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2005年9月27日 (火)

三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 (前編はこちら、後編はこちら

 江戸の敵を長崎で討つ。

 桑を指して槐(えんじゅ)を罵る。

 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読んでいるとき、私の頭の中に常にこの2つの言葉が飛び交っていた。本書において、三浦氏は、若年層に関する統計データ(仲には信憑性の強く疑われるべきものも存在するが)を寄せ集めて、そこから飛躍して三浦氏の狭隘な道徳的基準に照らして若年層に対して罵詈雑言を浴びせている。本書における全ての言説は空疎極まりなく、また完全に空回りしているといっても過言ではない。この短期集中連載において、私は三浦氏は小さい根拠で大きく煽ることを得意としているのかもしれない、と書いたが、本書はその三浦氏の得意技が存分に現れている本だといってもいいだろう。

 本書は、タイトルにもあるとおり、一見すれば仕事を「したがらない」若年層に「仕事をしなければ、自分はみつからない。」と述べているような本に見える。しかし実際には、本書は若年層のほうを向いているのではなく、むしろ「今時の若者」に対して偏狭な認識しか抱いていない「善良な」人たちを向いている、しかも彼らの若年層に対する無知・偏見を高める方向に。本書においては、三浦氏はフリーターや若年無業者の問題を若年層の「気分」や「文化」という視点からアプローチしているのかもしれないが、実際には首都圏の一部の若年層に見られる「問題行動」の感情的な「分析」に基づいて若年層を不当にバッシングしている本だ。そもそも、本書における若年層の行動の分析ですら、その打倒性は極めて疑わしい。まさに、江戸の敵を長崎で討つ、桑を指して槐を罵る行為の産物であることは言うまでもない。

 三浦氏の「分析」がいかにデタラメか、ということを今回は強調したいため、本稿では収録されているいくつかの文章について、三浦氏の記述に基づいて逐語的に論証していきたいと思う。

 14~49ページ「フリーター世代の職業意識」
 そもそも「フリーター世代」というカテゴライズ自体問題はありやしないか?すなわちフリーターが若年層に対して歓迎をもって迎えられたのはバブル期であり、現在はむしろ職業選択の幅が狭いからフリーターにならざるを得ない、あるいはフリーターになるしかない人のほうが主流になりつつある。三浦氏はこの「フリーター世代」(おそらく私もその世代の中に入っているのだろう)の《のんびり派》(三浦展[2005a]、以下、断りがないなら同様)が昨今のフリーターの増加と密接に結びついていると説いているが、それはフリーター問題の一部かもしれないが全部では決してない。こういうカテゴライズをするから、三浦氏は夢を実現するためにフリーターをやっている人は許容するのか、といえば案外そうでもないようで、結局のところ若年層を叩きたいだけではないか、と思えてくる。

 余談で始まってしまったことをお詫びしたいが、25ページにおいて三浦市の暴走は始まるのだから興味深い。三浦氏は現代の若年層の向上心、及び上昇へのモチベーションが低下していることを参照して、以下のように言い出す。曰く、《のんびり派で、その日暮らし派の真性団塊ジュニア世代が、フリーターを選択するのは当然だ。せっせと就職活動をするわけはないし、就職するとしても、気楽な仕事を選ぶだろう。そして気に入らないことがあれば、すぐに辞めるに違いない。勤労意欲が低下していることは間違いない》と。「間違いない」を連発するのは長井秀和氏だけでよろしい。少なくとも三浦氏の提示したデータと三浦氏のこの結論の間には極めて広く深い溝が横たわっている。《当然だ》《選ぶだろう》《辞めるに違いない》等と、三浦氏の勝手な思い込みに基づく断定が続くこの文章を、まともな論文として評価するのは普通の論文の読み手であれば毛嫌いして当然だろう。また三浦氏は、26ページにおいて、サラリーマンを「サラリー」という女子高生(いわゆる「コギャル」である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)「さんまのSUPERからくりTV」で出てきて驚いた)を引いて《幾らなんでもサラリーマンをサラリーと呼ぶことはないだろと私は思った。彼女たちにとって、サラリーマンはマン(人間)ではないのだ》と仰々しく驚いて見せるけれども、面倒くさいから省略しただけではないのか、ということは三浦氏は思いつかないらしい。三浦氏にとって、全ての道は「若年層の劣化」に通ず。

