俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏
前回は「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」の2つの企画を合併させる、という離れ業を行なってしまった。そのときに私は、読売新聞が行なった「就職観」に関する社会調査と、それについての漫画家の弘兼憲史氏のコメントを批判したのだけれども、今回批判するのもまた読売新聞社系のメディアの若年無業者バッシングである。記事は、「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」で、執筆者は同誌編集部の奥田祥子氏と高畑基宏氏。そういえば高畑氏は同誌平成17年7月24日号でも「狂いだした日本人の“体感距離”」なる俗流若者論を書いていた。それはさておき、今回の記事も、また若年無業者となる若年層を不当にバッシングする内容である。この記事を、そのまま「ニート報道「凄絶」白書」として紹介したいくらいである。
この記事のリード文には、以下の通り書かれている。この文章に、この記事の執筆姿勢と問題点が集約されていると言ってもいいだろう。
「親思う心にまさる親心」とは、よく言ったもの。子どもの行く末を案じる親の庇護の下に、いまやニート、フリーター300万人。働かない若者についてはこれまで、年金財政や経済への悪影響ばかりが論じられもっぱら子どのも就職支援のあり方に関心が向けられてきた。だが、そうした自立しない子どもを持った家庭がどれほど過酷かは、あまり知られていない。憂慮すべきは、共倒れの危機にさらされる親たちなのだ。(奥田祥子、高畑基宏[2005]、以下、断りがないなら同様)
はっきり言って、この記事に書かれていることはこの5行に書かれた内容だけで終わるのである。要するに、いかに若年無業者が親に迷惑をかけているか、ということを喧伝し、そいつらを家からつまみ出すことこそが親にとって楽になる最大の道なのだ、というもの。それが延々8ページ。結局のところ、この記事は「親の視点」なるものから若年無業者を頭ごなしに叱りつける「だけ」の記事なのだ。そんなことが無意味なのは、とっくの昔に玄田有史氏や小杉礼子氏が指摘しているのに!
少々筆が滑ってしまったけれども、もう一つ指摘しておくと、特に「ひきこもり」と親和性の強い性格を持つ若年無業者に関して言うことができることなのだが、このような物言いは帰って若年無業者を追い込んでしまうということになりかねない。もう一つ奥田氏と高畑氏が無視していることは、結局のところ現在の雇用情勢が厳しい故に若年無業者にならざるを獲ない人も中には少なからずいる、ということ。この記事の執筆者や、ここで引かれている自称「識者」がいくら理想論を述べたといっても、果たして現実が彼らの理想をかなえてくれるほどのものか。彼らが「とにかく就職活動しろ、それでも駄目なら帰って来い」と考えているならこの問いかけは無意味なのだが、この記事の執筆者や自称「識者」がそのように考えている節は見当たらない。
さらにこのリード文に突っ込みを入れさせてもらうが、《いまやニート、フリーター300万人》と書いているけれども、若年無業者とフリーターを混同するな。このように書くことによって、フリーターも若年無業者も親の甘やかしから生まれた、だからこいつらをどうにかするには親が権威を持たなければならない、という暴論が生まれてしまうのだろう。この記事が「ニート報道「凄絶」白書」として読める、と私が言う所以である。
結局のところこの記事は、若年無業者をリスクとしてしか見なさない人たちの理想論ばかりの記事であることに疑いはない。内容に関しては、シャレではないが内容がないので、深く触れることはしない。ついでに言うと、写真の使い方も極めて恣意的。
それでも少々触れることにするが、例えば、ここで引かれている、若年無業者問題に関する団体が、「子どもにかけるお金を考える会」(畠中雅子代表)だけだ。例えば「ニュースタート事務局」(二神能基代表)などのほかの民間団体や、自治体の試みなどには触れられていない。
執筆中に資料を読み返しているときに思いついた仮説なのだが、フリーターや若年無業者を単にリスクとしてのみ扱い、彼らを家から追い出せ、という暴論は、もしかしたら自分の子供と積極的に向かい合うことを拒絶する親の論理なのではないか、と思ってしまった。要するに、フリーターや若年無業者をリスクとして見なすことで、彼らに対する長期的な支援という選択を拒絶し、突き放すことによって「安心」する、という考え方である。もちろん、このような考え方が存在しうることは大いに認めるけれども、しかしこのような考え方で果たして若年無業者問題が解決するか。正直、解決しないのではないか、というのが私の考えだ。
この記事において、評論家の吉武輝子氏が、《子どもというのは、親の期待や夢を一つひとつ裏切りながら、親元を巣立っていくものなのです》と発言している。さて、親の期待や夢を裏切らせないことこそ至上という価値観を振りまいてきたのは誰でしょう?
