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2006年2月 5日 (日)

コメントへの返答・06年02月05日

 平成18年2月5日付で「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」投稿された以下のコメントにお答えします。

筆者へ

あなたはこう書かれていますが、その俗説ではなくどう思われているのですか?お聞かせ下さい。

-------------------------------

蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。

 この疑問に答えるためのポイントは二つあります。

 第一に、児童虐待は本当に深刻化しているのか。

 先ほどの引用文において、私が引用した、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は、《そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》(江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)と、さも最近になって児童虐待が深刻化したかのごとく説明しています。確かに、児童虐待に関して、児童相談所に寄せられる相談の件数は急増しており(野田正彰[2004])、これをもってして「児童虐待の急増」と見なす向きも多い。しかし、ちょっと待ってください。ここで増えたのはあくまでも相談件数であって、従ってこれまで見向きもされなかった虐待、すなわち暗数が明るみになった結果と考えることもできます。

 また、児童虐待は、決して現在だけのものではありません。例えば、評論家の立花隆氏は、昭和41年に発行された『文明の逆説』(講談社)という本(昭和59年に講談社文庫に収録)に収録されている「子殺しの未来学」という文章で、児童虐待を論じています。この時点において、立ち話は、当時頻発していた児童虐待を「先進国型」と「後進国型」に分け、我が国では「先進国型」である、と論じています(立花隆[1984]、31ページ)。また、関西学院大学教授の野田正彰氏は、《私たちの社会は昔から児童虐待をしてきたことを忘れている》(野田、前掲)とし、昔から多くの子供が虐待されてきたことを説いています。

 もう一つ、我が国においては、子殺しは決して増加していません。犯罪白書によれば、子殺しは昭和30年ごろには年間200件ほど起こっていましたが、現在は30件ほどしか起こっていません。見方によっては、死に至らしめるほどの虐待が少なくなっただけだ、という反論もありましょうが、こういう事実を無視するのは余りよろしくないと思います。

 ちなみに前出の立花氏は、「子殺しの未来学」という論考で、育児ノイローゼの深刻化のほかにも、子供たちによる残虐な犯罪、性倒錯の増加、更には「一億総分裂病の危険性」や若年層の人格の未熟さにまで論及しています。はっきりいって立花氏のこの文章は極めて悲観的なのですが、読んでみる限り、立花氏の論及していた事態がより一層深刻化したとは余り思いません。

 第二に、江原氏の論理を支えている、「トラウマ理論」とでも言うべき理論の正当性です。江原氏の《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります》云々というのは、明らかに「トラウマ理論」そのものでしょう。

 この「トラウマ理論」は、大雑把に言えば、子供の頃受けた障害がそのまま直線的に成長した後の障害につながる、と説明しますが、このように、人間の行動に関してある2つの事象を単純に因果関係を結びつけるのは、他の事象を無視した暴論に他なりません。親から虐待を受けた誰もが、自分が親になっても虐待をするわけではないでしょう。人間には可塑性があり、立ち直るチャンスがあります。また、他のケース――例えば育児ストレスとか、あるいは親が元から精神疾患を持っていたとか――も無視してはならないと思います。

 もちろん、子殺しは他の殺人と同様に許されざる行為に他なりません。どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件に比して親が自分の子供を殺した事件のほうが軽い、という認識は断じて許してはなりません。事件の本質は人が人を殺した、というところにあるのですから、それ相応の罰を受け、償いをすべきでしょう。

 また、育児が困難な家庭に関しては、社会的に支援できるような体制作りが必要ですし、地域ごとに互助できるシステムの構築も必要です。また、昨今の事例だけを取り上げて、「今の家庭は堕落している」とし、家庭教育の重要性を喧伝しすぎると、家庭を追い込んでしまうことになりかねませんので、冷静に事実を判断すると共に、社会的なチャンネルを広げて虐待を未然に防止し、おきてしまったことに関してはそれ相応の罰と償いを与えるべきでしょう。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 野田正彰[2004]「児童福祉全体があまりにも貧しすぎる」=「論座」2004年4月号、朝日新聞社
 ウルズラ・ヌーバー、丘沢静也:訳『〈傷つきやすい子ども〉という神話』岩波現代文庫、2005年7月
 大日向雅美『母性愛神話の罠』日本評論社、2000年4月
 立花隆[1984]『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月

