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2005年8月 7日 (日)

俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗

 平成12年5月は、所謂「17歳の犯罪」が多発した時期であった。平成12年から13年にかけての月刊誌において俗流若者論が多かったのは、このことから来るのかもしれないが、かといって益体にもならぬ「憂国」言説を垂れ流して、過去の事例に触れようともせず、また青少年を取り巻く現実をまったく無視することが許されるはずはない。これは少年犯罪に限らず、青少年に関する論考を書くものであれば、全ての人がわきまえなければならないことであるし、そのようなことをわきまえて書く人は秀逸な論考を書くことが多い。

 その点からかんがみると、脚本家の石堂淑朗氏は、青少年に関する論考を書くものとしては最も質の悪い分類に入る。石堂氏は、「正論」で「平成餓鬼草子」なる俗流若者論ばかり飛び出す連載で、自らの思い込みに基づく思考停止を遺憾なく発揮するほか(「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」ではこの連載の第86回と87回を検証した)、「新潮45」ではことあるごとに箸にも棒にもかからぬ単なる「憂国」言説ばかり書き飛ばしている。

 故に、石堂氏が平成12年5月に起こった一連の「17歳の犯罪」に関して、俗流若者論を書き飛ばすことは想像に難くないことだろう。そして、本当に書いていた。「新潮45」平成12年6月号に掲載された「こんな「十七歳」に誰がした」である。何せ石堂氏、冒頭から《一人逃げたら一人殺すという言い方は正しくゲーム感覚のものである》(石堂淑朗[2000]、以下、断りがないなら同様)などと勝手に定義をでっち上げているのだから。このように、この石堂氏の文章においては、石堂氏自身の思い込みに過ぎぬ論理飛躍が華麗に展開される。

 とはいえ、この文章は、はっきり言って現在の青少年を最初から「異常である」と決め付けた上での暴論でしかないのだけれども。この文章では過度に「私語り」、要するに自分のことを語り、それを素晴らしいとして、今は(石堂氏の自意識のよりどころとなっている)それらが失われたからこのような犯罪がたくさん起こるようになってしまったのだ、という口調が目立つ。いい加減やめてくれないか。そのことで青少年問題が解決するとしたらもはやお笑いである。

 例を挙げてみる。45ページの1段目から2段目。

 ……それが叔父(筆者注:石堂氏)も甥(筆者注:石堂氏の甥)も大過なく人生を送ってこれたのは(筆者注:「今時の若者」を不当に嘆く文章で「ら抜き言葉」はまずかろう)、ヴァーチャルリアリティー…なぞは幾ら人の心を奪っても所詮は絵空事ということをチャンと弁えていたからである。これこそが本当の人生という、あるときは嬉しい、別の時には鬱陶しいまでに細々示威事柄がいっぱい詰まった日常生活の仕組みこそが本当の世界という認識から逸脱するようなことは絶えてなかったのである。この日常があらゆる面で滅んでしまった。

 カー付き、ババ抜きの核家族がその犯人である。老人がいないのが建前のこの生活の特徴は、人間関係の希薄化にある。祖父母と孫、嫁姑、婿舅の関係が消え、それは必然に叔父叔母、甥、姪の来訪といった現象の消滅を伴う。今日は従兄弟が遊びに来るといった嬉しい日は消えた。何と言う淋しいことになたのだろう、にぎやかな一族集合の情景は幼い私の記憶に強く、懐かしく残っているというのに。

 面白い。何が面白いかというと、石堂氏がここまで自分を絶対化できることが。まず、核家族化が進行したからといって、それが《祖父母と孫、嫁姑、婿舅の関係が消え、それは必然に叔父叔母、甥、姪の来訪といった現象の消滅を伴う》などということを引き起こすか、ということに関しては相当に留保が必要であろう。また、石堂氏は前半の段落において、ヴァーチャルリアリティは《所詮は絵空事》であるからこそ犯罪を起こさない、と言っているのだろうが、我が国にはヴァーチャルリアリティを「絵空事」以上のものとして認識する人がたくさんいるのに、だからといって我が国において青少年による凶悪犯罪が増えているわけでは決してない。ぜひとも、このような物言いを、ライターの本田透氏はどのように考えているか聞いてみたいところ。

