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過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。
投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。
さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。
深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)
赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。
そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
(略)
で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。
若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。
一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。
しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。
さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。
週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
木村氏曰く、
ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。
現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。
多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。
あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。
kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?
いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。
まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。
てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
S氏の時事問題:門限は7時まで?
ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例
ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。
昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。
青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。
「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。
我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。
あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。
読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。
保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。
生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。
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