俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
俗流若者論を研究しているものにとって、過去に喧伝された「今時の若者」をめぐる事例や言論に関して、今振り返ってみると「あれはなんだったのか?」と思い返さざるを得ない。我が国において「今時の若者」をめぐる言説は、中にはそのまま(その非論理性が指摘されずに)ずっと使われ続けるものもあるし、あるいはすぐに消失してしまうものもある。「あれはなんだったのか?」と考えざるを得ないものは、もちろん後者に当たる。
今回検証するのは、「文藝春秋」平成12年11月号に掲載された、「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」という特集の中におけるいくつかの論文である。このような問いかけは、今ではめっぽう聞かれなくなった。それがいい事なのか悪いことなのかは一概には言えないだろう。
検証の前に、私なりに「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに関して書きたいのだが、なかなかいい理由が見つからない。最大の理由としては、やはり「刑法で禁止されているから」であろう。しかしこのような解答をすると、「人を殺していい。ただし、警察権力に見つからないように最後まで隠し通せ」ということを容認してしまうことになる。ただこの答えは、法学的に突き詰めるならばある程度は正しい答えとなる。しかし「それではなぜ「人を殺してはいけない」ということが法律よって定められるようになったか」ということに関しても答えなければならないはずである。それに対する理由としては「人を殺すことが許されるならば多くの人が人を殺すようになり、社会秩序が崩壊する」というのがもっとも妥当かもしれない。要はホッブズの説明である。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する戦争状態」と捉え、そこから生まれる死の恐怖から回避するためには主権の確立が必要だ、という論理である。
しかし、世の中にはたくさんの「殺人」で溢れている。もちろんここで言うところの「殺人」は人が人に対する殺人行為のみを指すのではなく、例えば国家が凶悪犯罪の被害者の代行として恩讐を行なう場合=死刑や、国家の主権の拡大のために自らの「敵」を殺す行為=戦争などといったものが溢れている。更には最近になって、脳死とかホスピスなどを巡る議論に代表されるとおり、そもそも「生」と「死」の境目に関する議論もまた存在している。このように考えれば、今ではめっぽう聴かれなくなった「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いもまた、「生」と「死」の境目が曖昧になった現代社会であるからこそ問われる問題なのかもしれない。もう一つ言えば、昨今のマスコミ、特に少年犯罪報道は、あまりにも「死」を物語化しすぎており、彼らの「死」に対する認識こそ私は疑いたくなる。
本来ならそのような問いかけを真摯に受け止めることによって、我が国の社会にとって「死」とはいかなる意味を持っているか、ということを問い詰めなければならなかったのである。しかし我が国の自称「識者」にとって、そのようなことは許されなかったらしい。まあ、我が国の自称「識者」の役割が、ただ「今時の若者」の「問題行動」に「驚いてみせる」ことでしかないから、この特集の如くただページ数だけ多くて内容は空疎なものばかりそろってしまうのかもしれない。
さて、検証に入ろう。
・瀬戸内寂聴氏(作家)「仏教第一の戒律「不殺生戒」」
この文章において、瀬戸内氏は仏教の戒律に基づき、殺人のみならず戦争も死刑もいけない、と述べている。その一貫性は実に美しく、厳格であるのだが、どうも気になるのは瀬戸内氏が現代の若年層に対して偏狭なイメージしか持っていないのではないか、ということだ。
例えば瀬戸内氏は、166ページにおいて、以下の如く述べている。曰く、
最近の子供は、命の大切さ、重さを、家庭でも、学校でも教えられていないようだ。
「なぜ人を殺してはいけないの」
と母親に問うた子供に、その母親は何と答えて言いかわからなかったという話が、新聞に投書されて話題になった。多くの母親が投書者の困惑に共感を示した。八十近くまで生きた私は、それを聞いて心から驚愕してしまった。
私の世代の者は、少なくとも物心つかない幼いうちに、人はもちろん、動物も鳥も殺してはならないと、誰からともなく教えられていたように思う。……(瀬戸内寂聴[2000]、この部分では断りがないなら同様)
瀬戸内氏の如き力のある知識人ですら、この程度の「憂国」しかできないのだから哀しくなる。少なくともこのような瀬戸内氏の「憂国」エッセイレヴェルの議論が本当に論理として成立するためには、それは本当に瀬戸内氏の世代の特徴なのか、それとも瀬戸内氏の単なる思い込みなのか、ということにも検証が必要であろう。