 参考サイト
 「「今どきの母親」という神話」(「いんちき」心理学研究所)
 「第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲」(スタンダード 反社会学講座)

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 ※補記(平成18年2月16日)
 この記事に関して以下のようなコメントを頂きました。

はじめまして。
ちょっと気になったのでコメントします。
文意には総じて共感するのですが、「どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件」がひっかかります。宮崎死刑囚のことでしょうか?
先日テレビ番組で、この「ロリコン」の説もなんら根拠なく、裁判官が恣意的に導き出しているものだということが明らかにされていました。

 ここで引用されている私の記述、《どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件》は、所謂「宮崎勤事件」をはじめとする特定の事件を指しているものではないことを説明しておきます。というのも、我が国においては、幼女が被害にあう事件が発生するとすぐさま「ロリコンの殺人」という具合にプロファイリングされますが、ある猟奇的な事件に関しては犯人の特徴をすぐに「特定」してしまうのに、なぜか親による子殺しは、それこそ幼女殺人のように大々的に採り上げられない、という状況に対する皮肉として書いたものです。人が人を殺した、という事件の本質は同じなのに。

 誤解を招いてしまった場合は、ここで謝罪いたします。

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コメント

こんにちは はじめまして

過日、えこまさんのサイトからこちらを知り、mixiの足跡を通って、こちらに来ました。今回質問された「K」さんとは別人です。 ^_^U (安易なHNでなんだかすいません。)

 H13年の都の統計で、「虐待の世代間連鎖」も検証してます。
 結果、子どもを虐待する親自身が必ずしも虐待された子どもだったわけではない、という資料になっていると思います。
 ↓
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/press_reles/2001/pr1005.htm#top

「虐待の連鎖」はとてもわかりやすい因果関係ですが、実際には、子どもを虐待する親の中には、自分が子どものとき虐待されたことのある人も、なかにはいる、くらいに言うべき数ではないかと。経済的要因や他の要因が大きいと思います。
 (虐待のニュースがTVで流れると「虐待された子どもは将来虐待する親になります。」としたり顔で言うコメンテーターがいるのは困る。将来の因果関係が立証されてるわけではない)

蛇足/上の俗説とはまったく別の問題として、乳児院や児童養護施設については、(短期入所を除き)問題があると思ってます <(_ _)>

投稿: k | 2006年2月 6日 (月) 21時55分

はじめまして。
ちょっと気になったのでコメントします。
文意には総じて共感するのですが、「どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件」がひっかかります。宮崎死刑囚のことでしょうか?
先日テレビ番組で、この「ロリコン」の説もなんら根拠なく、裁判官が恣意的に導き出しているものだということが明らかにされていました。

投稿: ske | 2006年2月16日 (木) 03時21分

どうも。
精神科医・斎藤学(たまきじゃありません。念のため)の著書およびMSNの連載より。
虐待を受けて育った子供が親になると虐待を行う側になる可能性が高い、という事実はありますが、これらは境界性人格障害や解離性障害(多重人格など)などで現れてくる場合もあります。無論問題が起こらない場合もあるので、江原某や勉強不足のレポーターが言うように全員がそうなるわけではありません。おそらく「暗数」が大きいであろう虐待行為を行った者に対する厳しい刑事罰こそがこの問題には必要で、かつそれで十分。トラウマ理論を振りかざす行為は採るべき社会的施策の整備を遅延させる、有害極まりない行為であると思います。

