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2005年8月 5日 (金)

俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

 頭が痛くなりそうだ。

 この連載の42回と43回では、読売新聞社のメディアによるフリーター・若年無業者バッシングを採り上げてきた。そこで感じたのは、読売がいかに彼らを「今時の若者」として扱うことに必死であるか、ということだ。要するに、彼らは自分勝手な理由でフリーターや若年無業者になったのであり、あいつらの精神をどうにかしないと日本は滅びる、というアプローチによるフリーター・若年無業者批判である。

 当然の如く、執筆者やコメンテーターには、そのような意見を補強する人たちばかり採用され(弘兼憲史氏がいい例だろう。詳しくは「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」を参照されたし)、彼らを取り巻く経済的な要因は無視され、ただこれらの優れて経済的な問題が彼らの「心」の問題として処理される。

 日本経済新聞は、平成17年4月13日から15日にかけて、日経の長文コラム欄である「経済教室」で「若年雇用への視点」という連載企画を行なった。そこで執筆者として登場していたのが、玄田有史(東京大学助教授)、小杉礼子(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)、宮本みち子(放送大学教授)の3氏という豪華メンバーである。この連載企画で明らかにされているのは、若年無業者の中でも、定職につくことを求めることすらしない人の大多数が高等教育を受けていない(玄田有史[2005])、たとい新卒採用が増加しても、やはり若年層の多くがフリーター化する状況は改善されない(小杉礼子[2005])、それにもかかわらずそのような若年層に対する支援策が遅すぎた(宮本みち子[2005])ということだ。もはや単純な精神論で語れる問題ではないことは、少し調査すれば明らかになっていることである(他にも、本田由紀[2005]も参照されたし)。

 そのような枠組みを無視した読売のフリーター・若年無業者批判は、結局のところ若年層が受けるべきパイをさらに減少させる役割しか果たさないのである。それなのに、いまだなおそのような若年層に対して精神論的な暴論ばかり浴びせかける言説があとを絶たない。

 さて、ここから本題に入る。このブログでは京都大学教授の正高信男氏に対する批判を一つのカテゴリーにしているのだが、正高氏は読売新聞の教育面の連載コラム「学びの時評」にて再三にわたって俗流若者論を書いており、その都度私が批判している。しかし、同じ「学びの時評」における問題のある執筆者に関して言うと、数学者の藤原正彦氏だって負けてはいない。今回検証するのは、そんな藤原氏が平成17年5月16日付読売新聞に「学びの時評」で書いた「美辞麗句に酔うことなかれ」である。

 はっきり言って、このタイトルを藤原氏に投げ返したいくらいだ。藤原氏はこのコラムの第1段落の最後で《美辞に酔った国民は、それを達成するためなら何をしてもよい気持ちになる》(藤原正彦[2005]、以下、断りがないなら同様)と書いている。しかしそれは藤原氏にこそ見事に当てはまる。特に、このコラムの第2段落が。

 教育基本法には「個人の尊厳」とか「個人の価値」が謳い上げられているが、これが「身勝手の助長」につながった。少子化やフリーター激増もこの美辞に支えられている。心地のよい響きを持つ「ゆとり教育」は「愚民化教育」に過ぎない。現在進行中の「中央から地方へ」はいかにも地方への思いやりに満ちているが、現実は地方切り捨てに近い。この方針の言われ始めた頃から、地方の駅前商店街はさびれ田畑は荒れてきている。今は義務教育まで地方まかせにする勢いである。「私の県の小学校では国語より英語」「私の県では算数よりパソコン教育」などとなったら日本は崩壊してしまう。

 妄想と言っても差し支えないだろう。まず、教育基本法が《身勝手の助長》を生み出した、と藤原氏は言っている。しかし藤原氏にとって《身勝手の助長》とはなんなのだろうか。藤原氏は《少子化やフリーター激増》をその《身勝手の助長》の結果として見なしているようであるが、そのような見方こそはっきり言って藤原氏が美辞麗句に酔っている証拠である。現実は、藤原氏が考えているほど甘くはないのは、前掲の玄田、小杉、宮本の3氏の調査・立論の通り。また少子化に関して言うと、ここまで若年層の危険を煽る言説が溢れている状況において、いざ若い女性に子供を産め、といってもはっきり言ってどれほど効果が上がるかは疑問であるし、藤原氏もまた過去の言説においてそのような言説の炎に油を注いでいる(これに関しては後に検証する)。

