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2005年10月22日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月22日

 トラックバック:「kitanoのアレ」/「成城トランスカレッジ!」/「カマヤンの虚業日記」/本田由紀/古鳥羽護/「フリーターが語る渡り奉公人事情」/保坂展人/茅原実里
 忙しくて更新する暇がないよ…。

 kitanoのアレ:ジェンダーフリーとは/暴走する国会/憲法調査会報告書
 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLUMN-:ageまショー。
 カマヤンの虚業日記:「霊感詐欺する権利」なんか存在しない

 グーグルで「ジェンダーフリー」を検索すると、自民党のプロジェクトだとか(統一教会の機関紙である)「世界日報」の記事とかが上のほうにヒットしてしまうそうです。で、それらの記事は、徒に「ジェンダーフリー」を危険視したり、あるいは陰謀論まで持ち出して的はずれの批判をしたり、というものが多いようです。私はこの手の言説を、産経新聞社の月刊誌「正論」でよく読むのですが、こういう言説を展開する人たちの歴史観を疑いたくなりますね。結局のところ「自分が理解できない奴らが増えたのは自分が判定している政治勢力の陰謀だ!!」って言いたいだけでしょ。こういう人たちは、酒場でのさばらせておく分には害はないのですが、実際の政治に関わっているのだから無視できない。

 そこで「成城トランスカレッジ!」の管理人が発足したプロジェクトが「ジェンダーフリーとは」というウェブサイトです。このサイトは、「ジェンダーフリー」に関する論点や、それの批判に対する反駁、また混同されることの多い「男女平等」と「ジェンダーフリー」の違いなどを説明した優れたサイトです。

 しかし、「kitanoのアレ」に貼られている、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)のバナー広告を一部改変した広告が面白い。何せ《まさかと思う訴えが父母から寄せられています。自民党は責任を持って性感染症を増やします》ですからね。ただこのようなパロディは正当性があります。というのも、性感染症など、性行為にまつわる疫病・感染症を予防するためには、適切な処置をとらなければならない。従って、それに関する知識も必要になる。ところが自民党の推し進めている性教育とは、「性行為は害悪だ」「性行為はするな」の一点張りのようです。

 社会学者の宮台真司氏が、数ヶ月前の「サイゾー」で、宮崎哲弥氏との連載対談において、「「過激な性教育」が問題だというが、それで初交年齢が上昇したり、性感染症が阻止できたら問題はないのではないか」といっていた記憶がありますが、こういう認識に照らし合わせて自民党のプロジェクトを考えてみると、「たとえ自分たちが望む結果になったとしても(社会的問題が解決されたとしても)、自分の望む手段で解決されなければ嫌だ」ということになるのでしょうか。

 これに関してもう一つ。

 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLOMN-:名コンビ。
 この「反ジェンダーフリー」の旗手である、高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」現会長の八木秀次氏と、「つくる会」初代会長の西尾幹二氏の対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)が書店に並んだとき、私は軽く読んでもうこの手の議論には付き合いたくないや、と思ったのですが、こんなに面白い俗流若者論の本だったとは。あとで読んでみようかなあ。

 ついでに、私のブログでも八木秀次氏に関して言及したことがありますので、参考までに。

 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 さらにこの「つくる会」や、自民党の右派系の国会議員が推し進めている教育基本法改正について言うと、東京大学助教授の広田照幸氏が最近『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本で、その「改正」について批判的に検証しております。お勧め。

 まだまだ教育の話。

 もじれの日々:記事群(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏が引いている調査について。

*「幼児の就寝時間早まる 積み木・泥遊び増/「遊び相手は母親」8割 首都圏対象のベネッセ調査」
 これはたぶん、ハイパー・メリトクラシー(「人間力」みたいなもん重視)下における家庭教育指南言説の蔓延の影響だ(近刊拙著第1章・第5章参照)。それにしても平日に一緒に遊ぶ人が、「きょうだい」「友達」が10年間に10%減った代わりに「母親」が55%から81%まで急増しているのはすごい。子供の「人間力」(私の言葉では「ポスト近代型能力」)育成エージェントとしての重圧を母親=女性が一身に引き受け、「パーフェクト・マザー」責任を果たそうとしているのだ。しんどいことだ。

 本田氏のコメントは、至極正鵠を衝いているものだと思います。青少年問題をめぐる言説については、どうも最近になっても依然として「本人の責任」「親の責任」を強調するのが多い。こういう「責任」、特に「親の責任」を強調するものについては、過剰に親に求めすぎるようになり、親が社会的な支援、第三者による支援を受けるチャンスを奪ってしまう。

 最近は「健全な規制の下に健全な精神が育つ」みたいな意見がはびこっていますからね。子供が「健全」に育つためには、国家や親によって適切に「指導」されなければならない、と。若年無業者対策にしても、最近なぜか強調されるのは職業能力ではなく「適切な職業観」ですからね。精神こそが大事である、という考え方には一理あるとは思いますが、それが行き過ぎると過度の教育主義にならざるを得ない。

 ついでに言うと、本田氏の言うところの《「パーフェクト・マザー」責任》については、広田照幸氏が分かりやすくまとめておりますが(広田『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)、最近は「「パーフェクト・ファザー」責任」みたいなものも出てきているようで怖い(例えば「父親の育児参加」議論の一部とか)。

 もう少し教育の話を。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月13日「どうやってゲームを規制するのか?」と、中立性を欠いたNHKの報道(古鳥羽護氏)
 この手の報道にはもう飽き飽きしました。マスコミは、早く最近のメディア規制論が政策的判断ではなく「「世間」の身勝手」「為政者の身勝手」によって推し進められていることを理解したほうがいい。

 明日の宮城県知事選挙にも、松沢“ゲーム規制”成文氏と中田“行動規制”宏氏が推薦を表明している人が出馬しているからなあ(ちなみに新仙台市長の梅原克彦氏はこの人を推薦しております)。対抗馬は現在の浅野史郎知事の路線を継承、そのほか片山善博氏なども推薦し、民主党と社民党の推薦を受ける人。ただ、浅野知事もどうやらゲーム規制には前向きのようで、いくら民主党と社民党が推薦しているとはいえ注視しなければならない。あとは共産党推薦の人。共産党もメディア規制に関しては怪しいところが多いからなあ。今回は投票はあまり乗り気ではない。まあ行きますけどね。一応私は民主党(もう少し詳しく言えば民主党左派、あるいはメディア規制反対派)支持だし(ただ党幹部に枝野幸男氏が入らなかったのが残念だけど)。

 あと、このエントリーで気になったのがコメント。ちなみにこのコメントは「フリーターが語る渡り奉公人事情」の管理人によるもの。

上の世代のなかでメデイア・リテラシーの低い人たちは、ひきこもりとニートとフリーターの区別もつかずに勝手に人をバケモノにしたてあげ、取り乱したり、攻撃したり、他人の権利を不当に制限したがったりしています。若者の自立を支援する団体のなかには、大学生の不登校まで治療の対象とみなすところもあるくらいです。

わたしが、以前マスコミ報道にかつがれて連絡した団体も、大学生不登校とフリーターと引きこもりとニートの区別もつかないまま、いまどきの若者全般が反社会的で未熟でだらしないとの前提にたって、道徳的な説教をしていました。なんと、それらは反革命だという政治的弾圧さえしていました。

 で、この書き手自身のブログにおけるエントリーが次のとおり。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:反革命ばんざい!
 このブログの管理人が間違って参加してしまったあるセクトについての話なのですが、この文章を読んでいる限り、少なくともこのセクトは運動によって社会を変革することを目的としている、というよりも運動が自己目的化している、と言ったほうがいいでしょう。要するに、仲間と一緒につるんで運動することによって「感動」を得ることこそが究極の目的である、と。この団体に関して、重要なのはむしろ「感情を共有できる人」であり「共同幻想」である。この団体が、「ひきこもり」の人たちを過剰に排撃するのは「共同幻想」を共有できないから、ということで説明できるのではないでしょうか。

