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2006年2月27日 (月)

論壇私論:「論座」平成18年3月号

 ベスト:鈴木邦男「愛国者はそんなに偉いのか」
 元々右翼・民族派である筆者による、現代にはびこる自称「愛国者」に対する感情的批判を今回のベストに据えることとする。

 本書は基本的には筆者が出会った感動的な師、故・葦津珍彦氏に関する回想録である。鈴木氏は、葦津氏を《情緒纏綿とした「日本精神」に逃げ込まない。また、「戦後民主主義」を頭から否定する論客が多い中にあって、先生は民主主義を認め、その上で論を進めていた》(46ページ)と評し、また論理的な文章に命を賭けることにより、右翼のみならず左翼からも評価され、《橋川文三、鶴見俊輔なども立場を超えて認め》(46ページ)る存在であったという。また、過去、葦津氏は、昭和12年に上海海戦を視察した報告書で「この日本軍を皇軍と僭称したら、天誅は必ず降りる」と報告し、昭和15年には日独伊三国同盟締結を批判した。葦津氏の他にも、右翼の中には軍部を批判し、打倒しようとした人は存在していた。

 そのほかにも鈴木氏は、自らが出会った右翼の人たちがいかに輝いていたか、ということを叙述する。それらの人たちの多くは、二・二六事件の少し前の事件(神兵隊事件)の当事者であり、戦後の右翼運動の良質な部分はこの人たちが作ったといっても過言ではない、と鈴木氏は指摘する。

 そんな鈴木氏にとって、今まさに隆盛している《「にわか右翼」の教授や若者たちの言動には関心がない》(49ページ)ようだ。かつてとは違い、今「憲法改正」だとか「愛国心」だとか叫んでいる人たちは、みな安全圏内で語っている。この鈴木氏の指摘は、私の若者論の検証と実に合致する。私の蒐集している若者論のうち、特に保守系のメディアの多くは「憲法改正」や「愛国心」などを語るが、それらは所詮「若者論」の域を超えず、結局のところ私憤を大層な論議に置き換えているだけだ。

 話を鈴木氏の文章に戻そう。鈴木氏は最後のほうで、現在「愛国者」を僭称している人たちの矜持のなさ、謙虚さの欠如、寛容の欠落、そして自らの論理を正当化するための生贄を探すための愚かさを露骨に批判する。現代の自称「愛国者」たちは、それこそ鈴木氏が指摘するように《本当は個人のウップン晴らしをしているだけなのに。本当は本を売りたいだけなのに。本当はただ目立ちたいだけなのに》(51ページ)、と謗られても仕方のない存在なのではないか。

 さすがに右翼に対する評価は甘いと思わざるを得ない。それでも、この文章で、人との出会いの重要性を痛感させられるとともに、現代の自称「愛国者」(これは右派に限らず、左派にも存在しているのである)の浅薄さを考える上で重要な提起だ、とも思った。

――――――――――――――――――――

 ベター1:茂利勝彦「GALLERY RONZA V.I.C(Very Important Child)」
 「論座」がリニューアルした平成17年10月号から、イラストレーターの茂利氏が巻頭で時事イラストを書いているのだが、今回のは個人的に大ヒットだった。構図に関しては雑誌を確認していただきたいのだが、これほど大量のSPに囲まれた子供でも、家に帰れば、あるいは学校に行けば結局無防備になるんだろうか?

 ベター2:中川一徳「堀江貴文という「鏡」が映すフジテレビの危うさ」
 私は元々堀江貴文氏は好きではなかったけれども、この記事を読んで堀江バッシングに蠢動するマスコミの不可解さを身にしみて感じるようになった。というのも、ここで採り上げられているのはフジテレビだが、堀江被告がニッポン放送株を取得したとき、フジテレビには「ライブドアの過去を洗え」という社命が飛んだ。しかし当時はフジテレビもまた、ライブドアと同様の「グレーゾーン」を歩んでいたのである。

