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2005年8月29日 (月)

俗流若者論ケースファイル69・小林道雄

 この連載の第64回において、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏が「世界」平成15年7月号に書いた文章を批判したとき、コメント欄に「「世界」ですらこのような俗流若者論を書いているのか」というコメントを頂いた。なるほど確かに「世界」には俗流若者論が掲載される確率は低い部類に属するけれども、だからといって俗流若者論が完全に出ないわけではない。今回は2000年代に「世界」に掲載された俗流若者論の中でも真打を検証する。

 今回検証するのは、ジャーナリストの小林道雄氏が「世界」平成12年12月号から平成13年3月号まで行なっていた短期集中連載「少年事件への視点」の第3回と第4回と、「世界」平成13年4月増刊号に掲載された小林氏の文章である。小林氏の最近の仕事に関しては、警察に関するものと、青少年に関するものの二つに大別されるのだが、この二つの仕事を見比べてみると、この二つの仕事は本当に同じ小林氏によって行なわれたものなのか、ということだ。警察に関する仕事は権力の深層にもぐりこむ、という気迫が感じられるけれども、こと青少年に関する仕事を読むと小林氏は俗流若者論しか知らないのではないか、と錯覚してしまうほどそのレヴェルは落ちる。中には疑似科学に陥ることまである。ここで検証する小林氏の文章は明らかに青少年に対する小林氏の蔑視の感情を感じることができる。

 まず短期集中連載の第3回「何が子どもを歪めさせたのか」(「世界」平成13年2月号に掲載)を検証しよう。この文章のリード文において、《小児神経学の知見から、幼児期の発達と思春期の犯罪の関係をさぐる。子どもが健やかに育つための環境が損なわれている現代において、「育つ」ことがいかに難しいことか》(小林道雄[2001a]、以下、断りがないなら同様)とかかれており、このような視点でかかれる俗流若者論というものが、いかに恣意的な《小児神経学の知見》やそれ以外の「科学」の濫用で構成されているか、ということに関しては、この連載の第485660646667回を参照していただきたい。そして小林氏のこの文章もまた、そのような疑似科学の隘路にはまっているのである。

 案の定、小林氏は102ページにおいて《いびつになった脳》と称した項に入ってしまうのである。ちなみにここまでの97~102ページの記述に対しては、その全てが家裁調査官などの回想や懐古主義で埋め尽くされており、そこで聞いた事例がどこまで広がりを持っているか、ということに小林氏は行なっていないので検証しない。しかし小林氏が、そして「世界」が俗流若者論において疑似科学、そしてそこから派生するレイシズムを肯定してしまうことは何度でも批判する必要があろう。

 小林氏は103ページにおいて以下のように書く。

 取材の結果、今の子どもには他人の痛みが分からない子が多いこと、きわめて感受性の未熟な子がいること、総体として思考能力が低下していること、またかこの心の傷や不満を位置人称的に悩んで申そうかさせる子がいることなど、いくつかのことを知らされた。

 それらの問題について、私は調査官の見解と共に状況から考えられる理由を述べてきたが、果たしてそれだけだろうかという思いは常につきまとっていた。そして、その想いをもっとも強く感じさせられたのは、保護監察官I氏の話を聞いたときだった。

 「今の子どもたちの問題は規範以前、人間としてのものがトータルとして足りないという感じがします。……」

 実を言えば、私には前から話を聞きたいと願っていた人がいた。それは〈少年事件の分析には小児神経学の眼が必要です〉と書かれた朝日新聞の『ひと』欄を読んだことによる。レット症候群(筆者注:「這い這い」や手を振って歩くことができないために大脳連合野が働くなった病気とされている)国際会議を主宰した医師として紹介されていた瀬川昌也氏は、〈一定年齢でおきることには必ず発達が関係しています。十七歳の事件も、乳幼児期の発達の問題だし、廊下も発達の繁栄です〉と述べていたのである。

 しかしこの瀬川氏ときたら、この時期の少年犯罪にして疑似科学的な俗流若者論を展開して全てを語った気になっている。発達の問題で全てが解決されるのであれば、犯罪を誘発する「発達の歪み」を生み出す家庭を摘発して矯正する、という言説が生まれかねないし、このような疑似科学的な俗流若者論を展開する人は我が国において少年が凶悪犯罪をしでかす確率が諸外国に比べて著しく低いことを引こうとはしない。まあ、彼らにとって少年犯罪は格好の飯の種だからそこまで想像力が及ばないのであろうが。

