俗流若者論ケースファイル74・筑紫哲也
左派と呼ばれる人たちでも、いざ若者論となると急に保守的な心情を露わにし、「一昔前の当たり前」の喪失を憂えたり、あるいは若年層の「劣化」を嘆いたりすることは決して稀ではない。今回検証するのは、左派論壇の大御所・ジャーナリストの筑紫哲也氏の、「週刊金曜日」の連載「自我作古」の第379回、「フツーの子の暗黒」である。というよりも、もう「フツーの子」などという表現を使った時点で、この記事のスタンスを疑わなければならないだろう。なぜなら、このような表現には、「あの犯人は、確かに今の基準から見れば「普通」かもしれないが、私たちから見れば明らかに「異常」である」といった意識が見られるからである。
先に事実関係を確認しておくが、我が国においては少年による凶悪犯罪はピーク時である昭和40年ごろに比して激減している。これに関してはこの連載で再三ならず述べたので繰り返すことはしないが、多くのマスコミが「少年凶悪犯罪の急増・凶悪化」を喧伝するのは、少なくとも統計で確認しうる事実とはかけ離れていることを指摘しておきたい。
最近の少年犯罪報道の特徴として、東京大学助教授の広田照幸氏が述べているような《ごくまれにしか起きない例外的な事件に対しても、青少年の病理を代表しているのでは、という視点から、細やかな詮索や解釈がなされるようになった》(広田照幸[2003])という傾向が挙げられよう。そして、事実誤認やあらかじめ青少年を危険視したようなシナリオによって、青少年を敵視するような世論を生み出しているのはほかならぬマスコミや言論である。
筑紫氏はそのような構造を理解しているのだろうか。少なくとも、今回検証する文章を読む限りでは、筑紫氏もまた青少年不安扇動言説の発信源として働いているようである。
この文章の中で、筑紫氏の事実誤認や偏見が現れている部分を引用する。今回検証する文章の、終わりの5分の2くらいにあたる。
(筆者注:町田市で16歳の少年が15歳の同級生の少女を惨殺した事件について)犯行の翌日も普段どおりに投稿し、旧友たちと談笑していたという報道が事実だとしたら、この少年には人間的な感情が欠落している。そして、その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか。もっと言えば、犯行後も「殺す」ということがどういう現実なのか、わかっていないのではないか。仮想現実と現実との区別がはっきりしていないのではないか――とさまざまな推察が浮かぶ。これは逆に女子高校生が加害者として疑われている母親に毒物を盛った事件とも共通していて、ネット上の「告白」と現実とが分かちがたく交錯する。
この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。
もうひとつ、人間関係で特徴的な現象は、この国の子ども、若者たちが傷付きやすく、ひどく傷つくことをおそれていることだ。これまた私個人は身に覚えがある感覚、「ない構成」の主因なのだが、子ども、若者の「叱られ下手」と親をふくむ大人たちの「叱り下手」が大きく関係しているように思う。「死ね!」と上司にしごかれ、反転して放火犯に至ったNHK記者はおそらく、叱られ体験がそれまでなかったのだろう。このままではフツーの子が世間を驚かす事件は止まらない。(筑紫哲也[2005]、以下、断りがないなら同様)
どうして筑紫氏は、《このままではフツーの子が世間を驚かす事件は止まらない》などと他人事の如く語ってしまうのだろうか。少年による事件が起こったとき、個別の事情を無視し少年は危険だと喧伝し、残虐な犯行を生み出した「原因」を探すことに奔走し、親たち、大人たち、世間の危険ばかり煽るのはほかならぬマスコミである。
また、このくだりにも注意すべき部分は多い。例えば町田市の事件に関する記述だが、筑紫氏は《その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか》と述べている。このような物言いは少年犯罪に関する報道並びに(素人理論による)「分析」では定番の文句であるのだが、問題は何をもってして《仮想現実(バーチャルリアリティ)》と考えているか、である。その点について筑紫氏は見解を示すべきである。
《仮想現実(バーチャルリアリティ)》という言葉は、もはやこの言葉自体が仮想現実(バーチャルリアリティー)になりつつある――要するに、少年犯罪報道のたびにこの言葉が喧伝されるあまり、その内実が問われぬまま、問答無用で「悪」と見なされるようになっている。このようにイメージばかり先走ってしまった言葉に対して、ただステレオタイプのイメージだけで危険視するのではなく、もう一度原点に戻って省察することが必要ではないだろうか。
また、女子高生による毒殺事件に関しては、少なくともこの犯人は、ある毒殺犯の記録を模倣して犯行を行っていたという可能性が極めて高い。その点について筑紫氏はどのように思っているのだろうか。
NHK記者の放火事件に関しても、《叱られ体験が少なかったのだろう》などと呑気に言って済まされるような問題ではない。そもそもこの事件は、渦中のNHKにあって、その記者が放火という凶悪犯罪(放火は間違いなく凶悪犯罪である)をしでかしたから、NHKのスキャンダルの一つとして報じられただけで、あとは典型的な放火犯である。もちろん、この犯人の罪は厳しく問われなければならないが、少なくとも怨恨を理由に放火に走った、というのは、何も現代の若い世代だけでなくとも、報道に接していれば、様々な世代が同様の事件を起こしているのがわかる(ちなみに「少年犯罪データベース」では、昭和33年に、神奈川県川崎市の中学2年生の生徒が、教師に叱られたため学校を放火した事件が報告されている)。
多くの人が青少年の堕落は国家の堕落であるかのごとく、青少年に関して悲観的なことばかり語るけれども、勝手に時代の病理として扱われる子供たちにとっては大変迷惑な話だ。筑紫氏には申し訳ないが、筑紫氏が敵視している《仮想現実(バーチャルリアリティー)》が定着した世代ほど凶悪犯罪は起こさなくなっている。自分の理想から外れてた環境で育つ子供たちを、有無を言わさず「異常」とし、犯罪者予備軍と見なすような言動はいい加減やめたらどうか。
ちなみに、筑紫氏は《何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない》などと嘆いているけれども、そのような状況を作ったのもマスコミによるところが大きい。なぜなら、一つの犯罪を、さも現代の病理を代表しているかの通り仰々しく報じ、人々の安全意識を壊してきたのもマスコミだからである。
筑紫氏は、この文章が掲載された数回前の「自我作古」で、「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」といった言葉を紹介している。ならばそれをまねて、我が国における状況を言おう。
俗流若者論こそ、悪党の最後の隠れ家である、と。筑紫氏が、今回の如く、若年層をバッシングする目的で発動してしまう懐古主義を見ていると、強く感じる。この連載の第10回も参照されたし。
参考文献・資料
筑紫哲也[2005]
筑紫哲也「フツーの子の暗黒」=「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日/「自我作古」第379回
広田照幸[2003]
広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」第40号、INAX出版
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コメント
>俗流若者論こそ、悪党の最後の隠れ家である
悪党というか哀れな夢想家ですかね。自分の子供または若者時代が絶対的な基準で、
あの時代を復活させれば世の中は良くなるという幻想の教育論。
(このブログでもしばしば取り上げられている柳田邦男氏は、その最たる例だと思います)
右翼左翼を越えて、こういう人々は、また別のまとめ方が必要でしょう。
投稿: マリン | 2005年11月27日 (日) 23時30分