俗流若者論ケースファイル75・宮崎美紀子&三浦展&香山リカ
そもそも私が、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の最近の言説を検証した短期集中連載企画を始めたのは、三浦氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読み、この人は結局のところ全ての人が上昇意識を持って懸命に働けば社会は良くなる、と無根拠に考えているだけではないか、と思ったからである。事実、三浦氏の昨今の著書には、「上昇意欲を持たない」若年層に対する罵詈雑言で満ち溢れており――『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)はその最たる例であろう――、さも上昇意識だけ持てば人生がバラ色であるかのごとき幻想を振りまいていたからである。三浦氏の議論には、経済格差や社会的影響、ないし教育がもたらす影響がほとんど抜け落ちており、その議論は最終的には若年層の精神論に漂着してしまう。これは単なる仮設として聞き流していただいて結構なのだが、平成12年に「ひきこもり」問題が噴出し、しかし当事者の熱心な活動や言論により従来の「ひきこもり」論――要するに、「ひきこもり」は甘えであり、この問題を解決するためには親なり社会なりが強い姿勢でこのような怠けた奴らに対処しなければならない、というもの――が少しずつではあるが居場所を失っていった。しかし平成16年には、「ひきこもり」よりもニュートラルな表現として、「ニート」という言葉が発見され、それを語る言説の上において、従来「ひきこもり」対策として語られていたものがそのまま「ニート」対策として語られるようになった(この点については、後藤和智[2006]を参照されたし)。そして平成17年、「ひきこもり」よりも「ニート」よりもニュートラルな表現として「下流」という表現が、三浦氏によって開発された。
なぜ私がこのような仮説を思いついたかというと、平成17年12月22日付東京新聞に掲載された、同紙記者の宮崎美紀子氏による「自閉する若者…「下流社会」の行方は 向上心なき「自分らしさ」」という記事に、「下流社会」論が「ひきこもり」論及び「ニート」論と同じ道をたどるかのごとき兆候が現れていたのである。蛇足だけれども、三浦氏よ、自分の本が売れたからといって《「やっぱり下流は存在していたことが証明された」》(宮崎美紀子[2005]、以下、断りがないなら同様)などとはしゃぐのはやめてくれ。森昭雄氏が「やはり「ゲーム脳」は存在した!」とはしゃいでいるようで見苦しい。
閑話休題、例を挙げてみよう。
「下流」とは、生活に困る「下層」ではなく、上へ行こうという意欲が低い人、つまり、働く意欲、学ぶ意欲、金持ちになりたいという意欲も低ければ、コミュニケーション能力も低い、同氏いわく「人生への意欲が低い」人を指す。当然、所得も低く、結婚できない可能性もある。一方で団塊世代が持つような「自分らしさ」にこだわり、「下流」生活に必ずしも不満を感じていない。
これは「ニート」(本来であれば「若年無業者」と記述したいところであるが、マスコミで面白おかしく採り上げられる「ニート」像を念頭においているので、このように表記することとする)を語る上で用いられたレトリックと同様である。例えば《働く意欲、学ぶ意欲、金持ちになりたいという意欲も低ければ、コミュニケーション能力も低い》というのは、「ニート」論の最大の紹介者である東京大学助教授の玄田有史氏の、一般メディアにおける「ニート」論の最初期に書かれた文章における《働こうとする意思もなく、進学しようとする意思もない》だとか《ニートは自分に自信がもてない。同年代の人と比べて自分は協調性や積極性、コミュニケーション力などが劣っていると、ニートの二人に一人は感じている》(以上、玄田有史[2004])というところと合致する。
「下流社会」論に特徴的なのは、「下流」の奴らは自分の生活に満足している、という点であろう。例えば、先ほどの引用文の最後のほか、次のような記述にも現れている。
何百億も稼ぐIT長者がいる一方で、フリーターやニートが増えているのを見れば、「一億総中流」が崩壊していることに誰もが気付いているだろう。「下流」の若者は、それを悪いことだとは思わず、中流へのこだわりもない。親の建てた家があり、「ユニクロ」や百円ショップで買い物をして、ファストフードを食べれば、定職につかなくても十分生活できる。「なんなんだ」と、上を目指してきた大人は思いたくもなる。「下流の出現」という三浦氏の指摘は、そんな漠然とした怒りを説明してくれる。
