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2005年8月10日 (水)

俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦

 連載第19回の荷宮和子批判において、私は深作欣二監督の「バトル・ロワイヤル」という作品に触れた。この時点ではまだ件の作品を見ていなかったが、残念ながら今も観ていない。なぜここで「バトル・ロワイヤル」を持ち出したかというと、今回検証する評論家の佐藤貴彦氏の文章「残虐なのは誰か?」(「正論」平成13年4月号に掲載)が、この「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論だからである。ちなみにタイトルとなっている「残虐なのは誰か?」という問いかけは、果たして映画の登場人物なのか、それとも観客なのか、ということに関してである。佐藤氏はそれは観客である、と結論付ける。しかし、この部分に関しては俗流若者論とは特に関係がないし、例えば《大人がコドモに人殺しを強制するという、この設定が、これまたズレまくっている。殺し合いは上から下へ強制するものだという設定》(佐藤貴彦[2001]、以下、断りがないなら同様)という記述は、一般論としては一応正しい。ただしこの文章における佐藤氏の「バトル・ロワイヤル」に対する認識が、例えばこのような設定を《左翼思考にはまった設定》《全共闘時代の左翼知識人がもっとも好んで用いた図式》と評している通り、どうも佐藤氏はある種の党派的な認識に囚われているようである。

 しかし、この文章における問題点は、54ページと55ページにおいて集中している。まず、54ページの文章を引用してみよう。

 現実を見てみよう。現在起こっている数々の少年による凶悪事件は、まさしく少年地震の意思によるものなのである。「人を殺してみたかった」、「人間がバラバラになって、悲鳴を上げるのを聞きたかった」などなど、明らかな殺意を抱いているのは少年自身である。彼らは強制されて殺すのではない、彼ら自身の快楽として自発的に殺しているのである。すなわち、そういういみで『バトル・ロワイヤル』は完全にズレており、現実をちっとも反映していないのである。大人がコドモに殺しを強制するのではなく、逆にコドモが大人を殺しまくるという設定にしたほうが、今の世の中、はるかにリアリティーがあるのである。

 作品に関してこのような批判をするということが、創作物の幅を狭めてしまう、ということに佐藤氏はなぜ気がつかないのだろうか。また、監督である深作氏がいかなる主張をこの映画にメッセージとして入れたのか、ということを無視して、このように罵ってしまうのも、佐藤氏が評論家として適材であるか、という点での疑問になろう。そもそも、この連載で何度も述べている通り、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比べて大幅に減少している。もう一つ言えば、《明らかな殺意を抱いているのは少年自身である》ことを現代の少年犯罪に特有の現象として扱っている節があるが、犯罪者が殺意を抱くのはいつの時代にもある話である。

 この直後に来ている文章もまた、佐藤氏の少年犯罪に対する思考停止を象徴するような文章である。

 異常な少年犯罪が多発する以前では、この世の悪はもっぱら「悪い大人のせい」とするのが決まり文句だった。そしてまた、そうした発想こそが戦後日本の平和主義・民主主義を支えていたのである。つまり、従来の日本の戦後民主主義はある種の性善説に基づいていて、「我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ一部の悪い政治家のせいなんだよ」とか「一部の悪い政治家が戦争を企んでいるんだよ」とかいっておけばよかったのだ。

 ところが、昨今ではコドモ自身が積極的に自身の内部の悪を臆面もなく主張してくるので、これまでのそうした図式がだんだん通用しなくなってきたのである。そこで我々は、我々のこの現実をもう一度考え直さなければならないという重大な局面にさしかかっていたのだ。

 まず最近になって異常な少年犯罪が多発している、というのは間違いで、過去の事例をたどっていけば現在とは比べ物にならないほど残虐な犯罪も存在する(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。また、この時期からの傾向として、というよりも「酒鬼薔薇聖斗」異常の傾向として、少年犯罪の「原因」を犯罪者の、更には若年層全体の「心」の問題として捉える傾向が強くなった。これ以降、少年犯罪報道、そして若者報道全体が「《我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ》若年層と若年層が熱狂している文化の《せいなんだよ》」、と言わんばかりの報道が目立つようになった。

 要するに、この文章は「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論なのであり、更には「今時の若者」にかこつけた左翼批判に過ぎないのである。要するに佐藤氏が最終的に批判したかったのは我が国を覆っている(と佐藤氏が勝手に規定している)左翼思考、すなわち「権力者=悪」という思考である。しかし現状においてそのような図式を貫き通している人がどれほどいるのだろうか。現実には、自分の生活が良くならないのは政治のせいだ、と愚痴をこぼしながらも、例えばゲーム規制の問題になると権力に規制を求める人が多くなる。要するにここでは「権力者=悪」という図式が崩壊しているのである。

 佐藤氏のこの文章が虚しいのは、結局のところこの文章が極めてテキスト化された「正論」による左翼批判に過ぎないのである。このような文章ばかり載せている雑誌が最も売れる、というのは、ある意味では我が国の言論における危機的状況を映し出しているのではあるまいか。

 参考文献・資料
 佐藤貴彦[2001]
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』朝日新聞社、2002年3月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

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