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2005年8月17日 (水)

俗流若者論ケースファイル58・林真理子

 どういうわけか、我が国の所謂「知識人」の間において、「教育」について語る=「今時の若者」を批判する、という変な図式が成り立っているらしい。我が国において教育の問題を社会経済構造および階層化の問題として長い間語っているのはせいぜい苅谷剛彦氏くらいしか見つからないし、社会学や社会システム学などの学説を駆使して抜本的な教育改革論を語っているのもせいぜい宮台真司氏や内藤朝雄氏、自らの実践を元に授業論を語っているのも陰山英男氏や藤原和博氏くらいしかいなく、我が国において信頼できる教育論者というのはせいぜい20人弱(これだけいれば十分、という見方もできるが)、あとはほとんどの自称「知識人」が「今時の若者」を反面教師とした教育改革を断行しなければ我が国の未来は危ない、という論調でまとまっているようだ。むしろこのような動機付けで「教育」という大きなテーマについて語っている人を反面教師としなければ我が国の未来は危ない、と私は言っておこう。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成13年12月号の特集「教育、教育、そして教育」の特集の中にある、作家の林真理子氏の「この国の子どもたちは」という文章なのだが、はっきりいってこの文章は最初から最後まで「私語り」に過ぎない。要するに、自分は素晴らしい親に育てられてきたから自分はこんなに素晴らしく育ってきたが、今の親はみんな無能だから、巷で見かけるような無気力な「今時の若者」を大量に生み出してしまった、そして「今時の若者」が国を滅ぼす、というお決まりの展開であり、はっきり言ってこれだけの内容なのである。従って、まともに評価するに値しない文章といってもいいだろう。蛇足だが、この林氏の論考(と言っていいのかどうかすらわからないのだが)が掲載されている特集のタイトルとなっている「教育、教育、そして教育」というのは、英国のトニー・ブレア首相の就任演説における発言を基にしている。

 さて、本来ならば単なる「私語り」でしかないから検証するに値しない、と取り扱った林氏の文章であるが、ではなぜ私がここで改めて林氏の文章を採り上げるかというと、それは林氏の文章の不毛さがそのまま我が国における教育「論」の不毛さを映し出しているからである。

 林氏は冒頭において、《私はこの原稿を引き受けたことを、かなり後悔している》(林真理子[2001]、以下、断りがないなら同様)と書いている。私としては、その意志を断固として最後まで貫き、できればこの文章自体を書かない、あるいはもっと考えを練った上で書いたほうがいいのではないか、と思う。なぜなら、先ほども述べたとおり、林氏のこの文章が最初から最後まで「私語り」に終始しているからである。例えば183ページの次の文章を見てみよう。

 電車や街中で多くの少年少女や若者を見るたび、私はこの国の子どもたちがどうやらあまりよくない方向に行くことを感じていた。彼らの顔つきから、知的なものや真摯なものがまるで感じられないのだ。……

 ……戦争というものは、指導者が愚かな民衆を操ることによって起こる。戦争を拒否するためには、実に多大なエネルギーが必要だ。本当に強い意志と行動力を持っている人だけが、平和を持続させることが出来るということを、今回のことで実感した。

 そうした視点から見れば、本当にこの国の子どもは大丈夫なのだろうか。ケイタイをぼんやりと押し続けている間に、国民番号制と同じように、徴兵制が法案化されても気づかないような気がする。

 まったくどうしてこの国の子どもは、これほど悪くなったのだろうか。あたり前だ。親が悪いからである。またここで私の筆がにぶる。教育を語ることは、自分の親、自分、そして自分の子どもと三代にわたって肯定することに他ならない。……