瀬戸内氏はまた、167ページにおいて、《青少年の自殺の増加も只ならぬものがある。彼等は、自分の命さえ軽んじているのである。自分を愛せない人間は他者を愛することも出来ない》と書いている。しかし自殺統計を見ればわかるとおり、我が国において人口10万人に対して最も自殺者が多いのは50歳代であり、青少年(未成年)の自殺は我が国において全世代と比較して低い。瀬戸内氏は、我が国でもっとも自殺している50歳代の人たちに、この文章の如き罵倒をすることが出来るのだろうか。ちなみに現在の50歳代は生涯を通じて自殺率の高かった世代であり、この世代が40歳代だったときは40歳代の自殺が急増している。瀬戸内氏の罵倒がいかに的はずれであるか、ということを証明しているだろう。
ちなみに瀬戸内氏がらみで付け加えておくと、瀬戸内氏は日経新聞において「生少年の想像力が衰退したから、犯罪や自殺が増えた」ということを述べていたが、このことについては皇學館大学助教授の森真一氏が批判している。森氏は、瀬戸内氏の「想像力衰退説」に対し、《このような主張の裏には、「文字文化のほうが絵や映像の文化よりも高級である」という価値観、または信念が潜んでいると思われます。なぜなら、テレビや新聞で「衰退説」を唱えるのは作家や評論家、学者などのいわゆる知識人・文化人たちが圧倒的に多いからです。彼らは読書によって知識を獲得し、思考を鍛えてきた人たちです。その彼らが、テレビ・映画を観たりマンガを読んだりすることよりも、読書のほうに価値を置いても不思議ではありません》(森真一[2005])などと多方面から痛烈な批判を述べているので、参照されたし。
・乃南アサ氏(作家)「「なぜだと思う?」と問い返す」
乃南氏がタイトルで掲げた如き理論もまた、大筋としては批判すべきものではないと思う。しかしやはりここでも乃南氏の若年層に対する認識の残酷さが見られる。
乃南氏は171ページにおいて、《今の子どもたちは、特に外見の成長は早いから、ついこちらも一人前のような扱いをすることが多い。だが、その内面の成長といったら、呆れるほど遅滞している場合が珍しくない。情報の多様化、その量の豊富さと、大人が植えつけた「権利」についての強い意識によって、子どもは、言葉だけは巧みに弄するようになったし、見事なほどに物怖じしなくなったと思う。だが、そのことと精神的な成長とは別の問題であることを、大人自身が忘れている》(乃南アサ[2000]、この部分では断りがないなら同様)と書いているのだが、これはむしろ乃南氏が《内面の成長》をいかに捉えているか、ということの問題であろう。そもそも《呆れるほど遅滞している場合が珍しくない》といっているけれども、それがいかなる事象を指すのかがわからない。
172ページにおける《想像力の欠如。生の実感の希薄化。事実、死ぬことなんて怖くないという子どもが増えているとも聞いた。長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という物言いもまた然り。そもそも《死ぬことなんて怖くない》《長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という子供が本当に増えているとしたら、それは《想像力の欠如。生の実感の希薄化》ではもはや済まされない大変な問題が起こっていると考えるべきかもしれない。そもそも我が国において、平成に入ってから一貫して自分の生活を「苦しい」と思う人の割合が増加傾向にある(厚生労働省の国民生活基礎調査より)。乃南氏の如く《想像力の欠如。生の実感の希薄化》という俗流若者論お得意のレトリックで茶を濁せば、間違いなく事態は悪化する。それでもいい、と乃南氏が考えるのであれば、乃南氏こそ《想像力の欠如。生の実感の希薄化》と罵倒されて叱るべきであろう。もっとも、この文章が書かれた時期は青少年と社会階層の問題についてまとまった本や研究がほとんど世に出回っていなかった(例えば、東京大学助教授の玄田有史氏の著書『仕事のなかの曖昧な不安』が刊行されたのは平成13年)から、一概に責めることは出来ないのかもしれないが。
・久田恵氏(作家)「問われてからではでは遅すぎる」
どういうわけか作家が多いな。ついでに言うと久田氏のひとつ前に掲載されている精神科医の野田正彰氏の文章が意外とまともだったことを付け加えておく(野田氏の青少年に対する認識の支離滅裂さについてはこの連載の第32回と第61回を参照されたし)。
さて久田氏の文章に映るのだが、久田氏がこのように述べている時点でもはやアウトである。
現代の子どもたちは、幼児期から個別に育てられ、喧嘩などで他者とまみれて心身を通して共感性を養う体験を持たずに育っている。学校では陰湿ないじめ関係を泳ぐようにしてわたり、思春期とに友と哲学を語って他者と共に思考を鍛える機会もない。
毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない。この時期に至って慌ててなにかを大人が語っても、向こうなのだ。
こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけの中で、その環境に抵抗力を持ち、危険な思春期をサバイバルできるかどうかは、幼児期からどれほど豊かな対話が他者となされ、自尊の心がその子どもの内面にかっちりと形成されているか、もうその一点にかかっていると私は思う。(久田恵[2000]、この部分では断りがないなら同様)