 それにしても、この「共同幻想」論、もう少し論理の展開の余地があるような気がするなあ。例えばつい最近短期集中連載という形で批判した民間コンサルタントの三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)や『下流社会』(光文社新書)の問題点もこれで説明できるような気がする。要するに、三浦氏の理想とする「高額のものを消費するための自己実現(としての就労)」みたいな流れにそぐわない人はみんな「下流」とか「かまやつ女」みたいに罵倒されてしまう、という感じ。

 ついでにフリーターや若年無業問題に関わる本の書評ですが、最近忙しいので、11月中ごろになってしまう予定です。一応、前回(10月12日)からの進行状況は次のとおり。

 読了し、書評も脱稿したもの:丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社
 読了したが書評を書いていないもの:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎、澤井繁男『「ニートな子」を持つ親へ贈る本』PHP研究所

 あと、予定していた、小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証ももう少し遅れます。最近だと、「週刊文春」などで「ゲーム脳」の宣伝に努めている、ジャーナリストの草薙厚子氏が『子どもを壊す家』(文春新書)という新刊を出したそうで。こちらもチェックしておく必要がありそうです。

 保坂展人のどこどこ日記:止まれ、共謀罪(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[宣伝]「『不健全』でなにが悪い! 心の東京『反革命』」
 どうも最近、きな臭いことが多いなあ(共謀罪とか、メディア規制とか)。「心の東京「反革命」」に関しては、米沢嘉博氏(コミックマーケット準備会代表、漫画評論家)と長岡義幸氏(ジャーナリスト)が発言するそうなので、参加したいのですが、いかんせん金がない。私は仙台在住なので。

 こんなときは、河原みたいなどこか人気の少ないところに行って夕陽でも眺めながら何も考えずに座っていたい。

 minorhythm:どこまでも…(茅原実里氏:声優)
 《あまりにも綺麗で、ほんの少しだけ切なくなって…ほんの少しだけ優しい気持ちになって。》とは茅原氏の言葉。こういう感動を味わうことのできる場所があればいいのですが、最近の青少年政策を見ていると、青少年からこういう場所を奪ってしまうのだろうなあと憂鬱になる。家庭も親と青少年言説による監視の眼が日々強くなっている。青少年言説の支配する社会とは、子供から全ての逃げ場を奪い「適切な」監視の下で「適切な」道徳が育っているかのごとき幻想を「善良な」大人たちに抱かせるものに他ならないのです。で、少年犯罪やら何やらが起こると「まだまだ監視が足りない!」と言い出す。今のままの青少年政策はループです。

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2005年10月12日 (水)

トラックバック雑記文・05年10月12日

 今回のトラックバック:木村剛/ハラナ・タカマサ/古鳥羽護/田中秀臣

 さて、どうしたものか…

 週刊!木村剛:セロトニンと食生活と希望格差社会(木村剛氏:エコノミスト)

 このような文章が引かれていました。

 身体と精神(こころ)は切り離して考えていいものでもない。体の調子が良くない、何らかの病気に罹っているのに、楽しい気分を持続していられる人はまずいない、と言ってもいいだろう。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いになって、それで気分がどうも優れないっていう症状も、セロトニン不足、つまり生理現象であり、基本的に「心理的な抑圧云々・・」などの話とは関係がない。「こころが全て脳のはたらきに依るものだ」なんてことは言わないが、自分のこころ・精神状態に脳内の神経伝達物質が関係しているのは事実であり、その神経伝達物質の量に影響を与えるのは普段摂取している飲食物であり薬である。(重度な精神障害には遺伝もかなり関係しているようだが)勿論、対人関係も含めた周囲の環境も影響を与えている訳だが、こころの不具合をこころの問題としてだけ捉えるのはやはり宜しくない。

 このような考え方に木村氏は難色を示しているのですが、木村氏とはまた違った考え方からこのロジックを批判してみると、このような決定論・還元論はともすればレイシズム(人種差別)となりかねない。そもそもこのような考え方に依って立てば、元々脳に「有害である」食べ物を摂取していたりとか、あるいは行動をとっている人は、おしなべて犯罪者にならなければならないはずです。しかし現実には、我が国において少年が凶悪犯罪を起こす割合は減少している。

 このようなロジックの問題点は、現実に見える範囲で言うと、いつの間にか原因と結果が逆転して、結果から「原因」を特定できるかの如き錯角に陥ってしまう。日大の森昭雄教授などはその典型ですね。何か「問題」が起こると、その人がゲーマーであるか否かに関わらずすぐに「ゲーム脳」と断定されてしまう。要するに、「「今時の若者」はゲームばかりやっているから、脳に問題が起きていても仕方ないんだ」という論理が先行してしまい、実証がないがしろにされてしまうわけです。

 最近「俗流若者論ケースファイル73・別当律子」という文章を公開したのですが、これで検証した記事も、実証ではなくむしろステレオタイプが先行している。

 ちなみに、「タカマサのきまぐれ時評」(ハラナ・タカマサ氏)でも、「食育イデオロギー1」という記事が公開されており、この分野について考える上では必読といえるものに仕上がっています。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月2日、バンキシャ!「ニート合宿密着80日間の記録」を報道する(古鳥羽護氏)
 田中秀臣の「ノーガード経済論戦」:玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録)(田中秀臣氏:エコノミスト)

 田中秀臣氏は、ここで採り上げた文章で玄田有史氏を批判しておりますが、田中氏は、旧来の「対策」、すなわち課税によって教育や労働へのインセンティブを高めたり、あるいは就職相談所の強化では若年無業の問題は解決できない、と述べております。実に見事な批判だと思います。

 玄田氏が若年無業の問題を提起したことは問題であるとは思いません。しかし問題なのは、源田氏の提起したこの問題を、さも若年層を「叩いていい」メッセージであると種々の論者が「誤読」し、結局のところ「ひきこもり」「フリーター」と同じように若年層を叩くための「記号」と化してしまった。その点で玄田氏を責めることはできませんが、責められるべきはそのような「誤読」を種々の理由をつけて正当化した人たちです。

 その点では、「ニート」言説を取り扱うときでも、まず「ひきこもり」「フリーター」、及びその底流として存在している「自立できない若者」イメージを常に意識しなければならない。私はこのたび、「ニート」言説に関する研究を行なっているのですが、もう少し育児書などの分野にも手を広げてみる必要があるのではないか、と考えております。

 蛇足ですが、平成17年5月19日付朝日新聞で紹介されて、最近何かと話題となっている、鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』(三笠書房)を読んだのですが、どうもこの本はフリーターになる割合の高い社会階層の人たちを軽視しているのではないか、と思えてなりませんでした。というのも、この著者がフリーターも若年無業の問題も、教育で解決できる、と信じ込んでいる節がある(すなわち、教育が歪んでいるからこそフリーターと若年無業者が生まれていると思い込んでいる)からです。しかし、小杉礼子氏とか本田由紀氏などが説明している通り、フリーターになる割合の高い社会階層の人たちは同時に若年無業者になる割合も高い。この期に及んで精神論や短視眼的な教育論を振りかざしている人たちは、もう少し企業や雇用、あるいは職業斡旋システムとしての学校の機能をもう少し見て欲しい。

 あと、フリーターや若年無業に関わる本ですが、前回(10月1日)から進展したのは次のとおり。
 読了し、書評も脱稿したもの:小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 読了したが書評を書いていないもの:鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』三笠書房/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書

 読書がらみでは「2005年7~9月の1冊」もよろしく。

 最後に…。

 先月末に、短期集中連載という形で、民間コンサルタント代表の三浦展氏の著書を3回にわたって批判したのですが、そのコメント欄における、私への批判に対する反論を書いておきます。

