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2006年1月30日 (月)

俗流若者論ケースファイル78・毎日新聞社説

 毎日新聞の社説は、なぜかくも激しくロリコン・メディアをバッシングするのだろうか?今回検証する文章は、平成17年12月3日と、平成18年1月18日両日の毎日新聞の社説である。前者のタイトルは「相次ぐ幼児殺人 社会もどこかが病んでいる」で、後者は「宮崎事件 類似犯防ぐ環境整えよう」である。タイトルが示している通り、前者は相次ぐ児童殺人事件を論じたもの、後者は平成18年1月17日に上告が棄却され死刑が確定された、所謂「宮崎勤事件」を論じたものである。

 これら2つの社説は、平成17年のほうの社説にあるとおり、この時期頻繁に報道されていた幼児殺人事件と「宮崎勤事件」をつなぐものは《幼児ポルノのはんらん、暴力を是認するような俗悪なゲームの流行などの世相》(平成17年12月3日毎日新聞社説、以下「平成17年社説」と表記)であるという。しかし、犯罪統計書によれば、幼児を狙った殺人事件、及び幼児を狙ったレイプ事件は、ここ20年くらいでほとんど増加しておらず、更に30年くらいのスパンで見れば減少が明らかである(殺人に関しては、芹沢一也[2006]を参照されたし)。そのようなデータを示したりしないで、徒に犯罪不安を煽ったり、更には自分には「理解できない」ものに対する不安を煽り、(暗に)規制を求める――要するに、自分の責任を考慮しないまま、他人のせいにする――という行為は、文章を書くものとしてのモラルが欠如しているとしかいえない。

 これら2つの社説の特徴として、自説に都合のいい「専門家の指摘」を、その正当性を検証せずに引用してしまうことだ。《精神科医や心理学者らは、幼児期に子ども同士で思いきり遊ばせることがなくなった最近の教育やしつけの影響だと指摘している》(平成17年社説)や《1、2審の審理でも犯行とビデオとの相関関係は解明されなかったが、専門家は、映像は性的欲望を刺激して性犯罪を誘発する、とポルノビデオの横行に警鐘を鳴らした》(平成18年1月18日毎日新聞社説、以下「平成18年社説」と表記)というのがそれだ。だが、少なくとも犯罪統計はそのような「指摘」なるものを支持するわけではないし、また科学的にも直接的にポルノ映像がそのまま性犯罪に結びつく、ということは支持しない。
 さらに、こと「宮崎勤事件」に関して言えば、評論家の大塚英志氏が繰り返し発言している通り(朝日新聞など)、宮崎死刑囚の部屋から押収された物品に関して、所謂「児童ポルノ」と呼ばれる代物は極めて少数に過ぎず、それ以外はごくごく普通の――つまり、世間から「有害」視されていない――雑誌やらヴィデオだった。また、平成17年11月の栃木県今市市の事件に関しては、いまだに犯人は捕まっていないのである(平成18年1月28日現在)。それにもかかわらず、犯人の「人格」を安易に決め付けて、更にそこから飛躍して「社会の病理」なるものをでっち上げてしまうという行為もまた、書き手の思い上がりでしかない。

 精神科医の斎藤環氏は、広島市における幼児殺人の犯人がペルー人だと知ってから、即座に「心の闇」を詮索することをやめてしまった、ということに関して、「心の闇」なるものが詮索されるのは「若者」だけなのか、と極めて素朴な疑問を提示していたのだが(「ゲームラボ」平成18年1月号、三才ブックス)、毎日の社説子はこのような問いかけに答えることができるのだろうか。

 それ以外にも、例えば《他方で幼児性愛をファッションとするかのような見方もはびこり》(平成18年社説)という言い方は、何をさしているのかわからない。もし「オタク」やら「萌え」やらを指している、というのであれば、そのような物言いは「幼児性愛」=犯罪者、という極めて一方的な誤解に基づいているとしか言いようがない。ついでに言うと《続発する痴漢やわいせつ事件をみても、なぜか性モラルに寛容な風潮が改められないが》(平成18年社説)という表現も見られるが、だったら一方的に少女を問題視して大人の男には問題はない、とでも言わんばかりの「援助交際」論も批判してくださいね。

 これらの社説、特に平成18年社説は、結局のところ論説委員の「憂国」エッセイに過ぎない。《衣食足りれば礼節を知るものだとの思い込みも禁物だ。人はむしろ衣食が足りて差し迫った目標を失った時に、好奇心にかられて興味本位の行動に走りがちだとも心得ていたい。豊かな時代ほど人の輪、社会のきずなで支え合って生きねばならないということだ》(平成17年社説)だとか、あるいは《幼児性愛者が人間関係を結ぶのが苦手で、年相応の女性と交際ができないと言われることを踏まえ、子供のころから遊びやスポーツ、趣味などを通じて円満な人付き合いを促す工夫も凝らさねばならない。今回の判決を機に、教育やしつけのあり方も見直したい》(平成18年社説)などという、既に多くの専門家によって論破し尽くされている(本当に論破し尽くされているので関連書をいちいち取り上げても仕方がないので、とりあえずわかりやすい関連書として、広田照幸[1999]と内藤朝雄[2006]を挙げておく)俗説がことごとく真実であるかのごとく引用されているということが、その証左となろう。

