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2005年8月21日 (日)

俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦

 現代の我が国におけるナショナリズムを支えている最大の基盤は俗流若者論である。俗流若者論において、マスコミが問題にしたがる「今時の若者」の「問題行動」を鬼の首でもとったの如き採り上げては、彼らを「国家」の喪失した存在とかいったレトリックで罵り、教育で愛国心を教えよ、とか日本人の歴史や言葉を取り戻せ、といった飛躍した論理が見られるのは最近ではもはや日常茶飯事である。とりわけ数学者の藤原正彦氏はその典型であろう。というわけで、今回検証するのは、藤原氏の文章「数学者の国語教育絶対論」(「文藝春秋」平成15年3月号に収録)である。藤原氏のこの文章を検証することは、現代の我が国、特に俗流若者論において「日本語」がどのようなスタンスでもって用いられているか、ということを検証するためにも大変重要だと私は思うが、それに関してはこの文章の終盤で述べていこう。

 まずは藤原氏の事実認識から検証していきたい。この部分にも、藤原氏のナショナリズム的に潤色された事実誤認がいろいろあふれ出しているのである。例えば藤原氏は最初のほう(179ページ上段)において《世界一といわれた治安のよさも失われた。正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加し、恐るべき援助交際や少年非行に加え、金銭にからむ不正が政官財民に蔓延するなど、国民一般の道徳も地に堕ちた》(藤原正彦[2003]、以下、断りがないなら同様)と言って、《教育を立て直すこと意外に、この国を立て直すことは無理である》《教育の質はそれを受けた者の質を見ればたちどころにわかる。大学生を見れば質の低下は著しい》(共に179ページ後半)と書く。しかし、例えば《世界一といわれた治安のよさ》=所謂「安全神話」に関しては、例えば少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろと比して大幅に減少しているとか、また検挙率に関しても最近になって警察の被害届けの取り扱いが変わったことによるものが大きいし、諸外国に比べれば我が国の犯罪率は極めて低い水準を保っている。特に諸外国に比して我が国の20代が殺人をしでかす割合は極めて低く、総体として見れば「治安が悪化している」という言説がかえって人々の治安に対する不安を更に高めているということが見抜ける。更に藤原氏は《正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加》と語っているけれども、これはフリーターを指しているのだろうが、あくまでフリーターは社会構造の問題から切り離せなくなっているし、《国民一般の道徳も地に堕ちた》とは言われているけれども、そう見えるのはそれまで経済成長が全てを隠蔽してくれたからであろう。さらに《大学生を見れば質の低下は著しい》と藤原氏は書いているけれども、このような主観から安易に教育の「劣化」を語らないというのが物書きとしての良心であろう。

 また藤原氏は《国語が思考そのものと深く関わっている》(180ページ)と語っているけれども、これに関しては別段異論はないどころか、大いに賛同する。しかし藤原氏のこの文章は、藤原氏の思考力が「それほどのものでしかない」ことを如実に表しているかのごとき表現もまた頻出する。例えば藤原氏は183ページ下段において、《高次の情緒には、なつかしさ、という情緒もある。人口の都市集中が進み、故郷をもたない人々が増える中で、この情緒も教えにくくなっている》と藤原氏は書くけれども、では《なつかしさ、という情緒》は藤原氏の言うところの《故郷》でしか育たないのだろうか。この文章を読んでみる限り、藤原氏の言うところの《故郷》とは、都市とはまた対比されるべきものであると捉えられるかもしれないが、例えば私は物心ついてから2回ほど引越しをしたことがあるけれども、全て郊外の団地であった。しかし今では小学生や中学生の頃の想い出、更には高校生の頃、更に最近では成人式実行委員会として活動したときの想い出が今でも懐かしく思い出される。藤原氏の論理に従えば私はずっと《なつかしさ、という情緒》を持つことができない、ということになるはずだが。藤原氏はもうちょっと広義の「故郷」というものに眼を向けるべきではないか。また藤原氏は185ページ下段において《脳の九割の内容を利害得失で閉められるのは止むを得ないとして、残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害損失では救われない。/ここを美しい情緒で埋めるのである。……もし官僚のう脳の一部に、もののあはれが農耕にあれば、その判断は時に利害を離れることもありうる》と書いている。しかしそのような文章の直後にこのような文章が続いていると一気に落胆してしまう。曰く、

 たとえば日本の農業を考えるとき、経済的には外国から安い農産物を自由に輸入することが最善としてもすぐにそういう決断しないかも知れない。農業の疲弊は田園の疲弊であり、美しい自然の喪失である。もののあはれは、四季の変化にめぐまれた日本の繊細で美しい自然によりはぐくまれるものだから、この情緒も衰退するであろう。世界に誇るこの情緒は日本文化の淵源であり、経済上の理由で大きく傷つけてよいものだろうか、と反問するに違いない。……

 一般的な解釈では、これもまた《利害損失》というべきものではないのだろうか。藤原氏が《利害損失》=経済的な利害損失としか考えていないとしたら、それこそ藤原氏の思考の貧困さが出ている文章といえよう、先ほどの《故郷》と同じように。