このように単なる自意識の発露でしかない俗流若者論を読んでいると、我が国においていかに自称「知識人」というのが現実を見極め、対峙する能力を失っているのか、ということを実感する。そもそもこのような奇麗事で社会が良くなるのであれば、誰だって苦労はしない。しかし昨今の状況と照らし合わせてみれば、このような「奇麗事」ばっかり論壇では溢れかえって統計やフィールドワークなどを中心としたリアルな論議が「奇麗事」乱発の中で霞んでしまうことによって、事態が改善されたか、と考えれば、決して改善されていない。しかしそれでも「奇麗事」を乱発できる人たちは、本当に恵まれた人たちなのだなあ、とつくづく思ってしまう。
とりあえず本文の検証をしてみれば、特に久田氏の現代の青少年に対する認識の残酷さが現れているのが《毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない》《こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけ》みたいなくだりであろう。しかし、こういったものがなかったはずの過去においては、例えば昭和40年代には青少年による凶悪犯罪の件数がピークを迎えている。ついでに言うと我が国において10歳代における殺人率よりも50歳代における殺人率のほうが若干多い。このような傾向は我が国独特である。久田氏はそこにも触れるべきであろう(評論家の岸田秀氏はこの点に触れていた。岸田氏は《日本では、殺人事件は欧米、とくにアメリカよりはるかに少ないとのことであるが、これは、日本人が心やさしいとかのためではなくて、人殺しに対する文化的ブレーキの違いによると思われる》(岸田秀[2000])と述べている)。
・藤原智美氏(作家)「また造ればいいじゃん!」
真打登場である。藤原氏の文章は、もう全部が全部突っ込みどころといってもいいほど残酷かつ支離滅裂で、藤原氏が青少年問題について語ることは一切信用してはならぬ、といいたいくらいだ。ちなみに、藤原氏がタイトルに掲げたのは、藤原氏の答えではないのだが、これは後々触れていくこととする。
とにかく藤原氏、一番最初にこのように語っているのだから。189ページ1段目から2段目にかけて。
「なぜ人を殺してはいけないのか」と、面とむかって訊かれた人はむしろ幸運だと思う。そもそも「問い」を可能にする対話じたいが、ほとんど成り立っていないのが現実だからである。奇妙なことに、だれに訊かれたわけでもないのに私たちは、人を殺してはいけない「理由」を探しているのだ。それは子どもたちのもつ理解をこえた「命への感覚」に気づき、私たち自身がひどく不安になっているからにほかならない。たとえばこういう十代の「気分」が存在する。
「いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら」
この言葉をまえにしたとき、これまでの倫理、道徳観に根ざした殺してはいけない「理由」は無力だ。……私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ。(藤原智美[2000]、以下、断りがないなら同様)
これだけでも事実誤認なのである。そもそも《いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら》なる《十代の「気分」》なるものが本当に存在しているか、ということに関して疑問視されるべきなのは、昨今の殺人統計を見ても一目瞭然だろう。そもそもこの文章、そして藤原氏の青少年問題に関する記述は、そのほとんどが懐古主義という名の自意識の塊、あるいは青少年に対するステレオタイプの蒸し返しがほとんどである。それにしても藤原氏、《私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ》としたり顔で言うけれども、そのようなことは昨今のマスコミや青少年「問題」に蠢動する政治家や自称「知識人」の醜態を見てから言うべきことだろう。少なくともこれらの人たちは、少年による凶悪犯罪を俗流若者論を垂れ流す好機、あるいは自分の政策の正当性を主張する好機としか捉えていない。このような人たちにこそ藤原氏は問いかけるべきであろう。
藤原氏の論理はまだ暴走する。前の引用文の直後ではこのようにも述べている。
いうまでもなく命を奪うのが殺人である。その「尊い」命はどのようにして生まれるのか。男と女の愛によってか?かもしれない。そう信じている人々にとっては、まさに命はそのように誕生するだろう。だが、こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている。「尊い」命の誕生は神秘でも感動でもなく「技術」によって支えられている。生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ。
もしかすると「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される。そういう状況をむかえるかもしれない(私はそうなると革新しているが)。……簡単に作ることが出来るものは、簡単に壊すことも出来る。「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれるのもそう遠い将来ではない気がする。