 相次ぐ毎日社説子の狼藉に読者も腹が立ったのか、平成18年1月26日付毎日新聞には、「させてはならない“悪書狩り”」という投書が掲載されたらしい。

――――――――――――――――――――

 毎日新聞社が発行している、アニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」を、私が初めて「ゲーマーズ」仙台店で手に取ったのは、平成17年5月のことだ。その号の巻頭記事は「「残虐」とゲームが有害図書に」というもので、これは毎日新聞デジタルメディア局員の河村成浩氏で(ちなみに河村氏は同紙の書評ならぬゲーム評のページにも執筆しており、そのプロフィールによれば「全国紙唯一のゲーム専門記者」らしい)、全体として「残虐」ゲーム規制に批判的なトーンであり、「松文館裁判」で被告側=出版社側の代理人である、弁護士の山口貴士氏のコメントにおいても、《ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分だけにスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ》(河村成浩[2005])とゲーム規制が批判されている。ゲーム規制問題に関しては、平成17年の最終号にあたる平成18年1月号(平成17年12月25日発行)の特集「総まとめ!05年注目コンテンツ」のゲームに関する記述においても(これも執筆者は河村氏)、「業界揺らした有害図書指定」なる見出しでここでも「有害」ゲーム規制を批判的に書いている。

 「MANTANBROAD」の発行元である毎日新聞デジタルメディア局は、「まんがたうん」というウェブサイトを主宰しており、更に「まんがたうん」名義でコミックマーケットにも出展している。また「MANTANBROAD」においては、毎号アニメDVD・ゲーム・漫画・書籍のレヴューが掲載されている。また同紙においては、連載漫画(「魔女の妹ドッカ~ン!」(森野あるじ氏)、「ふんじゃかじゃん」(天広直人氏))も掲載されており、どちらの連載においても、明らかに一部のキャラクターのデザインが幼女を意識しているかのように見える。

 そればかりではなく、毎日新聞社は、声優の阿部玲子、南条愛乃、森嶋仁美の3氏がエンターテインメント関係のニュースを読み上げる「毎日新聞ポッドキャスト」というサーヴィスを行なっている(ちなみに阿部氏に関しては、宮崎羽衣、近江知永の2氏と阿部氏がパーソナリティを務めているラジオ番組を私はほぼ定期的に聴取しているので、名前は知っていた)。

 毎日新聞論説委員の、これらの社説を書いた人は、まず身内から潰していってはいかがだろうか?(そして個人的には、殴り込みに行ったところで河村氏あたりに返り討ちにあうことを期待しているのだが)

 参考文献・資料
 広田照幸[1999]『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 河村成浩[2005]「「残虐」とゲームが有害図書に」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 内藤朝雄[2006]「社会の憎悪のメカニズム」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 芹沢一也[2006]「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」=「論座」2006年2月号、朝日新聞社

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2006年1月28日 (土)

論壇私論:「論座」平成18年2月号

 ベスト:芹沢一也「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」
 現在の我が国の社会は、極めて犯罪に「弱い」社会なのではないか。

 そんなはずはない、我々は犯罪に対しては十分に防犯を強化している、しかし犯罪者が凶悪化しているからそう見えるだけだ、と反問されるかもしれない。

 だが、私がここで問いかけたいのは、犯罪に対する「対応」である。我が国では、例えば青少年による凶悪犯罪が起こると――いや、時には微罪であっても――マスコミが大々的に採り上げ、「「今時の若者」は危険だ」「「安全神話」は崩壊した」と煽り立てる。最近ではそのような扇動言説が政治の現場にも波及し始め、「若者の人間力を高める国民運動」(厚生労働省の管轄)やら「こころを育む総合フォーラム」(主宰者は元文相の遠山敦子氏)などという、明らかに世間で流布している――しかし多くの専門家によってとっくに論破されている――俗流若者論の政治的正当性を誇示する目的で行なわれているとしか思えないような政治的な動きが生まれている。