ただ、このくだりを検証するにあたって説明しておきたいのは、この部分は「下流社会」論は「ひきこもり」論ないし「ニート」論と認識を共有しているわけではないが、しかし「パラサイト・シングル」論とは極めて強く結びついている。「パラサイト・シングル」論においては、親の既得権に「寄生」し、家庭の一室を占拠し、また親の財産に依存して、自分は趣味と同然の仕事をしてそこそこの暮らしをする人たちが批判された(山田昌弘[1999])。「下流社会」論に特徴的なこの部分は、結局のところ「パラサイト・シングル」論の焼き直しでしかない。この記事の執筆者である宮崎氏もまた、《「なんなんだ」と、上を目指してきた大人は思いたくもなる。「下流の出現」という三浦氏の指摘は、そんな漠然とした怒りを説明してくれる》などと書いていることにも、「下流社会」論が、結局のところ――親に「規制」して、自立したがらない若年層を指弾する――「パラサイト・シングル」論と同様に受容されていることを明確に示しているだろう。
わかりにくい、と思う人は、平成12年ごろに「自立できない若者」論として「ひきこもり」論と「パラサイト・シングル」論が存在し、それが平成16年から平成17年にかけて、そのミクスチュアとしての「ニート」論と「下流社会」論として甦った、と考えてもらうとわかりやすいだろう。ただ「ニート」論は「ひきこもり」論の影響を強く受けているのに対し、「下流社会」論は「パラサイト・シングル」論の影響を強く受けている。
三浦氏の一連の議論――『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)から『下流社会』(光文社新書)、そしてこの記事――において、決定的に欠如しているのが経済政策と教育の問題である。これに関しては、経済政策に関してはエコノミストの田中秀臣氏に(田中秀臣[2005])、教育政策に関しては東京大学助教授の本田由紀氏に譲ることとするが(本田由紀[2005])、三浦氏の議論は、若年層の精神のあり方を重点的に問題視している点において、結局のところ「自己責任」論、ないし精神論に収束してしまっている。
さて、宮崎氏のこの文章において、もう一つ注目すべきは、精神科医の香山リカ氏の発言であろう。
精神科医で帝塚山学院大学教授の香山リカ氏は、大学の講義の中でこの質問を学生たちにしたという。
「こういう質問に学生たちがどう反応するかを見たかった」ためだが、意外だったのは「下流」に当てはまった学生の反応だった。
「ショックを受けたり、憤慨することはない。『私も流行の先端を行っている』という感覚なのか、喜ぶ学生もいた。しかし下流と言われて反感を持たない抵抗力のなさこそが問題で、それが下流化をさらに促進している」
意欲もなく、仕事もしない若者たちの問題は、今後顕在化すると山田氏(筆者注:東京学芸大学教授の山田昌弘氏)はみる。「親にパラサイト(寄生)しているからこそ、好きな生活をしていられる。しかし十-二十年先、親が弱ってきたら放り出される運命にある。現状は破綻(はたん)の先送りでしかない」からだ。
「下流」になってしまった人が、そこから抜け出すきっかけはあるのか。香山氏は過激だ。「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」
香山氏の問題意識に従えば、「下流」と批判された人たちは直ちに反論し、あるいは抵抗を持って、このままではいけないと問題意識を持って「上流」を目指すしかない、ということになる。で、「下流」といわれても何の抵抗を持たない人たちは、強力な締め付けによってしか危機感を自覚できなくなる、と。しかし香山氏には問いかけるべき疑問がある。
「下流」といわれて抵抗を持たないことを、なぜ批判されなければならないのだろう。そもそも成熟社会においては個々人が自らの「生」をまっとうできるような政策――要するに「最小不幸社会」的な政策――が必要となる。しかし香山氏の如き問題意識は、結局のところバブル期、あるいは高度経済成長期の「成長」幻想を捨てきれぬノスタルジアでしかない。蛇足だけれども、香山氏が最近になってオタクバッシング(厳密に言えば男性オタクバッシング)を始めるようになってしまった(「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」を参照されたし)のも、このような「成長」幻想(「消費フェミニズム」と置き換えてもいいが)を捨てきれないからではないか、と思っている。
