セフト・オート3」。以下、「GTA3」と表記)の主人公はプレーヤー自身である。つまり、たとえ仮想空間だとはいえ、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ。精巧な技術開発によりリアリティーが増した画面に向かい、プレーヤーが一人で仮想経験を繰り返す。

 こうした体験を続けることが、青少年にどのような影響を与えるのか。私は、ゲームソフトには、自らが操作するという特徴があるが故に、雑誌やビデオと比べ青少年への心理的影響はかえって深刻であり、対策は急を要すると考える。

 青少年の健全育成に向けた取り組みは、社会全体の責務である。保護者の方々は、これを機会にゲームソフトに対する関心を高めていただきたい。……

 笑いを取っているのだろうか。もし松沢氏がそのようなつもりで書いていないのであれば、これは相当に深刻な問題である。松沢氏は《たとえ仮想空間だとは言え、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ》といっている。松沢氏は、故にこのようなゲームが青少年に悪影響を与え、そして青少年が凶悪犯罪に走る、と考えているようだ。

 世の中の青少年諸君、松沢氏に怒りをぶつけるべきだろう。要するに松沢氏の考える青少年、そしてゲーム規制に賛成する人たちの考える青少年は、悪い意味で極めて無垢な存在、すなわち「有害な」ゲームソフトなどによって、この世において暴力が正当化されている、と思いこむ存在である。もちろん、このような青少年などごく少数であろう。限りなくゼロに近いかもしれない。私が理解してもらいたいのは松沢氏をはじめとする規制論者の青少年認識、すなわち彼らが青少年を前に述べた存在であると見なしていることの残酷さである。

 松沢氏よ、あなたが県知事として責任ある立場に立っているのであれば、まず多くの論理的な批判、例えば少年による凶悪犯罪は減少しているとか、「ゲームの悪影響」が科学的に証明された例はない、とかいうことに対する反論をまず書くべきだろう。相変わらず松沢氏が「自分が悪影響があるといっているから規制する」という態度を貫くのであれば、まず松沢氏は禊を行なうべきである。

 そもそもこの規制自体が怪しいのである。朝日新聞記者の中上貴博氏によると、このGTA3の「有害図書」規定の内容は以下のようなものだったようだ。

 そこで、県が編み出した要件は「殺傷または暴力の対象が現存の生命体と認められる」「手段が現実に取り得る」「場面設定が限りなく現実の社会に近い」の三つ。殺す相手がゾンビではなく人、殺す場所が地下要塞(ようさい)ではなく町や路上という具合だ。

 有害図書類の指定の答申を決めた30日の県児童福祉審議会社会環境部会では、ゲームの録画が上映され、「親としては子どもに見せたくない」などの意見が出された後、出席した6人の委員全員が「規制が必要」と結論づけた。審議はわずか1時間で終わった。

 傍聴者から会合後に「暴力的な映像だけ見せたのでは、誰だって反対する。『まず指定ありき』という感じだった」などと不満も漏れた。(中上貴博[2005])

 壮大な茶番劇、というほかない。しかも、毎日新聞社が発行しているアニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」平成17年6月号の、この「有害図書」規制を取り扱った特集記事において、毎日新聞記者の河村成浩氏が、この映像審査に用いられた審査映像の長さが10分という短さだったと報じている(河村成浩[2005]。河村氏も中上氏と同様、この審査の時間がわずか1時間だったことに触れている)。もう一つ、河村氏の記事であるが、神奈川県の青少年課副課長の林敬人氏は、《表現の自由はもちろん重視しているが、公共の福祉も重要だ。GTA3はあまりにも現実に近すぎるし、県民の指摘もあり、見過ごすことはできない》(河村成浩[2005])と言っているようだ。ならば林氏に問いたい、世の中には殺人事件を取り扱ったテレビドラマ(もちろん実写)がたくさんあるけれども、それに関してはどのように考えているのだろうか。また、我が国において、報道で報じられた内容を模倣して行なわれた事件は、はっきり言ってゲームを模倣したものよりも多い、少なくとも報道される範囲では(ただ、報道に触発された犯罪に比して、ゲームに触発された犯罪のほうが数倍センセーショナルに報じられるので、注意して読まないとわからないが)。

