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2005年12月31日 (土)

2005年・今年の「若者論な言葉」

 「2005年・今年の1冊」「2005年・今年の1曲」に続く年末企画の締めくくりとして、今年私の印象に残った「若者論な言葉」をコメント付きで列挙していくこととしましょう。このエントリーは、平成17年内に発行された新聞・雑誌などの中で、特に俗流若者論として笑わせてもらったものを紹介します。なお、発言者1人につき1つの発言を、25人分取り扱うこととします(順不同)。

 入選(15名)
 ・大谷昭宏(ジャーナリスト)

 ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。(「日刊スポーツ」大阪版2005年1月4日号)

 大谷氏は被害者意識にまみれているのかもしれませんが、このような抗議は、大谷氏がやたらと特定の嗜好を持つ人たちを敵視していること、あるいは因果関係がはっきりしていないのにすぐさま犯罪の泉源と決め付けてしまったことに対する抗議なのではないでしょうか。もはや差別主義者に堕落してしまった大谷氏、平成18年はどうなることやら。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏

 ・草薙厚子(ジャーナリスト)

 「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです。(草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年11月、13ページ)

 少なくとも草薙氏の論説は、子供たちに対する不安や不信をベースにした「管理のすすめ」としか言いようがありません。その草薙氏が、臆面もなく「子育てのマニュアルを書き直すべき」と主張しているのですから、これは子育ての場をホッブズ的な「自然状態」にしようとする何らかの陰謀でしょう…冗談だよ。
 関連記事:「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~

 ・金子勝(慶応義塾大学教授)

 現在の生活を楽しもうとする、この若者たちの心象風景には、社会どころか家族さえ見えてこない。(2005年9月28日付朝日新聞)

 少なくとも金子氏は信頼できる書き手であっただけに(昨年の頭に、生化学者の児玉龍彦氏と出した『逆システム学』(岩波新書)は必読!)、ゲームやインターネットに熱中する青少年に対するこのような差別的な発言に、少なからず失望してしまいました。金子氏の論理は、論理的にしてかつ忌憚のない(少々暴走することもあるけれども)政府批判、小泉純一郎・竹中平蔵批判が魅力なのですが…。
 関連記事:「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ

 ・千石保(日本青少年研究所所長)

 「改革を止めるなってキャッチフレーズは若者言葉。元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う」(2005年9月13日付東京新聞)

 「元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッション」という言葉は、むしろ若者論のほうに多く見られますよね。「ゲーム脳の恐怖」「フィギュア萌え族」「ケータイを持ったサル」「下流社会」「脳内汚染」云々。こういう人たちも、千石氏の手にかかれば「若者」なのでしょうね。
 関連記事:「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ

 ・福島章(上智大学名誉教授)

 安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう。寝屋川市の教職員殺傷事件では、少年は少し前のバイク事故で、エネルギーを発散する手段を失っていた。その欲求不満のはけ口が、あの殺傷ゲームだったのだろう。(2005年3月3日付読売新聞)

 「安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう」…って、もはやお笑いでしかありませんね。かつては青少年の心理や病理に関して優れた著書を書いていた福島氏ですが(『青年期の心』(講談社現代新書)は是非一読されたし)、いまやマスコミ御用達の単なる俗流コメンテーターに堕してしまったようです。まあ、今に始まったことではないのですが。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル03・福島章」「32・二階堂祥生&福島章&野田正彰

 ・陰山英男(尾道市立土堂小学校校長)

 では、子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である。こうしたディスプレーが一日中手放せない。子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から。それくらい子供たちの夜更かしが進んでいる。一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ。(「文藝春秋」2005年5月号)

 教育論においてはかなり信頼できる論者であった陰山氏ですが、「ディスプレー依存症」を言い始めたあたりから暗雲が立ち込めてきました。もはや「ゲーム脳」を支持するのも時間の問題かもしれません。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男

 ・石堂淑朗(脚本家)

 パソコンすなわち個人専用コンピューターの本質が使用者の大脳無差別破壊につながる可能性ありということを、発明者はじめ科学者が誰も言わなかったのは不可解千万だと、今頃喚いてももう遅い。パソコン関連の諸活動は儲かるからだ。金が倫理より強いと言うことをライブドアの実践が日々示しつつある。(「正論」2005年4月号)

 おーい、だったらどうして「ゲーム脳の恐怖」だとか「脳内汚染」みたいなのが定期的に話題になるんだよ。それに、科学的検証など全く無視したアナロジーだらけの若者論ばかりが流行る状況について、それこそそのような諸活動は儲かるからとマスコミが考えているということもできるね。金が倫理や学者のノーブレス・オブリージュより強い、ということは、既に森昭雄や正高信男の実践が日々示しつつあるのです。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗

 ・小原信(青山学院大学教授)

 スクリーン世代は、それ以前の世代とは違い、初めからケータイやパソコンを持ち、その世界に遊ぶことしか知らない。いまではケータイやメールの呪縛から離れることができない。……推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた者は、自分にあわなかったと言うが、自分への忠実しか見ていない。同じ学校の後輩が今後、採用されなくなるとは考えない。(「中央公論」2005年3月号)

 「労働政策研究・研修機構」の副統括研究員である小杉礼子氏によれば、学生や生徒をとにかく会社に押し込んでいた時代にも、高卒は約4割が早期離職していたそうです(現在は約5割で、微増程度。玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書))。小原氏は何でもかんでも「パソコナリティ」なる独自の概念に結び付けすぎです。このような「病理」を「発見」していい気になっている倫理学者を見ていると、やはりコメンテーターは気楽な稼業ときたもんだ、と思い込んでしまいます。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル02・小原信

 ・杉山幸丸(元京都大学霊長類研究所所長)

 社会性獲得不全とは、言い換えれば人間性はもとより、動物性の基本さえ獲得することができなかったということだ。おまけに探検精神または試行錯誤をしながら壁を乗り越えようとする心の基盤が乏しいから、内へ内へと向かってしまう。これではおとなのひきこもりと大差はない。(杉山幸丸『進化しすぎた日本人』中公新書ラクレ、2005年9月、133ページ)

 自分の育ってきた環境は、社会的のみならず、生物学的にも素晴らしい環境だったのだ!といいたいのでしょうね。でも、杉山氏の理論もまた、結局は正高信男氏の一連の疑似科学と同工異曲のものに過ぎません。そもそも杉山氏は(そして正高氏も)、単なる軽々しい「現代社会批判」のアナロジーとしてサル学を持ち出しているに過ぎない。杉山氏は優秀な霊長類学者だったはずなのに(杉山氏の『子殺しの行動学』(講談社学術文庫)はお勧め。現在品切れなので、古本屋で探してください)。我が国における霊長類研究の創始者、今西錦司氏が草葉の陰で泣いているのを肌で感じてしまいます。

 ・斉藤弘子(ノンフィクションライター)

 スッポンの話が長くなりましたが、この「噛みついたら離さないスッポン」のように、就職して社会人になっても親に鳴きついて援助してもらい、親のすねをかじる若者たちを「スッポン症候群」といいます。(斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月、135ページ)

 このような心理的な「ご託宣」は、結局のところ社会的な影響を無視して「自己責任」論に収束させてしまうという問題をはらんでいますが、昨今の若者論は、そのような危険性を無視する傾向を強めている傾向にあります。「ニート」という概念を紹介した玄田有史氏(東京大学助教授)ですら、「ニート」問題を語る点において心理的な問題をかなり重点視している感じがする。このような社会の「心理学化」は、ある意味では社会的責任からの逃走といえるかもしれない。

 ・小田晋(帝塚山学院大学教授)

 異常性愛の傾向を持つ者は昔から存在した。しかし、これが連鎖し、歯止めがなくなっているように見えるのはなぜか。 一つは、犯罪や性に関する情報、とりわけ小児性愛に関する情報が、“表現の自由”の名の下に、漫画、DVD、ネットなどを通じて氾濫していることである。しかも一部の精神医学者・社会学者は「欲求不満の解消になる」と擁護してさえいる。(2005年12月10日付産経新聞)

 少なくとも、幼子が被害者となる事件は減少傾向にあります。自分の「理解できない」事件を目の前にして、その「原因」を自分が不快だと思うメディアに求めてしまう傾向は、もはや歯止めをかけることができないのでしょうか…。

 ・室井佑月(作家)

 そんな育てられ方をした子がどう育つか。最近の若い男たちは、女性にふられただけで「すべたが終わった」と落ち込む。「傷つくのが怖い」と女性に声をかけることもできない。(「サンデー毎日」2006年1月1日号)

 そもそもこの文章が掲載されている室井氏のインタヴューは、はっきり言って論理の展開が飛びすぎて困ってしまいます。そもそもこのような物言いは、室井氏が「「今時の若者」は情けない」と考えているからなのかもしれませんが、情けないのは室井氏のほうではないのですか?ステレオタイプでしかものが言えないのですから。せめて実感以上の証拠を出して欲しい。

 以下、フリーター、「ニート」論のオンパレードを。
 ・弘兼憲史(漫画家)

 「日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない」(2005年7月28日付読売新聞)

 もちろん、これはかなり俗説を含んでいるのであって、就労に関することを述べたいのであれば、青少年の心理ばかりを問題化するということはあまりフェアーではないように思えるのですが。さすが「団塊の世代のトップランナー」とでも言うべきか、とにかく説教を垂れていればいいという感じがします。
 関連記事:「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史

 ・浅井宏純(株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役)

 しかし、ニートは、国や親の財産、年金などを食い荒らしていく存在です。まず、自分の内面的な崩壊から始まって、家庭の崩壊、親や先生を殺すのはまれとしても、犯罪を伴うこともあります。それは社会の崩壊にもつながつていくという、ある意味での爆弾といえるでしょう。(浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、2005年7月、15ページ)

 浅井氏の論理は、完全に危険を煽る目的でしか書かれておらず、しかも「心の健康」やらの「7つの健康」を取り戻せば直ちに「ニート」は撲滅できる、って、もう少し社会構造の問題にも想像力を広げていただきたい!

 ・荒木創造(心理カウンセラー)

 では、なぜニートや引きこもりは日本だけにしか見られないのだろうか?(荒木創造『ニートの心理学』小学館文庫、2005年11月、3ページ)

 ついに来たぜ、「ニート」を日本独自の病理だとする言説がよ!少なくとも「ニート」という概念は英国から輸入されたもので、しかも英国ではこれが「社会的排除」という意味を強くもっていた。ところがこの概念が我が国に輸入される概念で、心理的な病理が強調されるようになってしまった。「ニート」という言葉を口にするときには、そのようなことを念頭に入れなければなりません。

 佳作(6名)
 ・松沢成文(神奈川県知事)
 首都圏におけるゲーム規制を扇動し、ゲームをやる奴は犯罪者になると喧伝しました。

 やはり今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって、バーチャルなものに影響され過ぎて、それで犯罪に走ってしまうということが多々あるんですね。(2005年3月2日付神奈川県知事定例記者会見)

 ワイドショーで喧伝されるような《バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》云々という俗説が、なんと政治の場に持ち越されてしまいました。しかし少年犯罪に関して言いますと、件数に関しては昭和35年ごろに比して減少しておりますので、「ゲームの悪影響で少年犯罪が増えた」ということはあまり口出しすべきではないと思われます。従って、このゲーム規制の件は、単なるポピュリズムと捉えたほうがいいのかもしれません。
 参考記事:「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」「45・松沢成文

 ・藤原正彦(お茶の水女子大学教授)

 教育基本法には「個人の尊厳」とか「個人の価値」が謳い上げられているが、これが「身勝手の助長」につながった。少子化やフリーター激増もこの美辞に支えられている。(2005年5月16日付読売新聞)

 それでしたらなぜ藤原氏は、「国家の品格」といった美辞麗句に限って支持してしまうのでしょうか?藤原氏の議論にかけているのは「今・ここ」の問題に対する想像力であり、その点に関する想像力を少しでも働かせればこのような論理は展開できないはずではないでしょうか。要するに、藤原氏の支持する美辞麗句と支持しない美辞麗句の違いは、結局のところ自意識を高めてくれるものに過ぎないのではないか、という気がしてきます。
 参考記事:「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

 ・森昭雄(日本大学教授)
 今なお「ゲーム脳」理論の宣教師として熱心な活動を続けておられる森氏ですが、何をトチ狂ったのか、今年4月末のJR福知山線の事故を起こした運転手を「ゲーム脳」と断定してしまいました。

 「高見運転士は過去3回も乗務員として重大なミスを犯しながら、自身で再発防止ができておらず、注意力が散漫な印象を受ける。伊丹駅でのオーバーラン後、指令の呼び出しに応答がなかったのも、故意であるとすれば、大事な場面で倫理的な行動がとれず、キレやすいというのはゲーム脳の特徴とよく似ているともいえる。JR西日本は運転士に関する情報を開示するなど、徹底検証が必要ではないか」(「ZAKZAK」平成17年4月26日更新

 もはやゲームがなくとも「ゲーム脳」とプロファイリングされる状況の誕生であります。

 ・筑紫哲也(ジャーナリスト)

