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2005年8月 8日 (月)

俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤

 教師とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確な言葉で表すなら、論壇において教師とはなんなのか、ということになる。少なくとも我が国のマスコミにおいて教師とは実践者として捉えられている。陰山英男氏や藤原和博氏を思い出していただければよい。この2人の教師(といっても藤原氏に関しては正式な教員免許を持っているわけではないが)の実践に基づく教育理論は、多くのマスコミで採り上げられている。この2人の名前を知らなくとも、「100ます計算」(陰山氏)や「[よのなか]科」(藤原氏)といった言葉を聞いた人は少なくなかろう(ただ、陰山氏は制度論や授業論に関しては秀逸なのだが、「ディスプレー依存症」なる概念について語りだすと限りなく疑似科学に接近してしまうから困ったもの)。

 ところが我が国の論壇において一人の論客として教師が登場する場合は、実践者というよりは、むしろ「告発者」としての側面が強い。例えば都立高教諭の池ノ谷泰氏は、現在東京都において行なわれている教育政策が以下に教師を追いつめるか、ということを告発している(池ノ谷泰[2005])。この場合において告発されるのは東京都政であり、このようなスタイルの「告発」は、岩波書店の「世界」においてよく見られる。しかし、「新潮45」や「正論」における、教師による「告発」は「世界」の「告発」とは内容が全面的に違う。

 「新潮45」や「正論」において教師が「告発」する場合、そこにおいて告発されるのは日教組か文部科学省のどれかである。それだけなら「世界」と同じだろう、と思われるかもしれないが、私が全面的に違う、と述べる所以は、それらが推し進めている教育政策によって青少年が「異常」になっている、という内容になっているからである。「新潮45」ではもっぱら樽谷賢二氏がこの手の文章を書いているけれども、この手の執筆者は現在の青少年や社会状況を「異常」と断定し、そしてその状況を作り出した「張本人」としての文部科学省や日教組を告発する。このような姿勢で書かれているわけだから、この手の文章に俗流若者論が多くなる。

 「新潮45」においては執筆者は樽谷氏ばかりなのだが、「正論」では執筆者は多様だ。しかしそれぞれの論旨に関してはほとんどワンパターンといってもいい。今回検証するのは、そんな論文の一つである、大阪府枚方市立桜丘中学校社会科教諭・長谷川潤氏による「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」(「正論」平成12年7月号に掲載)である。

 残念ながらこの論文の執筆者たる長谷川氏は、少年犯罪がここ最近になって多発化・凶悪化したと思い込んでいるのが痛いところだ。まず、長谷川氏は95ページにおいて、上智大学名誉教授の福島章氏の分析に文句をつける。福島氏は、この時期に多発した所謂「17歳の殺人」について、特に豊川における、所謂「人を殺してみたかった」殺人事件に関して、福島氏は《「純粋殺人」と規定し、サカキバラ(筆者注:酒鬼薔薇聖斗。平成9年の神戸市児童殺傷事件の犯人。ただ、この「酒鬼薔薇聖斗」なる殺人鬼が本当にそこで逮捕された14歳の少年なのか、という疑問の声が、弁護士の後藤昌次郎氏などから提示されている)の快楽殺人と異質なものと結論づけた》(長谷川潤[2000]、以下、断りがないなら同様)と分析していた。しかし長谷川氏はこの事件に関して、《豊川の「経験しようと思って」は「したかった」と動議である。神戸事件と同様に、「殺したいから殺した」のである》と述べている。しかしここで疑問が残る。確かに豊川の事件のほうは「殺したいから殺した」という解釈ができそうだが、「酒鬼薔薇聖斗」事件のほうは「殺したいから」というロジックは成り立たないのではないか。少なくとも犯行声明文や調書など(マスコミで公開された範囲で)を読んでみる限りでは、単純に「殺したいから」という理由で割り切ることはできないのではないかと思われるのである。長谷川氏は、「酒鬼薔薇聖斗」事件の記憶が薄れているのを見計らってこのような的はずれな比較を行なっているのではないか。

