トラックバック雑記文・05年08月07日
夏本番というか、なんというか…。暑すぎる!
仙台ではいよいよ七夕が始まりました。東北三大祭の一つで、商店街の各店舗や各企業の努力による色とりどりの吹流しがアーケードに並びます。機会があればどうぞ。
東京脱力新聞:ブログの実力 きょう発売の「論座」で(上杉隆氏:ジャーナリスト)
えこまの部屋:kuriyama爺からTB届いた(黒ヤギさんの節で♪)
現在発売中の「論座」平成17年9月号の特集の一つに「ブログの実力」があります。タイトルに違わぬ濃い内容で、一読をお勧めします。
この特集における、ライターの横田由美子氏の論文において、「東京脱力新聞」の上杉隆氏も紹介されています。そこで、上杉氏がブログを始めたきっかけとして、上杉氏が書いた週刊誌の記事に関して国会議員の平沢勝栄氏が上杉氏を提訴し、平沢氏が上杉氏に対する批判キャンペーンを張ったので、それに対する保身の為にブログを作ったとか。
以前にも書きましたけれども、ブログの台頭によって「書き手」になる敷居は低くなっています。もちろんインターネットの登場により、個人がサイトを持てるようになって、その時点で「書き手」への敷居は低くなっていますが、それでもある程度の知識か道具が必要だった。それが、企業がテンプレートを提供するブログの台頭により、誰でも掲示板感覚で自らのサイトを作れるようになった。つまり現在は、インターネットにつなげられる環境さえあれば自分のサイトが持てるようになっているのです。
しかし、ブログと鋏は使いようです。もちろん日記形式のブログ、というあり方も私は否定しませんけれども、だからといって個人情報を過剰にばらしてしまうと、自分、あるいは他人が多大な迷惑を被ってしまうこともある。ですから、ブログにおいて(もちろん普通のサイトを利用する場合もそうですが)個人情報の取り扱いには注意しなければならない。
それだけではありません。文章や写真をインターネット上に公開する、ということは、世界中の人がそれを見ることになる、ということに他ならないのです。ですから、インターネットで文章を書くには、それなりの覚悟が必要になります。
ブログの方向性を決めておくことも必要ですね。私はこのブログの方向性を「巷に溢れる「今時の若者」をめぐる言説を斬る」(旧ブログ)「俗流若者論から日本社会の一面をのぞく」(新ブログ)としており、基本的にこのブログを若者論を扱うサイトとしています。で、余興としてその他の時事問題、読書、建築、都市計画、音楽、声優の話題を入れる。
なぜ私がこのようなことを言おうと思ったかというと、もちろん「論座」のブログ特集とか上杉氏の記事を読んだこともそうなのですが、もう一つ、「えこまの部屋」に以下のような疑問が書いてあったからです。
それにしてもkuriyamaさん(筆者注:「千人印の歩行器」の栗山光司氏)にご紹介いただいた後藤さんによる俗流若者論批判テクストの「追求度」には頭が下がりますが、そのテクスト内容よりも、何がそこまで彼を執拗に俗流若者論で若者批判する著名人斬りに駆り立てるのか、個人的にはそちらのほうが興味があります。(苦笑)
私は高校時代から趣味で社会時評を書いていました。当然、社会に関して何か不満を持っており、どうにかしたいという殊勝な動機で。雑誌にも投稿せずに日記形式で書いていて社会を変えられるわけがない(苦笑)。そもそも私が若者論というものの存在を意識するようになったのは、平成12年(私が高校1年のときです)に、所謂「17歳の犯罪」が多く報じられていた。そのような情報環境において、私は世間から犯罪者として見られているのではないか、という強い強迫観念に囚われており、17歳には絶対になりたくない、その前に死にたいとも思っていたのです。ただ、それでも(惰性で)17歳まで生きてきた。私が若者論の分析を本格的に始めたのは、朝日新聞社の週刊誌「AERA」の成人式報道(後田竜衛「成人式なんかやめよう」=「AERA」2001年1月22日号)を読んだとき、あまりにもひどい、批判するしかない、と思ったので、批判に着手した。これが17歳になる1ヶ月前です。そして平成15年3月に卒業するまで、高校時代は(大学受験期でも)成人式報道の研究ばかりやっていた(それでも東北大学には現役で合格しました)。大学に入ってからは「論座」の読者投稿に積極的に投稿するようになり(成人式報道に関する苦言が「論座」平成14年12月号に掲載されたことがあるので「論座」を選定しました)、批判の範囲を成人式報道から若者論全般に広げていった。最初はその辺の若者論に感情的に反論していた程度ですが、大学2年の後半あたりから社会における青少年の捉えられ方、及び若者論が生み出すナショナリズムや歴史修正主義、疑似科学、メディア規制を気にかけるようになり、我が国の思想的状況における若者論というものを意識して書くようになった。
ちなみに「俗流若者論」というのは、ただ単に「俗流~~論」という呼び方の「~~」に「若者」を代入しただけの話です。他に適切な呼び方がなかったので、「俗流」というのがわかりやすいかな、と思ったわけです。
ついでに「論座」の今月号についても触れておきますと、ブログ特集以外でも戦後60年特集とか、群馬大学教授の髙橋久仁子氏による「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」や、大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏による「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」は特に読ませます。しかも、編集長の薬師寺克行氏が、来月号からリニューアルすると公言しております(329ページ)。リニューアル後の「論座」がどうなるか、楽しみです。
千人印の歩行器:[働く編]おたく/フィギュア/ペット(栗山光司氏)
堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)という本を買いました。この本では、いまや2兆円市場となっている「萌え産業」の現状をルポルタージュしたもの。一応私はこの本は声優の項から先に読みました。声優の清水愛氏とか、大手声優プロダクションの一つである「アーツビジョン」社長の松田咲實氏や、漫画家の赤松健氏などのインタヴューも掲載されています。あと、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の「おたく:人格=空間=都市」のパンフレットも借りて読んでいます。
ところで、マスコミが「萌え」を発見するときは、大きく分けて2つの場合があります。一つが、「萌え」が一大市場と判断されたとき。もう一つは、残虐な犯罪(特に少女が被害者となる性犯罪)においてその犯人がアニメやゲームや漫画に異常な嗜好を示していたとされるとき。しかし私は、どちらの見方に組しても理解(それが無理でなければ許容)には辿り着けないかと思います。
なぜか。これは特に後者の形で「萌え」が発見されるときにいえることですが、よほどオタク的なものに理解のある記者(例えば、朝日新聞社「AERA」編集部の福井洋平氏や有吉由香氏など)が書いていない限り(大半のマスコミ人がそうですね)「オタクの世界は仮想現実で、それに没頭する人は異常であり、現実に生きることこそが至上である」と考えている節が大きいからでしょう。故に凶悪犯罪を起こすのは現実と空想の区別がついていない「異常な」奴であるから、という論理が形成される。
まあ、確かに「萌え」で腹が膨れないことは誰にでもわかる。しかし、「萌え」というのは相手(キャラクターでもアイドルでも声優でもいいです)のある部分あるいは全体がその人にとって「萌える」と認識しているからこそ起こる。さらには虚構に対して欲望を持つことができるので、精神科医の斎藤環氏が指摘するとおり、こういう人たちこそ虚構と現実の区別が厳格である、とも言えるでしょう。マスコミは、そういう人たちが現にかなりの割合で存在するということをまず理解する、そこまでできないなら少なくとも許容する、という態度を持つべきです。もし誰かが現実の少女に対して政敵にか害してしまったら、その犯人は少なくともオタク的な性的嗜好からは逸脱している、と考えるほかないのです。
石原慎太郎氏や日本経団連などは、オタク経済効果は認めていますけれども、オタクメディア規制も推進すべきだ、という考えの持ち主です。結局のところこのような人たちは、国民は経済的な成長だけにまい進していればよろしい、と考えているのでしょうね。しかしオタクの先駆性は経済とは別なところにあります。そもそも規制論の根本は自分が気に食わないから、という単純な理由でしょう。
ちなみに「AERA」に関しても触れておきますけれども、「AERA」は平成17年5月30日号において、他の週刊誌が今年5月に起こった少女監禁事件に関してオタク・バッシングを書いていたのに、「AERA」はそれに関する記事はなしで、編集部の福井洋平氏が「メイド掃除でモテ部屋に」なる記事を書いていた。まあ、メイド喫茶ならぬメイド掃除サーヴィスの体験記ですが、ここまでやってしまう「AERA」はある意味すごい。
性犯罪報道と『オタク叩き』検証:フィンランド憲法・『may be』、アイルランド憲法・『shall be』
海外のメディア規制の例が紹介されています。例えばフィンランドでは、憲法では青少年に有害だと思われる情報の規制は法律で可能である、としておりますが、実際には規制の対象になるのは映画やテレビだけで、また法律で規制できるといっても現状は業界の自主規制に任せていたり、さらには厳格な情報公開制度が整っていたりとか。あと、アイルランドがイギリスから独立した国であることを知らないでいる人とか。
保坂展人のどこどこ日記:佐世保事件から1年、長崎の教育は異常事態に(保坂展人氏:元国会議員・社民党)
「心の教育」とは一体なんなのでしょうか。そもそも彼らの考えている「心」とはなんなのか。「心の教育」を推進すべきだ、という人たちは、現在の青少年の「心」は異常であり、彼らに正常な「心」を涵養しなければならない、といいます。しかし、正常な「心」とはなんなのでしょうか。殺人を犯さない?少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は、昭和35年ごろのほうが現在に比して数倍深刻です。
「心の教育」を推進すべき人たちは、結局のところ人々の心と現在を生きる青少年をイデオロギー化しているに過ぎないのです。彼らにとって青少年とは単なる人気取りの道具に過ぎない。そして俗流若者論の蔓延により、青少年をイデオロギー化する傾向が高まり、政治がそれと結託すると、青少年に対する敵愾心を煽ることがそのまま政治的な人気の高さになる。政治から実態としての青少年が消えるとき、我々は政治に何を見出すのか。青少年の意見を代弁する政治家よ現れよ、とは私は言わない。「青少年の意見」なるものを代弁できる人などいない。しかし、せめて「今時の若者」を冷静に見ることのできるような政治家は、ぜひとも現れて欲しい。
お知らせ。まず、ブログで以下の文章を公開しました。
「正高信男という斜陽」(7月25日)
「俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子」(7月27日)
「俗流若者論ケースファイル40・竹花豊」(7月29日)
「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」(7月30日)
「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」(同上)
「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」(8月2日)