 小林氏の文章の分析に戻ろう。小林氏は瀬川氏から聞いた話を基にして、104ページにおいて以下のように述べているのだが、小林氏は明らかに疑似科学の罠にはめられている。

 結論から言えば、調査官が指摘している今の子供たちの問題点、未熟さ、他人の痛みが分からないこと、妄想への傾斜、保護監察官I氏が語ったような行動のアンバランス、そして私が感じている不登校児の問題などは、いずれも生後四ヵ月までの正常な睡眠と、その後の「這い這い」がきちんと行なわれてこなかったことに起因しているようである。

 なんとも意外に感じるが、瀬川氏に寄れば生後四ヵ月までの睡眠と、十ヵ月後に始まる「這い這い」のありようが、脳の土台というべき機能を決定するということなのである。

 つまり、言語や社会的理性など人間を人間たらしめている能力は、前頭葉にある大脳連合野の働きに夜が、その土台となる脳の仕組みが間違いなく作られていなければ大脳連合野は正常に作動しない、未熟になるということなのだ。

 小林氏はこのように書いているけれども、小林氏は昨今の犯罪少年、更にいえば今の子供たちにおける「這い這い」の実態を示した定量的なデータを最後まで示していない。これはむしろ小林氏が瀬川氏に問い詰めるべきことなのであったが、しかし小林氏は小林氏の思い込みだけで子供たちについて語ってしまっているので、データ抜きのステレオタイプにはまってしまうのも理の当然だと思うが、理の当然だからといって許されるわけではない。しかもここで語られている如き大脳前頭葉の発達の歪みが社会性を失わせる、というのははっきり言って脳機能障害者に対する差別につながる。「世界」の岡本厚編集長は気づかなかったのだろうか。

 さて、瀬川氏は明らかに俗流若者論御用達の疑似科学者の振る舞いをする。瀬川氏は何と不登校の原因は睡眠障害だ、という珍説を開陳してしまうのである。もちろん、瀬川氏は最近になって不登校が急増したと思いこんだ上でこのような珍説を語る。不登校に長い間付き合ってきた奥地圭子氏の話を、小林氏も瀬川氏も正座して聞くべきだろう(最近になって不登校が急増した、ということが以下に虚偽であるかについては奥地圭子[2003]を参照されたし)。106ページ。

 「ある方が不登校というのは時差ボケの状態が続いているのと同じだと指摘していますが、その通りなんです。というのは、おきたり寝たりする時間と体温のリズムが全然合っていないんです。体温のリズムというのは明け方に近い深夜がいちばん低くて、夕方五時ごろがいちばん高いという周期になっていて、起きたときには上昇に向かっているから気合が入るんです。それが遅れていてまだ低い状態にあったら、ぜんぜんやる気は起こらない。だから行きたくないとなるんです」

 不躾ながら、私は中学から高校にかけて学校に行きたくない、と思うことは何度もあったし、授業を放棄して保健室に行っていたこともしばしばあるし、大学に入っても人付き合いがうまく行かずに困惑したことがよくある。また、私の近くには何名か不登校児がいた。そのような経験から私は不登校や「ひきこもり」は社会的要因ではなく発達の歪みから来るのだ、という論理がいかに暴力的であるか、ということについて十分熟知しているつもりである。もちろん一部には瀬川氏の述べた如き理由から不登校になる人もいるかもしれないが、不登校になる人の大抵の原因は学校内でのいじめや人間関係の悩みなどが大半である。このような社会的な影響を無視して不登校について語るのであれば、瀬川氏は不登校を語る上では明らかに能力として欠けているものがある、というほかない。小林氏も小林氏だ。小林氏が青少年に関して取材を重ねているのであれば、少しでも反証になりそうな事例を挙げて反論すべきだろう。小林氏は107ページにおいて《困ったことに不登校の子どもは、決まったように昼夜逆転の生活になる。行けないものを行かすわけにはいかないが、これではいつになっても時差ボケ状態は改善されない》と語っているけれども、原因と結果が逆転していないか。

 小林氏は108ページにおいて更に以下のように述べる。

 日中の活動が低下して深い睡眠がとれず、セロトニンが減ってドーパミンが編に活発になることは、まず他動になるということだが、それだけではなかった。小学校時代には無気力になって依頼心が強くなり、中学三年ぐらいの年代で甘えの反面の粗暴行為が出てくるようになる。また、セロトニンの減少は対人関係に問題を起こしがちで、環境への順応を難しくするということなのである。

