俗流若者論ケースファイル60・田村知則
これまで私はさまざまな俗流若者論を相手にしてきたけれども、敵は思わぬ方向から飛んでくるものである。今回は、何と眼科医学の視点からの俗流若者論だ。執筆者は視覚情報センター代表の田村知則氏で、タイトルは「警告!子どもの「眼」がおかしい」である。ついでに言うと掲載誌は「新潮45」平成14年10月号。澤口俊之氏や片岡直樹氏のときもそうだったが、つくづく「新潮45」は擬似医学系の俗流若者論が好きだ。
田村氏は最初のほうである206ページにおいて、《最近の子ども達の目を見ていて気になることがあります。それは立体視能力の低下です》(田村知則[2002]、以下、断りがないなら同様)と書く。その理由として田村氏は、207ページにおいて、《空間を認知する能力が多いはずの集団(筆者注:高校生から大学生を中心としたスポーツ選手)にもかかわらず、近年この能力の低い子ども達が非常に目立つようになっています》と書いているのだが、まず過去との比較がない。この手の擬似医学系の俗流若者論は、データも出さずにただ不安だけ煽るのが好きだ。田村氏はこの直後に《数年前はこの検査で、こちらが何も言わなくても「立体的に見える」と瞬時に答えてくれる人がほとんどでした。しかし近年は、「立体的に見えませんか?」と誘導して「ああ…見えました」と答える人や、それでもわからない人が目立っています》とも書いているけれども、具体的なデータの提示はまだない。そして最後までない。
そしてこの手の擬似医学系の俗流若者論ではお決まりの展開、テレビゲーム有害論である。田村氏は208ページにおいて、いきなり《あくまで推測ですが、視覚能力が構築されるよう時期から、テレビやテレビゲームに没頭し、平面の世界を見続けた弊害ではないかと考えます》とでっち上げるのである。田村氏が他の要因を無視しているのを見る限り、田村氏は森昭雄氏や片岡直樹氏などと同じような思考回路、すなわち「今時の若者」が異常なのは体の部位のどこかが以上なのであり、そしてその「以上」を作り出したのはテレビやテレビゲームだ、という思考回路を持っているのは間違いないだろう。そしてこのような仮説は、この次の段落を読んで確信に変わる。
たとえば実際に野球場に野球を見に行ったとしましょう。ファウルボールが飛んできたら、自分の目で見て、判断して避ける必要があります。しかし、テレビで野球を見ていたとしたらどうでしょう?仮にボールが飛んで来たとしても、視線を移動させながらピントを合わせ続ける調節運動をする必要は全くありません。何故ならボールは飛んでくるように見えるだけで、実際は人とボールの映像の距離はいつも同じなのですから。テレビゲームはテレビよりもやっかいかもしれません。身体は本来とは違う形でゲームに参加し、眼も筋肉運動による調節力を活動させる必要はあるません。つまり、現実と違った身体運動と意識の奥行き感だけになります。
私はどこか壮大なデ・ジャ・ヴュを感じずにはいられなかった。つまりこの文章の趣旨の一部を変えると、テレビやテレビゲームは実際の感覚運動とは違う運動しかしないので、大脳前頭葉が異常になるのだ、とすれば、森昭雄氏とか片岡直樹氏のような論理と化してしまうだろう。違うのは脳が異常になる、というのと眼が異常になる、という部分くらいで、あとはほとんど同じだ。つくづく擬似医学系の俗流若者論というのは曲学阿世の縮小再生産の繰り返しであるよ。
しかも田村氏、210ページから俗流若者論において使い古された論理に固執する。例えば「活字離れ」。田村氏は《活字を媒介にしながら、外の眼(筆者注:光学的な役割としての眼球の働き)と内の眼(筆者注:学習によって獲得される眼球の働き)をつなげたり、離したりしていくというのが、本を読む行為です。ところが、いまの子どもは、こうしたことが非常に苦手なために、本が読めなくなっている。それが活字離れの一つの要因ではないかとも思っています》と飛躍した論理を展開するのだが、田村氏の論理に従えば、読書は動きすらないため、眼球のどこも発達されない、という論理になりかねないのだが。読書はオーケーで、テレビやテレビゲームはだめだということか。それでは田村氏の認識そのものを疑わざるを得ない。これは田村氏に限ったことではないのだけれども、読書を擁護しテレビやテレビゲームを非難する論理というのは、読書は健全な青少年が豊富なコミュニケーションのもとに行われるもので、逆にテレビやテレビゲームの視聴は病的な青少年が一人で部屋に閉じこもって黙々と自分の世界に閉じこもってやるもの、と最初からステレオタイプで規定されているからではないか。このような妄想でもって最初から善悪が決定されることに、私は憤りを感じ得ない。ちなみに田村氏は、同じページで《本を読む際には、外の眼と内の眼を絶えず情報を交互にやりとりしながら読む必要があります。ところが、テレビは観たままですから、イメージを膨らませ、想像する必要がない。内の眼を使う必要がないのです》とも書いている。田村氏がゲームを最初から眼球の機能に悪影響を及ぼすものと規定する態度がここでも見えてくる。
ちなみに田村氏は最近の子供たちが急速に本を読まなくなった、と規定しているけれども、国民生活時間調査によると、確かに活字一般に接している時間は青少年・若年層よりも中高年や高齢者のほうが多いけれども、中高年や高齢者に関して言うとそのほとんどが新聞であり、新聞を読んでいる時間を減ずるとむしろ青少年・若年層のほうが本を読んでいる計算になる(パオロ・マッツァリーノ[2004])。
もちろん田村氏は、《人と接するときも、相手の変化を刻々と捉えながら、こちらの反応を変化させていかないといけない。……テレビゲームだと、こうしたシステムは作られにくく、自分ではゲームの中で判断しているつもりであっても、ゲームを作成した誰かの意図の範囲の中で判断しているに過ぎません。そこには主体性貼りません》(210ページ3段目~211ページ1段目)とか書くのもやぶさかではない。田村氏は208ページにおいて《あくまで推測ですが》とエクスキューズしているけれども、いつの間にかテレビやゲームが「悪玉」として糾弾されているのは確かであろう。