 ベター3:アレキサンダー・エバンス「マドラサは本当に脅威なのか」(「FOREIGN AFFAIRS」)
 マドラサとはイスラーム世界の宗教教育機関であり、1980年代のソビエトのアフガニスタン侵攻以降からこのマドラサこそがテロリストの泉源だ、と糾弾された。しかし実際にはマドラサは多くの貧困な子供たちに社会サーヴィスを提供しており、「テロリストの泉源」という見方は余りに一方的だ、と批判する。

 ベター4:斎藤兆史「小学校に英語はいらない!」
 小学校における英語教育の推進派の主張は、英語教育導入の意義は「子供の成長」「国際理解教育」「子供の個の確立」等といった、抽象的な教育効果なのだそうな。小学校における英語教育を教科化すると、結局「英会話ごっこ」が増えるだけだとか、中等教育における基礎教育を充実させよとか、意欲のある若い人たちが英語学習のためだけに高い金を出して留学しなくても済むようにせよ、という主張には納得。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部・第5談 お友達が逮捕?」
 あ、やっぱり「週刊文春」平成18年12月8日号の広島県女児殺害事件に関する記事はワースト1でしたか。あと江原啓之氏の語っていることが単なる世俗道徳でしかない、という指摘には激しく同意。

 ワースト:サラ・E・マンデルソン、セオドア・P・ガーバー「ロシアの若者の歴史認識を問う」(「FOREIGN AFFAIRS」)
 曰く、ロシアの若年層の13%は、スターリンが今甦り、大統領選挙に出馬すれば、スターリンに投票する(かもしれない)んだとさ。ただ、30代以上のロシア人は、30%がスターリンに投票する(かもしれない)ようだ。調査に関する信憑性は少々突っ込みたくなるところもあるが、このような外国の若者論が読めるというのは、米誌と提携している「論座」の強みということか。我が国において(「スターリン」を「東条英機」に置き換えて、だが)同様の結果が出たら、間違いなく扇情的な記事が出るだろうなあ。特に朝日新聞とか。

 30代以上の人のほうがスターリンに対する支持率が高いのに若年層ばかり問題化したりとか、スターリン「支持」に関しては「絶対に」「あるいは」「おそらく」を合計した値を出しているのに対し、スターリン「不支持」に関しては「絶対に」だけの値を提示する(ちなみに「絶対に」は46%、「おそらく」は21%。あわせて67%、全体の3分の2)という不公平な比較もあるし、一部の若年の考え方をさも世代の代表であるかのごとく捉えたりとか、論調は我が国の俗流若者論とあまり変わらない。特に結びのこの一文には吹いてしまった。

 モスクワ集団のある大学生は「サハロフの事をよく知っているか」という問いに、深く考え込んだ挙句、「サハロフ?それがどこの場所か分からない」と答えた。彼の反応がロシアの若者に典型的なものだとすれば、彼の国は非常に深刻な問題を抱え込んでいることになる。

 《典型的なものだとすれば》、って、あんた…。

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2006年2月24日 (金)

トラックバック雑記文・06年02月24日

 今回のトラックバック:加野瀬未友/安原宏美/本田由紀/木村剛/「アキバの王に俺はなる!」/「冬枯れの街」/大竹文雄/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/小林美佐/保坂展人

 始めに、このブログの右の「参考サイト」に「ジェンダーフリーとは」と、「深夜のシマネコ」を、また「おすすめブログ」に「保坂展人のどこどこ日記」と「成城トランスカレッジ!」を追加しました。

 少々考えさせられる記事が。
 ARTIFACT@ハテナ系:[個人サイト]はあちゅう氏の発言にみる「ブロガーの病」(加野瀬未友氏:オタク文化研究家)
 自戒を込めてトラックバックしておきます。というのも、加野瀬氏の問題提起が、ネット上で文章を書いているものにとっては避けて通ることのできない問題だからです。

 加野瀬氏は、以前のエントリー([個人サイト][教育]美少女革命家はあちゅう)で触れたある文章(私も「はてなブックマーク」で呆れてみせましたが)における極めて世俗的な「憂国」的な物言いに関して、「発言したい欲望」という言葉を用いて以下のように表現しております。