 このような物言いは、自分は不登校とも「ひきこもり」とも、更には人間関係に支障をきたすことにすら関係ない、と思い込んでいるからこそ言えるのだろう。確かにそういう人たちはうらやましいけれども、だからといって不登校も「ひきこもり」も人間関係に支障をきたす人も病気だ、脳とか発達に障害を抱えている劣等人種だ、という論理を開陳するのを見ていると、かえって人付き合いは少ないほうがいいのかもしれない、とすら思ってしまうことがある。このような物言いを、「ひきこもり」とか不登校とかの当事者が見たらどう思うだろうか。もしこの文章を読んでいる人が「ひきこもり」とか不登校とかの経験を抱えているのであれば、あるいは人間関係で悩んでいれば考えて欲しい、あなたが悩んでいる(悩んでいた)のは脳や発達に障害があったからなのだ、といわれればあなたは納得するか?少なくとも私は納得しない。

 瀬川氏や小林氏は更に109ページにおいて以下のようにも述べてしまう。ここまで来るともはや与太話以外の何物でもない。

 「覚えるけど忘れないというのは、自閉症の子がそうなんです。最初に入ったパターンを覚えていて、決まったことはきちんとやれる。そこで最初に数が頭に入ると、算数から高等数学までどういう頭の回転でやるのかわかりませんが、ものすごい才能を発揮する。他のことは全然できませんが。で、ノーマルな子がそうなった場合も、ドリルなんかを早期教育でやらせると、答えがあることについてはどんどん伸びて、偏差値の上のほうに言ってまっすぐに一流大学に入る。だけど、そういう人は答えが出ないことにはすごく困る。それでも学歴社会ですからエリートコースに乗る。しかし、行政機関であれ学問の世界であれそういう人が指導的役割に就くと社会としてはちょっとまずいことが起こる。批判する人がいればいいけれど、修正しませんから硬直化が起きるんです。それと、答えの出ないことは分からないから、おかしなことも起こる。勉強の面で優秀な人にはときどきそういう脳の持ち主がいるということです」

 私が瀬川氏への取材で何より感じさせられたことは、臨床医としてレット症候群や自閉症という難病に取り組んで研究を深め、国際会議を主宰するほどの意思の知見が、なぜ一般に知られていないのかということだった。ことに寄れば、ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化がそれを阻んでいるのではないか、そんな気がしてならない。

 なるほど、この論理に従えば、いかなる社会問題でさえも《ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化》のせいにできる。しかし、このような問題意識は、社会や組織における人間関係がもたらす力学を無視する方向に走ってしまうのではないか、というよりも走ってしまっている。

 更に小林氏はこの直後にこのように語っている。

 とにかく、はるか昔から戦後二十年ぐらいまで、子どもたちは「遊びをせんとや生まれけむ」と詠まれた姿でそのままに戸外で遊び暮らしてきた。私たち世代は、家でぐずぐずしていると「子どもは風の子」と追い出されたものである。思えば、それはいかに正しかったかということだ。

 このような自己肯定を行い、現代の若年層を平然と貶める小林氏が、果たして「世界」という左派系のメディアに執筆する資格があるのか。いや、左派系のメディアでも、俗流若者論はどういうわけか徳移転となっており、ほとんど無法地帯であるから、このような物言いも許されるのだろう。しかし、先の引用文の如き、小林氏や小林氏が取材した人たちの話だけで、現代の若年層全体を貶めて、人間的に劣った人間だと差別する小林氏の正当性の主張は、いかに小林氏がマスコミによって捏造された「今時の若者」のイメージに踊らされているか、ということを映し出している。それに賛同する読者も然りである。

 2月号の文章だけでもこれだけ問題点があるのに、小林氏の暴走は3月号でも続いてしまう。3月号では、ついにかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏が登場する(3月号56ページ)。

 小林氏は3月号に掲載された短期集中連載の第4回(最終回)において、以下のように述べている。57ページ。

 そうであれば、われわれが「人間性」と読んでいるものは心の理論や社会的理性そのものであるということになり、それが未発達だということは人間性を書いているということになる。そのような存在には、われわれが当然視している人間性や人間としての規範意識というものさしは通用しない。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためであって、単に未熟と受け止めては間違うこととなる。未熟や非常識と映る最近の少年や若者たちの変質は、実はそういうことのようで、……(小林道雄[2001b]、ここから先は断りがないなら同様)