 河村氏の記事では「松文館裁判」(出版社である松文館の発行した青年コミックが刑法のわいせつ罪に問われた事件。この裁判には、国会議員の平沢勝栄氏が大きく関わっている。詳しくは長岡義幸[2004]を参照されたし)の被告側(出版社側)主任弁護人である山口貴士氏がコメントを寄せている。曰く、

 ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分にだけスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ。だがゲームに限らず有害図書などの規制の流れは全国的に進んでおり、今回の事例が前例となって第2、第3のケースが生じることもあるだろう。(河村成浩[2005])

 山口氏の危惧は現実になりつつある。というのも、河村氏の記事では、東京都の石原慎太郎知事が今年3月の定例議会で松沢氏の方針に賛同したことが書かれている(もとより石原氏は最近「文藝春秋」で発表している俗流若者論において、ゲームは有害である、ということを書き散らしている。石原慎太郎[2005]、石原慎太郎、養老孟司[2005]を参照されたし)。また、愛知県や大阪府においても同様の規制が敷かれるようだ。

 さらに松沢氏は、このように書いている。

 今回の指定の効果は、現状では県内にしか及ばない。そのため、先日、全国知事会議の機会をとらえて、各都道府県に有害図書への共通理解を検討するようお願いした。

 そして、松沢氏のブログでは、この全国知事会議において、宮城県の浅野史郎知事(!)が松沢氏の要請に答え、具体的な検討に入ることが表明されたという。松沢氏の所論には、福岡県知事で知事会の会長である麻生渡氏も賛同していたそうだ。

 もはや全国的な規制の動きをとめることはできないのだろうか。しかし松沢氏の規制策動を批判する我々も、ひとり松沢氏のみを批判するだけでは、同様の動きをとめることはできないだろう。なぜならこのような規制論の根底には俗流若者論が付きまとっているからである。要するに、「今時の若者」は自分とは違う社会環境で育ったから「異常」になったのだ、ということで、そこでもっぱら槍玉に上げられるのがゲーム、漫画、テレビ、携帯電話、インターネットである。ここではまさにゲームが槍玉に上がっている。だから我々は、松沢氏の立論が以下に歪んでいるものであるかを衝くと同時に、巷に流布している「今時の若者」のイメージの虚構性もまた衝かなければならない。このゲーム規制の件は、行政が俗流若者論に屈服した例として私は見ている。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 河村成浩[2005]
 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 長岡義幸[2004]
 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
 中上貴博[2005]
 中上貴博「県、「残虐ゲーム」を有害図書指定へ」=2005年6月1日付朝日新聞神奈川県版(この記事は朝日新聞社ウェブサイトの文章を基にしています)
 松沢成文[2005]
 松沢成文「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」=2005年8月3日付朝日新聞

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

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2005年8月 5日 (金)

俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

 頭が痛くなりそうだ。

 この連載の42回と43回では、読売新聞社のメディアによるフリーター・若年無業者バッシングを採り上げてきた。そこで感じたのは、読売がいかに彼らを「今時の若者」として扱うことに必死であるか、ということだ。要するに、彼らは自分勝手な理由でフリーターや若年無業者になったのであり、あいつらの精神をどうにかしないと日本は滅びる、というアプローチによるフリーター・若年無業者批判である。

 当然の如く、執筆者やコメンテーターには、そのような意見を補強する人たちばかり採用され(弘兼憲史氏がいい例だろう。詳しくは「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」を参照されたし)、彼らを取り巻く経済的な要因は無視され、ただこれらの優れて経済的な問題が彼らの「心」の問題として処理される。

 日本経済新聞は、平成17年4月13日から15日にかけて、日経の長文コラム欄である「経済教室」で「若年雇用への視点」という連載企画を行なった。そこで執筆者として登場していたのが、玄田有史(東京大学助教授)、小杉礼子(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)、宮本みち子(放送大学教授)の3氏という豪華メンバーである。この連載企画で明らかにされているのは、若年無業者の中でも、定職につくことを求めることすらしない人の大多数が高等教育を受けていない(玄田有史[2005])、たとい新卒採用が増加しても、やはり若年層の多くがフリーター化する状況は改善されない(小杉礼子[2005])、それにもかかわらずそのような若年層に対する支援策が遅すぎた(宮本みち子[2005])ということだ。もはや単純な精神論で語れる問題ではないことは、少し調査すれば明らかになっていることである(他にも、本田由紀[2005]も参照されたし)。

