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2005年12月10日 (土)

論壇私論:「論座」平成18年1月号

 新シリーズ「論壇私論」を始めます。この企画は、私が購入した総合雑誌及び論壇誌の記事に対して評価(ベスト、ベター1~5、ワースト)及びコメントをつける企画です。

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 ベスト:芹沢一也「なぜ社会は治安を欲望するのか」
 「週刊文春」平成17年12月15日号は、「幼児レイプ本がバカ売れする最新「ロリコン事情」」なる記事を書き、このようなロリコン雑誌が続発する少女を狙った犯罪の温床となっているから規制しろ、と打ち出した。この記事がある特集で採り上げられている、栃木県の女子児童殺傷事件と小児性愛の関係、更には小児性愛とロリコン雑誌の横行の関係が全く明らかになっていないにもかかわらず、だ。

 いつの日からか、我々の社会においては「犯罪から社会を守る」だとか「犯罪から子供を守る」だとかの大義名分の下において、特定の社会階層、あるいは特定の文化階層に所属する人々に対して敵愾心を煽る言説を見かけることが当たり前になってしまった。思えば、平成17年5月から6月にかけて相次いで見られた「ガードレールの金属片」に関する騒動においても、発見当初から多くのコメンテーター――福岡政行氏や弘兼憲史氏など――が、例えばネットを利用した悪質ないたずらであるとか、または「ニート」(若年無業者)の問題と関わっている、だとか、多くの人が思い思いの「プロファイリング」を行なっていた。実際は自動車がガードレールにぶつかったときに車体の一部が剥離してガードレールに残ってしまうことが原因だったのだが…。

 今、我々が目にしているのは、このような「社会的排除」、いや、「村八分」といってもいい事態である。京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏は、「なぜ社会は治安を欲望するのか」という文章において、《「いま排除をめぐって、どのような事態が進行しているのか」》ということを《現在、立てられるべき問い》と掲げている。

 芹沢氏が「排除」の形の一つとして採り上げるのが、平成15年7月に制定し、平成17年7月から施行されている「心神喪失者等医療観察法」である。この法律の施行から早くも4日後に、初めて適用がなされた。ちなみに適用された事件は傷害事件で、東北新幹線の車内で、前の席に座っていた乗客がシートを下げたのに腹を立てて全治1週間程度の怪我を負わせた、というもの。芹沢氏はこの事件の対応に《新しい排除の営み》を見出す。

 なぜか。この事件は傷害事件としては起訴猶予となったが、代わりにこの事件の加害者が前出の「心神喪失者等医療観察法」の適応になったからである。この加害者は、《2カ月ほどの鑑定入院をへて、専門の精神病院に強制入院となった》。要するに、この加害者に、将来犯罪を起こすかもしれない「性格」を有する、という理由で、精神病院に入院することによる「矯正」が行われる運びとなったのである。

 この事件の処理から、芹沢氏は《精神障害者の犯罪は「法」の対象とはならない》こと、さらにこのような、個人の「危険性」を見極めるという判断が犯罪精神医学という学問を基底としており、そのような学問が一つの社会的なステイタスを得たことを問題視している。
 更に、芹沢氏は青少年問題に視野を広げる。ここで問題にされるのは、今年提出されて、8月の衆議院解散で廃案となったが、来年の国会で再提出される予定の改正少年法である。ここで芹沢氏は「虞犯少年」に関して警察に調査権限を与えることを問題視する。改正少年法においては、ある少年に関して虞犯の疑いがある場合は、警察は学校を含む団体への照会ができるようになる。このことが、《些細な不良行為をする少年が警察の監視下におかれ、迅速に家裁なり児童相談所也に送り込めるシステム》を創出する。触法精神障害者の犯罪だけでなく、少年犯罪もまた、法の外部で処理される、という自体が生じようとしているのである。ちなみにこのような事態を支持する学問として環境犯罪学が槍玉に上がっている(ちなみに私の環境犯罪学に関する立場は、建築や街路の監視性と領域性を高めることが犯罪を少なくする、ということに関しては支持している)。