 ここで三浦氏の発明した概念《真性団塊ジュニア世代》について説明及び検証をさせていただく。三浦氏は、この世代を《75年(筆者注:1975年)から79年に生まれた子どもは、団塊世代の父親が46.7%に倍増する。両親とも団塊世代は23.1%、父親が団塊で母親がその下の世代……は22.1%いる》ことからそのように読んでいるのだが、三浦氏がこの直前で述べている通り、第2次ベビーブーム世代だって母親が団塊なのは47.5%いる。この《真性団塊ジュニア世代》の定義付けでは母親が除外されているので、分析としてはフェアとはいえない。ただし、これより先は便宜の為に三浦氏の定義を受け入れることとする。

 三浦氏は31ページにおいて《夢のために何もしないフリーターも、セックスはする。おかげで最近同棲が流行っているらしい》と欠くけれども、根拠を開示していない。あまつさえ三浦氏ときたら32ページにおいて《経済のない結婚なんてあるのか?もちろん親の家があるからフリーターどうしでも結婚できるのだ。パラサイト同棲である》などと暴言を言い放つ。そんな暴言を言い放つ前に、あなたもシンクタンクの研究員なら調査しなさい。しかも同じページから33ページにかけて、所謂「できちゃった結婚」の増加さえも以下のように「分析」してしまう(33ページ)。根拠のない不安を煽り特定の社会階層に敵愾心を煽るポピュリストとは三浦氏のことを言うのだろう。

 このように、一昔前の価値観からすれば、なんだかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく同棲して、なんとなく子どもができて、じゃあ、という感じで入籍するというパターンが増えているのだろう。

 しかしそういう行動様式は、近代化以前の農民と似ているような気もする。独立心や将来の希望ももてずただ現状の中で停滞している。中流社会の固定化の中で、価値観の農民化が進んでいると言えないこともない。

 明らかに百姓を差別しているこの文章。農村は劣っていて都市は素晴らしいという妄信。まさに三浦氏は都市型新保守主義者の名を冠せられるに相応しい。そもそもこの三浦氏の「分析」を裏付ける資料を三浦氏は開示していない。三浦氏の主観的な判断でしかないのである。

 37ページから49ページに至っては、見ている私が恥ずかしくなるくらいの悪文である。要するに、三浦氏の単なる矮小な経験談から、現代の若年フリーター、更には若年層全体がいかに堕落しているか、ということを「立証」してしまうのだけれども、よくもここまで狭い経験を若年層全体に広げることができるものだ。この程度で若年層を「分析」したと言い張ることのできる三浦氏は掛け値なしで素晴らしい。おそらく俗流若者論の書き手として求められているのはこういう人であろう。

 三浦氏の文章では、《このように》、まともな社会学の《価値観からすれば、なんかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく》自分の身辺の事例を拾って、《なんとなく》妄想を膨らまして、《じゃあ、という感じで》不安と不信感と敵愾心を煽るという《パターンが増えているのだろう》。

 《しかしそういった行動様式は》、ナチス・ドイツ期のヒットラーと《似ているような気もする》。既存の不安や不信に乗じて《ただ現状の中で》何も変えようとせず不安ばかり煽る。若年層に対するイメージの《固定化の中で》、三浦氏の《価値観の》俗流保守主義化が《進んでいると言えなくもない》。

 114~123ページ「都市が居間になる。」
 基本的にこの文章は、おそらく三浦氏がふらふらと出かけて、都内(渋谷と吉祥寺と高円寺あたり)でたまたま目にした若年層の「問題行動」に単にけちをつけているだけの文章である。はっきりいってこの文章に問題意識というものはない。

 若年層が劣った存在であるかのごときネーミングはこの部分で頻出する。例えば118ページでは《ここ3、4年、歩きながらものを食べる人々を多く見かけるようになった。それはあたかも「ジベタリアンの直立猿人化」、つまり四速歩行から二足歩行への進化の過程をみているかのようである》と、また120ページでは《写真14は、吉祥寺の朝の八時頃。パチンコ屋の開店を待っている人の列を撮ったものである。それぞれ寝ころんだり、本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、携帯電話をいじっている人など、思い思いの時間を過ごしている。まるで路上が居間になったかのようであるが、動物園の猿山のようにも見える》と(一瞬正高信男の文章かと思った)、更にこの直後では早稲田大学の《校舎の中の床で寝ている学生》についても述べているが、この一人の行動から三浦氏の捻出する結論は《こういうモラルの低下が、スーパーフリーのようなレイプサークルを生む土壌になっているのだと思った》と。立てよ早大生!このような理不尽なるレッテルを貼り付ける俗流マーケッターに、諸君らは直ちに反論すべきである!

