三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~
短期集中連載「三浦展研究」を実施します。この連載では、最近精力的に執筆活動を行なっている、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の諸著作に対する批判的検証を行ないます。検証する本は、前編が『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)、中編が『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)、後編が『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)です。
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岩手県盛岡市、東北自動車道盛岡インターチェンジの近くに、大釜という地区がある。この地区は、ここ10年ほどで大きく様変わりしてしまった。というのも、およそ10年前はあまり建物がない地域だったのだが、久しぶりに大釜を通ったのでその様子を見てみると、一つの商業地域として変貌してしまっている。そしてその中心には、ジャスコが建っている。
また、東京に出かけた際、東北新幹線の窓から見える、福島、郡山、宇都宮などといった郊外の都市の風景は、ほとんど変わり映えするものはなかった。ほとんどの都市が均質な風景を映し出し、少なくとも私が見聞した限りではどこに行ってもほとんど同様の光景が広がっている。
しかし、このような都市の均質化が、青少年の「心」の荒廃をもたらし、少年犯罪の温床になっているといわれたら、若者論を研究している立場からしてみると、納得するどころかむしろ首を傾げてしまう。民間シンクタンク研究員の三浦展氏は、昨今マスコミをにぎわせている「理解できない」少年犯罪が、全て東京や大阪といった大都市ではなく、むしろ中小規模の都市で起こっていることに着目し、郊外化が少年犯罪を触発する、といった「理論」を構築した。その「成果」としての本が、平成16年9月に出版された三浦氏の著書、『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)である。
まず本書全体の感想を述べるとすれば、本書は重大な問題提起を行なっているにもかかわらず、著者である三浦氏が青少年問題にこだわりすぎるあまり、また青少年に対して偏狭な認識しか持っていないばかりに、本書は単なるトンデモ本――すなわち、著者の意図したところとはまた別のところで楽しむべき本になってしまっているのである。
はっきり言うが、本書において、都市計画論的なことが述べられている部分は、建築学科の学生としてみればそこそこ役に立つ。本書で唯一収穫があるとすれば第7章の189ページから215ページで、ここではこれからの都市計画に関していかなる思想で行なわれるべきか、ということが展開されている。これが現実を無視した机上の空論ということもできるけれども、少なくとも思想としては間違った方向ではないと思える。
しかしそれ以外の部分では、著者の青少年に対する蔑視的な感情があからさまに見えてくるのである。具体的に言えば、地域コミュニティと大都市の安易な礼賛と、ことさら現代の青少年、特に郊外に住んでいるものを「異常」とレッテルを貼りたがること。
第7章(209ページ)においても、三浦氏は、《ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そう言えば、ことの異常さが分かるだろうか》(三浦展[2004]、以下、断りがないなら同様)といったことを述べている。三浦氏が、郊外で育った子供たちをただ「異常」とみなしたいという感情がここでも見て取れるだろう。
さて、本書のキーワードとなる《ファスト風土》とは何か。三浦氏は、27ページで、以下のように述べている。
本来、日本の地方には、城下町など固有の歴史を持った美しい年が多数存在していた。都市の周辺には農村が広がり、やはりその地域の固有の自然と歴史の中で過ごしていた。しかし、過去20年に起きた交通網の整備と総郊外化の波は、そうした地域固有の歴史的風土を徹底的に崩壊させた。歴史的な街並を持つ地方の都市中心部はモータリゼーションに対応できず衰退し、田園地帯にショッピングセンターができた農村部もまた、それまであった生活を激変させ、コミュニティを衰退させた。日本中の地方が二重の意味で衰退し、画一化し、均質化し、「マクドナルド化」し、固有の地域性とは無縁の、全国一律の「ファスト風土」が生まれたのだ!
