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2006年1月28日 (土)

論壇私論:「論座」平成18年2月号

 ベスト:芹沢一也「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」
 現在の我が国の社会は、極めて犯罪に「弱い」社会なのではないか。

 そんなはずはない、我々は犯罪に対しては十分に防犯を強化している、しかし犯罪者が凶悪化しているからそう見えるだけだ、と反問されるかもしれない。

 だが、私がここで問いかけたいのは、犯罪に対する「対応」である。我が国では、例えば青少年による凶悪犯罪が起こると――いや、時には微罪であっても――マスコミが大々的に採り上げ、「「今時の若者」は危険だ」「「安全神話」は崩壊した」と煽り立てる。最近ではそのような扇動言説が政治の現場にも波及し始め、「若者の人間力を高める国民運動」(厚生労働省の管轄)やら「こころを育む総合フォーラム」(主宰者は元文相の遠山敦子氏)などという、明らかに世間で流布している――しかし多くの専門家によってとっくに論破されている――俗流若者論の政治的正当性を誇示する目的で行なわれているとしか思えないような政治的な動きが生まれている。

 また、つい先日(平成18年1月17日)、昭和63年から平成元年に起きた幼女殺害事件の上告審が棄却され、宮崎勤被告に死刑が確定された。それをめぐる言説――上告審棄却の前に行なわれたものも含めて――の中にも、徒にサブカルチュアを敵視し、規制しろだとか、我が国は「宮崎的人間」が増えてしまった、などと、我が国において幼子は見知らぬロリコンよりも親に殺されてしまうケースのほうが圧倒的に多いことを無視して、自分の「理解できない」ものに対する不安を煽っていた。とりあえず、作家の高村薫氏と、ジャーナリストの大谷昭宏氏は、1年ほど政治的発言を自粛すべきだろう。

 我が国は、かくも犯罪に対しては「弱い」のだ。犯罪が起こっても、不安にせきたてられることしか知らない。冷静に事実を検証することは決してない。いくら防犯を強化したとしても、人々の――厳密にはマスコミの、だが――不安は消えるばかりか、逆に増幅されているのだ。また、若年層やロリコンによる凶悪犯罪は過剰に煽り立てるのに、一方では親が子供を殺すケースには極めて無頓着だ。「深夜のシマネコblog」の赤木智弘氏がそのような事例を集中して採り上げようとしているが、これらの事件が、決して「我々に対する不安」として言説化されることなど、決してない。

 なぜ、このような状況が生まれているのか。それは、我が国において、不安に扇動されることが、ある種の「快楽」になっているからではないか――。

 このような状況下にあって、「論座」前号に続き、今号も、京都造形大学非常勤講師・芹沢一也氏の論考をベストに採り上げる。

 朝日新聞記者の石塚知子氏が、「過剰防犯で窮屈な人々」(「AERA」平成14年3月18日号)なる記事で、「防犯」の為にセキュリティを強化する人が、かえって不安に陥ってしまっていることを論じている。その2年後、東北大学助教授の五十嵐太郎氏は、著書『過防備都市』(中公新書ラクレ)において、昨今の都市の変遷からセキュリティ・タウン化していく我が国の姿を描き出した。そして五十嵐氏の仕事から更に1年半経った現在、そのような「恐怖と治安のスパイラル」は、社会全体のものになっている――殺害される小学生の数は、ここ30年で最低レヴェルにあるのに。

 本稿の白眉は最後の2ページだ。それまでは我が国における「恐怖と治安のスパイラル」が語られるが、44ページ3段目において、芹沢氏は以下のように問いかける。

 問題はさらにその奥にある。それでもやはり治安への意思がやまないのはなぜなのだろうか。それは、人びとのあいだにある種、「快楽」のようなものが発生しているからなのではないか。

 芹沢氏が掲げるのは、例えば《蕎麦屋や寿司屋の出前持ちがパトロール隊をつくり地域の安全に貢献しようとしている》事例である。ここから《警察的な視点でもって街を監視することの快楽》を芹沢氏は見出す。また、それ以外の種々の活動から《地域活動に参加している快楽》も見出される。これらに共通している感情は、《ひとつの敵を前にして、一体感を感じるという快楽》ということができよう。

 しかし、それらの状況が指し示すものは何か。《快楽と不安とによって、人々がもろ手を挙げて治安管理に突き進むとき、失われるものが自由だとしたならば、それは余りにも大きな代償ではないか。そして、わたしたちが手にするのが安全や安心どころか、ただ団結し恐れあう仲間たちの一体感だけだとしたら、そこに何の意味があるというのか》(45ページ)。

 我が国において進行している「排除」のメカニズム――例えばオタクバッシングや、バックラッシュ、「下流社会」論など――は、ひとえに「この社会を作り上げてきた世代」――これもまた虚妄で、実際には政治やマスコミにおいて声の大きい人――の正義のみが認められるべき正義であり、人々はその御旗の下に集わなければいけない、という一極主義において支えられているようにも見える(残念ながら、今号の「論座」にもそのような一極主義を支持するような論考があった)。そのような「正義」を共有できない人は、精神をすり減らしてまで彼らに迎合せねばならぬのか。

 芹沢氏は、最近『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)という本を出した。これもチェックすべき本であろう。