 そして、その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか。もっと言えば、犯行後も「殺す」ということがどういう現実なのか、わかっていないのではないか。仮想現実と現実との区別がはっきりしていないのではないか――とさまざまな推察が浮かぶ。(「週刊金曜日」2005年11月18日号)

 筑紫氏の意外な、そして驚くべき保守性が一気に露呈したのも平成17年の特徴ではないかと思います。もとよりそのような兆候は少し前からもあったのですが、平成17年になって筑紫氏は「ことばの新事典」なる連載内連載を始めて、そのコンセプトとして「今時の若者」に対する嘆きがあり、少年犯罪に分析でも、結局のところ筑紫氏もまた単なるバッシングに終始してしまった。実に嘆かわしいことであります。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」「74・筑紫哲也

 ・香山リカ(精神科医)

 犯罪や事件覚悟で「萌え」を推進するか、さもなくば大損承知で全面規制するか、とるべき道はふたつにひとつしかない。(「創」2005年7月号)

 このような暴論が生まれる原因として、まず香山氏もまた「実際の恋愛こそが素晴らしいのだ、仮想現実を経由した恋愛は危険だ」という根拠のない「実感信仰」を持っているのと同時に、「金儲けを考える奴はみんな偏狭な認識しかもっていない人だ」という差別意識――少なくとも、「萌え」を推進したがっている経済界と、実際の「オタク」の人たちの間にはかなり差異があるように思えるから、このような意識は正しくないように思える――も持っていることの帰結ということになるのでしょうか。香山氏に関しては「下流社会」論に対する過剰な肩入れも懸念されます(例えば、「サンデー毎日」2005年12月18日号)。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ

 ・岡田尊司(精神科医)

 前頭葉の機能の低下が子どもたち全般に広がり、「発達障害」的な傾向や無気力・無関心な傾向をもった若者が平均的は存在になり、更には「サイコパス」的な特長さえ有する若者が珍しくなくなりつつあるという事実を前にするとき、暗澹たる気持ちを禁じえない。(岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月、311ページ)

 岡田氏は今年の中盤から暮れにかけて、ほとんど「月刊岡田」といってもいい状態で本を出し続けましたが(半年の間に5冊!)、この『脳内汚染』はその集大成なのでしょうか。とりあえず『悲しみの子どもたち』(集英社新書)と『誇大自己症候群』(ちくま新書)は読んで、検証候補リストに加えているのですが、岡田氏の言説全体に関しては最近出された岡田氏の著書を一通り目を通すまで評価を控えさせていただきます(まだ読んでいないのが、『パーソナリティー障害』『子どもの「心の病」を知る』(以上、PHP新書)、『人格障害の時代』『自己愛型社会』(以上、平凡社新書))。

 それはさておき、この言葉ですが、「サイコパス」って差別語じゃありませんでしたっけ?それに、このような「「サイコパス」的」みたいな言葉を濫用すれば、自分の気に食わないものはみんな「「サイコパス」的」ということになりますね、というよりも岡田氏は『脳内汚染』の中で本当にそうしているのだから救いようがない。

 準グランプリ(3名)
 ・石原慎太郎(東京都知事)

 今日横溢する、安易に行なわれる凶悪犯罪も実はその根底に肥大化による人間の自己喪失がある。換言すればそれはただの自己中心主義であり、些細な想像力をすら欠いてしまった人間の抑制の効かぬ衝動がただ気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまうのだ。(「文藝春秋」2005年5月号)

 「文藝春秋」の平成17年5月号と8月号で、石原氏はかなり過激な俗流若者論をやらかしていましたが、結局は単に「本質」を連呼しているだけで、こういう議論ってのは所詮は論壇なる「愚痴の共同体」の中で消費されるだけの、身内で囁きあうだけの言説に過ぎないのだなあと感じてしまいました。少なくとも犯罪白書ぐらい読んでくれ!
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「34・石原慎太郎&養老孟司

 ・柳田邦男(ノンフィクション作家)

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。(柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月、25ページ)

 柳田邦男氏もまた、「新潮45」の「日本人の教養」なる連載によって俗流若者論の奈落に落ちてしまいました。上の文章は、おそらく『壊れる日本人』という本の中で2番目にひどい部分――1番ひどい部分は、どういうわけか片仮名と平仮名だけで書いてしまった部分なのですが、3ページにも亘っていますので引用するのは控えました――ではないかと思われます。そもそも「不思議な動物」なんて、明らかに人間と思っていないじゃないですか。「新潮45」の読者には受けるのかしら。
 関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男

 ・正高信男(京都大学教授)

 一連の推測がまったく私の見当はずれである可能性も大いにある。だが趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと、執筆した次第である。(正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月、「まえがき」)

 待ってました、このような無責任発言!

 …ゲフンゲフン。

 いや、なんと言いますか、正高氏が最近振りかざしてきた疑似科学が、このように言われてしまうと、何となく萎えてしまうでしょう。しかし、こういうノリで書かれた本――前著である『ケータイを持ったサル』(中公新書)も含めて――がベストセラーとなり、多くの人が好意的に引用している様を見てしまったら、我が国の「読者層」の知的頽廃ぶりに絶望を覚えてしまいます。
 関連記事:「正高信男という斜陽

 グランプリ(1名)
 ・三浦展(民間シンクタンク研究員)
 平成17年に「下流社会」なる語句を大流行させた仕掛け人。しかしその正体は、結局のところそれまでのマーケティング常識――すなわち、ただひたすら「上」を目指すための消費を煽ること――が通用せず、身の丈に合った生き方をする人たちに対する呪詛を振りまいて「目標のあった時代はよかった」などと上の世代に嘆かせた、いわばハーメルンの笛吹きでした。その文章は、上昇意識を持たない人間などゴミも同然だなどという憎悪がこもっていたものも多かったのですが(特に『仕事をしなければ、自分はみつからない。』と『「かまやつ女」の時代』)、そんな三浦氏の発言の中でも、もっとも笑わせてもらったのがこれ!

 今日も電車に乗ると、隣に若い男が座り、早速マクドナルドをむしゃむしゃ食べ始めた。Tシャツに無精ひげのこの男は、一体何をして暮らしているのだろう?街や駅で倒れこんでいる若者を見ることも少なくない。それも夜じゃない。朝や昼だ。パチンコ屋の店先には早朝から若者が座り込んで開店を待っている。最近は、こういう人を見ると、もしかしてこれが噂のニートかと思う癖がついた。(三浦展『下流社会』光文社新書、2005年9月、262ページ)

 はっきり言いますけれども、「ニート」とは、厳密に言えば、仕事をしていなければ、求職活動もしておらず、また教育も受けていないことの総称であって、決してそのライフスタイルまでが規定されているわけではありません。にもかかわらず、三浦氏が《これが噂のニートかと思う癖がついた》理由は、結局のところマスコミが面白がってニートだニートだと騒ぎ立てたために、「ニート」=怠け者、といったイメージが結びついてしまったからではないでしょうか?このような書き飛ばしは、平成18年は、もうやめてくださいね。
 関連記事:「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」「後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」「俗流若者論ケースファイル75・宮崎美紀子&三浦展&香山リカ」「76・三浦展

 それでは、今年の若者論の動向に想いを馳せつつ、よいお年を!

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2005年・今年の1冊

 私が平成16年12月16日~平成17年12月31日に読んだ本の中で、特に印象に残った本を紹介します。

 今回は、
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 (書評:「心理学主義という妖怪が徘徊している」)
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 (書評:「「狂気」を囲い込む社会」)
 村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』日経BP社、2005年4月
 本田由紀『(日本の〈現代〉・13)多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 以上を推薦します。
 なお、「2005年10~12月の1冊」は、もう少しお待ちください。

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 今、我が国を覆っている「排除」と「生きづらさ」に関して、深く思考する機会を与えてくれる本を挙げることとする。

 我が国においてある種の「生きづらさ」が蔓延しているのは、多くの人が指摘していることである。しかし、その種の議論は、往々にしてその「生きづらさ」の中で個人が強い気持ちを持って生きていくべきである、という精神論につながり、その一部は「今時の若者」は精神(あるいは脳)が虚弱だからこの時代を生きられない、という俗流若者論に陥り、更にその一部は若年層の精神(あるいは脳)の虚弱から凶悪犯罪を起こすのだ、という暴論に到達する。

 そのような言論状況にあって、皇學館大学助教授の森真一氏の著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)と、東京大学助教授の本田由紀氏の著書『多元化する「能力」と日本社会』は、現在の社会状況そのものの構造を如実に表している。森氏の著書では、「心の知識」に関する言説が横行し、「「感情」は危険なもの」とされて「自己コントロール」が求められるようになる社会の病理を、社会学の視点から的確に批判している。とりわけ重要なのが、森氏がエミール・デュルケームの理論を現代に当てはめている部分である(60~71ページ)。デュルケームは、社会全体に、道徳意識の向上した「聖人」の如き人が増殖すると、犯罪がなくなるのではなく、むしろたった少しの社会道徳からの逸脱すら重大な罪と捉えられてしまう、と論じた。森氏は、それを現代の状況に当てはめて、「心の知識」に関する言説が横行することにより、社会が個人に求める「心のスキル」が高度化し、それによってデュルケームの言った「聖人」による社会が実現しつつある、と論じている。
 また、本田氏の著書においては、社会、特に若年層の社会において「コミュニケーション能力」が重要なポストを占めつつあることを論述している。本田氏の著書の第4章以降は、少々分析がもの足りないような気もするが、少なくとも若者論という言説の手本というべき本となっているように思える。それはさておき、本田氏の記述によれば、企業の求める人材が「能力」よりも「コミュニケーション能力」といった具合に変容していくように、「近代型能力」から「ポスト近代型能力」が社会全体で重大なウェイトを占めるようになりつつある。また、左右を問わず、「人間力」だとか「生きる力」といった、知識そのものよりも「意欲」や「課題発見能力」といった柔軟な「知力」が求めるようになったり、あるいは「今時の若者」における「人間力」低下の「原因」として家庭教育が糾弾され、家庭教育に関するマニュアル的言説が溢れるようになる。

 このように、「心の知識」を求める言説や、「ポスト近代型能力」の重要性を強調する言説は、我々の人生において窮屈さを生み出していると同時に、それらが自由な選択肢を提示しているように見えて実際には我々を追い込んでいる。そもそも、個々人の「内面」を操作しようとする社会に対して、どのような視座を持てばいいのだろうか。

 一つ目に、人々の「内面」を知ろうとする欲望の正体を知ること。例えば、京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏の著書『狂気と犯罪』(講談社+α新書)は、精神医学が犯罪心理学を通じ、司法に介入することによっていかに人間の「心」を特定していくか、という欲望を描いている。司法の近代化によって、量刑に犯罪者の「人格」を考慮しなければならなくなったが、そこに精神医学の入る隙を与えてしまい、戦後に精神衛生法が制定されて精神病院列島となる基盤となってしまった。戦前、政治に対して強い意欲を持っていた精神科医は、犯罪を起こす恐れのある「悪性」が精神分析によって発見され、実際に犯罪行為に及ぶ前に精神病院に入院させる――これは明らかに予防拘禁である――ことを夢想した。そして現在は、そのような「悪性」を特定しようという欲望は、今や社会全体のものとなりつつある。その典型が簡単に言えば「フィギュア萌え族」なる珍概念であり、実際には犯罪を起こすリスクが一般人と大差ないにもかかわらず、「ひきこもり」「ニート」「オタク」などは「悪性」と見なされるようになった。

 二つ目は、このような社会の欲望に対して、社会学の視点から不断の批判を与えていくことだ。例えば、インターネットサイト「哲学の劇場」主宰者である山本貴光、吉川浩満の2氏による『心脳問題』(朝日出版社)は、例えば「ゲーム脳の恐怖」といった「脳言説」の横行の、現代思想における位置づけを行なっている。とりわけ、このような「脳言説」の横行は、ジル・ドゥルーズの言うところの「コントロール型社会」における生物学的情報の重要度の高まりを反映している、という指摘(257ページ)は、極めて重要であろう。

 三つ目が、科学や統計学の視点から批判を行なっていくこと。富山大学教授の村上宣寛氏の著書『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)は、心理学の専門家の立場から巷に横行している「心理テスト」――具体的に言うと、血液型性格診断、ロールシャッハ・テスト、内田クレペリン検査、などなど――に、統計学や心理学の立場からこれらの「心理テスト」が眉唾であることを指摘している。「ゲーム脳」にしても、精神科医の斎藤環氏らが決定的な批判を与えており、巷に溢れる「心理学主義的言説」「脳言説」へのサイエンスからのカウンター・オピニオンはほぼ出揃っているといえよう。

 社会科学からも、統計学や自然科学からも、我が国を覆う「心理学主義的言説」「脳言説」に対するカウンター・オピニオンは、十分に存在している。しかし、これらのカウンター・オピニオンが、社会に与える影響は、残念ながらあまり多くないように思える。「ゲーム脳の恐怖」の宣教師である森昭雄氏は、いまだにマスコミでは寵児扱いだし、「ブック・オブ・ワースト」の中にも、心理学主義的言説を振りかざしたものがいくらかある。このような言説を最も多く採り上げているのはマスコミであり、従ってマスコミに対して執拗な批判をし続けていく必要があるけれども、かといって社会全体の流れを止めることはあまり期待できないかもしれない。

