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2005年11月23日 (水)

俗流若者論ケースファイル74・筑紫哲也

 左派と呼ばれる人たちでも、いざ若者論となると急に保守的な心情を露わにし、「一昔前の当たり前」の喪失を憂えたり、あるいは若年層の「劣化」を嘆いたりすることは決して稀ではない。今回検証するのは、左派論壇の大御所・ジャーナリストの筑紫哲也氏の、「週刊金曜日」の連載「自我作古」の第379回、「フツーの子の暗黒」である。というよりも、もう「フツーの子」などという表現を使った時点で、この記事のスタンスを疑わなければならないだろう。なぜなら、このような表現には、「あの犯人は、確かに今の基準から見れば「普通」かもしれないが、私たちから見れば明らかに「異常」である」といった意識が見られるからである。
 先に事実関係を確認しておくが、我が国においては少年による凶悪犯罪はピーク時である昭和40年ごろに比して激減している。これに関してはこの連載で再三ならず述べたので繰り返すことはしないが、多くのマスコミが「少年凶悪犯罪の急増・凶悪化」を喧伝するのは、少なくとも統計で確認しうる事実とはかけ離れていることを指摘しておきたい。
 最近の少年犯罪報道の特徴として、東京大学助教授の広田照幸氏が述べているような《ごくまれにしか起きない例外的な事件に対しても、青少年の病理を代表しているのでは、という視点から、細やかな詮索や解釈がなされるようになった》(広田照幸[2003])という傾向が挙げられよう。そして、事実誤認やあらかじめ青少年を危険視したようなシナリオによって、青少年を敵視するような世論を生み出しているのはほかならぬマスコミや言論である。
 筑紫氏はそのような構造を理解しているのだろうか。少なくとも、今回検証する文章を読む限りでは、筑紫氏もまた青少年不安扇動言説の発信源として働いているようである。
 この文章の中で、筑紫氏の事実誤認や偏見が現れている部分を引用する。今回検証する文章の、終わりの5分の2くらいにあたる。

 (筆者注:町田市で16歳の少年が15歳の同級生の少女を惨殺した事件について)犯行の翌日も普段どおりに投稿し、旧友たちと談笑していたという報道が事実だとしたら、この少年には人間的な感情が欠落している。そして、その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか。もっと言えば、犯行後も「殺す」ということがどういう現実なのか、わかっていないのではないか。仮想現実と現実との区別がはっきりしていないのではないか――とさまざまな推察が浮かぶ。これは逆に女子高校生が加害者として疑われている母親に毒物を盛った事件とも共通していて、ネット上の「告白」と現実とが分かちがたく交錯する。
 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。
 もうひとつ、人間関係で特徴的な現象は、この国の子ども、若者たちが傷付きやすく、ひどく傷つくことをおそれていることだ。これまた私個人は身に覚えがある感覚、「ない構成」の主因なのだが、子ども、若者の「叱られ下手」と親をふくむ大人たちの「叱り下手」が大きく関係しているように思う。「死ね!」と上司にしごかれ、反転して放火犯に至ったNHK記者はおそらく、叱られ体験がそれまでなかったのだろう。このままではフツーの子が世間を驚かす事件は止まらない。(筑紫哲也[2005]、以下、断りがないなら同様)

 どうして筑紫氏は、《このままではフツーの子が世間を驚かす事件は止まらない》などと他人事の如く語ってしまうのだろうか。少年による事件が起こったとき、個別の事情を無視し少年は危険だと喧伝し、残虐な犯行を生み出した「原因」を探すことに奔走し、親たち、大人たち、世間の危険ばかり煽るのはほかならぬマスコミである。
 また、このくだりにも注意すべき部分は多い。例えば町田市の事件に関する記述だが、筑紫氏は《その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか》と述べている。このような物言いは少年犯罪に関する報道並びに(素人理論による)「分析」では定番の文句であるのだが、問題は何をもってして《仮想現実(バーチャルリアリティ)》と考えているか、である。その点について筑紫氏は見解を示すべきである。
 《仮想現実(バーチャルリアリティ)》という言葉は、もはやこの言葉自体が仮想現実(バーチャルリアリティー)になりつつある――要するに、少年犯罪報道のたびにこの言葉が喧伝されるあまり、その内実が問われぬまま、問答無用で「悪」と見なされるようになっている。このようにイメージばかり先走ってしまった言葉に対して、ただステレオタイプのイメージだけで危険視するのではなく、もう一度原点に戻って省察することが必要ではないだろうか。
 また、女子高生による毒殺事件に関しては、少なくともこの犯人は、ある毒殺犯の記録を模倣して犯行を行っていたという可能性が極めて高い。その点について筑紫氏はどのように思っているのだろうか。
 NHK記者の放火事件に関しても、《叱られ体験が少なかったのだろう》などと呑気に言って済まされるような問題ではない。そもそもこの事件は、渦中のNHKにあって、その記者が放火という凶悪犯罪(放火は間違いなく凶悪犯罪である)をしでかしたから、NHKのスキャンダルの一つとして報じられただけで、あとは典型的な放火犯である。もちろん、この犯人の罪は厳しく問われなければならないが、少なくとも怨恨を理由に放火に走った、というのは、何も現代の若い世代だけでなくとも、報道に接していれば、様々な世代が同様の事件を起こしているのがわかる(ちなみに「少年犯罪データベース」では、昭和33年に、神奈川県川崎市の中学2年生の生徒が、教師に叱られたため学校を放火した事件が報告されている)。
 多くの人が青少年の堕落は国家の堕落であるかのごとく、青少年に関して悲観的なことばかり語るけれども、勝手に時代の病理として扱われる子供たちにとっては大変迷惑な話だ。筑紫氏には申し訳ないが、筑紫氏が敵視している《仮想現実(バーチャルリアリティー)》が定着した世代ほど凶悪犯罪は起こさなくなっている。自分の理想から外れてた環境で育つ子供たちを、有無を言わさず「異常」とし、犯罪者予備軍と見なすような言動はいい加減やめたらどうか。
 ちなみに、筑紫氏は《何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない》などと嘆いているけれども、そのような状況を作ったのもマスコミによるところが大きい。なぜなら、一つの犯罪を、さも現代の病理を代表しているかの通り仰々しく報じ、人々の安全意識を壊してきたのもマスコミだからである。
 筑紫氏は、この文章が掲載された数回前の「自我作古」で、「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」といった言葉を紹介している。ならばそれをまねて、我が国における状況を言おう。
 俗流若者論こそ、悪党の最後の隠れ家である、と。筑紫氏が、今回の如く、若年層をバッシングする目的で発動してしまう懐古主義を見ていると、強く感じる。この連載の第10回も参照されたし