更に田村氏は211ページ3段目においても、《私は検眼の実務家ですから、推測でしかありませんが、活字離れ、ひきこもり、友だちとのつきあい方がわからない――こうした子どもが多くなっているのも、目の働きから見れば、以上のように説明できるのではないでしょうか》と書いているのだが、これもまた俗流若者論のお決まりのレトリックであろう。そもそも《私は検眼の実務家ですから》と前置きすることで問題を深く考えたり調べたりすることを放棄して、単なる自分の思い込みだけでさも最近になって青少年問題が急速に深刻化した、とマスコミ報道の受け売りだけで済ませてしまう態度というものが、田村氏がこのような雑誌において発言する資格を問われかねないものであろう(いや、「新潮45」だから許されるのかな?)。何度も言うけれども、所謂《友だちとのつきあい方がわからない》青少年に関わる問題など、70年代安保の頃から現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏とか、精神科医の故・小此木啓吾氏などによって論じられてきた。「ひきこもり」にしても精神科医の斎藤環氏が20代の頃、すなわち80年代から斎藤氏の研究テーマとなっていたし、不登校にしろこれもまた最近になって急増したものと喧伝されているけれども、そのような宣伝には統計の取り方によるバイアスがあり、実際には昭和50年ごろから増加の一途を辿っている(奥地圭子[2002])。田村氏のこのような態度を見るにつけ、たとい社会科学の専門家でなくとも最低限のことは調べるべきだろう、と私は憤りを感じずにはいられない。
あまつさえ田村氏ときたら、212ページ1段目から2段目にかけて、《内の眼タイプ》と《外の眼タイプ》という2種類の人間を規定し、《深夜、物音がした時に、いったい何だろうといろいろと考え想像を広げていくのは内の眼タイプです。すぐに起き上がって確かめに行く人は外の眼タイプです》などと俗流健康番組の真似事までやってのける。他の真面目な眼科医が田村氏のこの文章を読んだらどのように考えるのだろうか、と私は心配でならない。
また、田村氏は212ページ2段目において、《私のところへ検眼や目のトレーニングに凝られる肩は、基本的には一般の方が主体です。……子どもの場合にはLD(学習障害)や引きこもりといった症状の人もいます(筆者注:「ひきこもり」は病気ではない!故に《症状》という表現は不適切・不謹慎極まりない!まあ、このような人にとっては、「ひきこもり」もフリーターも若年無業者も病気として取り扱われるのだからいまさらこのようなことを言っても徒労だろうが)。こうした子どもたちが眼のトレーニングをすることで変わっていくのです》と書いているのだが、このような文章を読んでいると、つくづく森昭雄氏や片岡直樹氏の自分礼賛を思い出してしまう。
カール・マルクスは、「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」という言葉を残した。しかし擬似医学系の俗流若者論の歴史は、2度と言わず3度も4度も、そして何度も繰り返し、その全てが喜劇の歴史である。要するに、多くの「善良な」民衆が憤っている「今時の若者」の問題に対し、「本質的な問題があるのだ!」と喧伝する曲学阿世の徒が現れ、その「本質的な問題」を身体の機関や脳の異常から引き起こされる問題として喧伝し、それが多くの支持を集める。そしてそのような状況がやがて日常として定着すると、次から次へとこの疑似科学市場に参画するものが続出し、疑似科学・曲学阿世の拡大/縮小再生産が繰り返され、この市場に参画するものは「今時の若者」に対する敵愾心だけで結束し、そして支持を集める。そして、次々と「若者論」というカーニヴァル的な状況が作り出され、大衆は偽りの「安心」「癒し」に狂奔し、やがて認識は堕落の一途を辿る。
それら疑似科学に対する科学的・論理的・倫理的な検証は最初から放棄される。これは明らかに我が国における科学の死を意味する。要するに、一部の跳ね上がりの異端によって、大衆の科学に対する認識が俗流若者論に屈服してしまうのである。今回検証した田村氏の文章により、眼科医学にすら俗流若者論の要請を受ける医師の登場を許してしまった状況がまた一つ明らかになった。他にも俗流若者論の要請を受け、それに唯々諾々としてしまった分野はあるのか?少なくとも脳神経科学や発達心理学、及び小児科学と動物行動学は世間では俗流若者論ばかりが横行する事態になっている。かように実証性を大事にするはずの科学分野に論理飛躍や概念の押し付けを酒とする俗流若者論が侵入してしまうことに、私は俗流若者論というローレライの歌声の恐ろしさを感じずにはいられない。
ところで、1度目は一体誰なのだろう?
参考文献・資料
奥地圭子[2003]
奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
田村知則[2002]
田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
パオロ・マッツァリーノ[2004]
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月
カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、2000年11月
笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
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