トラックバック雑記文・05年10月12日
今回のトラックバック:木村剛/ハラナ・タカマサ/古鳥羽護/田中秀臣
さて、どうしたものか…
週刊!木村剛:セロトニンと食生活と希望格差社会(木村剛氏:エコノミスト)
このような文章が引かれていました。
身体と精神(こころ)は切り離して考えていいものでもない。体の調子が良くない、何らかの病気に罹っているのに、楽しい気分を持続していられる人はまずいない、と言ってもいいだろう。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いになって、それで気分がどうも優れないっていう症状も、セロトニン不足、つまり生理現象であり、基本的に「心理的な抑圧云々・・」などの話とは関係がない。「こころが全て脳のはたらきに依るものだ」なんてことは言わないが、自分のこころ・精神状態に脳内の神経伝達物質が関係しているのは事実であり、その神経伝達物質の量に影響を与えるのは普段摂取している飲食物であり薬である。(重度な精神障害には遺伝もかなり関係しているようだが)勿論、対人関係も含めた周囲の環境も影響を与えている訳だが、こころの不具合をこころの問題としてだけ捉えるのはやはり宜しくない。
このような考え方に木村氏は難色を示しているのですが、木村氏とはまた違った考え方からこのロジックを批判してみると、このような決定論・還元論はともすればレイシズム(人種差別)となりかねない。そもそもこのような考え方に依って立てば、元々脳に「有害である」食べ物を摂取していたりとか、あるいは行動をとっている人は、おしなべて犯罪者にならなければならないはずです。しかし現実には、我が国において少年が凶悪犯罪を起こす割合は減少している。
このようなロジックの問題点は、現実に見える範囲で言うと、いつの間にか原因と結果が逆転して、結果から「原因」を特定できるかの如き錯角に陥ってしまう。日大の森昭雄教授などはその典型ですね。何か「問題」が起こると、その人がゲーマーであるか否かに関わらずすぐに「ゲーム脳」と断定されてしまう。要するに、「「今時の若者」はゲームばかりやっているから、脳に問題が起きていても仕方ないんだ」という論理が先行してしまい、実証がないがしろにされてしまうわけです。
最近「俗流若者論ケースファイル73・別当律子」という文章を公開したのですが、これで検証した記事も、実証ではなくむしろステレオタイプが先行している。
ちなみに、「タカマサのきまぐれ時評」(ハラナ・タカマサ氏)でも、「食育イデオロギー1」という記事が公開されており、この分野について考える上では必読といえるものに仕上がっています。
フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月2日、バンキシャ!「ニート合宿密着80日間の記録」を報道する(古鳥羽護氏)
田中秀臣の「ノーガード経済論戦」:玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録)(田中秀臣氏:エコノミスト)
田中秀臣氏は、ここで採り上げた文章で玄田有史氏を批判しておりますが、田中氏は、旧来の「対策」、すなわち課税によって教育や労働へのインセンティブを高めたり、あるいは就職相談所の強化では若年無業の問題は解決できない、と述べております。実に見事な批判だと思います。
玄田氏が若年無業の問題を提起したことは問題であるとは思いません。しかし問題なのは、源田氏の提起したこの問題を、さも若年層を「叩いていい」メッセージであると種々の論者が「誤読」し、結局のところ「ひきこもり」「フリーター」と同じように若年層を叩くための「記号」と化してしまった。その点で玄田氏を責めることはできませんが、責められるべきはそのような「誤読」を種々の理由をつけて正当化した人たちです。
その点では、「ニート」言説を取り扱うときでも、まず「ひきこもり」「フリーター」、及びその底流として存在している「自立できない若者」イメージを常に意識しなければならない。私はこのたび、「ニート」言説に関する研究を行なっているのですが、もう少し育児書などの分野にも手を広げてみる必要があるのではないか、と考えております。
蛇足ですが、平成17年5月19日付朝日新聞で紹介されて、最近何かと話題となっている、鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』(三笠書房)を読んだのですが、どうもこの本はフリーターになる割合の高い社会階層の人たちを軽視しているのではないか、と思えてなりませんでした。というのも、この著者がフリーターも若年無業の問題も、教育で解決できる、と信じ込んでいる節がある(すなわち、教育が歪んでいるからこそフリーターと若年無業者が生まれていると思い込んでいる)からです。しかし、小杉礼子氏とか本田由紀氏などが説明している通り、フリーターになる割合の高い社会階層の人たちは同時に若年無業者になる割合も高い。この期に及んで精神論や短視眼的な教育論を振りかざしている人たちは、もう少し企業や雇用、あるいは職業斡旋システムとしての学校の機能をもう少し見て欲しい。