 現実の法律において、このような事態が生じた、あるいは生じようとしていることの背景には、90年代以降、少年や精神障害者が社会全体の「敵」としてみなされるようになったことがある。このような構図を決定付けたのが、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件、及び平成13年の大阪教育大学付属池田小学校事件である。しかし客観的には少年及び精神障害者による犯罪は多発しているわけではない。にもかかわらず多くのマスコミは少年や精神障害者を敵視する報道を強めている。更に、特に精神障害者に関しては、憲法で規定されている「裁判を受ける権利」が剥奪されてしまっている。そのような歪んだ仕法の表出として、殺人でも「心神喪失」を理由に無罪放免になる犯罪者がいる一方で、軽微な窃盗でも「心神喪失」を理由に長きに亘って精神病院に強制入院させられる人がいる。

 私が「治安権力の横暴」と聞いて真っ先に思い出すのが、秋葉原における職務質問の急増に関する報道である。「AERA」平成17年3月7日号によると、秋葉原ではまだ何も罪を犯していない人が多く職務質問され、更には検挙までされてしまう人まで存在する(その「検挙」というのが、たとえば梱包を明けるためのカッターナイフの所持が「銃刀法違反」とされてしまうというもの)。他方で明らかな犯罪行為を行なっている人――例えば、コピーソフトを路上で売っている人――は検挙すらされない。平成16年末の奈良県の女子児童誘拐殺人事件以降、「オタク」が性犯罪予備軍の1カテゴリーとして――ちなみにこの事件の犯人に関して言えば、「オタク」と呼べる要素が何ひとつ備わっていない――見なされるようになった。警察のこのような行為も、そのうち法によって正当化されるのだろう。

 いまや、少なくともマスコミにとっては、犯罪そのものの被害を回復することよりも、「犯罪を起こす」カテゴリーを見つけて、それによって規定された人たちに対する排除行為を煽る――たといその人たちが統計的に一般人と大差ない犯罪リスクを持っていたとしても――ことのほうが関心事になっているようだ。社会が要求する「道徳」の水準が高まり、「僧院」のような社会が実現すると、共同意識が協力になり、少々の離脱でもすぐさま「道徳違反」として糾弾される、とはデュルケームの言葉であるが、我々はマスコミと「世間の目」と治安権力の共振による治安権力の限りなき拡大を目の当たりにしている。芹沢氏はこのように結論付ける。曰く、

 たとえば、あなたは言葉の通じない外国にいる。酒を飲んで自分の国の言葉で大声を出したとしよう。周りの人間に、あなたの声の意味はわからない。また、あなたの声を理解しようとする姿勢もない。ただ無作法な振る舞いに眉をひそめるだけだ。そして、「わけのわからないことを大声で叫んだ」と、あなたはどこかに拘束されてしまう。排除の現在が指し示すのは、こうした架空の話がリアリティーを持ちかねない未来だ。このような未来を現実のものとしないためにも、わたしたちはいまこそ社会的な想像力を多様なものに開いていかねばならない。多様性の中にこそ、自由の未来があるからだ。

 と。

 ただし、本稿では、司法と精神医療の関わりの歴史が省略されているので、その点について理解を深めたい方は、芹沢氏の『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を(「2005年1~3月の1冊」も参照されたし)。

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 ベター1:渋谷望「ポピュリズムの最大の供給源はどこか」
 「現代思想」平成17年1月号の文章「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」を、論旨をあまり変えずにわかりやすくしたもの。ここでは近年の社会階層論=「中流崩壊」に関する議論が見落としてきたものを問題視する。とりわけ冒頭における、《「勝ち負け」言説は「負け」状態をネガティブに捉える反面、「勝ち」状態を無条件にポジティブなものと見なす傾向がある》という指摘は重要だ。

 最初のほうにおいては「総中流社会」論が「日本的経営」論と合わせ鏡になっていることを指摘。そのような「総中流社会」論は、企業中心社会としての日本の共同体を肯定するというイデオロギー的側面を持っていたが、平成不況により経済が後退すると、日経連の平成7年のレポートに代表されるような、正社員の数を絞り込んでフリーターなどからなるフレキシブルな雇用を増やすことが提言されるようになり、結果として「総サラリーマン化」としての「総中流社会」論はリアリティを失う。また、90年代以降の雇用理論は、「成果」と「競争」というイデオロギー的メッセージを伴っている。