 また、つい先日(平成18年1月17日)、昭和63年から平成元年に起きた幼女殺害事件の上告審が棄却され、宮崎勤被告に死刑が確定された。それをめぐる言説――上告審棄却の前に行なわれたものも含めて――の中にも、徒にサブカルチュアを敵視し、規制しろだとか、我が国は「宮崎的人間」が増えてしまった、などと、我が国において幼子は見知らぬロリコンよりも親に殺されてしまうケースのほうが圧倒的に多いことを無視して、自分の「理解できない」ものに対する不安を煽っていた。とりあえず、作家の高村薫氏と、ジャーナリストの大谷昭宏氏は、1年ほど政治的発言を自粛すべきだろう。

 我が国は、かくも犯罪に対しては「弱い」のだ。犯罪が起こっても、不安にせきたてられることしか知らない。冷静に事実を検証することは決してない。いくら防犯を強化したとしても、人々の――厳密にはマスコミの、だが――不安は消えるばかりか、逆に増幅されているのだ。また、若年層やロリコンによる凶悪犯罪は過剰に煽り立てるのに、一方では親が子供を殺すケースには極めて無頓着だ。「深夜のシマネコblog」の赤木智弘氏がそのような事例を集中して採り上げようとしているが、これらの事件が、決して「我々に対する不安」として言説化されることなど、決してない。

 なぜ、このような状況が生まれているのか。それは、我が国において、不安に扇動されることが、ある種の「快楽」になっているからではないか――。

 このような状況下にあって、「論座」前号に続き、今号も、京都造形大学非常勤講師・芹沢一也氏の論考をベストに採り上げる。

 朝日新聞記者の石塚知子氏が、「過剰防犯で窮屈な人々」(「AERA」平成14年3月18日号)なる記事で、「防犯」の為にセキュリティを強化する人が、かえって不安に陥ってしまっていることを論じている。その2年後、東北大学助教授の五十嵐太郎氏は、著書『過防備都市』(中公新書ラクレ)において、昨今の都市の変遷からセキュリティ・タウン化していく我が国の姿を描き出した。そして五十嵐氏の仕事から更に1年半経った現在、そのような「恐怖と治安のスパイラル」は、社会全体のものになっている――殺害される小学生の数は、ここ30年で最低レヴェルにあるのに。

 本稿の白眉は最後の2ページだ。それまでは我が国における「恐怖と治安のスパイラル」が語られるが、44ページ3段目において、芹沢氏は以下のように問いかける。

 問題はさらにその奥にある。それでもやはり治安への意思がやまないのはなぜなのだろうか。それは、人びとのあいだにある種、「快楽」のようなものが発生しているからなのではないか。

 芹沢氏が掲げるのは、例えば《蕎麦屋や寿司屋の出前持ちがパトロール隊をつくり地域の安全に貢献しようとしている》事例である。ここから《警察的な視点でもって街を監視することの快楽》を芹沢氏は見出す。また、それ以外の種々の活動から《地域活動に参加している快楽》も見出される。これらに共通している感情は、《ひとつの敵を前にして、一体感を感じるという快楽》ということができよう。

 しかし、それらの状況が指し示すものは何か。《快楽と不安とによって、人々がもろ手を挙げて治安管理に突き進むとき、失われるものが自由だとしたならば、それは余りにも大きな代償ではないか。そして、わたしたちが手にするのが安全や安心どころか、ただ団結し恐れあう仲間たちの一体感だけだとしたら、そこに何の意味があるというのか》(45ページ)。

 我が国において進行している「排除」のメカニズム――例えばオタクバッシングや、バックラッシュ、「下流社会」論など――は、ひとえに「この社会を作り上げてきた世代」――これもまた虚妄で、実際には政治やマスコミにおいて声の大きい人――の正義のみが認められるべき正義であり、人々はその御旗の下に集わなければいけない、という一極主義において支えられているようにも見える(残念ながら、今号の「論座」にもそのような一極主義を支持するような論考があった)。そのような「正義」を共有できない人は、精神をすり減らしてまで彼らに迎合せねばならぬのか。

 芹沢氏は、最近『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)という本を出した。これもチェックすべき本であろう。

――――――――――――――――――――

 ベター1:東浩紀「潮流06 95年以降の日本社会論を発信せよ」
 米紙「ニューヨークタイムズ」で、「嫌韓流」がトップを飾るようになった。そんな状況下において、《アメリカでは、日本でいま、ポップカルチャー論やネットコミュニティー論や若者論が、社会学や現代思想と一体になって独特の言説空間を作り上げようとしていること、それそのものが知られていない》《日本のポップカルチャーは易々と国境を超え、言説もまたネットを通してグローバルに流通している》。今や外国に我が国の社会論を伝える試みが必要という論説には納得。ただし《嫌韓が広がったのは、若者が自信がなく、寂しいからなのだ》(24ページ2段目)というのは、ある意味では若年層に対する蔑視だよなあ。「繋がりの自己目的化」という命題は、むしろ「芹沢一也」的な文脈で捉えたほうがいいのではないかと。