 さて、長谷川氏は豊川の事件のような殺人を《ワガママ殺人》とプロファイリングする。そして長谷川氏は95ページから96ページにかけて、このような犯罪は現在では例外ではない、とぶち上げる。しかし疑問なのは、過去との比較がないことだ。だが、長谷川氏はそのような行為を放棄して突き進んでしまう。例えば長谷川氏は96ページにおいて《筆者の授業中、余談の中で、ある生徒が「戦争になってほしい」と発言した》事例を紹介する。その生徒の発言の理由は《人が殺せるから》ということだそうだ。長谷川氏はこれにショックを受けたらしい。確かにこれにショックを受ける感覚は私にもよく分かる。しかし長谷川氏は更に妄想を強めてしまうのだから滑稽だ。96ページ2段目。

 その筆者の体験は、決して極端な例外とは言えない。平成9年の神戸事件(筆者注:「酒鬼薔薇聖斗」事件)発覚後一週間たって生徒に実施したアンケートでは、サカキバラの「きもちがわかりますか」との設問に「よくわかる」と答えた生徒が実に7%もいたのである。

 しかし、たといその7%が「酒鬼薔薇聖斗」の気持ちが「よくわかる」と答えたからといっても、その理由が「人を殺したい」ということに結びついているか、ということは疑問になろう。そもそもこの手の「共感」において最もよく聴かれたのはむしろ「酒鬼薔薇聖斗」の「犯行声明文」における「透明な存在」なる文句だったと私は記憶しているのだが。それを逆手にとって教育改革論を喧伝したのは社会学者の宮台真司氏であるけれども、少なくとも長谷川氏の決めつけがいかに暴力的であるか、ということを認識していただければ十分である。

 97ページでは長谷川氏が、当時大流行りだった(しかし今ではすっかり聴かれなくなった)「人を殺してなぜ悪いか」という質問に応えられない人たちを罵倒する。しかしアメリカがアフガンやイラクに対して行なった惨状を目の当たりにしている現在の私は、長谷川氏にこれらの状況を以下に捉えているのか、と問いただしたくなる。

 長谷川氏は99ページにおいて、長谷川氏が生徒に対して行なったアンケートを紹介している。とはいえそこにおけるサンプル数は188人、決して多い数ではない。しかし長谷川氏はこの程度のアンケートから現代の青少年の心理に関して述べたがるのだから救いようがない。長谷川氏は100ページにおいて以下のように述べる。

 このアンケートで理解、再確認されたことは、少数とはいえ今回の二人の十七歳に共感を抱く者が少なからず存在するという事実である。すなわち「ワガママ殺人」の潜在的予備軍が全国に展開している事実を、私たちは認識しなければならないのである。

 まったく、この程度のアンケートで《理解、再確認》理解していただきたくないものだ。
 しかし長谷川氏はこの先から本格的に暴走してしまう。長谷川氏は広辞苑の初版におけるテロルという語句の説明《あらゆる暴力手段に訴えて敵方を威嚇すること》を引き、《「バスのっとり事件」こそ、まさに「テロル」そのものではないか》と書いている。しかし、なぜ初版なのだろうか。ちなみに私の電子辞書に収録されている広辞苑の第5版には《あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること》と書かれている。

 長谷川氏は101ページにおいて、現在において「テロル」が激増していると書いてしまう。曰く、

 これ以外にも、「京都小学二年生殺害事件」(筆者注:所謂「てるくはのる」事件)や「新潟少女監禁事件」、あるいは少し年月をたどれば宮崎被告(筆者注:宮崎勤)による「連続幼女殺害事件」などの青少年による凶悪事件が相次いでいるが、その社会的影響力の大きさを考慮すれば、それらはすべて社会への「テロル」であると考えられる。

 このようなプロファイリングが許されるのであれば、全ての犯罪を《テロル》ということができそうである。長谷川氏はこの直前において、件のバスジャック事件に関して《五月十三日になって、内閣、文部省などへよく声明を事前に送付していたことが判明》していたことを引き合いに出し、その点から見れば京都小学二年生殺害事件も1億歩ほど譲って《テロル》ということができる。しかしそれ以外の2つの事件は、1000兆歩譲っても《テロル》ということは到底できない。そもそも新潟少女監禁事件があれだけ耳目を集めたのは犯人が「ひきこもり」状態に近い状態にあったからで、それが後に「ひきこもり」=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまい、精神科医の斎藤環氏が必死になってその誤解を解消しようといそしんだ。また宮崎勤事件に関しても、その犯人たる宮崎勤がホラービデオやロリコンビデオなどに過剰なまでに嗜好性を示していたという理由であれだけ話題になっており、これもまたオタク=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまった。少なくとも言えることは、長谷川氏が自らの勝手な定義に縛られていることであろう。

