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2005年8月27日 (土)

俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

 岩波書店から発行されている月刊誌「世界」では、平成15年の一時期に、ライターの瀧井宏臣氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を平成15年11月号まで行なっていた。その内容は、これが本当に「世界」に載っていたものなのか、というくらいで、その反動性は文芸評論家の斎藤美奈子氏にも《岩波書店の『世界』は「進歩的」な雑誌ということになっているのだろうけれど、こと子どもや家庭の問題となると、驚くほど「保守的」になるのがおもしろい》(斎藤美奈子[2004])と突っ込まれているくらいである。この連載は平成16年1月に書籍としてまとめられて岩波書店から発行されており、そこに収録されている分の内容についてはそちらを検証するときに触れることにしよう。今回検証するのは、書籍版には掲載されていないこの連載の最終回となる瀧井氏と筑波大学教授の中村和彦氏の対談「育ちを奪われたこどもたち」である。蛇足だが中村氏は発達運動学専攻である。日本大学文理学部教授の森昭雄氏や、前回採り上げた日本体育大学名誉教授の正木健雄氏もそうだったけれども、つくづくメディア御用達の体育学系統の学者はこんなにも疑似科学に親和的な人が多いのだろうか。私が高校時代までに出会った、「恩師」と呼びたい教師の中に、体育教師が多いので、複雑な気分である。

 この対談は瀧井氏の連載(この連載自体が疑似科学や論理飛躍、懐古主義のオンパレードなのだが。森昭雄氏や澤口俊之氏も当然出てくる!)を瀧井氏がたびたび意見を求めてきた中村氏に報告する形になっているのだが、瀧井氏も中村氏も、子育てや子供の身体についてある種の(残酷な)「幻想」を共有し、そのような態度に少しも疑問を示さない、あるいは彼らが勝手に最近の青少年「だけ」異常になった、と決め付けているので、はっきり言ってここでも論理飛躍や疑似科学や懐古主義のオンパレードが繰り広げられる。

 まず、瀧井氏がかなり最初のほう(209ページ)で発言している内容に、私は笑ってしまった。瀧井氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を始めたきっかけというのは、《自分のこどもが重度のアトピーだったという非常に個人的な理由》(中村和彦、瀧井宏臣[2003]、以下、断りがないなら同様)だったというのである。まあそれだけなら問題がないのであるが、瀧井氏はそれに続いて《唯一の父親として公園デビューして地域のこどもたちに接してみると、アトピーの子が驚くほど多かっただけでなく、無表情だったり、ボーっとして不活発だったり、キレたり落ち着かなかったりする子が見られました。私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いたのです》と発言している。私はこれを読んで瀧井氏は正気の沙汰なのだろうか、と心配になった。《私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いた》からといって、今の子供たちを「異常」と決め付けていい理由はどこにもないのである。

 それにしても瀧井氏と中村氏が共に現在の子供と親を過剰に蔑視し、彼ら自身の世代と親を過剰に擁護しているのが痛いところだ。例えば中村氏は《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件などがあって、文部省(当時)が危機感を募らせていた1998(平成10)年6月30日の中教審の答申では、地域や家庭での遊びの重要性を訴えているのですが、あくまで言葉だけで、どのような処方箋を施すかには至っていない》と発言しているのだが、このような俗流若者論に心酔する人たちは決まって《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件》などといった最近マスコミで報じられた「衝撃的な」事件をもって今の子供たちは異常だとするけれども、例えば過去に起こっていた「杉並切り裂きジャック」みたいな異常犯罪はことごとく無視するし、そもそも少年による凶悪犯罪が昭和45年ごろから一貫して極めて低い水準で推移していることにも触れようとしない。しかも中村氏は《どのような処方箋を施すかには至っていない》といっているようだが、それは中村氏だって然りだろう。中村氏は《遊び》を復活させよ、といっているけれども、それをどのような手段でもって行えばいいのかということを中村氏は少なくともこの対談では一度も提示していない。