 参考文献・資料
 筑紫哲也[2005]
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」=「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日/「自我作古」第379回
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月

 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」第40号、INAX出版

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2005年11月12日 (土)

子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~

 ジャーナリスト・草薙厚子氏の最新刊『子どもが壊れる家』(文春新書)、及び草薙氏が最近になって立て続けに「週刊文春」において発表している少年犯罪論を読んで、私は草薙氏が、我が国における「ジャーナリスト」と呼ばれる職種の人の中で最悪の部類に入る人なのではないか、と確信した。本書は、一番悪い意味で「ジャーナリスト的」な作品であり、単純に言えば本書は子供たちに対する危機・不信を煽る言説のみで構成されている。

 本書がいかなる本であるか、ということは、第1章「「普通の家庭」で犯罪が起きた」を読めば直ちに分かるであろう。まず、この章のタイトルが「「普通の家庭」で犯罪が起きた」。要するに、このようなあおり方は、最近の「普通の」子育てこそが犯罪者を生むのだ、という危険扇動言説そのものである。

 それだけではない。この第1章は、マスコミで喧伝されている、少年による凶悪犯罪を列挙されたのち、「今時の子供」「今時の若者」の「頽廃的な」特徴を示す(と錯覚している)アナロジーがたくさん詰まっている。私が本書を読んでいるとき、この章だけで大量に栞がついてしまった、ということをあらかじめ言っておきたい。

 《東京近郊の小学校教師によると、ここ十年くらいの間に「家ではいい子、学校ではやりたい放題」の子が男女ともに増えているそうです》(草薙厚子[2005]、以下、断りがないなら同様)24ページ。《「自分は自分のままでいい」と文化の鎧を拒否する生徒が増えていると言うのです(筆者注:だから校内暴力が増える、と草薙氏は説いている)》29ページ。《学級崩壊が叫ばれている昨今、協調性がない子どもたちが増えているのは確かです》同じく29ページ。《母親の中には、中学生だってプラダやグッチなどの高級ブランド品を持っていてもいい、と考える人がいるでしょう。それが親子の話題の中心だとしたら、コミュニケーションのとり方は本当にそれでいいのでしょうか?》32ページ。《各学校の現場教師は、生徒が友達同士のコミュニケーションを対面で取れなくなってきていることを危惧しています。今まであっていた子に言いたいことをその場で話さず、別れた後でメールを送りつける》34ページ。《確かに子どもが勝手に皮って言ったのではなく、親が変わり、その姿が鏡に映るように子どもが変わっていったのです》36ページ。《(筆者注:昨今の携帯電話を媒介したコミュニケーションは)希薄な人間関係の中で、対人的な共感性や感動もなく、その場での刹那的な快楽に支配された行動なのです》42ページ。《以前と比べてさらに同期が不明瞭な非行が増え、一体何を求めて危険を犯すのか判らない犯罪が多くなりました》43ページ。《戦後の混乱や貧しさゆえに子どもをかまう余裕を失った世代から、管理社会・競争社会を行きぬくために子どもを犠牲にした世代を経て、衣食足りて礼節を教えない世代へ》43ページから44ページにかけて。《誰もがしている「普通の行為」の中に、意外と大きな落とし穴が隠されているのではないでしょうか》44ページ。《核家族化は両親に快適な家庭生活をもたらしましたが、子どもを見る目、育てる手は確実に減りました。一方で少子化は、モノだけでなく親の関心までも過剰に子供に集中する結果を招いています》44ページから45ページにかけて。《誰もが少年犯罪を他人事とは思えない時代がこうしてやってきました》45ページ。

 24ページに~45ページにかけて、こういった言説がおよそ2ページに一つ出てくるのである。これらの言説は、特に新しい視座を開拓するわけでもなく、あるいは現在喧伝されている言説に対するアンチテーゼになることは当然なく、ただ「不安」を増長するだけである。特にこの章の最後にあたる、44ページから45ページにかけては密度が極めて高い。私が本書を、最悪の意味で「ジャーナリスト的な」本であると断定した所以である。

 草薙氏の狼藉はこればかりではない。本書第3章「過干渉とゲーム」に至っては、もはや学問的には完全に論破されたはずの「ゲーム脳」理論をはじめ、「今の子供たちはゲームのせいでおかしくなった」という俗論を「裏付ける」ための「証拠」なるものが次々と登場する。無論、それらに対する批判的な視座もなしで。もとより草薙氏は、平成15年に長崎での児童殺傷事件において犯人が「ゲーム脳」ではないか、という記事を「週刊文春」に書き、平成14年には講談社の「web現代」において「ゲーム脳」理論を喧伝していたという経歴もあるため、草薙氏がかのようにゲームを敵視する理由もわからぬでもないが。

 閑話休題、第3章においてゲームが子供たちの死生観を歪めることの「証拠」としていまや「定説」となってしまった、長崎県教育委員会の「生と死のイメージ」に関する意識調査が109ページから110ページにおいて引かれている。そして案の定、「死んだ人は生き返る」と応えたのが15.4パーセントだったという記述と、そのうち「ゲームでリセットできるから」と応えたのが7.2パーセントだったという記述が出てきている。
 私事で申し訳ないが、私はこの調査を「統計学の常識、やってTRY!第2回」という記事で検証したことがある。この調査の問題点に関してはこちらを参照していただきたいが、草薙氏は、この調査の調査票を読んだのだろうか。少なくともこの調査票は、「なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか」というアンケートに関しては、全てがメディアがらみという、誘導尋問といっても仕方のないやり方が採用されていたのだが。

 111ページから136ページにかけては、「ゲームの脳に与える悪影響」なるものが紹介されているのだが、ここで出てくるのは、森昭雄(日本大学教授)、澤口俊之(北海道大学教授)、川島隆太(東北大学教授)、片岡直樹(川崎医科大学教授)といった、これまた「お決まり」の面子である。しかも川島氏以外は、「ゲーム脳」の熱心な支持者(森氏に至っては「ゲーム脳」の「教祖」)であるから、草薙氏がいかにゲームを敵視することを本書で目的としているかがわかるであろう。これらの面子に対する批判は、過去に何度も指弾しているので、改めて述べることはここではしない。(詳しくは、「俗流若者論ケースファイル」シリーズの「07・森昭雄」「08・瀧井宏臣&森昭雄」「16・浜田敬子&森昭雄」「37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」「48・澤口俊之」「56・片岡直樹」「64・清川輝基」「69・中村和彦&瀧井宏臣」「71・森昭雄」を参照されたし)しかし根拠の極めて疑わしい言説を平然として「子供がおかしくなった証拠」として持ち上げるのは、ジャーナリストとして、というよりも青少年言説に携わるものとしてあってはならない行為であると指摘しておきたい。

