2005年・今年の「若者論な言葉」
「2005年・今年の1冊」「2005年・今年の1曲」に続く年末企画の締めくくりとして、今年私の印象に残った「若者論な言葉」をコメント付きで列挙していくこととしましょう。このエントリーは、平成17年内に発行された新聞・雑誌などの中で、特に俗流若者論として笑わせてもらったものを紹介します。なお、発言者1人につき1つの発言を、25人分取り扱うこととします(順不同)。
入選(15名)
・大谷昭宏(ジャーナリスト)
ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。(「日刊スポーツ」大阪版2005年1月4日号)
大谷氏は被害者意識にまみれているのかもしれませんが、このような抗議は、大谷氏がやたらと特定の嗜好を持つ人たちを敵視していること、あるいは因果関係がはっきりしていないのにすぐさま犯罪の泉源と決め付けてしまったことに対する抗議なのではないでしょうか。もはや差別主義者に堕落してしまった大谷氏、平成18年はどうなることやら。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏」
・草薙厚子(ジャーナリスト)
「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです。(草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年11月、13ページ)
少なくとも草薙氏の論説は、子供たちに対する不安や不信をベースにした「管理のすすめ」としか言いようがありません。その草薙氏が、臆面もなく「子育てのマニュアルを書き直すべき」と主張しているのですから、これは子育ての場をホッブズ的な「自然状態」にしようとする何らかの陰謀でしょう…冗談だよ。
関連記事:「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~」
・金子勝(慶応義塾大学教授)
現在の生活を楽しもうとする、この若者たちの心象風景には、社会どころか家族さえ見えてこない。(2005年9月28日付朝日新聞)
少なくとも金子氏は信頼できる書き手であっただけに(昨年の頭に、生化学者の児玉龍彦氏と出した『逆システム学』(岩波新書)は必読!)、ゲームやインターネットに熱中する青少年に対するこのような差別的な発言に、少なからず失望してしまいました。金子氏の論理は、論理的にしてかつ忌憚のない(少々暴走することもあるけれども)政府批判、小泉純一郎・竹中平蔵批判が魅力なのですが…。
関連記事:「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」
・千石保(日本青少年研究所所長)
「改革を止めるなってキャッチフレーズは若者言葉。元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う」(2005年9月13日付東京新聞)
「元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッション」という言葉は、むしろ若者論のほうに多く見られますよね。「ゲーム脳の恐怖」「フィギュア萌え族」「ケータイを持ったサル」「下流社会」「脳内汚染」云々。こういう人たちも、千石氏の手にかかれば「若者」なのでしょうね。
関連記事:「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」
・福島章(上智大学名誉教授)
安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう。寝屋川市の教職員殺傷事件では、少年は少し前のバイク事故で、エネルギーを発散する手段を失っていた。その欲求不満のはけ口が、あの殺傷ゲームだったのだろう。(2005年3月3日付読売新聞)
「安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう」…って、もはやお笑いでしかありませんね。かつては青少年の心理や病理に関して優れた著書を書いていた福島氏ですが(『青年期の心』(講談社現代新書)は是非一読されたし)、いまやマスコミ御用達の単なる俗流コメンテーターに堕してしまったようです。まあ、今に始まったことではないのですが。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル03・福島章」「32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」
・陰山英男(尾道市立土堂小学校校長)
では、子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である。こうしたディスプレーが一日中手放せない。子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から。それくらい子供たちの夜更かしが進んでいる。一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ。(「文藝春秋」2005年5月号)
