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2005年8月20日 (土)

俗流若者論ケースファイル61・野田正彰

 このブログにおいて、私は一貫して「心の教育」なるものに反対してきた。私がこれに反対するロジックとしては、青少年問題を「心」の問題として捉える現在の傾向は、それが「ひきこもり」やフリーターや若年無業者問題に関して用いられるならばそれらを生み出した社会的・経済的背景を無視して「心」の問題として処理することによって不当な「自己責任」をそれらに苦しんでいる人たちに押し付けてしまうこと、また少年犯罪も含めてこのようなロジックは正常な「心」と異常な「心」という図式が前提としてあり、「今時の若者」の異常な「心」を「正常化」しなければならない、そのためには異常な「心」を生み出したものを撲滅しなければならない、というロジックにつながり、その代替物として安易に愛国心とか情操教育とかいったロジックが持ち出されることに対する疑問である。

 その点からすれば、関西学院大学教授の野田正彰氏が「世界」平成14年10月号に寄稿した「「心の教育」が学校を押し潰す」という論文は、本来であれば私の味方となる論文なのかもしれない(ちなみにこの論文が発表されたときの野田氏の肩書きは京都女子大学教授)。野田氏はこの論文の冒頭において、平成11年6月の中教審の答申「新しい時代を拓く心を育てるために――次世代を育てる心を失う危機」を以下のように批判する(88ページ)。曰く、

 続いて答申を説明していくのだが、その前に文部省(筆者注:中教審の答申が発表された当時は文部科学省ではなく文部省だった)の文章は表題から日本語の体をなしていないことを理解しておこう。副題の「次世代を育てる心を失う危機」とは何を意味するのか。「次世代を育てる心」とは大人たちの心のことか。「育てる心」という表現はありえない。「心を失う危機」とは何か。精神的危機という概念はあるが、心を失うとは失神することなのか。ましてや「心を失う危機」とはどんな危機なのか、想像すらできない。通して「次世代を育てる心を失う危機」と読み直すと、頭がおかしくなってくる。「次世代の心を貧しくする危機状況」とでも言いたいのだろう。さらに「新しい時代を拓く心を育てるため」の答申なのに、なぜ副題は「心を失う危機」なのか。もう少し正常な日本語を書ける人はいないのか。(野田正彰[2002]、以下、断りがないなら同様)

 この批判に関しては異存はない、むしろ大いに賛同する。

 しかし野田氏のこの論文において問題なのは、所謂「心の教育」が青少年の「病理」を加速させる、という視点に野田氏が立っていることだ。これは、野田氏は中教審の答申のタイトルにある「新しい時代を拓く心を育てるために」とか「次世代を育てる心を失う危機」といった美辞麗句を批判しているけれども、しかし野田氏もまた現代の青少年が精神的な病理状況に陥っている、と認識しており、結局のところ「心の教育」推進派と同じ認識を共有しているのであって、そのような野田氏が「心の教育」推進派を撃っても所詮は俗流若者論の中の内ゲバにしかなりえないのである。もっとも、野田氏がこのような認識を持っているのは、この連載の第32回で紹介したのだが、そのときは週刊誌の記事のコメント程度だったので、まとまった論文として野田氏の立論を批判するのは今回が始めてである。

 さて、野田氏のこの論文において問題が出ているのは95ページから98ページの4ページである。野田氏は95ページ1段目から2段目にかけて、「心のノート」が次のように記述していることを問題視する。曰く、

 「街中で 大きな硝子窓に映った自分に気づいた。いつもまっすぐに胸を張って歩いているつもりなのに なんだか 自信なさげにうつむきかげんに歩く私がいた。上方や服装、スタイルばかり気になっていたけれど 自分の中身は、ぜんぜん気にもしなかった。――でも、この硝子窓には、わたしの心が映っているよう」といったふうに。一方では「心を形に表して以降」、「T.P.O.を考えた行動ができているか?」、「礼儀には脈々と受け継がれている伝統がある」と畳み掛ける。

 野田氏はこのように紹介するのだが、しかしこのあとに続く野田氏の立論は、あらかじめ現代の青少年が精神的な病理的状況に陥っている、あるいは現代の青少年は自分たちとは違う「異常な「心」」を持っている、と読者が認識していなければ意味を持たない文章が来るのである。

 そこで子どもは何を求められているか、すぐ察知するであろう。自分を見つめ、良い自分と悪い自分を分割し、場面に応じて良い自分を装うこと。これが学校の先生の要求する「こころ」であることを、心から、知るであろう。何のことはない、これでは、現代の若者が得意とする、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである。

 私が疑問を持ったのは《何のことはない、これでは、》以下の文章である。野田氏は《現代の若者が徳意図する、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである》と書いているけれども、野田氏が何をもって《ファッションとなった乖離体験》を指しているのかがわからないし、そもそも《現代の若者が得意とする》といったくだりに、野田氏の若年層に対する認識が表れているように見える。野田氏はこの文章において、《ファッションとなった解離体験》を推奨することは現代の病理状況を広めるかのごとき説明をしているけれども、それが本当に問題なのか、あるいは本当に現代の病理状況として捉えるべきなのか、という議論を野田氏は最初から放棄している。読者に「今時の若者」は精神的な病理を持っている、という前提が共有されない限り意味を成さない。もう一つ言うと、野田氏は96ページにおいても《精神障害としての解離――解離性健忘、遁走、昏迷、憑依などと違った、若者ファッションとしての解離の言い訳は枚挙にいとまがない》とも述べている。

