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2005年9月28日 (水)

俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説

 平成17年9月28日付の読売新聞は、小学生の暴力が過去最多になった、という報告(第一報は平成17年9月22日配信の共同通信。読売新聞宮城県版は平成17年9月23日に報じている)を受けて、「なぜ「キレる小学生」が増えるのか」という社説を書いているのだが、突っ込みどころが満載である。

 そもそも、読売社説子は、この調査が平成9年から行われたことを忘れているのではないか。故に、それ以前のデータが存在していないのだから、昨年になって突発的に増えた、と認識するのは筋違いというものであろう。そもそも校内暴力が問題になったのは1980年ごろであり、その頃から手を打たなかった文部省(現在の文部科学省)の方針は、私は問題化されるべきだと思っている。

 それはさておき、件の読売社説の言説分析をしていこう。例えば、以下のようなくだり。

 短絡的な動機から、突発的に手や足が出る。文科省は「忍耐力不足、人間関係がうまく作れず、感情のコントロールがきかなくなっている」と分析する。(2005年9月28日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 このようなご託宣は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびによく起こるものだけれども、しかし忍耐力があり、人間関係がうまく作ることができて、感情のコントロールが成り立っているはずの過去のほうが少年による凶悪犯罪は多発している。また、このような論法では感情は危険なものだからコントロールしなければならない、という論理が成り立っているのだが、そのような考え方こそが、昨今のカウンセリング・ブームを生み出したことを忘れてはいけないだろう。そもそもコミュニケーションとはそんなに薔薇色のものなのだろうか。読売社説子は平成16年に起こった佐世保の事件についても触れているが、これは読売は《暴力に対する抵抗感が薄れて来ているのではないか》という文脈で書いているけれども、これはむしろこの犯人の家庭環境(例えば、受験のためにバスケットボールクラブを無理やりやめさせられたこと)や、現実とネット上での常に監視状態にある友人とのコミュニケーションの息苦しさに起因した事件である、という分析のほうが説得力がある。
 次のようなくだりにも、読売社説子の認識の甘さが垣間見える。

 保護者にできることは何か。暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画などを、子どもの好き放題にさせてはいないだろうか。親の児童虐待、配偶者間暴力などが日常的に行われているようでは、子どもへの悪影響は目に見えている。

 どうして読売は《暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画など》を過度に問題化したがるのだろう?そもそもこれらのものが暴力を誘発する、ということは立証されたことがない。このようなものが問題化されるのは、単にスケープゴートにしやすいからではないか。しかもこのような論法では、読売社説子も軽く触れている、中高生の暴力行為が減っていることを説明することはできない。

 それにしても、この読売社説には示唆的な一文がある。

 1890件という数値には、疑問もある。都道府県別の報告件数(校外での暴力含む)を比べると、隣県同士で「0」と120件台と開きがあったり、300件を超す大阪府、神奈川県に比べ、東京都が43件と極端に少なかったりする。

 このようなくだりは、要するに教師がどのようなことを「校内暴力」と見なすかによって統計に表出するデータが変わってくる、ということを示している。共同通信の配信記事の中でも、文部科学省の見解として《暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか》(2005年7月22日付共同通信配信記事)とも述べている。

 私は、この記事に限らず、青少年の非行が「増加」していると見なされる理由については、実数もさることながら、マスコミや社会を構成する大人たちが青少年に向ける視線も無関係ではないように思える。今回増加分としてカウントされた中には、そのような、今まで「校内暴力」とみなされていなかった文も含まれるはずだと私はにらんでいる。今回の事件について、またぞろ教育改革の「失敗」がこのような形で表れたのだ、とか、そもそもこれは親や教師の権威をないがしろにしてきた戦後教育の「成果」である、というふうに訳知り顔で述べている人が多いと思うが、私は、今一度我々が青少年にどのような視線を向けてきたか、ということを検証すべきではないかと思っている。

 子供の問題を自分で処理できなくなった教師が、結局は「校内暴力」としてカウントすることによって国家にすがっているのかもしれない。これは昨今における窃盗罪(万引き)統計の「増加」の理由としても説明できる。

 ちなみに、総務省統計局の人口推計によると、平成16年現在の小学生の数(7歳~12歳)はおよそ718万5千人。それに対し、今回の報告において小学生による「校内暴力」の件数は1890件。暗数と再発も考慮して、少々多めに見積もって、およそ2500人が校内暴力を起こしたことがある、と仮定しても、小学生全体から見れば0.03%、およそ3000人に一人の割合である。このことからも、校内暴力に関しては小学生の「心」の荒廃だとか、戦後教育の失敗だとか、更には大脳前頭葉の異常として捉えるよりも、辛抱強い対話による個別の問題解決に力を注いだほうが重要であろう。

 第一、「キレる」などという出自のいかがわしい言葉を平気で使う神経こそ疑わしいのだが。まして「キレル」なんて表現してしまった暁には

 参考文献・資料
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 参考リンク
 「旅限無(りょげむ):荒れる学校の記事を考える
 「総務省統計局・平成16年10月1日推計人口

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三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~

 (前編はこちら、中編はこちら
 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)を読んでいて、私の頭の中で常に浮かんでいた言葉は「消費フェミニズム」である。「消費フェミニズム」とは何かというと、これは米誌「ニューズウィーク」のコラムニスト、スーザン・ファルーディが使っている言葉である。ファルーディによると、平成12年の米国において、米国の女性が米国の現状をどう思うか、というインタヴューをしたところ、経済的には豊かなはずの米国において、返ってきた答えは《「怒りを感じる」「ひどすぎる」「うんざりする」》(スーザン・ファルーディ[2001]、以下、断りがないなら同様)というものである。ファルーディはこれを《新たな「性(ジェンダー)のギャップ》だと呼んでいる。

 ファルーディは、米国において、《ここ数十年、「あればあるほどいい」が、商業化されたフェミニズムの合い言葉となってきた》ことに対して苦言を呈している。そのようなフェミニズムの状況が何を生んだか。ファルーディは以下のように述べる。曰く、

 人気テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティー」のおしゃれなファッションもしかり。東芝のノートパソコンのCMでは、サイバーギャルが「自由を選べ!」と女性たちに訴えかける。いまや女性解放とは「買う」自由なのだ。

 ファルーディが嘆いているのは、フェミニズムが消費文化に屈服してしまった状況である。元来、フェミニズムとは、女性が一人の責任ある市民として自由を得るための運動だったが、大衆的フェミニズムが女性の「幸せ」を最大の目標に掲げたが為に、商業主義に屈服してしまった。こうして、フェミニズムは力を失った、とファルーディは説く。そして商業主義に屈服してしまった大衆的フェミニズムが、「消費フェミニズム」ということになる。

 さて、このコラムがいかに三浦展氏の所論と絡むかというと、私が本書を読んで思うに三浦氏こそフェミニズムを消費文化に屈服させた張本人だと思うからである。しかし、その前に三浦氏が件の著書、『「かまやつ女」の時代』で行なっている女性の分類について説明して以降と思う。三浦氏は、同署において、女性をファッションによって4分類している。その仲でも三浦氏の所論の中核となっているのが《かまやつ女》(三浦展[2005]、ここから先は断りがないなら同様)と《六條女》である。この2つについて定義を説明しておこう。三浦氏は、《かまやつ女》に以下のような定義を与えている。11ページに曰く、

 最近、20歳前後の若い女の子の中に、昔の中年男性のような帽子をかぶっている女の子がたくさんいる。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィット。全体的にゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズか何かをはいている。

 その風袋がまるでミュージシャンのかまやつひろしのようなので、私は、こういう女の子を「かまやつ女」と名付け、2003年から2004年にかけて4回調査を行なった。

 これに対し、《六條女》は以下のように定義付けられる。20ページから22ページにかけて曰く、

 最近は東大、京大の現役生の女性タレントというのも人気がある。特に、現役の東大法学部学生でありながら、週刊誌でセミヌードを発表するなどで話題になった六條華(現在楠城華子に改名)は有名。

 (略)

 「色男、金と力はなかりけり」ということわざがあるが、そのことわざとは裏腹に、色(美貌、セクシーさ)と金(所得)と力(職業的地位の高さ、それを支える学歴、知力、そして意欲)を兼ね備えた女性が不得手着ているらしいのである。こういう女性を本書では、六條華にあやかって「六條女」と名付けよう。

 そして他の2つの分類が《お嫁系》と《ギャル系》となる。ちなみにこの4分類に関して、三浦氏は以下のような特徴を挙げている。それに曰く、職業志向が高く上昇志向が高ければ《六條女》、職業志向が高く現状指向が高ければ(上昇志向が低ければ)《かまやつ女》、専業主婦指向が高く(職業志向が低く)上昇志向が高ければ《お嫁系》、そして専業主婦指向が高く現状指向が低ければ《ギャル系》となる。この分類に関しては、三浦氏の定義に従うほかないだろう。

 しかしなぜかこの本では、一貫して《かまやつ女》が一方的にバッシングされるばかりである。とくに本書の中でも、私が読んでいてもっとも恥ずかしくなった部分、第3章(75~90ページ)の「かまやつ女にいら立つ大人たち」という部分に至っては、そこらで該当インタヴューを試みた「大人の女」による《かまやつ女》に対する罵詈雑言集だ。「AERA」の女性特集ではないのだし、三浦氏は立派なシンクタンク研究員(というより所長)なのだから、こんな読んでいて恥ずかしくなるようなことをしでかすのは慎むべきだろう。
 しかし、三浦氏はなぜ《かまやつ女》をかくも一方的にバッシングしたがるのか?というのも、この連載の前編と中編で示したとおり、三浦氏は上昇志向を持たない若年層を過激なレイシズムを用いて一方的にバッシングして恥じない都市型新保守主義者である、ということが如実に示している。そして、都市型新保守主義と消費フェミニズムはコインの裏表である。

 なぜそのようなことがいえるのか?

 三浦氏は、《かまやつ女》の、そして若年層全体の「自分らしさ」指向を一貫して批判する(罵詈雑言を浴びせかける)。例えば三浦氏は、94ページから97ページにかけて、《かまやつ女》が男性の眼をあまり気にかけないことに関して、97ページにおいて《男の眼を意識するのは女々しい、こびてるという、積極的な否定異見があるほか、女らしさを気にすると、自分でなくなるという意見が二名あるのが印象的である。/かまやつ女にとっては、女らしいことと自分らしいことはしばしば矛盾し、矛盾した場合は自分らしさが優先されるということである》と書き、更にそのあと、99ページにおいて、《かまやつ女》に関して《たしかにかまやつファッションは幼児のようだ。ただ動きやすいこと、楽なことを考えている。そして少しだけかわいい要素も入れている。そんな感じだ。/どうしてこんな未成熟な女性が増えたのか》と歪んだ視線を浴びせてしまう。

 ついでに三浦氏は男性についてもこういうことを書いていることをメモ程度に採り上げておく。まず、99ページ。

 また、女性らしさを拒むかまやつ女は、そもそも大人になることを拒否しているのではないかとも思える。男性で言えばおたくに近い。

 おたくは、メディアの助けをかりて自分の世界にこもるので、実社会でのコミュニケーション力が不足しがちだ。かまやつ女もそれに似ていて、メディアに頼ってではないかもしれないが、自分の世界にややひきこもり気味という印象を受ける。

 また、106ページに曰く、

 広告代理店の博報堂のレポートに寄れば、最近の若い男女は夜二人きりで部屋にいても何ごとも起こらないのが普通らしい。……男女が恋愛やセックス抜きにして友達として付き合う傾向が強まってきたともいえるが、他方では性の意識が相当変わってきたと考えられる。

 あるいはアニメやマンガでないと「萌えない」男性が増えているのかも知れないし、AVやインターネットで露骨な画像を見すぎたために不感症になったか、女性への幻想が消えているのかも知れない。まあ、とにかく男女が普通に相対したときに、昔のようにどきどきするとか、ムラムラすろということが減っているらしいのである。付き合い方が淡白になったというのか何なのかわからないが、そもそも相手を異性として見なくなっているのかもしれない。

 ここまで若年層を悪く言えるのも、三浦氏の差別意識のなせる業であろう。

 あまつさえ三浦氏ときたら、111ページにおいては《服装はいやでも人の目に入る。人の目にはいるからには、その人にどう思われるかを考えるのが普通の人間だ。それがかまやつ女には欠落しているように感じられるのだ。それは完全な自己満足であり、一種の自閉である》などと、もはや言いたい放題である。私にとっては、最近の三浦氏の諸著作こそ《完全な自己満足であり、一種の自閉》でしかない。最近の三浦氏の諸著作を、まともな論文として認めるには、あまりにも感情的な部分が多すぎており、客観性に著しく欠けるものも多いからだ。

 さて、私の疑問は、この部分に集約されている。三浦氏は、やけに《かまやつ女》が他人の眼線を「気にしない」ことを問題視する。なぜか?それは三浦氏が、他人の眼線を気にすることこそ自己表現であり、「自分らしさ」を実現するための最大のツールであると考えている節があるからだ。事実、三浦氏は、139ページにおいて以下のように述べている。

 ブランド志向の強いコンサバ系の洋服代が高いのは当然だ。かまやつ女系は、高級ブランドなどは身に着けないので、もっと金額が低いかと思ったが、化粧品代もファッション代もコンサバ系の半分とはいえ、それなりに高かった。あれはあれでひとつのファッションであり、こだわりであるため、お金もかかるということだろう。

 自分らしさを表現するために洋服や化粧が必要だとすれば、自分らしさがある(ほしい)と思う人ほど、それらの支出が増えるのは当然だ。逆に言えば、自分らしさをはっきり造りたいと思う人ほど洋服や化粧品を買うということである。今回の調査では、コンサバ系がもっとも自分らしさに自信をもち、ファッションにも化粧にもお金をかけるという結果になった。言い換えると、お金がないと自分らしさに自身が持ちにくいとも言える。恐い話である。