 そのような枠組みを無視した読売のフリーター・若年無業者批判は、結局のところ若年層が受けるべきパイをさらに減少させる役割しか果たさないのである。それなのに、いまだなおそのような若年層に対して精神論的な暴論ばかり浴びせかける言説があとを絶たない。

 さて、ここから本題に入る。このブログでは京都大学教授の正高信男氏に対する批判を一つのカテゴリーにしているのだが、正高氏は読売新聞の教育面の連載コラム「学びの時評」にて再三にわたって俗流若者論を書いており、その都度私が批判している。しかし、同じ「学びの時評」における問題のある執筆者に関して言うと、数学者の藤原正彦氏だって負けてはいない。今回検証するのは、そんな藤原氏が平成17年5月16日付読売新聞に「学びの時評」で書いた「美辞麗句に酔うことなかれ」である。

 はっきり言って、このタイトルを藤原氏に投げ返したいくらいだ。藤原氏はこのコラムの第1段落の最後で《美辞に酔った国民は、それを達成するためなら何をしてもよい気持ちになる》(藤原正彦[2005]、以下、断りがないなら同様)と書いている。しかしそれは藤原氏にこそ見事に当てはまる。特に、このコラムの第2段落が。

 教育基本法には「個人の尊厳」とか「個人の価値」が謳い上げられているが、これが「身勝手の助長」につながった。少子化やフリーター激増もこの美辞に支えられている。心地のよい響きを持つ「ゆとり教育」は「愚民化教育」に過ぎない。現在進行中の「中央から地方へ」はいかにも地方への思いやりに満ちているが、現実は地方切り捨てに近い。この方針の言われ始めた頃から、地方の駅前商店街はさびれ田畑は荒れてきている。今は義務教育まで地方まかせにする勢いである。「私の県の小学校では国語より英語」「私の県では算数よりパソコン教育」などとなったら日本は崩壊してしまう。

 妄想と言っても差し支えないだろう。まず、教育基本法が《身勝手の助長》を生み出した、と藤原氏は言っている。しかし藤原氏にとって《身勝手の助長》とはなんなのだろうか。藤原氏は《少子化やフリーター激増》をその《身勝手の助長》の結果として見なしているようであるが、そのような見方こそはっきり言って藤原氏が美辞麗句に酔っている証拠である。現実は、藤原氏が考えているほど甘くはないのは、前掲の玄田、小杉、宮本の3氏の調査・立論の通り。また少子化に関して言うと、ここまで若年層の危険を煽る言説が溢れている状況において、いざ若い女性に子供を産め、といってもはっきり言ってどれほど効果が上がるかは疑問であるし、藤原氏もまた過去の言説においてそのような言説の炎に油を注いでいる(これに関しては後に検証する)。

 また、義務教育の地方委託に関する記述も、単なる藤原氏の妄想でしかなかろう。もちろん、私とて義務教育は少なくとも最低基準だけは国が保障すべき、という考え方なので、その点は藤原氏には近いのかもしれないけれども、だからといって藤原氏の飛躍した立論には首肯できかねる部分が多い。

 藤原氏がこのように若年層に関する現実とはかけ離れた妄想を構築することができるのも、全ては藤原氏が美辞に酔っている故だろう。そもそも藤原氏は冒頭で《美辞に酔った国民は、それを達成するためなら何をしてもよい気持ちになる》と書いていた。しかし、はっきり言ってこれは藤原氏の妄想とはまた別のところで問題を起こしている。例えば、最近になって神奈川県を中心に「性少年の健全育成」という美辞の元に言論統制が行なわれている。例えば最近になってあるゲームが「有害図書」指定されているけれども、神奈川県知事の松沢成文氏がその根拠として記者会見やウェブ上や朝日新聞などで展開している論理は、はっきり言って論理飛躍またはトートロジーのどちらかである。また、「青少年の健全育成」という美辞の元に、教育基本法の改正だとか、さらにはその美辞の元に憲法さえ変えられようとしている。また、「治安の向上」という美辞の元に、街は「異物」を排除するデザインやシステムなどで溢れ(五十嵐太郎[2004]、高橋純子[2005])、秋葉原ではオタクに対する職務質問が増加し、事実とは明らかにかけ離れた偏向報道も増殖している。「今時の若者」という美辞の元に疑似科学と歴史修正主義(右も左も)が蔓延しているのはこのブログで批判している通り。

