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2005年8月11日 (木)

俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大

 高校時代、NHKで現在もやっている「真剣10代しゃべり場」という番組は、私の周りでは極めて評判が悪かった。私は2年生の頃から若者論の研究を始めていたのだが、そのことを知っていた私のクラスメイトはこの番組を私に見るように勧めた。といっても、批判的材料としてで、「あれを見てみろ。絶対お前は怒るから」などといった具合で勧められていたのである。しかし私はこの番組をずっと見ていない。

 実を言うと今回検証するのは、この「真剣10代しゃべり場」なる番組で保守の立場から論陣を張って話題になった(らしい)人、予備校生(当時)の遠藤維大氏による文章「自傷行為「リスカ」と日教組」(「正論」平成13年9月号)である。遠藤氏は1982年生まれで、私は1984年生まれであるから、私よりも2歳ほどしか年齢が違わず、またこの連載で採り上げる人としては最も若い(次に若いのは、おそらく「AERA」編集部の福井洋平氏(第39回で採り上げた)と推測される。福井洋平[2005]における《本誌記者(27歳独身)》という記述が福井氏のものであれば、福井氏は1978年または1977年生まれということになる)。この文章を一読して、保守とはここまで軽いものなのか、と頭が痛くなった。なんというか、俗流保守論壇人が若年層に抱いている妄想をただ列挙した感じなのである。

 当然如く、この文章のタイトルとなっている「リスカ」というのはリストカット(手首切断)のことなのだが、遠藤氏はこの行為のほか、《集団暴走行為への非行化や、定職につかないフリーター、または不登校・引きこもり等の現代の若者だけに見られるさまざまな悪しき現象》(遠藤維大[2001]、以下、断りがないなら同様、276ページ)の原因を、《「所属意識」の実感の仕方》(277ページ)に求める。ちなみに暴走族だのフリーターだの不登校だのひきこもりだのが《現代の若者だけに見られるさまざまな悪しき現象》などというのは完璧に事実誤認であると指摘しておく。少なくとも暴走族はずいぶん前からあり、犯罪白書によればその人数は減少している。不登校にしろひきこもりにしろ、笠原嘉氏(名古屋大学名誉教授)や斎藤環氏(精神科医)などの長年の研究の蓄積がある。フリーターもまた経済社会構造の問題として捉えたほうが本質がつかめる。

 それはさておき、遠藤氏は277ページから278ページにかけて2つの事例を挙げる。一つは《高校生のときは頻繁にリスカをしていたが、最近就職をして社会人になったとたんにリスカをする必要性が全く無くなった》というケースであり、遠藤氏はここから飛躍して、以下のように述べる。曰く、

 これは全てに置き換えることができる。生まれてこの方、公的空間において国歌も国旗も実感する機会が全く無かった子供たちは、「自分が日本人である」という意識を持ち合わせていないのだ。……それでいて、しっかりと国民としての権利は受け取っているのでなんともいえない。今の子供は自分が病気になった時に国民健康保険で補助をしてくれるのは日本国だという事を知らない。自分の持つ生命や人権を保障してくれているのは、酷いのになると「子供の権利条約」だと勘違いし、国民の生命財産を守ってくれている日本国を「当たり前」とまで錯覚している。……

 しかし、問題の本質はそういった甘えている子供達ではなく、その子供の甘えを助長している大人達にあるのではないか。よく、制服を撤廃して私服登校に切り替えている高校に見られる現象だが、高校としての制服は無い癖して、部活動では統一されたユニフォームを部員が購入し「全体としての団結心」を孝養させた上でスポーツに励むといった現象が見られる。自分はこれに露骨な矛盾を感じられずにはいられない。単純な話、「全て個人として」という前提の上に高校の制服を無くしているのにも拘わらず、部活動だけに制服を導入すると言うことは、高校という組織はどうでも良いが、自分の好きな事だけはみんなで団結してやっていきたいので、そのためには制服を導入して意識の団結と高揚を図りたいんだという子供たちのとてつもない「甘え」の現われなのだ。……

 少々引用が長くなってしまったことをお詫びしたいが、なんともデ・ジャ・ヴュに満ちた文章ではないか。しかも高校の部活動の話に関しては、全くアナロジーとして不適切極まりない。私の母校(宮城県仙台第二高校)は、私が入学した頃には既に制服は廃止されていたが、その立場から見てもこのアナロジーにはやはり強い疑問を感じざるを得ない。我が国において、左翼思考に染まった大人を批判するために「今時の若者」を批判するというスタイルを演じることが保守である、というのであれば、何と我が国において保守という立場の脆弱なことか。少なくともこのような安易なアナロジーに賛成してしまう人の思考力を疑わざるを得ない。