 ちなみに本田氏は、著書『電波男』(三才ブックス)において、ヴァーチャルリアリティへ性的欲望を持つことの正当性を訴えている(本田透[2005])。この本は傾聴に値する部分も多いが論理飛躍も多いので評価としては微妙な部類に入るけれども、この本を読んで少なくともわかることはヴァーチャルリアリティを「絵空事」以上のものと認識することによって、かえってヴァーチャルリアリティが「絵空事」であることが強調されるという逆説である。45ページ2段目において石堂氏は《現実とゲームの世界を同一化させてしまうのは、ゲームに吸い込まれてしまうほどに現実が現実としての迫力を喪失しているからである。子供は短くて髭根のない青首大根と化して、核家族という名の畑からいとも簡単に抜けるのである》と書いているが、あまりにも単純すぎる図式化だし、このような幻想に取り付かれている限り本田氏の著書における逆説を理解することはできるだろうか。

 それにしても、どうも石堂氏はテキスト化した俗流若者論しか書くことができないようだ。結局のところそれは石堂氏の俗流保守論壇に対する媚びであり、またそのような行為によって脆弱な自意識を埋め合わせることにしか過ぎないのではないか。

 46ページ1段目から2段目を紐解いてみよう。

 戦後五十五年を閲してついに日本は十七歳のバスジャック犯一人に振り回される情けない、国ともいえない国に変貌堕落したのである。

 最大の犯人はオンナである。専業主婦を馬鹿呼ばわりして止まぬフェミニストと、小刀は狂気であり、武器であるという訳の分からぬ屁理屈で小学校工作の時間から小刀を奪った、平和教育主義者左派社会党系列のオンナとそれに迎合する日教組連中であった。こういう手合いが黴のように増殖したのが戦後民主主義という名のシャーレに他ならないのである。

 さてフェミニストに相当する勢力を別の角度から見るとそれはさしずめ人権主義者たちと言うことになるだろう。

 石堂氏のこのような過剰な被害者意識は、そのまま俗流保守論壇における被害者意識につながる。要するに、この社会を悪くしたのは自分たちではない、自分とは反対の意見を持った《平和主義者左派社会党系列のオンナとそれに迎合する日教組連中》だ、ということである。こういう人たちが好んで青少年に「責任」を押し付けるのだからもはや状況はお笑いを通り越して凍土である。もちろん、犯罪者になったからには法の下に行為相当の責任を取らなければならないが、少なくとも被害者意識にまみれた石堂氏の如き「国粋主義者右派自民党系列のオトコとそれに迎合する俗流右派論壇連中」(笑)に「責任」を語る資格はないのである。ちなみに私は「反俗流若者論主義者左派民主党系列のオトコ」である。

 このような石堂氏が、《少年法改正の声が高くなっている今、かれら悪党ショーネンどもの間で、やるんなら今のうちだぜという声が飛び交っていることを知っているのは、更に一層の常識と言うものだ》(46ページ)などと妄想を語っていることは、もはや驚くに値しないであろう。

 石堂氏のこの文章は、我が国の一部の雑誌においていかに短絡的で即発的で差別的な「憂国」が好まれるか、ということを如実に示している。このことは、石堂氏のこの文章のみならず、そのまま石堂氏の執筆活動全体に当てはまることかもしれぬ。石堂氏はこのような下らないことばかりしているなら本業の脚本家に戻れ、と私は言いたいけれども、このような状況ははっきりいって執筆者、編集者、読者の共犯関係の上に成り立っているので、まず編集者と読者の良識によりこのような下らない文章ばかり量産する執筆者が文章を書けないようにするのが望ましいのだが、少なくとも論壇、特に俗流保守論壇は石堂氏の如き「下らないこと」で儲けている人が多い。金と俗流若者論の魅力には勝てないということか。

 だが、文章で金を得る人は、その金相応の仕事をしているか、ということを意識しなければならない。それが文筆家の誇りというものだろう。その誇りを失って単なる空疎な金儲けに走ってしまったら、堕落の一途を辿るだろう。まあ、石堂氏に「誇り」があるのかどうか疑問だが。

 石堂氏のこの文章の結び(47ページ)はこの通り。

 ……それがこういう想像を絶する自己中心主義を生むに至ったのは、度の過ぎた人権主義同様にこれまた戦後民主主義の泥沼の故なのである。

 かくしてバスジャック事件は日本の大人とショーネンが同時に、世界相手に恥を晒した滑稽にして悲惨なテレビショーであったことが知れるのである。

 《それがこういう想像を絶する自己中心主義を生むに至ったのは、度の過ぎた》拝金主義《同様にこれまた》俗流若者論主義の《泥沼の故なのである》。

 《かくして》石堂氏の仕事は日本の俗流保守論壇と読者が《同時に、世界相手に恥を晒した滑稽にして悲惨な》論壇ショーであったことが知れるのである、まる。

 参考文献・資料
 石堂淑朗[2000]
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

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