あと、フリーターや若年無業に関わる本ですが、前回(10月1日)から進展したのは次のとおり。
読了し、書評も脱稿したもの:小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
読了したが書評を書いていないもの:鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』三笠書房/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書
読書がらみでは「2005年7~9月の1冊」もよろしく。
最後に…。
先月末に、短期集中連載という形で、民間コンサルタント代表の三浦展氏の著書を3回にわたって批判したのですが、そのコメント欄における、私への批判に対する反論を書いておきます。
まず、私の三浦氏への批判において、結局のところここ最近の諸著作を通じて三浦氏が何をしたかったのか、何を言いたかったのか、ということが伝えられなかったのであれば、それは私の責任です。まずその点について触れさせていただくと、三浦氏の語っている「格差社会」とは、「上昇志向格差社会」、言い換えれば(山田昌弘氏とは別の意味での)「希望格差社会」と言えるのではないかと思います。検証した3冊(『ファスト風土化する日本』『仕事をしなければ、自分はみつからない。』『「かまやつ女」の時代』)に加え、『団塊の世代を総括する』(牧野出版)と『下流社会』(光文社新書)、更に今月の「中央公論」の論文を読んでみると、『ファスト風土化する日本』を除けば「上昇志向を失い、「自分らしさ」なるものに拘泥する「今時の若者」」が問題化されているのが分かりますし、『ファスト風土化する日本』では、三浦氏が「地方のジャスコで農村型の消費文化を享受し、東京を遊ぶ場所としてしか考えない「今時の若者」」を、ところどころで問題化しているのが見て取れます。すなわち、三浦氏は上昇志向こそが社会を活性化させるものであり、それを失った人たちは頽廃的である、と考えている節がありそうです。
三浦氏は「上昇志向を失った」人たちを批判し、例えば「お前の考えは単なる「楽ちん主義」でしかないからとっとと就職しろ」などといったことを言いますけれども(『「かまやつ女」の時代』/これはあくまでも要旨です)、だからといって上昇志向を持って大企業に就職した人も、いつ失業してフリーターになるかわからない。端的に言えば、三浦氏は「上昇志向を失った」人たちに対してはリスクばかり強調しますが、そうでない人たちに対してはリスクをほとんど無視している。また、社会の問題を個人の上昇志向の問題としてすりかえる傾向が、三浦氏は高い。
以上が三浦氏の最近の著作に対する私の疑問です。この問題に関しては、後に稿を改めて書くつもりです(11月末頃になる予定です)。
さて、件のコメントを全文引用してみましょう。
レスがないようなので、一方的な意見表明となりますが。
こちらのサイトを一貫するテーマは「若者バッシングへの反撃」ということらしいですが、全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます。後藤さんの文章からは、「若者の代表」たる(なのか?)後藤さんと、次々と現れては切り捨てられてゆく論者たちの姿しか見えないんですね。
大人が「今ドキの若者」について論じる場合、こう言っちゃなんですが、後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者は「対象」に入ってないんです。これはもう暗黙の了解と言ってもいい。対象を「世代」で括るという乱暴なカテゴライズをする限り、平均的マジョリティに着目するしかない。あるいは特にサブカルチャー論の場合、平均「以下」に積極的に着目することも多い。
後藤さんがいかに「自分以外の若者」に対して関心がないかは、次のような下りからも察せられます。「いわゆる『コギャル』である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)『さんまのSUPERからくりTV』で出てきて驚いた」。最初読んだ時、このブログ書いてるのはすげえオヤジか?と思いましたもん(ウソだけど)。
毎回の締めくくりも、「・・・という私自身も、そうした若者のひとりだったわけだ」という、文脈無視の牽強付会が目立ちます。別にあなたみたいな方は勘定に入ってないって(笑)。要するに、「今ドキの若者たち」に対して最もリスペクトを欠いているのは後藤さん自身だろう、ということです。少々バッシングしようが批判しようが、一生懸命に観察している論者たちの方がまだましとも言える。後藤さんの場合は視野にすら入ってないわけですからね。
そう考えると、世の若者バッシングを全て自分に向けられたバッシングであるかのように一身に受けて立っておられるこのサイトの成り立ち自体も空恐ろしくなってくる。これは巨大なモノローグの体系なのではないか、とね。