教育論においてはかなり信頼できる論者であった陰山氏ですが、「ディスプレー依存症」を言い始めたあたりから暗雲が立ち込めてきました。もはや「ゲーム脳」を支持するのも時間の問題かもしれません。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」
・石堂淑朗(脚本家)
パソコンすなわち個人専用コンピューターの本質が使用者の大脳無差別破壊につながる可能性ありということを、発明者はじめ科学者が誰も言わなかったのは不可解千万だと、今頃喚いてももう遅い。パソコン関連の諸活動は儲かるからだ。金が倫理より強いと言うことをライブドアの実践が日々示しつつある。(「正論」2005年4月号)
おーい、だったらどうして「ゲーム脳の恐怖」だとか「脳内汚染」みたいなのが定期的に話題になるんだよ。それに、科学的検証など全く無視したアナロジーだらけの若者論ばかりが流行る状況について、それこそそのような諸活動は儲かるからとマスコミが考えているということもできるね。金が倫理や学者のノーブレス・オブリージュより強い、ということは、既に森昭雄や正高信男の実践が日々示しつつあるのです。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」
・小原信(青山学院大学教授)
スクリーン世代は、それ以前の世代とは違い、初めからケータイやパソコンを持ち、その世界に遊ぶことしか知らない。いまではケータイやメールの呪縛から離れることができない。……推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた者は、自分にあわなかったと言うが、自分への忠実しか見ていない。同じ学校の後輩が今後、採用されなくなるとは考えない。(「中央公論」2005年3月号)
「労働政策研究・研修機構」の副統括研究員である小杉礼子氏によれば、学生や生徒をとにかく会社に押し込んでいた時代にも、高卒は約4割が早期離職していたそうです(現在は約5割で、微増程度。玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書))。小原氏は何でもかんでも「パソコナリティ」なる独自の概念に結び付けすぎです。このような「病理」を「発見」していい気になっている倫理学者を見ていると、やはりコメンテーターは気楽な稼業ときたもんだ、と思い込んでしまいます。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル02・小原信」
・杉山幸丸(元京都大学霊長類研究所所長)
社会性獲得不全とは、言い換えれば人間性はもとより、動物性の基本さえ獲得することができなかったということだ。おまけに探検精神または試行錯誤をしながら壁を乗り越えようとする心の基盤が乏しいから、内へ内へと向かってしまう。これではおとなのひきこもりと大差はない。(杉山幸丸『進化しすぎた日本人』中公新書ラクレ、2005年9月、133ページ)
自分の育ってきた環境は、社会的のみならず、生物学的にも素晴らしい環境だったのだ!といいたいのでしょうね。でも、杉山氏の理論もまた、結局は正高信男氏の一連の疑似科学と同工異曲のものに過ぎません。そもそも杉山氏は(そして正高氏も)、単なる軽々しい「現代社会批判」のアナロジーとしてサル学を持ち出しているに過ぎない。杉山氏は優秀な霊長類学者だったはずなのに(杉山氏の『子殺しの行動学』(講談社学術文庫)はお勧め。現在品切れなので、古本屋で探してください)。我が国における霊長類研究の創始者、今西錦司氏が草葉の陰で泣いているのを肌で感じてしまいます。
・斉藤弘子(ノンフィクションライター)
スッポンの話が長くなりましたが、この「噛みついたら離さないスッポン」のように、就職して社会人になっても親に鳴きついて援助してもらい、親のすねをかじる若者たちを「スッポン症候群」といいます。(斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月、135ページ)
このような心理的な「ご託宣」は、結局のところ社会的な影響を無視して「自己責任」論に収束させてしまうという問題をはらんでいますが、昨今の若者論は、そのような危険性を無視する傾向を強めている傾向にあります。「ニート」という概念を紹介した玄田有史氏(東京大学助教授)ですら、「ニート」問題を語る点において心理的な問題をかなり重点視している感じがする。このような社会の「心理学化」は、ある意味では社会的責任からの逃走といえるかもしれない。
・小田晋(帝塚山学院大学教授)
異常性愛の傾向を持つ者は昔から存在した。しかし、これが連鎖し、歯止めがなくなっているように見えるのはなぜか。 一つは、犯罪や性に関する情報、とりわけ小児性愛に関する情報が、“表現の自由”の名の下に、漫画、DVD、ネットなどを通じて氾濫していることである。しかも一部の精神医学者・社会学者は「欲求不満の解消になる」と擁護してさえいる。(2005年12月10日付産経新聞)