 ベター2:渡邉恒雄、若宮啓文「靖国を語る、外交を語る」(司会:薬師寺克行)
 まさかこのような対談が見られるなんて思ってもいなかった。さすがは「論座」である(笑)。

 閑話休題、最近になって、読売新聞は、「戦争責任」に関する連続特集を組むようになったり、あるいは国立追悼施設の新設を主張したりと、こと戦争責任や「靖国問題」に関してはスタンスの揺らぎが見られる。そんな読売の状況を、朝日の論説主幹の若宮啓文氏が読売の主筆の渡邉恒雄氏に問いただす、という企画。渡邉氏は基本的に靖国には反対らしく、中曾根康弘氏の参拝の際にも「自分は参拝に反対だ」と明言したそうだ。戦中派である渡邉氏の、ある意味では「遺言」ともとれるこの対談は貴重である。

 ベター3:ジャン・マリー=ルペン「暴動に参加した若者に非はない。政府にこそ非があるのだ」(聞き手:及川健二)
 フランス極右政党「国民戦線」の代表に聞いたフランスの暴動について。これも貴重なインタヴューである。暴動に参加した若年層を社会の枠外におくことを許してきた政府に非がある、彼らに個人としての責任はない、普遍的な字kどう主義を優先するのではなく地域や国の特殊性にも目を向けるべき、自由な経済活動は擁護するが「鶏小屋における狼の自由」は決して認めない、など、意外にもリベラルな意見が目立った。

 ベター4:逢坂巌「首相はテレビをこう「利用」した」
 我が国における「テレポリティクス」の戦後史。首相がテレビ的だといわれたのは池田勇人時代からで、田中角栄、三木武夫、海部俊樹、宮沢喜一の各氏といった歴代首相や、平成元年の「土井ブーム」(「土井」とは当時社会党の土井たか子氏のこと)においてもテレビは「利用」されてきた。そして小泉純一郎テレポリティクスの「新しさ」は、むしろ政治状況や社会状況の変化と捉えられるべきだとする。

 ベター5:横田由美子「あなたはいま、幸せですか――江原啓之に魅せられた女たち」
 個人的に最大のツボだったのが、結び(237ページ)の《「はい。私はとっても幸せになりました」と、真っすぐに私(筆者注:横田氏)を見て答えた女性は、不思議とひとりもいなかった》というくだり。別に私はそんな「スピリチュアル・カウンセリング」如きで幸せになれるはずなどねえんだよ、と唾を吐き掛けたいわけではないが、ほとんどメディアの寵児である江原氏の「怪しさ」について触れたことは評価できる。

 ワースト1:今井隆志「日本発の性・暴力表現は通用しない」
 我が国におけるゲーム規制論議を外交問題に発展させたようなもの。具体的に言うと、「保護者の価値観とのミスマッチ」や「ヘンタイ・アニメ」の蔓延を嘆いたりとか、我が国のアニメが「見たくない・見せたくない権利」を侵害しているとか…。ほとんどが憶測と感情論で、説得力に乏しい。

 ワースト2:戸矢理衣奈「時評06 自由と規律」
 これも「何か勘違いしている人」の一例だなあ。「下流社会」論を信用して至りとか、どういうわけかスピリチュアリズムやら「日本」への回帰やらを礼賛したりとか。これらの行為が、結局のところ「ナショナリズムの「自分探し」」に過ぎないことをどうして気づこうとしないんだ…。

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2006年1月20日 (金)

俗流若者論ケースファイル77・宮嶋茂樹

 『「ニート」って言うな!』(光文社新書)発売記念として、「週刊文春」平成18年1月19日号の特集「天下の暴論2006」に掲載された、「不肖・宮嶋」こと報道カメラマンの宮嶋茂樹氏による文章「聞けタイゾー 「徴兵制」こそニート対策」を検証しよう。「タイゾー」とは、もちろん宮嶋氏が《売国政治家がりっぱに見える小泉小僧(チルドレン)、あの杉村太蔵》(「週刊文春」平成18年1月19日号、以下、断りがないなら同様)と批判してやまない、衆議院議員の杉村太蔵氏のことである。

 というわけで最初に血祭りにあげるのはこの部分である。宮嶋様どうぞ。

 それに何じゃあ、フリーターどころか、ニートまで救済するやと?税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のことをニートと呼ぶそうやないか。そんな穀潰しが何十万も生きておるんは世界広しといえども我が国だけや。