 あまつさえ中村氏と瀧井氏が思い込みだけで語っているようなくだりを見つけた。212ページ。

 中村 親の側に危機感がなさ過ぎます。自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる。(筆者注:この文章では一貫して子供を《こども》と表現しているのに、この部分だけなぜか《子ども》となっているのはなぜだろう)。大きな社会環境の変化との関係で見ると、24時間営業のファミレスやコンビニに、夜中に赤ちゃんを抱き幼稚園くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます。便利だと渇仰がいいとか言われていた文化が、逆に私たちの生活を崩壊させ、生活パターンの乱れが生体リズムを崩しています。

 瀧井 私がこどもの時代には、親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います。それがどうしてこんなに壊れてしまったのでしょうか。

 中村 勉強して成績が上がればゲームを買ってあげるとか、試験が終わったから今日は遅くまでテレビを見てもいいよというように、大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています。……

 突っ込みどころ満載で、どこから突っ込んでいいのか困るのだが。とりあえず、中村氏も瀧井氏も今の子供たちを「異常」と決め付けて悦に入っていることは触れておこう。突っ込む順番がわからないので文章の最初から順番に検証することとする。中村氏は《自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる》といっているけれども、これは明らかな「決めつけ」であろう。またこの直後の《夜中に赤ちゃんを抱き余地円くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます》という発言にも、具体的な数値データが出ていないし、親の職種や社会階層などにも触れられていない。おまけに中村氏がどこで「観測」を行なったのかも触れていない。都市部なのか?郊外なのか?農村部なのか?中村氏がこれが科学的に実証されたデータと言い張るのであれば、そこまで開示しなければ習いのだが。瀧井氏も同様。《親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います》と発言しているけれども、なぜこれらが《こどもを尊重する文化》と瀧井氏が考えているのかがわからない。中村氏の発言に移るけれども、中村氏は更に《大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています》と発言するけれども、それ以前の発言の内容がなぜ《大人の「知的学力」への偏向》へとつながるのか、私には皆目わからないのだが。おそらく私の不勉強・無学のせいだろう。

 同じ212ページで、瀧井氏は《睡眠について警鐘を鳴らす数少ない研究者のひとりが東京医科歯科大学の神山潤先生です。「これはもう人体実験だ」とかなり激しい言葉で警告していらっしゃいます》と発言している。また来たか、《人体実験》。この手の人たちはなぜこのような残酷な言葉を使うのか。これでは大人たちが「ある悪意」を持って子供たちを「異常」にさせているかのごときイメージを抱かせてしまうのではないか。これは陰謀論ではないのか?いい加減この手の学者は《人体実験》なる言葉を安易に使うのをやめたらどうか?警鐘を鳴らしたい気持ちは分かるが、もっと適切な言葉を見つけるべきだろう。ついでに言うと「人体実験」という言葉は自分の世代を免責するための言葉でもある。

 213ページでは中村氏、《テレビゲームは自分で考えているように見えるが、あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内であり、結果的にはコミュニケーションに至っていない》と発言している。これを額面どおり受け取れば、ある程度のルールが存在した盤上のゲームやカードゲーム(将棋や双六や麻雀やトランプなど)ですら許されないことになる。これらのゲームもまた《あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内》で行っているものに過ぎないからである。中村氏がここまで強弁するのであれば、普通のカードゲームとテレビゲームにおけるパズルゲームの、思考に関する違いを説明していただきたいのであるが。

 214ページにおける瀧井氏の発言にも大いに疑問を持つ。

 瀧井 乳幼児に母親とかかわり、兄弟や友だちと遊び、その後大人社会にかかわることによってこどもは発達するというのが「サル学」の常識であり、ヒトでも当たり前だったわけですが、それがいつのまにか忘れ去られ、軽視されている。乳幼児期から始まる人間関係の学習不足が、学童期以降、思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなどといった異変の引き金になっているのではないかという疑いを、今回の取材で強く持ったわけです。