・・・いや、そういう「他者」を全く欠いた世界を容易に築き上げてしまうところが、後藤さんもまた正しく「今ドキの若者」なのかもしれませんが(笑)。
まず第2段落についての反論ですが、《全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます》というのは全く正しい指摘ではあります。しかし、それがなぜ問題なのかが分からない。そもそも私が批判・検証している一連の文章は、誰かを名指しで批判しているというわけではなく、ただ漠然とした「世代」の存在を前提としており、私はそのような言説に対して彼らの無視しているようなデータを提示したり、あるいは彼らの振りまいている論理がどのような問題を引き起こすか、ということを社会学の論説などを用いて論述しているので、あくまでも相手は個々の言説であり、具体的な事例を提示して批判するような論述スタイルは選択肢の一つとしては存在しても、絶対それをして言い訳ではない。また、私の論述で、例えばフリーターや若年無業者の状態で苦しんでいる人たちが救われるのであれば、それは望外の幸せであります(現にそのようなメールを受け取ったことがありますし、そのような趣旨の発言を行なったブログの管理人もいます)。ついでに言うと、私は成人式がらみで、自分以外の同世代を実名を挙げて出したことがあります。
続いて第3段落に関してですが、これはどうも問題の設定自体に問題があるのではないかと思います。つまり、《後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者》(蛇足ですが、私は別に自分のことをそのように思ったことはありません)と《平均的マジョリティ》を対比させている時点において、私の議論を理解できていないのではないかと。要は私は、《平均的マジョリティ》は本当にマスコミで面白おかしく採り上げられている「今時の若者」なのか、という問題を前提として議論を進めています。なので、第3段落のような批判は、単に「今時の若者」というステレオタイプにすがっている人の的はずれな攻撃でしかありません。
第4段落に関しては後に述べることにしますが、第5段落で述べられている《毎回の締めくくり》(実際には三浦展研究の中編と後編でしか行なっていない)は、単なるジョーク、あるいは皮肉のつもりで書いています。もちろんそうであることが伝わらなければ私の責任であるし、また品のないジョークであると感じられたのであれば反省します。
そして第4・6・7段落においては私の執筆態度を問題にしておりますが、これではもはや単なる個人攻撃、私に対する誹謗中傷でしかないような気がします。もしこの書き手が正しいのであれば、なぜ私は青少年を「疎外」する言論体系としての若者論を問題化するのか。もちろんこれは個人的動機なのですが、あくまでも「若者論」ばかりが幸う状況下においてセカンド・オピニオンを提示しなければならない、という一種の自惚れの混ざった問題意識から出発しております。私は決して「自分以外の若者」に無関心なのではなく、一般に「叩いてよい対象」とされている同世代の一部の人々に対して、彼らを問題化しようとすると私が検証している人たちと同じ穴のムジナになってしまうので、あまり問題化せずに、彼らを批判する言説を叩いているだけです。
このコメントの書き手は、巷で採り上げられている「今時の若者」を批判しない限り問題を論じたことにはならない、と考えている節があるようです。
私がメールやコメント、トラックバックなどにおいて批判を受けたのはこれが初めてではありません。例えば「俗流若者論ケースファイル」の第24回で小林節氏を批判したときも、文章が冗長すぎるという旨の批判を頂きましたし、8月に「俗流若者論ケースファイル」を25回連続で書いていたときも、友達から文章が過激になりすぎている、という批判のメールを頂きました。私自身、このブログが「若者論マニアの若者論マニアによる若者論マニアのためのブログ」となっているのではないか、という危機感もあります。ですから、私が若者論マニアであるという立場は堅持しつつも、より広く一般の人たちの判断材料となるように、努力していくつもりです。
しかし今回寄せられた批判は、批判の領域を越えており、単なる個人攻撃、誹謗中傷にしかなっていない。これ以降、もし同様の中傷を行なってくるのであれば、反論した上で何らかの制限を行なうかもしれません。
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(追記:平成17年10月13日1時40分)
このエントリーで述べた私への批判に対する反論に、再反論を頂きました。しかし、その際反論も、まだ納得できるようなものではありませんでした。
まず、このコメントの書き手は、私が自分以外の若年を例示しないことを問題視しており、私はそのようなことに関して「同じ穴のムジナになってしまう」と書きましたが、これにはもう少し補足が必要なようです。
