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2005年12月30日 (金)

論壇私論:「中央公論」平成18年1月号

 ベスト:藤原智美「時評2006 少年の「心の闇」は科学で分析できるか」

 「中央公論」の巻頭連載コラム「時評」の、平成18年の執筆者は、藤原智美(作家)、茂木健一郎(脳科学者)、池内恵(国際日本文化研究センター助教授)の3氏である。そのうち藤原氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル」の第17回第68回で批判していたので、今後の展開が少々不安になっていたのだが、藤原氏が書く最初の「時評2006」である「少年の「心の闇」は科学で分析できるか」という文章は、素直に高く評価していい文章である。タイトルが示すとおり、この文章は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびにマスコミにおいて喧伝される「心の闇の解明」なるものが、最近になって心理学や脳科学を巻き込んでしまっている状況を批判しているものだ。

 例えば所謂「酒鬼薔薇聖斗」事件に関して、マスコミがこの犯人の「心の闇」を描き出そうと必死になっていたのに対し、《犯人は、その闇にたいして空虚という言葉を、あたかも挑戦的に対峙させた。闇に光をあててもそこには何もない、とでもいいたかったのだろうか。彼はみずからを「空虚な存在」と規定した》。しかし社会とマスコミは、その「心」に何かしらの「意味」を求めようとする。「理解できない」犯罪が起こったときに、マスコミが必死になって「心の闇」なるものを「解明」私用とすることは、最近の犯罪報道においてよく見られる光景である。また、藤原氏が述べているように、このような傾向は、犯人が若い世代であるほど顕著である。そしてそこで「利用」されるのが、最近では精神医学や脳科学である。

 心理学や精神医学に関しては、そのいかがわしさが様々なところで取り沙汰されている。例えばかの「宮崎勤事件」の精神鑑定では、複数の専門家が人格障害と統合失調症と多重人格という異なった鑑定結果を出してしまった。また、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(赤根洋子:訳、文春新書)、村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)、ローレン・スレイター『心は実験できるか』(岩坂彰:訳、紀伊國屋書店)などという、精神医学、ないし精神医学的な「解釈」に対する批判書が出版され、そこそこの人気を博している状況を見ても、心理学が少しずつではあるが退潮の兆しを見せていることがわかるかもしれない。

 しかし、社会やマスコミの「心の闇」なるものに対する欲望は、最近では脳科学に手を伸ばしつつある。藤原氏が少しだけ触れて批判している「ゲーム脳」理論は、その典型であろう。藤原氏が《数年前からゲーム脳という言葉が流通しているが、それにも専門家のあいだでは多くの疑問の声があがっている。けれど世間的には市民権を得て放置されたままだ》と書いている通り、そのいかがわしさにもかかわらず「ゲーム脳」理論、そしてそれとほぼ同工異曲の理論がまかり通っているのが現状だ。このような「欲望」は、もはや理論の誤謬を衝くことでは解体できないのであろうか。

 更に藤原氏は、自分が「正常」でなくなった瞬間の「心」を語ることに関しても批判的な視座を投げかける。曰く、《私たちにもし心のコアがあるとすれば、それは他者にはうかがい知れないものなのだろう。しかも殺人といった「正常」でない瞬間の、そのときの心を、事後にあたかも設計図を書くように繙くことはほぼ不可能ではないか》と。

 「時評2006」という2ページのコラムに、「心の闇」騒動に深くのめりこんでしまっている人の思考を脱構築させる要素が多く詰まっている。昨今の少年犯罪報道を頻繁に見ていて、それを受け止めている人も、批判的に見ている人も、是非多くの人に読んで欲しい文章である。

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 ベター1:渡邊啓貴「格差と貧困に揺れるヨーロッパ」
 フランスの暴動に関する論考。渡邊氏の論考は、主としてフランスにおける格差と貧困の問題に関して、過去の事例にも触れてフランスの暴動を論じている。フランスでイスラーム移民が社会問題化したのは1970年代のオイルショックで、それが一気に噴出したのが1980年代末の、イスラーム教徒の女子中学生がスカーフをかぶって登校したという理由で退学処分にされた、という事例。

 フランスの移民政策は、1970年ごろの高度経済成長の終焉から外国人や移民に対する管理や取締り政策が採られるようになったが、それ以降はほぼ保護政策が採られてきた。しかしフランスにおけるイスラーム移民に対する社会的排除はいまだに強く、従って今回の暴動を突発的な事例として捉えることも難しい。この論考においては、更にフランスやオランダが欧州憲法条約を批准しなかったことにも触れられており、国際問題を考える上で射程の長い論考。もちろん、我が国も静観してはいられない内容である。

 ちなみに私が少し気になったのが158ページ1段目の、《十一月八日に行われた世論調査では、暴動の原因として「親の監督の不行き届き」を挙げたものが六九%、「大都市郊外での失業・不安定・夢のないこと」は五五%という高い率を示したが、「社会のクズなどのサルコジ発言」は二九%にとどまった》というくだり。社会的な問題を十分にはらんでいる移民の暴動すら「親の監督の不行き届き」に原因を求めてしまう傾向は、決して我が国に特殊なものではないのだなあ。産経新聞の山口昌子記者によれば、シラク大統領もまた「親の責任」を明言したらしいし。

 ベター2:白石隆「東アジア共同体の構築は可能か」
 「日米同盟の強化」は日本の行動の自由を失わせる、という意見と、「東アジア共同体」は中国中心の地域秩序になるのではないか、という意見を検証しつつ、本当に目指すべき東アジア共同体とはどのようなものか、ということを論じた論考。