 しかし、我が国を覆う「生きづらさ」や「排除」に関して、少しでもいいから熟考してみる必要性は、確かにあるように思える。我々が理解も寛容もないまま「排除」を求める愚民にならないためにも、少しでもいいから「心理学主義的言説」「脳言説」に対する批判的視座を持つ必要性があるのかもしれない。難儀な問題である。

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 ボーナストラック:2005年・今年のブック・オブ・ワースト10冊
 ここでは冒頭の期間に読んだ本の中で特に内容が悪かったものを紹介します。今回はフリーターや「ニート」関連の本も加えます。みんなで読んで笑い飛ばしましょう。

 1:柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~
 「2005年4~6月の1冊」参照。
 関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男

 2:三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 関連記事:「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 3:荒木創造『ニートの心理学』小学館文庫、2005年11月

 4:斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 「2005年7~9月の1冊」参照。
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 5:正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 関連記事:「正高信男という斜陽」「正高信男という頽廃
 「2005年7~9月の1冊」参照。

 6:岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月

 7:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、2005年7月

 8:澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所、2005年7月

 9:三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月
 関連記事:「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」
 「2005年7~9月の1冊」参照。

 10:三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 関連記事:「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」
 「2005年7~9月の1冊」参照。

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2005年・今年の1曲

 筆者が2005年に買ったCDの中でもとりわけ私の印象に残った曲を紹介します。今回は、
 FictionJunction YUUKA「暁の車」作詞・作曲:梶浦由記
 FictionJunction YUUKA「焔の扉」作詞・作曲:梶浦由記
 以上を推薦します。
 なお、「2005年下半期の1曲」は、もう少しお待ちください。

――――――――――――――――――――

 「暁の車」は、私が「俗流若者論ケースファイル」という連載を始める直前に買ったCDであり、当初は梶浦由記氏(作曲家)が南里侑香氏(声優)をプロデュースする「FictionJunction YUUKA」の曲であるということと、またCDの売上が高かったことから買ったものである。そして、この曲を聴いてから、この曲は、私が若者論批判を書くときに最初に聞く曲となっている。なぜなら、この曲の持っているイメージが、俗流若者論の奈落へ落ちていく者たちに捧げる挽歌として、私のイメージと合致するからである。

 「暁の車」の世界観は、どこかへ――おそらく戦地であろう――赴く人を、おそらくその人と付き合いのある女性や子供が必死で引き止めるが、それがかなわぬ夢である、ということである。また、タイトルに「暁」という文字が入っていたり、あるいは「オレンジの花びら」とか「燃えさかる車輪」などという表現が使われている通り、時間帯は日暮れ時であろう。しかし、この日暮れという時間設定と、歌詞の持つ悲壮感、そして南里氏のヴォーカルが、この曲に壮大なイメージを与えて、感慨深い味わいを持たせている。

 この曲を俗流若者論の奈落へ落ちていくものたちに捧げる挽歌として私の活動と重ね合わせたのも、基本的には良心的な書き手ですら、いざ若者論となると急に偏狭な認識をあらわにして、暴論を振りかざすことが往々にしてあったからである。私にとって、そのような行為は、書き手の信頼性を失わせるものであると考えているし、そうなってしまうことは極めて悲しいことだからである。

 「焔の扉」は、こちらは希望の失われた大地から、新しい希望を手に入れるために旅立つという曲であり、始まりを予見させる曲である。「暁の車」が葬送の曲であるなら、「焔の扉」は旅立ちの曲であるかもしれない。しかし「焔の扉」からも、旅立つ者の決意と同時に不安を感じさせるイメージが惹起される。例えば「悲しみよ今は静かに/私を見守って」や「嘆きの大地に赤い雨は降り注ぐ」という部分がそれにあたる。しかしそれを必死になって拭い去ろうという気概もまた垣間見える。

 いずれも、極めて壮大な世界観を歌いきった曲である。是非聞いて欲しい。それにしても、アルバムが欲しい。予算の都合で買えなかった…。

――――――――――――――――――――

 2005年・アルバム15枚
 1:tiaraway「TWO:LEAF」サイトロンディスク、2005年1月

 2:岡崎律子「Love & Life -private works 1999-2001-」ユニバーサルミュージック、2005年5月

 3:KOTOKO「硝子の靡風」ジェネオンエンターテインメント、2005年6月

 4:皆川純子「アイコトバ」キングレコード、2005年4月

 5:小森まなみ「Ride on Wave」インターチャネル、2005年7月

 6:折笠富美子「Flower」ジェネオンエンターテインメント、2005年9月

 7:高橋直純「scene ~残したい風景~」リアライズレコード、2005年8月

 8:金月真美「たからもの」コナミメディアエンターテインメント、2004年12月

 9:國府田マリ子「メトロノーム」キングレコード、2005年2月

 10:笠原弘子「H.K」ジェネオンエンターテインメント、2005年9月

 11:佐藤利奈「空色のリボン」フロンティアワークス、2005年3月

 12:浅野真澄「happyend」コロムビアミュージックエンターテインメント、2005年8月

 13:野川さくら「Cherries」ランティス、2005年8月

 14:桑島法子「純色brilliant」ビクターエンターテインメント、2005年12月

 15:田村ゆかり「琥珀の詩、ひとひら」コナミメディアエンターテインメント、2005年3月

 2005年・シングル収録曲15曲(上記のアルバムに収録されている曲は除く)
 1:FictionJunction YUUKA「暁の車」作詞・作曲:梶浦由記/FictionJunction YUUKA「暁の車」ビクターエンターテインメント、2004年9月
 ※アニメ「機動戦士ガンダムSEED」挿入歌

 2:水樹奈々「ETERNAL BLAZE」作詞:水樹奈々、作曲:上松範康/水樹奈々「ETERNAL BLAZE」キングレコード、2005年10月
 ※アニメ「魔法少女リリカルなのはA's」オープニングテーマ

 3:FictionJunction YUUKA「焔の扉」作詞・作曲:梶浦由記/FiceionJunction YUUKA「焔の扉」ビクターエンターテインメント、2005年9月
 ※アニメ「機動戦士ガンダムSEED Destiny」挿入歌

 4:angela「YOU GET TO BURNING」作詞:有森聡美、作曲:大森俊之/angela「YOU GET TO BURNING」キングレコード、2005年9月
 ※アニメ「機動戦艦ナデシコ」オープニングテーマのカヴァー

 5:angela「DEAD SET」作詞:atsuko、作曲:KATSU、atsuko/angela「DEAD SET」キングレコード、2005年8月
 ※アニメ「蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT」イメージソング

 6:angela「Peace of mind」作詞:atsuko、作曲:KATSU、atsuko/angela「Peace of mind」キングレコード、2005年12月
 ※アニメ「蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT」テーマソング

 7:米倉千尋「僕のスピードで」作詞・作曲:米倉千尋/米倉千尋「僕のスピードで」キングレコード、2005年2月
 「2005年上半期の1曲」参照。
 ※アニメ「まほらば ~Heartful days~」エンディングテーマ

 8:メロキュア「ホーム&アウェイ」作詞・作曲:日向めぐみ/メロキュア/井上喜久子「ホーム&アウェイ」コロムビアミュージックエンターテインメント、2005年7月
 ※アニメ「奥さまは魔法少女」オープニングテーマ

 9:angela「未来とゆう名の答え」作詞:atsuko、作曲:KATSU、atsuko/angela「未来とゆう名の答え」キングレコード、2005年1月
 ※アニメ「JINKI:EXTEND」エンディングテーマ

 10:水樹奈々「WILD EYES」作詞:水樹奈々、作曲:飯田高広/水樹奈々「WILD EYES」キングレコード、2005年5月
 ※アニメ「バジリスク ~甲賀忍法帖~」エンディングテーマ

 11:愛内里菜、石田燿子、近江知永、奥井雅美、影山ヒロノブ、can/goo、栗林みな実、下川みくに、JAM Project、鈴木達央、高橋直純、水樹奈々、unicorn table、米倉千尋「ONENESS」作詞・作曲:奥井雅美/愛内里菜、他「ONENESS」ワンネスプロジェクト、2005年5月
 ※「Animelo Summer Live 2005 -THE BRIDGE-」テーマソング/アニメイト限定発売

 12:田村ゆかり「Spiritual Garden」作詞:三井ゆきこ、作曲:太田雅友/田村ゆかり「Spiritual  Garden」コナミメディアエンターテインメント、2005年10月
 ※アニメ「魔法少女リリカルなのはA's」エンディングテーマ

 13:折笠富美子、他「黄色いバカンス featuring 片桐姫子」作詞:斉藤謙策、作曲:河合英嗣/折笠富美子、他「黄色いバカンス」2005年8月、キングレコード
 ※アニメ「ぱにぽにだっしゅ!」オープニングテーマ

 14:石田燿子「OPEN YOUR MIND ~小さな羽根ひろげて~」作詞:石田燿子、作曲:田中公平/石田燿子「OPEN YOUR MIND ~小さな羽根ひろげて~」ジェネオンエンターテインメント、2005年1月
 ※アニメ「ああっ女神さまっ」オープニングテーマ

 15:高橋広樹「BE YOURSELF」作詞:池田森、作曲:高橋広樹/高橋広樹「BE YOURSELF」インターチャネル、2005年4月
 ※文化放送ラジオ番組「BE YOURSELF」オープニングテーマ

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2005年12月30日 (金)

論壇私論:「中央公論」平成18年1月号

 ベスト:藤原智美「時評2006 少年の「心の闇」は科学で分析できるか」

 「中央公論」の巻頭連載コラム「時評」の、平成18年の執筆者は、藤原智美(作家)、茂木健一郎(脳科学者)、池内恵(国際日本文化研究センター助教授)の3氏である。そのうち藤原氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル」の第17回第68回で批判していたので、今後の展開が少々不安になっていたのだが、藤原氏が書く最初の「時評2006」である「少年の「心の闇」は科学で分析できるか」という文章は、素直に高く評価していい文章である。タイトルが示すとおり、この文章は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびにマスコミにおいて喧伝される「心の闇の解明」なるものが、最近になって心理学や脳科学を巻き込んでしまっている状況を批判しているものだ。

 例えば所謂「酒鬼薔薇聖斗」事件に関して、マスコミがこの犯人の「心の闇」を描き出そうと必死になっていたのに対し、《犯人は、その闇にたいして空虚という言葉を、あたかも挑戦的に対峙させた。闇に光をあててもそこには何もない、とでもいいたかったのだろうか。彼はみずからを「空虚な存在」と規定した》。しかし社会とマスコミは、その「心」に何かしらの「意味」を求めようとする。「理解できない」犯罪が起こったときに、マスコミが必死になって「心の闇」なるものを「解明」私用とすることは、最近の犯罪報道においてよく見られる光景である。また、藤原氏が述べているように、このような傾向は、犯人が若い世代であるほど顕著である。そしてそこで「利用」されるのが、最近では精神医学や脳科学である。

 心理学や精神医学に関しては、そのいかがわしさが様々なところで取り沙汰されている。例えばかの「宮崎勤事件」の精神鑑定では、複数の専門家が人格障害と統合失調症と多重人格という異なった鑑定結果を出してしまった。また、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(赤根洋子:訳、文春新書)、村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)、ローレン・スレイター『心は実験できるか』(岩坂彰:訳、紀伊國屋書店)などという、精神医学、ないし精神医学的な「解釈」に対する批判書が出版され、そこそこの人気を博している状況を見ても、心理学が少しずつではあるが退潮の兆しを見せていることがわかるかもしれない。

 しかし、社会やマスコミの「心の闇」なるものに対する欲望は、最近では脳科学に手を伸ばしつつある。藤原氏が少しだけ触れて批判している「ゲーム脳」理論は、その典型であろう。藤原氏が《数年前からゲーム脳という言葉が流通しているが、それにも専門家のあいだでは多くの疑問の声があがっている。けれど世間的には市民権を得て放置されたままだ》と書いている通り、そのいかがわしさにもかかわらず「ゲーム脳」理論、そしてそれとほぼ同工異曲の理論がまかり通っているのが現状だ。このような「欲望」は、もはや理論の誤謬を衝くことでは解体できないのであろうか。

 更に藤原氏は、自分が「正常」でなくなった瞬間の「心」を語ることに関しても批判的な視座を投げかける。曰く、《私たちにもし心のコアがあるとすれば、それは他者にはうかがい知れないものなのだろう。しかも殺人といった「正常」でない瞬間の、そのときの心を、事後にあたかも設計図を書くように繙くことはほぼ不可能ではないか》と。

 「時評2006」という2ページのコラムに、「心の闇」騒動に深くのめりこんでしまっている人の思考を脱構築させる要素が多く詰まっている。昨今の少年犯罪報道を頻繁に見ていて、それを受け止めている人も、批判的に見ている人も、是非多くの人に読んで欲しい文章である。