――――――――――――――――――――

 ベター1:東浩紀「潮流06 95年以降の日本社会論を発信せよ」
 米紙「ニューヨークタイムズ」で、「嫌韓流」がトップを飾るようになった。そんな状況下において、《アメリカでは、日本でいま、ポップカルチャー論やネットコミュニティー論や若者論が、社会学や現代思想と一体になって独特の言説空間を作り上げようとしていること、それそのものが知られていない》《日本のポップカルチャーは易々と国境を超え、言説もまたネットを通してグローバルに流通している》。今や外国に我が国の社会論を伝える試みが必要という論説には納得。ただし《嫌韓が広がったのは、若者が自信がなく、寂しいからなのだ》(24ページ2段目)というのは、ある意味では若年層に対する蔑視だよなあ。「繋がりの自己目的化」という命題は、むしろ「芹沢一也」的な文脈で捉えたほうがいいのではないかと。

 ベター2:渡邉恒雄、若宮啓文「靖国を語る、外交を語る」(司会:薬師寺克行)
 まさかこのような対談が見られるなんて思ってもいなかった。さすがは「論座」である(笑)。

 閑話休題、最近になって、読売新聞は、「戦争責任」に関する連続特集を組むようになったり、あるいは国立追悼施設の新設を主張したりと、こと戦争責任や「靖国問題」に関してはスタンスの揺らぎが見られる。そんな読売の状況を、朝日の論説主幹の若宮啓文氏が読売の主筆の渡邉恒雄氏に問いただす、という企画。渡邉氏は基本的に靖国には反対らしく、中曾根康弘氏の参拝の際にも「自分は参拝に反対だ」と明言したそうだ。戦中派である渡邉氏の、ある意味では「遺言」ともとれるこの対談は貴重である。

 ベター3:ジャン・マリー=ルペン「暴動に参加した若者に非はない。政府にこそ非があるのだ」(聞き手:及川健二)
 フランス極右政党「国民戦線」の代表に聞いたフランスの暴動について。これも貴重なインタヴューである。暴動に参加した若年層を社会の枠外におくことを許してきた政府に非がある、彼らに個人としての責任はない、普遍的な字kどう主義を優先するのではなく地域や国の特殊性にも目を向けるべき、自由な経済活動は擁護するが「鶏小屋における狼の自由」は決して認めない、など、意外にもリベラルな意見が目立った。

 ベター4:逢坂巌「首相はテレビをこう「利用」した」
 我が国における「テレポリティクス」の戦後史。首相がテレビ的だといわれたのは池田勇人時代からで、田中角栄、三木武夫、海部俊樹、宮沢喜一の各氏といった歴代首相や、平成元年の「土井ブーム」(「土井」とは当時社会党の土井たか子氏のこと)においてもテレビは「利用」されてきた。そして小泉純一郎テレポリティクスの「新しさ」は、むしろ政治状況や社会状況の変化と捉えられるべきだとする。

 ベター5:横田由美子「あなたはいま、幸せですか――江原啓之に魅せられた女たち」
 個人的に最大のツボだったのが、結び(237ページ)の《「はい。私はとっても幸せになりました」と、真っすぐに私(筆者注:横田氏)を見て答えた女性は、不思議とひとりもいなかった》というくだり。別に私はそんな「スピリチュアル・カウンセリング」如きで幸せになれるはずなどねえんだよ、と唾を吐き掛けたいわけではないが、ほとんどメディアの寵児である江原氏の「怪しさ」について触れたことは評価できる。

 ワースト1:今井隆志「日本発の性・暴力表現は通用しない」
 我が国におけるゲーム規制論議を外交問題に発展させたようなもの。具体的に言うと、「保護者の価値観とのミスマッチ」や「ヘンタイ・アニメ」の蔓延を嘆いたりとか、我が国のアニメが「見たくない・見せたくない権利」を侵害しているとか…。ほとんどが憶測と感情論で、説得力に乏しい。

 ワースト2:戸矢理衣奈「時評06 自由と規律」
 これも「何か勘違いしている人」の一例だなあ。「下流社会」論を信用して至りとか、どういうわけかスピリチュアリズムやら「日本」への回帰やらを礼賛したりとか。これらの行為が、結局のところ「ナショナリズムの「自分探し」」に過ぎないことをどうして気づこうとしないんだ…。

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コメント

>親が子供を殺すケースには
これは儒教の影響もあるのだろうけど、日本の場合概して子殺しの罪は普通の殺人に比べて軽く扱われがちな傾向があるらしい…。(実際実子を殺して殺人罪に問われるケースはまれで傷害致死罪ですむケースが大半だったりする。言うまでもないが殺人と傷害致死では刑の重さはまるで違う。)(参考:http://home.att.ne.jp/omega/cabin/kogoroshi.htm)

投稿: hts | 2006年1月28日 (土) 02時41分

テレビ番組やゲームソフトや漫画や書籍その他など、情報の受け手側の根源的かつ最高の権利は「見ない権利」であって、「見たいと欲する人を邪魔する権利」でも「見たがる人に難癖つけて刑務所にブチ込む権利」でもないんですが。
メディアの側にいる人間なのに、今井某はそのようなことも理解していないんですね。

投稿: Lenazo | 2006年1月31日 (火) 21時24分

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