《ファスト風土》の定義については、三浦氏の説明に従うほかないだろう。しかしここで苦言を述べさせてもらうと、三浦氏は「マクドナルド化」のことを都市の均質化と説明しているようだが、この概念は自助マニュアルによる社会の合理化を指す(森真一[2000]を参照されたし。ついでに言うと三浦氏は28ページで「マクドナルド化」の正しい説明を行なっている)。語感が自分の問題意識と合っているからといって、用語を誤用しないで頂きたい。しかしこのような批判は蛇足であろう。
本書で展開されている論旨は、そのような三浦氏言うところの《ファスト風土》が、青少年を荒廃させるというものなのだが、はっきり言って著者の経験論に基づく牽強付会ばかりが展開される。更にこの著者ときたら、少年犯罪と《ファスト風土》の関係性が証明された!としきりにはしゃいでおり、私からすれば痛快というよりもむしろ痛い。
まず三浦氏の少年犯罪に関する認識の誤謬を指摘しておきたい。三浦氏は16ページにおいて、刑法犯の認知件数が増加している、と説く。しかしここ数年の刑法犯の認知件数の増加が、警察の方針転換と深く関わっている、ということを指摘しなければならないだろう。具体的に言えば、警察は、ここ最近になって、これまで握り潰してきた被害届けを素直に受理するようになったり、警察官の増員などで犯罪の摘発に力を入れるようになったりしたことで、それまで暗数であった犯罪が統計に表面化するようになった。三浦氏は19ページにおいて検挙率の低下を単純に犯罪の増加と捉えているようだけれども、これも警察機能の限界という視点で説明できる。三浦氏が少年犯罪の「凶悪化」の理由として、東京都の青少年政策のブレーンとなっている首都大学東京の都市教養学部長・社会科学研究科長の前田雅英氏の『少年犯罪』(東京大学出版会)を挙げている限り、この手の少年犯罪凶悪化論を三浦氏は疑っていない、ということがいえるだろう。
さて、ここから三浦氏の主張の中心、すなわち《ファスト風土》が少年犯罪を誘発する、ということについて検証を行なっていきたい。第2章は「道路整備が犯罪を助長する」というタイトルで、内容もまたこの言葉でまとめることができる。三浦氏は34ページにおいて、平成15年に起こった長崎県長崎市の12歳の少年による小児殺害事件に触発されて長崎と佐賀に行ったことが報告されている。しかしここで三浦氏が行なったことといったら、せいぜいタクシーで2・3の郊外の団地を回った程度である。その程度でフィールドワークと呼べるか。三浦氏は43ページにおいて「はなわ」こと塙尚輝氏の曲にイチャモンをつけるけれども、その前にやることがあるだろう。なぜ三浦氏は現地の人に対して聞き取り調査を行わないのか。あるいはなぜ三浦氏は何日か長い時間をかけてフィールドワークをしないのか。結局のところ、この「調査」は、「「あの事件」を起こした場所は郊外だった!」ということを書きたいが為に行なった、つまり「為にする」調査なのである。
第3章「ジャスコ文明と流動化する地域社会」は、三浦氏が、郊外の犯罪の近くにはジャスコがある!ということを仰々しく「発見」してみせる、という内容。この著者が、「「あの事件」を起こした場所の近くにジャスコがあった!」と仰々しくはしゃいでみる様は、見ていて滑稽を通り越して痛いくらいだ。そんなにジャスコが嫌いなら、なぜジャスコのない場所に三浦氏が問題視するような犯罪が「ない」のか比較してみてはどうか。実際問題、三浦氏も認めている通り、ジャスコは郊外の結構多くの街に(泉区にあるジャスコ南中山店は徒歩圏内だし、少し原付を飛ばせば利府店や多賀城店にもいける。多賀城店はもうすぐ閉店するようだが)あり、郊外の事件を少し探せばジャスコに当たる、というのはかなり必然性があるような気がするのだが。そういう状況下にあって、ジャスコ(とそれがもたらすらしい地域コミュニティの崩壊)を唯一の原因として鬼の首を取った如く問題化するのは極めて問題の多い態度であろう。そもそもなぜジャスコが「ない」場所の犯罪が問題化されないのか?三浦氏の態度は至極アンフェアである。
笑ったのは、70ページから72ページの「佐世保事件とジャスコの関係」について述べた文章。三浦氏は平成16年12月の佐世保の女子児童殺害事件について、母親がジャスコで働いていることを問題化している。三浦氏は99ページにおいて、この事件の犯人の父親についても《乳は病後のためにあまり仕事ができず、母はジャスコで働いていた。ゴールデンウイークもどこにもいけず、それどころか少女は朝一人でパンを食べていたという》ことを問題化しているのだが、これをもってジャスコが悪いのだ、というのはあまりにも早計であろう。