――――――――――――――――――――

 ベター1:渡邊啓貴「格差と貧困に揺れるヨーロッパ」
 フランスの暴動に関する論考。渡邊氏の論考は、主としてフランスにおける格差と貧困の問題に関して、過去の事例にも触れてフランスの暴動を論じている。フランスでイスラーム移民が社会問題化したのは1970年代のオイルショックで、それが一気に噴出したのが1980年代末の、イスラーム教徒の女子中学生がスカーフをかぶって登校したという理由で退学処分にされた、という事例。

 フランスの移民政策は、1970年ごろの高度経済成長の終焉から外国人や移民に対する管理や取締り政策が採られるようになったが、それ以降はほぼ保護政策が採られてきた。しかしフランスにおけるイスラーム移民に対する社会的排除はいまだに強く、従って今回の暴動を突発的な事例として捉えることも難しい。この論考においては、更にフランスやオランダが欧州憲法条約を批准しなかったことにも触れられており、国際問題を考える上で射程の長い論考。もちろん、我が国も静観してはいられない内容である。

 ちなみに私が少し気になったのが158ページ1段目の、《十一月八日に行われた世論調査では、暴動の原因として「親の監督の不行き届き」を挙げたものが六九%、「大都市郊外での失業・不安定・夢のないこと」は五五%という高い率を示したが、「社会のクズなどのサルコジ発言」は二九%にとどまった》というくだり。社会的な問題を十分にはらんでいる移民の暴動すら「親の監督の不行き届き」に原因を求めてしまう傾向は、決して我が国に特殊なものではないのだなあ。産経新聞の山口昌子記者によれば、シラク大統領もまた「親の責任」を明言したらしいし。

 ベター2:白石隆「東アジア共同体の構築は可能か」
 「日米同盟の強化」は日本の行動の自由を失わせる、という意見と、「東アジア共同体」は中国中心の地域秩序になるのではないか、という意見を検証しつつ、本当に目指すべき東アジア共同体とはどのようなものか、ということを論じた論考。

 最初に触れられているのは、東アジアとEUの違いで、EUが基本条約に調印することによって自国の主権的権限をEUに委譲するのに対し、東アジアのあるべき地域統合とは市場の力によって《気がついてみたら、この地域に事実上の経済統合が始まっていた、そういう地域化を基本的特徴とするもの》ということになる。また、東アジアの経済的統合の動きを加速させたのが、1997年から1998年にかけてのアジア経済危機である。

 中国との付き合い方や東アジア共同体における日米同盟のあり方など、超えなければならない問題にも触れられており、示唆に富む内容なのだが、東アジア共同体の構築が我が国の経済や雇用・労働・社会にもたらす影響が完全に欠落しているのが少々心残りである。

 ベター3:福田ますみ「稀代の鬼教師か、冤罪か」
 平成15年6月に起こった「とされる」、福岡の小学生体罰事件は冤罪ではないか、ということを問いかけるルポルタージュ。そもそもこの体罰事件が大きく知られるようになったのは平成15年6月27日付朝日新聞の報道で、そこから一気に報道が過熱し、「週刊文春」に至っては実名、顔写真、教諭の自宅まで突き止めてしまう報道をしでかした。しかし取材してみると事態はそれほどでもなく、また「目撃証言」とされる児童の発言に関しても、その内容がかなり矛盾しているようである。

 客観的な証拠がほとんどないことにもかかわらず、またそのことがしっかりとわかっているにもかかわらず、体罰が「あったこと」と見なされたことは、マスコミの過剰報道も無縁ではあるまい。象徴的なのは、この記事における、ある児童の発言で、《「あの頃、毎日テレビの中継者が学校に来てたけど、それを教室の窓から同級生と見ていて、『テレビはうそ言ってるね』『大人はうそついてるね』って話してたんだ」》というもの。この文章を見てみる限り、「体罰」という言葉に過剰反応してしまった学校やマスコミの姿が見て取れる。

 ベター4:熊野英生「素人トレーダーの危うい投資生活」
 最近、ネットを利用した新しい投資のスタイルが流行しているらしい。それが「デイトレード」と呼ばれるもので、一日で売買を完結させる、というもの。また、周囲には「デイトレード」の成功例が喧伝し、それもまた多くの人々を「デイトレード」に向かわせる要因となっている。結果として、平成17年9月現在、インターネット取引の口座数は800万口座に迫らんとする勢いで増えている。

 しかし実際に「デイトレード」で成功しているのは極少数だし、トレーダーの用いている手法もまたほとんどがネット掲示板の書き込みやブログの記事などの「口コミ」である。筆者は《伝統的な証券会社からネット証券に不可逆的に顧客が流れる現象だ》《堅いベテラン投資家が若い時期にした失敗の経験を糧にして投資のスキルを磨いた時代とは違うことが起こっている》などと結論付けている。

 しかしどうしても承服できないのが、最後のほうでの「下流社会」論に対する唐突としか言いようのない肩入れである。個人的な懸念を表明するよりも、たとい凡庸でもいいから「成功するのは極少数で、それを夢見て安易に参加するのは危険だし、「絶対に儲かる話」なんてのも眉唾だ」と結論付けたほうが説得力がある気がするのだが…。

 ベター5:松本健一「昭和天皇は「戦争責任」をどうとらえたか」
 題名の通り、昭和天皇が「戦争責任」をどのように捉えていたのか、ということを、発言録から検証したもの。終戦時の「人間宣言」と呼ばれるものは、社会的に定着している考え方が「天皇の神格性の否定」であるのに対し、昭和天皇自身は、政治を自らの手に取り戻そうと意識していたようで、その際に明治維新の「五箇条の御誓文」をわざわざ引き合いに出したことにも現れている。

 また、昭和天皇が靖国神社への参拝をやめた理由として、松本氏は《戦争で死んでいった人びととその戦争で国民に死ぬことを命じたA級戦犯とを、等しく「神」として祀ることへの国民のわだかまり》に対して敏感であったことではないかと結論付けている。

 ワースト:藤原正彦、櫻井よしこ「秀才殺しの教育はもうやめよ」
 単なる言葉遊びだけで複雑な教育問題が解決できるなどという甘い考えが貫き通されているとしか思えない対談。はっきり言ってここで展開されているほとんどが、単なる理想論と使い古された「憂国」でしかない。とりあえず家庭教育を大事にせよ!と喧伝することに関しては、今の状況だと余計に親を追いつめることにしかならないし、また藤原氏と櫻井氏が理想化している家庭教育なるものは一部の上流階級のものなのではないのかという疑念も生まれる。少なくとも「昔は素晴らしいが、今はこんなに駄目だ」という、イメージばかりの議論は単なる言葉遊び、そうでなければ自分は万能だと思っている人の大上段からの押し付けでしかない。

 もちろん、憲法が個人の自立や権利ばかり強調してきたから現在の如き深刻な教育問題が生まれたのだ(櫻井氏、42ページから43ページにかけて)、という俗論や、子供たちの語彙力の不足がひどいといってその証左が近くで聞いたような話だけだったりとか(両氏、45ページ)、「美の存在」やら「何かに跪く心」やら「精神性を尊ぶ風土」やらが失われているから日本は駄目になったのだとか(両氏、46ページ)、香ばしい発言も満載。近く「俗流若者論ケースファイル」で検証してみようか。

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2005年12月29日 (木)

俗流若者論ケースファイル76・三浦展

 緊急特集として、最近の児童が被害者となる犯罪を取り扱った若者論を検証しようと思ったのだが、前回採り上げた、民間シンクタンク研究員の三浦展氏がまた若者論を展開していたので、こちらを優先して採り上げることとする。三浦氏の論説が掲載されたのは平成17年12月27日付の読売新聞、「信頼喪失社会を語る」という連載の第1回として掲載されている。ここでは、三浦氏のほかに、東京大学教授の中尾政之氏の論説も掲載されていたのだが、中尾氏の理論は、「技術のブラックボックス化」という視点から所謂「姉歯問題」などを論じていて、読ませる論考であった、少なくとも最近建築環境から建築構造に興味が移りつつある私にとっては。

 閑話休題、なぜ私が三浦氏の論説を採り上げたかというと、三浦氏の論説には、飛躍した断定が多すぎるからである。はっきりいって、この文章――正確には、読売新聞生活情報部の伊藤剛寛氏が三浦氏にインタヴューした内容を文章に起こしたものなのだが――全体が推論で成り立っているようなものだ。

 例を挙げてみよう。三浦氏は昨今の「ファスト風土化」なる現象について述べているが、三浦氏の立論にはかなり疑問が多い(その点に関しては、「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」を参照されたし。誤解がないように言っておけば、私は地方が空洞化していることには問題意識を持っているが、少なくとも「今時の若者」をさも郊外化の鬼胎の如く扱う三浦氏の態度はアンフェアだと思っている)。例を挙げてみる。

 ファスト風土化は、農村や商店街といった古いコミュニティーを破壊している。しかし、ファスト風土事態は新しいコミュニティーを作っているとは言えない。流動化し、匿名化した空間では、コミュニティーの基礎である人間同士の信頼関係を築くことは難しいだろう
 こうした地域社会の流動化と匿名化が、若者の心理にも影響を与えていると思う。パソコンや携帯電話などの新しいメディアが急速に普及してきたために、情報だけは増大しているが、地域社会の崩壊とともに、実体験はどんどん減っている。そういう生活環境では、地に足の着いた現実感覚は生まれにくい。現実の世界を、まるでゲームの世界のように見る人間が増えてもおかしくない
 2年ぐらい前に、不二家の人気マスコット「ペコちゃん」の人形を幹線道路沿いの店舗から盗んで、ネットオークションで売ろうとする事件があった。いささか冗談めくが、ペコちゃんを盗むのと、幼児の連れ去りが同じような感覚で行なわれている気がしてならない
 日本人は、人形はもちろん、針のようなものであっても、あたかも命があるように大切にし、使い終われば「供養」してきた。ところが、今は、人間にさえも「命」の感覚を持ちにくい人間が増えてきたのではないかと不安になる。(三浦展[2005]、以下、断りがないなら同様、強調引用者。引用部分は2~5段目)

 ご覧の通り、最近の事件に関して、最低限の過去の事例も調べようとせず、報道で喧伝される情報と自らの立論だけで物事を語っている。しかし、警察庁の犯罪統計書によれば、小学生未満の子供が被害者となる殺人事件の件数は、少なくとも「ファスト風土」化が進展しておらず、地域コミュニティーの繋がりが強かった「はず」で、また人々が人に限らず物にも畏敬の念を抱いていた「はず」の時代に比して、地域コミュニティーが瓦解すると共に人間にさえも畏敬の念を抱かなくなった現在のほうがおよそ4分の1に減少している(「少年犯罪データベース」による)。

 そもそも三浦氏の主張の根幹には、旧来のコミュニティーに対する無根拠の信頼がある。すなわち、三浦氏の理想とするコミュニティー、すなわち《人間がただ消費だけをしているファスト風土ではなく、人間が働きながらつながりあう場としての地域社会》(8段目)こそが「人間」を育てるのであり、そうでないもの(「ファスト風土」!)は「人間」を育てない、というものである。このような認識は、端的に言えばそれこそ「若者の人間力を高めるための国民運動」的なもので、要するに自分と違った「異常な」環境で育った者たちは、必然的に――自分の自意識の反映でしかない――「人間力」が劣る、という認識である。

 三浦氏の議論の中心にあるのはどうやら「コミュニケーション能力」であるといえる(三浦氏の「下流社会」論にしろ、三浦氏の問題視している「人生への意識の低さ」の一つとして「コミュニケーション能力の低さ」が含まれている)。しかし、このような「コミュニケーション能力」を中心に据えるような議論は、むしろ「コミュニケーション能力」の低い人に対する「寛容」を失わせる、という議論も存在する。例えば東京大学助教授の佐藤俊樹氏は、昨今の「コミュニケーション能力」の重点化という現象を、「「ガリ勉」の絶滅」というコピーを用いて、「コミュニケーション能力」が前面に出てくるのと同時にサーヴィス産業の比率が高まってくると、何かに必死に追い立てられるが如く勉強をしている人は「能力がない」と評価されがちになる、と論じている(佐藤俊樹[2003])。三浦氏の言う「地域社会の再評価」は、かえって「コミュニケーション能力」に劣り、どこの共同体にもなかなか属しづらい人たちの行き場所を失わせるのではないか、という懸念が尽きない。

 三浦氏が「地域社会」を再評価せよ、というのは、結局のところ東京大学助教授の本田由紀氏の表現を用いれば《もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》(本田氏のブログ「もじれの日々」のエントリー「心から体へ」)を満たしてくれる存在としての「地域社会」に期待しているからかもしれない。そこには、青少年の「逸脱」を受け入れてくれるカウンター・コミュニティーの存在など、ない。

――――――――――――――――――――

 三浦氏関連で、もう一つ採り上げたい発言がある。

 朝日新聞社の週刊誌「AERA」は、平成15年12月29日・平成16年1月5日合併号から、コンビニで売られている最新の食品を採り上げた「Go! Go! Junkie」という連載を行なっており、平成17年の初夏には「Go! Go! コンビニライフ」という増刊号も出している。「コンビニ」はは、「AERA」にとって最近の関心事の一つとして捉えることもできる。