 なんとも示唆的な文章である。というのも、三浦氏は、化粧品やファッションを消費することによってしか「自分らしさ」を達成し得ないと考えているらしいことをここで示している。要するに、三浦氏にとって――冒頭で採り上げた「ニューズウィーク」のコラムの著者であるスーザン・ファルーディが喝破している通り――消費こそが女性の解放であり、自らを解放するための消費を拒否する《かまやつ女》は、上昇志向を捨てた非人間として批判されるべき存在なのだ。

 しかし、最近の世界史的な成長経済の終焉やスローライフ指向などを目の当たりにして、私はそんなに上昇志向を持つことは偉いことなのか、と考えてしまう。フェミニズムを主軸に据えて考えるのであれば、たとい《六條女》であっても《かまやつ女》であっても、自立した市民として責任をもって行動できるのであればそれでいいし、リベラリズムを主軸に据えて考えるのであればたとい上昇志向を持たぬ《かまやつ女》であっても《六條女》と比較してさげすまれる理由はない。若年無業者の自立支援を続けるNPO「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏の言葉を借りるとすれば、《いままでの社会では効率至上主義一本やりだったから、そこにスローワーク(筆者注:年収に関わらず、仕事の中で自分の存在を確認できる働き方)を、お互いに認め合う違う生き方として並列に位置づける――わたしはそういう「もうひとつの日本」をつくりたい》(二神能基[2005]、199ページ)という考え方がリベラリズムを主軸に据えた考え方となる。

 このように考えれば、三浦氏の政治的立ち位置は、――この短期集中連載の前編と中編でも述べたが――都市型新保守主義といっていいだろう。要するに、成長を第一のイデオロギーとし、それに見合わぬもの、あるいはそれを指向しないものは過剰にバッシングを繰り返す。このような都市型新保守主義者が、消費フェミニズムの罠にはまるのも当然だろう。消費フェミニズムは、端的に言えば投票権を持つことよりも金持ちの妾になることのほうを目指す。他人の眼を気にして消費しなければ未来は開けない、所謂「自分らしさ」指向は一時しのぎの逃避行に過ぎない、と罵る三浦氏は、消費こそが自己実現であり、開放であるという思想の持ち主というべきである。

 そもそも三浦氏はバブル期に消費ブームを煽ってきた一人としてカウントされるのだから、バブル的な上昇志向を持たぬ《かまやつ女》を三浦氏が過剰にバッシングするのも一理あるだろう。「女らしさ」(消費による!)を指向しない《かまやつ女》は、成熟の拒否であり、さげすまれる存在として描かれる。これは、この短期集中連載の前編で採り上げた、上昇志向を失った地方の(郊外の)若年層に向けた視線と同じだ。要するに、現状にとどまっていることを好む人たちは、三浦氏のバブル期にターゲットしていた客層ではないから――要するに、わざわざ東京のパルコや丸井などに行って「おしゃれに」服装を決めず、せいぜい近場のジャスコやユニクロなどで済ませるから――、その客層になることを求めてひたすら尻を叩く。既存の社会情勢は無視して。ただひたすら若年層を叩けば若年層の上昇へのモチベーションは上がると思いこんでいる。悪魔の思想家とは三浦氏のことを言うのであろう。本稿では、三浦氏の最新刊『下流社会』(光文社新書)には触れなかったが、本書は、上昇へのモチベーションを失った若年層が増えることに対する危機の扇動として書かれており、ある意味では三浦氏の集大成といっていいだろう。従って特に触れなかった。

 ちなみに私は服装にはあまりこだわらないタイプで、服装は大抵近場のジャスコやユニクロで買ったもので済ませる。洋服は消費せずに、ボロが出るまで使い続ける。だから私の服飾費は極めて安く済む。事実、私が着ているシャツの中には高校1年の頃から着ているものもある。要するに私も、三浦氏のバッシングする、上昇志向を失った若年でしかなかったのである。

 参考文献・資料
 スーザン・ファルーディ[2001]
 スーザン・ファルーディ「消費フェミニズムからめざめよ」=「ニューズウィーク日本版」2001年1月24日号、TBSブリタニカ
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 三浦展[2005]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月

 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 吉見俊哉『万博幻想』ちくま新書、2005年3月

 速水由紀子「現代の肖像 押切もえ」=「AERA」2005年3月28日号
 山極寿一「成熟とは人間らしい生き方」=2003年5月2日付読売新聞

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2005年9月27日 (火)

三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 (前編はこちら、後編はこちら

 江戸の敵を長崎で討つ。

 桑を指して槐(えんじゅ)を罵る。

 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読んでいるとき、私の頭の中に常にこの2つの言葉が飛び交っていた。本書において、三浦氏は、若年層に関する統計データ(仲には信憑性の強く疑われるべきものも存在するが)を寄せ集めて、そこから飛躍して三浦氏の狭隘な道徳的基準に照らして若年層に対して罵詈雑言を浴びせている。本書における全ての言説は空疎極まりなく、また完全に空回りしているといっても過言ではない。この短期集中連載において、私は三浦氏は小さい根拠で大きく煽ることを得意としているのかもしれない、と書いたが、本書はその三浦氏の得意技が存分に現れている本だといってもいいだろう。

 本書は、タイトルにもあるとおり、一見すれば仕事を「したがらない」若年層に「仕事をしなければ、自分はみつからない。」と述べているような本に見える。しかし実際には、本書は若年層のほうを向いているのではなく、むしろ「今時の若者」に対して偏狭な認識しか抱いていない「善良な」人たちを向いている、しかも彼らの若年層に対する無知・偏見を高める方向に。本書においては、三浦氏はフリーターや若年無業者の問題を若年層の「気分」や「文化」という視点からアプローチしているのかもしれないが、実際には首都圏の一部の若年層に見られる「問題行動」の感情的な「分析」に基づいて若年層を不当にバッシングしている本だ。そもそも、本書における若年層の行動の分析ですら、その打倒性は極めて疑わしい。まさに、江戸の敵を長崎で討つ、桑を指して槐を罵る行為の産物であることは言うまでもない。

 三浦氏の「分析」がいかにデタラメか、ということを今回は強調したいため、本稿では収録されているいくつかの文章について、三浦氏の記述に基づいて逐語的に論証していきたいと思う。

 14~49ページ「フリーター世代の職業意識」
 そもそも「フリーター世代」というカテゴライズ自体問題はありやしないか?すなわちフリーターが若年層に対して歓迎をもって迎えられたのはバブル期であり、現在はむしろ職業選択の幅が狭いからフリーターにならざるを得ない、あるいはフリーターになるしかない人のほうが主流になりつつある。三浦氏はこの「フリーター世代」(おそらく私もその世代の中に入っているのだろう)の《のんびり派》(三浦展[2005a]、以下、断りがないなら同様)が昨今のフリーターの増加と密接に結びついていると説いているが、それはフリーター問題の一部かもしれないが全部では決してない。こういうカテゴライズをするから、三浦氏は夢を実現するためにフリーターをやっている人は許容するのか、といえば案外そうでもないようで、結局のところ若年層を叩きたいだけではないか、と思えてくる。

 余談で始まってしまったことをお詫びしたいが、25ページにおいて三浦市の暴走は始まるのだから興味深い。三浦氏は現代の若年層の向上心、及び上昇へのモチベーションが低下していることを参照して、以下のように言い出す。曰く、《のんびり派で、その日暮らし派の真性団塊ジュニア世代が、フリーターを選択するのは当然だ。せっせと就職活動をするわけはないし、就職するとしても、気楽な仕事を選ぶだろう。そして気に入らないことがあれば、すぐに辞めるに違いない。勤労意欲が低下していることは間違いない》と。「間違いない」を連発するのは長井秀和氏だけでよろしい。少なくとも三浦氏の提示したデータと三浦氏のこの結論の間には極めて広く深い溝が横たわっている。《当然だ》《選ぶだろう》《辞めるに違いない》等と、三浦氏の勝手な思い込みに基づく断定が続くこの文章を、まともな論文として評価するのは普通の論文の読み手であれば毛嫌いして当然だろう。また三浦氏は、26ページにおいて、サラリーマンを「サラリー」という女子高生(いわゆる「コギャル」である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)「さんまのSUPERからくりTV」で出てきて驚いた)を引いて《幾らなんでもサラリーマンをサラリーと呼ぶことはないだろと私は思った。彼女たちにとって、サラリーマンはマン(人間)ではないのだ》と仰々しく驚いて見せるけれども、面倒くさいから省略しただけではないのか、ということは三浦氏は思いつかないらしい。三浦氏にとって、全ての道は「若年層の劣化」に通ず。

 ここで三浦氏の発明した概念《真性団塊ジュニア世代》について説明及び検証をさせていただく。三浦氏は、この世代を《75年(筆者注:1975年)から79年に生まれた子どもは、団塊世代の父親が46.7%に倍増する。両親とも団塊世代は23.1%、父親が団塊で母親がその下の世代……は22.1%いる》ことからそのように読んでいるのだが、三浦氏がこの直前で述べている通り、第2次ベビーブーム世代だって母親が団塊なのは47.5%いる。この《真性団塊ジュニア世代》の定義付けでは母親が除外されているので、分析としてはフェアとはいえない。ただし、これより先は便宜の為に三浦氏の定義を受け入れることとする。

 三浦氏は31ページにおいて《夢のために何もしないフリーターも、セックスはする。おかげで最近同棲が流行っているらしい》と欠くけれども、根拠を開示していない。あまつさえ三浦氏ときたら32ページにおいて《経済のない結婚なんてあるのか?もちろん親の家があるからフリーターどうしでも結婚できるのだ。パラサイト同棲である》などと暴言を言い放つ。そんな暴言を言い放つ前に、あなたもシンクタンクの研究員なら調査しなさい。しかも同じページから33ページにかけて、所謂「できちゃった結婚」の増加さえも以下のように「分析」してしまう(33ページ)。根拠のない不安を煽り特定の社会階層に敵愾心を煽るポピュリストとは三浦氏のことを言うのだろう。

 このように、一昔前の価値観からすれば、なんだかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく同棲して、なんとなく子どもができて、じゃあ、という感じで入籍するというパターンが増えているのだろう。

 しかしそういう行動様式は、近代化以前の農民と似ているような気もする。独立心や将来の希望ももてずただ現状の中で停滞している。中流社会の固定化の中で、価値観の農民化が進んでいると言えないこともない。

 明らかに百姓を差別しているこの文章。農村は劣っていて都市は素晴らしいという妄信。まさに三浦氏は都市型新保守主義者の名を冠せられるに相応しい。そもそもこの三浦氏の「分析」を裏付ける資料を三浦氏は開示していない。三浦氏の主観的な判断でしかないのである。

 37ページから49ページに至っては、見ている私が恥ずかしくなるくらいの悪文である。要するに、三浦氏の単なる矮小な経験談から、現代の若年フリーター、更には若年層全体がいかに堕落しているか、ということを「立証」してしまうのだけれども、よくもここまで狭い経験を若年層全体に広げることができるものだ。この程度で若年層を「分析」したと言い張ることのできる三浦氏は掛け値なしで素晴らしい。おそらく俗流若者論の書き手として求められているのはこういう人であろう。

 三浦氏の文章では、《このように》、まともな社会学の《価値観からすれば、なんかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく》自分の身辺の事例を拾って、《なんとなく》妄想を膨らまして、《じゃあ、という感じで》不安と不信感と敵愾心を煽るという《パターンが増えているのだろう》。

 《しかしそういった行動様式は》、ナチス・ドイツ期のヒットラーと《似ているような気もする》。既存の不安や不信に乗じて《ただ現状の中で》何も変えようとせず不安ばかり煽る。若年層に対するイメージの《固定化の中で》、三浦氏の《価値観の》俗流保守主義化が《進んでいると言えなくもない》。

 114~123ページ「都市が居間になる。」
 基本的にこの文章は、おそらく三浦氏がふらふらと出かけて、都内(渋谷と吉祥寺と高円寺あたり)でたまたま目にした若年層の「問題行動」に単にけちをつけているだけの文章である。はっきりいってこの文章に問題意識というものはない。

 若年層が劣った存在であるかのごときネーミングはこの部分で頻出する。例えば118ページでは《ここ3、4年、歩きながらものを食べる人々を多く見かけるようになった。それはあたかも「ジベタリアンの直立猿人化」、つまり四速歩行から二足歩行への進化の過程をみているかのようである》と、また120ページでは《写真14は、吉祥寺の朝の八時頃。パチンコ屋の開店を待っている人の列を撮ったものである。それぞれ寝ころんだり、本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、携帯電話をいじっている人など、思い思いの時間を過ごしている。まるで路上が居間になったかのようであるが、動物園の猿山のようにも見える》と(一瞬正高信男の文章かと思った)、更にこの直後では早稲田大学の《校舎の中の床で寝ている学生》についても述べているが、この一人の行動から三浦氏の捻出する結論は《こういうモラルの低下が、スーパーフリーのようなレイプサークルを生む土壌になっているのだと思った》と。立てよ早大生!このような理不尽なるレッテルを貼り付ける俗流マーケッターに、諸君らは直ちに反論すべきである!

