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2005年8月 9日 (火)

俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝

 歴史とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確に表すならば、俗流論壇人の自意識にとって歴史とはどのような意味を持つのだろうか、ということになる。現在において、歴史修正主義に基づく俗流若者論が左右を問わず増殖していることを、私はこの連載の第29回におけるノンフィクション作家の吉田司氏に対する批判において触れた。この手の歴史修正主義者は、過去のある時代に憧憬し、その時代はよかったとして現在を嘆く。しかしそこで引き合いに出される時代の時代背景というものは、その多くが過度に美化されたもので、陰陽が入り混じったリアルとしては決して描き出されない。

 今回検証するのは右派系の歴史修正主義的俗流若者論である。ジャーナリストの工藤雪枝氏による「平成“美顔男”たちへの憂鬱」(「正論」平成12年9月号に掲載)は、前半、すなわち314ページから320ページにおいて特攻隊への憧憬が描かれる。まあ、過去に対する純愛なら幾らでもやってください、というほかないのであるが、320ページから俗流若者論が登場する。曰く、

 ……「特攻」を知ることは、我々一人一人が生きることの意味、平和の意味、そして国家の意味を考えることに他ならない。特攻隊員達が、そのような大きな問いかけを後世に残したという意味において、彼らの死は決して犬死ではないと思う。

 しかし、現実に今の日本国民がそのような彼らの魂にどう答えているかということを考えると、私は暗澹とせざるを得ない。……

 また最近、街を歩くたびに多く見かける、若者達の公衆道徳のなさ、眼の輝きのなさ、背筋を曲げてだらだらと歩く様子。そのくせ化粧などに注ぐ情熱には驚くべきものがある。こうした彼らを見るにつけても、美しい、凛とした日本人はどこにいってしまったのだろうと思う。少なくとも、かつての特攻隊員達の遺影の美しさとは比べ物にならない。

 加えて、最近増え続けている若者による犯罪。……最近の若者には、ミーイズムが横行し、権利と義務という民主主義国家が持つべき二つの概念の中で、権利の主張のみが強調、正当化されている。(工藤雪枝[2000a]、以下、断りがないなら同様)

 このような文章を見るにつけ、何か病理的なものを感じてしまうのはなぜだろう。俗流精神分析家の真似事をさせてもらうと、工藤氏のこのような物言いは間違いなく特攻隊員の遺影を自らの恋愛対象としているのであり、その恋愛対象が工藤氏の中で絶対化され、その絶対像に見合わないものは全て劣ったものとしてみなされるといえよう。

 そして工藤氏の文章では、特攻隊が極度に美化されると同時に、現在の社会が極度に醜悪化される。特攻隊の話についてはここでは触れないで置くけれども、気になるのは工藤氏の国家に対する、そして若年層に対する態度である。例えば工藤氏は次のように述べる。323ページ。

 ……今実現されている平和と繁栄は、過去からの流れの中で常に意識されるべきである。日本人が自ら大東亜戦争を侵略戦争と卑下し、戦犯が祭られているという理由で靖国神社の背を向け、特攻隊員達の死を「無駄死」と考えることは、国家の歴史の連続性を否定し、また民主主義国家の国民としての過去と未来に対しての自分の義務の放棄につながる。

 今の日本はどうだろう。国家の庇護を当然のことと見なし、有り難さを感じていないのみならず、国旗や国歌に関する態度を見る限りでは「国家」という概念でさえ否定しようとする国民も少なくない。国民を啓蒙していく役割を持つマスメディアの多くは、戦後一貫して「国」を否定し続けてきた。民主主義においては、国民が国家をつくり、国家が国民を守るという国家と国民の弁証法的関係がある。自らの義務に向って努力しない「国民」には、それ相応の「国家」しか与えられないという現実的危機感を、日本人はもっと持つべきだろう。

 この論文全体が工藤氏の特攻隊員への純愛物語として構成されているのだから、このようにもっともらしい言われ方をしてもただ虚しいだけだ。そもそも工藤氏は、この論文において、「国家に尽くす自分」を過度に理想化していないか。すなわち工藤氏にとって国家とは単なる憧憬と純愛の対象に過ぎないのであり、従って工藤氏の目に映る「国家の存在を否定するような行為」は自らの恋愛対象に対する否定として映るのであろう。

