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2005年8月 7日 (日)

俗流若者論ケースファイル47・武田徹

 私が俗流若者論の研究で培ったものの中でもっとも大きいものの一つは、物事をさも安易に説明するかのごときアナロジーを濫用してはならぬ、という精神である。巷には「今時の若者」を「説明」するための(=彼らの行動を過度に図式化し、彼らの精神の問題として捉えることによって、彼らを「劣等」と見なすための)珍概念が溢れている。「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」さまざまだ。そしてそのような概念を用いる際は、その概念によって世界が簡単に説明されることに関する危機感を常に持たなければならない。少なくとも世界も人間の行動も単一の概念で説明できないほど複雑であり、俗流若者論は人間の、というよりも「今時の若者」の行動は簡単に説明できる、という錯誤に陥っているから、最終的にはいかなるアプローチでもレイシズムに辿り着く。森昭雄、正高信男、大谷昭宏など、採り上げると切りがない。

 たとい若者論であっても、そのような安易な概念に依拠して簡単に若年層を説明することを疑うことは、良識ある書き手であれば必然だ。もし誰かの発明した概念をそのまま批判的検証もなしに広めてしまったら、それは言論でもジャーナリズムでもなく大本営発表になる。そのような事態をもっとも避けるべきはジャーナリストであろう――。

 ここから本題に入る。今回検証する記事は、ジャーナリストの武田徹氏による「プログラム人間に「心」を」(「Voice」平成12年11月号)、である。この《プログラム人間》という表現は、心理学者の三森創氏による概念であり、武田氏は三森氏のこの概念を《何かを自分で感じて、それをきっかけとして行動を動機づけてゆくメカニズムを、彼(筆者注:三森氏)は「心」と読んでおり、最近の若い世代はそうしたメカニズムを形成させることなく育ってしまっているのが、三森の指摘だ》(武田徹[2000]、以下、断りがないなら同様)と紹介している。

 なぜ武田氏がこの概念に惹かれたのか。そのことについて、武田氏は、104ページから105ページにかけて、当時テレビで大流行りだった「片づけができない若者」なるものを紹介している。武田氏によると、それらの人は《たしかに大学や会社から帰宅した部屋の主は、服装などもこざっぱりしている。つまり社会的にはごく「まとも」な普通の若者なのだが、ただ片づけをする意欲だけが欠けていた》という。それが武田氏には、《ごくまともな若者の唯一の奇行》として片付けることができなかったらしく、武田氏は105ページの最後で、

 たしかに先にあげた例では、乱雑な部屋を不快に感じる「心」、不快感を動機として掃除という行動を選択する「心」が存在しなくなっていると考えれば、常軌を逸した散らかりぶりをうまく説明できる。

 と述べている。武田氏がジャーナリストであれば、まずそのように安易なアナロジーをテレビで見た程度の「今時の若者」のイメージに重ね合わせる前に、まずそのような事態がどこまで広がっているか、ということを取材すべきであろう。しかし武田氏は最後までこのアナロジーに依拠してしまう。ちなみに106ページにおいて、この三森氏の著書の一説が紹介されているのだが、その著書のタイトルが「プログラム駆動症候群」ときた。つくづく心理学主義系の俗流若者論は「症候群」が好きだ。

 武田氏のこの文章は、単純な概念に依拠すると、多面的な見方を拒絶するようになる、という格好の事例として見ることができる。例えば107ページの記述を見てみよう。

 そこで、まず注意すべきなのは、彼らが全面的に無責任なのかということだ。なぜ避妊しないのかと尋ねられた若い女性の多くは、それが最愛の恋人への忠誠の証なのだと答えるだろう。なぜ中絶しないで産んだのかと尋ねられたら、せっかく授かった生命を殺すなんて人道的に許されないことだと主張するのではないか。育児を放棄して遊びに行くことは、友人をなにより大事にしたいからだと述べるかもしれない。つまり、大人の眼からは一様に無責任だと移る行動は、彼らにしてみればそれぞれに「スジを通した」結果なのであり、彼らなりに責任を取ろうとしているのだ。

 ……

 若い世代の場合は、そうしたすべての行為に責任をとる個人であろうとはしない。部分的に筋が通れば突進して行ってしまう。それもまた「心」ではなく、「プログラム」で駆動されているということと関係している。動機づけがすべて「心」に統合されていれば、行動のすべてを統一的に見渡し、取捨選択をすることが可能となるが、若い世代は「心」を育んでいないからそれができない。読み込んだ「プログラム」どおりに行動する彼らの選択は、大人から見るとあまりに唐突で配慮に欠けており、無責任に映る。

 まず中絶に関する記述なのだが、ここで採り上げられている(武田氏の図式化による)若い女性の考え方は、ある意味極めて正統的だと言えるかもしれないし、あるいは相手である男性を傷つけたくないから自分で責任を取らなければいけない、と思いこんでいるのかもしれない。これは極めて文化的な状況の問題であり、決して武田氏=三森氏の如き安易なアナロジーで説明すべき問題ではない。また、前半の段落の途中において、武田氏は唐突に《育児を放棄して遊びに行くこと》を採り上げているけれども、これが若い世代で広まっているのか否かを武田氏は説明しようとしない。これは問題ではあるまいか。武田氏は「今時の若者」だからそういうこともしているだろう、と安易に思い込んでいるのではないか。