私がなぜ身近で具体的な事例をあまり出さないかというと、もしこちらが「こういう人もいるから、あなたの前提は間違っている」と主張した場合、相手が「しかし、こういう人もいるから、自分の前提は間違っていない」と主張してくる可能性が高い。そうするとこちらもまた誰かを引き合いに出して、相手の前提を突き崩す必要がありますが、そうするとまた相手も自分の論理を正当付ける証拠を出してくる可能性がある。そうすると、無限ループになってしまい、結局のところ単なる「情報戦」になってしまいますが、そのような「情報戦」に陥ってしまうようなことはなるべく避けるべきではないでしょうか。
ですから、私は極力、巷で若年層を叩いている論者が、どのような「視線」を若年層に、更には現代社会に向けているかを検証しています。また、具体的な事例が求められる場所においては、信頼できる統計データを出して反証してきました。もちろんその統計データに関しても、引用する際は極力慎重にならなければならないのですが。
本来は個別に解決すべき問題や、あるいはシステムや社会構造の欠点に目を向けるべき問題を、私が問題にしている「若者論」は安易に世代論と絡めてしまい、たといそれが根拠の不確定な因果関係であっても、ステレオタイプの下に認めてしまい、短絡的な「結論」しか生み出さない。私はそのような言論体系をこそ撃つべきであると考えております。
この文章を書いているうちに、ここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手から、件のコメントの書き手に次のような批判がなされていました。
クラブとかストリートにいる子が「ナマの」若者だと言い切っている時点で、あなたも十分視野が偏狭だと思いますよ。誰が若者の代表性を保っているかという問題は、そう簡単に論じられることではないはずです。
ここまで明確に言い切られると、もはや私の出番はないような気がします。もとより、件の書き手が、以前のコメントにおいても《そもそも、「地方や若者がヤバいことになっている」と指摘することがどうして「偏見」になるのかサパーリわかりません。だって事実じゃん、と(笑)》と書いていることを考慮しても、この論者があらかじめ若年層の「代表」を設定していることが見えてきます。私はある階層の人を安易に「代表」として持ち上げていいのか、という問題意識でこのブログを運営しておりますので、この書き手がこのような態度に終始している限り、もうこれ以上言い合っても結局は水掛け論になるだけではないでしょうか。
もちろん、誰もが私の問題意識の前提に賛同してくれる必要はありません。ただし、このような問題意識を少しでも多くの人に共有してもらうためには、ブログで文章を大きく公開する、というあり方は有効に思えます。誰もこのブログを見ることを強制していませんから、もし論調が気に入らないのであればそれ以上関わらない。それでいいのではないでしょうか。
最後に。私が件の書き手の、私に対する批判が、単なる批判の度を越えている、と判断したのは、私に対する嘲笑的な表現が見られるからでもあります(先ほど採り上げた部分もそう)。これでは、単なる批判を通り越して、もはや私に対する侮辱にしか見えない。批判は歓迎しておりますが(現に批判も数件頂いております)これ以上そのような中傷に終始するようであれば、私も然るべき措置を採ろうと思います。
(追記:平成17年10月13日)
本当に、これが最後です。
まず、先ほど頂いた、私及びここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手による、件のコメントの書き手への批判に対して、更に反論を頂きましたが、むしろ支離滅裂としか言いようがありませんでした。例えば《「若者論」というのは真ん中かそれより下を対象として論じるものなんです。これは「お約束」です。それがまずいと思われるなら、そのこと自体を問題にされたらいかがでしょう》とおっしゃっておりますが、それは既に行なっております。もしお疑いになられるようなら他のエントリー(例えば「俗流若者論ケースファイル」シリーズ)をご覧になってください。私が決して、この書き手の言うところの《最初から度外視されている若者の中の上澄み層》ばかりに着目しているわけではありません(そもそも、私がそのような層に着目しているのであれば、「若者論」の「お約束」に楯突いていることになりはしませんか)。
また、この書き手は、私が社会階層の問題を論じていることに対し、その人たちの実情を知れ、としきりに言っております。しかしながら、私が問題にしているのは、ここで問題にしている社会階層の人たちの置かれている社会環境を問題にしているのであって、何もその社会階層に属する人たちの「属性」を論じているのではありません。それとも、この書き手は、「そういう人たち」と顔を合わせて、「これではフリーターや若年無業者になるのも仕方がない」と思わせて、それについて論じることをやめろ、というのでしょうか?
