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2005年8月13日 (土)

俗流若者論ケースファイル57・清水義範

 奇妙な話がある。ここ最近、少女を狙った犯罪者がロリコンなどの倒錯した性的嗜好を持っていることが判明するたびに、マスコミは「少女が犯罪者に狙われやすくなる時代が来た」などとほざくことである。

 おかしくはないか。

 もしその論理が正しければ、まず我が国において父親という存在が許されてはならない、ということになる。なぜなら我が国において、性犯罪の加害者/被害者の関係の中で、最も多いのは父親などの肉親/家庭内の女性であるからだ。ロリコンまたはペドファイル/見ず知らずの幼女、という関係は肉親/家庭内の女性に比べて格段に少ない。しかも我が国においては児童虐待で殺されている子供が諸外国に比べて多く(それも今に始まったことではないのだから恐ろしい)、特に母親に殺されているケースが多いため、母親という存在も許されてはならない、ということになろう。更に言えば、我が国では毎年自動車による交通死亡事故=自動車を凶器とした殺人が毎年数千件起こっており、その中には幼女が被害者となるのも少なくないから、歩行者通行止めの道路以外に自動車を走らせるな、という論理も組み立てられよう(何せ未成年の最大の死因が「不慮の事故」だ)。

 マスコミは、例えばロリコンやオタクやゲーマーといった「叩きやすい対象」が浮上すると、事件や犯人に対する検証など即刻放棄して、それらに対する敵愾心を煽る。自動車が叩かれないのは、彼らがひとえにその利益を被っているからであり、結局のところ彼らは自分の利益になることしか考えていないのである。だから、自分が理解できないだけで国家崩壊、社会崩壊のシンボルと勝手に位置付けることもやぶさかではないし、そのように煽ってメディア規制を盛り上げると自分にもやがてはその影響が降りかかってくる、ということも知らずに「排除」に与する。

 今回検証するのは、そのような「憂国」エッセイである。著者は教育問題にも詳しい作家の清水義範氏、記事のタイトルは「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」(「現代」平成13年11月号に掲載)である。この論文は、最初になぜ児童買春がいけないか、ということに対する清水氏の答えが出てくるの。というのも、この文章では、この論文が発表される少し前に起こった、教師による少女売春事件に触れられているからである。先の質問に関して、清水氏の答えは至極単純で、法律で禁じられているからである、と。少なくとも法治国家である我が国において、そのように答えることは全く正しい。しかし、清水氏は、ここでやめておけばよいものの、以下のように述べることによって、事態を乱暴に一般化してしまう。217ページにおいて曰く、

 そして教師たちも、そういうあるはずのない愚行に走る者が増えているらしい、99年度一年間に、全国の公立小中学校などの教員で、問題行動によって処分を受けた者が4930人あまりだそうだ。そしてその中に、わいせつ行為で処分されたのが115人で、これは前年度の約1.5倍で過去最多なのだそうである。

 つまり、その職業(筆者注:ここでは教師)についているからには、絶対にしないことがある(筆者注:ここでは「問題行動」によって処分を受けること)、というあたり前の前提が崩れかけているということであろう。

 我々の社会の危機なのだと思う。

 自分の仕事への誇り、というものが失われかけているのだ。私たちのすべてに、そういう誇りの喪失が忍び寄っているのだ、とまで考えてみるべきだと思う。

 まともな社会なら、人間は自分の職業に誇りを持っているのではないか。……それが社会秩序である。

 どうもそれが壊れかけているらしい。自分のしている仕事に、何の誇りも持てず、ただやむなくやっているだけの人間が出てきているのだ。ただ、教員の採用試験に通ったからという理由だけで教師をし、子供をよいほうに導いてやりたい、ということは少しも考えていない教師というのは、そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう。(清水義範[2001]、以下、断りがないなら同様)