「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」(8月5日)
「俗流若者論ケースファイル45・松沢成文」(8月6日)
また、bk1で以下の書評を公開しました。
正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
title:俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
title:雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
title:皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
title:少子化を「イデオロギー」にするな
二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年7月
title:「希望」としての若年無業者問題
さて、前から喧伝していた夏休み特別企画を次回更新からスタートします。企画の内容は、「俗流若者論大賞・月刊誌部門」です。要するに、平成12年から平成15年にかけて、月刊誌で発表された俗流若者論の中でも、特にひどいものに関する論評です。
対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、論座(朝日新聞社)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、潮(潮出版社)、新潮45(新潮社)
今日、以上の全ての雑誌のチェックが終わったのですが、平成12年・13年は大豊作(笑)でした。逆に平成14年は不作だった。厳選した結果、グランプリと準グランプリは以下の通りに決定しました。
・グランプリ
平成12年
「文藝春秋」平成12年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
平成13年
小林道雄「少年事件への視点」第3回・4回=「世界」2001年2・3月号、岩波書店
小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店
平成14年
該当作なし
平成15年
山藤章二(編)「山藤章二の「ぼけせん町内会」いろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社
・準グランプリ
平成12年
石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所
澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社
工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号、中央公論新社
平成13年
澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋
ビートたけし「バカ母世代」=「身長45」2001年4月号、新潮社
佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月号、文藝春秋
遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋
平成14年
「諸君!」平成14年2月号特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」から、林道義「子どもの自己決定権」、文藝春秋
正高信男「日本語の「乱れ」とルーズソックス」=「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号、文藝春秋
田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
野田正彰「「心の教育」が学校を押しつぶす」=「世界」2002年10月号、岩波書店
平成15年
藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋
和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店
香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社
中村和彦「育ちを奪われた子どもたち」(聞き手:瀧井宏臣)=「世界」2003年11月号、岩波書店
以上の記事を次回から論評します。ちなみに同じ著者のものは一つの論文にまとめて検証します。平成14年準グランプリの正高信男氏の記事は、この企画とは別のところ(正高信男批判の企画で検証します)で検証しますので、夏休み特別企画は「俗流若者論ケースファイル」25連発(!)になります。なお、論評の順番に関しては、まず各年の準グランプリを一通り検証したあと、最後に各年のグランプリを検証します。
ちなみに、石堂淑朗氏の連載「平成餓鬼草子」(「正論」)は、相変わらず俗流若者論連発でしたが、別のところで検証するので採り上げませんでした。また、「世界」で連載されていた、瀧井宏臣氏の「こどもたちのライフハザード」も問題が大きかったのですが、これも既に書籍化されているので、そちらを批判するときに検証します(ただし書籍版では、事実上連載の最終回となる中村和彦氏へのインタヴューが掲載されていないので、こちらで採り上げました)。
そういえば次回の更新でもって丁度このブログの100本目の記事になるので、このブログの新たなるスタートを飾るにふさわしい企画になるように極力努力します。
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