 『「ニート」って言うな!』の著者の一人として、なんとも批判したい気持ちに駆り立てられる文章である。そもそも「ニート」とは、要するに15歳から35歳までの間にある人で、かつ就業もしていなければ職業教育を含む教育を受けていない人「全般」を指す。この「全般」というのがポイントで、我が国では如何なる事情を持っていても――例えば、東京大学助教授の本田由紀氏によれば、例えば「病気・けがのため」に働けない人がおよそ10万人、「知識・能力に自信がない」ゆえに働けない人がおよそ4万人いる(本田由紀[2006])――、「ニート」という言葉で丸められることによって一様に「問題のある」存在となされてしまう。そもそも個人の事情を考慮しないまま、宮嶋氏は「ニート」を、本来の意味を調べもせず《税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のこと》などと「説明」してしまっている。そもそもこれは、最も悪いイメージの(!)「ひきこもり」を指しているようにしか見えない(そもそもこのような見方は、「ひきこもり」の人々に対する偏見でもある)。宮嶋氏は、「ニート」と(勝手に)呼ばれる80数万人の人が、みんな宮嶋氏のイメージどおりであると考えている節がある。

 さて、宮嶋氏の文章のタイトルには「「徴兵制」こそニート対策」とある。宮嶋氏が徴兵制について述べている部分を読んでみよう。

 お隣の半島南半分ではJリーガーから、大統領まで男は全員二年以上の徴兵や。我が国も二年とまで言わん。せめて一年、いや八ヶ月でもエエわ。戦後六十年、今まで学校のセンセイ方がないがしろにしてきた規律、勇気、自己犠牲、国防意識という美徳をその間、自衛隊で徹底的に教育しなおすんや。

 このような「徴兵制」に対する甘いイメージでもって徴兵制を導入せよ!などと叫ぶ人は、ではなぜ韓国では「ひきこもり」が問題化しているのか、ということに対して答えることができるのだろうか。精神科医の斎藤環氏は、韓国の事例を引いて、徴兵制が決して「ひきこもり」対策にはならないことを論じている(例えば、坪内祐三、福田和也[2004]84ページ。韓国の「ひきこもり」事情に関しては、斎藤環[2005]が詳しい)。ここで、宮嶋氏は「ひきこもり」を語っているのではない、という反論がきそうだけれども、宮嶋氏の文章を読めば、明らかに宮嶋氏が「ひきこもり」=「ニート」と捉えている――それも最も悪いイメージで――ことがわかる。

 もう一つ言えば、徴兵制をしき、《規律、勇気、自己犠牲、国防意識》が根づいている「はず」の韓国に比して、徴兵制がなく、「ニート」が急増して、《規律、勇気、自己犠牲、国防意識》が衰退している「はず」の我が国のほうが、青少年によるあらゆる凶悪犯罪の人口あたりの件数が少ない。更に、我が国は、他の先進諸国に対しても、青少年の凶悪犯罪の人口あたりの件数が少ない。宮嶋氏には、このような疑問にも解答していただく必要があろう。

 さて、宮嶋氏は、《我が国の周りで徴兵制をしいていないのはアメリカぐらいやが、大統領令で、すぐに徴兵制に移行できる。ドイツは徴兵期間の代替に奉仕活動を選択できるし、イタリアは戦時になれば徴兵制復活が可能や》といっているのだが、宮嶋氏は、我が国に徴兵制を復活させるために、テロでも起こして、我が国を「有事」状態にしてしまうのであろうか…というのはよからぬ妄想ではあるが、いずれにせよ、宮嶋氏が短絡的なイメージで「ニート」、更には若年層全体を語っているのは明らかであり、宮嶋氏の議論を支配しているのは、「健全な精神」さえあれば青少年問題は解決できる、という甘い考えである。「健全な精神」ばかり教えたところで、現実の問題、例えば景気の問題や、教育システムの問題、あるいは雇用主の問題、雇用形態の変化が解決されなければ、結局は、大東亜戦争に突き進んで負けたある時期の我が国と同じ末路をたどってしまうかもしれない。

 とにかく、「ニート」って言うな!

 参考文献・資料
 本田由紀[2006]「「ニート」論という奇妙な幻影」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 内藤朝雄「社会の憎悪のメカニズム」=前掲『「ニート」って言うな!』
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
 斎藤環[2005]『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 坪内祐三、福田和也[2004]『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

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2006年1月16日 (月)

2005年10~12月の1冊

 私が平成17年10月1日~12月31日までに読んだ本に関して、特に印象に残ったものを紹介します。ちなみに、フリーターや若年無業者問題に関する本は、別のところで採り上げるのでここでは紹介しません。

 ついでに言いますと、今月の光文社新書の新刊(17日発売)として、本田由紀氏(東京大学助教授)、内藤朝雄氏(明治大学専任講師)、そして私の3人の共著として『「ニート」って言うな!』という本が刊行されます。私の執筆パート(第3部)では主として「現代若者論の中の「ニート」論」をテーマに書きました。

 特に内藤氏の執筆部分(第2部)は、ぜひとも若者論に関わる多くの論者に見て欲しい!この部分を読めば、短絡的な若者論を熱心に振りまいてきた人(あるいは、信じてきた人)は恥ずかしくなるのではないでしょうか。