 その絡みとして、同誌平成17年8月15・22日合併号において、ライターの吉岡秀子氏が「若者がコンビニ離れ」という記事を書いている。そこにおける三浦氏の発言に注目してみよう。

 若者の消費行動に詳しいマーケティングアナリストの三浦展さんは、コンビニよりも若者の行動の変化に注目する。
 ある研究所の調査では、一人暮らし20~25歳未満の男女約700人のうち4割近くが休日でも外へ出ず、5時間以上もパソコンに向かっている。また、フリーターの増加で可処分所得が低下し、コンビニの価格も高いと感じている。
 「パソコン、プレステ、ページャー(端末)、ペットボトル――この4Pが今の若者の“4つの神器”。メシくう時間に時間を忘れてドリンクを片手にチャットしている。コンビニに行かないのは、お金もないし、引きこもっているからでしょう」(三浦さん)
 (吉岡秀子[2005])

 笑いを取りたいのであろうか。ここまでさらっと言い切れる三浦氏の、若年層に対する偏見も、相当に問題化されるべきだと思うけれども。そもそも吉岡氏は「ある研究所の調査」なるものに関して、どのような手法を用いて行なわれたのにも着目していないが、三浦氏もパソコンでチャットをするのが退廃的だ、と捉えている節もある。そもそもフリーターの増加で可処分所得が低下しているのであれば、フリーターと正社員の格差を問題化すべきではないかと思うのだが。私の三浦氏に対する疑問は尽きない。

 参考文献・資料
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 三浦展[2005]「背景に画一化、階層化」=2005年12月27日付読売新聞
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 佐藤俊樹[2003]「「ガリ勉」の絶滅は新たな不平等社会の象徴だ」=「エコノミスト」2003年9月30日号、毎日新聞社
 吉岡秀子[2005]「若者がコンビニ離れ」=「AERA」2005年8月15・22日号、朝日新聞社

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2005年12月25日 (日)

俗流若者論ケースファイル75・宮崎美紀子&三浦展&香山リカ

 そもそも私が、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の最近の言説を検証した短期集中連載企画を始めたのは、三浦氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読み、この人は結局のところ全ての人が上昇意識を持って懸命に働けば社会は良くなる、と無根拠に考えているだけではないか、と思ったからである。事実、三浦氏の昨今の著書には、「上昇意欲を持たない」若年層に対する罵詈雑言で満ち溢れており――『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)はその最たる例であろう――、さも上昇意識だけ持てば人生がバラ色であるかのごとき幻想を振りまいていたからである。三浦氏の議論には、経済格差や社会的影響、ないし教育がもたらす影響がほとんど抜け落ちており、その議論は最終的には若年層の精神論に漂着してしまう。これは単なる仮設として聞き流していただいて結構なのだが、平成12年に「ひきこもり」問題が噴出し、しかし当事者の熱心な活動や言論により従来の「ひきこもり」論――要するに、「ひきこもり」は甘えであり、この問題を解決するためには親なり社会なりが強い姿勢でこのような怠けた奴らに対処しなければならない、というもの――が少しずつではあるが居場所を失っていった。しかし平成16年には、「ひきこもり」よりもニュートラルな表現として、「ニート」という言葉が発見され、それを語る言説の上において、従来「ひきこもり」対策として語られていたものがそのまま「ニート」対策として語られるようになった(この点については、後藤和智[2006]を参照されたし)。そして平成17年、「ひきこもり」よりも「ニート」よりもニュートラルな表現として「下流」という表現が、三浦氏によって開発された。

 なぜ私がこのような仮説を思いついたかというと、平成17年12月22日付東京新聞に掲載された、同紙記者の宮崎美紀子氏による「自閉する若者…「下流社会」の行方は 向上心なき「自分らしさ」」という記事に、「下流社会」論が「ひきこもり」論及び「ニート」論と同じ道をたどるかのごとき兆候が現れていたのである。蛇足だけれども、三浦氏よ、自分の本が売れたからといって《「やっぱり下流は存在していたことが証明された」》(宮崎美紀子[2005]、以下、断りがないなら同様)などとはしゃぐのはやめてくれ。森昭雄氏が「やはり「ゲーム脳」は存在した!」とはしゃいでいるようで見苦しい。

 閑話休題、例を挙げてみよう。

 「下流」とは、生活に困る「下層」ではなく、上へ行こうという意欲が低い人、つまり、働く意欲、学ぶ意欲、金持ちになりたいという意欲も低ければ、コミュニケーション能力も低い、同氏いわく「人生への意欲が低い」人を指す。当然、所得も低く、結婚できない可能性もある。一方で団塊世代が持つような「自分らしさ」にこだわり、「下流」生活に必ずしも不満を感じていない。

 これは「ニート」(本来であれば「若年無業者」と記述したいところであるが、マスコミで面白おかしく採り上げられる「ニート」像を念頭においているので、このように表記することとする)を語る上で用いられたレトリックと同様である。例えば《働く意欲、学ぶ意欲、金持ちになりたいという意欲も低ければ、コミュニケーション能力も低い》というのは、「ニート」論の最大の紹介者である東京大学助教授の玄田有史氏の、一般メディアにおける「ニート」論の最初期に書かれた文章における《働こうとする意思もなく、進学しようとする意思もない》だとか《ニートは自分に自信がもてない。同年代の人と比べて自分は協調性や積極性、コミュニケーション力などが劣っていると、ニートの二人に一人は感じている》(以上、玄田有史[2004])というところと合致する。

 「下流社会」論に特徴的なのは、「下流」の奴らは自分の生活に満足している、という点であろう。例えば、先ほどの引用文の最後のほか、次のような記述にも現れている。

 何百億も稼ぐIT長者がいる一方で、フリーターやニートが増えているのを見れば、「一億総中流」が崩壊していることに誰もが気付いているだろう。「下流」の若者は、それを悪いことだとは思わず、中流へのこだわりもない。親の建てた家があり、「ユニクロ」や百円ショップで買い物をして、ファストフードを食べれば、定職につかなくても十分生活できる。「なんなんだ」と、上を目指してきた大人は思いたくもなる。「下流の出現」という三浦氏の指摘は、そんな漠然とした怒りを説明してくれる。

 ただ、このくだりを検証するにあたって説明しておきたいのは、この部分は「下流社会」論は「ひきこもり」論ないし「ニート」論と認識を共有しているわけではないが、しかし「パラサイト・シングル」論とは極めて強く結びついている。「パラサイト・シングル」論においては、親の既得権に「寄生」し、家庭の一室を占拠し、また親の財産に依存して、自分は趣味と同然の仕事をしてそこそこの暮らしをする人たちが批判された(山田昌弘[1999])。「下流社会」論に特徴的なこの部分は、結局のところ「パラサイト・シングル」論の焼き直しでしかない。この記事の執筆者である宮崎氏もまた、《「なんなんだ」と、上を目指してきた大人は思いたくもなる。「下流の出現」という三浦氏の指摘は、そんな漠然とした怒りを説明してくれる》などと書いていることにも、「下流社会」論が、結局のところ――親に「規制」して、自立したがらない若年層を指弾する――「パラサイト・シングル」論と同様に受容されていることを明確に示しているだろう。

 わかりにくい、と思う人は、平成12年ごろに「自立できない若者」論として「ひきこもり」論と「パラサイト・シングル」論が存在し、それが平成16年から平成17年にかけて、そのミクスチュアとしての「ニート」論と「下流社会」論として甦った、と考えてもらうとわかりやすいだろう。ただ「ニート」論は「ひきこもり」論の影響を強く受けているのに対し、「下流社会」論は「パラサイト・シングル」論の影響を強く受けている。

 三浦氏の一連の議論――『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)から『下流社会』(光文社新書)、そしてこの記事――において、決定的に欠如しているのが経済政策と教育の問題である。これに関しては、経済政策に関してはエコノミストの田中秀臣氏に(田中秀臣[2005])、教育政策に関しては東京大学助教授の本田由紀氏に譲ることとするが(本田由紀[2005])、三浦氏の議論は、若年層の精神のあり方を重点的に問題視している点において、結局のところ「自己責任」論、ないし精神論に収束してしまっている。

 さて、宮崎氏のこの文章において、もう一つ注目すべきは、精神科医の香山リカ氏の発言であろう。

 精神科医で帝塚山学院大学教授の香山リカ氏は、大学の講義の中でこの質問を学生たちにしたという。
 「こういう質問に学生たちがどう反応するかを見たかった」ためだが、意外だったのは「下流」に当てはまった学生の反応だった。
 「ショックを受けたり、憤慨することはない。『私も流行の先端を行っている』という感覚なのか、喜ぶ学生もいた。しかし下流と言われて反感を持たない抵抗力のなさこそが問題で、それが下流化をさらに促進している」
 意欲もなく、仕事もしない若者たちの問題は、今後顕在化すると山田氏(筆者注:東京学芸大学教授の山田昌弘氏)はみる。「親にパラサイト(寄生)しているからこそ、好きな生活をしていられる。しかし十-二十年先、親が弱ってきたら放り出される運命にある。現状は破綻(はたん)の先送りでしかない」からだ。
 「下流」になってしまった人が、そこから抜け出すきっかけはあるのか。香山氏は過激だ。「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」

 香山氏の問題意識に従えば、「下流」と批判された人たちは直ちに反論し、あるいは抵抗を持って、このままではいけないと問題意識を持って「上流」を目指すしかない、ということになる。で、「下流」といわれても何の抵抗を持たない人たちは、強力な締め付けによってしか危機感を自覚できなくなる、と。しかし香山氏には問いかけるべき疑問がある。

 「下流」といわれて抵抗を持たないことを、なぜ批判されなければならないのだろう。そもそも成熟社会においては個々人が自らの「生」をまっとうできるような政策――要するに「最小不幸社会」的な政策――が必要となる。しかし香山氏の如き問題意識は、結局のところバブル期、あるいは高度経済成長期の「成長」幻想を捨てきれぬノスタルジアでしかない。蛇足だけれども、香山氏が最近になってオタクバッシング(厳密に言えば男性オタクバッシング)を始めるようになってしまった(「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」を参照されたし)のも、このような「成長」幻想(「消費フェミニズム」と置き換えてもいいが)を捨てきれないからではないか、と思っている。

 「ニート」にしろ「下流社会」にしろ、青少年の意識の「劣化」を理由に、青少年の「内面」を詮索する、ということがここのところ続いている。しかし、このような論理がもたらしたものは、結局のところ社会的な問題に触れるべき部分でさえ青少年の「内面」の問題として置換し、「内面」に対する介入を正当化することだろう。香山氏が《「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」》などと絵空事を述べていることは、その象徴だ。なぜなら、青少年の「内面」を重点的に問題化すれば、青少年の「内面」を「叩き直す」ことこそが最優先事項とされ、危険な政策や排外的な論理ですら「青少年の「内面」を「叩き直す」ため」として正当化されるからである。

 蛇足であるが、この記事における山田昌弘氏の発言の中に昨今の「下流」ブームの一端を現しているものがある。《「自分の子供が下流に転落してしまうのではないかと恐れている中流の親か、自分はこれよりはマシだと確認したい人たち。本当の下流の人は新書など読まないでしょう」》というものである。山田氏の言うとおり、「下流社会」論は確かに、一般に「大人向け」と位置づけられるメディアに受けた(「週刊ポスト」の反応はその典型)。三浦氏は、「「下流」という「問題のある人格」が若年層の間に浸透している」という問題意識を煽ったほうがいい、という目論見をもって「下流社会」論を展開しているという側面があると推測される。三浦氏が《「学問は予測してはいけない。でも、マーケティングは予測しなきゃいけない。社会が向かう方向を示すとき、学問は位置まで正確でないといけないが、マーケティングは、大体でいい。素早い意思決定のためにやっているんだから。『下流』も、厳密な定義はなく、簡単に言えば『キーワード』。この言葉は、モヤモヤした世の中が、すっきり見える眼鏡であり、社会を考えるための武器」》と語っているのが極めて象徴的で、この言葉が最初から扇動を目的としていることがわかるだろう。

 参考文献・資料
 玄田有史[2004]「十四歳に「いい大人」と出会わせよう」=「中央公論」2004年2月号、中央公論新社
 後藤和智[2006]「「ニート」論を検証する」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月(近刊)
 本田由紀[2005]『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 宮崎美紀子[2005]「自閉する若者…「下流社会」の行方は 向上心なき「自分らしさ」」=2005年12月22日付東京新聞
 大竹文雄『経済学的思考のセンス』中公新書、2005年12月
 渋谷望「ポピュリズムの最大の供給源はどこか」=「論座」2006年1月号、朝日新聞社
 田中秀臣[2005]「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」=「SAPIO」2005年11月22日号、小学館
 山田昌弘[1999]『パラサイト・シングルの時代』ちくま新書、1999年10月

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2005年12月23日 (金)

トラックバック雑記文・05年12月23日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/本田由紀/赤木智弘/田中秀臣