 まず、私の三浦氏への批判において、結局のところここ最近の諸著作を通じて三浦氏が何をしたかったのか、何を言いたかったのか、ということが伝えられなかったのであれば、それは私の責任です。まずその点について触れさせていただくと、三浦氏の語っている「格差社会」とは、「上昇志向格差社会」、言い換えれば(山田昌弘氏とは別の意味での)「希望格差社会」と言えるのではないかと思います。検証した3冊(『ファスト風土化する日本』『仕事をしなければ、自分はみつからない。』『「かまやつ女」の時代』)に加え、『団塊の世代を総括する』(牧野出版)と『下流社会』(光文社新書)、更に今月の「中央公論」の論文を読んでみると、『ファスト風土化する日本』を除けば「上昇志向を失い、「自分らしさ」なるものに拘泥する「今時の若者」」が問題化されているのが分かりますし、『ファスト風土化する日本』では、三浦氏が「地方のジャスコで農村型の消費文化を享受し、東京を遊ぶ場所としてしか考えない「今時の若者」」を、ところどころで問題化しているのが見て取れます。すなわち、三浦氏は上昇志向こそが社会を活性化させるものであり、それを失った人たちは頽廃的である、と考えている節がありそうです。

 三浦氏は「上昇志向を失った」人たちを批判し、例えば「お前の考えは単なる「楽ちん主義」でしかないからとっとと就職しろ」などといったことを言いますけれども(『「かまやつ女」の時代』/これはあくまでも要旨です)、だからといって上昇志向を持って大企業に就職した人も、いつ失業してフリーターになるかわからない。端的に言えば、三浦氏は「上昇志向を失った」人たちに対してはリスクばかり強調しますが、そうでない人たちに対してはリスクをほとんど無視している。また、社会の問題を個人の上昇志向の問題としてすりかえる傾向が、三浦氏は高い。

 以上が三浦氏の最近の著作に対する私の疑問です。この問題に関しては、後に稿を改めて書くつもりです(11月末頃になる予定です)。

 さて、件のコメントを全文引用してみましょう。

レスがないようなので、一方的な意見表明となりますが。

こちらのサイトを一貫するテーマは「若者バッシングへの反撃」ということらしいですが、全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます。後藤さんの文章からは、「若者の代表」たる(なのか?)後藤さんと、次々と現れては切り捨てられてゆく論者たちの姿しか見えないんですね。

大人が「今ドキの若者」について論じる場合、こう言っちゃなんですが、後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者は「対象」に入ってないんです。これはもう暗黙の了解と言ってもいい。対象を「世代」で括るという乱暴なカテゴライズをする限り、平均的マジョリティに着目するしかない。あるいは特にサブカルチャー論の場合、平均「以下」に積極的に着目することも多い。

後藤さんがいかに「自分以外の若者」に対して関心がないかは、次のような下りからも察せられます。「いわゆる『コギャル』である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)『さんまのSUPERからくりTV』で出てきて驚いた」。最初読んだ時、このブログ書いてるのはすげえオヤジか?と思いましたもん(ウソだけど)。
毎回の締めくくりも、「・・・という私自身も、そうした若者のひとりだったわけだ」という、文脈無視の牽強付会が目立ちます。別にあなたみたいな方は勘定に入ってないって(笑)。

要するに、「今ドキの若者たち」に対して最もリスペクトを欠いているのは後藤さん自身だろう、ということです。少々バッシングしようが批判しようが、一生懸命に観察している論者たちの方がまだましとも言える。後藤さんの場合は視野にすら入ってないわけですからね。

そう考えると、世の若者バッシングを全て自分に向けられたバッシングであるかのように一身に受けて立っておられるこのサイトの成り立ち自体も空恐ろしくなってくる。これは巨大なモノローグの体系なのではないか、とね。
・・・いや、そういう「他者」を全く欠いた世界を容易に築き上げてしまうところが、後藤さんもまた正しく「今ドキの若者」なのかもしれませんが(笑)。

 まず第2段落についての反論ですが、《全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます》というのは全く正しい指摘ではあります。しかし、それがなぜ問題なのかが分からない。そもそも私が批判・検証している一連の文章は、誰かを名指しで批判しているというわけではなく、ただ漠然とした「世代」の存在を前提としており、私はそのような言説に対して彼らの無視しているようなデータを提示したり、あるいは彼らの振りまいている論理がどのような問題を引き起こすか、ということを社会学の論説などを用いて論述しているので、あくまでも相手は個々の言説であり、具体的な事例を提示して批判するような論述スタイルは選択肢の一つとしては存在しても、絶対それをして言い訳ではない。また、私の論述で、例えばフリーターや若年無業者の状態で苦しんでいる人たちが救われるのであれば、それは望外の幸せであります(現にそのようなメールを受け取ったことがありますし、そのような趣旨の発言を行なったブログの管理人もいます)。ついでに言うと、私は成人式がらみで、自分以外の同世代を実名を挙げて出したことがあります。

 続いて第3段落に関してですが、これはどうも問題の設定自体に問題があるのではないかと思います。つまり、《後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者》(蛇足ですが、私は別に自分のことをそのように思ったことはありません)と《平均的マジョリティ》を対比させている時点において、私の議論を理解できていないのではないかと。要は私は、《平均的マジョリティ》は本当にマスコミで面白おかしく採り上げられている「今時の若者」なのか、という問題を前提として議論を進めています。なので、第3段落のような批判は、単に「今時の若者」というステレオタイプにすがっている人の的はずれな攻撃でしかありません。

 第4段落に関しては後に述べることにしますが、第5段落で述べられている《毎回の締めくくり》(実際には三浦展研究の中編と後編でしか行なっていない)は、単なるジョーク、あるいは皮肉のつもりで書いています。もちろんそうであることが伝わらなければ私の責任であるし、また品のないジョークであると感じられたのであれば反省します。

 そして第4・6・7段落においては私の執筆態度を問題にしておりますが、これではもはや単なる個人攻撃、私に対する誹謗中傷でしかないような気がします。もしこの書き手が正しいのであれば、なぜ私は青少年を「疎外」する言論体系としての若者論を問題化するのか。もちろんこれは個人的動機なのですが、あくまでも「若者論」ばかりが幸う状況下においてセカンド・オピニオンを提示しなければならない、という一種の自惚れの混ざった問題意識から出発しております。私は決して「自分以外の若者」に無関心なのではなく、一般に「叩いてよい対象」とされている同世代の一部の人々に対して、彼らを問題化しようとすると私が検証している人たちと同じ穴のムジナになってしまうので、あまり問題化せずに、彼らを批判する言説を叩いているだけです。

 このコメントの書き手は、巷で採り上げられている「今時の若者」を批判しない限り問題を論じたことにはならない、と考えている節があるようです。

 私がメールやコメント、トラックバックなどにおいて批判を受けたのはこれが初めてではありません。例えば「俗流若者論ケースファイル」の第24回で小林節氏を批判したときも、文章が冗長すぎるという旨の批判を頂きましたし、8月に「俗流若者論ケースファイル」を25回連続で書いていたときも、友達から文章が過激になりすぎている、という批判のメールを頂きました。私自身、このブログが「若者論マニアの若者論マニアによる若者論マニアのためのブログ」となっているのではないか、という危機感もあります。ですから、私が若者論マニアであるという立場は堅持しつつも、より広く一般の人たちの判断材料となるように、努力していくつもりです。

 しかし今回寄せられた批判は、批判の領域を越えており、単なる個人攻撃、誹謗中傷にしかなっていない。これ以降、もし同様の中傷を行なってくるのであれば、反論した上で何らかの制限を行なうかもしれません。