 さて、藤原氏は《祖国とは国語である》(186頁下段)と考えているらしい。これは確かに正しいのであるが、もう少し踏み込んだ説明するならば国語(言語)とは自分の所属している共同体に対する帰属意識を確認するための記号である。何も所謂「ギャル文字」「2ch言葉」みたいな極端な例を表さなくとも、例えば声優の野川さくら氏と野川氏のファンのやり取りを見てもそれを垣間見ることができる。基本的にこの場におけるやり取りはごく普通の日本語によって行なわれるけれども、例えばその中でさりげなく野川氏を中心とするコミュニティを象徴する言葉、すなわち「おはよう」とか「こんにちは」を意味する「にゃっほ~♪」などという言葉が入ったとき、そこにおけるコミュニティが野川氏を中心とするコミュニティであることが表される。他にも声優のラジオ番組などを聴いていれば、このような日常とは違う言語表現が少しだけ入ることによってそのコミュニティの特徴が表されるような言葉は時々見かけることができる(堀江由衣氏のラジオにおける「こんばんてん」という挨拶なども然り)。数学には数学の言語が、建築学には建築学の言語が日常言語と並立して置かれ、日常言語とは違ったコミュニティ独特の言語が日常言語の中にさりげなく組み込まれることによってコミュニティの特性が表される、ということは少し探せばたくさん見つかる。

 さて、このあたりで藤原氏流の《祖国とは国語である》という論理の危うさについて触れてみよう。明治維新以降の過程において、日本の近代化のために、「日本人」とか「日本民族」が最初から一体のものであるというフィクションを捏造する必要があった。それに大きく役割を買ったのはもちろん教育であった。更に明治時代から現在にかけての都市政策や教育政策によって、地域のコミュニティ、そして地域言語としての方言が破壊され、都市居住者は(もう少し広く言えば都市から独立していないコミュニティの居住者は)標準語によってコミュニケーションしなければならぬ状況が生じた。藤原氏の立論の危うさは、国家が「正しい日本語」「美しい日本語」を規定し、それにかなわぬ言葉は全て「乱れている」とか蔑視されることによって、言葉の持つ柔軟性が失われるのではないか、ということだ。「今時の若者」における「言葉の乱れ」をしきりに嘆く自称「知識人」が、同時に「方言を大切にしよう」と喧伝するのはなんとも皮肉なことだ。

 藤原氏がこの論文において国際的なパワー・ゲームとしての「日本語」の一体性を重視していたり、あるいは藤原氏のこの文章が収録されている「文藝春秋」の特集「日本語大切」におけるおそらく編集者によるものであろうリード文における《言語の衰退は国家の衰退。巷にはびこる珍妙な日本語を見直し、今こそ「私たちの言葉」を手に入れよう》という表現にも見られるとおり、日本人全員が教育によって「正しい日本語」「美しい日本語」を習得しなければ国際社会で勝ち残ることができない、という認識に立っていることを見るにつけて更に私の疑問は深くなる。そもそも彼らはなぜ国際社会で勝ち残ることや生き残ることを絶対視するのだろうか。いや、私は何も我が国が米国の51番目の衆になってもいい、と言っているわけではない。そうではなく、私はそのための「手段」を問題化している。すなわち、国際社会で生き残るための手段が、「内なる他者」というよりむしろ「内なる汚物」としての言葉の「乱れ」をしきりに攻撃することで、「日本人」「日本文化」という同一性を保つことにより、国際的な力を得ようとする行為が、果たして本当に正統の行為であるか、と私は問いたいのである。そもそも我が国の文化は彼らの認識の外で着々と広がっている。我が国の伝統文化から、更には我が国におけるアニメや漫画といった最近のサブカルチュアが「クール・ジャパン」として認識されつつある。このような(広義での)日本文化の広まりは、彼らの妄想する「強い国家」とは別のところで動いている。

 俗流若者論の恐ろしさは、個人的な「今時の若者」に対する憤慨がそのまま国家とか歴史とかに短絡されてしまうことである。俗流若者論に依拠する人たちは、「国家」や「歴史」みたいな幻想をバックにつけることによって「今時の若者」を「国家を喪失した存在」とかいったレトリックで批判するのだが、これを「虎の威を借る狐」という。そして国家という「虎」の威厳を借りることによって「今時の若者」をゲットーに囲い込む人たちは、さも駝鳥が穴の中に首を突っ込んで世界は平和である、と認識する如き錯覚に陥る。殊この藤原氏の文章や藤原氏の文章が収録されている特集には、かくのごとき「駝鳥の平和」の思想が底流として流れている。このような「駝鳥の平和」がやがてレイシズムにつながった例が、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏による「ギャル文字」への評価、すなわち「ギャル文字」はもはや言語的な認知を超えたものであり、このような文字の蔓延は日本人の言語能力の対価を意味する、というわけのわからぬアナロジーであろう。我々が最も撃つべきはこのような「駝鳥の平和」の如き錯覚であって、他者に対する攻撃でなく寛容をベースとした真の平和を築かなければならない。

 最後に藤原氏についても述べておこう。藤原氏は「祖国は国語」だとは言うけれども、藤原氏のこの文章における「日本語」や「日本文化」や「故郷」などの言葉を観察するにつけ、藤原氏にとっての「祖国」とはその程度のものなのか、と嘆かざるを得ない。すなわち、藤原氏の言うところの「祖国」とは、所詮藤原氏の利害や自意識の範囲を出ることがなく、他の人が自分とは違う形で「祖国」や「故郷」を構築していったり、あるいは「日本語」や「日本文化」がさまざまな変化と分化と同一化を経て形成されたものであるということに対する想像力もない。藤原氏は、もっと「故郷」とか「文化」とかいった言葉に対する広い視野を持つことが必要であろう。

 ついでに、この特集に収録されている、ジャーナリストの日垣隆氏の「判決文は悪文の見本市」は面白いから一読をお勧めする。

 参考文献・資料
 藤原正彦[2003]
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月

 多和田葉子、田中克彦「ことばを知る、ことばを語る」=「論座」2004年12月号、朝日新聞社

 参考リンク
 「野川さくらオフィシャルサイト「さくらメロディ♪」

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 参考記事
 「正高信男という頽廃
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信
 「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

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