 この程度の文章で原稿料がもらえてしまうのだから、青少年問題に関してあれこれ考えてついでに新聞・雑誌の記事も文献も見たくない思想的現実(=俗流若者論)も読んで更にあれこれ考えて金にならない文章を殴り書きしている私はうらやましい限りである。それはさておき、この程度の文章でさえ、「教育」を語っている論考として、すなわち教育「論」として許容されることに、我が国の論壇における「教育」というものの位置づけを見取ることができるだろう。そもそも林氏は、この程度の自分の体験談と単なる強引かつ恣意的なアナロジーによって教育「論」を展開しているのであれば、最初から教育「論」など書くべきではない。この文章は明らかに低レヴェルな「憂国」エッセイであって、最初から「論考」として期待すべき質の文章ではないのである。

 しかし――我が国の論壇においては、このような文章こそが「教育論」として受け入れられる。論壇にとって、「今時の若者」とは財政赤字や北朝鮮などと同様に深刻な問題であり、かつもっとも身近な問題であり、故にファースト・プライオリティーとして「解決せねばならない」問題として捉えられる。従って「今時の若者」に対する「対策」としての最も手っ取り早い政策として「提言」(現実には「提言」ということが憚れるほど下らない次元の議論なのだが)として「教育」が持ち出される。我が国の論壇において、「教育」とはまず「今時の若者」に対する「対策」として語られるのである。だが教育の問題というのは「今時の若者」に対する敵愾心では語れない場所に本来はあり、例えば社会構造の問題などに対する幅広い関心が必要となるのだが、自称「知識人」は俗情に媚びた短絡的な「提言」しかしないので、我が国の論壇において教育とは限りなく上滑りなだけの議論となりがちである。

 我が国において求められている教育論とは、そのような教育「論」ばかりが跋扈する状況に一石を投じるものであるはずだ。しかし我が国において、かような教育「論」はますます力を強め、ついにはプロフェッショナルであるべき人たちですら、最初から「今時の若者」を貶めることを目的とした「調査」までを行ってしまうほどである(これについては「統計学の常識やってTRY」の第2回第3回を参照されたし)。

 林氏の文章の紹介(検証とは言わない)に戻るが、林氏の文章は、ただ自分を肯定して現代の親と若年層と青少年を貶める文言がただ続くだけの文章なので、これ以上いちいち検証する気にはなれない。なので紹介だけにとどめておくと、例えば《こういう私にとって、現代の「友だちのような親子」というのは、本当に薄気味悪い》(185ページ)とか、《これだけ長いこと日教組に子どもたちを任せ、これだけ子どもたちが悪くなっているのに、よく変革が起こらないということだ》(186ページ)とかいった、いかにも思い込みと反射神経だけでしか語っていないことが良く分かる文言ばかりが並んでいる。そして最後に林氏が言うのが《クスリさえしなければ、売春さえしなければ、自殺しなければ、というマイナスの期待からは何も生まれないだろう。世の中のためになる人間になって欲しい。強く正しい人になって欲しい。この素朴な思いを、いったいいつ頃から私たちは口にしなくなったのだろうか》(168ページ)などという誰でも言えるような空疎な文言であるのが痛い。林氏は《マイナスの期待からは何も生まれないだろう》と書いているけれども、実際に子供に対する《マイナスの期待》ばかり親に、そして社会に押し付けているのは一体誰だ?青少年「問題」を針小棒大に採り上げ、「今時の若者」というイメージばかり肥大化させているマスコミや自称「知識人」ではないか。林氏はなぜこのような残酷なる言論体系を撃たないのか。

 しかし、このような実にないよう空疎な林氏の「憂国」エッセイに、一つだけ意味を見出すことにしよう。それは、この文章が、「文藝春秋」平成13年12月号の教育特集の一番最初に据えられていることである。これはすなわち、林氏のこの文章が、この教育特集の柱として据えられている、ということを意味するのではないか。林氏の、この程度の「憂国」エッセイが、一つの大きなオピニオン雑誌の教育特集の巻頭論文として据えられているのだから、我が国における、少なくとも「文藝春秋」における「教育」というものがいかなる位置づけを持っているのか、ということがわかる。林氏の文章の不毛さは、そのまま我が国の教育「論壇」の不毛さとして映るのが、ここで明らかになろう。

 参考文献・資料
 林真理子[2001]
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年6月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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