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 (追記:平成17年10月13日1時40分)
 このエントリーで述べた私への批判に対する反論に、再反論を頂きました。しかし、その際反論も、まだ納得できるようなものではありませんでした。

 まず、このコメントの書き手は、私が自分以外の若年を例示しないことを問題視しており、私はそのようなことに関して「同じ穴のムジナになってしまう」と書きましたが、これにはもう少し補足が必要なようです。

 私がなぜ身近で具体的な事例をあまり出さないかというと、もしこちらが「こういう人もいるから、あなたの前提は間違っている」と主張した場合、相手が「しかし、こういう人もいるから、自分の前提は間違っていない」と主張してくる可能性が高い。そうするとこちらもまた誰かを引き合いに出して、相手の前提を突き崩す必要がありますが、そうするとまた相手も自分の論理を正当付ける証拠を出してくる可能性がある。そうすると、無限ループになってしまい、結局のところ単なる「情報戦」になってしまいますが、そのような「情報戦」に陥ってしまうようなことはなるべく避けるべきではないでしょうか。

 ですから、私は極力、巷で若年層を叩いている論者が、どのような「視線」を若年層に、更には現代社会に向けているかを検証しています。また、具体的な事例が求められる場所においては、信頼できる統計データを出して反証してきました。もちろんその統計データに関しても、引用する際は極力慎重にならなければならないのですが。

 本来は個別に解決すべき問題や、あるいはシステムや社会構造の欠点に目を向けるべき問題を、私が問題にしている「若者論」は安易に世代論と絡めてしまい、たといそれが根拠の不確定な因果関係であっても、ステレオタイプの下に認めてしまい、短絡的な「結論」しか生み出さない。私はそのような言論体系をこそ撃つべきであると考えております。

 この文章を書いているうちに、ここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手から、件のコメントの書き手に次のような批判がなされていました。

クラブとかストリートにいる子が「ナマの」若者だと言い切っている時点で、あなたも十分視野が偏狭だと思いますよ。誰が若者の代表性を保っているかという問題は、そう簡単に論じられることではないはずです。

 ここまで明確に言い切られると、もはや私の出番はないような気がします。もとより、件の書き手が、以前のコメントにおいても《そもそも、「地方や若者がヤバいことになっている」と指摘することがどうして「偏見」になるのかサパーリわかりません。だって事実じゃん、と(笑)》と書いていることを考慮しても、この論者があらかじめ若年層の「代表」を設定していることが見えてきます。私はある階層の人を安易に「代表」として持ち上げていいのか、という問題意識でこのブログを運営しておりますので、この書き手がこのような態度に終始している限り、もうこれ以上言い合っても結局は水掛け論になるだけではないでしょうか。

 もちろん、誰もが私の問題意識の前提に賛同してくれる必要はありません。ただし、このような問題意識を少しでも多くの人に共有してもらうためには、ブログで文章を大きく公開する、というあり方は有効に思えます。誰もこのブログを見ることを強制していませんから、もし論調が気に入らないのであればそれ以上関わらない。それでいいのではないでしょうか。

 最後に。私が件の書き手の、私に対する批判が、単なる批判の度を越えている、と判断したのは、私に対する嘲笑的な表現が見られるからでもあります(先ほど採り上げた部分もそう)。これでは、単なる批判を通り越して、もはや私に対する侮辱にしか見えない。批判は歓迎しておりますが(現に批判も数件頂いております)これ以上そのような中傷に終始するようであれば、私も然るべき措置を採ろうと思います。

 (追記:平成17年10月13日)
 本当に、これが最後です。

 まず、先ほど頂いた、私及びここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手による、件のコメントの書き手への批判に対して、更に反論を頂きましたが、むしろ支離滅裂としか言いようがありませんでした。例えば《「若者論」というのは真ん中かそれより下を対象として論じるものなんです。これは「お約束」です。それがまずいと思われるなら、そのこと自体を問題にされたらいかがでしょう》とおっしゃっておりますが、それは既に行なっております。もしお疑いになられるようなら他のエントリー(例えば「俗流若者論ケースファイル」シリーズ)をご覧になってください。私が決して、この書き手の言うところの《最初から度外視されている若者の中の上澄み層》ばかりに着目しているわけではありません(そもそも、私がそのような層に着目しているのであれば、「若者論」の「お約束」に楯突いていることになりはしませんか)。

 また、この書き手は、私が社会階層の問題を論じていることに対し、その人たちの実情を知れ、としきりに言っております。しかしながら、私が問題にしているのは、ここで問題にしている社会階層の人たちの置かれている社会環境を問題にしているのであって、何もその社会階層に属する人たちの「属性」を論じているのではありません。それとも、この書き手は、「そういう人たち」と顔を合わせて、「これではフリーターや若年無業者になるのも仕方がない」と思わせて、それについて論じることをやめろ、というのでしょうか?

 また、更にコメントが書かれてありましたが、私が安易に世代の「代表」を捏造してはいけない、と主張するのと、フリーターになる傾向が強い社会階層について論じることは矛盾する、とあります。しかし、どこが矛盾するのですか?あくまでも私はその階層が置かれている社会環境の問題として書いているのであって、決して彼らを若年層の「代表」として祭り上げているわけではない。

 もう、これ以上水掛け論を続けるつもりはありませんし、この書き手がこれ以上他人を(なぜこのような書き方をしたのかというと、この書き手は私のみならずこの書き手をコメント欄で批判した人や、更には若年層全体を見下しているように見えたからです)見下した態度をとるのであれば、苦渋の判断ではありますが、以下の措置を採らせていただきます。

 ・件の書き手によるコメントを全て削除する。
 ・これ以降、この書き手によるコメントは無視する。また、コメントは見つけ次第削除する。

 もう、これ以上関わる必要はないと判断した上での決断であります。

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2005年10月 8日 (土)

俗流若者論ケースファイル73・別当律子

 しかし、不安便乗商法というのも怖いものだ。最近、文部科学省が発表した、小学校における校内暴力の件数が「過去最大」になった(この調査の問題点に関しては、「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」を参照されたし)という報告を受けて、そこらじゅうでまたぞろ子供たちに対する不安を煽る如き記事が乱発されている。情報ポータルサイト「All About」において、ライターの別当律子氏が書いた記事「“キレる”子どもにはワケがある? 小学校の「校内暴力」急増中!」も間違いなくその一つであろう。

 別当氏は、小学校における「校内暴力」の増加の原因を、「低血糖症」、すなわち血糖値の低さに還元している。その理由として、別当氏は、このように書いている。

 ささやかれている「ある理由」、それはズバリ「低血糖症」です。血糖値とは、血液の中のブドウ糖の濃度を表す値で、食事を摂れば上がり、空腹なら下がるといった変動があるものの、子どもも大人も80~110mg/dlが正常値です。低血糖とは、読んで字のごとく、血液中の血糖値が低下してしまうものです。ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー源です。脳が身体の中に占める割合はわずか2%ですが、ブドウ糖の消費量は20%にもなります。
 しかも、他の臓器は糖を貯えておくことで糖の量の変動に耐えることができますが、脳はそれができません。そのため、低血糖状態が長く繰り返されると、脳にとって大きなダメージとなってしまうのです。エネルギー源であるブトウ糖が枯渇した状態が長く続くと、動機、貧血、無気力、めまい、頭痛、不安感、非社会的行動、集中力の欠如、生あくび、うつ、忘れっぽくなるとった症状が出ると言われています。さらに、脳は低血糖状態を補うために、アドレナリンというホルモンを分泌し、体内に蓄積されている糖分を血液中に出して糖をなんとか確保しようとします。
 しかしアドレナリンは、別名「攻撃ホルモン」とも呼ばれ、これが過剰に分泌されると、興奮状態になって、攻撃的になってしいます。乳幼児だけではなく、大人だって、空腹状態になるとなんとなくイライラして怒りっぽくなることはありませんか? まさにあの状態こそが脳からアドレナリンが過剰に放出されている状態というわけです。(「All About」内「“キレる”子どもにはワケがある? 小学校の「校内暴力」急増中!」、以下、断りがないなら同様)