はあちゅう氏の発言からは、「発言したい欲望」によって、ただ単に突き動かされ、私はよく知らないんだけど何か言わなといけない!という衝動にかられているのを感じる。これも「ブログ」という場所があるからこそ加速している訳で、「ブロガーの病」だろう。

 この文章を読んで、ジャーナリストの日垣隆氏の著書『使えるレファ本150選』(ちくま新書)の、カバーに書かれてある紹介文を思い出しました。

 メールやブログなど、今やだれも「書く」時代だ。せっかく書いても、それが事実に反していたり、何の新味もなかったりしたら、説得力を失うばかりか、大恥をかきかねない。

 文章を書く以上、少なくとも相手を説得するために様々な資料を用いたり、あるいは反論に耐えうるような論理を搾り出したりと、ある程度の努力はしないといけない。少なくとも、勝ち馬に乗るような言論は控えたほうがいいのかもしれません。そのためにも、まずは多くの本や雑誌やサイトを読み、様々な言説に触れたほうがいいのでしょう。私もまだまだ修行が足りません。

 もう一つ、加野瀬氏の文章で気になったところが。

興味深いのは、使っている言葉は「国民」とか「国家」とか大文字なのに、社会問題の発生をすべて個人の内面にしてしまうところだ。だから、その内面を変える方法として「教育」が出てくるのだろう。もちろん、教育も必要だが、雇用問題などはすべてすっとばされてしまう。

 これは私が現在やっている仕事と深く関わってくるのですが(あるテーマに関する共著の本。4月か5月ごろには出版予定?)、「国民」とか「国家」という(空疎な)大文字は、ある意味では自らを高みにおいて、相手をバッシングするための方便になりえているのではないか、ということを、主として保守論壇の若者論を読んで思うわけです。私は、単なる私憤を「国家」と結び付けて、(自分の理想としての)「国家」に同一化しないからお前たちみたいなバカになるんだ!などといった具合にバッシングしてしまう行為はできるだけ避けたい。また、俗流若者論は、私憤がそのまま国家論や社会論につながっている感じが強い。

 この点でもっとも繋がりが強いのはやはりこれか。
 女子リベ:少年犯罪には先進国中一番厳しい日本(安原宏美氏:フリー編集者)
 浜井浩一氏(龍谷大学教授。過去に犯罪白書の執筆経験あり)が行なった調査に関する安原氏の感想です。

 さらに少年犯罪が注目である。
 参加先進国中、少年犯罪には厳罰をもって処すべしという態度は、堂々の1位という結果である。
 ようするに、犯罪にあう確率は少ないのに、大げさで、とくに少年が罪を犯したら、「許さ~ん!」と過剰反応してしまう国となっているのである。
 浜井教授の分析についてはとても興味深いのが、そちらは本稿をあたっていただきたい。
 しかし少年になぜそこまで厳しいのかというと、やはり90年代後半からの「少年犯罪」大ブームが大きいだろう。こちらの考察分析については、わたしが編集として関わらせていただいた芹沢一也さんの「ホラーハウス社会」に詳しいのでぜひそちらを見ていただきたい。

 とりあえず、ここで採り上げられている芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)の最新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)は、芹沢氏の前著『狂気と犯罪』(講談社+α新書)とあわせて必読です。

 少年犯罪の「凶悪化」が云々されるようになってから、そのような議論の高まりに比例して少年犯罪は本当は凶悪化していないのではないか、という議論も生まれました(例えば、広田照幸「メディアと「青少年凶悪化」幻想」(平成12年8月24日付朝日新聞/広田『教育には何ができないか』(春秋社)に収録)、宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社)、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)、など)。ただ、いまだにマスコミにおいては「少年犯罪凶悪化論」が大手を振っており、「少年犯罪凶悪化幻想論」は、マスコミではせいぜいエクスキューズ程度に使われるか、あるいは専門的な雑誌や論壇誌に掲載される程度。新書でもいくらか出ているが、それらの本がベストセラーになったという声は余り聞かない(せいぜい『反社会学講座』くらい?)。「凶悪化論」が今なお平然とまかり通っているのは、「少年は自分の世代(中高年世代)よりも凶悪であって欲しい」という世論があるからではないか、とうがった見方をしてしまいたくなる。