 私が早大を受けて落ちたことがあるからか、ついつい煽ってしまった。だからといって三浦氏の罪が消えるわけではない。123ページ、これも正高信男の文章と勘違いしてしまった。曰く、《発達した文明は携帯電話をつくり出し、街中にあるコンビニからは二十四時間自由に好きな食べ物を選べる都市環境を生み出した。それはまるで南洋の楽園のようである。そして人は食べ名が荒歩き、歩きながら絵文字という象形文字でメールをするようになった。歩き食べと象形文字。まるで旧石器時代である。文明の進化が人間を旧石器時代に引き戻したのだろうか》と。少なくとも三浦氏は俗情という文明の利器(笑)によって、第二次世界大戦時代のナチス党員に引き戻されたのはいうまでもないだろう。

 124~133ページ「コンビニ文明」
 この文章は、三浦氏はやたらと現在問題化されていることをコンビニに結び付けたがる。例えば三浦氏はコンビニが晩婚化を引き起こしているという。127ページに曰く、

 新人類世代は晩婚化が進んだ世代でもあるが、晩婚化のひとつの背景には、コンビニの普及と二十四時間化があると私は思っている。一人暮らしでも、コンビニがあればいつでも食べ物を手に入れることができるようになったからだ。

 昔なら、深夜に家に帰った男たちは、奥さんにお茶漬けを作ってもらいたいと思っただろう。だから早く結婚したいと思った。しかしコンビニの二十四時間化により、男たちは夜遊びの後でも気軽に食べ物を買えるようになった。一人で食べるのは寂しいかもしれないが、とにかく食べ物にはありつけたし、コンビニの食べ物はどんどんおいしくなっていった。その文、結婚したいと思う気持ちは減ったのではなかろうか。

 男性から見た結婚の条件が女性の料理のうまさなんて、「AERA」の記事でも見たことがない。そもそもこのようなアナロジーが許されるのであれば、男性の料理のスキルが上がっても晩婚化が進むはずなのだが。そもそもこの文章は、男性にはまともな生活力がない、だから女性と結婚することによって男性は生活力を補完する、しかしコンビニができたから生活力を結婚によって生活力を補完する必要が無くなった、だから晩婚化が進むのだ、といっているようだが、これでは男性も女性も両方差別していることにならないか。すなわち男性は生活力が過度に貶められている。女性は男性に奉仕する存在としてしか見られていない。三浦氏の差別意識がここでも透けて見える。

 また三浦氏は131ページから133ページにかけて、米国の映画「ゾンビ」を引き合いに出す。その映画においてはゾンビ(生き返った死体)は生きているときにいつもそこに来ていたから死んでも郊外のショッピングモールに本能として行く、と説明される。しかし三浦氏がその直後に我が国の現状に向ける視線は極めて残酷だ。曰く、三浦氏は、《まだショッピングモールやコンビニがコミュニティだというところまでは来ていないが、あと十年もすればそういう感覚が一般化するだろう》(133ページ)といい、その後、この文章の結びとして、以下のように言う。

 消費者を本能で行動させる。これはマーケティングの常道だ。消費社会は人間を本能だけで動く動物にしようとしている。

 いずれ、死んでも夜中にコンビニに行くゾンビが日本でも増えるだろう。

 だったら、三浦氏こそ人間をゾンビ化させる張本人といわざるを得ないだろう。何故なら三浦氏はバブル期にはパルコの雑誌の編集者として消費社会を先導してきたからだ。そもそも三浦氏は、他の著書の著者略歴において(三浦展[2005b]。これがまたすさまじく恥ずかしい著者略歴だ)、三浦氏はパルコで働いていたときに、現代の宗教は消費である、としてパルコのマーケティング雑誌の編集に邁進していた、と紹介されている。三浦氏はこのような自らの行為についてどのように落とし前をつけるのか?

 134~149ページ「歩き食べの研究」
 唯一、真面目に調査したと思わせる記事だが、サンプル数は134ページに述べられている通り《年齢は15歳から29歳、内訳は15~19歳が37人、20~24歳が41人、25~29歳が5人》だという。しかも首都圏だけ、地方は無視。仙台在住の私は疎外。とりあえずここから有効な結論を引き出すのはきわめて難しい、といっておく。

 174~195ページ「『週刊自分自身』――若者と新聞」
 東北大学助教授の五十嵐太郎氏と、東北大学工学部建築学科3年の同級生1人と会食していたとき、私は月に一度は読売新聞と朝日新聞を1か月分通読する、と発言したとき、五十嵐氏とその同級生が驚いていたことがある。また、私は基本的に必要な情報は新聞とインターネットから入手しているし、平成17年9月11日~16日の東京・名古屋の長期旅行中でも、新聞を読まなければ落ち着かなかった。だからコンビニで、東京にいるときは東京新聞を、名古屋にいるときは中日新聞を買って読んだ。しかし新聞は電車の中では読まず、駅や万博のベンチやホテルの中で読んだ。電車の中で読むのは他人の迷惑になると考えたからだ。

 それはさておき、三浦氏はこの文章で若年層が新聞を読まないこと、更には本を読まないことを問題化する。しかし三浦氏の若年層の行動の「超訳」(跳躍?)はすさまじい。何がすさまじいかというと、現代の若年層にとって《感覚的にどうもこれは嫌だと思うのは何かと訊きますと、電車で新聞を読むことなのです。「あんな満員電車のなかで新聞を広げて読んでいるなんて信じられない」と言う》(176~177ページ)ということに触れて、三浦氏は《電車のなかで化粧をしたり物を食べたりしている人間、これはわれわれの世代から見れば、何ともはしたない、迷惑だと思うのですが、逆に彼らから見ると、食べるのは仕方がない、新聞読むのは邪魔くさいと思っているようです。かくのごとく世代の価値観の差は大きいのです》(177ページ)と語ってしまっている。そもそもこの前の部分で、三浦氏がアルバイトで使っている学生の、新聞を取らない理由として「ゴミが出ること」(176ページ)を挙げて、それを《ゴミとは失礼ですよね》とイチャモンをつけているのだが、若年層を散々ゴミ扱いしてきた三浦氏の言うことか。しかも三浦氏は、新聞を中流家庭の消費財と規定している。消費財ということはやがてはゴミになるということだな、三浦氏よ。若年層が新聞をゴミにしたらそれを問題にして、普通の中流家庭が新聞をゴミにしたら問題にならない、ということか。

 しかも190ページにおいて、若年層が新聞を読まないことについて《みんな豊かですから、非常に現状維持志向が強いのです。不況だなんだと言われてもほとんど上昇志向がありません。だから「新聞を読むと上昇できるよ」といっても、買いません》と述べている。新聞を読んだら本当に上昇できるのか、という私の疑問は三浦氏にとっては皆無なようだ。どの新聞も、特に若者報道に関しては全て同じような切り口で報道を行い、最近では捏造や虚報や不祥事まで起こしている新聞を読んで上昇できるのか。朝日新聞は捏造をしでかした。日経新聞は不祥事を起こした。毎日と読売は「ゲーム脳」を大々的に支持するほか、少年犯罪に関してはかなりひどい社説をよく書く。産経は右派政治家と右派論壇人の機関紙といっても過言ではない。こういう新聞を読んで上昇できるのか。

 194ページ、ここでやっと表題の《週刊自分自身》が出てくる。三浦氏によると、これは携帯電話のメールの事を指しているという。三浦氏曰く、

 若者が携帯のメールで何をそんなに通信しているのかと言うと、ほとんどは友達とメールの交換をしているわけです。つまり、その携帯メールのなかで行なわれていることは、自分専用の週刊誌をつくっているようなものだということで、私は携帯メールで交わされている情報を『週刊自分自身』と名づけてみました。

 つまり、もう電車の中吊り広告の『週刊女性自身』も見ないわけです。タレントのだれが何したということすら関心がない。さっき別れたばかりの友達とメールして、今何をしているのとか、知り合いの太郎と花子が別れたとか、くっついたとか、そんなことばかりやり取りしているわけです。それは自分だけの週刊誌をつくっているようなものなわけです。だから『週刊自分自身』であると思ったわけです。

 だったら友達と交わす私信や交換日記も《週刊自分自身》となるのだな、三浦氏よ。要するに三浦氏は思い込みと偏見だけで語っているに過ぎないのである。そもそも携帯電話のメールに《自分だけの週刊誌をつくっているようなもの》という比喩はかなり無理があるのだと思うのだが。だったらなぜ日記ばかりのブログに触れようとしない?いや、見方によっては、若者論や社会に関する論評を欠き続けて公開している私のブログも《週刊自分自身》と言うこともできるかもしれない(その点では、エコノミストの木村剛氏のブログのタイトルが「週刊!木村剛」となっているのは象徴的だろう)。携帯電話でのやり取りが極めて私的になることは、例えば社会学者の宮台真司氏によってポケベルの時代から指摘されており(宮台真司[2000])、宮台氏はポケベルに関して女子高生の「仲間意識」を検証している。携帯電話に関しては、同様の指摘を横浜市立大学助教授の中西新太郎氏や(中西新太郎[2004])、皇學館大学助教授の森真一氏(森真一[2005])、関西大学助教授の辻大介氏(辻大介[2005]。ついでに言うとこの辻氏の論文は正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)に対する批判として書かれている)などが行なっている。三浦氏の分析では有効な結論を出すのは難しいように思える。

 最後に一つだけ言っておく。それは、現在の我が国の新聞配達というシステムこそが我が国における新聞の購読率の高さに極めて協力に結びついており、新聞社の既得権となっているといっても過言ではない状況であり、このようなことは外国にはほとんど見られないという。日本の新聞のシステムを絶対視して、新聞を読まない、あるいはコンビニで購読する若年層を「異常」と見なす行為が、いかに配達制度という牙城に触れていないか、ということを三浦氏は理解すべきだろう。

 今回は三浦氏の文章の中でも、特に問題の多い部分を検証してきたわけだが、それにしても本書における三浦氏の造語センスは非凡である。ただし、確かに量やインパクトの点においては西川りゅうじん氏が飛んで逃げるほどだが、その言葉に秘められたレイシズムや差別感覚は、むしろ石原慎太郎氏が飛んで逃げるほどである。それほど三浦氏の若年層に対する蔑視的な感情はすさまじいのである。

 このような三浦氏の態度は、結局のところこの短期集中連載の前編でも明らかにした、三浦氏の都市型新保守主義的な思想、すなわち上昇志向を持たない奴はみんな劣った奴である、という差別意識のなせる業ではないかと思っている。このような本の著者が、帯にあるような《若者カルチャー研究家》として規定されるとすれば、それほど若年層という存在が軽く、あるいは蔑まれて見られている証拠となるだろう。

 ついでにもし三浦氏がこの文章を読んで反論できないとすれば、三浦氏に私の論文を批判する隙を与えてみようと思う。私はこの文章を、ポータブルMP3プレーヤーで、声優の田村ゆかり氏や野川さくら氏などの楽曲を聞きながら執筆した。また、この文章を書いているときに、何度か台所にいって水を汲んで飲んだ。要するに私も、《ウォークマンなどの携帯音楽機器とコンビニが携帯空間願望の実現をますます可能にする。腹が減ったら二十四時間いつでも食べ物が手にはいる。音楽も二十四時間いつでも聴ける。喫茶店に入らなくても、街に座り込めば、そこが自分の快適な部屋になる。そう感じる若者》(156ページ)の一人でしかなかったのだ(深夜にコンビニに出かけたり、あるいは地面に座ったりしたことはないけれども)。

 参考文献・資料
 辻大介[2005]
 辻大介「ケータイ・コミュニケーションと「公/私」の変容」=日本放送協会放送文化研究所(編)『放送メディア研究3』丸善、2005年6月
 中西新太郎[2004]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 三浦展[2005a]
 三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 三浦展[2005b]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年4月
 宮台真司[2000]
 宮台真司『世紀末の作法』角川文庫、2000年3月
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・3)都市の個性と市民生活』岩波書店、2005年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』講談社学術文庫、1988年5月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 伊藤隆太郎「新リーズナブル主義 ~ワタシの中の「消費の二極化」~」=「AERA」2003年11月24日号、朝日新聞社
 藤生明「早稲田再生はあるか」=「AERA」2004年7月14日号、朝日新聞社

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2005年9月25日 (日)

三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~

 (中編はこちら、後編はこちら

 短期集中連載「三浦展研究」を実施します。この連載では、最近精力的に執筆活動を行なっている、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の諸著作に対する批判的検証を行ないます。検証する本は、前編が『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)、中編が『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)、後編が『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)です。

 ※一時期、このエントリーにトラックバックができないようになってしまうというミスが生じてしまいましたことをお詫びいたします。現在は正常にトラックバックできますのでご安心ください。

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 岩手県盛岡市、東北自動車道盛岡インターチェンジの近くに、大釜という地区がある。この地区は、ここ10年ほどで大きく様変わりしてしまった。というのも、およそ10年前はあまり建物がない地域だったのだが、久しぶりに大釜を通ったのでその様子を見てみると、一つの商業地域として変貌してしまっている。そしてその中心には、ジャスコが建っている。
 また、東京に出かけた際、東北新幹線の窓から見える、福島、郡山、宇都宮などといった郊外の都市の風景は、ほとんど変わり映えするものはなかった。ほとんどの都市が均質な風景を映し出し、少なくとも私が見聞した限りではどこに行ってもほとんど同様の光景が広がっている。

 しかし、このような都市の均質化が、青少年の「心」の荒廃をもたらし、少年犯罪の温床になっているといわれたら、若者論を研究している立場からしてみると、納得するどころかむしろ首を傾げてしまう。民間シンクタンク研究員の三浦展氏は、昨今マスコミをにぎわせている「理解できない」少年犯罪が、全て東京や大阪といった大都市ではなく、むしろ中小規模の都市で起こっていることに着目し、郊外化が少年犯罪を触発する、といった「理論」を構築した。その「成果」としての本が、平成16年9月に出版された三浦氏の著書、『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)である。