 とりあえずこれに関してはこの説明を受け入れることとするが、この記事において問題なのは、何故子供たちが「低血糖症」ゆえに「キレる」のか、ということに関して、別当氏が採り上げるのはファストフードやスナック菓子なのだが(いい加減聞き飽きました)、どうして別当氏がそのように考えるのか、ということが、極めていい加減、というよりも疑わしいのである。

 ついでに「校内暴力の急増」と「低血糖症」の関係が本当に証明されたか、ということについては、100億歩譲って認めることとする。

 血糖値の特徴として、その値が急激に上昇すると、下がるときもまた急激であるという点があります。ご飯など、でんぷん類は血糖値をゆっくり上昇させまずが、その一方、ブドウ糖、果糖を多く含むものを摂取すると、血糖値は急激に上昇します。そしてブドウ糖、果糖を多く含むものこそ、炭酸飲料、スナック菓子類、ファストフード類だと言われているのです。
 身体の機能が未熟な子どもたちは、食事による血糖値の変化も激しいと言われています。そんな子どもたちがスナック菓子を片手に炭酸飲料を飲んで… などということを毎日続けていれば、身体が低血糖状態におかれる状態が長く続くことになります。するとアドレナリンが過剰に放出されて、興奮状態になり… もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです。
 もちろん、小学校で校内暴力が増加している原因は複雑です。しかし、やれ家庭のせいだ、学校のせいだ、文部科学省が悪いと騒ぐその前に、一度、子どもたちの食生活を見直すことから始めてみませんか?

 ファストフードやスナック菓子に大量にブドウ糖や果糖が含まれているなら、血糖値はむしろ高くなるはずであろう。しかし別当氏ときたら、大量に摂取しているからこそ、低くなるのも激しいのだ、と言うのである。だが、そのようなことに関する具体的なデータを別当氏は示していないのだが。

 しかしこういう、ファストフードやスナック菓子をしきりに攻撃する人というのは、そういうものを食べる子供たちと暴力を振るう子供たちが重なって見えて仕方ないのだろうか。しかし、そもそも校内暴力が盛んになった昭和50年代後半~60年代、あるいは少年による凶悪犯罪がもっとも起こっていた昭和35年ごろと比べてどうなったのか、ということを一切示さない限り、説得力はない。この書き手は確信的にやっているのか、それとも能天気なのか。

 それにしても最近になって、こういう風に一見もっともらしい(が、内実を伴っていない)「科学的」裏づけをして青少年問題を論じる、というのが多くなった。最近では、若年層が無業状態になるのは脳内物質のひとつであるセロトニンの減少が原因だ、という論説まで見かけるようになったし(神山潤[2005]。実際の説はもう少し複雑で、コミュニケーション能力の低下はセロトニンの減少が原因であり、その結果無業となる、というもの)。

 ところで、以下のくだりをもう一度見て欲しい。

 身体の機能が未熟な子どもたちは、食事による血糖値の変化も激しいと言われています。そんな子どもたちがスナック菓子を片手に炭酸飲料を飲んで… などということを毎日続けていれば、身体が低血糖状態におかれる状態が長く続くことになります。するとアドレナリンが過剰に放出されて、興奮状態になり… もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです。

 《もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです》だと?そういう子供が自暴自棄になって自殺してしまう可能性は?スポーツで発散したくなる可能性は?攻撃的な小説や芸術に目覚める可能性は?

 このように、今の子供たちの現状をさも地獄絵図の如く描き、《もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです》などという脅し文句を添えて、子供たちに対する不信を煽り立てる、という方法は、子供に対する侮蔑である、ということを別当氏他このような詭弁を弄して親たちを不安に陥れたがる人たちは自覚すべきである。

 蛇足だが、別当氏の如き「砂糖を大量に摂取すると血中の等分が不安定になって、精神的に不安定になる」、という論理は、専門家の間では既に俗説扱いされているようだ。「月刊現代」平成17年10月号210ページに掲載されているので、参照されたし(中村知空[2005])。

 参考文献・資料
 神山潤[2005]
 神山潤『「夜ふかし」の脳科学』中公新書ラクレ、2005年10月
 中村知空[2005]
 中村知空「巷にはびこる「健康情報」50のウソ・ホント」=「現代」2005年10月号

 髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』講談社ブルーバックス、2003年9月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年10月号、中央公論新社

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2005年10月 5日 (水)

2005年7~9月の1冊

 私が2005年7月1日~9月30日までに読んだ本に関して、特に印象に残ったものを紹介します。ちなみに、フリーターや若年無業者問題に関する本は、別のところで採り上げるのでここでは紹介しません。

 1:森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 書評:「心理学主義という妖怪が徘徊している
 心理学主義的言説が横行して、人々の「心」「内面」に高い関心が向けられる社会を批判的に考察した名著。その批判が社会学のツール(デュルケームなど)を用いて行なわれているため、心理学ばかりに没頭していると見えない危険な部分を見事に照射している。ちなみに本書が刊行されたのは今からおよそ5年半前なのだが、そのときの状況と比べて、現在はむしろ更に危険になっている気がするんですけど。とにかく必読。

 2:フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、適菜収:訳『キリスト教は邪教です!』講談社+α新書、2005年4月
 19世紀のドイツの哲学者・ニーチェの著書『アンチクリスト』を現代日本語の会話調に翻訳しなおしたもの。全編、キリスト教及びキリスト教徒に対する罵詈雑言集のような出来になっているが、騙されたと思って一度読んでほしい。キリスト教というものがいかに人間の良心を歪め、さらにイエス・キリストを歪めてきたか、ということを明確に主張している。東京大学教授・松原隆一郎氏による解説も一読の価値あり。「2005年1~3月の1冊」で紹介したB・R・アンベードカル『ブッダとそのダンマ』(山際素男:訳、光文社新書、2004年8月)と併せて読みたい。

 3:杉田敦『権力』岩波書店、2000年6月
 ミシェル・フーコーのパプティノコン理論から始まり、権力論の歴史を俯瞰しつつ、ハンナ・アレントやヴァルター・ベンヤミンなどの最近の権力論などを引用して、権力をいかに捉えなおすか、ということを問い直した好著。自分がいかに「権力」というものを捉えているか、ということを捉えなおす上では最高の出来である。

 4:村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』日経BP社、2005年4月
 血液型性格診断からロールシャッハ・テストまで、現代にはびこる「心理テスト」を心理学・統計学の立場からその虚構性を徹底的に暴く。それらの「心理テスト」に対する批判は至極真っ当であり、科学というものはこうでなくては、と膝をたたいてしまうほどだ。しかも本書で使われた統計学的手法に関しては「さらに理屈の好きな方は」というコラムで説明されている。欲を言えば、このような「心理テスト」の氾濫が新たなレイシズムや差別を生み出す構造にも言及してほしかった。

 5:ジャン・ジャック・ルソー、桑原武夫:訳、前川貞次郎:訳『社会契約論』岩波文庫、1954年12月
 社会思想の古典の一つで、社会契約、政府、法律、主権などを捉えなおす上では必読と言っていい。我々が普段当たり前と思って享受していること、あるいはその内実が日常生活ではほとんどと我得ないことに関して考え直す機会として。特に選挙という行動がかなりの部分で自己目的化してしまった言論状況を俯瞰してみるに、本書の必要性が高まっていることは言うまでもないだろう。