 そのような中で、「中流」以上の階級意識を持っている人の総体において、その「結果」に至る排除のプロセスを誇ることができないため、彼らが「勝ち組」である自己を論理的に正当化する理論を持ち得ず、「中流」以上の人にとってはまた別の「気恥ずかしさ」が存在する。しかしそのような「気恥ずかしさ」を打ち消すのが敵愾心であり、ある種の「敵」を設定してそれを叩くことにより自己を正当化する。これがポピュリズムである。

 昨今の「下流社会」論まで斬り込めていないのが少々心残りであるが、「ゲーム脳」やら「ケータイを持ったサル」やら「フィギュア萌え族」やら「下流社会」やらといった、やたらと都市中流的なステイタスを基盤に若年層をバッシングする言論がなぜ流行するのか、ということに関して何かしらのヒントを得たい人にとってはこれで十分であろう。ベストで採り上げた芹沢一也氏の論考と併読するとなおさら得るものは大きい。

 ベター2:中島岳志「窪塚洋介と平成ネオ・ナショナリズムはどこへ行くのか」
 団塊ジュニア以降の世代にとっての「国家意識」を問題化する論考。ポスト団塊世代が、例えば宮崎哲弥氏や福田和也氏などに代表されるように、もっぱらこの世代の「保守」の立場はいわば「アイロニーとしてのナショナリズム」で、ナショナリズムを不適切なものと見なす視線が確立していることを自覚した上でナショナリストを自称することにより、ある種のアイデンティティを持つようになる。

 しかし団塊ジュニア以降の「ゆるくて熱い」心理は、ポスト団塊世代とはまた異質なナショナリズムを生み出す。中島氏はその典型例として俳優の窪塚洋介氏の言動を挙げる。窪塚氏は高校時代はアイデンティティの問題にぶつかり、自分の個性とは何か、ということに関して深い疑念を抱くようになるが、行定勲監督による映画「GO」で在日コリアンの青年の役を演じることにより、自分のアイデンティティが「日本人」であることを強く認識するようになる。その表出が、窪塚氏が全面的に企画に関わったとされる映画「凶気の桜」である。更に、このような、《不純物を一掃し、「真正の日本」を求める》心性が、窪塚氏をニューエイジへと誘導する。

 このような《ニューエイジ的世界観と結合したナショナリズム》、すなわち《ニューエイジ的生命主義からオルタナティブな世界のあり方を志向し、エコロジー、反戦平和、メディテーション、有機農業などへの関心が、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体感を唱えるナショナリズム》こそが、20代を中心に台頭し始めている《平成ネオ・ナショナリズム》であると中島氏は説く。説得力のある議論であるが、私は、ニューエイジ的な思想を俗流若者論と結びつけ若年層を批判し、更にナショナリズムに走っていった江原啓之という前例や(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」)、それ以外にも「戦後における自然との繋がりの否定が若年層を駄目にした」という言論をいくらか知っているので、中島氏の言うところの《平成ネオ・ナショナリズム》は、ある種のアノミー的な状態で台頭しているナショナリズム、スローフード運動と同様のナショナリズムであるようにも見える。

 ベター3:櫻田淳「自民党の〈変貌〉と保守・右翼層の〈分裂〉」
 平成17年9月14日付の産経新聞は、ある閣僚経験者の観測として「自民党は保守政党ではなくなっているのではないか」という発言を採り上げた。昨今における自民党の人事の背景には、我が国における「保守・右翼層」の変質がある、ということを述べた論考。

 近代の我が国における保守勢力には、明治以降の近代化・産業化の流れを汲む《明治体制「正統」層》と、経済停滞や社会不安、及び戦争に伴う国家総動員体制に応ずる形で、経済活動に対する国家統制や国民生活の平準化を進める「1940年体制」を戦後も推し進めた《「1940年体制」寄生層》、そして国民の「安定」や「福祉」よりも、国家や民族の「維新」「自立」を重視する《「民族主義者」層》に分かれる。

 戦後の経済発展は《「1940年体制」寄生層》によって推し進められたものといえる。また、この3つの層は、ソビエト共産主義体制に対する敵愾心によって一つにまとめられたが、その体制の崩壊後は3つの層の差異が露骨に現れてしまう。そして平成17年9月11日の総選挙で浮き彫りになったのが、《「1940年体制」寄生層》の敗退であり、「活力」や「独立自尊」といった用件が「平等」や「弱者救済」などよりも優先するという、《明治体制「正統」層》の政治理念における復活といえる。