 まず本書全体の感想を述べるとすれば、本書は重大な問題提起を行なっているにもかかわらず、著者である三浦氏が青少年問題にこだわりすぎるあまり、また青少年に対して偏狭な認識しか持っていないばかりに、本書は単なるトンデモ本――すなわち、著者の意図したところとはまた別のところで楽しむべき本になってしまっているのである。

 はっきり言うが、本書において、都市計画論的なことが述べられている部分は、建築学科の学生としてみればそこそこ役に立つ。本書で唯一収穫があるとすれば第7章の189ページから215ページで、ここではこれからの都市計画に関していかなる思想で行なわれるべきか、ということが展開されている。これが現実を無視した机上の空論ということもできるけれども、少なくとも思想としては間違った方向ではないと思える。

 しかしそれ以外の部分では、著者の青少年に対する蔑視的な感情があからさまに見えてくるのである。具体的に言えば、地域コミュニティと大都市の安易な礼賛と、ことさら現代の青少年、特に郊外に住んでいるものを「異常」とレッテルを貼りたがること。

 第7章(209ページ)においても、三浦氏は、《ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そう言えば、ことの異常さが分かるだろうか》(三浦展[2004]、以下、断りがないなら同様)といったことを述べている。三浦氏が、郊外で育った子供たちをただ「異常」とみなしたいという感情がここでも見て取れるだろう。

 さて、本書のキーワードとなる《ファスト風土》とは何か。三浦氏は、27ページで、以下のように述べている。

 本来、日本の地方には、城下町など固有の歴史を持った美しい年が多数存在していた。都市の周辺には農村が広がり、やはりその地域の固有の自然と歴史の中で過ごしていた。しかし、過去20年に起きた交通網の整備と総郊外化の波は、そうした地域固有の歴史的風土を徹底的に崩壊させた。歴史的な街並を持つ地方の都市中心部はモータリゼーションに対応できず衰退し、田園地帯にショッピングセンターができた農村部もまた、それまであった生活を激変させ、コミュニティを衰退させた。日本中の地方が二重の意味で衰退し、画一化し、均質化し、「マクドナルド化」し、固有の地域性とは無縁の、全国一律の「ファスト風土」が生まれたのだ!

 《ファスト風土》の定義については、三浦氏の説明に従うほかないだろう。しかしここで苦言を述べさせてもらうと、三浦氏は「マクドナルド化」のことを都市の均質化と説明しているようだが、この概念は自助マニュアルによる社会の合理化を指す(森真一[2000]を参照されたし。ついでに言うと三浦氏は28ページで「マクドナルド化」の正しい説明を行なっている)。語感が自分の問題意識と合っているからといって、用語を誤用しないで頂きたい。しかしこのような批判は蛇足であろう。

 本書で展開されている論旨は、そのような三浦氏言うところの《ファスト風土》が、青少年を荒廃させるというものなのだが、はっきり言って著者の経験論に基づく牽強付会ばかりが展開される。更にこの著者ときたら、少年犯罪と《ファスト風土》の関係性が証明された!としきりにはしゃいでおり、私からすれば痛快というよりもむしろ痛い。

 まず三浦氏の少年犯罪に関する認識の誤謬を指摘しておきたい。三浦氏は16ページにおいて、刑法犯の認知件数が増加している、と説く。しかしここ数年の刑法犯の認知件数の増加が、警察の方針転換と深く関わっている、ということを指摘しなければならないだろう。具体的に言えば、警察は、ここ最近になって、これまで握り潰してきた被害届けを素直に受理するようになったり、警察官の増員などで犯罪の摘発に力を入れるようになったりしたことで、それまで暗数であった犯罪が統計に表面化するようになった。三浦氏は19ページにおいて検挙率の低下を単純に犯罪の増加と捉えているようだけれども、これも警察機能の限界という視点で説明できる。三浦氏が少年犯罪の「凶悪化」の理由として、東京都の青少年政策のブレーンとなっている首都大学東京の都市教養学部長・社会科学研究科長の前田雅英氏の『少年犯罪』(東京大学出版会)を挙げている限り、この手の少年犯罪凶悪化論を三浦氏は疑っていない、ということがいえるだろう。

 さて、ここから三浦氏の主張の中心、すなわち《ファスト風土》が少年犯罪を誘発する、ということについて検証を行なっていきたい。第2章は「道路整備が犯罪を助長する」というタイトルで、内容もまたこの言葉でまとめることができる。三浦氏は34ページにおいて、平成15年に起こった長崎県長崎市の12歳の少年による小児殺害事件に触発されて長崎と佐賀に行ったことが報告されている。しかしここで三浦氏が行なったことといったら、せいぜいタクシーで2・3の郊外の団地を回った程度である。その程度でフィールドワークと呼べるか。三浦氏は43ページにおいて「はなわ」こと塙尚輝氏の曲にイチャモンをつけるけれども、その前にやることがあるだろう。なぜ三浦氏は現地の人に対して聞き取り調査を行わないのか。あるいはなぜ三浦氏は何日か長い時間をかけてフィールドワークをしないのか。結局のところ、この「調査」は、「「あの事件」を起こした場所は郊外だった!」ということを書きたいが為に行なった、つまり「為にする」調査なのである。

 第3章「ジャスコ文明と流動化する地域社会」は、三浦氏が、郊外の犯罪の近くにはジャスコがある!ということを仰々しく「発見」してみせる、という内容。この著者が、「「あの事件」を起こした場所の近くにジャスコがあった!」と仰々しくはしゃいでみる様は、見ていて滑稽を通り越して痛いくらいだ。そんなにジャスコが嫌いなら、なぜジャスコのない場所に三浦氏が問題視するような犯罪が「ない」のか比較してみてはどうか。実際問題、三浦氏も認めている通り、ジャスコは郊外の結構多くの街に(泉区にあるジャスコ南中山店は徒歩圏内だし、少し原付を飛ばせば利府店や多賀城店にもいける。多賀城店はもうすぐ閉店するようだが)あり、郊外の事件を少し探せばジャスコに当たる、というのはかなり必然性があるような気がするのだが。そういう状況下にあって、ジャスコ(とそれがもたらすらしい地域コミュニティの崩壊)を唯一の原因として鬼の首を取った如く問題化するのは極めて問題の多い態度であろう。そもそもなぜジャスコが「ない」場所の犯罪が問題化されないのか?三浦氏の態度は至極アンフェアである。

 笑ったのは、70ページから72ページの「佐世保事件とジャスコの関係」について述べた文章。三浦氏は平成16年12月の佐世保の女子児童殺害事件について、母親がジャスコで働いていることを問題化している。三浦氏は99ページにおいて、この事件の犯人の父親についても《乳は病後のためにあまり仕事ができず、母はジャスコで働いていた。ゴールデンウイークもどこにもいけず、それどころか少女は朝一人でパンを食べていたという》ことを問題化しているのだが、これをもってジャスコが悪いのだ、というのはあまりにも早計であろう。

 三浦氏は佐世保から少し伸ばして大塔に行って、そこにジャスコシティがあることや、大塔駅周辺の状況を踏まえて《典型的なファスト風土的風景である》(71ページ)と言っているが、ことこの事件に関しては、ジャスコよりも行くべきところがあった気がしてならない。
 ちなみに作家の重松清氏は、この事件の犯人の住んでいた場所について、この犯人の通っていた《大久保小学校からさらに山を登ったところにある。学校まではバスで10分以上》(重松清[2004])という場所であると報告している。ちなみに大久保小学校は佐世保の中心市街地を見渡せる位置にあるという。また、重松氏は、この犯人の行動圏の狭さにも着目しており、《朝夕の通学時間帯でさえ、1時間に1本》(重松清[2004])ということを問題に挙げていた。三浦氏が問題化する大塔のジャスコシティは佐世保駅から2駅行ったところにあるため、この犯人の行動圏には当てはまらないだろう。もとより三浦氏は佐世保の事件について語っているのになぜか大塔に行ってしまっている。佐賀のバスジャック事件の犯人に関して《受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい》(46ページ)と簡単に切り捨ててしまっている三浦氏だ、佐世保の事件の犯人がバスケットボールクラブを辞めさせられて受験勉強に邁進するように差し向けられてしまった、という報告にも《そんなことはどうでもよい》と処理してしまうのだろう。

 しかし三浦氏はなぜここまでジャスコを敵視するのか。それにはしっかりとした理由があり、その理由が述べられているのが第5章「消費天国になった地方」である。要は地方にジャスコができて、地方が《消費天国》になったことが三浦氏は気に食わないらしい。三浦氏のその意識が特に表れているのは136ページから137ページにかけてのこのくだりであろう。

 2004年に公開された『下妻物語』という映画では、ジャスコがパロディ化されて登場する。いや、パロディではなく現実そのものの戯画化といったほうが正しい。舞台は北関東、茨城県の下妻市。東京まで服を買いに行くという主人公の女性に向かって、八百屋は言う。

 「わざわざ東京まで買物に行かんくても、ジャスコがあっぺ。下妻のジャスコは東京のパルコよりでっかいぞ。ジャスコには何でもあっぺ」

 たしかにジャスコには何でもある。最新のファッションも、世界中の食品も、高級ブランドもある。……いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている。そこにさえ行けば、ほかのどこにも行かずにすむようにできている。たとえ東京でさえも。

 その意味で、ジャスコは街である。しかも24時間、365日、全館エアコンが利いた人口の街である。これこそが人類の発明だと言いたげだ。事実、私が見た太田市のジャスコには、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機を模した物が天井からぶら下げられていた。ショッピングセンターは人類の発明だといいたいのであろうか?

 ここまで妄想を展開できるのも素晴らしい。三浦氏は全てのジャスコが《24時間、365日、全館エアコンが利いた》であるかの如く書いているけれども、私の近所のジャスコ南中山店は24時間営業なのは食品売り場だけである。しかも三浦氏は《いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている》と書いているが、それも店舗の立地によるのではないか?

 また三浦氏は各種家計調査を用いて、地方が東京よりも消費社会化していることを問題視している。しかしこの調査において、一貫して無視されているのは年収と昼間の人口である。そこを無視して《消費はこれまで都市から地方に波及した。あるいは、より所得の高い人から低い人に波及した》(146ページ)と述べられては、根拠を失っているといわざるを得ない。三浦氏は、147ページにおいて、地方で生まれたコジマ電機(宇都宮)、ヤマダ電機(前橋)、ユニクロ(山口)、ダイソーと洋服の青山(広島)といった地方で生まれた企業や商店のスタイルが全国に波及することを問題化する。しかし資本主義社会においては、より人々の消費者心理を掴むスタイルが全国に波及するのは必然だと思われるのだが。東京だけが正義ではない。

 あまつさえ三浦氏ときたら、153ページにおいて《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の事例を引いて《「消費しかできない」子どもたちが育っているのだ!》(155ページ)などとはしゃいでいるけれども、この女子大生の状況のほうが特殊なのではないか?
 それにしてもどうして三浦氏は地方の消費社会化をここまで露骨に嘆くことができるのだろう?身の回りに何でもそろっていて、欲しいものがすぐに消費できるのであれば、東京こそが危ないといわなければならないはずなのだが。また、三浦氏は、現代の社会が脱工業化に向かっていること、そしてそれに対応した地域経済の再生策が問われていることも触れない。東京大学教授の神野直彦氏が述べている通り、情報を動かすことによって技術移転が成功すれば不必要な人間や物品の移動を抑制することができ、情報化による知識社会の創造こそ在宅勤務が進んで職住一体の地域経済を実現することができる、という見方もできる(神野直彦[2002])。しかし三浦氏はただ地方が消費社会化することをしきりに攻撃するだけだ。一体三浦氏のこの態度はどこから生まれているのであろう?