 藤原氏がこのコラムの結びでこのように書いていることが痛い。

 美辞は人間の思考を停止させ冷静な検討吟味を妨げるから、政官財はもちろんマスコミにあおられた国民も突っ走る。ヨーロッパやアジアのどの国をも圧倒する経済力を実現した。極東の小さな島国日本の至宝ともいえる国柄が、美辞麗句とともにあっけなく壊されている。

 結局のところ経済か。そもそも《国柄》とは何か。それは単なる藤原氏の幻想に過ぎないのではないか。もちろん、戦後の我が国が世界を圧倒する経済力を実現してきたのは事実だけれども、しかし最近になってその限界性も見え始めている。藤原氏はその限界を知っているのか。我が国はまもなく人口減少社会に突入するわけだが、それでも安定した経済を構築できるような社会システムの設計こそ、我が国が国際的に生き残る唯一の道だと私は考える。また、経済一辺倒主義は環境破壊や、(藤原氏も触れている)地方の荒廃をもたらした。

 また、我が国において、若年層に比して知識も見識もあるとされている大人たちが、いかに疑似科学や妄想、そしてそれを支える俗流若者論に陶酔しているか。これらの議論は、少しでも論理を膨らませれば疑問点が見つかるものだけれども、多くの人たちがそのような疑似科学や妄想に心酔している。藤原氏は《美辞は人間の思考を停止させ冷静な吟味検討を妨げる》と書いているが、けだし至言。「ゲーム脳」や「ケータイを持ったサル」という美辞麗句は、若年層に対する《冷静な吟味検討を》妨げている。

 藤原氏の想像力がそこまで及んでいないのだとしたら、藤原氏の立論は、単に藤原氏の妄想を復活させるための議論にしかならないのである。

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 高橋純子[2005]
 高橋純子「セキュリティータウンを歩く」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 藤原正彦[2005]
 藤原正彦「美辞麗句に酔うことなかれ」=2005年5月16日付読売新聞
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な支援必要」2005年4月15日付日本経済新聞

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年8月 2日 (火)

俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 前回は「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」の2つの企画を合併させる、という離れ業を行なってしまった。そのときに私は、読売新聞が行なった「就職観」に関する社会調査と、それについての漫画家の弘兼憲史氏のコメントを批判したのだけれども、今回批判するのもまた読売新聞社系のメディアの若年無業者バッシングである。記事は、「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」で、執筆者は同誌編集部の奥田祥子氏と高畑基宏氏。そういえば高畑氏は同誌平成17年7月24日号でも「狂いだした日本人の“体感距離”」なる俗流若者論を書いていた。それはさておき、今回の記事も、また若年無業者となる若年層を不当にバッシングする内容である。この記事を、そのまま「ニート報道「凄絶」白書」として紹介したいくらいである。

 この記事のリード文には、以下の通り書かれている。この文章に、この記事の執筆姿勢と問題点が集約されていると言ってもいいだろう。

 「親思う心にまさる親心」とは、よく言ったもの。子どもの行く末を案じる親の庇護の下に、いまやニート、フリーター300万人。働かない若者についてはこれまで、年金財政や経済への悪影響ばかりが論じられもっぱら子どのも就職支援のあり方に関心が向けられてきた。だが、そうした自立しない子どもを持った家庭がどれほど過酷かは、あまり知られていない。憂慮すべきは、共倒れの危機にさらされる親たちなのだ。(奥田祥子、高畑基宏[2005]、以下、断りがないなら同様)

 はっきり言って、この記事に書かれていることはこの5行に書かれた内容だけで終わるのである。要するに、いかに若年無業者が親に迷惑をかけているか、ということを喧伝し、そいつらを家からつまみ出すことこそが親にとって楽になる最大の道なのだ、というもの。それが延々8ページ。結局のところ、この記事は「親の視点」なるものから若年無業者を頭ごなしに叱りつける「だけ」の記事なのだ。そんなことが無意味なのは、とっくの昔に玄田有史氏や小杉礼子氏が指摘しているのに!