 浜井氏に関しては、『犯罪統計入門』(日本評論社)という本が出ているので、こちらもチェックしてみる必要がありそうです。

もじれの日々:若者バッシングに抗う本(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏が採り上げている、社会学者の浅野智彦氏らによる『検証・若者の変貌』(勁草書房)という本は、平成4年と平成14年に若年層に行なったアンケートから、昨今の若年層バッシング――例えば、礼儀を知らない、とか、携帯電話に依存することで関係性が希薄化しているとか――は本当に正しいのか、ということを検証した良書です。できるだけ多くの人に買って読んで欲しいのですが、いかんせん値段が高い(税込み2520円)。ただし、買っておいて、更に座右に置いておいて決して損のない本です。
 また、最近買った本に関しては、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏の『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)もお勧め。本書は、我が国における教育言説の海外との比較から、なぜわが国において「教育改革」が失敗したか、ということを検証した良書です。こちらは新書なので、値段も手頃(税込み756円)。

 更に、念願だった、赤塚行雄『青少年非行・犯罪史資料』全3巻(刊々堂出版社、1・2巻昭和57年、3巻昭和58年)もやっと手に入りました。問題は収納するスペースか…。
 とはいえ、今月の講談社現代新書の新刊で『他人を見下す若者たち』なる本が出ているからなぁ…。立ち読みでチェックした限りでは、とっとと浅野氏の本を読んで出直して来い、という代物だった。本格的にチェックしてみるか…。

 以前、ある人から、「このブログはテレビのことを採り上げない」と指摘されたことがありました。理由としては、私はテレビのニュースをあまり見ない、ということがあるのですが。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]ニュースは作られているのか?(木村剛氏:エコノミスト)

 このエントリーを読んで、次のエントリーを思い出した。

 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!

 今月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!! あなたは怒れますか?キレる子供…守れますか?こわれる子供」(つくづく長えタイトルだな)に関しては、上の2つのエントリーのほか、「2ちゃんねる」の大谷昭宏スレッド(私が2chで唯一覗いているスレッドで、現在は事実上オタクバッシング批判スレッド)と「DAIのゲーマーズルーム」を読んだのですが、いずれも評価は最悪だったなあ。私はとりあえずヴィデオに撮ってあるので、あまり乗り気ではないのですが、近いうちにチェックします。余りにひどいなら雑誌に抗議文を投稿するか。

 ただ、ジャーナリストの草薙厚子氏が、テレビで堂々と「ゲーム脳」を言った(らしい)ことにはやはり戦慄した。草薙氏に関しては、私の「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの」をご参照あれ。

 新たなる問題発言登場…なのかな。

 大竹文雄のブログ:待ち組(大竹文雄氏:大阪大学教授)

 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:待ち組?なんだそりゃ。
 ずいぶん前の話になってしまうのですが、小泉純一郎首相やら猪口邦子氏やらが「待ち組」なる変な言葉使ったことが批判されています。私は基本的に、大竹氏の以下の記述に賛成。

 でも、フリーターやニートの中には好んでそうなっている人もいるのも事実だが、大多数の人たちは、学校卒業時点の就職活動でうまく行かなかった人たちか、うまく行きそうにないとあきらめた人たちだ。あまりにも可能性が低かったり、何度も失敗が続くとやる気を失うのは自然ではないだろうか。就職氷河期に卒業した人たちは努力不足や挑戦しなかったというよりも、運が悪かったというべきだ。そういう人たちに「反省しろ」というのは酷ではないか。

 とりあえず、フリーターや若年無業者に対する、小泉首相や猪口氏の認識の甘さは批判されて然るべきでしょう。このような認識は、所詮はマスコミが面白がって取り上げたがるような、それこそ「働いたら負けかなと思ってる」(笑)に代表されるような「ベタ」な「ニート」像でしかないわけで。責任のある立場の人なのですから、もう少し勉強してください。