 野田氏は更に、この段落の直後に、更に《八〇年代より、日本の子どもは他の子どもと深い交流を避け、表層の情報の交換を好み、周囲のT.P.O.に応じた行動を取る適応力を高めてきた。……ただ(筆者注:現代の子供たちが)自分ら勝手な言動をとっていると見えるのは、大人たちのT.P.O.とズレがあるからである》と述べている。だったら、例えば製造年月日や生産地を偽装して、店舗では何の操作もしてなかったかのごとく売る店員とか、トラブルが生じてもひたすらひた隠しにしてさも何の問題も起こっていないかのごとく装う人たちとか、またあるいは大銀行や大企業に対しては甘いのに民衆にはいまだに極めて低い金利を押し付ける経済政策などは野田氏の理論では説明することができるのだろうか。それとも野田氏は、「田中均は右翼に爆弾を仕掛けられて当たり前」と言った石原慎太郎氏や「少年犯罪の加害者の親は市中引き回しにして打ち首にしろ」と言った鴻池祥肇氏や「少女がカッターで頚動脈を切る事件が発生したのは女性が元気になった証拠だ」と言った井上喜一氏や「公約が達成できなかったからといって大したことはない」と言った小泉純一郎氏は「今時の若者」よりもマシと考えているのか?いずれにせよ、野田氏が現代の若年層を過剰に危険視していることは明らかであろう。

 更に野田氏は、以下のようにも述べる。96ページ。

 このような切りかえ(筆者注:《過剰反応する自分》=周囲に対して敏感になりひたすら事故を抑えることと《自閉思考に安らぐ自分》=ビデオや漫画やアニメや情報雑誌などの接触を通じて自分だけの世界を構築すること。このような図式化は野田氏もまた漫画やアニメなどを病的な青少年が部屋の中で自分の殻に閉じこもって一人でやるもの、と認識していることが窺える)のの敏速さを表現した若者言葉に「切れる」がある。「切れる」とはどういうことか。中学生たちは、「副が切れて、髪の毛が逆立って、威嚇して、エラ呼吸しはじめてジャンプ」、「澄んだ眼をしていて、口をきかない」、「ちょっと肘が当たっただけで、一発殴って叫びだした」、「先生に怒られて、その先生の強化のノートをビリビリにしたり、黒板で“死ね”と大きく書いていた」と説明している(深谷昌志教授らによる調査、「モノグラフ・中学生の世界」、98年12月、「キレる、ムカつく」)。明らかに現代日本の子ども文化として定着した「解離」が述べられている。

 解離(あるいは転換性)障害とは、困難な葛藤に直面したとき、自己同一性と直接感覚の意識、身体運動のコントロールに関する東郷が、部分的あるいは全面的に失われることを言う。子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ。「それは誤っている」、「いやだ」と言葉で表せないので、替わりに「切れる」事が定型表現として許容されている。現代日本の子ども文化としての「解離」が「切れる」である。

 野田氏は何を血迷ったのか。この引用文から読み取れることは、明らかに「キレる」なる表現が極めて政治的に脚色・潤色・希釈・拡大解釈されることによって、現代の青少年の病理的状況を表しているかのごとく使われていることである。しかし、このような状況が、果たして現代の青少年に特有のものなのか、ということに関する検証は、この調査者たる深谷昌志氏はは一切していない。その点を野田氏は指摘しないのだから、野田氏が「キレる」なる表現の政治性に見事にすくい取られていることがわかるだろう。そもそものだしが引いている部分からも、「キレる」という言葉が至極広く希釈されていることを垣間見ることができる。

 とりわけ野田氏が「キレる」という表現がもたらす青少年幻想に酔っていることは後半の段落にこそ見ることができるだろう。野田氏は《子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ》と書いているけれども、前出の深谷氏の(狭小なる)事例からどこをどうすればこのように解釈できるのだろうか。このように、野田氏はあらかじめ青少年は精神的な病理を持っている、と認識しているので、たとい野田氏が「心の教育」に関して反対の論陣を張っていても、「心の教育」推進派はそもそも野田氏と同様に現代の青少年は精神的な病理を持っている、というパターンから始まっているので、その反対論は空疎に響くだけであろう。

 改めて指摘しておくけれども、野田氏は「「心の教育」は現代の青少年における病理的状況を加速させる」という理由に基づいて「心の教育」に反対している。しかしこのような論理は、「青少年における病理的状況」というものが至極イデオロギー的なものであることに対する注意を少しでも払っていれば展開できないものであろう。「心の教育」を撃つのであれば、まず推進派が共有している「青少年における病理的状況」という認識それ自体を撃ったほうが戦略的には有効である。要するに、例えば彼らは少年による凶悪犯罪の増加、不登校や「ひきこもり」の増加、及び青少年による「問題行動」の増加をもってして「青少年における病理的状況」としている。しかし、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比して大幅に減少しているし、不登校や「ひきこもり」にしても最近になって爆発的に増大したわけではない。青少年による「問題行動」にしろ、まず青少年に対する社会の認識、及びその認識を構築するマスコミ報道から疑う必要があろう。「心の教育」の推進派と反推進派が「青少年における病理的状況」という、例えば地球環境の悪化や経済成長の低下といったものとは違って定量化や数値化が不可能であり、イデオロギーによって大きく左右されやすい認識を共有している限り、議論は果てしなく不毛な俗流若者論の応酬にしかならない。野田氏の文章は、それを見事に表しているのである。

 参考文献・資料
 野田正彰[2002]
 野田正彰「「心の教育」が学校を押し潰す」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 保阪正康『戦後政治家暴言録』中公新書ラクレ、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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