投稿: Lenazo | 2006年2月16日 (木) 09時25分

 虐待連鎖を分析するのは不可能です。昔は児童虐待の厳密な概念自体が誕生していないからです。 戦前の日本社会では、体罰と虐待の区別が未分化だったと思います。というよりも、児童虐待という概念そのものが機能するのは、成熟社会に入ってからです。戦前の日本社会における体罰は、現代社会の視点からすると、児童虐待に当たるかもしれません。しかし、そもそも、全ての時代や社会を通じて児童虐待なるものを定義することは困難です。社会構築主義的には、成熟社会に入って「児童虐待」という概念は結実化したと言えます。
 具体的に言うと、専門機関(児童相談所)の判定によって、「児童虐待」はつくられるものです。専門機関の知識体系がある現象や行為に対して虐待というレッテルを貼り、社会問題化します。日本社会の専門機関の知識体系は、全て欧米先進国の心理学から輸入されます。ニート概念が輸入されたのと同様です。児童虐待の厳密な概念も、全て欧米の学問的知識の輸入が先に有り、それがレッテルになり、社会的につくられたものです。実体はありません。昔は躾だった行為が今では虐待です。
 ストーカー、DV、トラウマ、アダルトチルドレン、ロリータコンプレックス、モラルハラスメント、セクハラなど、全てニート概念と同様です。実体はありません。定義があるだけです。社会構築主義的には、言葉とそれにまつわるコミュニケーションが社会問題や病理的人格類型をつくります。若者論というよりも、これらの欧米の心理学の知識体系によって社会問題をつくられるという視点に興味有ります。 
 参考文献・・・「社会構築主義のスペクトラム」
 (私は、ラディカル構築主義者です。)

投稿: 露庵 | 2006年2月19日 (日) 23時20分

>露庵様

あなたはラディカル構築主義者を標榜なさってますが、そのわりには上のエントリでは、「犯罪被害者」に、失礼ながら極めて安易に同調なさっています。
「犯罪被害者」というカテゴライズもまたあなたがこのコメントであげられている、「ストーカー、DV、トラウマ」と同様に、「実体」はなく、「定義
」のみがあるだけではないでしょうか?(この場を借りて言わせてもらえば、あなたは「犯罪被害者の会」に行って「その怒りはすごいです。少年犯罪に厳罰化を望むのも無理はないと思います。」とおっしゃってますが、実際問題、犯罪被害者といっても、悲嘆の内容、そして加害者に対する思いは十人一色はありません。そのことを私は実際に少年犯罪にあった被害者の手記から学びました)「犯罪被害者」に対する、社会構築主義的な検証は
なさらないのでしょうか?欧米の心理学の知識体系には批判的でも、国内の現象には同調すると言うことなのでしょうか?
大変失礼なコメントをさせていただきましたが、あえてあなたのスタンスについて疑問を感じたので以上のような問いかけをさせていただきました

投稿: 匿名 | 2006年2月26日 (日) 12時18分

コメントありがとうございます。
 
 犯罪被害者の感情も多様であり、怒りの感情だけではないのは承知しております。例えば、犯罪にあったのは自分の責任もあると、逆に罪悪感を感じておられる方もいます。犯罪の内容によって、被害者感情は異なってきます。
 
 被害者感情がどのようにしてつくられるのかが大切です。その過程で、重要な要素は、犯罪内容、被害の軽重、警察の調書、検察官の調査、加害者側の対応、保険会社の対応、マスコミの対応、地域住民の対応、裁判官の対応、刑罰の軽重などです。これらの要素の変数として、被害者感情が社会的につくられます。
 
 犯罪被害者の会の方が怒っておられるのは、主に司法過程での対応、加害者あるいはその弁護士の対応に問題があるからです。裁判では、意地悪い弁護士が被害者の落ち度をあげつらいます。それが二次被害になります。これらの要素が被害者感情の悪化を煽っていることになります。あとは、マスコミによる被害者のプライバシー侵害なども、二次被害となります。また、地域住民が被害者を攻撃するという現象もあります。
 