 1:広田照幸『《愛国心》のゆくえ』世織書房、2005年9月
 教育基本法改正の問題に関して、右派の「日本の教育には愛国心が足りない」という議論と、左派の「学校で愛国心を教えたら偏狭なナショナリズムにつながる」という議論の両方を排して、この問題で本当に向けられるべき問題とは何か、ということを論じた本。具体的に言えば、「公共性」とは何かということを議論の出発点として、政治的境界線の変容や、改正論者が「公共性」をどのように捉えているかということなどにも触れられており、凡百の教育基本法議論とは一線を画している。

 2:ウルズラ・ヌーバー、丘沢静也:訳『〈傷つきやすい子ども〉という神話』岩波現代文庫、2005年7月
 米国のトラウマ・ブームを批判した本。本書は、我が国でも日々勢力を強めている心理学主義的勢力に対して強烈な打撃となることは間違いないだろう。本書はまず「子供時代」が全てを決める、というトラウマ理論に対する反駁から始まり、なぜ「子供時代」の物語に我々は惹かれてしまうのか、という領域まで踏み込んでいる。ただ、筆者の遺伝子決定理論への少々過剰な肩入れが心配されるところだけど…。

 3:マイクル・シャーマー、岡田靖史:訳『なぜ人はニセ科学を信じるのか』ハヤカワ文庫、上下巻、2003年8月(上巻下巻
 米国にはびこった疑似科学を斬った本。上巻では、疑似科学ではおなじみの「宇宙人による誘拐」などのストーリーの虚構について触れられており、下巻ではホロコースト否定論と「創造科学」の虚構にスペースが割かれている。白眉はなんといっても「創造科学」に対する痛烈な批判。平成17年9月末に、産経新聞で「創造科学」を教えよ、と主張したインタヴューが掲載されたが、そのようなインタヴューを読む前に本書を読もう。

 4:本田由紀『(日本の〈現代〉・13)多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 現代の我が国において、「学力」に代表される旧来の「近代型能力」から、例えば「コミュニケーション能力」や「人間力」などといった曖昧な「ポスト近代型能力」に移行している、ということを説いた本。本書の見所は前半で、既存の「努力」概念では計ることができないような我が国の社会の変容や、「人間力」などの言説の広がりを我々に見せ付ける。ただし第4章以降は分析が少々曖昧で面白みが減じる。

 5:土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 少年犯罪の「変質」から現代の若年層の「現実」を描いた本。と入っても著者は「凶悪化」を説くのではなくむしろ「稚拙化」という視座で議論を進めている。説得力のある議論が展開されているのだが、少々若年層を病理的に捉えすぎているのではないかという懸念も強く膨らんだ。またサブタイトルの「個性神話と少年犯罪」を証明しきれたかどうかも微妙なところがある。

 6:森村進『自由はどこまで可能か』講談社現代新書、2001年9月
 自由主義=リバタリアニズムの概説書。国家と個人、自由権、自己所有権、裁判、経済、家族などをリバタリアニズムはいかに捕らえるか、ということから、例えば「リバタリアニズムは特異な人間像を前提にしている」などといった疑問にも答えている。自らの政治的な立ち位置を考える上で参考にしたい1冊。

 7:杉山幸丸『子殺しの行動学』講談社学術文庫、1993年1月
 インドにおけるハヌマンラングール(サルの一種)研究の成果から、「子殺し」のメカニズムを生物学的に解き明かした本で、原書が刊行されたときは世界で大論争を巻き起こしたらしい。研究の記録とエッセイのような文章が見事に融和しており、知的な好奇心をかき立てられる。
 ※現在品切れ。

 8:今西錦司『進化とはなにか』講談社学術文庫、1976年6月
 ダーウィン進化論、及びその理論を更に先鋭化したネオ・ダーウィニズムにおける「自然淘汰説」や「突然変異」を否定し、進化が個体ではなく種のレヴェルで起きることを主張した本。本書には昭和20年代後半から昭和50年ごろまでに様々な媒体に掲載されたエッセイ6本で更生されており、今西進化論のエッセンスが俯瞰できる。

 9:稲葉振一郎『「資本」論』ちくま新書、2005年8月
 社会学や経済学の古典の理念を、「所有」「市場」「資本」「人的資本」の4つのテーマを元に再構成したもので、重要な理論(ホッブズ、ルソー、ヒュームなど)の概説とそれらに対するほかの論者の批判・論争が記されている。読みやすいので、著者の意見ということを考慮に入れれば教科書としても使える。