 ついでに川島氏は、「ゲームが脳に及ぼす悪影響」を実証した人と本書では扱われているが、川島氏の分析はもっとニュートラルなものだし(「ゲームは前頭葉を活性化させることはないが、「癒し」としての効果はあるかもしれない」というもの。ちなみに川島氏の「癒し効果」説については本書でも触れられているが、なぜか草薙氏は127ページで否定してしまっている)、川島氏自身も「ゲーム脳」との関与を必死に否定している状況である。

 ここまで、本書第1章と第3章における草薙氏の記述を検証してきたけれども、私がもっとも衝撃を受けた記述は、第4章139ページにある。曰く、

 しかし子どもを育てる親は、すべてが解明されるのをただ待っているわけにはいきません。子どもに悪影響を与えるものを推測し、常識で判断し、予防的に行動する必要があります。

 と。草薙氏は、13ページにおいても、《「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです》と書いている。もとより、《子どもに悪影響を与えるもの》なるものが扇動言説によって左右されるのも問題であるが、私はこのような記述を見るにつけて、次のような疑問を強く持つ。

 子育て言説は「脅迫」であるべきなのか?

 本書の底流において、重低音の如く常に流れている思想は、「今の子供たちは危険だ、それは今の親たちの間に広まっている「普通の」子育てが「今時の危険な子供たち」を生み出しているからだ」というものである。これはすなわち、あなたが「普通の」子育てをしている限り、あなたの子供がいつ凶悪犯罪者になってもおかしくない、という「脅迫」に他ならない。

 何度も指摘していることだが、我が国においては少年が凶悪犯罪を起こす数は減少している。それは人口比でもいえることである。しかし昨今の我が国において、青少年の「悪化」「劣化」「凶悪化」を煽り立てる言説はバブルの如く増加し、かえってそちらのほうが、「善良な」大人たちの現実感覚、あるいは青少年に対する感覚を規定しているのかもしれない(この証左として、内閣府が平成17年1月に行なった「少年非行に関する世論調査」を挙げておこう。同調査によると、「青少年による重大な事件などが増えていると思うか」という問いに対して、「増えている」と答えた人が約93パーセントも存在したそうだ)。

 言説の増大が、やがて不安を増長させ、さらにまた不安言説を増加させる、という構造も存在しているのかもしれない。これに関しては、そのような構造を示す記述として、東京大学助教授の広田照幸氏による記述《親が子どもへの要求水準を高めれば高めるほど、また、子どもに対して時間や熱意を注げば注ぐほど、親の期待通りに子供が反応してくれないことが気になるし、自分のミスや失敗が気になる。「子育ての失敗」への不安が強まっているのは、現代の親が子どもへの要求が高すぎたり、子育てに熱心すぎることに一つの理由があるのではないだろうか》(広田照幸[2003])、及び皇學館大学助教授の森真一氏による記述《現代社会はデュルケムのいう「聖人たちから成る一社会」あるいは「僧院」のような社会である。また、「共同意識がより協力となり」人々の間のズレが金賞貸地得る社会でもある。それゆえ、人々は相互に「共同意識」からの微妙なズレも見逃さず、これを避難する》(森真一[2000])を採り上げておく程度にしておく。

 私がここで問題にしたいのは、これからの子育てマニュアルは、「教育の失敗」としての「今時の若者」「今時の子供」を設定し、あいつらは社会の「敵」だ、だから自分の子供をあいつらの如き社会の「敵」にしてはならない、というものでなければならないのだろうか、ということだ。このような子育て言説の蔓延は、草薙氏の本書に限らず、例えば最近出た、株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役の浅井宏純氏と、ジャーナリストの森本和子氏による共著『自分の子どもをニートにさせない方法』(宝島社)という本においては、「社会悪」としての若年無業者(=「ニート」)という姿が強調され、こいつらの如くさせないための「子育て」の手法――とはいえ、本書において展開されているのが、国に対する誇りを持たせよ、とか、生活習慣を見直せ、とかいったものなのだが――が――そのような子育てで本当に子供が「ニート」にならずに済むのか、ということを置き去りにしたまま――が展開される。

 ここで壊されているのは、「信頼」をベースにした関係性ではなく、むしろ自分の子供を「敵」にさせないという、「不信」をベースにした関係性ではないのか。草薙氏は本書において、自分の子供をペット化させてはならない、といっているが、かえってこのような不安扇動言説、並びに「敵」を設定してそれに「させてはならない」という子育て言説の増大こそ、子供をペット化させる最大の要因ではないか。

 今の時代の子育て言説は、「今時の」若年層や青少年を「敵」として規定することからはじめなければならないのか。子育て言説の変遷に関しては、もう少し深く追っていく必要があるようだ。

 ちなみに草薙氏は、「酒鬼薔薇聖斗」の更正プログラムに関して記述した本『少年A矯正2500日全記録』(文藝春秋)という本を、この「酒鬼薔薇聖斗」が仮釈放される平成16年4月という絶妙のタイミングで刊行して、更に本書は大宅壮一ノンフィクション賞の候補になるが、草薙氏に盗作疑惑が浮上して受賞は逃している。また、草薙氏に関しては、ジャーナリストの横山政起氏が「ジャーナリスト草薙厚子氏を告発する会」なるウェブサイトで、横山氏が草薙氏から受けた被害を記している。

 参考文献・資料
 草薙厚子[2005]
 草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年10月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年9月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 参考リンク
 「たこの感想文:(書評)子どもが壊れる家
 「草薙厚子,子どもが壊れる家-タカマサの気まぐれ時評

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」40号、INAX出版

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2005年11月11日 (金)

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 このブログは、今月8日で開設1周年となりました(旧ブログも含めて)。だからといって何かやる気もあまりないのですが。でも、何かやってみようかなあ。 

 もじれの日々:あっぷあっぷ(本田由紀氏:東京大学助教授)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:情報ツウ:杉村太蔵議員の若者へのエールと、福岡政行ゼミ「ニート問題」(古鳥羽護氏)