 これはあくまでも推測なのだが、三浦氏が元々パルコの発行する雑誌の編集部で働いていたことが少なからず影響しているのではないかと思う。言うまでもなく、パルコはバブル期の都市における消費ブームを煽った商店の一つであるが、おそらく三浦氏はポストバブル時代の消費の主導権を、大都市住民をターゲットにしたパルコから農村型消費社会を実現させたジャスコに奪われたことに対して苛立ちを持っているのではないか。そう考えれば三浦氏がしきりにジャスコを敵視するのも分かるような気がする。もちろんこのような考え方は一つの邪推でしかないのだが、少なくともこのようなことは言える、三浦氏は素朴なコミュニティ主義に浸かっており、そのような素朴なコミュニティを大規模小売店や学校(三浦氏が学校というファクターを完全に無視していることを我々は忘れてはならない)に引き裂かれた状態を異常としか捉えることができないことから三浦氏の牽強付会は始まっているのかもしれない。

 三浦氏の現代の若年層に対する認識がどこから来ているかということに関しては、第6章「階層化の波と地方の衰退」の以下のくだりを読めば分かる。

 昔の若者に内発的にやる気があったわけではない。30年前まで、地方の若者にはまだ東京に集団就職をしなければならない者がいた。地方の男たちは冬に出稼ぎをしなければならぬ者がいた。そういう貧しさが外圧となって人々にやる気を起こさせていただけだ。

 外圧が、つまり貧しさが解消されればやる気はいらない。こうして、いま地方の若者に生じている意欲の低下、向上心の低下が起こっているように思える。(169ページ)

 しかし三浦氏のこのような物言いに欠けているのは、人口は既に減少を始めており、また世界史的に見ても成長一辺倒の経済は限界を告げられていることである。三浦氏は人々を寄り上へ上へと突き動かす《外圧》が必要である、と考えている節があるが、そのようなただひたすら「成長」を目指すイデオロギーは、確かに終戦直後のまだまだ貧しい時期には必要だったかもしれないが、やがてそのようなイデオロギーは現在になって深刻な環境問題と都市型貧困層の増加を引き起こした。環境問題やフリーター問題は、そのような次元で捉えられるべきものであるが、それはさておき、「成長の限界」が指摘される現在は、そのような「成長」に代わる新たな概念が提示されることであろう。

 三浦氏の最大の価値観は「都市型消費」であろう。要するに、三浦氏は、都市が(パルコを中心として!)消費の享楽を味わうことができればいいのであって、地方が消費の享楽を味わうのは問題であり、犯罪を引き起こす、と考えている節がある。都市で消費することはかまわないが、地方で消費するのは駄目だ、という三浦氏の発想は、153ページから155ページにおける《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の発言を引用していることでも分かるし、本書において一貫して都市が消費社会化することを問題と見なしていないことでも分かる。本書で納得してしまう人がいれば、かなりの確率でその人は都市型新保守主義者と見なすことができるかもしれない。

 蛇足だけれども、三浦氏の青少年に関する認識の偏狭さも第6章でよく見られる。例えば、

 これも従来的なイメージだが、体験というと東京の子どもには欠如していて、地方の子どもにはたくさんあると考えられがちだ。だが、地方でも近年都市開発が盛んに行なわれているので必ずしも自然がそのままの姿で残っているわけではないし、過疎地の子どもですら木登りはできなくなって久しい。むしろ、彼らも暇な時間はテレビゲームにハマっている。(169ページ)

 三浦氏はこの文章の直前において、《体験》をかなり幅広く捉えられていたのに対し、なぜかこの段落においては「自然の体験」に矮小化されている。

 おそらく、子どもは自分の家とジャスコの位置関係を把握していない。いえとジャスコは恬として存在するだけで、それらが線や面としてつなぎあわされていない。つまり、自分がお菓子や消しゴムを買うという行為はたんなる消費行為であり、地域と結び付けられていないのだ。

 これで地域への愛着が育つのだろうか。自立心が育つだろうか。挨拶の仕方、コミュニケーションの仕方を自然に学べるだろうか。はなはだ疑問である。地方で連れ去り事件などを起こす若者が、無職でひきこもり気味だったりするのを新聞で見ても、やはり地方でコミュニケーション力のない若者が増えているのではないかと懸念される。

 たんに無職というだけでなく、毎日、家にこもってテレビゲームか何かをしているだけの若者だったりする。そういう若者は都会に多いというイメージがあったが、いまは日本中にいるし、どんな田舎にもいる。下手をすると田舎のほう多いかもしれないのだ。(172ページ)

 ここまで俗論を平然と述べることのできる三浦氏はすごい。私もここまで根拠のない断定ができるようになりたいものだ。もちろん皮肉だけれど。

 Jリーグもあって、ジャスコもあって、アウトレットもある。そういう生活に地方の人は満足している。自分の力を試しに東京に出たいという若者は減っていく。東京には買物とレジャーにたまに出かけるだけでよい。ディズニーランドと丸ビルと六本木ヒルズとお台場、それらはすべて地方からの客でもっている。そうした地方人は、豊で平和な日本の象徴だ。しかし、それは他方では、目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを観て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしているだけの、たいへん視野の狭い消費人間にも見える。(183ページ)

 このような暴論をたやすく述べている三浦氏に、青少年問題を語って欲しくない。しかし三浦氏は少ない根拠で大きく煽ることを得意としているようだ。

 だが、それは明らかにポピュリズムの兆候であり、都市型新保守主義の暗部を如実に表している。三浦展という都市型新保守主義のもっともヴィヴィッドな語り手から我々が学ぶべきは、多数の人が少なくとも最小限の幸福を得ることのできる社会の構築にとって、このような単なるポピュリストこそが障害となることかもしれない。

 参考文献・資料
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 神野直彦[2002]
 神野直彦『地域再生の経済学』中公新書、2002年9月
 三浦展[2004]
 三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『岩波講座・都市の再生を考える』1~7巻、2004年12月~2005年7月、岩波書店
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
 望田幸男、広田照幸(編)『実業社会の教育社会史』昭和堂、2004年10月

 安藤忠雄「「美しい大阪」をつくる」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
 神田順「まちづくり 建築基準法見直しが先決」=2005年5月11日付朝日新聞
 野田一夫「低い仙台の都市機能 納得できる街創ろう」=2003年10月12日付河北新報

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2005年9月21日 (水)

俗流若者論ケースファイル71・森昭雄

 今度は産経新聞か。産経新聞のウェブ版である「ENAK」に、日本大学文理学部の曲学阿世の徒・森昭雄氏が登場している。日付は明記されていないが、記事中に《小学校で教職員3人が殺傷された大阪府寝屋川市の事件。逮捕された17歳の少年は、小学校時代から自宅に引きこもってゲームに興じていたという》(「ゲーム脳 神経回路の形成に影響」=産経web「ENAK」、以下、断りがないなら同様)、以下、断りがないなら同様)と書いてあるとおり、おそらく平成17年の2月下旬あたりであろう。この記事では、相も変わらず《事件との関連は分からないが、日本大学の森昭雄教授(脳神経科学)は「テレビゲームに没頭し、反射的な操作を繰り返していると、理性や判断など、人間らしさにかかわる脳の前頭前野の活動が低下し、キレやすく本能的な行動をとる可能性が高くなる」と独自の学説を唱えている》などと書かれているのだが、この理論がいかにデタラメかということは精神科医の斎藤環氏をはじめ多数の人に指摘されている。ただこの記事に関して言うと、《キレやすく本能的な行動をとる》と書かれているが、そもそも「キレる」という言葉の出自が極めて疑わしいものであるし、また《本能的な行動》が何をさすのかがわからない。そもそもゲームによって神経が未発達になると犯罪を起こしやすくなるとか「ひきこもり」になるだとか学力が低下するとか言うことに関する論証が立っていないのだが。このような「論理」は、所詮は彼らが腹を立てている青少年問題をゲームにかこつけたいだけのものである。

 もちろん、この記事の筆者が、脳波におけるα波の増加=脳が働いていない、日常的にゲームに親しんでいるとゲーム中にα波が減少しない、だからゲームをやりすぎると凶悪犯罪者になるぞ!という図式を少しも疑っていない。ここで我々が着目すべきは、脳波におけるα波の現象がゲーム中に限られることであろう。森氏の文章を読んでいると、どう考えても森氏は、ゲームとお手玉と10円立て以外(「メール脳」がらみなら携帯電話の使用時も)の作業時における、すなわち日常動作における脳波を計測した節がない。学者として不適切な態度であろう。少々記事から離れてしまったけれども、私が問題視したいのはこの記事の執筆者の態度で、少し読むだけでも明らかにおかしいと思える事例、例えば《β波が減少した状態》が《前頭前野に情報を伝える神経回路の働きが悪くなると考えられ、理性的な判断を伴わないまま、視覚情報から即行動に移される可能性》をもたらす、という部分に少しも疑問を持たないのがそれに当たろう。そもそも少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は減少しているのだが。そのようなことを無視してこのようなことを語ってしまうのは、所詮は疑似科学に縋ってでも「今時の若者」を貶めたい、という未熟マスコミ人の「歪んだ欲望」(笑)なのだろう。

 また、この記事の執筆者は、《(筆者注:森氏は)「ゲーム脳」では、前頭前野の活動が低下しているため、ゲーム以外の集中力が落ちてボーッとした状態となるほか、判断力が低下してキレやすくなったり、本能的な行動をとりやすくなったりする、と述べる》と書いており、このアンチノミー(二律背反)の行動が同時に起こってしまう「ゲーム脳」とは一体何か、ということにも疑問をはさむべきだと思うが(そもそも《ゲーム以外の集中力が落ち》てしまうことは前頭葉の未発達として捉えるべきことなのだろうか?)、所詮は俗流若者論、そのような論理の上での疑問があってはいけないのだろう。

 もちろん、「ゲーム脳」理論の最大の「萌え要素」(笑)である《森教授は「ゲームだけでなくインターネットや携帯メールなどが氾濫(はんらん)する現代、友達と一緒に自然の中で体を使って遊び、創造の喜びを体感できるような遊び方も今の子供たちに必要ではないでしょうか」と話している》という物言いに代表される安易な懐古主義だって忘れてはいない。そもそもこの記事が書かれたのは少なくとも平成17年2月以降なのだから、「ゲーム脳」に対する批判は一般書のレヴェルでもかなり出ていた(例えば、斎藤環[2003]、と学会[2004]、香山リカ、森健[2004]など)。また、この記事の冒頭で触れられている《大阪府寝屋川市の事件》に関して、この記事と同様に「ゲーム脳」に強引に結びつけた報道が週刊誌を中心に行なわれたが、結局のところこのようなプロファイリングは無根拠である、ということ、そもそもこの事件における犯罪者が《自宅に引きこもってゲームに興じていた》のはせいぜい中即直後のある時期までで、それ以降は《ゲーム本には見向きもせず、昨年から若者向けのファッション誌「smart」を毎月買うように》(小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005])なるなどと、際立ってゲームに熱中している傾向は見られなくなったという証言すらあるほどだ。

 最後に、私が「ゲーム脳」に関して考えていることを語ろうと思う。この「ゲーム脳」理論について、この記事でも《それを防ぐため森教授は、子供たちのゲームの時間を1日あたり15分程度と決めたり、ゲームをしても読書をして感想文を書く時間をとる》と触れられている通り、「ゲーム脳」なる疑似科学が、子供を「正常化」するための監視を正当化するツールとして用いられているのが、最近の私の危惧することである。このような事態は、事実を放棄して疑似科学にすり寄る動向、または疑似科学が権力を正当化するツールとして働いていることなど、なにやらナチス・ドイツの匂いすら感じさせる我が国の社会を象徴するツールとして、私は「ゲーム脳」理論に興味を持っている。もちろん、これは「ゲーム脳」に限らず、正高信男氏の「ケータイを持ったサル」でも同様で、我が国における俗流若者論に支えられる疑似科学が、いかなる方向に我が国を導いていくのか、ということについて私は何らかの危うさを覚えずにはいられないのである。

 参考文献・資料
 と学会[2004]
 と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005]
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」=「週刊朝日」2005年3月4日号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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2005年9月18日 (日)

統計学の常識、やってTRY!第6回

 いい加減にしてくれ。

 この連載の第3回において、私は、日本地理学会の行なった「学力調査」を検証したが、今度は国立国語研究所か。この研究所が行なった「学力調査」が、平成17年9月18日付読売新聞に掲載されている(岩手県版、宮城県版)。

 それによると、《大学生の3人に1人は、「春はあけぼの」の意味が分からない――。国立国語研究所の島村直己主任研究員らの研究グループが17日、千葉市で開かれた日本教育社会学会でこんな調査結果を発表した》(2005年9月18日付読売新聞、以下、断りがないなら同様)ということらしい。この記事によると、《調査は今年6~7月、国立大5校と私立大3校の1~4年生までの約850人に実施。古文4、現代文2の計6問を出題し、2年前に高校生1~3年生約1500人に実施した同一問題での調査結果と比較した》とあるのだが、サンプルに偏りが生じていないだろうか。要するに、どのような大学で行なったのか、理系なのか文系なのか、学力偏差値上でのレヴェルはどれほどか、ということが全く書かれていないのである。あまつさえ《現代文は高校生より正答率が低く、研究グループは「大学生の活字離れが深刻になっているのではないか」としている》などと「分析」されたら、もはや疑いたくなるのはこの調査を行った人の学力のほうだ。他の世代との比較もない。この調査は、最初に結論ありきで行なわれたと罵られても仕方がないのではないか。
 ちなみに私は日常的に蛙を「かわず」と言っておりますが何か?

 はっきり言うけれども、このような「調査」に何の意味があるのだろうか。最近では、連載第3回で検証した日本地理学会の調査の如く、ただ「今時の若者」に対する不信感を煽るだけの「学力調査」が乱発される傾向にあるけれども、このような調査は、本来であれば長い時間をかけて、安易な「結論」を捻出するのはできるだけ慎まなければならないはずなのだが。

 もうこれ以上いうことはない。結論、このような無意味な「調査」をやめよ。

 参考文献・資料
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月

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2005年9月17日 (土)

トラックバック雑記文・05年09月17日

 名古屋から帰ってきたよ(帰ってきたついでに、「若者報道用語集」をいくつか更新しておいた。朝8時半頃の話だ)。

 ってゆうか、自民党歴史的大勝利オメ。これで日本が滅びるスピードが速くなったね。俺は11日の夜9時半頃まで選挙速報を見て、その時点でも自民党の議員が「当選確実」になるたびに「また自民かよ!」「民主まだかよ!」と突っ込んでたんだが、高速バスに乗って、翌日未明1時ごろに東北道・安達太良SA(高速バスの休憩時間)で速報を見たときには既に自民は280議席以上獲得してた。ああ、終わったな、と俺は思ったんだよ。せっかく俺は民主党に投票したのに。

 で、次の朝、東京のコンビニで東京新聞を買って読んだら(ちなみに12日と13日は東京にいた)、自民党295議席って出てた。ああ、終わったな、って俺は思ったよ。(ちなみに俺の地方では東京新聞は発売されてない。仙台だから当然だけど)

 しかし、東京新聞はひどすぎるね。いや、東京新聞の社説は面白いさ。問題は記事よ。12日の記事では、特に吉武輝子とかいう人が自民党の「歴史的大勝利」は若年層が小泉の扇動に乗ったせいだ、とこぼしてた。更に次の日の特集記事に至っては、「自民党を支持する20代のココロ」みたいな内容の記事が載ってたのよ。自民支持すら「ココロ」の問題かよ…。この記事ではなぜか千石保が「「改革を止めるな」は若者言葉」なんて珍説を開陳してやがるしよ。近いうちに検証するつもりだから安心しな。

 ついでに「北の系」の掲示板で面白い書き込みを見つけた。

2646 あまりにも新聞テレビのいう通り、こりゃ「くさい」な きくがわ考房  - 2005/09/14 11:12 -
ある掲示板より(小泉飯島コンビなら、やりかねない!)。

> 選挙報道の七不思議 - (?_?) 2005/09/13(Tue) 10:36

> 毎年、投票所や出口調査の場面が報道されていたのに今回の選挙は投票所の場面を目にしなかった。

> そして、自民党は無党派層や若者の支持を得たと誇っているが、知人、友人らの話では投票所に若者の姿は見られなかったという。

> 今回の選挙は本当におかしい
> 入場券は有権者全員に届いていたのだろうか?
> そして、本人が本人の意思で投票しまたは棄権したのだろうか?
> 政治に興味のない有権者から入場券を大量に買い取っていたダフ屋やブローカーのような組織が関与していたということはないのだろうか?