 最初に触れられているのは、東アジアとEUの違いで、EUが基本条約に調印することによって自国の主権的権限をEUに委譲するのに対し、東アジアのあるべき地域統合とは市場の力によって《気がついてみたら、この地域に事実上の経済統合が始まっていた、そういう地域化を基本的特徴とするもの》ということになる。また、東アジアの経済的統合の動きを加速させたのが、1997年から1998年にかけてのアジア経済危機である。

 中国との付き合い方や東アジア共同体における日米同盟のあり方など、超えなければならない問題にも触れられており、示唆に富む内容なのだが、東アジア共同体の構築が我が国の経済や雇用・労働・社会にもたらす影響が完全に欠落しているのが少々心残りである。

 ベター3:福田ますみ「稀代の鬼教師か、冤罪か」
 平成15年6月に起こった「とされる」、福岡の小学生体罰事件は冤罪ではないか、ということを問いかけるルポルタージュ。そもそもこの体罰事件が大きく知られるようになったのは平成15年6月27日付朝日新聞の報道で、そこから一気に報道が過熱し、「週刊文春」に至っては実名、顔写真、教諭の自宅まで突き止めてしまう報道をしでかした。しかし取材してみると事態はそれほどでもなく、また「目撃証言」とされる児童の発言に関しても、その内容がかなり矛盾しているようである。

 客観的な証拠がほとんどないことにもかかわらず、またそのことがしっかりとわかっているにもかかわらず、体罰が「あったこと」と見なされたことは、マスコミの過剰報道も無縁ではあるまい。象徴的なのは、この記事における、ある児童の発言で、《「あの頃、毎日テレビの中継者が学校に来てたけど、それを教室の窓から同級生と見ていて、『テレビはうそ言ってるね』『大人はうそついてるね』って話してたんだ」》というもの。この文章を見てみる限り、「体罰」という言葉に過剰反応してしまった学校やマスコミの姿が見て取れる。

 ベター4:熊野英生「素人トレーダーの危うい投資生活」
 最近、ネットを利用した新しい投資のスタイルが流行しているらしい。それが「デイトレード」と呼ばれるもので、一日で売買を完結させる、というもの。また、周囲には「デイトレード」の成功例が喧伝し、それもまた多くの人々を「デイトレード」に向かわせる要因となっている。結果として、平成17年9月現在、インターネット取引の口座数は800万口座に迫らんとする勢いで増えている。

 しかし実際に「デイトレード」で成功しているのは極少数だし、トレーダーの用いている手法もまたほとんどがネット掲示板の書き込みやブログの記事などの「口コミ」である。筆者は《伝統的な証券会社からネット証券に不可逆的に顧客が流れる現象だ》《堅いベテラン投資家が若い時期にした失敗の経験を糧にして投資のスキルを磨いた時代とは違うことが起こっている》などと結論付けている。

 しかしどうしても承服できないのが、最後のほうでの「下流社会」論に対する唐突としか言いようのない肩入れである。個人的な懸念を表明するよりも、たとい凡庸でもいいから「成功するのは極少数で、それを夢見て安易に参加するのは危険だし、「絶対に儲かる話」なんてのも眉唾だ」と結論付けたほうが説得力がある気がするのだが…。

 ベター5:松本健一「昭和天皇は「戦争責任」をどうとらえたか」
 題名の通り、昭和天皇が「戦争責任」をどのように捉えていたのか、ということを、発言録から検証したもの。終戦時の「人間宣言」と呼ばれるものは、社会的に定着している考え方が「天皇の神格性の否定」であるのに対し、昭和天皇自身は、政治を自らの手に取り戻そうと意識していたようで、その際に明治維新の「五箇条の御誓文」をわざわざ引き合いに出したことにも現れている。

 また、昭和天皇が靖国神社への参拝をやめた理由として、松本氏は《戦争で死んでいった人びととその戦争で国民に死ぬことを命じたA級戦犯とを、等しく「神」として祀ることへの国民のわだかまり》に対して敏感であったことではないかと結論付けている。

 ワースト:藤原正彦、櫻井よしこ「秀才殺しの教育はもうやめよ」
 単なる言葉遊びだけで複雑な教育問題が解決できるなどという甘い考えが貫き通されているとしか思えない対談。はっきり言ってここで展開されているほとんどが、単なる理想論と使い古された「憂国」でしかない。とりあえず家庭教育を大事にせよ!と喧伝することに関しては、今の状況だと余計に親を追いつめることにしかならないし、また藤原氏と櫻井氏が理想化している家庭教育なるものは一部の上流階級のものなのではないのかという疑念も生まれる。少なくとも「昔は素晴らしいが、今はこんなに駄目だ」という、イメージばかりの議論は単なる言葉遊び、そうでなければ自分は万能だと思っている人の大上段からの押し付けでしかない。

 もちろん、憲法が個人の自立や権利ばかり強調してきたから現在の如き深刻な教育問題が生まれたのだ(櫻井氏、42ページから43ページにかけて)、という俗論や、子供たちの語彙力の不足がひどいといってその証左が近くで聞いたような話だけだったりとか(両氏、45ページ)、「美の存在」やら「何かに跪く心」やら「精神性を尊ぶ風土」やらが失われているから日本は駄目になったのだとか(両氏、46ページ)、香ばしい発言も満載。近く「俗流若者論ケースファイル」で検証してみようか。

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大晦日となりました。明日になったからと言って何が変わる わけでもないのですが、一応今年の総括らしきものを。 2005年の報道の中で突出していたものが、 「幼い子供をねらった凶悪犯罪」というのは誰しも納得のいくものでしょう。 私も子供を持つ身、他人事と捨て置くわけにはいきません。 マスコミ、HP、ブログにおいてほとんどすべての発言者が犯人に対する憤り、 または人心の荒廃など社会に原因を求める論議に終始し�... [続きを読む]

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