 6:山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 手短に説明するならば、森真一氏の『自己コントロールの檻』が心理学主義的な情報を相手にしているのに対し、本書は脳科学主義的な情報を相手にしている。「ゲーム脳」理論みたいな脳科学主義的な言説がもてはやされる中、脳情報とはいかに付き合うべきか。最初は哲学的なことが述べられているので少々読みづらいかもしれないが、例えばジル・ドゥルーズの管理社会論や、薬物投与による問題「解決」の危うさまで踏み込んでいるなど、読み応えがある。斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、2003年10月)は要併読。

 それにしても、本書といい、森真一氏といい、村上宣寛氏といい、あるいは「1~3月の1冊」の芹沢一也氏といい、どうもこの手の「心理学(脳科学)と管理社会」的な本ばかり読んでいるなあ。年末に公表する「2005年・今年の1冊」では、特に心変わりしない限りはこの問題について取り扱う予定。

 7:森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月
 『自己コントロールの檻』の内容を少々薄味にしたようなもの。そのため、読みやすさの点ではこちらのほうが勝っているが、切れ味としては前著に劣る。ただし、「社会的アイデンティティー」の問題や、万人の「お客様」化という議論など、前著では見られなかった新しい視座を開拓しており、前著同様に読み応えのある本であることは疑いない。

 8:浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』講談社学術文庫、1988年5月
 日本人の行動を、既存の日本文化異常論に対して批判する形で説明している。ここで使われている論理は、日本人は「状況」を中心にして動いている、というもの。更に東洋と西洋における人間観の違いや、「間柄」「義理」「家」など普段使われている言葉がいかなる文化的状況に根ざしているか、という点まで踏み込んでおり、奥の深い1冊となっている。それにしても昔は小原信氏ってかなりすごい人だったんだねえ。今は相当落ちぶれているのに。
 ※現在品切れ。

 9:ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年3月
 ILO(国際労働機関、国際労働事務局)の研究員として長い間日本における労働の実態を研究してきた著者による講演録。日本や世界における労働の歴史を総ざらいすると共に、グローバル化が世界にもたらした労働問題や、それ似た対する解決策を提示するなど、現代における労働の意義を考える上ではぜひとも読んでおきたい1冊に仕上がっている。

 10:斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 書評:「皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
 「AERA」と「週刊朝日」に連載していた書評連載をまとめたもの。まず、この分量で税込み1575円というのが嬉しい。また、本書はその時々に話題になった本をワイドショー的に楽しむ、という名目で書かれているので、平成12年から16年中ごろにかけて、どのような本が話題になったか、を総ざらいすることができるし、何よりも『読者は踊る』『趣味は読書。』の流れを汲む斎藤氏の書評世界を楽しむことができる。(蛇足:この本に収録されている正高信男批判は必読ですよ…。)

 11:越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 書評:「現代の美観と先人の苦悩
 東京の都市計画を中心に、災害や戦災によって都市が成長していく様子を都市計画の法制や実際の計画から読み解いた本。重要なのは、災害のたびに都市計画を立てた人は「復旧」ではなく「復興」を目指した、という点。現在札幌や仙台、横浜などで見られる美観は復興計画や、それ以降の都市計画の産物であり、そういうことを意識すると大都市の美観を見る目は変わるかもしれない。ただ、所々で見かける「日本人は自分の歴史を誇りに持つべきである」という主張は、少々しつこい。

 12:堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月
 書評:「世界に想像する余地を
 我が国におけるキャラクター・ビジネスなど、アニメやゲームのキャラクターをめぐる現状を書いた極めて良心的なルポルタージュ。「カネ」という魅力が外れるや、あからさまに「嫌悪感」をむき出しにして「規制」を叫ぶマスコミとは違い、現状をいったん受け入れてそれに対する考察をしていく、という姿勢に好感が持てる。ところどころで現れる関係者へのインタヴュー、特に声優の清水愛氏へのインタヴューも卓越。

 13:小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年9月
 大学生向けのレポート指南書の書き手として知られる学者の手による「情報との付き合い方」の本。例示されている事例が、少年犯罪報道、「ゲーム脳」理論、携帯電話の電磁波による悪影響、教育改革批判など、身近なものを引いていることによって、情報をいかに処理するのか、ということが分かりやすく書かれている。ちなみに著者は日本大学文理学部教授。筆者は「ゲーム脳」の宣教師である森昭雄氏が同僚であることには触れていないが、同僚の狼藉に我慢できなかったのか?

 14:マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 政治哲学の古典の一つで、同時代の政治家に政治家であるとは何か、ということを説いた本。この本に込められたメッセージは現代でこそ光っている。ちなみに私が本書の一説を「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」で引いたのだが、後に朝日新聞編集委員の星浩氏が、平成17年5月10日の朝日新聞のコラムで偶然にも同じ部分を引いていたことが判明した。それくらい重要な部分なのだろう。

 15:日本放送協会放送文化研究所(編)『放送メディア研究3』丸善、2005年6月
 「情報空間の多様化と生活文化」についてまとめた論文集で、取り扱われている分野はテレビ(飯田崇雄、佐藤俊樹、小林直毅、水島久光、斎藤環)、インターネット(木村忠正、原由美子)、携帯電話(辻大介)。論旨の運びが解説的なので基本的な認識を得るためには最適である。データも充実している。こういう議論が増えてくれたら嬉しいのだが、「コミュニケーション」に関しては語る側の感情的判断基準が先行してしまうからなあ。正高信男とか(ついでに本書において辻大介氏がこの疑似科学者を批判している)。

 16:竹内薫『世界が変わる現代物理学』ちくま新書、2004年9月
 「世界が変わる」とは、要するに「世界の見方が変わる」ということらしい。現代物理学が「モノ」から「コト」に変化しているということを、アインシュタインの特殊相対性理論を出発点として、更に量子論や、科学史における実在論と実証論のせめぎ合いを手がかりに解明していく本。「世界の見方」を捉え直す上では絶好である。

 17:秦郁彦『南京事件』中公新書、1986年2月
 南京事件に関する実証的な研究で、この虐殺を語る上ではぜひとも読んでおきたい一冊。本書は中国などが主張する「被害者30万人」という主張に対し、「被害者約4万人」と結論付けている。ちなみに著者は現在「新しい歴史教科書をつくる会」に近い立場にいるが、それでも「虐殺」という記録を消したがる(「虐殺はなかった」と主張する)一部の跳ね上がりの存在は残念に思っているらしい(藤生明「ナショナリズム高揚地を歩く」=「AERA」2005年2月14日号、朝日新聞社)。

 18:森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 近年、労働時間の短縮どころかそれが更に長くなっている、という問題に対し、それはどのような構造によって引き起こされているか、ということを解き明かした本。「働きすぎ」や「労働時間の二極化」を問題として構築して告発し、それを解決しようという意欲は買えるが、どうも「働きすぎ」に抗うために会社員個人がやるべきこと、という提言に関しては、かなり共同体主義的な匂いがするのだが。9のロナルド・ドーアの著書と是非併読したい。

 19:星浩『自民党と戦後』講談社現代新書、2005年4月
 戦後政治における自民党の流れを、自身の政治記者としての体験から綴った自民党の小史。朝日新聞社の同僚である早野透氏の『日本政治の決算』(講談社現代新書)と読み比べると面白いかもしれない。先の衆院選における自民党の圧勝は何を意味するのか。大半は小選挙区制に起因しているのだろうけれども、自民党はもしかしたら焦っているのかもしれない。

 20:本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月
 いまや我が国の経済構造どころか思想構造まで組み替えようとしている「萌え」について、「萌え」こそが現代の救済となる!と高らかに宣言した本。既存の恋愛資本主義に毒された「世間」の価値観や、何かにかこつけて現実至上主義を煽り立てるマスコミを斬っていく様は実に痛快(特に森昭雄、正高信男、大谷昭宏、小原信、江原啓之、柳田邦男の各氏にはぜひとも読んでほしい)。ただ、総論には大賛成だけれども、各論となると、どうも論理の飛躍や暴走が多すぎはしまいか。「オタク」を狭く捉えすぎていたりとか、疑似科学に傾倒していたりとか。俗流若者論も少々見られるし。