 現在発売中の「SAPIO」(小学館)にて、エコノミストの田中秀臣氏が昨今の「ニート」論の広がりを批判する記事が掲載されているようです。もとより現在発売中の「SAPIO」に関しては、かの曲学阿世の徒・正高信男氏が登場しているので、それを斬る目的で近々買う予定なのですが(この疑似科学者の記事が掲載されていなかったら「SAPIO」なんて買わなかっただろうなあ)、最近の話題において「ニート」という言葉によって若年層の就業構造の問題や経済的な問題が隠蔽されている。

 最近ではこのような「ニート」論に対する逆襲が静かながら始まっているようです。代表的なのは田中氏と本田由紀氏、そして内藤朝雄氏(明治大学専任講師)でしょう。本田氏も、最近は「ニート」論及び玄田有史氏(東京大学助教授)への批判のエントリーが多くなっている。本田氏に関して言うと、最近ネット上で話題になっているものといえば「日本の人事部」というサイトに掲載されたインタヴュー「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」ですが、本田氏は若年の就業の研究に携わってきた立場から、主として社会構造の視点から「ニート」論を批判している。

 一方、内藤氏は、社会学的な立場から批判を加えています。内藤氏による「ニート」論批判に関しては、「図書新聞」平成17年3月18日号か、現在発売中の「10+1」(INAX出版)を読んで欲しいのですが、内藤氏による「ニート」論批判の論点は、「ニート」論が我が国においては社会構造の問題ではなく青少年の心理的な問題として受容されてしまっていること、「いい年して働かない奴」「親の金を食いつぶして遊びほうけている奴」は「金持ちの道楽息子」みたいに昔からいたのに、なぜか最近になって突然問題化されるようになったこと、そしてこのような「ニート」論の広がりが様々なことを隠蔽し、大衆の憎悪を煽り立てて国家主義的な策動が支持されてしまうことなどが挙げられます。

 これらの議論に加えて、私は「自立」ということがなぜか絶対視されている、ということを付け加えてみたいと思います。山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「パラサイト・シングル」論に始まり、昨今では「自立しない」=悪、という図式がまかり通っている。正高信男に至っては、「自立しない」=サル、なんてことを言ってしまう始末です。しかし、これほど経済状況が悪化しているのであれば、「依存」というのも一つの手段、あるいはライフスタイルとして認められるべきではないかと。この「自立」を絶対視した「ニート」批判、という歪みは、元々「ニート」という言葉を輸入した玄田有史氏から始まっており、玄田氏は最近出た本(『働く過剰』NTT出版)や「中央公論」の連載コラムにおいて、「家事手伝い」をなぜ「ニート」と呼ばなくてはならないか、ということについて「家事手伝い」は家庭に縛り付けられて「自立できない」存在である、だから「ニート」であるということを言っている始末。
 ある意味では、「ニート」論の歪みは、そのまま我が国における若者論の歪みのヴィヴィッドな反映といえるかもしれない。

 参考までに、私のブログのエントリーで「ニート」について言及したものもいくつか挙げておきます。

 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 「ニート」論がらみで少々宣伝しておきますと、本田氏と内藤氏が来年の年明けに出す本に関して、私も執筆者の末席に加わることになるかもしれません。今は原稿のやり取りの真っ最中なのですが、とりあえず私は巷の「ニート」論を分析・検証する立場、ということで。

 本田氏といえば、今月末あたりに「ハイパー・メリトクラシー社会化」(大雑把に言えば、「人間力」みたいなことを喧伝する社会のことらしい)に関して述べた本が出るそうなので、こちらも注目しておきたいところです。

 何か勘違いしている人を発見。

 杉村太蔵ブログ:「杉村太蔵が聞きたいっ!」開催のお知らせ(杉村太蔵氏:衆議院議員・自民党)

 まず書き出しにびっくり。「我こそはフリーター、我こそはニートという皆様へ」ってなんですかぁ。そこまで堂々と言える人がいるんかいな。しかも杉村氏は、このエントリーにおいて、フリーターなり「ニート」なりをどうもポジティブに捉えすぎているのではないかという気がする。そもそもこの人、自分のことを「フリーター・ニート世代の代表」みたいに吹聴しているみたいですが、そもそも自分を「ある世代」の代表に置くこと自体が間違いなのではないか。そもそもそのような宣伝は、ある意味では上昇意識の低いフリーターや「ニート」を置き去りにしてしまう、という危険性もなきにしもあらず。

 もっとも、市民の声を聞こうとする態度は評価できますが。その点において、最近公開した「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」で紹介した、竹中平蔵氏のブログのこいつぁアホかと思わず天を見上げてしまうようなエントリーよりは遥かにマシ。杉村氏は、またある意味ではですが、今後大化けする可能性はかなり高い。一回会って話をしてみたいが、私は仙台在住だし、授業もかなり忙しいし。成人式実行委員会の仕事も詰まってきたし。

 ANOTHER BRICK IN THE WALL:国民運動に参加した芸能人について
 目に映る21世紀:「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」

 「若者の人間力を高めるための国民運動」。これこそ「何か勘違いしてるんじゃないか」の典型例かな。こういうのを杉村氏は目指しているのかどうかは分かりませんが、少なくともこういう歪んだ「希望」を与えることによって、目の前の問題が解決するかのごとき錯覚を与えることはやめて欲しい。こういう「人間力」喧伝って言うのは、ある意味においてカルト宗教的かもしれない。「人間力」向上による「解脱」を説く点において…。

 SOUL for SALE:格差バブルと下層の論理(鈴木謙介氏:国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員)
 千人印の歩行器:[ネット編]文明の背後に野蛮が潜んでいる(栗山光司氏)

 なんか最近「下流社会」みたいな議論が大流行ですが、私がどうもこの議論の後ろに胡散臭さを感じずにはいられないのは、こういう議論が、結局のところ単なるマーケティング的カテゴライズ及びそこから来る空疎な若年層バッシングにしかなりえないということ。その点においては、「下流社会」は本質的に「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」みたいな疑似科学的レイシズムと変わらないのかもしれない。私が何故こういうことを言えるかというと、それは本書、及び本書に対する書評(金子勝、吉田司、松原隆一郎の3氏。そしてこの3氏の「下流社会」評が掲載されているメディアが全て朝日新聞系だというのがこれまた興味深い)を読んで、結局のところ『下流社会』(光文社新書)の著者・三浦展氏と金子・吉田・松原の3氏が、最終的には若年層を危険視、あるいは蔑視していたことです。

 金子氏と松原氏は信頼できる書き手なのですが、「下流社会」論への肩入れを見てかなりがっかりしました。金子氏については、先ほどリンクを貼った総選挙総括を参照してください。

 我々は若年層を「説明」するための「便利な概念」を手に入れすぎたのではないか。「下流社会」「ゲーム脳の恐怖」「ケータイを持ったサル」はその典型ですが、我々はこのような「便利な概念」を手に入れすぎたことによって、それらに束縛されるようになった。そして、「理解できない」若年層の行動に対して、森昭雄や正高信男などといった扇動屋の言説に「癒し」を求めるようになった。このような「癒し」の行方、またはこれらの扇動言説がレイシズムにつながる可能性も見ないで。

 「文明」というのが、「自己」と「他者」の線引きを強化し、「他者」に対してなら何をやってもいい、ということにつながるなら、それこそ「文明の超克」が必要なのではないか…って、ちょっと言いすぎたか。とりあえず、インターネットやテレビゲームに「はまっている」人たちは年収が低くて、それゆえに差別的言動に走ったり自民党を熱狂的に支持したり、という論理は偏見だ、ということを言っておきたいっ!