少なくとも、幼子が被害者となる事件は減少傾向にあります。自分の「理解できない」事件を目の前にして、その「原因」を自分が不快だと思うメディアに求めてしまう傾向は、もはや歯止めをかけることができないのでしょうか…。
・室井佑月(作家)
そんな育てられ方をした子がどう育つか。最近の若い男たちは、女性にふられただけで「すべたが終わった」と落ち込む。「傷つくのが怖い」と女性に声をかけることもできない。(「サンデー毎日」2006年1月1日号)
そもそもこの文章が掲載されている室井氏のインタヴューは、はっきり言って論理の展開が飛びすぎて困ってしまいます。そもそもこのような物言いは、室井氏が「「今時の若者」は情けない」と考えているからなのかもしれませんが、情けないのは室井氏のほうではないのですか?ステレオタイプでしかものが言えないのですから。せめて実感以上の証拠を出して欲しい。
以下、フリーター、「ニート」論のオンパレードを。
・弘兼憲史(漫画家)
「日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない」(2005年7月28日付読売新聞)
もちろん、これはかなり俗説を含んでいるのであって、就労に関することを述べたいのであれば、青少年の心理ばかりを問題化するということはあまりフェアーではないように思えるのですが。さすが「団塊の世代のトップランナー」とでも言うべきか、とにかく説教を垂れていればいいという感じがします。
関連記事:「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」
・浅井宏純(株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役)
しかし、ニートは、国や親の財産、年金などを食い荒らしていく存在です。まず、自分の内面的な崩壊から始まって、家庭の崩壊、親や先生を殺すのはまれとしても、犯罪を伴うこともあります。それは社会の崩壊にもつながつていくという、ある意味での爆弾といえるでしょう。(浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、2005年7月、15ページ)
浅井氏の論理は、完全に危険を煽る目的でしか書かれておらず、しかも「心の健康」やらの「7つの健康」を取り戻せば直ちに「ニート」は撲滅できる、って、もう少し社会構造の問題にも想像力を広げていただきたい!
・荒木創造(心理カウンセラー)
では、なぜニートや引きこもりは日本だけにしか見られないのだろうか?(荒木創造『ニートの心理学』小学館文庫、2005年11月、3ページ)
ついに来たぜ、「ニート」を日本独自の病理だとする言説がよ!少なくとも「ニート」という概念は英国から輸入されたもので、しかも英国ではこれが「社会的排除」という意味を強くもっていた。ところがこの概念が我が国に輸入される概念で、心理的な病理が強調されるようになってしまった。「ニート」という言葉を口にするときには、そのようなことを念頭に入れなければなりません。
佳作(6名)
・松沢成文(神奈川県知事)
首都圏におけるゲーム規制を扇動し、ゲームをやる奴は犯罪者になると喧伝しました。
やはり今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって、バーチャルなものに影響され過ぎて、それで犯罪に走ってしまうということが多々あるんですね。(2005年3月2日付神奈川県知事定例記者会見)
ワイドショーで喧伝されるような《バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》云々という俗説が、なんと政治の場に持ち越されてしまいました。しかし少年犯罪に関して言いますと、件数に関しては昭和35年ごろに比して減少しておりますので、「ゲームの悪影響で少年犯罪が増えた」ということはあまり口出しすべきではないと思われます。従って、このゲーム規制の件は、単なるポピュリズムと捉えたほうがいいのかもしれません。
参考記事:「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」「45・松沢成文」
・藤原正彦(お茶の水女子大学教授)
教育基本法には「個人の尊厳」とか「個人の価値」が謳い上げられているが、これが「身勝手の助長」につながった。少子化やフリーター激増もこの美辞に支えられている。(2005年5月16日付読売新聞)
それでしたらなぜ藤原氏は、「国家の品格」といった美辞麗句に限って支持してしまうのでしょうか?藤原氏の議論にかけているのは「今・ここ」の問題に対する想像力であり、その点に関する想像力を少しでも働かせればこのような論理は展開できないはずではないでしょうか。要するに、藤原氏の支持する美辞麗句と支持しない美辞麗句の違いは、結局のところ自意識を高めてくれるものに過ぎないのではないか、という気がしてきます。
参考記事:「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」