 これは明らかにレイシズムであろう。「世界」はやはり俗流若者論であればレイシズムすら肯定してしまうらしい。岡本厚編集長も散々だ。このような疑似科学によって裏付けられたレイシズムが、いかに若年層に対する意識を貧困化させているか、ということは澤口氏などの疑似科学系の俗流若者論を読めばすぐにわかることだろう。また、小林氏は《最近の少年事件に感じる「不可解さ」》などと語っているけれども、私はむしろ情報が多すぎるが、しかしそれらの情報が全て「今時の若者」を文スタートして敵視するところから生まれているからこそ、たとえ情報だけ多くても全く本質を射抜くことはできない、と思っている。小林氏がさも現代の少年や若年層について当然だと思っている《変質》は、むしろ小林氏の認識の問題であろう。

 小林氏は澤口氏の疑似科学にのっとって、更に幼稚園まで敵視する。58ページ。

 私は幼稚園には行っていない。その頃いっていた子は良家の子女ばかりで、私はそうでなかったということだが、理由はそれだけではなかった。私の両親に限らず、当時の親には「幼稚園なんかに入れたら子どもがひ弱になる」という思いが強く会ったようなのだ。私はその判断は正しかったと思うのだが、戦後の経済成長とともに幼稚園にいくのは当たり前になった。それだけに抵抗のある人もいるかと思うが、やはりそれは本然の発達環境ではないのである。

 幼稚園というのは保母さんという大人を介在させた年齢輪切り社会であって、子どもたち自身が作る子ども社会とは本質的に異なる。ここでの遊びは、多くが与えられ指導されてのもので、何もない空間での自然発生的な遊びではない。しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で、「○○ちゃん、お友だちぶったらいけないんだなぁー」などといった口調での始動がもっぱらとなっている。

 いい加減にしてくれ。このような議論は一見正鵠を得ているように見えるが、しかし全くのデタラメ、というよりも小林氏の単なる思い込みをちっとも抜け出されていない。その上《しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で》などという文句が続けば、もはや小林氏は筆を折れ、などと浴びせかけたい衝動に駆られてしまう。

 その上小林氏と着たら、62ページにおいて《虐待された子どもが心に刷り込まれるのは「近い(親しい)関係は怖い」ということである。親密な関係を危険だと避けたとしたら、正常な人間関係は作れない。そうなれば、人間としての心は育たない》とまで言い出す始末。だったら何か。小林氏は、たとい子供が虐待を受けていても、《近い(親しい)関係は怖い》という感覚が生まれるのはもっと怖いから、虐待は我慢しろ、とでも言うのか!もちろん虐待は対処されて然るべきだけれども、しかしたとい近い関係であっても、その人が理不尽な暴力を振るったりするのであれば、一見距離を置くことも大切だ、と教えることもまた重要なのではないか。そもそも小林氏のこのような暴論は、親密なコミュニケーションこそ善である、という価値観につながり、コミュニケーション能力差別として現れている。

 それでも小林氏の暴走はまだ終わらない。62ページから63ページまで小林氏が述べていることもまた、現代の家庭に対する差別以外の何物でもない。小林氏は《教育中心家庭》で育った子供に《親への尊敬や長幼の序といった道徳をといたところで入るものではない》と書いているけれども、「世界」にこのような文章が載っていいのか。やはり俗流若者論は特異点なのか。蛇足だけれども、小林氏は学校教育というものをことごとく無視している。小林氏は、最近において少年による凶悪犯罪が諸外国と比して、あるいは昭和40年ごろに対して件数が極めて低い水準で推移していることをいかに説明してくれるのだろうか。

 65ページにおいて、小林氏は《現在の日本がなぜここまで政治や経済に停滞を招いているかを考えさせる。おそらくそれは、政界・財界に二世が増えたこと、つまり厳しい環境にもまれていない人間がその任に就いていることの結果にほかなるまい》とも述べるが、これも第3回の最終回と同じ問題意識だろう。ようは自分の問題意識の捌け口として疑似科学が使われているわけだが、そのような科学の濫用が、科学の氏につながる、ということに関して小林氏は極めて無頓着だ。

 3月号に掲載されている文章は、短期集中連載の最終回である。65ページには、小林氏が連載を終えるに当たってのことが書かれているのだが、そこで連載を始めたときに聞いた、横浜家庭裁判所の元調査官である野口のぶ子氏の言葉が引用されている。

 「厳罰化なんていってますが、これまで大人は子どもにどうかかわってきたんですか。子どもたちが何をしようと、どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけじゃないですか。どうしてそのことが問われないんでしょうか」