 このような発言を見る限り、「世界」もまた澤口俊之や正高信男といった疑似科学者に接近してしまうのか、と嘆きたくなる。少なくともここで瀧井氏が言っていることは、澤口氏が「諸君!」平成13年8月号の論文で、ヒトは大昔から大脳を発達させるための子育てを戦略として行なっていた、それが昨今の社会状況によって崩壊してしまった、という擬似社会生物学と全く等しいのである!しかも瀧井氏ときたら、《思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなど》などと軽々しく語る。もう何度も言ってきたのではっきり言おう。《キレる》はもはや「政治」の言葉だ。「ひきこもり」は昭和55年ごろから存在した。ついでに言うとその前兆といわれている「退却神経症」や「スチューデント・アパシー」などの《問題行動》は更に前、昭和45年ごろから存在していた。いじめに関しても現在に名って急激に問題化したという事実はない。

 しかも瀧井氏と中村氏が互いに矛盾したことを言っているのになぜか同意している部分もある。214ページ。

 瀧井 自分でも子育てをしていて、非常に苦しいのです。最初は親としての力量が低いからだと思ったのですが、それだけではなく、こどもを育てるゆりかごが消失し、いつも親子が一対一でこどもと向き合わざるを得ないからではないのか。そのけっか、こどもをしばり、かつこどもにしばられています。実際に子育てをしてみて、教育評論家の尾木直樹さんが言われた「母子カプセル」の意味がわかったのです。

 中村 ゆりかごがなくなって、虫かごになった。虫かごはいつも覗けるわけです。中の虫は、どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです。

 瀧井氏よ反問せよ!瀧井氏の言っていることは大筋で正しいのだが、中村氏ときたら《虫かご》なるアナロジーを用いて《どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです》などと言い放っているけれども、瀧井氏の言い方が正しいのであれば《虫かご》に入っているのは親子共々ではないか?しかも中村氏が、《それがいまのこどもたちです》などといっている部分を読んでいると、中村氏の現代の子供たちに対する残酷な考え方が見て取れる。

 だから中村氏が215ページにおいて、瀧井氏の《ひきこもりという現象は、失敗の一つの例として捉えた方がいいのでしょうか》という質問に対して《その時点の現象としてみれば、失敗でしょう。けれど、ひきこもっていた子が、ひきこもらないような気持ちになれるとか、少しずつ心を開いていくところに本当の人間関係が生まれてくると思います》と答えていてももはや驚かない。このような思考もまた、中村氏が「ひきこもり」を現代の青少年に特有な病理的な現象と考えているからだろう。少しは「ひきこもり」に関する研究、特に精神科医の斎藤環氏の議論や研究でも参照してみろ、と愚痴をこぼしたくなる。しかも中村氏が金科玉条の如く掲げる《本当の人間関係》というけれども、それはなんなのか?このような言葉は、石原慎太郎氏や石堂淑朗氏が平気で振りかざす「本質」という言葉と響きも意味もまた大変似通っている。「世界」は俗流若者論なら急速に保守化化してもいいのだろう。

 あまつさえ中村氏ときたら、最後のほう(218ページ)でも《大人に危機感を持ってもらうことが大切です。たぶん育児雑誌も「きれいごと」ばかりでしょう。逆に「いまのこどもたちはこんなに追い込まれた生活をしていて、このままではあなたのお子さんにはこんなところにこういう影響が出ますよ」と危機感を煽らない限り、なかなか親は問題を直視しにくい》とまで発言してしまっている。私はもう絶望している。所詮中村氏は「この程度」だったのか、ということを(いや、大体予想はしていたが)。中村氏は、いかに我が国において青少年問題視言説ばかり売れるか、ということをもっと直視すべきではないか。中村氏はその状況に屋上屋を架することしか考えていないようだが、これだけ青少年問題視言説ばかり溢れているのに一行に状況が改善されない、というのであれば、まずやり方を変えるべきだろう。「もっと青少年危機扇動言説を!」では、もっと親たちを追いつめるだけだ。それどころか我が国にはびこっている子育て言説(中村氏はこれらも《きれいごと》として扱うのだろう)の大半が、マスコミが興味本位で採り上げる青少年問題を貴店としているのであるが。中村氏のかくのごとき態度を見ていると、故・山本七平氏のフィリピン戦論を想起してしまう。