三浦氏は佐世保から少し伸ばして大塔に行って、そこにジャスコシティがあることや、大塔駅周辺の状況を踏まえて《典型的なファスト風土的風景である》(71ページ)と言っているが、ことこの事件に関しては、ジャスコよりも行くべきところがあった気がしてならない。
ちなみに作家の重松清氏は、この事件の犯人の住んでいた場所について、この犯人の通っていた《大久保小学校からさらに山を登ったところにある。学校まではバスで10分以上》(重松清[2004])という場所であると報告している。ちなみに大久保小学校は佐世保の中心市街地を見渡せる位置にあるという。また、重松氏は、この犯人の行動圏の狭さにも着目しており、《朝夕の通学時間帯でさえ、1時間に1本》(重松清[2004])ということを問題に挙げていた。三浦氏が問題化する大塔のジャスコシティは佐世保駅から2駅行ったところにあるため、この犯人の行動圏には当てはまらないだろう。もとより三浦氏は佐世保の事件について語っているのになぜか大塔に行ってしまっている。佐賀のバスジャック事件の犯人に関して《受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい》(46ページ)と簡単に切り捨ててしまっている三浦氏だ、佐世保の事件の犯人がバスケットボールクラブを辞めさせられて受験勉強に邁進するように差し向けられてしまった、という報告にも《そんなことはどうでもよい》と処理してしまうのだろう。
しかし三浦氏はなぜここまでジャスコを敵視するのか。それにはしっかりとした理由があり、その理由が述べられているのが第5章「消費天国になった地方」である。要は地方にジャスコができて、地方が《消費天国》になったことが三浦氏は気に食わないらしい。三浦氏のその意識が特に表れているのは136ページから137ページにかけてのこのくだりであろう。
2004年に公開された『下妻物語』という映画では、ジャスコがパロディ化されて登場する。いや、パロディではなく現実そのものの戯画化といったほうが正しい。舞台は北関東、茨城県の下妻市。東京まで服を買いに行くという主人公の女性に向かって、八百屋は言う。
「わざわざ東京まで買物に行かんくても、ジャスコがあっぺ。下妻のジャスコは東京のパルコよりでっかいぞ。ジャスコには何でもあっぺ」
たしかにジャスコには何でもある。最新のファッションも、世界中の食品も、高級ブランドもある。……いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている。そこにさえ行けば、ほかのどこにも行かずにすむようにできている。たとえ東京でさえも。
その意味で、ジャスコは街である。しかも24時間、365日、全館エアコンが利いた人口の街である。これこそが人類の発明だと言いたげだ。事実、私が見た太田市のジャスコには、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機を模した物が天井からぶら下げられていた。ショッピングセンターは人類の発明だといいたいのであろうか?
ここまで妄想を展開できるのも素晴らしい。三浦氏は全てのジャスコが《24時間、365日、全館エアコンが利いた》であるかの如く書いているけれども、私の近所のジャスコ南中山店は24時間営業なのは食品売り場だけである。しかも三浦氏は《いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている》と書いているが、それも店舗の立地によるのではないか?
また三浦氏は各種家計調査を用いて、地方が東京よりも消費社会化していることを問題視している。しかしこの調査において、一貫して無視されているのは年収と昼間の人口である。そこを無視して《消費はこれまで都市から地方に波及した。あるいは、より所得の高い人から低い人に波及した》(146ページ)と述べられては、根拠を失っているといわざるを得ない。三浦氏は、147ページにおいて、地方で生まれたコジマ電機(宇都宮)、ヤマダ電機(前橋)、ユニクロ(山口)、ダイソーと洋服の青山(広島)といった地方で生まれた企業や商店のスタイルが全国に波及することを問題化する。しかし資本主義社会においては、より人々の消費者心理を掴むスタイルが全国に波及するのは必然だと思われるのだが。東京だけが正義ではない。
あまつさえ三浦氏ときたら、153ページにおいて《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の事例を引いて《「消費しかできない」子どもたちが育っているのだ!》(155ページ)などとはしゃいでいるけれども、この女子大生の状況のほうが特殊なのではないか?