これもまた事実誤認と歪曲に満ちた文章である。例えば藤原氏は昨今の生殖技術の発展に関して《こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている》《生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ》と書いているけれども、それは事実誤認で、現実には多くの子供たちが男女の性行為(=自然受精)によって生まれている、というのは今でも変わらない。昨今行なわれている生殖技術は、例えば子供を産むことのできない体を持ちながらも子供を産みたい、という人(不妊治療)などに対して行なわれているくらいで、本格的な精子ビジネスなどが成立している状況ではない。無論そのようなことが将来的に起こる可能性が全くないとは言い切れないけれども、少なくとも現在では起こっていない。この文章が書かれた5年弱後に当たる現在でも然りである。そもそも藤原氏は出産に関する社会的な状況を無視しており、女性が陣痛などを経験しないで遺伝子操作で体外で胎児を、自然出産により生まれた胎児と同様に周囲の環境に耐えうるほどに成長できるようになるには、気の遠くなるほど時間がかかるだろう。さらに胚の状態から即時にある年齢の状態に達成させるのは生物学的に不可能だし、言語や社会性についても一瞬で身につくものではない。故に《「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される》という状況が生まれたとしても《「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれる》というのは完全に誤りである。藤原氏のアナロジーは安易な科学信仰の単なる裏返しでしかない過剰な科学敵視でしかない。
藤原氏は先ほどの引用文の次に、以下のようにも述べている。曰く、
第二次大戦中のアメリカ軍兵士の発砲率はわずか二割だったという。戦闘中、八割の兵士が引き金を引かなかった。人を殺せなかったのだ。が、ベトナム戦争での発砲率は九割に上昇する。シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果である。ピンポイント爆撃の現代、それはモニター上の仮想戦の様相を呈して、発砲率という言葉がもはや意味を成さないほど無自覚に殺せるようになった。それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない。ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている。殺人への衝動をゲームによって解消させるということはあるだろう。けれど群の訓練実態を見れば、反対に殺人へのアレルギーをなくすという可能性も否定しきれない。いまの十代はそんな危うい環境の中にいる。
そもそも発砲率に関するデータの出所はどこだ。出所な不明瞭なデータは最初から疑われて叱るべきであるし、また藤原氏はヴェトナム戦争になって発砲率が上昇した理由を即座に《シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果》と答えているけれども、例えば戦争に対する軍人のモチベーションとか、あるいは政府や軍の上層部による圧力とか(かの有名な「アイヒマン実験」の例を引くまでもないだろう)への想像力は働かなかったのか?しかも《それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない》いこうのレトリックは支離滅裂もいいところだ。そもそも藤原氏は《ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている》と書いているけれども、そのようなものがなかったはずの時代のほうが青少年による凶悪犯罪は多かった。藤原氏はそれをどうやって説明してくれるのだろうか。前掲の岸田秀氏が述べている通り、殺人とは極めて文化的な状況に左右される。もし我が国において青少年が人を殺さなくなっており、逆に中高年が人を多く殺すようになっている、という状況があるとすれば(実際にある状況であるのだが)、そのような状況を生み出した「原因」に対する想像力こそ問われるべきだ。藤原氏の文章は、現代の青少年どころか社会に対する偏狭な認識の塊でしかなく、この文章は藤原氏の力量のなさを如実に表しているのである。
問題の大きかったのはこの4つであり、他にも問題のあるものはいくつかあるのだが、検証は控えておこう。もちろんこの特集が俗流若者論ばかりで凝り固まっていたわけではなく、今日と造形芸術大学大学院長(当時)の山折哲雄氏、作家の重松清氏、ノンフィクション作家の髙山文彦氏の文章は特に読み応えがある。しかし裏を返せば、この深刻な問いかけに、「知識人」が多く集まるはずの「文藝春秋」に14人も執筆して、読むに堪えうるのが先の山折氏、重松氏、髙山氏と、あと岸田秀氏と作家の野坂昭如氏くらいしかないことは深刻な問題ではないだろうか。他の執筆者は、多かれ少なかれ俗流若者論を含んでいる。しかし人生観・自然観・文明観の根本に関わるこの問題に対して知恵を絞って答えられる人が少ないことに、私たちはもっと危機感を持っていいと思う。