 わにぞう日記:戦後教育のせいで子供はおかしくなったのか?
 全面的に同意します。このエントリーの議論は、戦後教育なるものを批判する人たちが、青少年・若年層を過剰に貶めることによって、現代日本人を自虐している、という論理の錯誤というものですが、私がかねてから思っていたことをうまく文章化してくれています。

 すこし飛躍するのだが、「自虐史観」をしばしば非難する論者たちが、現代日本社会に対してはきわめて自虐的な議論を好んで用いていることが気になっている。現代日本において、日本人も若者も堕落しきっていることを口を極めて指摘し、そのような彼らにかつての戦争の時代の国民や若者を非難する資格があるのか、と問いかける。多くのまじめな人がこの問いかけに影響を受け、現代日本の現状へのうしろめたさもあって、歴史への批判をみずから封じ込めているようにみえる場合がある。これは実は現代日本人の直接的自虐である。現代の日本人・少年を否定することにより、戦争中のある種の青春を天まで持ち上げるのだ。また、自虐=自己否定の焦点は何故か、自由や人権・個人の尊厳の尊重といった近代民主主義の原則、あるいは戦後民主主義そのものに向かうのである。この手の自虐の構造あるいはメカニズムも、どうも気になって仕方がない。

 もっとも私は、このような議論の錯誤は、青少年と戦後教育を口走る人が、自分は「戦後」の人間ではない、悪としての「戦後」を脱した「正しい」人間なんだ、と錯覚していることから始まっていると思うのですが。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:板橋両親殺害事件「あんな単純な理由で殺したと思われたくない」マスコミが理由全部に触れない違和感(古鳥羽護氏)
 こういう報道が蔓延するのは、結局のところ、背景にある特殊な事情を無視して、このような突発的事件を「どこでも起こりうる事件」に仕立て上げ、不安をあおりたいだけなのかもしれませんね。そういう報道に、断固として「NO」と言っていきましょう。そもそも少年犯罪はピーク時に比べてかなり低い水準を推移しているのですから、なぜ犯罪が「起こらないか」ということを検証すべきではないでしょうか。

 月よお前が悪いから:[規制]恐れていたことが現実に
 児童ポルノを持っているだけで、犯罪を起こしていないのに犯罪者扱いですか。そもそも「何々を持っているからこいつは犯罪を起こす可能性が高い」というのは、「良質な文化」みたいなものを国家が規定してしまう可能性がある。更にそれを通り越して、国家が「理想的な日本人」を規定してしまう可能性がある。

 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本において、国家が「正しいコドモ」を規定すると、ゆくゆくは「正しいオトナ」も国家によって規定されかねない、という議論がなされていますが、そういう点に無関心であってはいけないと思います。

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2005年11月 6日 (日)

総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ

 竹中平蔵氏の公式ブログで、「◆政局マニア系◆ フリーターと新しい自民党との革命的可能性(1)」なる記事があり、そこで《 20代自身の「9.11総選挙総括」が期待されるところです》と書かれていたので、私が総選挙の約半月後に書いて、「論座」に投稿して没になった原稿をトラックバックしておきます。

 ちなみにこのエントリーの書き手(おそらく竹中氏ではない)は、このエントリーにおいて《 ここには、小泉総理と若い層が「真ん中」の層をサンドイッチにして「文化大革命」をしかけている、という新鮮な構図が》などということを書いておられますが、この論文でも紹介した、平成17年9月28日付の読売新聞の調査でも、若年層で自民党に投票した割合はせいぜい約45%と出ているので、若年層が自民党を積極的に支持した、ということはあまり言えない。

 結局のところ、この書き手も、自分たちが若い人たちに支持された、と主張することによって、自己満足を得たいだけではないかと思われます。

 このエントリーの書き手は、主として左派による若年層批判を採り上げていますけれども、若年層を過大視して、他の要因を見誤っている、という点では同じ穴のムジナです。
 そもそもこの書き手は、自民党参議院議員の世耕弘成氏が、今回の総選挙のメディア作戦に関して「論座」平成17年11月号において「全てセオリー通り」と語っていることをいかに説明してくれるのでしょうか。

――――――――――――――――――――

 1・東京新聞の若年層バッシング
 平成17年9月11日の、自民党の「歴史的大勝利」で終わった衆議院議員総選挙の結果を、私は東京で知った。9月12日のことだ。というのも、私は9月12日から15日にかけて、東京と名古屋に旅行に行っていたので、11日の深夜に仙台を出発するバスに乗って、12日早朝に着いた。そしてコンビニで東京新聞を買い、ホテルに入って、荷物を預けようとしたところ、私が泊まるべき部屋が丁度空いていたので、早めにチェックインを済ませてもらい、私は部屋で2時間ほど仮眠を取った。

 その際、私が気になっていたのが、その東京新聞の記事における、評論家の吉武輝子氏の談話であった。吉武氏は、今回の総選挙に関して、《イラクへの自衛隊派遣を見ても、本来は憲法を変えるかどうか、戦争ができる国にするかどうかが問われる選挙だった。だが(イラク派遣は主な争点とならず)郵政民営化に反対する政治家に「刺客」を立て反対は認めない首相の手法に争点が当たり、アナウンス効果に乗りやすい若い層に影響を与えた。行きつく先が「がけ」かもしれないのに、若者は笛吹きがうまい人に黙って付いていく雰囲気があり、平和憲法改正への動きが進むのではないか》と語っていた。どうして吉武氏はここまで若年層を見下したような視線で物を語れるのだろうか。もしこの選挙戦においてアナウンス効果が自民党の「歴史的大勝利」をもたらしたのであれば、まず批判されるべきはそのアナウンス効果を煽り立てたメディアではないか。それなのに吉武氏はその点を考慮せず、若い世代だけを叩いている。