 遠藤氏は278ページにおいて、もう一つの事例、《高校入学と同時にテニス部に参加》し、《先輩たちの勝ち取った勝利の栄典の数々と、先輩達の優れた技術による試合》に感銘してからリストカットをしなくなった、という例も挙げ、先ほどのアナロジーに更に正当性を加えるのだが、遠藤氏に問いかけたい、果たしてその高校に制服はあったのか?もし制服がなかったとすれば、先に引用したアナロジーの後半部分はすぐに潰えてしまうことになるのだが。当然の如く、他の俗流保守論壇人と同様に、遠藤氏も「本質」という言葉が好きだ。279ページ、《こうも現代の若者達の精神基盤が虚弱となっているのは、本質の理由が必ずある。それは、現代の少年少女達は「自分」以外の全ての心の基盤となるものを剥ぎ取られ、「一人で生きる事」を強制されているからであると自分は考える》、と遠藤氏は述べる。《こうも現代の若者達の精神基盤が虚弱となっているのは》などと遠藤氏は言っているけれども、あなたはそこには含まれないわけか。なんとも無責任な。

 そして当然の如く、《今の子供達の心の空白感と今の公教育は非常に強い関連性を持っている。歪曲した歴史教育を思考能力が未熟である児童へ押し付けて子供達の憧れをかき消し、一切の所属意識を否定した「個性の」「個人として」といったような教育を、彼ら組合構成員は半年にわたって布教してきた》と述べる。当然《組合構成員》とは日教組の構成員だ。今日教組の影響が強い学校がどれほどあるのだろうか。更に280ページでもまた、《そんな子供達にもしも「日本」という集団に所属している意識があったのならばどうだろうか。日本の為に生きよう、日本の為にがんばろうという目的意識によって向上できるかもしれないのではないだろうか。実際、この私がそうなのだ》と述べる。

 ここで遠藤氏の国家意識に関して検証してみるのだが、遠藤氏の国家意識というものは、あまりにも牧歌的過ぎまいか。遠藤氏は国家に所属している、という意識を涵養することによって青少年問題の全てが解決する、と言っているけれども、現代はそのような「国家意識」の涵養だけによって解決できる問題などない。例えば「ひきこもり」に関して言うと、斎藤環氏他多くの報告により、「ひきこもり」の人の多くは家族に対して自分は迷惑をかけている、という意識を強く持っていることから「ひきこもり」が更に深刻化する傾向がある、ということが明らかになっている。もしここに「国家」という「家族」よりも更に大きなものを設定したら、それに対する責任感も強くなるわけで、遠藤氏が夢想する《日本の為に生きよう、日本の為にがんばろうという目的意識によって向上できる》どころか、むしろ更に「ひきこもり」の人たちを追いつめるのではないか、と私には思えてならない。

 しかし、遠藤氏にとって、国家というものは何と軽いことか。このように言うと遠藤氏は怒るかもしれないが、しかし遠藤氏のこの文章において国家というものは所詮は遠藤氏の不快に思う現象を簡単に解決してくれるものとしてしか取り扱われていないのである。そして遠藤氏における国家の「軽さ」は、そのまま俗流保守論壇における国家の「軽さ」に当てはまる。遠藤氏他、俗流保守論壇人は「自分の信奉している「国家」に「今時の若者」も所属させれば、青少年問題など簡単に解決できる!」などと簡単に述べる。しかし、果たして現在の状況がそれだけで解決できるものであろうか?世の中には若年層をバッシングする言説ばかり溢れ、フリーターも若年無行も「ひきこもり」も全て「心」の問題として「自己責任」の美名の下で処理される。自分だけは善良だと思い込んでいる多くの人たちが既得権にしがみつき、その既得権の傘の下で若年層ばかりバッシングする。若年層バッシングは自分を傷つけず自分の鬱憤を晴らす最高の方法である。しかしそれゆえに危険度はきわめて高い。彼らがしがみついている既得権にしがみつくためには、現実を無視しても彼らに媚びるしかない。俗流若者論は甘い甘い奈落への歌声である。

 しかし遠藤氏の文章を読んで私がもっとも実感したのは、俗流保守論壇は縮小再生産だけで成り立つ、クリエイティビティのない場所である、ということだ。

 参考文献・資料
 遠藤維大[2001]
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 福井洋平[2005]
 福井洋平「メイド掃除でモテ部屋に」=「AERA」2005年5月30日号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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コメント

その遠藤が本をだしているようですね。あなたもがんばってください。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4902766000/

投稿: 名無し | 2005年8月13日 (土) 03時10分

いま、この彼はmixiのコミュで暴れていますよ。
興味があったら読んでみて下さいな。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=45864

投稿: id | 2005年12月22日 (木) 19時13分

遠藤に限らず10代でバカが偉そうにしていた感想しか無いな。
今頃恥ずかしくて布団かぶって寝てるんじゃね?

投稿: キャメロン | 2013年8月15日 (木) 21時35分

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