 10:五十嵐太郎、リノベーション・スタディーズ(編)『リノベーションの現場』彰国社、2005年12月
 我が国における様々な「リノベーション」(建物や都市の修理・改装・再活用)の記録を、講演会形式で報告したもの。私は本書第6章(テーマ6)で紹介されている仙台市卸町地区のリノベーションの報告(「仙台の人と街とリノベーション」)を読むために買ったのだが、「せんだいメディアテーク」の利用報告や卸町の問屋ツアー企画など、見所が満載だった。もちろん他のリノベーションの事例も読んでいて面白い。実際の設計から、テレビ番組「大改造!!劇的ビフォーアフター」まで。

 11:市村弘正、杉田敦『社会の喪失』中公新書、2005年9月
 市村氏が平成3年に書いた、映画に関するテキストを題材に、現在の社会における「戦争」「歴史」「解法」「自由」「世界」「言語」について政治学者の杉田氏と対談したもの。本書の白眉は、最後にテキスト抜きで交わされる「社会」についての対話。もちろんテキストを題材にして行われた議論を前提に行なわれているのだが、その中でも「境界線」にまつわる話は必読。

 12:大竹文雄『経済学的思考のセンス』中公新書、2005年12月
 あらゆる物事を経済学的に捉えること、すなわち「インセンティヴ」を中心にして捉えることを実践するための本。本書の白眉はプロローグの「お金がない人を助けるには?」。これは「お金がない人を助ける」というテーマで経済学者である著者に質問に来た小学5年生の質問に対する解答で、ここを読めば本書の大まかなつかみは大丈夫。第3章「年金未納は若者の逆襲である」もお勧め。

 13:小宮信夫『犯罪は「この場所」で起こる』光文社新書、2005年7月
 環境犯罪学の概説書。「壁」を強化するよりもむしろソフトなアーキテクチャによって「領域性」を強化することのほうが重要だ、というのはまったき正論(関連書として、五十嵐太郎『過防備都市』(中公新書ラクレ)を)。また、「防犯」をインセンティヴとした地域の繋がりの強化策も、ある程度は参考になる。ただし第4章に無視できない俗流若者論が含まれていた。

 ワースト1:岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月
 ゲーム規制論は「科学」ではなく「政治」であるということを自ら立証してしまったような本。具体的に言うと、一つのもっともらしい「社会調査」と、報道で聞きかじった程度の推測と、牽強付会だけで成り立っている。

 なぜこの本が「科学より政治」というのか、というと、まずマスコミが喧伝したがる「今時の若者」の「平均的な特徴」なるものを金科玉条の如く取り扱っており、それに対する批判的な視点はほとんどない(とりあえず、4の本田由紀氏の著書を読むことをお勧めしたい)。更に、何でもかんでもゲームに結び付けようとするあまり、誇大な宣伝も目立つし、それ以外にもマスコミはゲーム業界から広告をもらっているからゲーム批判を載せないんだという説明に関すると、だったら何でそこらじゅうにゲーム悪影響論が溢れてんだよとか、お前わざと少年犯罪と「今時の若者」をオーバーラップさせるように書いてるだろ、とか、とにかく疑問ばかりが浮かんでくる。

 ワースト2:草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年10月
 関連記事:「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの
 凶悪犯罪をしでかした少年の家庭に関する記述はある程度正鵠を得ているのは認めるものの、やはり第1章で草薙氏が行なった俗説の積み重ね、更に第3章以降の「ゲーム脳」理論への傾倒が本書を一気に駄目にしている。「ゲーム脳」理論に関しては、既に書籍の分野でも多くの批判がなされている(その中でももっとも優れているのが、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)の第2章)。既に疑似科学であることが明らかとなっている理論に未だ固執するのは、ジャーナリストとしては正しい態度とはいえないだろう。

 草薙氏は「子育てのマニュアルは書き換えられるべき」と述べているが、本書のような青少年に対する偏見とそれに支えられる疑似科学ばかりが記述されたように書き換えられるべき、と草薙氏が主張するのであれば、私は願い下げだ。

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2006年1月 8日 (日)

トラックバック雑記文・06年01月08日

 今回のトラックバック:「フリーターが語る渡り奉公人事情」/「海邦高校鴻巣分校」

 明けましておめでとうございます。今年も若者論の検証に精を出していくので、どうぞよろしく。あと、仙台市在住の新成人の皆様、明日は成人の日です。ぜひとも仙台市体育館まで!平成18年仙台市成人式実行委員会の用意した成人式をお楽しみくださいね。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:黒田節
 新年早々、考えさせられるエントリーです。我が国においては、やれパラサイトだニートだ下流だとかいった「言葉」ばかりが飛び交っていますけれども、結局のところそれは所詮は「有閑階級の言葉遊び」というか、もう少し詳しく言えば、社会のある階層の人を「よりしろ」にして自分の地位の「高さ」を確認したい、という言動に過ぎない。三浦展氏の「下流社会」もまた、結局のところ自分は「上流」「中流」だと自称する人が、「人生へのモチベーションが低い」ように見える――しかし実際には、社会における「人生へのモチベーション」の文脈が変化していたり、あるいは最初からそのような機会が与えられていなかったりと、単純に本人の無気力として切り捨てることができないものも多いのだが――人を叩いているだけに過ぎない。

