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2005年12月31日 (土)

2005年・今年の1冊

 私が平成16年12月16日~平成17年12月31日に読んだ本の中で、特に印象に残った本を紹介します。

 今回は、
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 (書評:「心理学主義という妖怪が徘徊している」)
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 (書評:「「狂気」を囲い込む社会」)
 村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』日経BP社、2005年4月
 本田由紀『(日本の〈現代〉・13)多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 以上を推薦します。
 なお、「2005年10~12月の1冊」は、もう少しお待ちください。

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 今、我が国を覆っている「排除」と「生きづらさ」に関して、深く思考する機会を与えてくれる本を挙げることとする。

 我が国においてある種の「生きづらさ」が蔓延しているのは、多くの人が指摘していることである。しかし、その種の議論は、往々にしてその「生きづらさ」の中で個人が強い気持ちを持って生きていくべきである、という精神論につながり、その一部は「今時の若者」は精神(あるいは脳)が虚弱だからこの時代を生きられない、という俗流若者論に陥り、更にその一部は若年層の精神(あるいは脳)の虚弱から凶悪犯罪を起こすのだ、という暴論に到達する。

 そのような言論状況にあって、皇學館大学助教授の森真一氏の著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)と、東京大学助教授の本田由紀氏の著書『多元化する「能力」と日本社会』は、現在の社会状況そのものの構造を如実に表している。森氏の著書では、「心の知識」に関する言説が横行し、「「感情」は危険なもの」とされて「自己コントロール」が求められるようになる社会の病理を、社会学の視点から的確に批判している。とりわけ重要なのが、森氏がエミール・デュルケームの理論を現代に当てはめている部分である(60~71ページ)。デュルケームは、社会全体に、道徳意識の向上した「聖人」の如き人が増殖すると、犯罪がなくなるのではなく、むしろたった少しの社会道徳からの逸脱すら重大な罪と捉えられてしまう、と論じた。森氏は、それを現代の状況に当てはめて、「心の知識」に関する言説が横行することにより、社会が個人に求める「心のスキル」が高度化し、それによってデュルケームの言った「聖人」による社会が実現しつつある、と論じている。
 また、本田氏の著書においては、社会、特に若年層の社会において「コミュニケーション能力」が重要なポストを占めつつあることを論述している。本田氏の著書の第4章以降は、少々分析がもの足りないような気もするが、少なくとも若者論という言説の手本というべき本となっているように思える。それはさておき、本田氏の記述によれば、企業の求める人材が「能力」よりも「コミュニケーション能力」といった具合に変容していくように、「近代型能力」から「ポスト近代型能力」が社会全体で重大なウェイトを占めるようになりつつある。また、左右を問わず、「人間力」だとか「生きる力」といった、知識そのものよりも「意欲」や「課題発見能力」といった柔軟な「知力」が求めるようになったり、あるいは「今時の若者」における「人間力」低下の「原因」として家庭教育が糾弾され、家庭教育に関するマニュアル的言説が溢れるようになる。

 このように、「心の知識」を求める言説や、「ポスト近代型能力」の重要性を強調する言説は、我々の人生において窮屈さを生み出していると同時に、それらが自由な選択肢を提示しているように見えて実際には我々を追い込んでいる。そもそも、個々人の「内面」を操作しようとする社会に対して、どのような視座を持てばいいのだろうか。

 一つ目に、人々の「内面」を知ろうとする欲望の正体を知ること。例えば、京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏の著書『狂気と犯罪』(講談社+α新書)は、精神医学が犯罪心理学を通じ、司法に介入することによっていかに人間の「心」を特定していくか、という欲望を描いている。司法の近代化によって、量刑に犯罪者の「人格」を考慮しなければならなくなったが、そこに精神医学の入る隙を与えてしまい、戦後に精神衛生法が制定されて精神病院列島となる基盤となってしまった。戦前、政治に対して強い意欲を持っていた精神科医は、犯罪を起こす恐れのある「悪性」が精神分析によって発見され、実際に犯罪行為に及ぶ前に精神病院に入院させる――これは明らかに予防拘禁である――ことを夢想した。そして現在は、そのような「悪性」を特定しようという欲望は、今や社会全体のものとなりつつある。その典型が簡単に言えば「フィギュア萌え族」なる珍概念であり、実際には犯罪を起こすリスクが一般人と大差ないにもかかわらず、「ひきこもり」「ニート」「オタク」などは「悪性」と見なされるようになった。

 二つ目は、このような社会の欲望に対して、社会学の視点から不断の批判を与えていくことだ。例えば、インターネットサイト「哲学の劇場」主宰者である山本貴光、吉川浩満の2氏による『心脳問題』(朝日出版社)は、例えば「ゲーム脳の恐怖」といった「脳言説」の横行の、現代思想における位置づけを行なっている。とりわけ、このような「脳言説」の横行は、ジル・ドゥルーズの言うところの「コントロール型社会」における生物学的情報の重要度の高まりを反映している、という指摘(257ページ)は、極めて重要であろう。