 まず、清水氏が親の教師や学校に対する目線の変化について触れないのはどうしてだろうか。我が国において、昭和55年ごろを境に市井の学校に対する視線は変化し、管理教育などが告発されるようになり、子供の教育に対して「学校の責任」が強く問われるようになると同時に、校内暴力などもこの時期から問題化し始める(広田照幸[1999])。更に最近、学校をめぐるさまざまな事件に関する報道が溢れるようになって、市井の学校に対する目線はますます険悪化した。「問題行動」によって処分を受ける教師の増加には、このような背景によるものも少なからず含まれていると思われる。さらに清水氏は、一番最後の段落において、《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと述べることによって、比較的若い教師がそれらの「問題行動」を起こしているのだ、ということを示唆しているようだ。しかし、このような物言いは、教員採用をめぐる現実を全く無視した文言といわざるを得ない。というのも、我が国において教員の年齢は高齢化の一途を辿っており、公立小学校教員の年齢構成としては、平成10年現在では43~46歳が一番多く(18000人弱)、特に大阪府では年齢が40歳の教師から、その数が飛躍的に増加し、およそ47~53歳で最高の水準(1600人弱)となる。他方若い教師はというと、国立の教員養成系の大学や学部の新規卒業者の教員への就職率は平成11年まで一貫して低下の一途を辿っており、昭和55年ごろが80%に迫る勢いだったのに対し平成12年は40%にも満たない(丹羽健夫[2002])。教員養成系のトップクラスである東京学芸大学でさえ、たとい補欠となっても正式採用となる教師は極めて少ないという事態が起こっているようだ(太田啓之[2001])。「デモ・シカ教師」(=「教師にでもなるか」「教師にしかなれない」という理由で教師になった人)と揶揄されたのも今は昔、教師になるのは極めて厳しい状況に現在はある。

 翻って、清水氏は「問題行動」を起こす教師の年齢構成を調べたことがあるのだろうか。これに関しては私も具体的なデータがないのでなんとも言えないけれども、この側面に関する検証を怠って、ただ《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと簡単に述べてもらっては困る。例えば、ストレスゆえ手を出してしまったとか、教師というものに絶望して手を出してしまったとかいうこともあるわけで、その点に関しても検証すべきだろう。もちろん、「問題行動」を起こした教師にはそれ相応の罰が必要だけれども、ここで述べたファクターを無視して安易に「憂国」する、という態度は望ましくない。この点について清水氏が隠蔽するのは、清水氏と同世代の人が「問題行動」を起こしていることを隠蔽したいからではないか…という邪推はやめておこう。

 更に清水氏は、218ページから最後の220ページにおいて「性の虚弱化」について述べるけれども、特に219ページにおいて述べられている清水氏の文言は、はっきり言って今大谷昭宏氏などが喧伝しているイメージと完全に重なる。

 ところが、その方向で女性が元気になってきたせいで、一部の男性が、女性とうまく性関係を築けなくなっているのだ。人間として当然性欲はあるが、ちゃんと女性とそのつきあいとするのが、こわくて、面倒で、どうもうまくいかない、というような傾向が出てくるのである。その面を捕らえて、私は、性が虚弱化しているなあ、と思う。

 そういうわけで、昨今の世の中はフェティシズムだらけである。女性そのものにかかわるのがおっくうなので、その周辺の物質で性欲をかなえようとするわけだ。女性に触れるのはいやで、その下着や靴に欲情したり、ということになる。

 アニメのキャラクターに惚れ込んで、フィギュアと証するお人形を何体も集めることが性の活動だ、というような青年も出てくる。

 いや、私はそのことを非難はしない。性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから。

 ただ、私が言いたいのは、ちゃんと女性に性欲が向けられず、虚弱な性を別のものに向けていく蛍光からは、児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケースが(もちろん、まれにだが)出てきて、それがこわいな、ということである。……

 児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする。今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから。

 ここまでの問題発言を、自らの言説の政治性も考慮せずに語れる清水氏というのはどうかと思う。まず、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲を何の根拠もなしに「性の虚弱化」だとか《児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケース》などと短絡してしまうのは、我が国における性犯罪の現実を調べていないからこそいえるのだろう。そもそも清水氏は《性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから》と述べているけれども、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲はここから除外されているのは言うまでもないだろう。

 さらに、清水氏は最後の段落において《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律》に関して述べているけれども、例えば社会学者の宮台真司氏のように、その危険性や、特に児童ポルノ禁止法に関して「表現の自由」への抵触という観点、更には児童ポルノの視聴が性犯罪と関連しているというデータがない、という観点から批判も多かった。もちろん児童ポルノ禁止法を批判する人たちは、ただ自分たちに児童ポルノを見させろ、という歪んだ動機から反対しているのではなく、根拠もなしに権力がトートロジーによって一方的に規制することがおかしいから反対しているのであって、これは昨今盛り上がっているゲーム規制論に対する批判論も同様である。