 ただいま、寒気が日本中を席巻しており、全国で大雪を降らせております。私の住んでいる仙台も猛吹雪が吹き荒れました。

 しかし、猛吹雪が吹き荒れているのは何も天候だけではない。我が国の青少年政策にもまた、猛吹雪が吹き荒れています。

 冬枯れの街:「竜に一人一人順に喰われていくのが嫌ならば竜を皆で殺すしかない。」
 昨日の「トラックバック雑記文」で、自民党が「「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言」なるものを発表したことに関して少々愚痴を発してしまいました。しかし、この「緊急提言」は、あまりにも問題の大きいものであるため、批判することは十分相当性があります。この「緊急提言」と同時に、「AERA」に掲載された「漫画を規制せよ!」と高らかに叫んでいる投書も転載してしまいましたが、いまだに政治にもマスコミにもアダルトゲームやロリコンものの漫画を規制すれば子供が被害者になる犯罪は撲滅できる、と能天気に考えている人が多いようです(投書は個人の見解じゃないか、という反論もありましょうが、投書の選定に関しては編集デスクが関わってくるので、その編集デスクの意向が(記事には表れない「隠れた本音」と言い換えてもいいでしょう)反映される、という見方も十分にできます)。

 「冬枯れの街」では、「青少年問題に関する特別委員会」の平成17年12月16日付議事録が批判されていますが、このエントリーの筆鋒があまりにも鋭くて、私が検証するよりも遥かによく問題点をあぶりだしております。それにしても、「子供を守る」という大義の下、これまでの事件とは全く関係ないメディアが、しかも自民党から共産党までの大同団結の下規制されつつあるのですから、思い込みの持つ力は論理よりも勝っている、ということの証左なのでしょうか。こういうときだけ「挙国一致」かよ。もっと他に解決すべき問題があるだろーが。例えば建物の耐震補強あるいは免震・制震化とか(天野彰『地震から生き延びることは愛』文春新書、の第4章や、深堀美英『免震住宅のすすめ』講談社ブルーバックス、等の地震関連の本を参照されたし。宮城県在住の人なら、大竹政和『防災力!――宮城県沖地震に備える』創童舎、あるいは、源栄正人『宮城県沖地震の再来に備えよ』河北新報出版センター、も参照)。高度成長期に建造されたコンクリート建造物は粗悪で崩れやすい、という報告もあります(小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書)。これこそ国民の安全に関わる問題です。また、本当に子供を守りたい、というのであれば、極めて確率の低い(しかしマスコミは総力を挙げて騒ぎたがる)ロリコンによる性犯罪ではなく、児童虐待と感染症と交通事故と自然災害という、本当に子供が死んでしまうリスクが極めて高い部分での対策をやるべきでしょう。

 参考までに、民主党の「児童買春・児童ポルノ規制法案に関する見解」も転載しておきます。

1、児董を性的虐待から守るため、特に海外における低年齢児童への買春・ポルノ撮影等が国際的批判をあびている現状に対して、早期の立法措置が必要である。
2、しかし、今回提出された与党案は、構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある。また、刑法など他の法制との整合性にも問題がある。さらに、守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分である。
3、私たちは、国民の権利・義務に密接にかかわる本立法が国民的合意に基づき早期に行われるべきとの考えから、与党協議への参加、提出前の修正などについて与党と非公式に交渉してきたが、われわれの提案に一切耳を傾けず、与党が法案提出に踏み切ったことは、法案を真剣に成立させる意欲があるとすれば、まことに遺憾である。
4、以上のような観点から、与党案は抜本的に見直しの上、再提出が必要と考えるが、最低限以下の修正が必要である。
(1)「買春の定義」について
○定義があいまいな「性交類似行為」を削除し、「性交等」の定義を、「性交、若しくは自己の性的好奇心を満たす目的で、性器、肛門若しくは乳首に接触し、又は接触させること。」と明確化する。
○通常の交際との線引きを明確にするため、「代償」は、拡大解釈されないよう限定する。
(2)「ポルノの範囲」について
 絵は、保護法益が異なるため除外する。
(3)「ポルノの定義」について
 「衣服の全部又は一部を脱いだ児童の姿態であって性的好奇心をそそるもの」との表現は、範囲が広すぎかつ主観的・あいまいであり、削除する。
(4)「広告の処罰」について
 写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できるので、削除する。
(5)「児童買春の罰状」について
 他の刑法犯との整合性からも、懲役「5年以下」を周旋罪・勧誘罪と同じ「3年以下」に改める。
(6)「児童ポルノの単純所持」について
 守るべき法益がなく、削除する。
(7)「年齢の知情」について
 過失処罰の規定であり、「児童の年齢を知らないことにつき過失の存するときは、第3条乃至第7条の規定による処罰を免れることはできない。」に、改める。
5、民主党は、上記事項をふまえ、人権侵害のおそれがなく、実効性のある対案を早期にとりまとめ、次期国会に提出する所存である。

 とりあえずは及第点といっていいでしょう。《構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある》《守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分》《「代償」は、拡大解釈されないよう限定する》《絵は、保護法益が異なるため除外する》《写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できる》など、不当に利権を拡大させようとしている自民党の懲りない面々に声を出させて読ませたい文章です。

 しかし、このような無用な青少年「政策」は、ロリコンメディアにとどまっているわけではない。

 もじれの日々:うんざり+心から体へ+火星人(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏の問題意識に全面的に同意。

しかし思うに、小田中さん(筆者注:東北大学助教授の小田中直樹氏)が昨日のコメント欄で言及してくださっていたように、「若者の心をさわらずに何とかしたい」と内藤さん(筆者注:明治大学専任講師の内藤朝雄氏)と私がもごもご言い合っている間に、世の中の方が一足早く、「(若者の)心から体へ」とターゲットを移しつつあるのだ。もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考えが澎湃と広がりつつあるのだろう。そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じるし、そんなことはそもそも不可能だと思うのだが、それをこそ理想だとする人々がちゃんと、しかも相当の勢力をもって、存在するのだ。

 このような論理は、様々な衣をまとって我々の周りを侵蝕しつつあります。例えば、「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」で検証した、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏は、子供たちが「ディスプレー症候群」にかかっているから少年犯罪や学力低下が起こるのだ、と言っております。これは脳科学のアナロジーを悪用した論理ですが、その分野で今トップにいるのが森昭雄氏であることは疑いえません。本田氏言うところの《外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》に関して言うと、このような論理は既に眼科医学(「俗流若者論ケースファイル60・田村知則」)や、あるいは小児科学(「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹」)、またはスピリチュアリズム(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く」)といった分野に属する人からも出ています(また、それらがことごとくゲームやインターネットを悪玉視しているのが不思議だ)。ま、みんな亜流ですけどね。

 本田氏の《そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じる》という苦言は実にごもっともでありますが、彼らのやりたいことは一種の「自己実現」(笑)に過ぎない。ですから、こういう人たちを突き崩す論理は、彼らの子供じみたプライドを否定すればいい(笑)。これは自民党のメディア規制推進派にも言えます。

 さて、「冬枯れの街」では、「戦後教育が「幼女が被害者となる犯罪」を生み出したのだ!」と叫んでいる、自民党国会議員の松本洋平氏が批判されています。しかし松本氏は昭和48年(1973年)生まれ。要するに、私より11歳年上なわけです。従って松本氏が受けたのもまた「戦後教育」のはずなのですし、松本氏は戦前の教育を受けていません。受けていない教育をどうしてそんなに礼賛できるの?問題点も含めて調べたのか?単にそこらの保守論壇人の愚痴を真似ているだけではないのか?

 私は最近、若年無業者(「ニート」)に関する朝日新聞の投書を集中的に調べたことがあるのですが、私と1、2歳ほど違わない大学生が、例えば《教育を語る上で昔と今が決定的に違うのは、日常の生活では「生きる力」を身につけることが困難になってしまったことでしょう》(平成17年3月18日付朝日新聞、東京本社発行)などと平然と語ってしまうことにも腹を立てております。要するに、現代の若年層を批判するために、理想化された「一昔前」とか「戦前」をいとも簡単に持ち出す。

 深夜のシマネコBlog:自虐史観に負けるな友よ(赤木智弘氏)

 「過去を美化するな、現在を軸足に据えよ、そしてその上で最善の解決策を設計せよ」という、自己中心主義者にして合理主義者にして刹那主義者(笑)の私としては、《ましてや、このようなメディア利用の上で若い人たちに、さも「昔の人たちは偉かった」と思わせるようなことをするのなら、当然徹底的に反論させてもらう。/若い人たちが、自分たちの事を卑下することのないように、それこそ若い人たちが生きた歴史を否定する本当の意味での「自虐史観」に陥らないようにしたい》という赤木氏の問題意識には強く共鳴します。

 徒に「理想化された過去」に自己を同一化し、エクスタシーを得ている人たちが多すぎます。自分の生活世界を見直そうともせず、あるいは現在喧伝されている「問題」に対して懐疑の念を持たず、ただ「日本人の精神」みたいなフィクションに陶酔することこそ、自己の否定、自我の否定であって、結局のところあんたらが毛嫌いしている「自分探し」でしかねえんだよ。

 ついでにこの話題にも触れておきますか。
 Economics Lovers Live:ニート論壇の見取り図作成中(田中秀臣氏:エコノミスト)
 最近になって、巷の「ニート」論に対する批判が次々と出ています。その急先鋒は、本田由紀、内藤朝雄、田中秀臣の3氏であるといえましょう。本田氏は、「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」というネット上のインタヴュー記事で、若年無業者自身の心理的問題を重点視する従来の「ニート」論を批判しています。内藤氏は、「図書新聞」平成17年3月18日号で「お前もニートだ」という文章を発表し、青少年ネガティヴ・キャンペーンの一つとしての「ニート」論に、社会学的な立場から反駁を行なっています。田中氏は、このエントリーとはまた別のブログ「田中秀臣の「ノーガード経済論戦」」の記事や、あるいは「SAPIO」平成17年11月23日号の記事で、「「ニート」は景気が悪化したから発生したのであり、景気が良くなれば減少するはずだ」と主張し、「ニート」が予算捻出の口実になっている、と批判しています。このような田中氏の、景気に関する説明に関しては本田氏は少し疑問を持っていますが、問題意識の点では共鳴しているといっていいでしょう。

 また、田中氏との共著もある、早稲田大学教授の若田部昌澄氏も、最新刊『改革の経済学』(ダイヤモンド社)において、「ニートの中の不安な曖昧さ」と題して玄田有史氏を批判していますし(とはいえ、若田部氏の著書に関しては、まだ立ち読み程度なのですが…)、明石書店から出ている「未来への学力と日本の教育」の第5巻である、佐藤洋作、平塚眞樹(編著)『ニート・フリーターと学力』では、法政大学助教授の児美川孝一郎氏と、横浜市立大学教授の中西新太郎氏が「ニート」論を検証しています(児美川孝一郎「フリーター・ニートとは誰か」、中西新太郎「青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる」)。これと、来春出る予定の、本田氏と内藤氏と私の共著である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)で、反「「ニート」論」の議論はおおよそ出揃うでしょう。

 これに対し、従来の「ニート」論の土台を担ってきたのが玄田有史氏(東京大学助教授)と小杉礼子氏(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)です。特に玄田氏は、かなり初期の頃から青少年の「心」を問題化していた(「論座」平成16年8月号の文章が、一番その点の主張が強いかな)。その玄田氏と小杉氏が中心となってまとめられた本が『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書)で、この本には玄田氏と小杉氏のほか、宮本みち子(放送大学教授)、江川紹子(ジャーナリスト)、小島貴子(キャリアカウンセラー)、長須正明(東京聖栄大学専任講師)、斎藤環(精神科医)の各氏が登場しています。ここに、玄田氏が序文を寄せている『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所)の著者である、NPO法人「「育て上げ」ネット」代表の工藤啓氏や、更に「希望学プロジェクト」という、玄田氏が中心となって動いているプロジェクトや、玄田氏も重要なポストにいる「若者の人間力を高めるための国民運動」の両方に参加している、東京学芸大学教授の山田昌弘氏も加えて、一つの陣営として捉えることができる。また、「サイゾー」の最新号の記事を見てみる限り、自民党衆議院議員の杉村太蔵氏もこちら側に親和的かな。

 さて、この話題に関して、もう少しだけ語らせてください。というのも、「ニートサポートナビ」というウェブサイトを見つけたのですが、そこに「ニート度チェック」なるコンテンツがありました。数回やってみたのですが、出題はランダムのようです。というわけで、今回また新しく挑戦してみましょう。

 1つ目の質問:会社的な所属(居場所)が自宅以外にない
 《会社的な所属(居場所)》とは、何を指すのでしょうか。少なくとも私はまだ大学生ですから、会社には所属していないし、アルバイトも家庭教師しかしていない。成人式実行委員会が《会社的な所属》といえるかどうかも疑問。極めて曖昧な質問なので、とりあえず「自宅以外にない」のほうにチェックをつけておきます。

 2つ目の質問:グループの雰囲気に溶け込むのが苦手だ
 私は大学内にほとんど友達がいません。また、コミュニケーション能力はあまり高くなく、もし自分が自分の体質とは少しずれるグループにいたら、少々我慢して、あまり干渉せず、溶け込もうともしないでしょう。従って、これは「苦手だ」というほうにチェックしておきます。

 3つ目の質問: 自分はとても真面目なほうだと思う
 少なくとも、私は、書物を読み漁り、あるいは計算式を懸命に解いたり、文章を書いたりすることにやりがいを感じているので、これは「思う」といってもいいかな。

 4つ目の質問:アルバイト情報誌(求人誌)は「とりあえず」目を通す
 これは「目を通す」ですね。この設問は、選択肢が「目を通す」「目を通さない」ですから、「とりあえず」でなくても、目を通すなら「目を通す」に応えるべきなのでしょう。

 5つ目の質問:父親とよく会話をする
 あまりしないほうだと思いますね。「しない」。

 6つ目の質問:製造業に魅力を感じる
 当たり前じゃないですか。製造業なくして世界は成り立ちませんよ。従って「感じる」。

 7つ目の質問:何かを始める前には、自分が納得している必要がある
 「考えてから行動する」か「行動してから考える」ということを聞いているのかな。私は「考えてから行動する」タイプなので、「納得している必要がある」。

 8つ目の質問:親の目を見るのが苦手だ
 「苦手ではない」。

 9つ目の質問:好きな自分と嫌いな自分がいる
 これは、長所と短所を表しているのでしょう。従って、「当てはまる」。ちなみに「当てはまらない」に関しては、3パターンあります。一つは「好きな自分はいるが嫌いな自分はいない」。もう一つは「好きな自分はいないが嫌いな自分はいる」。最後に「好きな自分も嫌いな自分もいない」。この3つに当てはまる人は、押しなべて「当てはまらない」に答えるべきなのでしょう。

 10つ目の質問:ニートという言葉が嫌いだ
 はい、大嫌いです。私は一貫して若年無業者という言葉を使うか、あるいは「ニート」とカギカッコに入れて使ってきた。この言葉が、青少年の内面ばかりを問題視する言説ばかりをはびこらせたのは否定し得ない。
 さて、10個の質問が終わりました。私の「ニート度」はいかがか!!