> 寝たきり老人や認知症同等の老人有権者の入場券はどのように扱われていたのだろうか?
> 入場券を不正に第三者へ渡してなどいないだろうか?
> 落選した小林議員ではなく、異常な投票数で勝った候補者こそ捜査対象にすべきではないだろうか?
> ありえない得票数の・・・・・小泉総理など調べてはいかがでしょう?

 まさか…ね。

 と、アンニュイなムードでお送りしてしまいましたけれども、私は今回の自民党の「歴史的大勝利」を生み出した原因は何か、と訊かれたら、それは小選挙区制という制度ではないかと答えます。というのも、国民の大半(特に若年層)が小泉自民党を支持した「わけではない」ことは、比例代表では民主党が検討したことからも分かりますし、12日の夜のNHKニュースにおける総選挙分析では、決して自民党が票を独占したわけではなかった。むしろ自民党は「中の上」、民主党は「中の下」レヴェルだったのですが、結果として自民党がものすごい議席を取ってしまった。これは小選挙区制という制度の歪みによるものが大きいのではないか。

 同様の意見はこちらでも見られました。

 カマヤンの虚業日記:[選挙][呪的闘争]選挙分析
 とりあえず、盛岡から帰ってきたら(私は親戚の結婚式に参加するため17日から18日にかけて盛岡に行ってきます)、全ての選挙区の惜敗率を計算してみるつもりです。そこからマスコミが報じない選挙の「真実」、あるいは自民「歴史的大勝利」の「原因」を「今時の若者」に求めたがるマスコミの退廃について書くつもりですが、投稿用なのでここで公開はしません。

 今回の選挙に関する優れた分析が。
 kitanoのアレ:衆議院議員総選挙総括(2)
 私が気になったのは次の部分です。

 鈴木宗男の新党大地は、田中角栄に匹敵する農村型リベラル政党として出発した。地域への利益誘導を主張しつつも、アイヌ民族の地位向上、若者の労働環境や福祉政策の強化、ロシア産業との交流の拡大など、弱者を重視した多様で寛容的な農村型リベラルを掲げた新党大地は、今後若者を中心に支持者が拡大する可能性がある。札幌では安倍晋三の演説よりも鈴木宗男の演説の方が人気があり、特に20-30代の若年層の人気が圧倒的に高かったことは注目に値する。

 こういうくだりを読んでいると、やはり都市型弱者や若年層が投票しないから都市型弱者や若年層に厳しい政策が行なわれるのだ、という理論がかなりの部分で嘘だということが分かります。

 例えば、ある選挙において、各党がこぞって若年層に対して厳しい政策を行なったとしましょう。もしそのような状況下において投票率が上がったら、候補者側は若年層の投票率が上がったから若年層にも目を向けた政策をやろう、ということを果たして考えるでしょうか。むしろ、若年層に「厳しい」政策のほうが若年層に受けるのだ、と錯覚してしまうのではないでしょうか。ですから、私が重要だと思うのは、若年層や都市型の弱者の問題に真剣に取り組むことのできるリベラルな政党や候補者の旗揚げです。北海道におけるこの事実は、それをはっきりと我々に伝えているのだと思います。

 我が国は壮大な昏睡状態にあります。その状態の中で、単に投票率だけを上げたら、結局は「投票という制度の上で惰眠をむさぼる愚者」が大量に出現してしまうだけではないか。もちろん、問題意識の強い人は積極的に投票に行って欲しいのですが、それだけ冷静に事実を判断して投票できる人が、果たしてどれほどいるのだろうか(とりあえず「選挙に行こう」みたいな反・表現規制のサイトにリンクを張っていたり、熱心に読んでいたりする人はこのような人に入るでしょう)。

 投票にいけ、と叫ぶのではなく、現在の如き壮大な昏睡状態の中から、しっかりと目を覚まして人々を起こし続ける気概を持った政治家・候補者の登場を期待するために動いたほうがいいのではないか、と思うのです。危険を煽るのではなく、できるだけ多くの人がムードではなく政策に目を向けるようになるのがいい(だったらお前が行けって?いや、私は、まだ20歳ですので…。こういうブログで文章を書く以外に手段はない、残念ながら)。

 だから、このような事実は極めて光栄なものです。

 保坂展人のどこどこ日記:開票日から一夜明けて(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)←祝!当選!!
 比例関東ブロックにおける自民党の獲得議席が、比例出馬議員の数を1つ上回ってしまったので、その空いた議席が保坂氏の手に渡った、という「当選」ですが、当選は当選。保坂氏はかつて国会の質問王として一世を風靡し、政策の立案数も全議員の中でも指折りのランクに属していましたので、そのような保坂氏の攻撃力がもはやタガを失ってしまった自民党にどれだけ通用するか、というのが見ものです。あと、民主党の金田誠一氏も期待できる人物だそうです。

 しかし、保坂氏も安心してはいられないようで…。
 保坂展人のどこどこ日記:佐世保でまた女子中学生が自殺――長崎の学校で何が起きているのか

 このブログ日記で「長崎県の学校で起きている異常事態」を記したら大きな反響があった。いったい、どうして長崎で子どもの事件が続くのか? 今回の事件の背景も出来る限り追ってみたい。

 こういう事実を直視できる政治家は保坂氏ぐらいしか我が国にはいない。期待していますよ。

 「保坂展人、がんばれっ!」

 補記:万博レポートに関しては今のところ予定は未定です。また、映画「ある子供」に関しては、映画宣伝会社とのやり取りがまだ終わっていないので、それが終わり次第発表の仕方を公表するつもりです。

 ついでに「ある子供」について語らせてもらうと、私は絶望しました。ただ、内容が悪かったから絶望した、というわけではありません。よく造りこまれているからこそ絶望したのです。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞するくらいですから、演出も脚本も素晴らしいのですけれども、この映画を観て、「非社会的な存在」に対する想像力とは何か、ということに関して考えさせられました。それゆえの「絶望」です。我々はこのような存在に対して想像力を向けているか、と。もしこの映画が、そこらの凡百の「泣ける」映画と同様に宣伝されたら、この国は本当に終わりでしょうね。

 とにかく、この映画は12月に恵比寿ガーデンシネマで放映されるので、みんなで見に行って衝撃を受けましょう!

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2005年9月11日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月11日

 ひとみの日々:うた(生天目仁美氏:声優)
 生天目氏は、カラオケでアニメのキャラクターソングを歌ったそうですが、最近の音楽のヒットの動向において、確かにアニメ関係の楽曲は台頭しつつあります。最近では、生天目氏のケースもそうですが、カラオケでアニメや声優関連の楽曲を取り扱うところも増えているようで。

 さて、このブログの読者で、アニメのキャラクターソングをよく聴く人は、それをキャラクターの歌として楽しんでおりますか?それとも声優の歌として楽しんでおりますか?私は声優の歌として楽しんでおりますが、キャラクターソングというのはそういったインタラクティヴな楽しみ方ができるという独特の魅力があります。もちろんキャラクターの歌として楽しむ場合はそのキャラクターについて知っていなければなりませんけれども。

 ただ、我が国におけるアニメなどのインタラクティヴ・カルチュアに関して、堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)にもあるとおり《キャラクター表現について国家レベルでは振興、地方自治体レベルではむしろ規制、とねじれが存在するように感じる》(堀田前掲書、319ページ)という現実があるのですけれども、所詮国家や財界がキャラクター表現について振興しているのはただ「カネ」と「チカラ」が欲しいだけ。その2つがなくなると大抵は規制派になる。その証拠がこれだ。

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(3):コミック撲滅法制化請願参加議員(1)
 「各党マニフェストにおける青少年認識/対策」という文章を公開しましたが、その中で自民党と民主党と共産党はマニフェストに「青少年の健全育成」または「有害情報の規制」を明記している(特に力を記述しているのはなぜか共産党)ということを紹介しました。で、「kitanoのアレ」で紹介されているのは、ポルノコミック規制の法制化を求める署名に参加した人たちです。まあ、自民党の偉い人たち(河村建夫とか町村信孝とか村田吉隆とか中山成彬とか森善朗とか)は予想通りですが(蛇足ですが、東北ブロックの自民党比例代表候補に関しては、表現規制推進で、知的財産政策を財界の立場だけから推進する高村派議員が多いから気をつけましょう!)、何で鳩山由紀夫(自民党)とか土井たか子(社民党)までいるんだ!!!

 所詮は、誰が政権についても所詮最強の政権維持装置は「若者論」なのでしょうか。結局は自分の「理解できない」ものに対する敵愾心を煽り立てることによって票を獲得し、ポピュリズム的な人気の下で規制を推し進める…、って、いつも言っていることですけれども、とりあえず言えることは、「今時の若者」を「消費」する社会構造が存在する限り、たとい若年層の投票率が上がったとしても、若年層を敵視するような政策が行なわれる行なわれないようになる(9月11日0時56分訂正)のは難しい。

 故に、このような考え方は、極めて楽観的に私には見えるのです。

 もじれの日々:フリーター・ニートは投票を(2)(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏曰く、

もちろん、フリーター・ニートを含む若者にとって、現在提示されている選択肢はいずれも満足のゆかないものだろう。政党政治という集団主義そのものへの拒否反応もあるだろう。しかし、それらについては何とか妥協してもらいたい。政治が若者やその中での経済的弱者にこびざるをえなくなるような流れを作り出すためには、まず彼らに「どっこらしょ、仕方ねえな」と動き出してもらうしかないのだ。

 果たしてそうなのでしょうか?本田氏は、結局のところ若年層の社会的な地位が向上しないのは、やはり若年層が主張しないからだ、といっているようにしか見えないのですが。しかしこれには異見があります。というのも、我が国にとって、もはや若年層は、既得権を持っている層(中高年)に比して、マスコミにとっても政治にとっても取るに足らない存在です。たとい若年層が投票行動に出ても、やはり若年層よりも数的に多い既得権層を向いた政策を採用したほうが票になるでしょう。

 私は、青少年に関わる問題の解決のためには、まず中高年層の意識を変えるべきだ、と考えております。現在の、中高年層を中心とする政治や言論の構造は、若年層を「理解できない他者」=「敵」と見なし、それに対する敵愾心を煽ることによって若年層を「消費」する、いわばカーニヴァル的な構造ですが、若者論という言論体系がそのようなカーニヴァル的な構造にどっぷりと浸かっている限り、若年層に対する手厚い政策は「甘え」と見なされてしまう、それがいかに適切であっても。それは新聞や雑誌におけるフリーターや若年無業者の記事を読めば明らかでしょう。これらの記事は(特に「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の巻頭特集の論調が典型的です。詳しくは「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」を参照されたし)書籍や研究で展開されている論調は、全てフリーターだろうが「ひきこもり」だろうが若年無業者だろうが全ては「甘え」であり、そいつらをたたき出さなければならない、という論調、あるいはそいつらは戦後民主主義の鬼子である、みたいな論調ばかり。かつての我が国が、国家的な一体感から「鬼畜米英」を叫んだのと同様、現在の我が国は「鬼畜青少年」と叫んでおります。山本七平氏がこの状況を見たら、さぞかし墓の中で身もだえするのは間違いなかろう。

 「今時の若者」が憎い権力者の皆様、だったら我が国、あるいは自分の自治体をニュージーランドに併合してみてはいかがですか?

 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:神奈川県ニュージーランド化計画(悪い意味で)
 松沢成文・神奈川県知事に朗報。神奈川県をニュージーランドと併合したら、これほどいいことがありますよ!

 ・ラグビーが盛ん(筆者注:松沢氏は個人的にラグビーが好きなので)
 ・『残虐ゲーム』や、直接的な描写がなくても『ロリエロ』とみなされたアニメは発禁処分

 でも、ニュージーランドにおける性犯罪の発生率は我が国に比して格段に高い。どういうわけだろう。

 こういう文章を読んでいると、近頃喧伝されている「安全神話の崩壊」なる神話が、特定の階層による凶悪犯罪の喧伝に過ぎないことがよくわかってきますね。特に少年犯罪に関して言うと、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降から少年犯罪の発生件数に比して報道の数のほうが多くなってしまった、ということも聞きますし(「潮」平成16年12月号)。社会の「現実」を冷静に見つめることのできる人は決して少なくないのですが、そのような人たちは学問の狭い領域でひっそりと書いているだけになってしまうのでしょうか。我が国の若者論という名のカーニヴァル、病理は極めて深し。

 千人印の歩行器:[時事編]赤であれ青であれみんなで渡れば怖い!(栗山光司氏)
 「みんなで渡れば怖い」、そういう感覚を大事にしていきたい。物事はできるだけ自分の判断で突き進んでいきたい。たといそれが「善行」であったとしても、暴走すれば直ちに「悪行」に転じてしまう恐れがある。この文章は、現在の政治状況・社会状況を考える上で、もっとも示唆に富んでいる文章であります。

 ところで、また新書の棚からきな臭い匂いがしてきました。中公新書ラクレから、『進化しすぎた日本人』なる本が最新刊として出ているのですが(ちなみに著者は「サル学の権威」だそうですよ…。出版事情から言って、正高信男の所論に反することはまず書けないだろうね)、帯にまたぞろ「ひきこもる若者」「子離れできない親」なんて書いてやがる。ふざけんな。

 オイコラ中公!おまえら、この2つを帯に書いた本はこれで何冊目だと思ってるんだよ!俺の知ってる限りでは、いずれも俺がトンデモ本と認定した、正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)と、矢幡洋『自分で決められない人たち』(中公新書ラクレ)の、少なくとも2冊の帯にこの文句が使われている(詳しくはbk1を。正高本に関してはこちら、矢幡本に関してはこちら)。そうゆう、「今時の若者」=「甘え」みたいな俗情に媚びた本ばかり出すのはいい加減にしろよ!