それにしてもどうして三浦氏は地方の消費社会化をここまで露骨に嘆くことができるのだろう?身の回りに何でもそろっていて、欲しいものがすぐに消費できるのであれば、東京こそが危ないといわなければならないはずなのだが。また、三浦氏は、現代の社会が脱工業化に向かっていること、そしてそれに対応した地域経済の再生策が問われていることも触れない。東京大学教授の神野直彦氏が述べている通り、情報を動かすことによって技術移転が成功すれば不必要な人間や物品の移動を抑制することができ、情報化による知識社会の創造こそ在宅勤務が進んで職住一体の地域経済を実現することができる、という見方もできる(神野直彦[2002])。しかし三浦氏はただ地方が消費社会化することをしきりに攻撃するだけだ。一体三浦氏のこの態度はどこから生まれているのであろう?
これはあくまでも推測なのだが、三浦氏が元々パルコの発行する雑誌の編集部で働いていたことが少なからず影響しているのではないかと思う。言うまでもなく、パルコはバブル期の都市における消費ブームを煽った商店の一つであるが、おそらく三浦氏はポストバブル時代の消費の主導権を、大都市住民をターゲットにしたパルコから農村型消費社会を実現させたジャスコに奪われたことに対して苛立ちを持っているのではないか。そう考えれば三浦氏がしきりにジャスコを敵視するのも分かるような気がする。もちろんこのような考え方は一つの邪推でしかないのだが、少なくともこのようなことは言える、三浦氏は素朴なコミュニティ主義に浸かっており、そのような素朴なコミュニティを大規模小売店や学校(三浦氏が学校というファクターを完全に無視していることを我々は忘れてはならない)に引き裂かれた状態を異常としか捉えることができないことから三浦氏の牽強付会は始まっているのかもしれない。
三浦氏の現代の若年層に対する認識がどこから来ているかということに関しては、第6章「階層化の波と地方の衰退」の以下のくだりを読めば分かる。
昔の若者に内発的にやる気があったわけではない。30年前まで、地方の若者にはまだ東京に集団就職をしなければならない者がいた。地方の男たちは冬に出稼ぎをしなければならぬ者がいた。そういう貧しさが外圧となって人々にやる気を起こさせていただけだ。
外圧が、つまり貧しさが解消されればやる気はいらない。こうして、いま地方の若者に生じている意欲の低下、向上心の低下が起こっているように思える。(169ページ)
しかし三浦氏のこのような物言いに欠けているのは、人口は既に減少を始めており、また世界史的に見ても成長一辺倒の経済は限界を告げられていることである。三浦氏は人々を寄り上へ上へと突き動かす《外圧》が必要である、と考えている節があるが、そのようなただひたすら「成長」を目指すイデオロギーは、確かに終戦直後のまだまだ貧しい時期には必要だったかもしれないが、やがてそのようなイデオロギーは現在になって深刻な環境問題と都市型貧困層の増加を引き起こした。環境問題やフリーター問題は、そのような次元で捉えられるべきものであるが、それはさておき、「成長の限界」が指摘される現在は、そのような「成長」に代わる新たな概念が提示されることであろう。
三浦氏の最大の価値観は「都市型消費」であろう。要するに、三浦氏は、都市が(パルコを中心として!)消費の享楽を味わうことができればいいのであって、地方が消費の享楽を味わうのは問題であり、犯罪を引き起こす、と考えている節がある。都市で消費することはかまわないが、地方で消費するのは駄目だ、という三浦氏の発想は、153ページから155ページにおける《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の発言を引用していることでも分かるし、本書において一貫して都市が消費社会化することを問題と見なしていないことでも分かる。本書で納得してしまう人がいれば、かなりの確率でその人は都市型新保守主義者と見なすことができるかもしれない。
蛇足だけれども、三浦氏の青少年に関する認識の偏狭さも第6章でよく見られる。例えば、
これも従来的なイメージだが、体験というと東京の子どもには欠如していて、地方の子どもにはたくさんあると考えられがちだ。だが、地方でも近年都市開発が盛んに行なわれているので必ずしも自然がそのままの姿で残っているわけではないし、過疎地の子どもですら木登りはできなくなって久しい。むしろ、彼らも暇な時間はテレビゲームにハマっている。(169ページ)
三浦氏はこの文章の直前において、《体験》をかなり幅広く捉えられていたのに対し、なぜかこの段落においては「自然の体験」に矮小化されている。
おそらく、子どもは自分の家とジャスコの位置関係を把握していない。いえとジャスコは恬として存在するだけで、それらが線や面としてつなぎあわされていない。つまり、自分がお菓子や消しゴムを買うという行為はたんなる消費行為であり、地域と結び付けられていないのだ。
これで地域への愛着が育つのだろうか。自立心が育つだろうか。挨拶の仕方、コミュニケーションの仕方を自然に学べるだろうか。はなはだ疑問である。地方で連れ去り事件などを起こす若者が、無職でひきこもり気味だったりするのを新聞で見ても、やはり地方でコミュニケーション力のない若者が増えているのではないかと懸念される。