 同様の論調は、13日付の同紙で更に強くなった。同紙は、特集面の「こちら特報部」という欄で、「自民寄りくっきり 20代のココロ」なる記事を書いていたのである(大村歩、浅井正智[2005])。自民党を支持することさえ《ココロ》の問題かよ、と私は半ば呆れて読んでいた。この記事においては、今回の総選挙で自民党が「歴史的大勝利」を収めたのは、小泉純一郎という「強い存在」に憧れて、思考停止で支持し、投票したからだ、というスタイルで書かれており、これも若い世代ばかり問題化して、それ以外の要因を全く無視した記事であったとしか言いようがない。特に私が笑ったのは、日本青少年研究所所長の千石保氏の談話である。千石氏は、「改革を止めるな」という自民党のキャッチフレーズは「若者言葉」だ、と断定する。その根拠は《元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う》(大村、浅井、前掲)だということらしい。この談話において、「若者」という存在が、「流行に簡単に飛びつくが、その内実を考えない」存在として貶められているのは明らかだろう。第一、《元気がいい。ただし中身は問われていない》というのを《若者言葉》の定義と刷るならば、若者論にこそそのような言葉が溢れているのだが(例えば「ゲーム脳の恐怖」とか)。

 また、この記事においては、北海道を除く全ての地方において、20代が自民党に多く入れたのだ、という調査の結果を載せている。しかし、どれくらいの割合の20代が自民党に投票したのか、ということは一切書かれていない。

 2・朝日・毎日の若年層バッシング
 そして仙台に帰ってきてから調べたところ、他の新聞でも、今回の投票結果を若年層のせいにする論調がちらほらと見られた。例えば平成17年9月13日付の毎日新聞においては、神戸女学院大学教授の内田樹氏が、総選挙の総括を書いていたのだが、その毎日新聞の記事に更に加筆した「勝者の非情・弱者の瀰漫」という文章において、内田氏はそこで若年層の投票行動を問題化している。曰く、

 小泉首相のこの「先手必勝」の手法には若い有権者に強くアピールする要素があったように思われる。それは「負け犬を叩く」という嗜虐的な傾向である。

 自民党の若い公募候補たちが党公認を得られなかったベテラン政治家を次々と追い落としてゆく風景に若い有権者はひそかな快感を覚えたはずである。

 「弱者は醜い」、「敗者には何もやるな」。これが今回の選挙を通じて小泉首相が有権者に無言のうちに告げたメッセージである。そして、この「勝者の非情」に有権者たちは魅了されたのである。(内田樹氏のウェブサイトから)

 と。なぜ内田氏は《若い有権者》をしきりに問題化するのか、最後まで読んでも分からなかった。おそらく今回の選挙において投票率が7%以上も上がったことから、これまで選挙に行かなかった若年層が投票に行ったのだ、と錯覚し(なぜ「錯覚」と断定するのかは、後に述べることにする)その若年層の多くが自民党に投票したと内田氏は感じ取ったから、このような論理を述べたのであろうか。しかし、この文章にも、先に引いた東京新聞の特集と同じように、若年層を過度に貶めるような論調が出ていることは否めないだろう。
 同じような、今回の衆院選において若年層を問題化する言説は、朝日新聞にも出ていた。慶応義塾大学教授の金子勝氏は、平成17年9月28日付の朝日新聞「論壇時評」で、東京大学助教授の玄田有史氏の文章を引いたあたりから、《では、この大量のフリーターやニートを抱える20代は、どのような投票行動をとったのか》(金子勝[2005])と切り出す。そして金子氏は、民間コンサルタント代表の三浦展氏の最新刊『下流社会』(光文社新書)を引いて、《現在の生活を楽しもうとする、この若者たちの心象風景には、社会どころか家族さえ見えてこない》(金子、前掲)などと書いている。しかし三浦氏のプロファイリング(例えば《パソコン、携帯電話、テレビゲームを持ち、「しばしば非活動的で、ひとりでいることを好む」》というもの)が、ある種の偏見(ここで引いた文章で言うと、この三浦氏のプロファイリングには、パソコンや携帯電話、テレビゲームの所持者は内向的で、人とのコミュニケーションを拒む頽廃した人間である、という偏見)に基づいていることを忘れてはいけないと思う(そもそも同書においては、なぜ《下流》ではいけないのか、ということが説明されておらず、著者の感情が先走っているように思える)。

 3・現役20代のささやかな疑問
 さて、これらの、総選挙の結果を若年層のせいにする言説において、私にはいくつもの疑問が浮かんでくる。

 一つは、今回の衆院選における投票率が前回の衆院選に比して7%以上上がったということは事実として存在するのだが、果たしてそのうちどれくらいが若年層なのか、ということ。世代別の投票率に関しては、「明るい選挙推進委員会」がまとめない限り分からないのだが、少なくとも東京新聞や打ち出し、及び金子氏が文章を書いた時点では、そのことはまだ分からない、ということだ。参考になる資料があるとすれば、高知新聞社のウェブサイトにおいて、若年層の投票率が前回衆院選の約24%だったのに対し今回は約42%と、およそ18ポイントほど上がった、ということが挙げられよう。しかし、全国において20歳代の投票率が仮に20%上がったとしても、そこで新規に得られる票数は約320万票であるが(この推計には総務省統計局の推計人口を用いた)、今回の総選挙で投票率の増分に相当する票数は小選挙区が約857万票、比例が約871万票であり、また全体の票数は小選挙区が約6780万票、比例が約6800万票なので、こと若年層ばかりを責めることはできないのではないか。

 また、一体どれほどの若年層が自民党に投票したか、ということもここでは触れられていない。ここで参考になるのは、平成17年9月28日付読売新聞に掲載された、比例でどの政党に投票したか、という調査であろう。それによると、20歳代は、およそ45%が自民党に投票した、と答えている。しかし、これは他の世代と比べてみると、これは40歳代に次いで2番目に低い数字であり、一番多いのは60歳代で、およそ53%が自民党に投票したという。これはあくまでも調査の結果であり、実際に投票行動を調べたわけではないのだが、それでも若年層の多くが自民党を支持した、と考えるのは難しいようだ。