 とまあ怒ってしまったのですけれども、実は私はこの本をある程度立ち読みしたのですが、こと子育ての部分に関しては、生物学的に考えて現代の子育ては「異常」である、見たいな書き方を連ねていましたので、こういう言い方をさせてもらいました。特に社会学的な考え方に対する無知が痛かった。でもしっかりと読んだわけではないので、近いうちに読み込んでみます。

 そういえば、マガジンハウスの「ダ・ヴィンチ」という雑誌で見たのですが、精神科医の香山リカ氏も『いまどきの「常識」』という本を岩波新書の新刊として出すらしいです。これも少々注視しなければならない。香山氏は最近になって、例えば『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)に代表されるような心理学主義的な俗流若者論にも手を染めており、果たしてその路線を引き継ぐものになるのか、動向が注目されるところ。

 たとい自然科学や心理学の分野で優れた研究者が自分の専攻している学問でもって社会を「分析」しようとしても社会学的なセンスがなければ適切なバランス感覚を失って安易なアナロジー、更に言えばレイシズムに陥ってしまう。理系のものにとっての社会学というのは、自分の学問領域に閉じこもらないで社会との接点やバランスを確保していく上で貴重なものであると私は考えます。これは私が大学で学んでいる建築という分野が(土木もそうですけど)他の工学に比して社会学を支えにしなければならない分野が大きい、ということも関連しているかもしれません。

 保坂展人のどこどこ日記:劇場(バーチャル)から現実(リアル)へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]山本一太議員は公職選挙法違反か?(木村剛氏:エコノミスト)

 さて、総選挙が迫ってきました。しかし木村剛氏のブログを始め、ネットの一部で話題になっているのが選挙期間中におけるブログ更新の是非。一応、一般的な公職選挙法の解釈によれば、ウェブサイトやブログも公選法における「文書図画」に該当するようなのでいけないようなのですが…。インターネット時代だから、こういうことをきっちりと議論してもいいのではないかと思いますがね。

 とりあえず私の主張としては、ポスターで「政策」を売り込むためには、ポスターにウェブサイトのアドレスを掲載することに尽きると思います。でもそのためには、選挙期間中のウェブサイトでの政治行動が許されなければならないのですが。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]「オタクちゃんねる2」停止の件、その他
 kitanoのアレ:テレビ局上層部から民主党攻撃命令?
 とりあえず、マスコミやプロバイダに圧力をかけない限り維持できない、あるいはマスコミやプロバイダが媚びなければ維持できない政権党というのは、終わったな、と。

 選挙に際して、以下の文章を読んでおくことをお勧めします。
 「kitanoのアレ
 「FrontPage -Game and Politic-
 このブログから「各党マニフェストにおける青少年認識/対策

 さて、読者の皆様にお知らせですが、私は、今月11日の夜から16日の午前にかけて、東京と名古屋に行ってまいります。そのため、ブログの更新ができなくなります。ご了承ください。

 ただ、旅行期間中に、映画のマスコミ試写会に参加してきたり、あるいは万博を見てきたりと、いろいろ動きますので、何か思うところがあれば文章を書こうかと思います(ただし、17日から18日にかけて、親戚の結婚式に参加するため盛岡に行ってくるので、その期間中も更新できませんが)。

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2005年9月 9日 (金)

各党マニフェストにおける青少年認識/対策

sencub01  平成17年9月11日には、衆議院議員総選挙が行なわれる。ただ、この選挙に関して、与党はほとんど郵政民営化一本槍であり、野党は逆に与党に対する批判でもって票を集めようとしているので、選挙の争点のほとんどが「郵政民営化」になりつつある。しかし、各種世論調査を見ても分かるとおり、国民は選挙の争点を「郵政民営化」だと思っていないのが実情である。

 もっとも、そのような世論調査を見ていても、青少年問題が争点であると答える人はかなり少ない。しかし青少年問題対策もまた重要な政策の一つであり、争点に組み込まれるべきだろう。ただし、それも適切な認識に基づいて行われなければならないのであり、従ってマスコミで喧伝される如き扇情的な情報に基づいて行なわれてはいけないのである。

 というわけで、今回は、主要5政党(自民・公明・民主・社民・共産)マニフェストにおける青少年に対する認識と政策を、比較検証していきたい。

 なお、投票に行く前に、以下のサイト・ブログも読んでおくことを勧める。
 反ヲタク国会議員リスト
 kitanoのアレ
 カマヤンの虚業日記
 FrontPage -Game and Politic-
 選挙に行こう
 (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 このブログのエントリーから
 俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子
 俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘
 「後藤和智の若者報道用語集」から
 佐藤錬 南野知恵子 水島広子

 1、マニフェスト全体としての感想
 マニフェストを読んだ感想としては、まず民主党のマニフェストは、さすがにもっともマニフェスト政治を推進している政党だけあってか、細部まで作り込まれていた。冒頭に大まかな政策提言とスケジュールを表し、細かい政策を後半に盛り込み、具体的なプラン、すなわち何をするか、ということや、更に言えばどのような問題意識によって政策を構築しているか、ということについても書かれているので、批判・検証する側にとっても親切な設計になっている。

 次に面白かったのは公明党で、この党は今やほとんど自民党の傀儡政党になってしまった感があるが、少なくともマニフェストに関しては親分の自民党よりも作りこまれている。

 次は社民党か。基本的に自民・公明・民主の3党に比して社民党のマニフェストはきわめて薄い。ただ社民党に関しては、政策提言が全体を見通しているように見えるし、最後のページにおいて社民党は「もう一つの日本」を目指す、という提言をしている点では買える。

 共産党のマニフェストは、かなり作り込まれているとはいえ、あれでは「批判ばかりして対案を出していない」の領域を超えていないように思える。なお、共産党のマニフェストに関しては、インターネットの記述を用いている。

 自民党のマニフェストは、はっきり言ってデザインと見出しだけは大々的なのだけれども、中身ははっきり言って空疎。デザインばかりが先行して計画をおろそかにした建築物みたいだ。小泉政権の反映なのか。一番つまらない。

 2、少子化対策・子育て支援
 さて、ここからが本題である。1つ目は「少子化対策」「子育て支援」に着目してみたい。
 基本的にはこれに関しては、全ての政党が明記しているが、具体的に支援額などを書いているのは民主党と社民党と公明党。民主党は、月額16000円の「子ども手当」や、「出産時助成金」の設立、学童保育の充実化などを謳っている。社民党は、父親の産休制度の拡充や、18歳未満の子供に対して毎月支給される「子ども手当」の創設、及び一人親家庭への支援などを謳っている。特に一人親家庭への支援は社民党だけの主張である。公明党は「チャイルドファースト社会の構築」を重点政策の一つとして出し、児童手当の所得制限の緩和、出産育児一時金の値上げ、及び中小企業への育児休業支援を明示している(一人あたり100万円)。中小企業への育児休業支援は公明党のみの主張。

 自民党は、児童手当制度や子育て支援税制について触れてはいるけれども、具体的な数値目標を出して折らず、結局のところ威勢のいい言葉だけを振りかざしているだけ。地味な政策提言には目が向かない、これが小泉政権クオリティ?共産党も具体的な数字の提示はなし。

 それから、全ての政党が、「少子化は問題である」「少子化は子育て支援で解決できる」と考えているらしいが、子育て支援が少子化を解決するわけではないことは、信州大学助教授の赤川学氏が主張している通りだ(赤川学[2004])。また、少子化によって起こる問題を賞しか「対策」(=子育て支援)で解決すべき、という認識も、結局のところは人口増加社会を前提とした現在の社会保障制度などの焼き直しでしかないだろう。政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏などが主張している通り(松谷明彦[2004])、少子化を前提とした社会構築が求められている、という側面もあり、そのような主張をマニフェストに取り込んだ政党が、主要5政党の中では一つもない、というのが残念だった。

 3、教育
 もっとも明快なのがやはり民主党。民主党の主張としては、校長先生の公募制度の拡大、地域住民や保護者の参画を推進、総合学習との関わりで土曜授業・放課後授業の推進、スポーツ振興など。特にここで採り上げたものは全て民主党のみの主張であり、民主党が政権交代に意欲を持っていることがここからも窺える。ただし教育基本法には触れず。社民党も教育予算の対GDP比5%達成と、20人学級、教職員を30万人増やす、奨学金制度の拡充(これに関しては民主党も主張している)という公約を掲げているが、教育基本法には触れず。

 公明党は民主党の次に充実していた。主張としては体験学習の充実、奨学金の拡充、小学校における英語教育の必修化。特に英語教育に関しては公明党だけの主張。

 自民党は「義務教育の質的向上のための教育改革」を謳っているけれども、政策立案の点で民主党に及ばず。ただし教科書検定の必要性を検討していることだけは評価に値する。

 共産党は30人学級の推進、住民の意向を反映させる、といっているが、ほとんどが自民党の推進する教育基本法の改正や特定の歴史教科書に対する対抗を強めている。

 そして民主・社民以外の政党は、全て教育基本法に触れていた。自民党はやはり改正推進。記述に曰く《教育基本法を改正し、豊かな上層と道徳心にあふれ、正義と責任を重んじ、強度や国を愛する心や公共の精神が身につく教育を実現する》(自民党マニフェスト)。と。自民党にいわれたくないよなあ。逆に反対の立場を採っているのが当然共産党で、共産党は教育基本法の改正のみならず「日の丸」「君が代」の強制の反対、侵略を正当化する歴史教科書の反対の、愛国主義教育反対の3点セットを打ち出している。公明党は慎重派で、《基本法の基本理念は堅持》《「国を愛する心」を法律で規定することについては、戦前の反省を踏まえて慎重に検討する必要があります》(公明党マニフェスト)という記述が存在する。

 共産党のマニフェストで評価できるのは、性教育の重要性を訴えているところ。曰く、《青少年の間で性感染症や望まない妊娠がふえるなか、性教育は重要な課題です。自民党などによる「性教育=過激」攻撃には道理がありません。保護者と教育関係者が連携してていねいに性教育を進められるようにします》(共産党マニフェスト)と。安倍晋三氏を中心として自民党が推進している「ジェンダーフリー教育反対」「「過激な性教育」反対」をマニフェストに盛り込まなかった自民党のヘタレぶりと比較すれば、共産党には賛辞を送りたい。

 ただ、共産党が本当に子供のことを考えているかどうかについては少々留保すべき点もあるけれど…。これに関しては第5節で。

 4、若年無業者支援及びフリーター・非正規雇用者対策
 若年無業者(ニート)については全ての政党が記述。もっとも具体的なのはやはり民主党。民主党マニフェストには、失業・無行状態の若年に個人アドヴァイザーによるマンツーマンの就労支援、就労支援手当、及び若年無業者が集まることのできる場所の設立を主張している。また民主党は《全国の中学2年生に年間5日以上の就業体験学習を実施します》(民主党マニフェスト)と、東京大学助教授の玄田有史氏の主張に基づいたと思われる記述をしているけれども、これに関してはむしろ教育改革、総合学習の支援の文脈で行なわれるべき、というのが私の主張である。若年無業者の問題に関しては、民主党は若年無業者もまた社会階層の問題が絡んでいるという点に触れられていなかったのが痛いところだ(これに関しては、玄田有史[2005]、小杉礼子[2005]、宮本みち子[2005]を参照されたし)。

 自民党はフリーター25万人常用雇用化プラン、「若者の自立・挑戦のためのアクションプラン」の推進を掲げているが、具体的な数値目標はなし。公明党もこのプランの効率化を図る、という主張。蛇足だけれども公明党のマニフェストには《教育段階からの予防的対策に重点を図ります》(公明党マニフェスト)と書いているが、若年無業者が「予防」すべきものだ、という認識では若年無業者問題は解決できないと思う。

 若年無業者対策に隠れてか、フリーターはあまり政策に上っていないような気がする。ただしフリーター及び非正規雇用者と正社員の、企業福祉などの点における格差については自民・民主・共産が触れている。一番明快なのが共産党で、共産党は「パート・有期労働者均等待遇法」「派遣労働者保険法」の成立を主張し、均等待遇のルール、解雇の規制、サーヴィス残業の規制に取り組むなど、極めて意欲的。民主党は共産党にやや劣り、パート均等待遇実現のための「パート労働法改正案」や、失業・廃業からの再出発としての手当支給・職業訓練(これについては共産党も主張している)の主張にとどまっている。自民党は、《短期間正社員制度の導入推進、パートタイム労働者の待遇の改善、正社員への転換制度の普及・定着等、パートタイム労働政策を充実・強化する》(自民党マニフェスト)と書かれている程度。

