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2005年8月22日 (月)

俗流若者論ケースファイル64・清川輝基

 今回検証するのは、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏による「“メディア漬け”と子どもの危機」(「世界」平成15年7月号に収録)である。この連載の中で何度か示したとおり、清川氏もまた森昭雄氏や澤口俊之氏や片岡直樹氏などと並び、青少年問題において疑似科学を安易に用いる人である。結論から言えば、清川氏のこの論文も、疑似科学の検証抜きの濫用と安易な懐古主義に満ち満ちた文章であった。ちなみに清川氏は出だしのほうの206ページにおいて《この40年間、日本という国は、子どもたちにとってきわめて残酷な環境の変化をさせてしまった》(清川輝基[2003]、以下、断りがないなら同様)と書き、この文章の入っている段落の次の段落において清川氏は《60年代以降の40年間に日本の大人たちのやってきたことの結果が、現在の「人体実験」状態をつくり出し、それがいま明確に子どもの心とからだにあらわれている》と書いている。清川氏を含め、疑似科学系の自称「識者」は《人体実験》という言葉が好きだ。このような言葉は最初から彼らが現在の青少年に関して偏狭な認識しか持っていないことの証左なのだと思うがどうか。

 この以降に並べられる疑似科学のオンパレードの前に、いきなり私が噴き出してしまった部分がある。207ページ上段。

 NHKが1941年に実施した調査では、当時国民学校五~六年生の男子の一日の生活時間の中で「外遊び」の時間が一時間四六分、「癒えの手伝い」の時間が一時間二一分あった。「外遊び」は、子ども集団のなかにある、子ども自身の文化である。それはたとえば、缶蹴りや鬼ごっこやかくれんぼという集団の遊びが、緊張と弛緩の繰り返しによって心臓や肺、筋肉の機能をきわめて安全に有効に高めるように、子どもの文化は、文字通り豊かな子どもの心とからだを育てる時間でもあった。

 1941年とは、大東亜戦争の最中ではないか。しかも現在から見てかなり昔の話だ。そのような極端な時点の統計を持ち出して一体どうなるというのか。しかもこの文章を字面そのままで捉えるのであれば、清川氏は戦前に戻るべきだ、戦前はもっと子供が人間らしく生きていた、とでも主張することになる。「世界」の岡本厚編集長は疑問を持たなかったのだろうか。あるいはこのような主張であっても疑似科学系の俗流若者論なら許していい、という規定でもあるのだろうか。しかもこの文章においては、頻繁に《子どもの心とからだ》という表現が出てくるけれども、清川氏はこの言葉を明らかにイデオロギーとして用いている。すなわち、過去の《子どもの心とからだ》はいたって健全だが、今の《子どもの心とからだ》は病んでいる、それは《メディア漬け》が原因であって、直ちにその状況を「撲滅」しなければならない、というイデオロギーに、清川氏は染まっているのである。そのような態度を疑うことを捨てて清川氏は現在の青少年に対する偏見を振りまいているのである、しかも月刊誌の中ではもっとも「左寄り」とされている「世界」で。まあ、俗流若者論においては右も左も大同団結してしまうから、ある意味ではこのようなことが生まれるのも「正常」なのだが。悲しい話だ。

 少し筆が滑ってしまった。本題に戻ろう。さて清川氏は、208ページにおいて以下の通り述べる。曰く、

 当時(筆者注:1970年代後半)すでに「警告」という番組タイトルをつけなければならないほど子どもたちの発達の遅れや歪みは深刻だったが、その子どもたちは、生まれたときに既に茶の間にテレビがあった「テレビ第一世代」である。電子映像、テレビ画面にほとんど抵抗感がなく、テレビ画面は環境そのものである。

 その世代がいま親となり、子育てをしている。……

 要は、今は親が既に異常だから、子供も異常になるのは当たり前だ、というストーリーであるな。しかしこのようなストーリーの暴力性は指摘しておかねばなるまい。そもそも清川氏は今の親世代が「異常」である、という証拠を一つも提示していないし、子供に関するデータすら209ページから210ページにかけての《家ではほとんど勉強しない子の比率》だけだ。当然、これも《メディア漬け》が犯人とされているわけだが、このような調査は東京大学教授の苅谷剛彦氏がかなり前から調査しており、かなり蓄積されたデータがあるのだが、そこには触れようとしなかったのだろうか。