 私は最近ナショナリズムに関して思索をめぐらせることもあるのですが、最近喧伝されている「ナショナリズム」やら「愛国心」やらは、フリーターや、あるいは若年無業者などを「国民国家」の成員として認めない。それどころか彼らは「国家」を汚すものであるとして迫害してしまう。ある意味、それが現状におけるフリーター論の歪み――すなわち、バブル期的フリーターとは明らかに変質しているにもかかわらず、今でもフリーターを「甘え」だとか「自己責任」として片付けてしまうこと――とも関係しているかもしれない。
 社会の大部分で働いていながらも、「世間」は決して彼らを一人の人間として容認しようとせず、ひたすら卑下する。そして彼らに「自己責任」を要求したり、あるいは「下流」だと言って見下したり。そのような言説的病理を指弾するために、「嫌韓流」ならぬ「嫌下流」とかいう本を書いてみようか(笑)。
 あと、立ち読みで、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏の最新刊『江原啓之への質問状』(ライターの丸山あかね氏との共著、徳間書店)を読んだのですが、特に「ニート」に関するくだりは大いに笑えた。江原氏によれば、「ニート」は自らの守護霊の力に気がつかないから親離れできないんだとさ(笑)。実際に購入するまで詳しい論旨に関する言及は避けますが、実を言うと最近江原氏の言説に関しても興味を持っています。というのも、私がもっとも最初に出会った江原氏の著書が『子どもが危ない!』(集英社)で、そこで展開されている青少年言説が、明らかに過去の事例や件数を無視していることもさることながら、それよりも江原氏が「たましい」との結びつきを取り戻さない限り社会問題は解決できない、と言説を展開していることに危機感を覚えたからです。これは要するに、社会とか実際の人々の営みを無視して、「個人」をいきなり「たましい」――この本で展開されている江原氏の「たましい」概念が、実を言うとかなり保守論壇的な俗論に脚色されているのだが――と結び付けようとする論理であり、パトリオティズム(愛郷心)を経由しない「偽ナショナリズム」であって、それと同時に社会的問題を「内面」に還元してしまう思想に他ならない。とりあえず古本屋で、『子どもが危ない!』の続編に当たる『いのちが危ない!』(集英社)も買いましたが、江原氏は積極的に著書を出しているので、もう少し深く掘り下げていかなければならないでしょう。もちろん、江原氏以外のスピリチュアリズム関連の書籍も参照しながら。
 「論座」平成18年2月号に、ライターの横田由美子氏が「あなたはいま、幸せですか――江原啓之に魅せられた女たち」という記事を書いていますし、評論家の斎藤美奈子氏も著書『誤読日記』(朝日新聞社)で江原氏の『スピリチュアル夢百科』(主婦と生活社)を少々批判的に書評しています(107~109ページ。特に109ページの《心霊業とは、ある種のサービス産業なのである》という指摘には納得!)。ニーチェの『キリスト教は邪教です!』(適菜収:訳、講談社+α新書)も参考になるかな。
 関連記事:「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~

 

海邦高校鴻巣分校:「超少子化を語る」を嘲う……
 平成18年1月5日付読売新聞に掲載された、キヤノン社長の御手洗冨士夫氏に対するインタヴューの検証です。私の家でも読売を購読しているのですが、そのインタヴューの中における、御手洗氏の《今日の若者の就業の様子を見ていても、フリーター、ニートと言われる層に果たして本当の就業意欲があるのか》というくだりは、あ、やっぱり、と思ってしまいました。要するに、「問題」といわれる「属性」を持っている人に対して、ひたすら(社会にとって)悪いほうに悪いほうに考える、という奴ね。

 せっかくだからこのエントリーから興味深い部分を引用してみる。

 電波3「個人はあれもこれも企業や社会のせいにすることなく、強い個人になることを目指していただきたい」……
 強い個人、というのはどういう意味でしょうか。経済基盤の強さでしょうか。それとも財界の要請にこたえられるだけの能力を持った人間になることをお求めでしょうか。で、あなた方はバブル期も含め史上空前の利益を挙げ、お金の力で政治に口を出し、経団連に有利な政治を要求することができますが、個人にはそれはできません。社会がどのようにまずい方向に変わろうとも、異議を申し立てることはまかりならぬ、強い個人であれという言葉はそのような意味ですか?

 このような「強い個人」を強調するのも、また「自己責任」論の一環であるということを、我々は認識しなければなりません。
 で、このエントリー、最後はお決まりの《平凡な学生の課題案よりもひどい》。

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