 被害者と加害者の関係に、上記のような諸要素が介在され、被害者感情をつくります。さらに、被害者感情を国民が観察することで、世論としての応報感情がつくられます。
 
 司法過程で排除され、加害者の誠実な対応がなかった被害者たちが準拠する区別で観察すると、犯罪被害者の気持ちは理解できるということです。もし自分がその立場だったらやはり怒りを感じると思います。加害者の更生を願っている被害者もいるでしょうが、色々な被害者のうちから司法過程で排除され、加害者の誠実な対応がなかった被害者たちのみが被害者の代表として、マスコミや学者が選出するのは、人権や弱者というコードからです。マスコミや学者は人権や弱者というコードに準拠して、社会問題をつくりだす傾向にあります。従って、他の被害者たちの感情はあまり選択されません。(人権保護/人権非保護)(法的弱者/法的強者)という区別に準拠し、特定の種類の被害者感情がマークされるわけです。(加害者よりも被害者の権利が保護されてこなかったという意味です。)

 被害者感情の世論による観察こそが、実は問題なんです。どのようなコードに基づいて被害者感情を観察するのかです。立場によって、色々な区別によって観察されていますが、やはり道徳コードによる観察によって反応されている人々が多いと思います。(善/悪)という区別で反応し、被害者を苦しめた分だけ罰を受けるべきであり、刑が軽すぎるという怒りの道徳感情です。このような世論を、評論家や学者が社会問題として定式化します。また、それがマスコミを通じて世論の形成に影響を与えます。その結果、一つの社会問題ができあがります。
 国家は、マスコミや俗流学者たちに先導された世論つまり社会問題を観察し、社会防衛や秩序維持というコードに基づいて、政策を打ち出してきます。ちなみに、行政機関の社会問題の観察は、社会調査法の手法によって実施されます。統計的データのみが科学的だと思い込まれているからです。
 第一次観察である(被害者/加害者)という区別は、様々な立場から別の区別で二次観察にさらされ、国家の観察を経て一つの政策となり、はじめて権力による拘束性が生じてきます。

 私のスタンスは、いかような区別からでも事象は観察可能であるとする相対主義です。(一貫性/一貫性がない)という区別は選択していません。この複雑な成熟社会を観察するのに、そういう古典的なスタンスでは不適切だからです。従って、場合によっては、犯罪被害者による区別に基づいて同調することもありえます。どのような区別が適切であるかは、その区別に準拠するコミュニケーションがどのように連接していくかにかかわっているだけです。

投稿: 露庵 | 2006年3月13日 (月) 11時11分

>露庵さん
読んでいないので、「社会構築主義のスペクトラム」がどういう内容であるか分からないのですが、

>しかし、そもそも、全ての時代や社会を通じて児童虐待なるものを定義することは困難です。社会構築主義的には、成熟社会に入って「児童虐待」という概念は結実化したと言えます

という物言い自体が、非社会構築的ではないかと感じました。子供を社会的な存在に作り上げるという考え方が自明であるのは、社会的に共有された「真理」があるという前提に立ってのことで、そこにはキリストであれ、ギリシャであれ、なにか宗教的なものの名残があります。

そして「児童虐待」という概念があとから構築されたものだとしても、それは基本的人権、や個人の財産権、あるいは性的人権などの観念が時代を追うごとに次第に変化してきた結果、現在の使い方になっているのです。 そして、過去の虐待の暗数を量ることが実際的に不可能であるとしても、現在の基本的人権の立場から、過去の人々の行いを評価することはまったく問題ありません。

これは、実際的な問題として一般化すれば分かり易いかと思います。 たとえば、カトリック教会内における「児童虐待」の暗数は極めて多いと言われていますが、カトリック教会の過去の行いから様々な問題点を起こしていって、なんとしても暗数を明るみに出して、問題を改善する必要があるのは言うまでもありません。
もう一つ例を出すと、日本の新聞・出版社が行政の圧力を極めて受けやすい現状にありますが、それは1930~40年代の統制経済時代の制度が今だに下敷きにあることに大きな原因があります。もちろん、これは当時の道徳や公益の考え方を引きずっています。 そして、現在の個人主義の観点や企業倫理から、こうした立場・制度の時代錯誤や不利益、あるいは制度作成者がいかに非文明的な人間であったかを非難することは、ナンセンスではありません。 こういう場面では、相対主義的に妥協する必要などはなからないし、新しく問題点を作成するることはただ妥当性が問題なのです。