また、更にコメントが書かれてありましたが、私が安易に世代の「代表」を捏造してはいけない、と主張するのと、フリーターになる傾向が強い社会階層について論じることは矛盾する、とあります。しかし、どこが矛盾するのですか?あくまでも私はその階層が置かれている社会環境の問題として書いているのであって、決して彼らを若年層の「代表」として祭り上げているわけではない。
もう、これ以上水掛け論を続けるつもりはありませんし、この書き手がこれ以上他人を(なぜこのような書き方をしたのかというと、この書き手は私のみならずこの書き手をコメント欄で批判した人や、更には若年層全体を見下しているように見えたからです)見下した態度をとるのであれば、苦渋の判断ではありますが、以下の措置を採らせていただきます。
・件の書き手によるコメントを全て削除する。
・これ以降、この書き手によるコメントは無視する。また、コメントは見つけ次第削除する。
もう、これ以上関わる必要はないと判断した上での決断であります。
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コメント
クラブとかストリートにいる子が「ナマの」若者だと言い切っている時点で、あなたも十分視野が偏狭だと思いますよ。誰が若者の代表性を保っているかという問題は、そう簡単に論じられることではないはずです。
投稿: ao | 2005年10月13日 (木) 00時40分
オヤジ系評論家は、若者をくさすためならどんな論理も使うんですね。
>大人が「今ドキの若者」について論じる場
>合、こう言っちゃなんですが、後藤さんみたく
.>勉強ができて品行方正な一部の若者は「対象」に入ってないんです。これはもう暗黙の
.>了解と言ってもいい。対象を「世代」で括ると>いう乱暴なカテゴライズをする限り、平均的
>マジョリティに着目するしかない。
こうした論法は、特定のグループをたたくときによく使われます。元気よく、あるいは明晰に批判する人をつかまえて、「いや、あなたは別だ。あなたみたいな賢い上品な人は特別例外なんだよ。あなたは若者というよりもまるで大人みたいで、スゴイですよ」といいたて、人のプライドをくすぐりつつ抱きこむわけです。
そして、若者全体はダメだが、後藤さんや「大人」たちお気に入りの同じタイプは別の世界だから、というわけです。別に、上のほうの一割(1%)の優秀な層、といった言い方も使われます。
こんな安っぽい詭弁にひっかかる後藤さんではないと思いますが、念のため。
>あるいは特にサブカルチャー論の場合、平均>「以下」に積極的に着目することも多い。
いかにもサブカルチャーや下層の人たちをバカにした物言いですね。
若者を片っ端から公の場で侮辱しないと生きてゆけないオヤジどものデタラメだらけの情報を検証するのは大切な作業です。
アンファニズム(子どもの解放。子どもや子どもらしさがそれゆえにつぶされない世界を求める思想)の立場から、後藤さんの活動を応援したいと思います。
投稿: ワタリ | 2005年10月13日 (木) 15時53分
こんにちは。
詳しいことはよく分からないけれど、このブログ「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」は非常に面白いと思います・・・。
投稿: 喜八 | 2005年10月13日 (木) 17時25分
コメントに対する批判をした者です。私は後藤さんの精緻な分析に敬意を表す意味で、「(あなたが言うほど)若者の代表性は簡単に保たれない」とコメントしたつもりでした。私も若者として「語られる側」ですので、あまりにも無責任な発言をする「大人」が多いことに苛立ちを感じています。その意味で後藤さんの問題意識が私のそれと相違するものではないと思っています。言葉が足りなかったようで、後藤さん他、「若者」について発言なさっている方に不快な思いをさせてしまっていたら、お詫びをするほかありません。
投稿: ao | 2005年10月13日 (木) 23時03分
後藤さんへ、よく読めば、必ずしも私のコメントを嫌悪されたわけではなかったようですね(苦笑)とにかく、後藤さんの活動は応援しています。
投稿: ao | 2005年10月13日 (木) 23時48分
>> 0
久しぶりにこんな文章読んだよ。
ロード中にブラウザが固まるような長文を読ませてもらったけど、悪いけどオナニーにしか思えん。
アンタみたいに自他共に認めるインテリだったら、こんな言い訳する前に、しっかりもの考えてから上げろっての。
難しい言葉使ってグダグダグダグダ書きゃいいってもんでもないんだし。
日本の大学生ってこんなもんなんだな、改めて考えさせられる文章でした。
これからもオナニーがんばってください。オカズは提供できないけど柱の陰から応援していますよ。
投稿: ななし | 2005年11月13日 (日) 18時59分