 101ページから102ページにかけて長谷川氏はこのような状況を生み出した原因(そもそも長谷川氏の状況設定が間違いだらけなのだが、この際1兆歩譲って認めることにしよう)について述べるのだけれども、私にとってはデ・ジャ・ヴュの連続であった。何せ長谷川氏、その「原因」なるものを「児童の権利に関する条約」(所謂「子供の権利条約」)に求めてしまうのだから。で、その条約が、管理教育を否定し、その結果学級崩壊や援助交際が激化して…どこかで聞いたことのあるストーリーだ。少なくともこのような手垢にまみれたストーリの正当性を一度は長谷川氏自身で検証してみてはどうか。私はもう検証・批判することすら面倒である。そして結びの104ページで訴えるのは少年法の厳罰化である。

 この論文の結びは次のとおり。

 今回、スペースの都合で教育問題は割愛させていただいた。当然ながら社会を正常化させるための最大のそして最も基本的要素は、正しい教育、就中朝日新聞のお嫌いな道徳教育の徹底が必要不可欠である点を最後に強調しておく。

 まず、この論文で教育問題は割愛されていないと思う。ただし、これは私と長谷川氏が何を「教育問題」として捉えるか、ということの差異に起因していると思うので、これに関する突っ込みは避けておこう。だが散々不安を煽っておいて、結局この程度のことしか言えないのであれば、この文章全体が砂上の楼閣のようなものである、と罵られても仕方がないであろう。

 この文章を読んで、私は改めて教師とは何か、ということについて深く考えさせられた。少なくともこの論文における長谷川氏は、自らの目の前の状況をまず解決しようとする意欲はまったく感じられず、単純にして短絡的な「憂国」を唱えることによって偽りの危機感や敵愾心を煽っているだけである。このような文章は、単純に現場をよく知っている中学校の教師が言っているのだから間違いない、という文脈で受容されるのかもしれないけれども、私にとってすれば長谷川氏の「理解」は偽りの理解であり、長谷川氏自身のイデオロギーに現代の青少年を当てはめているだけの話である。

 目の前の問題を解決しようとせずに、徒に自らのイデオロギーに生徒たちを当てはめてその危険性を喧伝している長谷川氏の如き教師は、私は不要だと思った。仮にこの論文の執筆者が教師であることを意識しなくても、この文章は容易に読めてしまう。要するに、この論文は「正論」によく登場する俗流右派論壇人が書いたものとなんら変わらないのである。この論文が、執筆者が教師ということだけで権威を持っているとすれば、私はもう一度、教師とはなんなのか、ということを問いかけざるを得ない。

 参考文献・資料
 池ノ谷泰[2005]
 池ノ谷泰「際限なき都教委版「日勤教育」」=「世界」2005年7月号、岩波書店
 長谷川潤[2000]
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 森川嘉一郎、他『おたく:人格=空間=都市』幻冬舎、2004年9月

 佐保美恵子「現代の肖像 藤原和博」=「AERA」2004年3月29日号、朝日新聞社

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コメント

こんにちは、犬笠と申します。

長谷川はこないだの朝生で「いじめによる自殺者は比率的に小さいから、取り上げなくて良い。」と戯けた事をホザいたようです。比率の小ささを殊更に強調し(=絶対数を無視し)、問題の無効化を図るのは、初歩的なデマの手法ですね。

このことからも彼が数学的センスのない人間であることが分かります。「愛国心教育をやらないから問題が起こる」的な精神論を叫ぶ連中といい、何故にこんな連中が公共の電波を占有できるのでしょう。

投稿: 犬笠銀次郎 | 2006年12月11日 (月) 17時11分

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