我が国において、ここ10年ほど、自分の子どもに関する「リスク」が喧伝されてきた。犯罪を起こさないか、非行に走らないか、学力が低下しないか、「ひきこもり」にならないか、オタクにならないか、フリーターにならないか、あるいは髪の色を染めないか、奇抜な服装をしないか…。「子供がこうなったら注意しろ」という言説は、いまや巷に溢れている。そして最近になって加わったのが、自分の子どもがニートにならないか、というものだ。すなわち、若年無業者というのは、親にとって「させてはいけない」ものなのである。だから親は腫れ物を扱うように我が子を扱うようになる。当然の如く、それの旗を振ったのがマスコミである。故に「ゲーム脳」とか「ケータイを持ったサル」という疑似科学の網が張り巡らされ、若年層に関する調査であれば、たとえ調査方法や設問に問題のあるものだとしても(詳しくは、このブログの連載シリーズ「統計学の常識やってTRY」を参照されたし)「今時の若者」の世代的病理を示す調査としてその問題点の検証抜きに報じられる。小学校で「愛国心」を評価する通知表が表れるほどだ(山田明宏[2003])。このような状況を作っている張本人としてのマスコミが、なぜ今になって親の甘やかしがフリーターや若年無業者をつくる、などと喧伝しているのか。これをマッチポンプとは言わないか。読売はNHK問題における朝日新聞の対応を笑えるのか。
読売の記事は、このような言説がかえって自分の子供に対する、さらには子供・若年層全体に対する敵愾心を高め、それが自分の子供さらには子供・若年層全体を「虎の子」というよりも腫れ物として扱う状況を加熱させる、という逆説に極めて無頓着だ。河北新報か何かで平成16年1月15日付の朝日新聞で、たぶん高校生あたりが「矛盾する大人の言葉「夢を持て」 持ったところで「現実を見ろ」」といった秀逸な短歌を書いた、というものを読んだことがあるが紹介されていたけれども(平成16年8月6日訂正)、この短歌は、巷に溢れる俗流若者論の問題点をもっとも端的に表している(特にそれがこの記事においてよく表れているのが、東京学芸大学教授の山田昌弘氏の発言。《もしわが子が過大な夢を追い続けているような場合は、夢から覚めさせることが必要です。現実に目を向けさせ、就業意欲を起こさせ、仕事につくことができたら、しっかり突き放す、という手段です》と。「希望格差社会」理論はどこに消えた)。もう一つ言うと、この記事は親に過剰に求めすぎ。すくな事もこの記事の執筆者には、親と子供の精神の歪みが若年無業者問題を生み出す、ということが間違いであることを学んで欲しいものだ。こんな愚痴だらけの記事を書いている暇があれば、もっと自治体や民間団体の取り組みを紹介するべきだ。
でも敵愾心を高めるだけ高めれば、それなりに効果があるかもしれない。そうすれば、「善良な大人」たちが彼らだけでゲーテッド・コミュニティ(閉鎖的共同体)を作り出し、子供はゲットーに押し込められ、彼らは彼らだけで悠々自適な生活を送ることができるのだから。ゲットーの中の子供たちは飢えに苦しむが、彼らにとってもっとも大事なのは子供ではなく自分なのだから、別に子供が苦しんでいても我関せずだろう。
などと書いていたら、またもや「政治的に」利用されそうな言葉を見つけてしまった。エコノミストの木村剛氏のブログで、「フィナンシャルジャパン」平成17年7月号の、マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏が書いた「NEETより厄介なTEET」なる記事が紹介されている。西川氏によると、《TEET》(木村剛氏のブログの平成17年7月31日のエントリーから、これ意向は断りがないなら同様)の定義は《Tentatively in Education, Employment or Training の略で、Tentatively(一応、とりあえず)、学び、働き、職業訓練している人たちだ。どの企業でもこの「TEET」に手を焼いている。どこに行っても常に腰掛け意識の、言わば“NEET以上プロ未満”の連中》なんだそうな。で、この記事において、西川氏はこの人たちのことを以下のように書いている。私はこれを読んでのけぞった。
そんな「TEET」の口癖は「こんなはずじゃなかった」である。やるべきことをやらずにやりたいことだけをやって生きて行けると勘違いしている、飽きっぽく打たれ弱い夢見る夢子ちゃんだ。簡単に言えば、子供なのである。子供の心を持った大人ではなく大人の外見をした子供。暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である。
こういった「ことな」に振り回されてはたまったものではない。「ことな」が入って来ない、「ことな」をのさばらせない、企業文化を育んで行くより他に方策はない。
若年就業問題に関する新しい問題が発生、とでも西川氏は言いたいのだろうか。しかし西川氏よ、あなたも責任ある言論人であるならば、徒に珍奇な概念を乱造しない、というのが良心であり、もし提唱したいのであれば、まずデータをそろえるべきだろう。安易に自分の矮小な経験を勝手に天下国家の問題として取り上げてはならない。結局のところ、この言葉は単なる「酒場の愚痴」から生まれたもので、その意味では「ニート」という言葉よりも厄介なものである。いくらマーケティングが大事だからといっても、言論にかかわるものとしてはそればかりではいけない、ということを自覚すべきだろう。このような言説を濫造する西川氏こそ《暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である》。
それにしても、どうして俗流若者論の責任が問われることがないのだろうか。
参考文献・資料
奥田祥子、高畑基宏[2005]
奥田祥子、高畑基宏「ニート家庭「凄絶」白書」=「Yomiuri Weekly」2005年8月14日号、読売新聞社
山田明宏[2003]
山田明宏「通知表で評価する小学校」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
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コメント
複数の「ブログ記事群」の内容をまとめて表示する機能を加えました。
http://library.jienology.com/union.php
俗流若者論ケースファイルのまとめて表示は壮観ですぞ。(・∀・)
投稿: ウェブログ図書館 館長 | 2005年8月 2日 (火) 18時43分
> 「矛盾する大人の言葉「夢を持て」 持ったところで「現実を見ろ」
初出は朝日新聞2004年1月15日『天声人語』からで、東洋大学が主催する『現代学生百人一首』第17回選外作品から抜粋されました。
入選作ではないので、東洋大学サイト上には掲載されていませんが、現在、第19回作品の募集が行われています。
http://www.toyo.ac.jp/event/#issyu
投稿: siebzehn138 | 2005年8月 3日 (水) 10時20分