 オリンピック開催中ですが。
 ☆こばみ~だす~☆:☆おめでとう☆(小林美佐氏:声優)
 トリノ五輪で、日本勢の初めてのメダルとなったフィギュアスケートの荒川静香選手ですが、私の家で購読している読売新聞の宮城県版では、地方面で荒川氏の特集や荒川氏への応援メッセージが掲載されていたことがある。なぜなのか、と考えていたところ、どうやら荒川氏は東北高校の出身らしい。仙台のメディアが沸き立つのも無理はないか。

 この問題も見逃してはならない。
 保坂展人のどこどこ日記:共謀罪、ふたたび攻防が始まった(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)

 今のところ我が国の政治は所謂「偽造メール」事件で紛糾中です。もちろんこの問題も悪くないのですが、共謀罪とか、少年法の改正とかにも、もう少し興味を持ってもいいのではないか、と思います。

 これからの予告ですが、少々忙しくて更新が停滞していたので、雑誌が大量にたまっております。そのため、「論座」平成18年3月号、「諸君!」平成18年3月号、「世界」平成18年3月号、「中央公論」平成18年2月号と3月号、「ユリイカ」平成18年2月号の「論壇私論」をこれから逐次公開していく予定です。

 最後に、平成18年2月24日付で「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」に投稿されたコメントが、明らかに荒らしだったので削除しました。

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2006年2月 5日 (日)

コメントへの返答・06年02月05日

 平成18年2月5日付で「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」投稿された以下のコメントにお答えします。

筆者へ

あなたはこう書かれていますが、その俗説ではなくどう思われているのですか?お聞かせ下さい。

-------------------------------

蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。

 この疑問に答えるためのポイントは二つあります。

 第一に、児童虐待は本当に深刻化しているのか。

 先ほどの引用文において、私が引用した、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は、《そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》(江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)と、さも最近になって児童虐待が深刻化したかのごとく説明しています。確かに、児童虐待に関して、児童相談所に寄せられる相談の件数は急増しており(野田正彰[2004])、これをもってして「児童虐待の急増」と見なす向きも多い。しかし、ちょっと待ってください。ここで増えたのはあくまでも相談件数であって、従ってこれまで見向きもされなかった虐待、すなわち暗数が明るみになった結果と考えることもできます。

 また、児童虐待は、決して現在だけのものではありません。例えば、評論家の立花隆氏は、昭和41年に発行された『文明の逆説』(講談社)という本(昭和59年に講談社文庫に収録)に収録されている「子殺しの未来学」という文章で、児童虐待を論じています。この時点において、立ち話は、当時頻発していた児童虐待を「先進国型」と「後進国型」に分け、我が国では「先進国型」である、と論じています(立花隆[1984]、31ページ)。また、関西学院大学教授の野田正彰氏は、《私たちの社会は昔から児童虐待をしてきたことを忘れている》(野田、前掲)とし、昔から多くの子供が虐待されてきたことを説いています。

 もう一つ、我が国においては、子殺しは決して増加していません。犯罪白書によれば、子殺しは昭和30年ごろには年間200件ほど起こっていましたが、現在は30件ほどしか起こっていません。見方によっては、死に至らしめるほどの虐待が少なくなっただけだ、という反論もありましょうが、こういう事実を無視するのは余りよろしくないと思います。

 ちなみに前出の立花氏は、「子殺しの未来学」という論考で、育児ノイローゼの深刻化のほかにも、子供たちによる残虐な犯罪、性倒錯の増加、更には「一億総分裂病の危険性」や若年層の人格の未熟さにまで論及しています。はっきりいって立花氏のこの文章は極めて悲観的なのですが、読んでみる限り、立花氏の論及していた事態がより一層深刻化したとは余り思いません。

 第二に、江原氏の論理を支えている、「トラウマ理論」とでも言うべき理論の正当性です。江原氏の《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります》云々というのは、明らかに「トラウマ理論」そのものでしょう。