 そもそも、データが不十分なうちに、若年層を「敵」として、こいつらが馬鹿だから自民党が勝ったのだ、と断定するのは、若年層に対する差別に他ならないか。

 4・「小選挙区制」「公明党」は聖域なのか
 実際問題、この選挙においては、これらの論者が触れようとはしない、いくつかの大きな問題が横たわっているようだ。

 例えば小選挙区制。前回衆院選においては、小選挙区における得票率は自民党約44%、民主党約37%だった。しかし今回の衆院選では、自民党約48%、民主党36%と、民主党が微減したのに対し、自民党も微増程度だった。しかし議席は、ご存知の通り自民党は219議席、逆に民主党は52議席と、大きく差が開いた。これこそが小選挙区制のなせる業、というべきではないだろうか。要するに、小選挙区制度というものは、少しでも多くの人を見方に付けることができれば大幅に議席を伸ばすことができるが、逆に多くの民意をないがしろにしてしまう。そのような小選挙区制の特徴や恐ろしさを、自民党の「歴史的大勝利」という結果によって我々は学ぶことになってしまった、というのが、少なくとも今回の選挙の本質の一つになっているのではないか、と思えてならない。この事実は、逆に次回の選挙で民主党の宣伝戦略が成功したら大幅に議席を巻き返せる、ということも表しているのだが、それよりは現行の選挙制度の歪みを指摘したほうがいいような気がする。

 また、今回の選挙において、自民党と公明党の選挙協力が明白になり、この2党はもはや切っても切れない関係になったということが一部で指摘されている。多くの自民党からの出馬者が「比例は公明党に」と演説したのは有名な話だ。各種調査においても、例えば平成17年9月30日付読売新聞に掲載された分析によると、公明党を推薦した人の約8割が小選挙区で勝利したり、また公明党の票が7割消えると自民党の出馬者が58人落選するなどという調査結果が出ている。若年層の投票行動に対しては口うるさく避難する人たちが、なぜこのような大きなファクターに触れようとしないのだろうか。

 5・選挙分析を狂わせた「B層」的世代認識
 私は、今回の選挙において、若年層を敵視する言説を読んでいると、自民党が(正確には自民党が発注したコンサルティング会社が)小泉内閣の支持基盤の一つである、小泉総理や閣僚のキャラクターを支持する層を「B層」と呼び、それらの層は「IQが低く、具体的なことは分からない」と勝手に規定し、そいつらを扇動しろ、と戦略を立てたことを知ったときと同様の気持ち悪さを覚えてしまう。「論座」編集部の高橋純子氏は、《小泉総理のキャラクターを支持する層が「IQ軸 Low」に位置づけられていたという事実は、覚えておきたい》(「論座」平成17年11月号「編集手帳」)と憤っているけれども、今回の選挙戦に関して、若年層の投票行動を問題視した人たちは、同様の認識を若年層に抱いてはいなかったか。

 先に上げた3つの記事の執筆者、特に内田樹氏は、小泉首相や自民党を支持し、自民党に投票した人たちを、他人に対する想像力がなく、自民党の古老の議員が次々と落選していく様に密かな快感を覚えることしかできない人物であると描き出した。それ以外の執筆者も、若年層を、ただ「強い存在」についていくだけの、思考を放棄した存在として描いている。しかし、そのようなプロファイリングは、かえって若年層の現実を見誤らせることにならないか。

 もし、若年層が、金子勝氏の言うとおり、《おそらく「政治のバブル」が崩壊すれば、彼らが最も被害を受けるだろう。だが、そうなっても、彼らは今を壊してくれる強者の出現をひたすら待つしかない》(平成17年9月28日付朝日新聞)ほど追い込まれているのであれば、それこそ若年層に対する社会的支援、若年層を苦しめる社会環境の改善を訴えるべきではないだろうか。それなのに、自民党を支持した(とされている)若年層を、例えば金子氏の言うとおり、テレビゲームや携帯電話、インターネットに没頭して社会が見えなくなってしまった存在として貶めたり、あるいは東京新聞の記事で登場していた、臨床心理士の矢幡洋氏の如く、若年層を《今の二十代は、いじめ問題をくぐり抜けてきた世代で、目立てばいじめられるため角が立つことに対する恐怖感がある一方で、強い者の決断を、内容を問わずにリスペクト(尊敬)する。つまり思考放棄だ》(大村歩、浅井正智[2005])とすることによって、社会的な問題を「内面」すなわち心理的な問題に矮小化したりという行為は、結局のところ残酷な「自己責任」論にしかなりえず、若年層を馬鹿にするだけのものにしかならないのではないか。金子氏は、玄田有史氏の《「200万を越すフリーターと80万ともいわれるニートの存在、そして年間3万人を数える自殺者」を「何よりも現代日本の『苦しみ』として捉え受け止める精神が、いま求められている」》(金子勝[2005])という言葉を引く。しかしそのような人たちに対する想像力がもっとも欠けていたのは、この選挙の結果を若年層の投票行動に責任をなすりつけた人たちではないか。

 6・26歳の新人議員に執着するマスコミを嗤う
 このようなマスメディアにおける、選挙「後」の頽廃に関しては、テレビにおいては、今回の総選挙で比例関東ブロックで当選した、26歳の新人議員の杉村太蔵氏に対する態度として現れた。杉村氏は、例えば「議員になれば電車が乗り放題」「年収が2500万円に上がった」などという、まさに庶民の感情を表面化させたかの如き発言でワイドショーや週刊誌をにぎわせた。杉村氏に対しては、多くの人がバッシングしていたが、そのバッシングを支える構造は、「俺にもこういうことを言わせろ」とか「こんな奴を税金で食わせるなんて」みたいなものに依拠していた。しかし、結局のところ、そのような認識は、結局のところ「今時の若者」風情が浮かれやがって、というルサンチマンに過ぎなかったのではないか。要するに、自分の大事な税金を、「今時の若者」という「社会の敵」に使わせるのは許せん、という歪んだ「納税者の論理」である。このようなバッシングは、私が成人式の実務の場に関わっているからだろうが、一部の人が起こした成人式の暴動に対する「自分の税金がこんなことに使われているなんて」というバッシングや、あるいはフリーターや若年無業者に対する支援に対する、「そんなのは親が悪いんだから、逆に親から税金を取ればいい」というバッシングと重なって見えてしまう。そういう瑣末なことに汲々としている間に、例えば青木幹雄氏のヤミ献金に関する証人喚問が覆い隠されていく。