 清川氏のこの文章は、読者が現在の子供たちは「異常」である、という認識を持たなければ納得できないだろう。何せ清川氏は何が「異常」であるか、そして本当に「異常」と呼べるのか、というデータはほとんど示しておらず、あらかじめ「今の子供たちは異常である。その原因は《メディア漬け》である」ということを最初から設定して、それにかなうデータしか持ってこないのだから。少年による凶悪犯罪が減少している、というデータを示しても清川氏は馬耳東風だろう。

 だから清川氏が、210ページにおいて、かの曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論を好意的に紹介していても何の不思議はないのである。当然のことながら清川氏、この「ゲーム脳」を紹介する文脈において《人間としての心をコントロールし表現する大脳の前頭前野とよばれる部分が、ゲームをやっている子どもの脳ではほとんど働いていないことを示している。自分を制御できないとは、切れやすいと言い換えてもいいが、そういう人間らしい心の欠如も、メディア接触ときわめて強い関係があることがわかってきたのである》と書いているのだが、これもまた現在の若い親たちと子供たちに対するステレオタイプが固定化されている清川氏であれば当然の振る舞いであろう。更に、明治大学の三沢直子教授による調査における《ゲームを長時間している子どもの方が現実と非現実を混同する率が高い》という結果も清川氏は引いているのだが、果たして清川氏は三沢氏のデータを引用する段階で《現実と非現実を混同する》ということがいかなる事を指しているのか、ということを検証しなかったのだろうか。ついでに前出の三沢氏もまた「ゲーム脳」を信奉していることを書き加えておく。

 これ以上は検証しない。これ以降も、安易なアナロジーの濫用、牽強付会、我田引水の連続だからである。そして結論が「テレビを消そう」。やはり安直な結論になったか。
 それにしても、清川氏の如き専門家として高い地位を得ている人が、その辺のワイドショーとかテレビ報道とか誰かの愚痴で語られているだけの内容と自分の狭い経験だけで、現在の青少年を「異常」と言い切ってしまうという態度をとっていていいのだろうか。これは清川氏に限らず、疑似科学系の俗流若者論を振りかざす、あるいはそれに何の疑問も持たず好意的に引用する人たちに言える。結局のところこのような策動は、自分の「理解できない」ものに責任を押し付けることによって自分だけは安全で正義なのだ、という錯覚に陥りたいだけなのだろう。このような態度が、専門家の、そして科学の死を意味する。

 清川氏らにとって、青少年とは単なる「自己実現」の道具でしかないのだろう。この論文において頻出する《子どもの心とからだ》は、それ自体がイデオロギーの言葉として作用している。現在の我が国において、このような言葉にこそ反動的なイデオロギーが宿る。要は「子供」を生け贄にしたナショナリズムが台頭しているのである。彼らにとって青少年問題とは自分の立場を上げてくれる格好の舞台装置でしかない。このような人たちに青少年問題を語らせるのは、もうやめにしないか。

 参考文献・資料
 清川輝基[2003]
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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コメント

>しかも月刊誌の中ではもっとも「左寄り」とさ>れている「世界」で。
週間金曜日だけではなく世界もですか…。「世界」は週金とは違って若者に対して冷静に書ける雑誌だと思っていただけにねえ…。もっとも右の雑誌はというと若者に対して冷静な雑誌は皆無だからねえ…。(正論や新潮45は特にひどい。諸君!が多少ましなくらいか…)

>まあ、俗流若者論においては右も左も大同>団結してしまうから
この件については正直週刊プレイボーイと月刊サイゾーを除く週刊誌及び月刊誌は油断ならないと思う…。

投稿: hts | 2005年8月23日 (火) 16時14分

 初めまして。私は小川と申します。今は学生をしております。
 ある市の提唱する教育プランに「ノーテレビ・ノーゲーム」という文言がありました。その計画の詳細を調べようと松江市のデータベースを調べたところ、市長のコメント中で『人間になれない子どもたち』(清川 輝基 2003/03 エイ出版社)という本が紹介されていました。この本を大手ネット通販サイトで探してみると、かなりの高評価を得ておりました。そこで清川輝基という人物はどのような学問を修め、どのような研究をしているのか簡単に調べようと思い検索したところこのブログにたどり着きました。
 まだその本を読んでいないのでどうとも言い難いのですが、このブログに書いてある通りの内容であれば残念だと感じます。そしてそれが教育行政の「診断」に用いられているのならば非常に恐ろしい。今の教育行政を形作っているのは一体何であるのかを考えなくてはならないと感じます。

投稿: 小川 | 2009年2月 1日 (日) 01時02分

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