 この「トラウマ理論」は、大雑把に言えば、子供の頃受けた障害がそのまま直線的に成長した後の障害につながる、と説明しますが、このように、人間の行動に関してある2つの事象を単純に因果関係を結びつけるのは、他の事象を無視した暴論に他なりません。親から虐待を受けた誰もが、自分が親になっても虐待をするわけではないでしょう。人間には可塑性があり、立ち直るチャンスがあります。また、他のケース――例えば育児ストレスとか、あるいは親が元から精神疾患を持っていたとか――も無視してはならないと思います。

 もちろん、子殺しは他の殺人と同様に許されざる行為に他なりません。どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件に比して親が自分の子供を殺した事件のほうが軽い、という認識は断じて許してはなりません。事件の本質は人が人を殺した、というところにあるのですから、それ相応の罰を受け、償いをすべきでしょう。

 また、育児が困難な家庭に関しては、社会的に支援できるような体制作りが必要ですし、地域ごとに互助できるシステムの構築も必要です。また、昨今の事例だけを取り上げて、「今の家庭は堕落している」とし、家庭教育の重要性を喧伝しすぎると、家庭を追い込んでしまうことになりかねませんので、冷静に事実を判断すると共に、社会的なチャンネルを広げて虐待を未然に防止し、おきてしまったことに関してはそれ相応の罰と償いを与えるべきでしょう。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 野田正彰[2004]「児童福祉全体があまりにも貧しすぎる」=「論座」2004年4月号、朝日新聞社
 ウルズラ・ヌーバー、丘沢静也:訳『〈傷つきやすい子ども〉という神話』岩波現代文庫、2005年7月
 大日向雅美『母性愛神話の罠』日本評論社、2000年4月
 立花隆[1984]『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月

 参考サイト
 「「今どきの母親」という神話」(「いんちき」心理学研究所)
 「第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲」(スタンダード 反社会学講座)

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 ※補記(平成18年2月16日)
 この記事に関して以下のようなコメントを頂きました。

はじめまして。
ちょっと気になったのでコメントします。
文意には総じて共感するのですが、「どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件」がひっかかります。宮崎死刑囚のことでしょうか?
先日テレビ番組で、この「ロリコン」の説もなんら根拠なく、裁判官が恣意的に導き出しているものだということが明らかにされていました。

 ここで引用されている私の記述、《どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件》は、所謂「宮崎勤事件」をはじめとする特定の事件を指しているものではないことを説明しておきます。というのも、我が国においては、幼女が被害にあう事件が発生するとすぐさま「ロリコンの殺人」という具合にプロファイリングされますが、ある猟奇的な事件に関しては犯人の特徴をすぐに「特定」してしまうのに、なぜか親による子殺しは、それこそ幼女殺人のように大々的に採り上げられない、という状況に対する皮肉として書いたものです。人が人を殺した、という事件の本質は同じなのに。

 誤解を招いてしまった場合は、ここで謝罪いたします。

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論壇私論:「世界」平成18年2月号

 ベスト:二神能基、森永卓郎「一揆か、逃散か」(司会:山本賢)
 若年層を過剰に「病理」視するという態度は、果たして正しいのだろうか?もちろん、このような問いかけは、「今時の若者」は職業観を持っていなくてだらしのない連中ばかりだから徴兵制とかそれに近い形の訓練をさせるべきだ、という人たちにも当てはまるのだが、「世界」平成18年2月号の特集「現代日本の“気分”」を貫くコンセプトにも当てはまるようにも見える。

 そんな特集の中にあって、一つの光となった記事があった。NPO法人「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏と、エコノミストの森永卓郎氏の対談「一揆か、逃散か」である。その中でも、特に二神氏の発言にはかなり挑戦的で、なおかつ若者論の無責任な言説とは一線を画した、希望に満ちた内容が目立った。

 二神氏は96ページにおいて「スローワーク」という概念を用いている。「スローワーク」とは、二神氏によれば、《自分らしく働いて自分らしい世界をつくり、スローライフを楽しむ》(96ページ)という生き方だそうだ。もちろんこれは《格差ではなく、「選択肢」の問題》(96ページ)であるが。要するに二神氏の望んでいるのは、旧来型の職業観と「スローワーク」の共存である。