たんに無職というだけでなく、毎日、家にこもってテレビゲームか何かをしているだけの若者だったりする。そういう若者は都会に多いというイメージがあったが、いまは日本中にいるし、どんな田舎にもいる。下手をすると田舎のほう多いかもしれないのだ。(172ページ)
ここまで俗論を平然と述べることのできる三浦氏はすごい。私もここまで根拠のない断定ができるようになりたいものだ。もちろん皮肉だけれど。
Jリーグもあって、ジャスコもあって、アウトレットもある。そういう生活に地方の人は満足している。自分の力を試しに東京に出たいという若者は減っていく。東京には買物とレジャーにたまに出かけるだけでよい。ディズニーランドと丸ビルと六本木ヒルズとお台場、それらはすべて地方からの客でもっている。そうした地方人は、豊で平和な日本の象徴だ。しかし、それは他方では、目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを観て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしているだけの、たいへん視野の狭い消費人間にも見える。(183ページ)
このような暴論をたやすく述べている三浦氏に、青少年問題を語って欲しくない。しかし三浦氏は少ない根拠で大きく煽ることを得意としているようだ。
だが、それは明らかにポピュリズムの兆候であり、都市型新保守主義の暗部を如実に表している。三浦展という都市型新保守主義のもっともヴィヴィッドな語り手から我々が学ぶべきは、多数の人が少なくとも最小限の幸福を得ることのできる社会の構築にとって、このような単なるポピュリストこそが障害となることかもしれない。
参考文献・資料
重松清[2004]
重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
神野直彦[2002]
神野直彦『地域再生の経済学』中公新書、2002年9月
三浦展[2004]
三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
森真一[2000]
森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『岩波講座・都市の再生を考える』1~7巻、2004年12月~2005年7月、岩波書店
笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
望田幸男、広田照幸(編)『実業社会の教育社会史』昭和堂、2004年10月
安藤忠雄「「美しい大阪」をつくる」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
神田順「まちづくり 建築基準法見直しが先決」=2005年5月11日付朝日新聞
野田一夫「低い仙台の都市機能 納得できる街創ろう」=2003年10月12日付河北新報
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コメント
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あいかわらず、するどいキレあじ、感服いたした次第です。トンデモ本の どこに着目するか、なにを くみとるかは、当然読者次第ですが、後日、コメントをかねた「ジャスコ化」社会の 3をかく予定です。
ちなみに、三浦氏がもちあげる、吉祥寺などの近郊都市の まちなみ構造をどう評価するか、「シャッター街」化する地方都市の再生をどうかんがえるか、都市計画論的な観点から、ご意見いただければ、さいわいです。おひまなときなど、ないでしょうが。
投稿: ハラナ・タカマサ | 2005年9月26日 (月) 06時35分
URLまちがえていました。
投稿: ハラナ・タカマサ | 2005年9月26日 (月) 06時37分
おもしろいエントリーでした。
はずかしながら、まだ三浦さんの本を読んでいません。
ただ、こちらのエントローを見ただけでは、三浦さんの東京中心主義はそうとうのもののようですね。
東京に行くだけが人生じゃないし、田舎の人間が、近所にジャスコができたことでこれまでとは違った東京流のしゃれた服を着たり、いまどきのグルメに日常的にアクセスできたりするのはそれほどいけないことなんでしょうか?
この議論は、まるで江戸時代の農民を礼賛しながらその生活向上を叩いた儒者の話と論理的に同型ですね。ドナルド・キーンの「果てしなく美しい日本」(講談社文庫)にあげられている例ですが、「例えば、ある地域の農民たちが茶を愛飲するようになったと聞いて怒り心頭に達したのは、農民の尊厳を説いて止まなかった当の儒者たちだった。支配者は裕福な農民を疑いの目で見ていたばかりか、彼らにますます重い税を課すことが多かった。」(同書154P)
今日の儒者にあたる知識人は、地方の人間が、東京発のファッションや音楽にジャスコを通じてアクセスするのを気に病んでいるのでしょうか?