 文中で若年層を問題化しているのが少々気がかりであるが、保守政治の変容を考えるには示唆に富む論考といえる。

 ベター4:東浩紀「大塚英志の苛立ちを受け止めよ」
 連載コラムの場所を借りた、大塚英志、大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21)の書評。この本に関しては私は未読なのだが、アニメが文化である以上、現在政府が推進しているありきたりな「コンテンツ・ビジネス推進」ではむしろアニメ文化を後退させる、という主張は大いに納得できる。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部 宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評 第4回・「下流」人間が読む雑誌は?」
 現在大流行の「下流社会」論の欠点を冒頭で鋭く指摘。現在の「下流社会」論が、ただ大衆の不安ばかりをあおるものとなっている、という川端氏の危惧に対し、宮崎氏はむしろ週刊誌こそが「下流社会」の見方をすべきだ、と主張する。でも、ここで俎上に上がっている「週刊ポスト」は、ターゲットとしている年齢層が高めだし、宮崎氏の主張どおりの報道(週刊誌は「下流社会」の悲痛な叫びを取り上げるか、あるいは「「下流社会」で何が悪い」と主張すべきというもの)は期待できないのでは?これは他の多くの週刊誌でも然り。ちなみに宮崎氏は、「諸君!」平成17年12月号で、三浦展『下流社会』(光文社新書)を「今月のベター」で採り上げている。

 最後のほうでは「少年犯罪と脳」の話に触れる。宮崎氏は、脳科学で犯罪の原因を突き止めることに期待しているようだ。対して川端氏は少々批判的。このことに関する宮崎氏と川端氏のやり取りは参考になる。関連情報として、宮崎氏は「諸君!」平成18年1月号で、草薙厚子『子どもが壊れる家』(文春新書)を、「犯罪は「心の問題」ではなく「脳の問題」なのでは、という問題意識はうなずけるが、だからといって「ゲーム脳」などという疑似科学なんて引くな」という理由で「今月のワースト」として批判していることを採り上げておく。

 ワースト:該当なし

 番外編:中瀬ゆかり「今月の5冊 神林広恵『噂の女』」
 中瀬氏が書評している本の著者・神林氏は現在休刊の雑誌「噂の眞相」で文壇のスクープを報じ続けた人。また、中瀬氏は常に「噂の眞相」の標的になっていた人物であるが、そのような人物にこのような本の書評をさせる「論座」はある意味すごい。神林氏の本に関しては私は未読だが。

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コメント

「少年犯罪と脳」
で、犯罪と脳機能障害の関連性を科学的に解き明かしたあとは、
脳機能障害当事者を社会的に差別することに首肯していくことになるのかな?
草薙厚子や澤口俊之、石原慎太郎のように、
戸塚ヨットスクールを持ち上げていく、って方向で。

いい加減、この手のマスコミは「脳機能障害者を殺したくて仕方がない」と正直に書けばいいのに。

投稿: anomy | 2005年12月12日 (月) 12時37分

とりあえず2月号のワーストに週刊文春がくると予想しておきますね。しかし「ゲーム脳」の次は「脳内汚染」http://www.bunshun.co.jp/book_db/html/3/67/84/4163678409.shtmlですか?叩けども叩けども雨後の筍のように湧いてきますねorz早速読もうかとも思いましたが、手に取ることも腹立たしくて、どれだけ波及するか(あっさり消えるなら無視しようと)まずは見届けようと思いますが、はぁ~。

投稿: 遊鬱 | 2005年12月15日 (木) 21時36分

そのトンデモ本「脳内汚染」の著者、岡田尊司を高く評価しちまってるのが宮崎哲弥という阿呆です。草薙厚子の支離滅裂な文春記事もワーストに選ぼうとしないし・・・
やはりこいつにも注意が必要だね。

投稿: ウツ病 | 2005年12月18日 (日) 00時49分

そもそもなんで「少年犯罪と脳」なんでしょうね
「老人犯罪と脳」「中高年犯罪と脳」などには
ならないことが俗流若者論と繋がる部分ですね。少年犯罪においてのみ脳がクローズアップされることに関して宮崎哲弥氏は違和感を感じないのでしょうか・・・・
このような対談記事をベストに挙げてしまう宮崎氏には幻滅させられます。

投稿: 関東人 | 2005年12月25日 (日) 00時12分

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