 更に二神氏の構想は一つのコミュニティのレヴェルまで広がる。

二神 僕はそこで「雑居福祉村」という構想をうち出しているわけです。子どもから老人まで多世代の人たちがお互いにパラサイトし合いながら楽しく一緒に暮らす新しい街、新しい村をつくろうとしていて、いま全国で取り組みが始まっています。(略)

 お国に期待できなくなったら、お互いに支えあう自衛の仕組みをつくらざるを得ないというのがNPOとしての「ニュースタート事務局」の考え方です。団塊の世代なんかに話すと、彼らは上昇志向が強いから、何か素晴らしいユートピアをつくるのか、といった目で見られますが、そんな難しいことはできません(笑)。

 このような構想は、まさしく二神氏のこだわっている「もう一つの日本」というイメージにつながるのだろう。ある意味では、このようなコミュニティの創造こそが、グローバルな資本主義に抗う平和的な手段の一つなのかもしれない。

 しかしこのような構想が本当に身をもつのかというと微妙である。現にこの対談の中で森永氏は、例えば《どうも金の権力を振り回す人を野放しにする、いやむしろ勢いづけるような政策ばっかり国はやっているじゃないですか》(99~100ページ)などと苦言を呈している。ただ、森永氏も二神氏も、国家ではなくむしろコミュニティに可能性を見出し、希望を見出そうとしている。

 そのほかにも、この対談においては、既存の若者論に対する真っ当な批判も多くある。《おっさん連中から自立しろ、自立しろ、といわれるけれど、その発想が今の息苦しい日本をつくったんじゃないの?という疑問から発している》(二神氏、102ページ)正しい!《「君たちは問題だから再教育してあげますよ」じゃなくて「いま、日本はいろいろな問題で困っているんだ。君たちの力を借りたい」と呼びかければ、若者たちはいっぱい集まってきたと思うんです。発想の転換が必要です。なにかというと教育が悪い、家庭が悪いといいますが、そういう問題ではない。視点を逆転させれば、彼らは非情に貴重な人材なんですよ》(二神氏、102ページ)その通り!

 ただ、これほどまでに質のいい対談であるだけに、《いまの若者は、社会を見る力とか、あるいは社会は変えられるものだといった認識そのものがない。……それは核家族の中で親だけに大事に育てられた彼らの「社会力」の弱さのせいだと思います》(二神氏、98ページ)という物言いはやめて欲しかった。

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 ベター1:矢作弘、服部正弘「市場略奪型ショッピングセンターの規制を」
 昨年9月、久しぶりに盛岡に行ったとき、東北自動車道の盛岡インターチェンジの近くにジャスコがいつの間にか立っていて、似合わねえなぁと思ったのだが、一般に我が国の土地利用規制に関しては、都市の中心ほど規制が厳格で、逆に郊外は甘い。特に幹線道路沿いの土地はかなり甘く、それが種々のロードサイドビジネスの乱立を引き起こしていると考えられる。そんな中、福島県で、「福島県商業まちづくり条例」なる、郊外における大型店出典を規制した条例が制定された。

 現在までの土地利用計画が、果たして人口減少時代にふさわしいのか、という論争は、論壇においてももっとなされてもいいだろう。その点において、この論考は、一つのたたき台となる。

 蛇足だけれども、70ページにおける、《地方で多発する家族虐待/幼児虐殺などの凶悪事件と郊外型SC開発との間に、強い相関関係があることをルポルタージュした本も出ている》というくだりだが、それなんて三浦展『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)?この本、取材も分析も余りに杜撰すぎて、話にならない本なんですけど…(詳しくは「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」を参照されたし)。

 ベター2:鈴木宗男、山口二郎「敗者復活の政治を!」
 それにしても最近の鈴木宗男氏の株の上がりようはすごいよなあ。それはさておき、その鈴木氏が始めた地方政党「新党大地」。対談の前半部分は、鈴木氏の「地方政党」に対する希望が述べられており、興味深い。具体的に言うと《今後はイデオロギーのぶつかり合いよりも、その地域の抱える問題や価値観、あるいは手法の違いが焦点になってくるのではないでしょうか。ですから他にも地域政党は出てきて欲しいし、出てくるべきだと思います》(48ページ)というもの。地方への求心力を失ってしまった小泉自民党の現状にあって、地方政党は果たしてどのような役割を果たすのか。