じっさい、近所にジャスコができた地の人の話だと、日曜日に家族や友人とドライブがてら、大きな店に買い物に行くのは半分レジャー感覚で楽しんでいるみたいです。ただし、地域商店街の崩壊も問題で、どうしたらいいのか分からないといった風でした。
それから、今京阪神圏に住んでいますが、近所のジャスコは、駅前から歩いていける中型の店舗もあれば、電車とバスを一本づつのりつげば数十分で到着できる大型の店もあります。
営業時間は夜は8時までで、24時間オープンではありません。ひとつのデータとして記しておきます。
投稿: ワタリ | 2005年9月26日 (月) 20時54分
「ジャスコ化」社会の続編かくといいながら、かけていませんで、おはずかしいかぎりです。
よしもとさんの異論についてですが、三浦さん、都市中心主義で、しかも、わかもの/地方/オンナコドモは、あそんでおる、という、はなはだオヤジ的偏見のつよい人物であることは、あきらかです。かれがもちいる統計データ全部がデタラメではありませんが、かなりあやしげな処理がまじっていることも事実。
ただし、新自由主義に分類するのは、少々、いきすぎでしょう。新自由主義者は、地方の衰退をなげいたりしませんし、ジャスコのようなハゲタカ資本の無節操さというか、資本の高速移動を、よしとはしません。かれが、地方に対してきつくあたるのは、地方出身者だからであって、ねじれた愛情の表現です。そのヘン、石原都知事などとは、全然異質だということは、ふまえて分析おねがいします。
あと、拙稿でもかいたとおり、シャッター商店街の続出といった、「郊外化」問題は、さしてまちがって指摘でないはずです。そのヘンまで全否定するなら、やはり、やりすぎですね。このサイトが、俗流若者論批判の空間だから、それ以外はいっさいあつかわないという方針なら、一貫してはいますが。
投稿: ハラナ・タカマサ | 2005年10月 6日 (木) 20時45分
「かまやつ女」であれこれ検索していてこちらに辿り着きました。(笑)
非常に切れ味の鋭い検証で、読んでいて痛快でした。
しかしこのおっさん、やってることはジャスコへの遠回しな営業妨害じゃないですか?
ジャスコのお偉いさん(オカダさんでもいいや!?)、訴えてほしいですね(笑)
これからもちょくちょく読ませていただきます。
投稿: T | 2005年11月11日 (金) 15時37分
通りすがりで拝読させていただきました。
題材とされている三浦氏の著書が、いってみれば突っ込まれどころ満載の「弱いところだらけ」ということは、少なからぬ読者の方が恐らく感じているところであり、
また著者本人もある意味それを覚悟して書かれているものではないかと感じます。
(この題材を、本格的に論じたければ、新書では書き下ろさないでしょうから・・・)
とすればなぜ著者があえてこのテーマを著書としてものしたか、を考えると、やはり「問題提起すべき」ということを著者自身が強く感じたテーマである、ということではないでしょうか。
その意味で、この書は、「弱さを責める」性格のもの、というよりも、著者の問題提起をきっかけとして、そこからいかに発展させるべきか(問題に対する反論なのか、問題をより精緻に捉えるべきものなのか・・・etc.)、という書と捉えるのがよいのではないか、と感じます。
後藤さんのコメントを拝読しましたが、残念ながら、この書をベースに、より建設的な議論に展開させよう、という視点でのコメント部分が少なかったように思います。
「なぜジャスコを批判的に捉えたのか」(→仙台近辺で捉えるにしても、元々(パルコと同じく)西武資本だった「The Mall 長町」との異同性や、一番町近辺の賑わいとの対比でジャスコを捉えると、後藤さんオリジナルの違った見方が提示できたのではないでしょうか?)ほか、
後藤さんが建設的に言説を打ち立てられる部分は多々あるはずです。。。(またそのことによって、後藤さんご自身のスケールもより大きくなるはずかと・・・)
批判は解決への第一歩ともいえましょうから、ぜひ建設的な言説へのステップとしての批判眼を、このブログでも引き続き展開いただけるよう心がけていただければ・・・との思いでコメントを残させて頂きます。
投稿: Chuck_UGOne | 2006年3月 5日 (日) 17時00分