 そして工藤氏の国家に対する意識は、「中央公論」平成12年10月号に掲載された「ミーイズム日本の迷走」でも引き継がれている。この文章は総理府(当時)によって行なわれた「社会意識に関する世論調査」の結果を読み解く、という内容なのだが、この文章は特攻隊に対する純愛がないことを除けば全て「正論」の論文と内容が同じ、すなわち現代の日本人における「国家」意識の喪失を嘆く、というものだ。しかもその「国家」意識の喪失というものが若年層において強まっている、と工藤氏は調査から読み取っている。例えば工藤氏によると、平成3年において「国民全体の利益を大切にすべきだ」と答えた人が45%、「個人の利益が大切だ」と答えた人が24%だったのに対し、平成10年では前者は37%、後者は30%となったという。しかし、社会が成熟していくと何が国民全体の利益であるか、ということの判断が難しくなってくるので、そんなに唐突に問われても困るような気が駿河。しかも工藤氏は、年齢層が低くなるにつれて「国民全体の利益を大切にすべきだ」と回答する人が減るといっているけれども、具体的な数値を示していないのでどのように減少しているかはわからない。同様に、工藤氏は防衛意識に関する世論調査においても、自衛隊や防衛問題への関心について年齢層が低くなるほど「日本の平和と独立に関わる問題」から「災害派遣への対応」に移行していることについても触れているけれども、工藤氏はそこでも具体的な数値を出していない(工藤雪枝[2000b])。

 あまつさえ、工藤氏は以下のように書いてしまうのだから滑稽である。

 最近の若者向けの雑誌や、街を歩いている大半の若者から得る印象というのは、自分の外見やファッションといったことには大きな関心があるものの公や国といったものには、いかに関心がないかということがしっかりと実証されている。(工藤雪枝[2000b])

 その程度で《実証》としてしまっていいのだろうか。

 今回検証した工藤氏の2つの論文から言えることは、工藤氏は少なくとも「国家」というものに対しては強い帰属意識を持っているけれども、しかしその帰属意識がなんとも漠然としたものに過ぎない、ということだ。工藤氏は「国家に対して忠誠を尽くすことは素晴らしいことだ」と考えていることはよく分かる。しかし、その先がまったく見えないのである。すなわち、なぜ素晴らしいのか、そしてなぜ工藤氏はそこに素晴らしさを感じるのか、ということはまったくわからないのである。

 このような態度は、確かに「今時の若者」における「国家」意識の喪失を嘆く人には受けるかもしれない。しかし、このような文章で若年層に「国家」に対する意識を植え付けられるのか、と問われたら大変疑問である。なぜか。それは、この論文における「国家」というものが単なる工藤氏の妄想を超えていない、もう少し言えば人々の営みや風土、国土としての国家がすっぽりと抜け落ちているからである。これらの一連の論文において、現在のことに関しては、ただ過度に醜悪化されているだけの話で、果たしてそのような文章で若年層を「説得」できるか、ということに関しては大いに疑問が残るのである。

 このような現象が生じているのは、ひとえに工藤氏にとって国家というものが、あるいは歴史というものがいかなる位置を占めているか、ということに関する疑問を紐解いていく必要があろう。工藤氏の国家や歴史に対する態度は、これまで何度か述べてきたとおり、工藤氏は国家に対して純愛をしている、という表現がもっとも適切であろう。確かに国家に対する純愛、というスタイルを私は否定するつもりはないが、だからといって自らの崇拝している偶像としての国家を過度に絶対視し、自らの気に食わないものは全て「国家」を喪失したものとして攻撃するという態度はやめていただきたい。それにしても、この文章を読んでいると、(幻想としての)国家に対する後ろ向きの屈折した態度のないナショナリズムというものが、いかに自分の個人的な不快感と国家を結び付けてしまうか、ということがわかる。確かに今の日本にはたくさんの問題があるが、それでも私はこの国を愛する、というのが愛国心だと私は思うのだが。余計なお節介かもしれないが。

 工藤氏が妄想の「国家」しか抱けない、というのであれば、それは愛国心でも国家意識でもないのではないか?

 蛇足だけれども、工藤氏の「国家」意識は、この連載の第31回で検証したジャーナリストの細川珠生氏の「国家」意識と似ているような気がした。

 参考文献・資料
 工藤雪枝[2000a]
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝[2000b]
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月

 齋藤純一「愛国心「再定義」の可能性を探る」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

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