あなたはニート傾向が強いようです。

もし長期に渡って就業から遠ざかっているようでしたら、「ワークセレクション」にて、様々な仕事に携わる人たちの様子やインタビューを配信していますので、ご覧になっていただければ、新たな一歩を踏み出すきっかけとなるかもしれません。
また、就労や訓練を受ける意欲があるようでしたら、「若者自立塾の紹介」にて、厚生労働省の施策として行われている全国の各若者自立塾の概要をご紹介しております。「若者自立塾のアンケート結果」「若者自立塾の口コミ情報」とともにご覧になっていただき、興味があれば各自立塾にお問い合わせしてみるのもいいかもしれません。
自分でもどうしてよいかわからない場合は、「メールカウンセリング」にて専門カウンセラーのアドバイスを受けることができますので、一度ご相談してみてはいかがでしょう。

 よくここまでわかるもんだなあ、感心。っていうか、こりゃ、一種の宣伝にしか見えないな。
 で、何が言いたいのかな、このテストは。曖昧です。まさに「ニートの中の不安な曖昧さ」(@若田部昌澄)。

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2005年12月22日 (木)

トラックバック雑記文・05年12月22日

 今回のトラックバック:「カマヤンの虚業日記」/「冬枯れの街」/古鳥羽護/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/「おたくの旅路」/「海邦高校鴻巣分校」

  さて、どうしたものか…。
 カマヤンの虚業日記:[政治]自民党・規制派の謀略
 冬枯れの街:ゲーム悪影響論に下された審判
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:大谷昭宏・勝谷誠彦「実践的な防犯よりも”変態”をやっつけろ!」(古鳥羽護氏)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:2005ユーキャン新語・流行語大賞トップテン『萌え~』『ブログ』、やくみつるが授賞
 おたくの旅路:野球をやると殺人者になる!
 海邦高校鴻巣分校:暴力漫画への怒りを表明した貴方へ
 ついに自民党が、表現規制に向けて動き出したそうです。

「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言
平成17年12月19日 自由民主党 「犯罪から子どもを守る」緊急対策本部
今後取り組むべき課題
1.青少年の健全育成環境の整備
女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される。

子どもを対象とした性犯罪を封じ込めるには、青少年のみならず、成人にも悪影響を与えるこうした児童ポルノ等が事実上野放しにされている現状を改革する必要がある。

すでにいくつかの都県や政令市はこうした児童ポルノ等を条例により規制しており、自由民主党としても「青少年健全育成推進基本法」の制定に向けた取り組みを進める。

同時に、政府においても内閣府を中心に時代を担う青少年の健全育成に対する世論の喚起に努める。

 それだけではありません。朝日新聞社の週刊誌「AERA」平成17年12月26日号にも、有吉由香「子どもを殺させるな」という記事の反響として、以下のような投書が掲載されております(ちなみに有吉氏の記事自体は表現規制には一言も触れてはいません)。

 女児に対する異常な犯罪が続いている。女児をもつ親の胸は、犯人への底知れぬ怒りとともにこんな社会を作った大人の無関心・無力さへの悔しさでいっぱいだ。

 新聞やテレビのニュースでは毎日のように、「次世代」とつく新しいモノやサービスが登場している。誰もがそれに乗り遅れまいと夢中である。

 しかし、多くの大人は現実社会で押しつぶされそうな「無力な次世代」に対しては、あまりにも無関心すぎると私には思えてならない。

 親は必死である。児童をIT機器で防護し登下校の送り迎えをする。しかし親、学校、自治体の防護にも限界はある。なぜなら犯人は入念に下調べをして防護のスキを狙っているからだ。あるいは成人男性が自暴自棄にアタックしてきたとき、大人でさえ子供を守りきれないことは過去の事件から明白である。

 親や学校や自治体だけではなく、すべての社会を構成する大人にできること、そしてその責任があること。それはこういった幼児・児童への犯罪を助長する情報を社会から一掃することである。

 私が始めていること。それは成人向け雑誌・コミックとその他の本を平然と一緒に並べている書店では買物をせず、必ず書店には「止めるべきだ」と意見を言うことである。店長に直接言うのだ。そういった声を上げ続けない限り、幼児・児童への性は「法律的に問題ない」と売り物にされるのだ。

 親が必死に子供を守っている一方で、街には幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミックが平然と、しかも誰の目にもつくように売られている。想像して欲しい。娘と一緒に絵本を買いに行った書店で、異常な性癖を持った男が娘を観察しているかもしれないのだ。大人よ、次世代のためにも自分の責任を果たせ。(東京都日野市・柿崎○○ 43歳・会社員兼大学生)←投書のため苗字だけの公開とします

 自民党にしろ、この突っ込みどころ満載の投書を書いた柿崎某にしろ、自分の言っていることの非論理性や非科学性を理解しているのでしょうか。

 確かに最近の児童が被害者となる事件は憂うべきではありますが、だからといってそれらの事件と彼らが問題にしている性表現の相関性はほとんど認められていません。あなたはニュースを見ていないのですか?これらの事件の報道を見れば、少なくともこれらの事件とあなた方の問題視している性表現が容易に結びついているという判断を安易に下すことはできないはずです。これは過去にさかのぼっても同じことで、昨年の奈良県の事件に関しても、犯人がそのようなポルノを常に見ているわけではなかった。結局のところ、あなた方は、「自分が不可解だと思っているから、子供たちにとって有害だ」と思っているのに過ぎないのではないですか?あなた方の身勝手が、そのまま「子供を守る」という大義名分とつながっているだけではないですか?

 それにです。特に柿崎様、《幼児・児童への犯罪を助長する情報》とは言いたい何を指すのでしょうか。柿崎様の言い分であれば、おそらくそれは《幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミック》の事を指すのでしょう。しかし、それだけを《幼児・児童への犯罪を助長する情報》と限定し、それに対して規制しろ、という態度は、果たして公平といえるのでしょうか?

 例えばです。もし誰かが「報道に触発されて幼児を襲った」とでも証言したら、あなたは報道を規制しろ、とでも言うのでしょうか?また、世の中には、かつてから児童ポルノを取り扱った作品もありますし、ドラマの世界でも殺人を取り扱ったものは数知れない。それらも規制しろ、とあなたは言うのですか?

 自民党もまた然りです。自民党は、《女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される》と書いております。その指摘が正しいかどうかにもかかわらず、それらを無条件で受け入れて《犯罪増加の背景》として、規制してしまうのですか?他の要因は無視してしまうのでしょうか。
 もう一つ、子供が殺されている事件が急増している、とあなた方はおっしゃっていますが、統計的はやぶさかでもないようです。「少年犯罪データベース」に掲載されている資料なのですが、警察庁の「犯罪統計書」によりますと、幼女レイプの認知件数は、昭和35年ごろを境に著しく減少しており、従って最近の社会が幼女強姦を誘発している、とは到底いえないことがわかるでしょう。子供が不審者によってレイプを受けるリスクは急減しています。社会不安に乗じてメディア規制を煽っている人たちには、あなたたちは児童虐待についてどう考えているのか、と問いただしたいほどです(「今の親は駄目になった」という一般論で茶を濁す人もいるかもしれませんが、児童虐待は昔から問題として根強く存在していたのですからね!)。

 最後に柿崎様へ――最後の一段落は、これは一部の男性に対する差別ではありませんか?あなたの書き方では、幼女が出てくる漫画を見ている《異常な性癖を持った男》が、子供たちを虎視眈々と狙っている、とあなたは考えている、ということになるでしょうが、少なくとも彼らが犯罪者予備軍呼ばわりされる理由はない。児童ポルノに対する摘発は、実際に作成の過程で刑法的な問題が発生したときに限られるでしょう。ましてや、漫画やゲームに関しては、あくまでも出てくるのは仮想の人物ですから、名誉毀損罪は成立しません。これらの性表現が「少女全体に対する名誉毀損」ということを言いたいのであっても、具体的な被害者がいない限り名誉毀損罪としては成立しえません。

 あなたたちは、結局のところ、自分の「理解できない」ものを犯罪の元凶だ!といいたいだけではありませんか?それは、単に想像力や論理性の欠如だけではなく、レイシズムにもつながるものです。最近は、身辺雑記レヴェルの「憂国」から一気に天下国家を語ってしまうケースが目立ちますが(「文藝春秋」平成18年1月号の特集「三つの言葉」の一部も、このケースでしょう…私は立ち読みでしか読んでいませんが)、自民党の皆様、政治までそのようなレヴェルで大丈夫なのですか?

 それにしても、誰の口から「修復的司法」という言葉が出てきませんが…。猫も杓子も「厳罰主義」「メディア規制」の大合唱、事件そのものの修復や被害者遺族の被害回復など、誰も考えていないようです。防犯という大義の下、人々の自由が、それも事実誤認にまみれた認識で奪われていく…。そしてマスコミの愚かなコメンテーター共や、投書欄にはびこる短絡的な主張を叫ぶ人たちは、ただ「世間」の不安に乗じて、自分たちの主張を押し付けるだけ。ネガティヴ・イメージばかり先行しているだけです。一体得をしているのは誰なのか?子供をダシにして自分の利権を押し通したいだけではないのか?

 というよりも、広島の事件の犯人が外国人と知ってからは、一気に「分析」とやらが沈静化してしまった感じもありますが…。

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2005年12月10日 (土)

論壇私論:「論座」平成18年1月号

 新シリーズ「論壇私論」を始めます。この企画は、私が購入した総合雑誌及び論壇誌の記事に対して評価(ベスト、ベター1~5、ワースト)及びコメントをつける企画です。

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 ベスト:芹沢一也「なぜ社会は治安を欲望するのか」
 「週刊文春」平成17年12月15日号は、「幼児レイプ本がバカ売れする最新「ロリコン事情」」なる記事を書き、このようなロリコン雑誌が続発する少女を狙った犯罪の温床となっているから規制しろ、と打ち出した。この記事がある特集で採り上げられている、栃木県の女子児童殺傷事件と小児性愛の関係、更には小児性愛とロリコン雑誌の横行の関係が全く明らかになっていないにもかかわらず、だ。

 いつの日からか、我々の社会においては「犯罪から社会を守る」だとか「犯罪から子供を守る」だとかの大義名分の下において、特定の社会階層、あるいは特定の文化階層に所属する人々に対して敵愾心を煽る言説を見かけることが当たり前になってしまった。思えば、平成17年5月から6月にかけて相次いで見られた「ガードレールの金属片」に関する騒動においても、発見当初から多くのコメンテーター――福岡政行氏や弘兼憲史氏など――が、例えばネットを利用した悪質ないたずらであるとか、または「ニート」(若年無業者)の問題と関わっている、だとか、多くの人が思い思いの「プロファイリング」を行なっていた。実際は自動車がガードレールにぶつかったときに車体の一部が剥離してガードレールに残ってしまうことが原因だったのだが…。

 今、我々が目にしているのは、このような「社会的排除」、いや、「村八分」といってもいい事態である。京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏は、「なぜ社会は治安を欲望するのか」という文章において、《「いま排除をめぐって、どのような事態が進行しているのか」》ということを《現在、立てられるべき問い》と掲げている。