投稿: ねーと | 2006年3月13日 (月) 15時53分

あと、

>また、地域住民が被害者を攻撃するという現象もあります。

というのは、まさに「私たちの社会では、あなたの受けた被害を、刑事事件として騒ぎ立てるものとは定義しない」 という同調圧力とともに行われるのではないでしょうか?

投稿: ねーと | 2006年3月13日 (月) 16時05分

トラックバックなんか飛ばしてないで、なんか答えてくださいな。

投稿: ねーと | 2006年3月15日 (水) 11時23分

 こんばんは 露庵です。
 「社会構築主義のスペクトラム」の第9章に「児童虐待事例の構成」という章があります。ここでは、児童相談所の専門家が、記述のテクニックと解釈モードの選択によって、一つのケースを児童虐待事例につくるあげる過程が分析されています。

 (子供/大人)の区別について言えば、アリエスの「子供の誕生」という書物で明かされていますが、西洋中世までは子供は「小さな大人」として扱われてきたようです。近代的な意味での子供、つまり教育の対象となる子供は、近代社会の産物です。子供と言う記号が同じだからと言って、同一の意味内容をもつとは限りません。そもそも、何歳から大人になるのか、それ自体、時代や社会によって異なります。これと同じように、児童虐待と言いましても、同一の意味内容をもつとは限りません。例えば、過去の社会の文献において、12才の男性が虐待を受けている事例をみつけても、その社会が12才を大人だと定義しておれば、児童虐待と短絡的に考えることは困難です。例えば、その男性が奴隷の場合、むしろ身分による社会階層の問題として捉えたほうが適切です。普遍的な児童虐待を定義することが困難であるという意味は理解していただけたと思います。
 カトリック教会内の児童虐待について述べられていますが、これも成熟社会における児童虐待とは、その意味内容は異なると考えられます。そもそも虐待は誰が定義するのか、子供自身でしょうか? 児童虐待を児童虐待であると定義する主体も、自己言及的に児童虐待の定義に含まれます。というのは、成熟社会における児童虐待は、児童相談所の診断を経たということ自体が含まれているからです。児童相談所の診断を経ないと、児童虐待だと社会的に言えません。従って、児童相談所のない時代や社会は、児童相談所の診断を経ていない虐待なので、成熟社会における児童虐待とは意味内容が社会的に異なります。

 一つの行為を解釈するのに、その行為の置かれている社会的文脈から切り離して、基本的人権という画一的な視点から解釈するのは危険だと思います。例えば、人を殴ったという行為を観察する場合、その行為だけをとりあげれば、違法行為です。しかし、それがボクシングの試合だったらどうでしょうか? 非難されるような違法行為になりません。そのように、社会的文脈から切り離して、行為だけを評価するのは、不適切だと思います。
 わたしはカトリック教会内の児童虐待についてあまりよく知りませんが、その行為がどのような当時の社会的文脈でなされたか解釈し、その上で、現在の児童相談所が設けている虐待の規準をあてはめてみるのなら、確かに多少は意義はあるかもしれません。
 ただし、あなたがいう人権という言葉も記号であり、人権という記号を巡ってコミュニケーションが重ねられ、たえずその意味内容は変化していくものであり、人権そのものを普遍的に定義することもできません。現代社会の人権概念が妥当なものとは限りません。
 それはともかく、歴史的文脈や社会的文脈を無視して、ある一つの出来事や行為だけを取り出して観察することは可能でしょうが、それではかなり空虚な議論に終わってしまいそうです。


投稿: 露庵 | 2006年3月17日 (金) 02時33分

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