 それにしても後半の段落において、安易な断定が目立つのが気になるところだ。武田氏がこのような安易なアナロジーの使用に疑問を持たないのもまた、武田氏がこの文章を書く際《「心」ではなく、「プログラム」で駆動されている》からではないか。もちろんこのような表現は単なる冗談でしかないのだが、少なくとも武田氏が安易なアナロジーの使用に疑問を持たずに突き進んでいるのは確かであろう。

 この文章において、例えば近代以前からの刑罰の取り方に関する説明は特に間違っていると思われる部分はない。ただ、武田氏のこの文章において、問題は110ページにおいて再燃する。

 武田氏が安易なアナロジーの使用から脱却できていないことは、110ページの記述からも確認できる。武田氏は110ページにおいて、(武田氏=三森氏の勝手な規定による)現代の若年層の精神(無)状況の原因として、以下のように述べている。

 産業化の進展で一応は衣食足りた日本社会で、商品やサービスは欲望の対象となる異常の徒歩を求められるようになる。それは次官をこのように使えばいいという手順を示すという付加価値である。……

 これは多くの商品やサービスが「プログラム」内蔵型になったということだ。こうした状況が若い世代の生活様式に変化を及ぼす。

 たとえば冒頭に引いた散らかされたモノが積み上げられた部屋は、そこに内蔵されていた「プログラム」の作動が終了してしまい、もはやどういう手順で扱えばよいのかわからないまま、使い手によってモノが放置されていた光景だった(散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない)。

 論理飛躍の目立つ文章である。そして、そのような論理飛躍の根源は、武田氏が単一の安易なアナロジーに依拠し、それによって全体のバランスを顧みずに、見かけだけの整合性に満足して文章を進めていることであることはもはや明らかであろう。そもそも武田氏が現代の若年層の病理的状況の典型として書いている「片付けられない若者」は、ある意味では掃除しようと思っているがなかなかできない、という状況としても読み取ることができるし、少なくとも《散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない》などという若年層を蔑視したことを言うにはかなりの留保が必要となるだろう。

 そして武田氏はこの文章全体の結びにあたる111ペーにおいてこれまた問題の多い文章を書いてしまう。

 それぞれの文脈の限定された範囲内ではスジが通っているのかもしれないが、そうした作業にいかなる建設性があるのか。そして断片的にスジを通す姿勢は、統合された責任主体の目配りによって制御されることがないので、時にコミュニケーション不全の段階を飛び越えて具体的な暴力にまでいたることもなる。キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう。

 そのような事態を望ましいと思わないのなら、責任主体を解体させているいまの社会状況をもう一度冷静に見直し、適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか。

 残念ながら、これもまた飛躍の目立つ文章だ。この文章を読んできた人であれば、ここでも武田氏がこれまで用いてきたアナロジーに批判的な視座を加えていないことが結局のところ最後まで改善されていないのがわかるだろう。武田氏は前半の段落の結びで《キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう》と書いているけれども、《キレる》という表現が、極めて政治的に捏造された語句であるということを少しは気に留めておくべきだろう。まあ、このような主張は、この表現が恐ろしいまでに定着してしまった現状においては虚しく響くだけかもしれないが。

 武田氏は最後において《適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか》と書いている。しかしこのような物言いに関して、まず武田氏は散々安易なアナロジーに依拠し、そのアナロジーに対する批判的な視座を書いた論理を展開してきて、そして最後にこれまた安易で抽象的な「提言」を持ってくるということは、私から見れば明らかに無責任としか言いようがないのだが。もう一つ、ここで武田氏は唐突に《教育システムの構築》と書いているけれども、そもそも武田氏はこの文章において教育について少しも触れていない。おそらく教育について触れたらこの文章が崩壊するか、あるいは大幅に膨張するからだろうが、唐突に教育を持ち出されても困る。

 安易なアナロジーに依拠した俗流若者論は、「今時の若者」に対するフラストレーションを簡単に説明してもらえる、という点ではきわめて強い魅力を持っているようだ。しかし、そのような論理の蔓延が人々の思考停止や、あるいはレイシズムを招くことになりはしまいか。武田氏はその点に関して最後まで無頓着であった。武田氏はいくつかいい仕事を残しているだけに残念である。

 また、ここで用いられた「プログラム駆動症候群」なる珍概念は、心理学主義的なプロファイリングであるが、これに限らず我が国においてこのような心理学主義的なプロファイリングが増加している。このようなプロファイリングは、「今時の若者」の内面をその提唱者の中で勝手に構築し、若年層全体の内面を彼らの都合のいいように構成して「世間」に説明する。若年層の内面が、一人の心理学主義者(心理学者ではない)によって規定され、それがイメージとして定着してしまう。このような状況を思想的に批判する視座が、蔓延する心理学主義に対する批判には必要になる。

 まあ、このような心理学的なプロファイリングが大量に流通されると、かえって各々のプロファイリングの価値が薄まるかもしれないが、現実はそうでもないのが哀しいところだ。

 参考文献・資料
 武田徹[2000]
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月

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