 また、義務教育の地方委託に関する記述も、単なる藤原氏の妄想でしかなかろう。もちろん、私とて義務教育は少なくとも最低基準だけは国が保障すべき、という考え方なので、その点は藤原氏には近いのかもしれないけれども、だからといって藤原氏の飛躍した立論には首肯できかねる部分が多い。

 藤原氏がこのように若年層に関する現実とはかけ離れた妄想を構築することができるのも、全ては藤原氏が美辞に酔っている故だろう。そもそも藤原氏は冒頭で《美辞に酔った国民は、それを達成するためなら何をしてもよい気持ちになる》と書いていた。しかし、はっきり言ってこれは藤原氏の妄想とはまた別のところで問題を起こしている。例えば、最近になって神奈川県を中心に「性少年の健全育成」という美辞の元に言論統制が行なわれている。例えば最近になってあるゲームが「有害図書」指定されているけれども、神奈川県知事の松沢成文氏がその根拠として記者会見やウェブ上や朝日新聞などで展開している論理は、はっきり言って論理飛躍またはトートロジーのどちらかである。また、「青少年の健全育成」という美辞の元に、教育基本法の改正だとか、さらにはその美辞の元に憲法さえ変えられようとしている。また、「治安の向上」という美辞の元に、街は「異物」を排除するデザインやシステムなどで溢れ(五十嵐太郎[2004]、高橋純子[2005])、秋葉原ではオタクに対する職務質問が増加し、事実とは明らかにかけ離れた偏向報道も増殖している。「今時の若者」という美辞の元に疑似科学と歴史修正主義(右も左も)が蔓延しているのはこのブログで批判している通り。

 藤原氏がこのコラムの結びでこのように書いていることが痛い。

 美辞は人間の思考を停止させ冷静な検討吟味を妨げるから、政官財はもちろんマスコミにあおられた国民も突っ走る。ヨーロッパやアジアのどの国をも圧倒する経済力を実現した。極東の小さな島国日本の至宝ともいえる国柄が、美辞麗句とともにあっけなく壊されている。

 結局のところ経済か。そもそも《国柄》とは何か。それは単なる藤原氏の幻想に過ぎないのではないか。もちろん、戦後の我が国が世界を圧倒する経済力を実現してきたのは事実だけれども、しかし最近になってその限界性も見え始めている。藤原氏はその限界を知っているのか。我が国はまもなく人口減少社会に突入するわけだが、それでも安定した経済を構築できるような社会システムの設計こそ、我が国が国際的に生き残る唯一の道だと私は考える。また、経済一辺倒主義は環境破壊や、(藤原氏も触れている)地方の荒廃をもたらした。

 また、我が国において、若年層に比して知識も見識もあるとされている大人たちが、いかに疑似科学や妄想、そしてそれを支える俗流若者論に陶酔しているか。これらの議論は、少しでも論理を膨らませれば疑問点が見つかるものだけれども、多くの人たちがそのような疑似科学や妄想に心酔している。藤原氏は《美辞は人間の思考を停止させ冷静な吟味検討を妨げる》と書いているが、けだし至言。「ゲーム脳」や「ケータイを持ったサル」という美辞麗句は、若年層に対する《冷静な吟味検討を》妨げている。

 藤原氏の想像力がそこまで及んでいないのだとしたら、藤原氏の立論は、単に藤原氏の妄想を復活させるための議論にしかならないのである。

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 高橋純子[2005]
 高橋純子「セキュリティータウンを歩く」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 藤原正彦[2005]
 藤原正彦「美辞麗句に酔うことなかれ」=2005年5月16日付読売新聞
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な支援必要」2005年4月15日付日本経済新聞

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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