 私が早大を受けて落ちたことがあるからか、ついつい煽ってしまった。だからといって三浦氏の罪が消えるわけではない。123ページ、これも正高信男の文章と勘違いしてしまった。曰く、《発達した文明は携帯電話をつくり出し、街中にあるコンビニからは二十四時間自由に好きな食べ物を選べる都市環境を生み出した。それはまるで南洋の楽園のようである。そして人は食べ名が荒歩き、歩きながら絵文字という象形文字でメールをするようになった。歩き食べと象形文字。まるで旧石器時代である。文明の進化が人間を旧石器時代に引き戻したのだろうか》と。少なくとも三浦氏は俗情という文明の利器(笑)によって、第二次世界大戦時代のナチス党員に引き戻されたのはいうまでもないだろう。

 124~133ページ「コンビニ文明」
 この文章は、三浦氏はやたらと現在問題化されていることをコンビニに結び付けたがる。例えば三浦氏はコンビニが晩婚化を引き起こしているという。127ページに曰く、

 新人類世代は晩婚化が進んだ世代でもあるが、晩婚化のひとつの背景には、コンビニの普及と二十四時間化があると私は思っている。一人暮らしでも、コンビニがあればいつでも食べ物を手に入れることができるようになったからだ。

 昔なら、深夜に家に帰った男たちは、奥さんにお茶漬けを作ってもらいたいと思っただろう。だから早く結婚したいと思った。しかしコンビニの二十四時間化により、男たちは夜遊びの後でも気軽に食べ物を買えるようになった。一人で食べるのは寂しいかもしれないが、とにかく食べ物にはありつけたし、コンビニの食べ物はどんどんおいしくなっていった。その文、結婚したいと思う気持ちは減ったのではなかろうか。

 男性から見た結婚の条件が女性の料理のうまさなんて、「AERA」の記事でも見たことがない。そもそもこのようなアナロジーが許されるのであれば、男性の料理のスキルが上がっても晩婚化が進むはずなのだが。そもそもこの文章は、男性にはまともな生活力がない、だから女性と結婚することによって男性は生活力を補完する、しかしコンビニができたから生活力を結婚によって生活力を補完する必要が無くなった、だから晩婚化が進むのだ、といっているようだが、これでは男性も女性も両方差別していることにならないか。すなわち男性は生活力が過度に貶められている。女性は男性に奉仕する存在としてしか見られていない。三浦氏の差別意識がここでも透けて見える。

 また三浦氏は131ページから133ページにかけて、米国の映画「ゾンビ」を引き合いに出す。その映画においてはゾンビ(生き返った死体)は生きているときにいつもそこに来ていたから死んでも郊外のショッピングモールに本能として行く、と説明される。しかし三浦氏がその直後に我が国の現状に向ける視線は極めて残酷だ。曰く、三浦氏は、《まだショッピングモールやコンビニがコミュニティだというところまでは来ていないが、あと十年もすればそういう感覚が一般化するだろう》(133ページ)といい、その後、この文章の結びとして、以下のように言う。

 消費者を本能で行動させる。これはマーケティングの常道だ。消費社会は人間を本能だけで動く動物にしようとしている。

 いずれ、死んでも夜中にコンビニに行くゾンビが日本でも増えるだろう。

 だったら、三浦氏こそ人間をゾンビ化させる張本人といわざるを得ないだろう。何故なら三浦氏はバブル期にはパルコの雑誌の編集者として消費社会を先導してきたからだ。そもそも三浦氏は、他の著書の著者略歴において(三浦展[2005b]。これがまたすさまじく恥ずかしい著者略歴だ)、三浦氏はパルコで働いていたときに、現代の宗教は消費である、としてパルコのマーケティング雑誌の編集に邁進していた、と紹介されている。三浦氏はこのような自らの行為についてどのように落とし前をつけるのか?

 134~149ページ「歩き食べの研究」
 唯一、真面目に調査したと思わせる記事だが、サンプル数は134ページに述べられている通り《年齢は15歳から29歳、内訳は15~19歳が37人、20~24歳が41人、25~29歳が5人》だという。しかも首都圏だけ、地方は無視。仙台在住の私は疎外。とりあえずここから有効な結論を引き出すのはきわめて難しい、といっておく。

 174~195ページ「『週刊自分自身』――若者と新聞」
 東北大学助教授の五十嵐太郎氏と、東北大学工学部建築学科3年の同級生1人と会食していたとき、私は月に一度は読売新聞と朝日新聞を1か月分通読する、と発言したとき、五十嵐氏とその同級生が驚いていたことがある。また、私は基本的に必要な情報は新聞とインターネットから入手しているし、平成17年9月11日~16日の東京・名古屋の長期旅行中でも、新聞を読まなければ落ち着かなかった。だからコンビニで、東京にいるときは東京新聞を、名古屋にいるときは中日新聞を買って読んだ。しかし新聞は電車の中では読まず、駅や万博のベンチやホテルの中で読んだ。電車の中で読むのは他人の迷惑になると考えたからだ。