 ベター3:大澤真幸「政治的思想空間の現在〈前篇〉」
 「多文化主義」に関する論考。〈前篇〉と称されているこの論考においては、多文化主義がグローバル資本主義に極めて適合的であることや、あるいは「物語る権利」への擁護につながること、多様な宗教や生活様式の共存は「私的な趣味のようなものと見なした上で」許容されること、などといった多文化主義に対する批判的考察が成されている。後篇に期待したい。

 ベター4:安田浩一「生コン労組はなぜ弾圧されたか」
 通常に比して水の比率が多いコンクリートを「シャブコン」という。このようなコンクリートは、通常に比して極めて強度が低く、簡単に壊れてしまう。労組がこれの使用を告発したが、この連帯労組に対しては弾圧が加えられた。建設現場における生コン業者の立ち居地の低さなど、構造的な問題を浮き彫りにする。所謂「姉歯問題」と絡んで読んでおきたい。

 ベター5:五十嵐敬喜「世界の潮 耐震強度偽装事件――問われる民間建築確認」
 我が国には元から違反建築物が多く、建築行政は極めて杜撰である。阪神大震災においてもそれが浮き彫りとなった。地震によってそれが浮き彫りとなり、平成10年に建築基準法が改正されて、役所の審査と民間の審査が並立するような独特の検査制度ができる。それが所謂「姉歯事件」における手抜きを行政が確認できなかったと同時に、ここで新設され、手抜きを防止する切り札としての「昼間検査」も役割を起こすことは無かった。

 背景には建設不況があり、「姉歯事件」は「氷山の一角」に過ぎない。のみならず、これは「リフォーム詐欺」とも絡む問題である。

 ワースト:土井隆義「キャラ社会の構造」
 土井氏の『〈非行少年〉の消滅』(信山社)を読んだときは、その論理に時々反撥しながらも土井氏の展開する議論にリアリズムを感じていたのだが、今回はいただけない。分析がきわめて杜撰で表層的、なおかつ冷笑的なのである。とりわけ《若い世代を中心とする有権者たちは、大衆娯楽作品を読むのとほとんど同じ感覚で、この「小泉劇場」を味わい「萌え」ていたのではないだろうか》(114ページ)というくだりに関しては、その「小泉劇場」なるものを演出したマスコミや、あるいは政治的選択肢の乏しさは無視ですか、と疑ってしまう。《自分の人生の行方とは関係ないのだから心置きなくゲームに興じることができるし、もしそうなら権力に暴走してもらったほうがむしろ気分も盛り上がるというものである。これこそが、「下流」に位置するとされる若者たちが「小泉劇場」に期待し、セレブ候補者たちに送ったエールの意味である》(117ページ)というのもほとんど暴論。だったら若年層をひたすら病理視し、危険視する若者論という名のカーニヴァルも批判せよ。そもそも現状肯定的な傾向とはそんなに危険なのか?ベストに取り上げた二神能基氏と森永卓郎氏の対談でも読んで出直すべし。

 ただし《獲得的属性よりも生得的属性に重きを置いた宿命主義的な人生観が浸透しつつある》(115ページ)という危惧にだけは同意する。これは最近横行している(若者論としての)ナショナリズムやスピリチュアリズムを考える上で避けては通れない問題だ。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

 今回のトラックバック:赤木智弘/木村剛/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/渋井哲也/芹沢一也/「S氏の時事問題」/「ヤースのへんしん」/「読売新聞の社説はどうなの・・2」/保坂展人/「topics:JournalistCourse」

 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?

 いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。

 まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。

 てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
 社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
 S氏の時事問題:門限は7時まで?
 ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例

 ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。

 昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。

 青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。

 「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。

 我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。

 あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。

読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
 まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。

保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
 大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
 ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。

 生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。

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