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2006年3月28日 (火)

論壇私論:「論座」平成18年4月号

 ベスト:五十嵐太郎「日本橋の首都高は醜いのか」
 小泉純一郎首相は、平成17年末、日本橋の首都高を移設し、日本橋周辺の「景観」を取り戻す、という目的での有識者懇談会を発足させた。それに呼応して、例えば朝日新聞の投書欄などでもその動きに賛同し、あるいは現在の「日本橋の首都高」を高度経済成長の「負の遺産」――つまり、戦後日本はこんなに醜いものを作ってきたのだ、という意味での――として保存すべきだ、という意見が出るようになった。とはいえ日本橋周辺の「景観」に関するアイデアコンペは平成16年から始まっていた。また、平成15年7月に国土交通省が発表した「美しい国づくり政策大綱」においては、例えば《美しさは心のあり様とも深く結びついている。私達は、社会資本の整備を目的でなく手段であることをはっきり認識していたか?、量的充足を追及するあまり、質の面でおろそかな部分がなかったか?、……国土交通省は、この国を魅力ある国にするために、……行政の方向を美しい国づくりに向けて大きく舵を切ることとした》などと高らかにうたわれている。

 しかし、このような言説を易々と受け入れていいものであろうか。五十嵐太郎氏(東北大学助教授)はそこに疑問を挟む。曰く、《なんの恥じらいもなく、「美しい」と堂々と言い切ってしまう言説に、筆者は真っ先に気持ち悪さを感じてしまう。例えば、正義を掲げて戦争を続ける国家、健康を賞賛しながら病気の概念を拡大していく医療行政、あるいは安全な社会をめざして監視と排除に向かう社会と似ていないだろうか》と。しかし五十嵐氏の疑問は、このような心情的なものに終わるものではない。

 第一に、これは隠れたハコモノ行政ではないか、ということ。また、電線さえなくなれば街が美しくなるということは一様に言えないように、日本橋をそのまま撤去しても街が美しくなるのも安易な考えに過ぎない。ある記号的な存在だけを排除しても、景観がよくなるはずはない。そもそもこの「日本橋の首都高」の撤去案は、周辺の高層ビルについて全く考慮されていない。第二に、いつの時代のどのような風景をもってして「本来の日本橋」というのか。そもそも現在の日本橋は明治46年(1911年)に竣工された、ヨーロッパの様式を模倣したものである。そして、首都高は本当に醜いのだろうか。そもそも撤去・移設論は、「日本橋の首都高は醜い」という意見ばかりが先行して、本当に醜いのか、という観点に関しては問われない。

 私は実を言うと昨年の秋頃に、日本橋を見に行ったことがある。首都高から出る騒音が気になったけれども、今思ってみれば、なるほど五十嵐氏の意見はもっともで、首都高だけを問題化しても景観が良くなるわけではない。景観というものは、単に「醜い景観」をバッシングして、「醜い景観」を生み出す(とされる)「記号」だけを排除すればいいというわけではない。この文章を読んで、私は大学2年のときに受けた環境学の授業での小さな衝撃を思い出した。「美しい景観」と「醜い景観」をテーマにレポートを書いてこい、というテーマで、「美しい景観」として電線の張り巡らされた景観を採り上げたレポートが授業担当の教授によって読まれたときである。そのレポートに曰く、このような乱雑な景観にこそ美しさが存在する可能性もある、と。当時ある種の「景観幻想」に見舞われていた私にとっては、深く考えざるを得ないものだった。

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 ベター1:芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読む・case1 「誰が殺したのか」から「どうやって守るか」へ――宮崎勤事件の〈前〉と〈後〉」
 『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)の著者、芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)による注目の新連載!3ヶ月に1度掲載されるようだ。

 第1回では「理解できない」犯罪を消費する社会を分析。いわゆる「宮崎勤事件」の際は、確かにその「不可解さ」が話題となり、事件が――過去にも「不可解な」事件の例はいくらでもあったにもかかわらず――時代を象徴するかのごとき語り口がなされたが、それは好奇心の領域にとどまっていた。しかし平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、犯罪者どころか少年全体が「怪物」であるかのように捉えられ、性犯罪者に関してもセキュリティーを強化するための脅威として用いられるようになった。

 ベター2:東浩紀「潮流06 防犯カメラは住宅地に必要なのか」
 住宅地への防犯カメラの導入に批判する論考。特に監視の目的に関する議論は必読だろう。例えば《空港や地下鉄、繁華街などで監視が必要なのは、そこが誰にでも開かれた匿名的な空間で、通行人の招待をいちいち確認できない》。つまりここでは空間の公共性を保つために監視が導入されており、またそのようになされるべきである。それに対し住宅地や通学路は、必ずしも完全に開放された公共空間とは言いがたく、そのような空間で監視を導入してしまうと、《不気味な人間を許容するどころか、むしろ逆の傾向を強めかねない》ことになる。