 それはさておき、三浦氏はこの文章で若年層が新聞を読まないこと、更には本を読まないことを問題化する。しかし三浦氏の若年層の行動の「超訳」(跳躍?)はすさまじい。何がすさまじいかというと、現代の若年層にとって《感覚的にどうもこれは嫌だと思うのは何かと訊きますと、電車で新聞を読むことなのです。「あんな満員電車のなかで新聞を広げて読んでいるなんて信じられない」と言う》(176~177ページ)ということに触れて、三浦氏は《電車のなかで化粧をしたり物を食べたりしている人間、これはわれわれの世代から見れば、何ともはしたない、迷惑だと思うのですが、逆に彼らから見ると、食べるのは仕方がない、新聞読むのは邪魔くさいと思っているようです。かくのごとく世代の価値観の差は大きいのです》(177ページ)と語ってしまっている。そもそもこの前の部分で、三浦氏がアルバイトで使っている学生の、新聞を取らない理由として「ゴミが出ること」(176ページ)を挙げて、それを《ゴミとは失礼ですよね》とイチャモンをつけているのだが、若年層を散々ゴミ扱いしてきた三浦氏の言うことか。しかも三浦氏は、新聞を中流家庭の消費財と規定している。消費財ということはやがてはゴミになるということだな、三浦氏よ。若年層が新聞をゴミにしたらそれを問題にして、普通の中流家庭が新聞をゴミにしたら問題にならない、ということか。

 しかも190ページにおいて、若年層が新聞を読まないことについて《みんな豊かですから、非常に現状維持志向が強いのです。不況だなんだと言われてもほとんど上昇志向がありません。だから「新聞を読むと上昇できるよ」といっても、買いません》と述べている。新聞を読んだら本当に上昇できるのか、という私の疑問は三浦氏にとっては皆無なようだ。どの新聞も、特に若者報道に関しては全て同じような切り口で報道を行い、最近では捏造や虚報や不祥事まで起こしている新聞を読んで上昇できるのか。朝日新聞は捏造をしでかした。日経新聞は不祥事を起こした。毎日と読売は「ゲーム脳」を大々的に支持するほか、少年犯罪に関してはかなりひどい社説をよく書く。産経は右派政治家と右派論壇人の機関紙といっても過言ではない。こういう新聞を読んで上昇できるのか。

 194ページ、ここでやっと表題の《週刊自分自身》が出てくる。三浦氏によると、これは携帯電話のメールの事を指しているという。三浦氏曰く、

 若者が携帯のメールで何をそんなに通信しているのかと言うと、ほとんどは友達とメールの交換をしているわけです。つまり、その携帯メールのなかで行なわれていることは、自分専用の週刊誌をつくっているようなものだということで、私は携帯メールで交わされている情報を『週刊自分自身』と名づけてみました。

 つまり、もう電車の中吊り広告の『週刊女性自身』も見ないわけです。タレントのだれが何したということすら関心がない。さっき別れたばかりの友達とメールして、今何をしているのとか、知り合いの太郎と花子が別れたとか、くっついたとか、そんなことばかりやり取りしているわけです。それは自分だけの週刊誌をつくっているようなものなわけです。だから『週刊自分自身』であると思ったわけです。

 だったら友達と交わす私信や交換日記も《週刊自分自身》となるのだな、三浦氏よ。要するに三浦氏は思い込みと偏見だけで語っているに過ぎないのである。そもそも携帯電話のメールに《自分だけの週刊誌をつくっているようなもの》という比喩はかなり無理があるのだと思うのだが。だったらなぜ日記ばかりのブログに触れようとしない?いや、見方によっては、若者論や社会に関する論評を欠き続けて公開している私のブログも《週刊自分自身》と言うこともできるかもしれない(その点では、エコノミストの木村剛氏のブログのタイトルが「週刊!木村剛」となっているのは象徴的だろう)。携帯電話でのやり取りが極めて私的になることは、例えば社会学者の宮台真司氏によってポケベルの時代から指摘されており(宮台真司[2000])、宮台氏はポケベルに関して女子高生の「仲間意識」を検証している。携帯電話に関しては、同様の指摘を横浜市立大学助教授の中西新太郎氏や(中西新太郎[2004])、皇學館大学助教授の森真一氏(森真一[2005])、関西大学助教授の辻大介氏(辻大介[2005]。ついでに言うとこの辻氏の論文は正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)に対する批判として書かれている)などが行なっている。三浦氏の分析では有効な結論を出すのは難しいように思える。