 ちなみに山本氏は、大東亜戦争時の日本軍がフィリピンに兵を送る際、上層部が大量の兵を送ることばかり専念し、終いには老朽化した船に3000人もの兵士を詰め込んでフィリピンに送ったと述べているが、そのような船は当然の如くバシー海峡で簡単に落とされてしまう。しかも撃沈するまで15秒であるから、かのアウシュヴィッツをも上回る(!)殺戮システムが登場してしまうのである。この状況を、山本氏は以下のように述べている。

 ……バシー海峡ですべての船舶を喪失し、何十万という兵員を海底に沈め終ったとき、軍の首脳はやはり言ったであろう、「やるだけのことはやった」と。
 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探究し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方項に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして事故を正当化しているということだけであろう。(山本七平[2004])

 そして中村氏が瀧井氏が青少年問題視言説を散々振りまいても一向に状況が改善されずに、ネタが尽きてしまったら、瀧井氏や中村氏も「やるだけのことはやった」と言うのだろう。

 そして218ページ、最後の発言。

 中村 ……大学生の生活を調査したことがあるのですが、朝から一日中ひとこともしゃべらない人もいます。約800人を対象に無記名のアンケート調査をしたところ、5%、40人の学生がそうでした。食事も昼と夜は絶対に友だちと食べない。クラブ活動やサークルは一切やらない。そういう人たちは、かかわりたくないから、アルバイトもしないのです。講義が終わるとビデオ屋でビデオを借り、「ほか弁」を買って帰る。コンパも成り立たないのです。新歓コンパも合コンもなし。大学祭も出典以外は成り立たない。大学祭=休みの日(笑)。

 瀧井 卒業しても、社会生活を遅れるんでしょうかね。

 中村 まともに子育てなんかできないでしょうね。知的なマニュアルに頼っていけるところだけで生きているから、生活体験が無きに等しい。本当の意味のかかわりを知らず、自分で何かを考えたり工夫したり、総合的にものを考えたりといったこともできないのです。まさにライフハザードです。

 瀧井 ゾッとするような話です。乳幼児の次は、大学生のライフハザードを取材しなければなりませんね。今日は、どうもありがとうございました。

 私は、瀧井氏が《大学生のライフハザード》を取材する前に、まず中村氏と瀧井氏のモラルハザードについて反省すべきだと本気で考える。なぜならこの最後のやり取りは、単なる「酒場の愚痴」、更に言えば彼らが思い込みでしか青少年問題を捉えていないことを如実に示しているのだから。

 これでいいのだろうか。

 中村氏も瀧井氏も、はっきり言って子供たちをヴァーチャル・リアリティーでしか捉えていない。ここで言うところの「ヴァーチャル・リアリティー」とは、彼らが好んで用いる子供たちに対するステレオタイプであり、あるいはこの文章の中で飽きるほど出てきている《本当の意味のかかわり》だとか《本質》みたいな幻想である。瀧井氏も中村氏も、彼らは自分が青少年に対して真剣に向き合っていると考えているのかもしれないが、本当はまんざらでもないのではないか。要するに、瀧井氏も中村氏も、自分の世代と自分の親と自分の子供はみんな正しいが、今の親と子供はみんな異常である、という残酷な認識で共通しているのではないか。だからこのような疑似科学や論理飛躍や我田引水や懐古主義も平然と語れるのではないか。このような人たちが、どうして青少年問題に関して真剣に言えるといえるのだろうか?