 《電子的な監視は、記録や検索可能性の点で、人間の監視よりもはるかに強力である。だからこそ、その導入には理念が求められる》というメッセージは重い。

 ベター3:森千香子「悪夢の「癒し」に代わるもの」
 現在ブームになっている「癒し」とは結局のところ、苦痛から一時的に逃亡するだけのもの、すなわち「問題回避」に過ぎない。著者はその象徴として「女性専用車両」を挙げる――《「女性専用車両」という発想が、女性を「潜在的に痴漢になりうる男性」から隔離しただけ》という指摘には大いに賛同できるが、著者の男性に対するいささか嫌悪的な見方が少々問題ではないか――が、それよりも最後の2ページでなされる議論のほうが興味深い。曰く、

 「消極的快諾」を通して、上から押し付けられた規範を次第に内面化し、結果的に自分のものとしてしまうこと。大メディアが発信する言説、つまり「支配者側」の言説を、知らず知らずのうちに客観的な事実や真実と同一視してしまうこと。「現状」が今の状態以外でもありうるかもしれない、つまり「もしかしたら別の可能性もある」と問いをたてること事態を封印し、「運命」として引き受け、回避不可能な「地震」のごとく受け入れてしまうこと。このように「現状」を「変更不可能である」と自明視する姿勢の根底には、社会的事象を自然的事象のように扱う社会認識がある。
 そして、痛みの原因を突きとめるのを放棄した人々は、一時的に痛みを緩和し、忘れ、慰められることをひたすら臨むようになる。すなわち日本社会に繁殖し続ける「癒し」とは、私たちの苦痛の「根源」をすっぽりと覆い隠す「優しさ」の別称なのである。この意味での「優しさ」は、支配の暴力を覆い隠し、問題の所在を見えにくくして、結果的には支配的価値観に同化する「沈黙」をうながす装置として機能するかのようだ。

 俗流若者論とか、そうだよね。

 ベター4:貴戸理恵「「生きづらい私」とつながる「生きづらい誰か」」
 『「ニート」って言うな!』の私の文章を読んだ人はわかると思うが、件の本の冒頭において私は自らの「生きづらさ」の体験――高校1年の時分、自分が犯罪者として見られているのではないか、と恐怖に脅えていたこと――を語っている。これは明らかに「当事者の語り」である。この論考においてはそのような「当事者の語り」の限界と可能性が仔細に論じられている。結論部分とそれに近い部分の、《一人称単数の「私の語り」》が《他の誰かの生きづらさ》とつながっていくことの可能性が述べられた部分は興味深い。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部・第6談 ケンカの覚悟と真の「品格」を求む!」
 「国家の品格」論に対する批判は見事。《頭の悪い伝統主義者や事象「愛国」政治化がまたぞろ、この種の事件を悪用して言論統制や復古調教育を唱導している》(宮崎)、《彼(筆者注:藤原正彦氏)が西洋化によって失われつつあると嘆く「国柄」だって、江戸時代に本居宣長から「日本古来の思想をゆがめた」と避難された外来思想の儒教にもとづく》(川端)。あと、いわゆる「一夫多妻男」が何度も面白おかしく採り上げられる状況って、確かに嫌気がさすよね。

 ワースト:荷宮和子「「象徴」などいらない」(特集「女性のための皇室お世継ぎ問題」)
 いつも思うけれど、荷宮氏の文章というものは他人を見下すことに目的がおかれているという気がしてならない。この文章も自分を高みにおいた単なる愚痴でしかない。あと、ここは「論座」なのだから、《(藁)》みたいな2ch的表現はやめてくれ!

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2006年3月11日 (土)

罪人よ、汝の名は「若者」なり――平成18年2月15日TBS「緊急大激論SP2006!」への疑問

 この文章は、ある雑誌に投稿して、番組の性格上載せることができない(シリーズではなく単発の番組なので、定量的な検証ができない、ということ)、とその雑誌の編集部から連絡をいただいたもので、従ってここで公開することとします。この文章は、平成18年2月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”全国民に喝!」を批判したものです。

 公開に当たって、以下のブログにトラックバックを送っておきます。

 この番組を直接採り上げたブログ:
 あなたの子どもを加害者にしないために:「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”」(TBS)(中尾英司氏)
 さびしんぼうのブログ♪:緊急大激論スペシャル@TBSテレビ
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!
 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 私がお世話になっているブログで、青少年問題について触れたエントリー
 女子リベ:どう少年が包囲されていくのか?(安原宏美氏:フリー編集者)
 社会と権力 研究の余白に:生命と統計 少年法改正をめぐって(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)

――――――――――――――――――――

 ※番組内の発言の文字起こしに関しては、全て筆者(後藤)に文責があるものとする

 このような番組を放映して、一体TBSは何をしたいのだろう――それが、私が平成18年2月15日に放送された、特別番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!!」を見ての私の感想だ。この番組は、全体的に現代の若年層に対する否定的なトーンと、「大激論」という名を冠しているにもかかわらず、一方的な意見の応酬だけで貫かれており、単に出場者の、自分の「善」のイメージの露出合戦に過ぎない番組であった。