「ニート」にしろ「下流社会」にしろ、青少年の意識の「劣化」を理由に、青少年の「内面」を詮索する、ということがここのところ続いている。しかし、このような論理がもたらしたものは、結局のところ社会的な問題に触れるべき部分でさえ青少年の「内面」の問題として置換し、「内面」に対する介入を正当化することだろう。香山氏が《「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」》などと絵空事を述べていることは、その象徴だ。なぜなら、青少年の「内面」を重点的に問題化すれば、青少年の「内面」を「叩き直す」ことこそが最優先事項とされ、危険な政策や排外的な論理ですら「青少年の「内面」を「叩き直す」ため」として正当化されるからである。
蛇足であるが、この記事における山田昌弘氏の発言の中に昨今の「下流」ブームの一端を現しているものがある。《「自分の子供が下流に転落してしまうのではないかと恐れている中流の親か、自分はこれよりはマシだと確認したい人たち。本当の下流の人は新書など読まないでしょう」》というものである。山田氏の言うとおり、「下流社会」論は確かに、一般に「大人向け」と位置づけられるメディアに受けた(「週刊ポスト」の反応はその典型)。三浦氏は、「「下流」という「問題のある人格」が若年層の間に浸透している」という問題意識を煽ったほうがいい、という目論見をもって「下流社会」論を展開しているという側面があると推測される。三浦氏が《「学問は予測してはいけない。でも、マーケティングは予測しなきゃいけない。社会が向かう方向を示すとき、学問は位置まで正確でないといけないが、マーケティングは、大体でいい。素早い意思決定のためにやっているんだから。『下流』も、厳密な定義はなく、簡単に言えば『キーワード』。この言葉は、モヤモヤした世の中が、すっきり見える眼鏡であり、社会を考えるための武器」》と語っているのが極めて象徴的で、この言葉が最初から扇動を目的としていることがわかるだろう。
参考文献・資料
玄田有史[2004]「十四歳に「いい大人」と出会わせよう」=「中央公論」2004年2月号、中央公論新社
後藤和智[2006]「「ニート」論を検証する」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月(近刊)
本田由紀[2005]『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
宮崎美紀子[2005]「自閉する若者…「下流社会」の行方は 向上心なき「自分らしさ」」=2005年12月22日付東京新聞
大竹文雄『経済学的思考のセンス』中公新書、2005年12月
渋谷望「ポピュリズムの最大の供給源はどこか」=「論座」2006年1月号、朝日新聞社
田中秀臣[2005]「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」=「SAPIO」2005年11月22日号、小学館
山田昌弘[1999]『パラサイト・シングルの時代』ちくま新書、1999年10月
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コメント
そもそも、「フリーター」という言葉から、労働問題(=問題の社会性)を捨て去った言葉が「ニート」ですから、
ニート問題に寄りかかった各種の居酒屋談義は、すべて社会性のないモノになります。
しかし、『下流社会』なんていうトンデモ本が50万部も売れてしまう日本の知性の下流っぷりは、すさまじいモノがあります。
実際本を読みましたけど、普通の数的リテラシーがあれば、その内容の馬鹿馬鹿しさに、あきれかえること請け合いです。
投稿: 赤木智弘 | 2005年12月26日 (月) 07時39分
その三浦展が、けさの読売朝刊で自説を唱えています。氏が恐らくそれとは知らずに唱えている、建築や空間への徹底した無関心には私も一定の賛意を示したいとは思いますが、主張の根幹はとてもホメられたものではございません。
投稿: Lenazo | 2005年12月27日 (火) 10時31分
「苦労」語れなくて、若者のノンプア・コンプレックスの壁(asahi.comより)
http://www.asahi.com/job/special/TKY200512210278.html
いやだね、こういう無意味な「苦労」の押し付け。ステレオタイプな「苦労」をしない人間はだめなの?ある種のルサンチマンにしか思えない。
投稿: coma | 2005年12月29日 (木) 00時40分
MakeYourPeaceのG2です。
「下流社会の若者たち」にTBをありがとうございます。
まぁ、若者を叩くのは簡単ですからね・・・。そういう現実と自分がどう繋がっているのか、そこまで見極めなければ全て空論ですよ。
今後ともよろしく。
年内に、「人口減少社会」について書くつもりです。
投稿: G2 | 2005年12月30日 (金) 01時03分