 三つ目が、科学や統計学の視点から批判を行なっていくこと。富山大学教授の村上宣寛氏の著書『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)は、心理学の専門家の立場から巷に横行している「心理テスト」――具体的に言うと、血液型性格診断、ロールシャッハ・テスト、内田クレペリン検査、などなど――に、統計学や心理学の立場からこれらの「心理テスト」が眉唾であることを指摘している。「ゲーム脳」にしても、精神科医の斎藤環氏らが決定的な批判を与えており、巷に溢れる「心理学主義的言説」「脳言説」へのサイエンスからのカウンター・オピニオンはほぼ出揃っているといえよう。

 社会科学からも、統計学や自然科学からも、我が国を覆う「心理学主義的言説」「脳言説」に対するカウンター・オピニオンは、十分に存在している。しかし、これらのカウンター・オピニオンが、社会に与える影響は、残念ながらあまり多くないように思える。「ゲーム脳の恐怖」の宣教師である森昭雄氏は、いまだにマスコミでは寵児扱いだし、「ブック・オブ・ワースト」の中にも、心理学主義的言説を振りかざしたものがいくらかある。このような言説を最も多く採り上げているのはマスコミであり、従ってマスコミに対して執拗な批判をし続けていく必要があるけれども、かといって社会全体の流れを止めることはあまり期待できないかもしれない。

 しかし、我が国を覆う「生きづらさ」や「排除」に関して、少しでもいいから熟考してみる必要性は、確かにあるように思える。我々が理解も寛容もないまま「排除」を求める愚民にならないためにも、少しでもいいから「心理学主義的言説」「脳言説」に対する批判的視座を持つ必要性があるのかもしれない。難儀な問題である。

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 ボーナストラック:2005年・今年のブック・オブ・ワースト10冊
 ここでは冒頭の期間に読んだ本の中で特に内容が悪かったものを紹介します。今回はフリーターや「ニート」関連の本も加えます。みんなで読んで笑い飛ばしましょう。

 1:柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~
 「2005年4~6月の1冊」参照。
 関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男

 2:三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 関連記事:「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 3:荒木創造『ニートの心理学』小学館文庫、2005年11月

 4:斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 「2005年7~9月の1冊」参照。
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 5:正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 関連記事:「正高信男という斜陽」「正高信男という頽廃
 「2005年7~9月の1冊」参照。

 6:岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月

 7:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、2005年7月

 8:澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所、2005年7月

 9:三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月
 関連記事:「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」
 「2005年7~9月の1冊」参照。

 10:三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 関連記事:「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」
 「2005年7~9月の1冊」参照。

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コメント

いつもながら大変参考になるお話ありがとうございます。
自分自身のこととして考えていきたいと思います。

投稿: まっちゃん | 2005年12月31日 (土) 12時01分

だいたいトンボ殺しの名人集合体がこのままで許されるはずが無い。大事なことがもう見えないようでは一般常識は騙しの被害者の錯覚であるとトンボは言うはずだ。彼は僕の幼馴染である。優しいからぞんざいに扱ったんだろうが、優しい奴は一度気持ちを変えると、とことん詰め寄って相手が反省しないなら戦闘状態に入る。

星の形の、友人だと言っている生き物は疑ってかからないとひどい目に合うとトンボが言っている。こんなことばかり言う僕はほとんど君の名前は「変」だとお役人が決めそうな気配まである。

本当のことを言ったとたんに「君は悪魔だ」と僕に言う人達がぞろぞろ出てきて「君に人格はいらないよ」と丁寧に言って「君は道具なんだよ、分かるでしょ」とかなんとか言って説得して僕に「危険人物」という荷札をつけて霞ヶ関の倉庫に送る。

翌日にマネキンよりもっと人間味の無いロボットのおじさんが、僕はただの散歩屋だと言うのに、「いや君はこの書類にハンコまたは母印を押して散歩屋であると申告しなければならないことになっている。散歩税のこともあるし」とか言って驚かせ、そのくせ冷笑する。

そうか、トンボ君の敵はこいつだな、と僕が笑ったらそのおじさんは僕の同意もなしに、携帯で「空笑している荷物があるので連れて行ってください、あっっいや今のは先生聞かなかった事にしてください」「誰に電話したんです?」
と尋問してやったら「医者だ」という。

世間の事情が見えないと少なくとも僕は困ります。どこも窮屈な上に騙しもあるような気がしてきて困るわけです。

投稿: 散歩屋 | 2006年2月 2日 (木) 23時58分

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