・森昭雄(日本大学教授)
今なお「ゲーム脳」理論の宣教師として熱心な活動を続けておられる森氏ですが、何をトチ狂ったのか、今年4月末のJR福知山線の事故を起こした運転手を「ゲーム脳」と断定してしまいました。
「高見運転士は過去3回も乗務員として重大なミスを犯しながら、自身で再発防止ができておらず、注意力が散漫な印象を受ける。伊丹駅でのオーバーラン後、指令の呼び出しに応答がなかったのも、故意であるとすれば、大事な場面で倫理的な行動がとれず、キレやすいというのはゲーム脳の特徴とよく似ているともいえる。JR西日本は運転士に関する情報を開示するなど、徹底検証が必要ではないか」(「ZAKZAK」平成17年4月26日更新)
もはやゲームがなくとも「ゲーム脳」とプロファイリングされる状況の誕生であります。
・筑紫哲也(ジャーナリスト)
そして、その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか。もっと言えば、犯行後も「殺す」ということがどういう現実なのか、わかっていないのではないか。仮想現実と現実との区別がはっきりしていないのではないか――とさまざまな推察が浮かぶ。(「週刊金曜日」2005年11月18日号)
筑紫氏の意外な、そして驚くべき保守性が一気に露呈したのも平成17年の特徴ではないかと思います。もとよりそのような兆候は少し前からもあったのですが、平成17年になって筑紫氏は「ことばの新事典」なる連載内連載を始めて、そのコンセプトとして「今時の若者」に対する嘆きがあり、少年犯罪に分析でも、結局のところ筑紫氏もまた単なるバッシングに終始してしまった。実に嘆かわしいことであります。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」「74・筑紫哲也」
・香山リカ(精神科医)
犯罪や事件覚悟で「萌え」を推進するか、さもなくば大損承知で全面規制するか、とるべき道はふたつにひとつしかない。(「創」2005年7月号)
このような暴論が生まれる原因として、まず香山氏もまた「実際の恋愛こそが素晴らしいのだ、仮想現実を経由した恋愛は危険だ」という根拠のない「実感信仰」を持っているのと同時に、「金儲けを考える奴はみんな偏狭な認識しかもっていない人だ」という差別意識――少なくとも、「萌え」を推進したがっている経済界と、実際の「オタク」の人たちの間にはかなり差異があるように思えるから、このような意識は正しくないように思える――も持っていることの帰結ということになるのでしょうか。香山氏に関しては「下流社会」論に対する過剰な肩入れも懸念されます(例えば、「サンデー毎日」2005年12月18日号)。
関連記事:「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」
・岡田尊司(精神科医)
前頭葉の機能の低下が子どもたち全般に広がり、「発達障害」的な傾向や無気力・無関心な傾向をもった若者が平均的は存在になり、更には「サイコパス」的な特長さえ有する若者が珍しくなくなりつつあるという事実を前にするとき、暗澹たる気持ちを禁じえない。(岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月、311ページ)
岡田氏は今年の中盤から暮れにかけて、ほとんど「月刊岡田」といってもいい状態で本を出し続けましたが(半年の間に5冊!)、この『脳内汚染』はその集大成なのでしょうか。とりあえず『悲しみの子どもたち』(集英社新書)と『誇大自己症候群』(ちくま新書)は読んで、検証候補リストに加えているのですが、岡田氏の言説全体に関しては最近出された岡田氏の著書を一通り目を通すまで評価を控えさせていただきます(まだ読んでいないのが、『パーソナリティー障害』『子どもの「心の病」を知る』(以上、PHP新書)、『人格障害の時代』『自己愛型社会』(以上、平凡社新書))。
それはさておき、この言葉ですが、「サイコパス」って差別語じゃありませんでしたっけ?それに、このような「「サイコパス」的」みたいな言葉を濫用すれば、自分の気に食わないものはみんな「「サイコパス」的」ということになりますね、というよりも岡田氏は『脳内汚染』の中で本当にそうしているのだから救いようがない。
準グランプリ(3名)
・石原慎太郎(東京都知事)
今日横溢する、安易に行なわれる凶悪犯罪も実はその根底に肥大化による人間の自己喪失がある。換言すればそれはただの自己中心主義であり、些細な想像力をすら欠いてしまった人間の抑制の効かぬ衝動がただ気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまうのだ。(「文藝春秋」2005年5月号)
「文藝春秋」の平成17年5月号と8月号で、石原氏はかなり過激な俗流若者論をやらかしていましたが、結局は単に「本質」を連呼しているだけで、こういう議論ってのは所詮は論壇なる「愚痴の共同体」の中で消費されるだけの、身内で囁きあうだけの言説に過ぎないのだなあと感じてしまいました。少なくとも犯罪白書ぐらい読んでくれ!