 最後に一つだけ言っておく。それは、現在の我が国の新聞配達というシステムこそが我が国における新聞の購読率の高さに極めて協力に結びついており、新聞社の既得権となっているといっても過言ではない状況であり、このようなことは外国にはほとんど見られないという。日本の新聞のシステムを絶対視して、新聞を読まない、あるいはコンビニで購読する若年層を「異常」と見なす行為が、いかに配達制度という牙城に触れていないか、ということを三浦氏は理解すべきだろう。

 今回は三浦氏の文章の中でも、特に問題の多い部分を検証してきたわけだが、それにしても本書における三浦氏の造語センスは非凡である。ただし、確かに量やインパクトの点においては西川りゅうじん氏が飛んで逃げるほどだが、その言葉に秘められたレイシズムや差別感覚は、むしろ石原慎太郎氏が飛んで逃げるほどである。それほど三浦氏の若年層に対する蔑視的な感情はすさまじいのである。

 このような三浦氏の態度は、結局のところこの短期集中連載の前編でも明らかにした、三浦氏の都市型新保守主義的な思想、すなわち上昇志向を持たない奴はみんな劣った奴である、という差別意識のなせる業ではないかと思っている。このような本の著者が、帯にあるような《若者カルチャー研究家》として規定されるとすれば、それほど若年層という存在が軽く、あるいは蔑まれて見られている証拠となるだろう。

 ついでにもし三浦氏がこの文章を読んで反論できないとすれば、三浦氏に私の論文を批判する隙を与えてみようと思う。私はこの文章を、ポータブルMP3プレーヤーで、声優の田村ゆかり氏や野川さくら氏などの楽曲を聞きながら執筆した。また、この文章を書いているときに、何度か台所にいって水を汲んで飲んだ。要するに私も、《ウォークマンなどの携帯音楽機器とコンビニが携帯空間願望の実現をますます可能にする。腹が減ったら二十四時間いつでも食べ物が手にはいる。音楽も二十四時間いつでも聴ける。喫茶店に入らなくても、街に座り込めば、そこが自分の快適な部屋になる。そう感じる若者》(156ページ)の一人でしかなかったのだ(深夜にコンビニに出かけたり、あるいは地面に座ったりしたことはないけれども)。

 参考文献・資料
 辻大介[2005]
 辻大介「ケータイ・コミュニケーションと「公/私」の変容」=日本放送協会放送文化研究所(編)『放送メディア研究3』丸善、2005年6月
 中西新太郎[2004]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 三浦展[2005a]
 三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 三浦展[2005b]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年4月
 宮台真司[2000]
 宮台真司『世紀末の作法』角川文庫、2000年3月
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・3)都市の個性と市民生活』岩波書店、2005年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』講談社学術文庫、1988年5月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 伊藤隆太郎「新リーズナブル主義 ~ワタシの中の「消費の二極化」~」=「AERA」2003年11月24日号、朝日新聞社
 藤生明「早稲田再生はあるか」=「AERA」2004年7月14日号、朝日新聞社

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コメント

長文お疲れ様でした。 彼の本は読んでいませんが、おっしゃる意味は何となくわかるような気がします。 学生で、これだけきちんと反論していれば立派です。

三浦展さんは、マーケッターというより、マーケッターの顔をした、単なるオヤジエッセイストということで有名ですからねぇ。
若いヒトが理解できずに不安になっているオヤジ連中のハートをつかむのがうまいんですよねぇ。 ちょっとした若者に関する知識と、オヤジの価値観をくすぐる言説で、何も知らないオヤジをがっちり確保です。

だから、役所系には受けがいいんですよ、でも、バリバリの民間マーケティング会社からは相手にされていません。

アクロス時代も、バブル後期に踊った時期の編集長ですから、中身はいまいちでした。 この時期の売上増加を誇るのは、内情を知っているヒトから見れば、かなり格好悪いことだと思う。 

お怒りになる気持ちはよくわかりますが、あまり相手にしない方が良いですよ。 
業界では、単なる御用学者という認識です。

投稿: unique_critique | 2005年9月27日 (火) 21時53分

>昔なら、深夜に家に帰った男たちは、奥さんにお茶漬けを作って
>もらいたいと思っただろう。だから早く結婚したいと思った。

ぶはははは! なんじゃこの理屈は。今どき男だって、お茶漬けぐらい自分で作りますよーだ。

投稿: Dang-Dang | 2005年10月 6日 (木) 01時29分

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