 5、メディア規制
 「青少年の健全育成」を楯に取ったメディア規制を主張しているのは自民・民主・共産。特に力を入れて記述しているのはなぜか共産。曰く《政治の腐敗、大企業のモラルハザード、戦争正当化や暴力肯定の風潮、人間の性をおとしめる傾向などとたたかい、社会のモラルと道義を確立するために努力します》《児童買春や性の商品化では、国連子どもの権利委員会からきびしい勧告がだされています。メディアでの暴力や性の表現が、子どもに野放しになっています》(共産党マニフェスト)だとさ。自民党も「青少年健全育成の推進」を謳っている。右も左も俗流若者論で結託してしまう様を見ているようだ。民主党もまた、《書籍の区分陳列や放送時間帯の配慮などによって、普通に暮らす子どもたちが有害情報に触れないですむ環境をつくります》(民主党マニフェスト)などと書いている。どうやら自民・民主・共産の各党のマニフェスト起草者は、「有害」情報と「有害でない」情報を分けることができるとか、「有害」情報は等しく青少年を堕落せしめる、とでも考えているようだけれども、まずあんたらの青少年に対する認識を改めろよ。

 ただし、民主党に関しては、《情報のもつ意味を正しく理解し、活用できる能力(メディアリテラシー)を育むような教育》(民主党マニフェスト)を打ち出しており、この点に関しては賛同できる。更に民主党は、通信傍受法(盗聴法)、住民基本台帳ネットワーク、個人情報保護法の見直しを打ち出し、社民党もまた共謀罪の新設に反対するスタンスを明確にしている。

 蛇足だけれども、メディアがらみで言うならば、民主党は「テレビの字幕化の推進」を打ち出している点でユニークである。曰く、《聴覚に障がいのある方もテレビ放送を楽しみ、情報を確保できるようにするため、2009年度までに、技術的に可能なすべてのテレビ番組の字幕化を実現します》(民主党マニフェスト)と。

 6、治安
 治安に関して、少年犯罪への対処に触れているのは自民党のみ。曰く、《組織犯罪、サイバー犯罪、少年犯罪に対処する関連法整備を推進する》(自民党マニフェスト)と。少年犯罪よりも人口当たりの発生率の高い中高年犯罪は無視ですか。

 7、まとめ
 青少年問題に関する取り組みの視点から、もっともマニフェストで評価できるのは民主党である。従って、私は民主党に投票することを勧めるのだが、ただ民主党に関してはきな臭い動きも少なくなく、特に民主党右派で「日本会議」のような右派系政治団体に関わっている人や、民主党左派の一部のフェミニスト議員(特に水島広子氏と肥田美代子氏)はメディア規制を推進しているし、マニフェストにもメディア規制が盛り込まれている。民主党には自民党より過激なメディア規制論者も存在しているようなので、投票する際にはそのようなことを一定ないかを見極める必要がある。民主党は「子ども家庭省」の設立を主張しているけれども、この最高ポスト(大臣)に水島氏や肥田氏が就いてしまったらメディア規制への流れは止めにくくなるだろう。私の願望としては民主党と社民党の連立政権が望ましいと考えている。

 参考文献・資料
 赤川学[2004]
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な取り組み必要」=2005年4月16日付日本経済新聞

 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月

 「フリーターとは誰か」=「現代思想」2005年1月号特集、青土社

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2005年9月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月04日

 最初にお知らせ。「後藤和智の若者報道用語集」というブログを作成しました。簡単に言えば、このブログに出てくる用語を紹介したものです。最近では、例えば正高信男氏や森昭雄氏なんかを「かの曲学阿世の徒」と表現しておりますが、なぜそのような表現をするのか、ということを知らない人もいるのではないかと思いますし、このブログ全体の見取り図があったほうがいいと思うので開設しました。今はまだ正高信男氏に関する語句と「俗流若者論ケースファイル」の第1~3回に関する語句だけですが、どんどん充実させていくつもりです。

 では、ここからが本番。

 ひとみの日々:いぃーやっほう!(生天目仁美氏:声優)
 この掛け声って、「仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック」(文化放送:毎週水曜日25時~25時30分に放送)ですか。それはさておき、生天目氏の後ろにある看板が実に秀逸です。スピード違反を取り締まる看板なのですが…。

 交通違反 9000円
 佐渡するめ 500円

 要するに、お前が交通違反で支払った罰金で18個の佐渡するめが買えるんだぞ、とでも言いたいのでしょうかね。こういうユーモアに溢れた看板は好きです。しかもデザインもシンプルだし、私の周りにある種々の看板のようなけばけばしさが感じられない。世の中にこういうシンプルでユーモアに溢れた看板が多くなればいいのですが、やはり共同幻想(笑)として派手なものが受けるのだ、という傾向があるのでしょうか。でも、シンプルさだって一つの力ですよ。

 さて、今回のトラックバック雑記文は、「俺は騙されないぞ!シリーズ」でいこうかと思います。

 1、俺はオタクバッシングに騙されないぞ!
 保坂展人のどこどこ日記:オタクバッシングを考える その1その2(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:テレビ東京、会田我路の着衣の少女写真集を、「ヌード写真集」と偽って報道。(古鳥羽護氏)
 まず、保坂展人氏のブログを読んでください。大人の対応とはこういうことを言うのですね。我が国では自分が気に入らない=犯罪の温床=規制しろ!などという自称「識者」や政治家や知事が多すぎますけれども、そのような人のやる政治というのは結局のところ弱者たたき、あるいは強権政治にしかならない。

 しかし最近の政治の流れにはきな臭いものを感じずにはいられませんね。この手の政治家が行なっていることは、「ある一つの社会的な階層や集団に対する敵愾心を煽り、それらを「敵」「悪」と規定し「正義」としての自分を強調することによって、ポピュリズム的な人気を得る」という手法に要約されるでしょう。このような所業を行なって世界を破滅に導いた政治家を知ってますか?そう、ヒットラーですよね。

 こういう、政治を単なる自己実現の場としてしか考えない阿呆どもには、ぜひともマックス・ヴェーバーの名著『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)の以下のくだりを読んで欲しい。

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(105ページ)

 一点突破しか考えていない人には、こういう託宣は通用しないのでしょうね。

 マスコミも然りです。相手が「叩きやすい対象」であれば、捏造報道もありですか。これではテレビ東京は最近の朝日新聞の記事捏造事件を批判できませんよね。もっとも、このような所業を行なっているのはテレビ東京だけではありません。政治報道における捏造は即座に糾弾されるのに(これは全く正しい)、若者報道における捏造は全く糾弾されない。いつぞやかの「Yomiuri Weekly」で、渋谷では「家出少女の実態」みたいなテレビ報道を作らせるためにそこらを歩いている少女に「家出少女」をさせているのは日常茶飯事、というくだりを読んだことがありますが、若者報道というのは、まったくチェックが働かない場であるからこそ、捏造しても平気なのか。

 いいのかそれで。俺は騙されないぞ!

 2、俺はステレオタイプに騙されないぞ!

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):喪男の小説『裏・電車男』:都内女性の20万人がHIV感染者というデマ

 一説では、都内の女性の約20万人がエイズのキャリアだという話…。だが、俺は騙されないぞ!なぜなら、一次情報に全く触れられていないからです。

 このデマの泉源は「2ちゃんねる」だそうで。「kitanoのアレ」からの孫引きになりますが、

喪「で、親父の病院や他の知り合いの病院2~3ヶ所の話を聞くと、毎年とんでもないペースで増えてるそうなんだ。それも加速度がついてる位で。特に20代~10代の女が凄いらしい。今じゃ何と2割位居るんだってさ。自分はエイズじゃないかなんて心配を全然してない、他の病気で普通に診察に来てる女の2割がHIV感染者だ。しかもその増加率は年々上がっている。

もしこの割合を、単純にそのまま都内の病院全部に当てはめたら1万2万なんて人数では済まないそうだ。都内だけで10万とか20万とか…もちろん単純計算だから、実際の正確な所は解らないけど」

 というものだそうです。

 このようなデマは、「今時の女は誰とでも性行為をするくらい堕落してしまった」というようなステレオタイプのなせる業である、と考えて間違いないと思います。どうしてステレオタイプの前では無力化してしまう人が多いのでしょうかね。これは何もこのようなデマ宣伝に限った話ではなく、俗流若者論でも同じ事。要するに「「今時の若者」はゲームなどで殺人を日常的に「学習」しているから凶悪犯罪を簡単にしでかすようになっている」というのも、我々がマスコミによって信じ込まされているデマです。このような、現代の女性や若年層のデマに踊らされる人が増えることによって、誰が得するのか。結局は現代の女性や若年層に対して敵愾心を煽ることで利権や支持率を得ている人たちですね。俺は騙されないぞ!

 3、俺は争点をずらしたがる小泉純一郎に騙されないぞ!

 MIYADAI.com:【アゲておきます】民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)(宮台真司氏:社会学者)

 小泉首相は「郵政民営化」を連呼し、郵政民営化こそが改革を進める上での第一歩となる、と喧伝していますけれども、この人に「国家観」というものは果たしてあるのでしょうかね。いや、私は、何も「諸君!」の今月号の特集のようなことを言いたいのではなく、私はむしろ「国家観」よりも大きい「社会観」を問いたいのです。その点において、宮台氏のこの文章は必読だと思います。

 若者報道の研究家としての私が、特にプッシュしたい部分はこちら。

■でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。

■だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

■「バラマキはダメだから壊す」の小泉流は明瞭です。対する民主党が「壊し方の非合理性」を訴えるのは稚拙です。郵政法案がデタラメでも、デタラメな法案を武器に使って旧経世会を葬り去ったことを、国民が賞賛しているのですからね。小泉氏を倣って「削る」「縮小」を繰返すのも稚拙です。「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。

■「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。

 4、俺はこんな奴に騙されないぞ!
 bk1で、柳田邦男氏の『壊れる日本人』(新潮社)の書籍詳細ページにトラックバックされていた文章なのですが、いやあ笑えた。

 アール学派:退廃文化、絶好調!?

 いや、経済的なことを語っていることに関しては結構説得力があるのですけれども、こういうくだりを読んでいると、やっぱり俗流若者論ってのは自分こそは絶対に正しく犯罪もしないし「ひきこもり」にもならないんだぞーってはしゃいでる人たちの不満の捌け口でしかないんだよなあ、と改めて思ってしまいますよ。

 ニートチックな貧乏人は、なぜかケイタイが手離せませんね。

 「馬鹿とハサミは使いよう」ではなく、「お馬鹿な貧乏人は使いよう」ですね。

 でも、踊らされているのはあんたのほうですから!残念!!

 『ケータイを持ったサル』に群がるサル、斬り!!!

 しかもコメント欄がまた笑える。

 こないだ電車でずぶ濡れのケータイサル発見!
 どうやら、このサルはケータイは使えても傘を使う知能はなかったみたい。新たな発見なので今 秋あたりに、Journal of Mobile-phone Monky に投稿予定です!(>▽<)

 ……折りますよ?(結構前に、古本屋の立ち読みで、スクウェア・エニックスから発刊されている『ぱにぽに』という漫画の第3巻を読んで以来、この表現が結構気に入ってしまったなあ。ついでにこの『ぱにぽに』は「ぱにぽにだっしゅ!」としてアニメ化されているようです。私の地方ではテレビ東京が映らないのですが)

 ってゆうか、《Journal of Mobile-phone Monky》なんていうメディアがあるのか!ぜひとも俺に知らせてくれ!

 そもそもこの『ケータイを持ったサル』『壊れる日本人』って、現代日本のナショナリズムがいかに「愛国心」ではなく「若者論」であるか、ということを如実に示している本ですよ。詳しくは私の書いた検証記事を読んでください。正高信男氏関連はこちら。柳田氏に関してはこちら

 しかもこのブログときたら、皇學館大学助教授の森真一氏の名著『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』へのリンクまで貼ってある!この名著を読んだら、先の2冊を簡単に信ずることはできないと思うんだがなあ。これもネタなのか。

 5、俺はこんな奴らにも騙されないぞ!
 今春に遠山敦子氏が設立した「こころを育む総合フォーラム」の設立趣旨文を検証してみます。「俗流若者論ケースファイル」の71回目としてやろうと思ったのですが、まだ資料が不十分なのでやめます。

 趣旨分において、遠山氏はこういうことを書いています。

 戦後60年、日本の経済はめざましい発展をとげました。占領期から独立期にかけて、国内的に平和の状態が保たれたことが大きかったと思います。けれどもそのことでわれわれは、いつのまにかわれわれ自身の精神的な自立、および倫理的な生き方に十分の配慮をすることなく時の経過に身をまかせてしまったきらいがないではありません。そのために噴出しはじめた綻びが、今日わが国社会のいたるところにみられることは周知の通りです。

 家庭や教育現場における人間関係の乱れ、公的機関や企業における不祥事、そして心の凍りつくような残虐な事件の発生など、いずれも日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候ではないでしょうか。物質的な豊かさにともなう心の世界の空洞化が、危機的な様相を呈しているというほかはありません。

 だからさ、なんでこういう俗流若者論や俗流社会論で、《日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候》なんて安易に語っちゃうのかな。いずれにせよ、このフォーラムはしっかりと監視しておく必要がありそうです。

 検証になってないなあ。

 6、俺は統計にも騙されないぞ!
 「統計学の常識、やってTRY!第5回」を公開しました。読んでね。しかも「AERA」平成17年9月5日号の次号予告を見てたら、また香ばしい薫りが…。

 次号のアエラは●日本を再生するファンドを作った人たち●引き込もりをつくらない間取りの家

 さて、どんな記事ができ上がるのやら。しかも私は建築学科の学生ですから、更に気になるわけですよ。建築物としての家までもが俗流若者論に政治化されてしまうのか、って。

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