 ワースト1:斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~
 マスコミで(勝手に)問題とされている各種事象について、「心の知識」を適用することによりそれらの問題を抱えた人を「心の病気」だと決め付けて「「気づき」のメソッド」を与えて「生き直し」を支援する、というノリで書かれた本なのだが、そのような心理学主義的プロファイリングが支配する世の中の危険性については全く触れずじまい、それどころか逆に肯定している節さえある。

 ワースト2:正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 関連記事:「正高信男という斜陽」「正高信男という頽廃
 平成16年12月に出版された、同じ著者によるトンデモ本『人間性の進化史』(NHK人間講座)を再構成して新書にしたもの。新しい話題が入っているかと思えばそうでもなく、ただ本筋とは関係ない余計な部分が多く加わっているだけ。テキストの執筆時点における論理飛躍や疑似科学、アナロジーの乱用、そして傲慢な態度は少しも改善されていないのが痛い。少なくとも科学が人間の断片的な情報しか提供し得ないことくらいは理解して欲しいものだ。

 ワースト3:三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月
 関連記事:「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~
 どうして《かまやつ女》ではいけないのか、ということに関しては、著者の感情ばかりが先行しすぎて、論証には至っていない感じがある。感情的な書き飛ばしばかりで、まあ俗流若者論に流されやすい人ならかなりすらすら読めるかもしれないけれども、真剣な議論を期待する人にとっては極めて残念な本になるのは疑いはないだろう。

 ワースト4:三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 関連記事:「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~
 そもそも地方が豊かになってそこでほどほどの消費分化を謳歌できることがいけないことなのか、ということに関しては、著者の感情ばかりが先行しすぎて、論証には至っていない感じがある。これも感情的な書き飛ばしが目立ち、読んでいくうちに「郊外化」というテーマはだんだん脇に追われているような気がして不思議に思えてくる。少なくとも都市計画論や地方商店街の発展に関してはもっといい本がある(例えば、神野直彦『地域再生の経済学』中公新書、2002年9月)。

 ワースト5:澤口俊之『幸せになる成功知能HQ』講談社、2005年9月
 いつもながらの俗流脳科学にはもう突っ込まないけれども、まさかレイシズムの分野にまで領域を広げるとは思わなかった!

 ワースト6:杉山幸丸『進化しすぎた日本人』中公新書ラクレ、2005年9月
 正高信男の一連の疑似科学本と同工異曲。「進化しすぎた」とか言っておきながら、結局のところそれは正高言うところの「退化」と同じ。っていうかあんたは卑しくも京都大学霊長類研究所の元所長でしょ。

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2005年10月 1日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月01日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/栗山光司/「kitanoのアレ」/本田由紀/茅原実里/保坂展人

 ※トラックバック先への誤解を避けるため、今回以降、雑記文では誰の(どの)ブログにトラックバックするかを明記しておきます。

 冬枯れの街:「いつから私は人を信じることができなくなってしまったのかしら。」

 すっげえのを見つけたので紹介しておきます。

 産経新聞:「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く

 反進化論、創造論とは、とっくの昔に米国でも論破されきっているのですが(詳しくは、マーティン・ガードナー『奇妙な論理』(ハヤカワ文庫)を参照されたし)、それを俗流若者論的な理由でもって再現させようというトンデモナイ人が登場してしまいました。まあ、確かに、《教科書に書くなら「ダーウィンの進化論に沿って考えるならば」と、仮説の紹介にとどめるべきです》という物言いには理解を示しますけれども(例えば進化論に関してもさまざまな学説が存在する)、これ以降の論理が本当にブッ飛んでいて、おかしい。

 ――日本の学校でも教えるべきですか?
 思考訓練として教えるべきです。でないと日本人の頭は硬直したままです。それに「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」(昭和四十一年の中教審答申「期待される人間像」の文言)がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです。

 エエエエエエエエエエ!

 俗流若者論の恐ろしさについては私も何度も言及してきましたけれども、まさかここまで来ているなんて思わなかったでありますよ。俗流若者論に基づいたダーウィン否定なんて、私には考えもつかなかった。なんですか、《「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」……がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです》って、ダーウィンの進化論を教えることは道徳の崩壊につながる、って、アホかあ!!!

 あのね。これはあんたの教養がいかなるものか、ということにつながっているんだけれども、もし生物を創造した「あるもの」を仮定しなければならないとするならば、それが誰によって作られたのか、ということについても考えなければならないんだよ。で、それを仮定すると、また「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず、更にそれを仮定すると「あるもの」を創造した「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず…、って、無限ループになっちまうんだよ。

 しかもダーウィンの進化論を教えたら道徳の崩壊につながる…、って、結局のところは俺の主張を認めてくれ!!って駄々をこねてる野郎が青少年問題にかこつけて言ってるだけでしょ。

 あとさ、この人たちが歴史を知らないこともこの記事は如実に表しているね。記事の中で、聞き手たる産経の渡辺浩記者は《米国では親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが、日本の教育界に持ち込もうとすれば「非科学的」と猛反発されます》などといっているけれども、米国においてなぜ進化論批判が展開されたか、というと、結局のところ原因は宗教右派なんよ。詳しくは『奇妙な論理』の上巻の109ページ~140ページを見てほしいんだけれども、例えば116ページにおいては、キリスト教のプロテスタント教会はダーウィンの進化論の発表直後から進化論を攻撃しまくっており、『奇妙な論理』が書かれた1950年ごろまでに進化論批判の著作を《数千冊にのぼる》(『奇妙な論理』上巻116ページ)ほど出しているようだ。そういうことを参照しないで、何が《親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが》だ。

 っていうか、本気で検証しようかなあ。「俗流若者論ケースファイル」のシリーズにこれが入るかもしれません。っていうか、早く東京新聞の総選挙分析の検証をやれ、俺。

 千人印の歩行器:[生活編]禁煙より禁酒?(栗山光司氏)
 所謂「禁煙ファシズム」に関しては、私は酒はほとんど飲まないし煙草は全く吸わないのですが、それでも「禁煙ファシズム」の怖さは良く分かる。ただ、これに反対するロジックとしては、例えば飲酒や自動車のほうが実害が大きいじゃないか、というものもいいのですが、もう一つ、何か抽象的な次元での話が必要だと思います。

 ここで必要なのは、公共空間に関する議論でしょうね。なぜ、喫煙はとがめられるべきなのか、と。あるいは、なぜ、分煙化による共生ではいけないのか、と。もし煙草にも少なからず健康に被害があるとすれば、煙草の煙が充満しないような部屋で喫煙できるようにすればいいのではないか、ということです。

 単なる道徳的基準(とか言っておきながら、実際は自分の好き嫌い)によって公共における行為を決めてしまう、という行為は、最終的にはポピュリズムとならざるを得ず、その先にファシズムが待っている。公共空間とは、本来、理解できない他者と共生しなければならない空間のことを言う。そこでいかに共生のための知恵をしぼれるか、ということで、空間の使い方や公共建築の設計はスタートします。要は、必要なのは「大人の対応」というわけです。つまり「私はお前の言うことは嫌いだがお前がものを言う権利は認める」というもの。自分の好き嫌いによってある行為や言論、表現に対する弾圧を認めようとするならば、それによって自分も弾圧されるかもしれない、ということに対して想像力を働かせなければならない。素朴な弾圧派は、それが全く分かっていない。