 芹沢氏が「排除」の形の一つとして採り上げるのが、平成15年7月に制定し、平成17年7月から施行されている「心神喪失者等医療観察法」である。この法律の施行から早くも4日後に、初めて適用がなされた。ちなみに適用された事件は傷害事件で、東北新幹線の車内で、前の席に座っていた乗客がシートを下げたのに腹を立てて全治1週間程度の怪我を負わせた、というもの。芹沢氏はこの事件の対応に《新しい排除の営み》を見出す。

 なぜか。この事件は傷害事件としては起訴猶予となったが、代わりにこの事件の加害者が前出の「心神喪失者等医療観察法」の適応になったからである。この加害者は、《2カ月ほどの鑑定入院をへて、専門の精神病院に強制入院となった》。要するに、この加害者に、将来犯罪を起こすかもしれない「性格」を有する、という理由で、精神病院に入院することによる「矯正」が行われる運びとなったのである。

 この事件の処理から、芹沢氏は《精神障害者の犯罪は「法」の対象とはならない》こと、さらにこのような、個人の「危険性」を見極めるという判断が犯罪精神医学という学問を基底としており、そのような学問が一つの社会的なステイタスを得たことを問題視している。
 更に、芹沢氏は青少年問題に視野を広げる。ここで問題にされるのは、今年提出されて、8月の衆議院解散で廃案となったが、来年の国会で再提出される予定の改正少年法である。ここで芹沢氏は「虞犯少年」に関して警察に調査権限を与えることを問題視する。改正少年法においては、ある少年に関して虞犯の疑いがある場合は、警察は学校を含む団体への照会ができるようになる。このことが、《些細な不良行為をする少年が警察の監視下におかれ、迅速に家裁なり児童相談所也に送り込めるシステム》を創出する。触法精神障害者の犯罪だけでなく、少年犯罪もまた、法の外部で処理される、という自体が生じようとしているのである。ちなみにこのような事態を支持する学問として環境犯罪学が槍玉に上がっている(ちなみに私の環境犯罪学に関する立場は、建築や街路の監視性と領域性を高めることが犯罪を少なくする、ということに関しては支持している)。

 現実の法律において、このような事態が生じた、あるいは生じようとしていることの背景には、90年代以降、少年や精神障害者が社会全体の「敵」としてみなされるようになったことがある。このような構図を決定付けたのが、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件、及び平成13年の大阪教育大学付属池田小学校事件である。しかし客観的には少年及び精神障害者による犯罪は多発しているわけではない。にもかかわらず多くのマスコミは少年や精神障害者を敵視する報道を強めている。更に、特に精神障害者に関しては、憲法で規定されている「裁判を受ける権利」が剥奪されてしまっている。そのような歪んだ仕法の表出として、殺人でも「心神喪失」を理由に無罪放免になる犯罪者がいる一方で、軽微な窃盗でも「心神喪失」を理由に長きに亘って精神病院に強制入院させられる人がいる。

 私が「治安権力の横暴」と聞いて真っ先に思い出すのが、秋葉原における職務質問の急増に関する報道である。「AERA」平成17年3月7日号によると、秋葉原ではまだ何も罪を犯していない人が多く職務質問され、更には検挙までされてしまう人まで存在する(その「検挙」というのが、たとえば梱包を明けるためのカッターナイフの所持が「銃刀法違反」とされてしまうというもの)。他方で明らかな犯罪行為を行なっている人――例えば、コピーソフトを路上で売っている人――は検挙すらされない。平成16年末の奈良県の女子児童誘拐殺人事件以降、「オタク」が性犯罪予備軍の1カテゴリーとして――ちなみにこの事件の犯人に関して言えば、「オタク」と呼べる要素が何ひとつ備わっていない――見なされるようになった。警察のこのような行為も、そのうち法によって正当化されるのだろう。

 いまや、少なくともマスコミにとっては、犯罪そのものの被害を回復することよりも、「犯罪を起こす」カテゴリーを見つけて、それによって規定された人たちに対する排除行為を煽る――たといその人たちが統計的に一般人と大差ない犯罪リスクを持っていたとしても――ことのほうが関心事になっているようだ。社会が要求する「道徳」の水準が高まり、「僧院」のような社会が実現すると、共同意識が協力になり、少々の離脱でもすぐさま「道徳違反」として糾弾される、とはデュルケームの言葉であるが、我々はマスコミと「世間の目」と治安権力の共振による治安権力の限りなき拡大を目の当たりにしている。芹沢氏はこのように結論付ける。曰く、

 たとえば、あなたは言葉の通じない外国にいる。酒を飲んで自分の国の言葉で大声を出したとしよう。周りの人間に、あなたの声の意味はわからない。また、あなたの声を理解しようとする姿勢もない。ただ無作法な振る舞いに眉をひそめるだけだ。そして、「わけのわからないことを大声で叫んだ」と、あなたはどこかに拘束されてしまう。排除の現在が指し示すのは、こうした架空の話がリアリティーを持ちかねない未来だ。このような未来を現実のものとしないためにも、わたしたちはいまこそ社会的な想像力を多様なものに開いていかねばならない。多様性の中にこそ、自由の未来があるからだ。

 と。

 ただし、本稿では、司法と精神医療の関わりの歴史が省略されているので、その点について理解を深めたい方は、芹沢氏の『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を(「2005年1~3月の1冊」も参照されたし)。

――――――――――――――――――――

 ベター1:渋谷望「ポピュリズムの最大の供給源はどこか」
 「現代思想」平成17年1月号の文章「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」を、論旨をあまり変えずにわかりやすくしたもの。ここでは近年の社会階層論=「中流崩壊」に関する議論が見落としてきたものを問題視する。とりわけ冒頭における、《「勝ち負け」言説は「負け」状態をネガティブに捉える反面、「勝ち」状態を無条件にポジティブなものと見なす傾向がある》という指摘は重要だ。

 最初のほうにおいては「総中流社会」論が「日本的経営」論と合わせ鏡になっていることを指摘。そのような「総中流社会」論は、企業中心社会としての日本の共同体を肯定するというイデオロギー的側面を持っていたが、平成不況により経済が後退すると、日経連の平成7年のレポートに代表されるような、正社員の数を絞り込んでフリーターなどからなるフレキシブルな雇用を増やすことが提言されるようになり、結果として「総サラリーマン化」としての「総中流社会」論はリアリティを失う。また、90年代以降の雇用理論は、「成果」と「競争」というイデオロギー的メッセージを伴っている。

 そのような中で、「中流」以上の階級意識を持っている人の総体において、その「結果」に至る排除のプロセスを誇ることができないため、彼らが「勝ち組」である自己を論理的に正当化する理論を持ち得ず、「中流」以上の人にとってはまた別の「気恥ずかしさ」が存在する。しかしそのような「気恥ずかしさ」を打ち消すのが敵愾心であり、ある種の「敵」を設定してそれを叩くことにより自己を正当化する。これがポピュリズムである。

 昨今の「下流社会」論まで斬り込めていないのが少々心残りであるが、「ゲーム脳」やら「ケータイを持ったサル」やら「フィギュア萌え族」やら「下流社会」やらといった、やたらと都市中流的なステイタスを基盤に若年層をバッシングする言論がなぜ流行するのか、ということに関して何かしらのヒントを得たい人にとってはこれで十分であろう。ベストで採り上げた芹沢一也氏の論考と併読するとなおさら得るものは大きい。

 ベター2:中島岳志「窪塚洋介と平成ネオ・ナショナリズムはどこへ行くのか」
 団塊ジュニア以降の世代にとっての「国家意識」を問題化する論考。ポスト団塊世代が、例えば宮崎哲弥氏や福田和也氏などに代表されるように、もっぱらこの世代の「保守」の立場はいわば「アイロニーとしてのナショナリズム」で、ナショナリズムを不適切なものと見なす視線が確立していることを自覚した上でナショナリストを自称することにより、ある種のアイデンティティを持つようになる。

 しかし団塊ジュニア以降の「ゆるくて熱い」心理は、ポスト団塊世代とはまた異質なナショナリズムを生み出す。中島氏はその典型例として俳優の窪塚洋介氏の言動を挙げる。窪塚氏は高校時代はアイデンティティの問題にぶつかり、自分の個性とは何か、ということに関して深い疑念を抱くようになるが、行定勲監督による映画「GO」で在日コリアンの青年の役を演じることにより、自分のアイデンティティが「日本人」であることを強く認識するようになる。その表出が、窪塚氏が全面的に企画に関わったとされる映画「凶気の桜」である。更に、このような、《不純物を一掃し、「真正の日本」を求める》心性が、窪塚氏をニューエイジへと誘導する。

 このような《ニューエイジ的世界観と結合したナショナリズム》、すなわち《ニューエイジ的生命主義からオルタナティブな世界のあり方を志向し、エコロジー、反戦平和、メディテーション、有機農業などへの関心が、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体感を唱えるナショナリズム》こそが、20代を中心に台頭し始めている《平成ネオ・ナショナリズム》であると中島氏は説く。説得力のある議論であるが、私は、ニューエイジ的な思想を俗流若者論と結びつけ若年層を批判し、更にナショナリズムに走っていった江原啓之という前例や(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」)、それ以外にも「戦後における自然との繋がりの否定が若年層を駄目にした」という言論をいくらか知っているので、中島氏の言うところの《平成ネオ・ナショナリズム》は、ある種のアノミー的な状態で台頭しているナショナリズム、スローフード運動と同様のナショナリズムであるようにも見える。

 ベター3:櫻田淳「自民党の〈変貌〉と保守・右翼層の〈分裂〉」
 平成17年9月14日付の産経新聞は、ある閣僚経験者の観測として「自民党は保守政党ではなくなっているのではないか」という発言を採り上げた。昨今における自民党の人事の背景には、我が国における「保守・右翼層」の変質がある、ということを述べた論考。

 近代の我が国における保守勢力には、明治以降の近代化・産業化の流れを汲む《明治体制「正統」層》と、経済停滞や社会不安、及び戦争に伴う国家総動員体制に応ずる形で、経済活動に対する国家統制や国民生活の平準化を進める「1940年体制」を戦後も推し進めた《「1940年体制」寄生層》、そして国民の「安定」や「福祉」よりも、国家や民族の「維新」「自立」を重視する《「民族主義者」層》に分かれる。

 戦後の経済発展は《「1940年体制」寄生層》によって推し進められたものといえる。また、この3つの層は、ソビエト共産主義体制に対する敵愾心によって一つにまとめられたが、その体制の崩壊後は3つの層の差異が露骨に現れてしまう。そして平成17年9月11日の総選挙で浮き彫りになったのが、《「1940年体制」寄生層》の敗退であり、「活力」や「独立自尊」といった用件が「平等」や「弱者救済」などよりも優先するという、《明治体制「正統」層》の政治理念における復活といえる。

 文中で若年層を問題化しているのが少々気がかりであるが、保守政治の変容を考えるには示唆に富む論考といえる。

 ベター4:東浩紀「大塚英志の苛立ちを受け止めよ」
 連載コラムの場所を借りた、大塚英志、大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21)の書評。この本に関しては私は未読なのだが、アニメが文化である以上、現在政府が推進しているありきたりな「コンテンツ・ビジネス推進」ではむしろアニメ文化を後退させる、という主張は大いに納得できる。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部 宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評 第4回・「下流」人間が読む雑誌は?」
 現在大流行の「下流社会」論の欠点を冒頭で鋭く指摘。現在の「下流社会」論が、ただ大衆の不安ばかりをあおるものとなっている、という川端氏の危惧に対し、宮崎氏はむしろ週刊誌こそが「下流社会」の見方をすべきだ、と主張する。でも、ここで俎上に上がっている「週刊ポスト」は、ターゲットとしている年齢層が高めだし、宮崎氏の主張どおりの報道(週刊誌は「下流社会」の悲痛な叫びを取り上げるか、あるいは「「下流社会」で何が悪い」と主張すべきというもの)は期待できないのでは?これは他の多くの週刊誌でも然り。ちなみに宮崎氏は、「諸君!」平成17年12月号で、三浦展『下流社会』(光文社新書)を「今月のベター」で採り上げている。

 最後のほうでは「少年犯罪と脳」の話に触れる。宮崎氏は、脳科学で犯罪の原因を突き止めることに期待しているようだ。対して川端氏は少々批判的。このことに関する宮崎氏と川端氏のやり取りは参考になる。関連情報として、宮崎氏は「諸君!」平成18年1月号で、草薙厚子『子どもが壊れる家』(文春新書)を、「犯罪は「心の問題」ではなく「脳の問題」なのでは、という問題意識はうなずけるが、だからといって「ゲーム脳」などという疑似科学なんて引くな」という理由で「今月のワースト」として批判していることを採り上げておく。

 ワースト:該当なし

 番外編:中瀬ゆかり「今月の5冊 神林広恵『噂の女』」
 中瀬氏が書評している本の著者・神林氏は現在休刊の雑誌「噂の眞相」で文壇のスクープを報じ続けた人。また、中瀬氏は常に「噂の眞相」の標的になっていた人物であるが、そのような人物にこのような本の書評をさせる「論座」はある意味すごい。神林氏の本に関しては私は未読だが。

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2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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