 少々筆が滑ってしまったけれども、もう一つ指摘しておくと、特に「ひきこもり」と親和性の強い性格を持つ若年無業者に関して言うことができることなのだが、このような物言いは帰って若年無業者を追い込んでしまうということになりかねない。もう一つ奥田氏と高畑氏が無視していることは、結局のところ現在の雇用情勢が厳しい故に若年無業者にならざるを獲ない人も中には少なからずいる、ということ。この記事の執筆者や、ここで引かれている自称「識者」がいくら理想論を述べたといっても、果たして現実が彼らの理想をかなえてくれるほどのものか。彼らが「とにかく就職活動しろ、それでも駄目なら帰って来い」と考えているならこの問いかけは無意味なのだが、この記事の執筆者や自称「識者」がそのように考えている節は見当たらない。

 さらにこのリード文に突っ込みを入れさせてもらうが、《いまやニート、フリーター300万人》と書いているけれども、若年無業者とフリーターを混同するな。このように書くことによって、フリーターも若年無業者も親の甘やかしから生まれた、だからこいつらをどうにかするには親が権威を持たなければならない、という暴論が生まれてしまうのだろう。この記事が「ニート報道「凄絶」白書」として読める、と私が言う所以である。

 結局のところこの記事は、若年無業者をリスクとしてしか見なさない人たちの理想論ばかりの記事であることに疑いはない。内容に関しては、シャレではないが内容がないので、深く触れることはしない。ついでに言うと、写真の使い方も極めて恣意的。

 それでも少々触れることにするが、例えば、ここで引かれている、若年無業者問題に関する団体が、「子どもにかけるお金を考える会」(畠中雅子代表)だけだ。例えば「ニュースタート事務局」(二神能基代表)などのほかの民間団体や、自治体の試みなどには触れられていない。

 執筆中に資料を読み返しているときに思いついた仮説なのだが、フリーターや若年無業者を単にリスクとしてのみ扱い、彼らを家から追い出せ、という暴論は、もしかしたら自分の子供と積極的に向かい合うことを拒絶する親の論理なのではないか、と思ってしまった。要するに、フリーターや若年無業者をリスクとして見なすことで、彼らに対する長期的な支援という選択を拒絶し、突き放すことによって「安心」する、という考え方である。もちろん、このような考え方が存在しうることは大いに認めるけれども、しかしこのような考え方で果たして若年無業者問題が解決するか。正直、解決しないのではないか、というのが私の考えだ。

 この記事において、評論家の吉武輝子氏が、《子どもというのは、親の期待や夢を一つひとつ裏切りながら、親元を巣立っていくものなのです》と発言している。さて、親の期待や夢を裏切らせないことこそ至上という価値観を振りまいてきたのは誰でしょう?

 我が国において、ここ10年ほど、自分の子どもに関する「リスク」が喧伝されてきた。犯罪を起こさないか、非行に走らないか、学力が低下しないか、「ひきこもり」にならないか、オタクにならないか、フリーターにならないか、あるいは髪の色を染めないか、奇抜な服装をしないか…。「子供がこうなったら注意しろ」という言説は、いまや巷に溢れている。そして最近になって加わったのが、自分の子どもがニートにならないか、というものだ。すなわち、若年無業者というのは、親にとって「させてはいけない」ものなのである。だから親は腫れ物を扱うように我が子を扱うようになる。当然の如く、それの旗を振ったのがマスコミである。故に「ゲーム脳」とか「ケータイを持ったサル」という疑似科学の網が張り巡らされ、若年層に関する調査であれば、たとえ調査方法や設問に問題のあるものだとしても(詳しくは、このブログの連載シリーズ「統計学の常識やってTRY」を参照されたし)「今時の若者」の世代的病理を示す調査としてその問題点の検証抜きに報じられる。小学校で「愛国心」を評価する通知表が表れるほどだ(山田明宏[2003])。このような状況を作っている張本人としてのマスコミが、なぜ今になって親の甘やかしがフリーターや若年無業者をつくる、などと喧伝しているのか。これをマッチポンプとは言わないか。読売はNHK問題における朝日新聞の対応を笑えるのか。