 清水氏は、《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする》と述べているけれども、むしろ一つのメディアに対する規制が更に他のメディアや表現に対する規制につながってしまうことの恐ろしさを多くの人々が気がついていないことのほうがもっと怖い。もちろん、児童ポルノや児童買春に関しては、ひどいものは刑法で処罰すればいい話で、特別法を作ったからこそ責任の所在が曖昧になったり、あるいは罪が軽くなったりするという側面も現れている。

 そして清水氏は《今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから》と述べる。このようなレトリックがおかしな話であることは、冒頭で述べたとおりだ。もう一度言う、それなら清水氏は父親と母親を撲滅せよ、子供を産んだら直ちに政府に預けよ、となぜ言えないのだろうか。我が国において性犯罪の温床となっているのは肉親だし、我が国の母親は歴史的に児童虐待を起こすものが諸外国に比して極めて多い。清水氏はこの点にも着目して言わなければならないだろう。清水氏が児童ポルノやアニメやフィギュアを叩くのは、所詮それらが「叩きやすい対象」だから、という理由に過ぎないのではないか。

 「叩きやすい対象」さえ叩けば犯罪は撲滅できる、というのは過激な共産主義者の考えである。現在盛り上がっているオタクメディア規制論は、所詮自分がそれを嫌いだから、という理由以上のものはない。表現の自由に対する抵触とか、我が国において性犯罪の発生率が低いこととか、更に我が国において性犯罪や強制わいせつ罪の被害者の中でも未成年者が被害者となる数は減っているということとか、それらに対する言及は一切ない。

 いつぞやかの選挙の中で、田中眞紀子氏が「主婦感覚の政治」などと語っていた記憶がある。しかし私は、我が国において軽々しく語られる「主婦感覚」「市民感覚」という言葉を疑っている。我が国において、政治哲学的な意味においての市民(シチズン)、すなわち一人の責任ある市民として、あるいは政治への責任ある参画者としての市民という態度を貫ける人が、果たしてどれほどいようか。同調圧力が強く、その場その場の「空気」において流される我が国において、大衆は自分が「理解できない」少年犯罪・若年犯罪の「犯人」を血眼になって追い求め、青少年を貶める小気味良い言説が登場したらすぐにそれに飛びつき、そのような行為に対する責任をとる人など誰もいない。所詮そのような人にとって、大切なのは自分の「生活」だけ、守るべきものは自分の価値観と利益だけである。

 そしてそのような悪しき傾向を、短絡的な情報ばかり流して大衆をそれに溺れさせ、そして自分もまたそれに溺れるマスコミや、自分の言説に責任を持たずにただ不安を煽る言説ばかり垂れ流す俗流言論人が最も強めているのである。まあ、彼らにとって「責任」という言葉は鴻毛よりも軽いから、このような物言いも通用しないだろう。

 参考文献・資料
 太田啓之[2001]
 太田啓之「教師になれない卵たち」=「AERA」2001年2月5日号、朝日新聞社
 清水義範[2001]
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 丹羽健夫[2002]
 丹羽健夫「教員養成系大学再編私案」=「論座」2002年5月号、朝日新聞社
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
 ジャン・ジャック・ルソー、桑原武夫:訳、前川貞次郎:訳『社会契約論』岩波文庫、1954年12月
 ジョン・ロック、鵜飼信成:訳『市民政府論』岩波文庫、1968年11月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「厚生労働省統計表データベースシステム」から「第2章 人口動態
 「少年犯罪データベース」から「幼女レイプ被害者統計
 「メディアリテラシーの視点で見た子供を性犯罪から守る方法

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 ※8月13~16日は盆休みに入るので、一時更新を中断させていただきます。

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コメント

TBありがとうございました。

オタバッシングのきっかけとなった宮崎事件についても、裁判や精神鑑定の記録をちゃんと読むと、しょっちゅうコミケに同人誌を出していたわけでもなく、ビデオ録画コレクションもジャンルはアニメ等に限らず、一部を除いていい加減、むしろ『オタクになりきれていない』という感想しか得ませんでした。

それなのに『オタクはみんな少女殺害する連中だ』(当時の女性同人誌の勢いからしておかしい)と言われても…。当方女性ですが、十分当時の『報道』にはトラウマがあります。

投稿: siebzehn138 | 2005年8月13日 (土) 17時01分

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