関連記事:「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「34・石原慎太郎&養老孟司」
・柳田邦男(ノンフィクション作家)
私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。(柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月、25ページ)
柳田邦男氏もまた、「新潮45」の「日本人の教養」なる連載によって俗流若者論の奈落に落ちてしまいました。上の文章は、おそらく『壊れる日本人』という本の中で2番目にひどい部分――1番ひどい部分は、どういうわけか片仮名と平仮名だけで書いてしまった部分なのですが、3ページにも亘っていますので引用するのは控えました――ではないかと思われます。そもそも「不思議な動物」なんて、明らかに人間と思っていないじゃないですか。「新潮45」の読者には受けるのかしら。
関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男」
・正高信男(京都大学教授)
一連の推測がまったく私の見当はずれである可能性も大いにある。だが趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと、執筆した次第である。(正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月、「まえがき」)
待ってました、このような無責任発言!
…ゲフンゲフン。
いや、なんと言いますか、正高氏が最近振りかざしてきた疑似科学が、このように言われてしまうと、何となく萎えてしまうでしょう。しかし、こういうノリで書かれた本――前著である『ケータイを持ったサル』(中公新書)も含めて――がベストセラーとなり、多くの人が好意的に引用している様を見てしまったら、我が国の「読者層」の知的頽廃ぶりに絶望を覚えてしまいます。
関連記事:「正高信男という斜陽」
グランプリ(1名)
・三浦展(民間シンクタンク研究員)
平成17年に「下流社会」なる語句を大流行させた仕掛け人。しかしその正体は、結局のところそれまでのマーケティング常識――すなわち、ただひたすら「上」を目指すための消費を煽ること――が通用せず、身の丈に合った生き方をする人たちに対する呪詛を振りまいて「目標のあった時代はよかった」などと上の世代に嘆かせた、いわばハーメルンの笛吹きでした。その文章は、上昇意識を持たない人間などゴミも同然だなどという憎悪がこもっていたものも多かったのですが(特に『仕事をしなければ、自分はみつからない。』と『「かまやつ女」の時代』)、そんな三浦氏の発言の中でも、もっとも笑わせてもらったのがこれ!
今日も電車に乗ると、隣に若い男が座り、早速マクドナルドをむしゃむしゃ食べ始めた。Tシャツに無精ひげのこの男は、一体何をして暮らしているのだろう?街や駅で倒れこんでいる若者を見ることも少なくない。それも夜じゃない。朝や昼だ。パチンコ屋の店先には早朝から若者が座り込んで開店を待っている。最近は、こういう人を見ると、もしかしてこれが噂のニートかと思う癖がついた。(三浦展『下流社会』光文社新書、2005年9月、262ページ)
はっきり言いますけれども、「ニート」とは、厳密に言えば、仕事をしていなければ、求職活動もしておらず、また教育も受けていないことの総称であって、決してそのライフスタイルまでが規定されているわけではありません。にもかかわらず、三浦氏が《これが噂のニートかと思う癖がついた》理由は、結局のところマスコミが面白がってニートだニートだと騒ぎ立てたために、「ニート」=怠け者、といったイメージが結びついてしまったからではないでしょうか?このような書き飛ばしは、平成18年は、もうやめてくださいね。
関連記事:「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」「後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」「俗流若者論ケースファイル75・宮崎美紀子&三浦展&香山リカ」「76・三浦展」
それでは、今年の若者論の動向に想いを馳せつつ、よいお年を!
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