私は、ジャーナリストの櫻井よしこ氏の著書『日本の危機』に引かれている、国語作文研究所所長(当時)の宮川俊彦氏の異見に全面的に賛同する(とはいえ、この宮川氏の発言が引かれている櫻井氏の著書の第10章のこれ以外の部分に、私は全面的に賛同できないのだが)。
「作文教室をやってますと子供たちからハッとする問いかけをされます。“人を殺してもいいじゃない”“したい事をしてなんでいけないの”という問いかけに、大人はどう答えていくか」
宮川氏が語る。
「こういう問いかけをする事はとても大切です。客観しできる人間はすぐには行動に移りませんから。
子供たちは深い部分で秩序を求めている。哲学を求めていると僕は感じます。対する社会が単にこれはいけないことだというだけでは押さえきれないと感じます。
子供たちに性の実感、展望をもって生きていく指針、自分が自分であってよいのだという安心感を与えることが出来るか否かだと思います」
日本の母親は、そして家庭は、子供たちにその前向きの生の実感を抱かせることが出来るか。
「現代の母親は論理や知識を見につけていても、子供の教育には失敗しています」
と宮川氏。(櫻井よしこ[2000])
このようにポジティブに考える人が、どうして我が国には少ないのだろう。我が国は青少年に関するネガティブな情報ばかり溢れ、それらが家庭を、社会を、学校を圧迫している。そして我が国の自称「知識人」は自らの役割を誤認し、ただひたすら「憂国」言説を繰り返してこれらの情報の主たる受け手である人たちの自意識を満たすことしか考えていない。このような状況下において、世の中を変えてくれるような先駆的な言論など生まれるはずもない。
このような言論の貧困は、執筆者と編集者と読者の共犯関係において起こる。執筆者の認識が貧困であり、態度が甘ければその程度の言論しか算出されないし、編集者にそのおかしさを見破る能力がなければその程度の言論が平気で流通し、読者がその偏向性に気づかずに踊らされてばかりでは執筆者や編集者を助長させることにしかならない。我が国における自称「知識人」の貧困ぶりは俗流若者論にこそ現れる。我々は言論の「死」としての俗流若者論を真剣に見つめるべきかもしれない。
人々は、疑うことを捨てて、俗流若者論に走るのだろう。
参考文献・資料
岸田秀[2000]
岸田秀「仲間を殺す動物は人間だけ」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
櫻井よしこ[2000]
櫻井よしこ『日本の危機』新潮文庫、2000年4月
瀬戸内寂聴[2000]
瀬戸内寂聴「仏教第一の戒律「不殺生戒」」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
乃南アサ[2000]
乃南アサ「「なぜだと思う?」と問い返す」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
久田恵[2000]
久田恵「問われてからではでは遅すぎる」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
藤原智美[2000]
藤原智美「また造ればいいじゃん!」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
森真一[2005]
森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月
B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
杉田敦『権力』岩波書店、2000年6月
エミール・デュルケーム、宮島喬:訳『自殺論』中公文庫、1985年6月
広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
植木不等式「♪これぞ真のクローンだ節――ラエル『クローン人間にYes!』」=と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年6月
加藤尚武「日本クローン法は欠陥品である」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社
長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店
根津八紘「不妊治療のためなら推進すべきだ」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社
参考リンク
「kitanoのアレ」から「小泉内閣の実現力(3):国民生活4年連続悪化の実績」
「少年犯罪データベースドア」から「養老孟司先生世代の脳は狂っている」
「自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告」(厚生労働省)
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