 これは小林氏自身に突き返されるべき問いかけである。小林氏のやっていることは、《どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけ》ということと罪の深さでは全く変わらない。小林氏のやっていることは、現代の青少年に対する差別を疑似科学でもって「正当性」を持たせ、青少年に対する不安をあおることでしかない。そのような態度が正しいとしている小林氏に、この野口氏の問いかけはどう響いたのだろうか。これが小林氏の残酷な態度を正すことになればいい、と思ったのだが、あいにくそうはならないらしい。66ページにおいて小林氏は《中には、異星人を見るような目を若者たちに向けている人もいる》とぬけぬけと語っているけれども、それは小林氏自身にも当てはまる。小林氏は自分のやっていることは全て正しい、と考えているようだが、小林氏の行為は倫理的にも誤りだ。そもそも小林氏は疑似科学によるレイシズムを肯定している。事実、小林氏は、《たとえば電車の中での化粧は、公徳心の欠如といったものではない。他人の気持が分からない、従って、他人の眼が期にならないから堂々とやれるのであって、公衆道徳という次元の問題ではないのである》と67ページにおいて語っている。このような文章が「世界」に載ることもまた大きな問題ではないのだろうか。

 一連の小林氏の狼藉から確認できることは、疑似科学がいかに小林氏の世代の正当性、つまり小林氏自身の正当性を主張することに役立っているか、ということだ。疑似科学がこのような形で役に立つためには、まず小林氏が現代の青少年に対して差別的な感情を持っていなければならないが、この短期集中連載の第3回と第4回では、その小林氏の持っている若年層に対する差別意識と、自意識の裏返しでしかない小林氏の自己肯定がことごとく繰り返されている。それは結局のところレイシズムしか生み出さず、不毛な議論にしかなりえない。

 小林氏のやっていることは、本当に「世界」という左派系のメディアに載るべきことなのだろうか。我が国の「論壇」の底の薄さ、特に左派論壇の底の薄さは、俗流若者論になったらいきなりプリンシプルを捨てて俗流右派論壇人と一緒になって若年層に罵声を浴びせかける。このような状況を、果たして放置しておいていいのだろうか。このような状況を俯瞰すると、我が国において、俗流若者論というものは自民党も公明党も民主党も社民党も共産党も諸派も無所属も無党派も巻き込んだ極めて大規模な「オール与党」というほかない。俗流若者論の名において行われる政治に争点などない。あるのはステレオタイプのみ。

 このような状況下で、若年層に対する適切な施策や救済が行なわれることを期待するほうが無理かもしれない。たとい若年層の投票率が上がったとしても、俗流若者論が多く席巻する状況を打破しない限りは、当分の間青少年にとっての暗黒時代は続くだろう。NPOなどが頑張ればいいのかもしれないが、そのような頑張りは一部のメディアで採り上げられるくらいで、国民的な理解が定着しているという状況には達していないし、フリーターや「ひきこもり」や若年無業者をめぐるバッシングにも見られるとおり、マスコミや大衆は適切な研究も参照せずに彼らに石と糞ばかり投げつける。「善良」を自称している大衆にとって、所詮は若年層は敵愾心のはけ口でしかない。若年層の政治利用は当分やみそうもない。そのような絶望的な状況に立っていることこそ、我々は自覚したほうがいいのかもしれない。そのような状況下において、それでも(ありもしない)希望を信じてやっていくことしか、我々にはもはや残されていないのかもしれない。

 最後に小林氏、「世界」平成13年4月号の増刊号に当たる「日本の選択肢」という雑誌において、小林氏は「少年犯罪」の項を書いているが、小林氏はこのサッシの211ページにおいて、以下のように書いている。

 少子化と都市化によって、そうした環境と機械は大きくうすなわれてしまいました。他人の気持ちが分からなくなったのはその結果ということなのですが、それは決して犯罪を犯すような少年に限ったことではありません。近ごろは電車の中で化粧をしている若い女性をよく見掛けますが、これも他人の気持ちが分からないから周囲の目垣に習いということで、同じことなのです。

 私たちが「人間性」と読んでいるのは社会的理性や心の理論そのもので、それが未発達だということは人間性を書いているということになります。ですから、そういう少年や若者には、私たちが人間として当然と考えているものさしは通用しません。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためで、単なる未熟ではないのです。(小林道雄[2001c])

 ……世界の辺境で叫ばせてくれ。

 助けてください!小林氏を、疑似科学の魔の手から、誰か助けてください!!

 そして私に、もうこれ以上同じことを言わせないでください!!

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 小林道雄[2001a]
 小林道雄「何が子どもを歪めさせたのか」/「少年事件への視点」第3回=「世界」2001年2月号、岩波書店
 小林道雄[2001b]
 小林道雄「「社会的理性」を育てるために必要なこと」/「少年事件への視点」最終回=「世界」2001年3月号、岩波書店
 小林道雄[2001c]
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波書店、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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 関連リンク
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 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
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