 さて、私が、この対談のみならず、瀧井氏の連載全体を俯瞰して感じたのは、瀧井氏が極めて残酷な「自己責任論」に依拠しているということだ。ここで言うところの「自己責任論」とは、いうなれば親に対する「自己責任論」で、子供が(実際はマスコミが過剰に問題化している)ある問題を起こせば、それは全て親のせいだ、という議論である。

 今、青少年言説の大半が「自己責任論」化している。要するに、子供がこれこれの問題を起こすようになったのはこのような子育てを行なったからだ、という言説である。最近では、滝意思にも見られるとおり、この「自己責任論」に疑似科学が混入され、更にこのような議論は勢いを増している。しかし、このような言説は、子供たちは親子関係だけでなく、例えば学校や友達の関係でも成長していく。更に言えば子供たちは家庭の経済的な影響の側面、更にはマスコミや情報雑誌などが喧伝するメディア的な側面にもまた影響される。それらを一切無視して、青少年が「問題」ばかり起こすようになったのは親が無能だからだ、という議論が勢いを増しているのである。このような議論は往々にして、やがては今の親はみんな無能だ、という差別につながる。瀧井氏と中村氏のやり取りはそれを如実に表している。

 中村氏や瀧井氏の振りかざしている《本当の意味でのかかわり》みたいな幻想は、はっきり言って例えば「ひきこもり」などのコミュニケーション不全からくる状態を改善することはできないだろう。何故なら、このような《本当の意味でのかかわり》を煽るような言説が、やがては人とコミュニケーションできるような人が偉い、いつも一人でいるような人は病的だ、ということにコンセンサスを与え、コミュニケーション能力に対する差別が起こるからである。一部の「ひきこもり」の人には、そのようなコミュニケーション能力差別に苦しんでいる人が存在する。

 青少年言説がことごとく「自己責任論」化すると、全ての親子は言説によって「監視」される状況になる。現在の俗流若者論/子育て論をめぐる状況にこそ、まさしく社会が子供を、親を、そして社会を「監視」したがる状況を見ることができる。平成17年8月25日付の産経新聞社説にも、子供が犯行に向かうシグナルを親や教師や地域社会は見逃すな、という論調が掲載されていた。ここで親や教師や地域社会に求められるのは、監視カメラとしての役割である。しかしそのような状況を巻かされている親や教師や地域社会が、空疎な言説ばかりを基盤にしており、例えば暴力や不満の捌け口を許すような環境を整えていなかったら、子供たちはどこにも行き場所を見つけられなくなり、鬱屈した不満を抱えたまま暴走する、あるいは自殺するだろう(これもまた極めて深刻な「ひきこもり」の人に見られる状況である)。そのような言説状況を考慮してこそ、地域社会の再生は行なわれるべきだ。青少年問題の安易な「解決」を起点にしては、青少年にとって息苦しい社会を再生産する以外の成果はない。

 果たして瀧井氏や中村氏に、そのような覚悟、それどころかそのような認識があるか!我々が撃つべきは、瀧井氏や中村氏の如く自分を理想化して今の親たちの「自己責任」を過剰に煽り立てる、俗流若者論である。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2004]
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 中村和彦、瀧井宏臣[2003]
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われたこどもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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コメント

 はじめまして。「神山潤」で検索したところ、こちらの記事に辿りつきました。突っ込み、興味深く拝見させて頂きました。

 私は小学生の子供を持つ親として、先日、PTAのセミナーに参加してきたのですが、この時に「子供の睡眠」をテーマに論じるためにやってた講師が神山潤先生を神のごとく崇めている某小児科医でした。この小児科医は睡眠時間の短い子供を「異常」ときめつけていて、その根拠が疑似科学としかいいようのないトンデモ理論で、もう腹が立つやら呆れるやら…。心理学や精神医学や進化学を間違った解釈で引用しまくり、とても現役の医師とは思えない内容でした。

 この小児科医が神のごとく崇めている神山潤なる人物に興味を持ち、ネットで検索してみたろころ、こちらのブログにたどり着いた…という次第です。

 私の方のブログで書いた記事は、この小児科医の話だけなので、こちらの記事の内容とは直接関係はないのですが、「子供を異常視する疑似科学」への突っ込みが共通していると思いましたので、コメントさせていただきました。

 乱文、失礼致しました。

投稿: 更紗 | 2007年6月26日 (火) 08時53分

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