 7・投票するだけでいいのか
 話が少々横道にそれてしまったが、再び「選挙と若者論」の話題に戻ろう。新聞の社説やコラムが若年層の投票率を上げようとする際、必ず使われるレトリックは「若年層が投票行動に出ないと、若年層を無視した政策が行なわれるし、現在国の背負っている借金も若年層に押し付けられる」というものである。だから若年層が投票行動に出て、その存在を示せばいい、となるわけだが、しかし事態はそんなに単純なのだろうか。例えば、「ひきこもり」や若年無業者に対する支援策は、その方法論には批判はいろいろあるし、これらの活動が政治家ではなく官庁がベースになっていたことも反証の一つとして挙げられるのだが、少なくとも若年層が投票行動に出たから、という理由で行われたものではなかった。また、このような語り口には、現在の政治家の力を過小評価している、あるいは政治家の「不作為」を問いただす、という視点が欠落している。

 少なくとも今回の選挙戦において、青少年問題に関しては、マニフェストを開くまでは誰もわからずじまいだったのではないか。本来であれば、そのような「争点以前の問題」を争点のレヴェルに押し上げるのは、メディアの仕事であるはずだ。しかし、今回の選挙においては、マスコミは完全に自民党のメディア戦略に乗ってしまい、そのような作業を怠った。なので、そのような作業は、ネット上で有志が行なわざるを得なくなった。このようなメディア状況の中で、仮に投票率が上がったとしても、それは「B層」がうまくメディア戦略に乗ってくれた、という文脈でしか認識されないのではないか、という気がしてならない。

 投票することに意義がある、という、さも投票を自己目的化しているかのごとき言説は、既存のメディア環境における政策論争の貧困さを覆い隠してしまうことにならないか。そうでなくとも、この選挙には、わずかながらの希望が見えている。

 8・希望はある
 一つはネット上の選挙活動について。私は自分のブログで、主要5政党のマニフェストにおける、青少年問題に関する記述を比較して、どの政党を支持すべきか、という記事を書いたことがあるが(ちなみに結論としては、私は民主党支持を打ち出し、そして民主党に投票した)、これはネット上で表現規制や青少年の行動規制に関心のある有志がネット上で行なった活動である「選挙に行こう」に触発されたものである。この選挙活動では、特にゲームやアニメに関する表現の規制や、コンテンツ産業に対する各議員の評価を明らかにして、誰に投票するべきか、ということを書いていた。この活動は朝日新聞の週刊誌「AERA」でも以下のように紹介された。

 実はネットでは今、投票用紙と鉛筆を持った大きな目の女の子のキャラ「選挙たん」が一部で人気だ。「アニメ・マンガ・ゲームに味方してくれる候補者に投票しよう」と呼びかけているホームページ「選挙に行こう」で公開されている。サイトの管理者は、説明する。
 「アニメやゲームは日本の誇る文化だと言いながら、凶悪事件が起こるたびに、アニメやゲームのせいにして、規制しようとする政治家が出てくる。だからオタクこそ、世間に背を向けずに、投票に行くべきなんです」(内山洋紀、柏木友紀[2005])

 ただ「選挙に行け」と尻を叩くのではなく、今どのような事態が起こっているか、そしてどのような問題意識を持つべきか、ということを認識した上で選挙に行ったほうが、投票の「質」は高まる。そのような活動が、ネット上では散見された。これはいい方向に流れれば希望となるであろう。もちろん情報は取捨選択すべきものであるから、自分なりの問題を構築することができる。少なくとも、投票が自己目的化した選挙の中では、自分が政権に「つながっている」という感覚しか満足できないし、今回自民党に投票した人の中にそのような傾向を持った人が存在することはやはり否めない。

 もう一つは鈴木宗男氏のことである。鈴木氏は、北海道の自立を掲げた政党「新党大地」を旗揚げしたが、鈴木氏は北海道への利益誘導のほかに、アイヌ民族の自立や、フリーターなどの若年層に対する支援を訴えたという。結果、北海道では、特に若年層に、安倍晋三氏を上回る人気を得たそうだ。また、関東でも、自民党の大勝利により比例の議席が一つ余ってしまったが、その恩恵をあずかれたのは、公明党の議員ではなく、社民党の保坂展人氏だった。保坂氏は、青少年問題に関してブログで熱心に発言を行なっているほか、表現規制の問題に関しても規制反対の側から発言している。これらの事実は、単純化された「争点」に対する風穴を開ける存在がいかに重要であるか、ということを物語っている。

 9・単純化するマスコミ
 巷では、若年層を呪詛する言葉が飛び交っている。例えば、マニフェストを検証したところ、自民党、民主党、共産党が、青少年の健全育成の為に「有害」表現の規制を訴えた。特に熱心だったのは、なぜか共産党だった。他にも、巷では、若年層が無能だから社会が悪くなるのだ、という類の本が売れるようになり(『ゲーム脳の恐怖』『ケータイを持ったサル』あたりはその典型であろう)、若年層が凶悪化している、といった説が大手を振ってまかり通る。我が国においては、若年層は既に「わかりやすい」ヒール(悪役)としての役割を背負わされている。しかし、そのような「わかりやすい」言説設定の裏で、本当の意味での弱者は永遠に世間と経済に押しつぶされ続ける。本来であれば、そのような人たちを支える政党や候補者が必要であった。あるいは、そのような人たちに対して福音となるような候補者をマスコミは探すべきであった。

 もし、誰かが自分では再起できないほど打ちひしがれているのであれば、誰かが救いの手を差し伸べなければならない。誰かが声をあげるチャンスを探しているのであれば、それに手を貸すことが良心であろう。最近の言説は、そのような人たちに対して、お前が悪いのだと唾を吐きかけ、世間に対してはこいつらは病的だ、退化しているなどといって本当の意味での関心を逸らしている。マスコミも政治家も、そのような「強者の論理」「自己責任の論理」から一歩引いた人が出てくることを、私は期待するほかない。

 そのために、まず、若年層を「B層」扱いすることはやめにしないか。

 若年層を「B層」と呼んで恥じない態度こそ、独裁者への支援なのだから。

 参考文献・資料
 内山洋紀、柏木友紀[2005]
 内山洋紀、柏木友紀「オタクと独身女の選挙」=「AERA」2005年9月12日号、朝日新聞社
 大村歩、浅井正智[2005]
 大村歩、浅井正智「自民寄りくっきり 20代のココロ」=2005年9月13日付東京新聞
 金子勝[2005]
 金子勝「論壇時評 政治のバブル」=2005年9月28日付朝日新聞

 石田英敬「「テレビ国家」のクーデター」=「論座」2005年11月号、朝日新聞社
 谷口将紀、菅原琢、蒲島郁夫「自民にスウィングした柔らかい構造改革派」=「論座」2005年11月号、朝日新聞社

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