 読売の記事は、このような言説がかえって自分の子供に対する、さらには子供・若年層全体に対する敵愾心を高め、それが自分の子供さらには子供・若年層全体を「虎の子」というよりも腫れ物として扱う状況を加熱させる、という逆説に極めて無頓着だ。河北新報か何かで平成16年1月15日付の朝日新聞で、たぶん高校生あたりが「矛盾する大人の言葉「夢を持て」 持ったところで「現実を見ろ」」といった秀逸な短歌を書いた、というものを読んだことがあるが紹介されていたけれども(平成16年8月6日訂正)、この短歌は、巷に溢れる俗流若者論の問題点をもっとも端的に表している(特にそれがこの記事においてよく表れているのが、東京学芸大学教授の山田昌弘氏の発言。《もしわが子が過大な夢を追い続けているような場合は、夢から覚めさせることが必要です。現実に目を向けさせ、就業意欲を起こさせ、仕事につくことができたら、しっかり突き放す、という手段です》と。「希望格差社会」理論はどこに消えた)。もう一つ言うと、この記事は親に過剰に求めすぎ。すくな事もこの記事の執筆者には、親と子供の精神の歪みが若年無業者問題を生み出す、ということが間違いであることを学んで欲しいものだ。こんな愚痴だらけの記事を書いている暇があれば、もっと自治体や民間団体の取り組みを紹介するべきだ。

 でも敵愾心を高めるだけ高めれば、それなりに効果があるかもしれない。そうすれば、「善良な大人」たちが彼らだけでゲーテッド・コミュニティ(閉鎖的共同体)を作り出し、子供はゲットーに押し込められ、彼らは彼らだけで悠々自適な生活を送ることができるのだから。ゲットーの中の子供たちは飢えに苦しむが、彼らにとってもっとも大事なのは子供ではなく自分なのだから、別に子供が苦しんでいても我関せずだろう。

 などと書いていたら、またもや「政治的に」利用されそうな言葉を見つけてしまった。エコノミストの木村剛氏のブログで、「フィナンシャルジャパン」平成17年7月号の、マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏が書いた「NEETより厄介なTEET」なる記事が紹介されている。西川氏によると、《TEET》(木村剛氏のブログの平成17年7月31日のエントリーから、これ意向は断りがないなら同様)の定義は《Tentatively in Education, Employment or Training の略で、Tentatively(一応、とりあえず)、学び、働き、職業訓練している人たちだ。どの企業でもこの「TEET」に手を焼いている。どこに行っても常に腰掛け意識の、言わば“NEET以上プロ未満”の連中》なんだそうな。で、この記事において、西川氏はこの人たちのことを以下のように書いている。私はこれを読んでのけぞった。

 そんな「TEET」の口癖は「こんなはずじゃなかった」である。やるべきことをやらずにやりたいことだけをやって生きて行けると勘違いしている、飽きっぽく打たれ弱い夢見る夢子ちゃんだ。簡単に言えば、子供なのである。子供の心を持った大人ではなく大人の外見をした子供。暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である。

 こういった「ことな」に振り回されてはたまったものではない。「ことな」が入って来ない、「ことな」をのさばらせない、企業文化を育んで行くより他に方策はない。

 若年就業問題に関する新しい問題が発生、とでも西川氏は言いたいのだろうか。しかし西川氏よ、あなたも責任ある言論人であるならば、徒に珍奇な概念を乱造しない、というのが良心であり、もし提唱したいのであれば、まずデータをそろえるべきだろう。安易に自分の矮小な経験を勝手に天下国家の問題として取り上げてはならない。結局のところ、この言葉は単なる「酒場の愚痴」から生まれたもので、その意味では「ニート」という言葉よりも厄介なものである。いくらマーケティングが大事だからといっても、言論にかかわるものとしてはそればかりではいけない、ということを自覚すべきだろう。このような言説を濫造する西川氏こそ《暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である》。

 それにしても、どうして俗流若者論の責任が問われることがないのだろうか。

 参考文献・資料
 奥田祥子、高畑基宏[2005]
 奥田祥子、高畑基宏「ニート家庭「凄絶」白書」=「Yomiuri Weekly」2005年8月14日号、読売新聞社
 山田明宏[2003]
 山田明宏「通知表で評価する小学校」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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