 私だって、森昭雄とか正高信男とかいった擬似科学者の言動にはうんざりしていますけれども、だからといってこいつらを青少年に有害だから弾圧せよ、とは言わない。しっかりと論理を組み立てて、その誤謬を地味に指摘していくしかない。また、過去にも何度か言ったとおり、私は過激な性描写はあまり好きではありませんが(むしろ嫌いですが)、刑法犯が発生していない範囲ではその存在を認めるほかない(また、アニメや漫画における過激な性描写に関しては、被害者となる実物が存在しないので、刑法を楯にした規制はできない)。それが戦略的に採るべき態度です。

 でも、こういう人や、それを支持する人たちは、そういう抽象的な議論に対して想像力を働かすことができないのでしょうかね。

 kitanoのアレ:石原都知事施政方針演説「ゲームを規制するため協議会を設置する」
 私は、石原氏がゲーム規制を訴えることに関しては、ある程度予測はついておりました。詳しくは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」を参照していただきたいのですが、石原氏がゲームを敵視しているのはこれらで取り上げた文章を読めば分かります。

 それにしても、どうしてこの手の人たちって、ゲームをやる子供たちを犯罪者予備軍に仕立て上げないと気がすまないんでしょうかね。

 もじれの日々: 反「ニート論」論+往復メール(本田由紀氏:東京大学助教授)
 おおよそ、「ひきこもり」やパラサイト・シングル、及び若年無業者に対する素朴な批判は、結局のところ「経済の論理」と「親の論理」にしか基づいていない、極めて感情的でネガティヴな論理でしかありません。「経済の論理」で言うと、これは「Yomiuri Weekly」の平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」なる記事が図らずも(図っているのかも?)示している通り(この記事に関する検証は「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」で)、要はそういう奴を抱えている家庭は速めに経済的に破綻するから、早く追い出したほうが身のためだ、ということになる。また、「経済の論理」に関して言うならば、もう一つはこのような人たちが税金泥棒と見なされること。要するに、こいつらは税金は払っていないのに社会保障費や年金は高齢化によって減っていく一方、だからこいつらを就職させなければ財政は破綻する、あまつさえ少子化だからなおさら、という論法。どうしてここで財政のスリム化や効率化という提言が出てこないのか。

 もう一つは「親の論理」。要するに、お前は今まで親に養ってもらったんだから、就職してその恩に報いなければいけないと。しかしそういう考えが蔓延しているからこそ逆にひきこもってしまう、というパターンも多くあるのです。要するに、自分は親に迷惑をかけている、自分はなんて駄目な人間なんだ、と思いつめた上での「ひきこもり」。こういう状況が存在する中で、更に教育に「愛国心」の強制なんて入れてしまったらもっと窮屈になるのは間違いありません。解決策としては、そういう「親の論理」による圧力を少しでも和らげる手段がありますが、例えば地域通貨でそれを行なっている自治体もあるようです(川戸和史「引きこもり癒す地域通貨の力」=「AERA」2002年9月23日号、朝日新聞社)。

 更に言っておきますと、どうやら多くの人は、「ひきこもり」もフリーターもパラサイト・シングルも若年無業も、「状態」を表すのであって決して「病理」ではない、ということに対する認識があまりにも欠けているようです。そういう認識の欠如状態があるからこそ、例えば「ニート」という言葉に関して言うならば、「ニート予備軍」「社内ニート」「TEET」といった誤用がたくさん出てくるようになる。「ひきこもり」だって「ひきこもり型」だとか「ひきこもり親和型殺人」などといった変な言葉で誤用されている。

 「ひきこもり」は生物学的に言って発達を阻害する、などと主張する言説もある。しかもどういうわけ過疎のような言説の発信元はことごとく中央公論新社だったりする(笑)。ことごとく、といっても、まあ2冊なのですがね。一つは、一応我がブログの最大の仮想敵である、京都大学霊長類研究所の曲学阿世の徒・正高信男の『ケータイを持ったサル』(中公新書)。もう一つは、最近出された、元京都大学霊長類研究所所長の杉山幸丸氏の『進化しすぎた日本人』(中公新書ラクレ)。これらの「科学的」社会論(若者論)に共通しているのは、社会という視座がないこと、あるいは社会学というバランサーがないことです。単純に霊長類学のアナロジーを「今時の若者」に当てはめて安易に語ろうとすると、この2冊のようなトンデモ本になってしまう。社会という視座を喪失すると、結局擬似生物学に基づいて「親は攻撃的に自立を促せ」みたいな主張になってしまう。

 この話題に関してもう一つ。

 minorhythm:図書館(茅原実里氏:声優)
 現在、フリーターや若年無業の問題を取り扱った本を読んでいるのですが、あまり金のない私にとって図書館はこの研究をする上で非常に役に立ちました。茅原氏は《今はパソコンで何でも調べることができちゃうけど、こうやって実際手にとって調べていると、手に入れた情報になんだか重みがあるというか》と書いていますけれども、この問題に関する言説は、ネット上の情報ではほとんど当てにならない。ブログの日記を検索しても、大半は若年無業者やフリーターを「甘え」だとか言って「親に問題がある」みたいな結論になってしまうのがほとんど常です。「2ちゃんねる」みたいな掲示板に至っては「プライドだけ高くて実際に働いたことのないニート必死だなw」みたいな書き込みは結構見られるし。

 少々出足が遅かったので、書評を公開するのは今月末になりそうです。今のところの進捗状況は以下の通り。ちなみに書評に関しては終了次第一斉に公開する予定です(既に書評を公開している、二神能基『希望のニート』は除く)。

 書評を脱稿した本
 橘木俊詔『脱フリーター社会』東洋経済新報社/二神能基『希望のニート』東洋経済新報社
 読んだが書評していない本
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社/宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』洋泉社新書y/三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社/斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ/小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房/本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会
 「積ん読」状態の本
 小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/玄田有史、曲沼美恵『ニート』幻冬舎/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書
 図書館で借りてきてまだ読んでいない本
 小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 宮城県図書館で注文した本
 丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社/和田秀樹『ニート脱出』扶桑社/居神浩『大卒フリーター問題を考える』ミネルヴァ書房/澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所
 若林図書館で注文した本(せんだいメディアテークが館内整理のため図書館を2週間ほど休館にするため)
 学研(編)『フリーターなぜ?どうする?』学研/浅井宏純『自分の子供をニートにさせない方法』宝島社/小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎
 読む予定ではあるが注文していない本
 大久保幸夫『新卒無業』東洋経済新報社/安田雪『働きたいのに…高校生就職難の社会構造』勁草書房/香山リカ『就職がこわい』講談社
 現在検討中の本
 長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書/波頭亮『若者のリアル』日本実業出版社/喜入克『叱らない教師、逃げる生徒』扶桑社

 保坂展人のどこどこ日記:郵政民営化法案の不思議(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 保坂氏はかつて「国会の質問王」として名を馳せた人であり、利権政治家、官僚任せの政治家ばかりの昨今にあって、数少ない実力派なのですが、郵政民営化の不思議をこのようにブログで公開して閲覧者に議論させようとする覚悟は素晴らしいと思います。とりあえず、こういう重要なことを隠してきて選挙を煽ってきたマスコミはなんなのか、と。

 お知らせ。まず以下の記事を公開しました。
 「統計学の常識、やってTRY!第6回」(9月18日)
 「俗流若者論ケースファイル71・森昭雄」(9月21日)
 「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」(9月25日)
 「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」(9月27日)
 「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」(9月28日)
 「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」(同上)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月
 title:世界に想像する余地を
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 title:安易な共同体主義からの訣別
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 title:現代の美観と先人の苦悩
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 title:心理学主義という妖怪が徘徊している
 斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 title:俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 あと、「2005年7~9月の1冊」も近いうちに公開します。今回はワーストがたくさん出てきます。
 参考までに、私が今まで書いた書評&音楽評の記事も。
 「2004年・今年の1冊
 「2005年1~3月の1冊
 「2005年4~6月の1冊
 「2004年・今年の1曲
 「2005年上半期の1曲

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