 TBSのウェブサイトによると、この番組のコンセプトは以下のとおりであるという。

 社会、学校、家庭……。今、子供たちを取り巻く環境で、様々な問題が山積みしている日本。

 この番組では緊急大激論スペシャルと題し、子育てや教育問題を徹底的に話し合い誰がこんな日本にしてしまったのか? これから日本は子供たちにとってどうしていくべきなのか?追求していく。
http://www.tbs.co.jp/program/kodomotachi_20060215.html

 などと綴られているが、実際にこの番組で行なわれたのは、単なる若年層に対するネガティブ・キャンペーン、すなわち現代の子供たちや若年層に対する不安を煽り、彼らは怖い、社会の害悪だ、どうすれば彼らに対処して自らにとって住みやすい社会になるか、ということが延々と語られただけである。

 司会者は草野仁、えなりかずき、海保知里の3氏で、出演者は、勝俣州和(タレント)、草薙厚子(ジャーナリスト)、田嶋陽子(元国会議員)、松居一代(女優)、RIKACO(タレント)、やくみつる(漫画家)、山下真司(俳優)と、「本気の大人たち」として伴茂樹(青少年育成クラブ主宰)、菱田慶文(スクールパートナー)、吉川英治(明大前ピースメーカーズ主宰)、小嶋映治(叱る大人の会代表)、原田隆史(天理大学非常勤講師、東京・大阪教師塾塾頭)、喜入克(高校教師)、今村克彦(小学校教師、関西京都今村組代表)、杉浦昌子(NPOアイメンタルスクール主宰)、廣中邦充(浄土宗西居院僧侶)の9氏である。

 1・番組構成の各部に関する疑問
 ウェブサイトによれば、この番組の構成は次のとおりである。

 番組では公共でのマナーやルールに対する若者のモラルについての「社会秩序崩壊編」、校内暴力や不登校の増加問題についての「学校崩壊編」、親が子供を、子供が親を殺してしまうような衝撃事件の増加に象徴される現在の家庭問題についての「家庭崩壊編」と3つのテーマで話し合いを行う。(前掲TBSウェブサイト)

 と書かれているが、この番組が若年層に対する不安扇動を目的としていることを私が確認するまでは、開始から30分もかからなかった。この番組は、第1部が「社会秩序崩壊編」、第2部が「家庭崩壊編」、第3部が「学校崩壊編」となっているが、第2部と第3部はもっぱら「本気の大人たち」として出演している人々の体験談が主であり、スタジオにおける「大激論」に関しては、その時間の大半を第1部が占める。その第1部において何が議論されたのであろうか。

 オープニングの後、第1部の問題提起として映されたVTRについて説明しよう。このVTRは、平成15年に実際に起こった事件を基に構成されている。その事件が、電車に乗ってきた、ヘッドフォンから音を漏らしている若い人に対して、ある中年のサラリーマンが注意した。ところがその若年は、近くにいた警察官に「酔っ払いが絡んでくる」といって、逆に自分を正当化した、というものである。

 まずここで疑問が浮かぶはずだ。このような若年は、果たして現代の若年層に典型的なものなのだろうか、と。しかしそのような疑問をすっ飛ばして、この「大激論」は、現代の若年層がさも件の若年の如く、自分を正当化することにだけは長けているのに、他人の迷惑はちっとも顧みない、というイメージで語られる(注1、2)。

 それだけではなく、この後の「大激論」においては、若年層に対する偏ったイメージが頻出する。このVTRの直後の、勝股州和氏の発言を引いてみよう。

草野「勝股さん、目撃したりしたことはあると思うのですが、(勝股:「ハイ」)もしあの場にいたらどうします?」

勝股「ビシッ、といいたいですけれども、怖いですね」

スタジオ笑う。

勝股「今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか」

 勝股氏の語っているのは、単に報道で喧伝されるイメージを超えていないのであるが、この程度のステレオタイプはまだ甘いほうで、そのほかにも若年層をあからさまに蔑視した発言が頻出する。その中でももっとも問題を多く含んでいるのが、杉浦昌子氏と草薙厚子氏の以下のような発言である。

草野「杉浦さんはどうですか?先ほどのニュース」

杉浦「うーん。私は、生徒にはね、車両の中にそういう子がいたら、避けるようにと。私は日々子供と接してて、ちょっと感覚がゲーム感覚、ちょっとリセットしてもまた生まれ変わるんだ、ってしか考えないから、言っても無駄な人には、無駄なような気もするんですよ」

草薙「ゲームの感覚っておっしゃりましたけれども、その通りで、ゲームを長い時間やるじゃないですか。で、それがもう研究の結果出ているんですね。その世界だけなんです(えなり他「ゲーム脳」)そう、ゲーム脳と言われているんですけれども、前頭葉の前頭前野の血流が悪くなる。でその前頭前野というのが、羞恥心とか、理性とか、ここでみんなコントロールしている」

えなり「自分の感情を抑える所って言いますよね」

 「ゲーム脳」や、「前頭前野」などといった、草薙氏の振りかざしている論理は、既に学問的には論破されている点が多く(注3)、議論として成立したものではない。それにもかかわらず草薙氏がそのような理論を堂々と持ち出す、というところに、現代の我が国の青少年ジャーナリズムの暗黒面が垣間見えるし、杉浦氏の発言にもまた、「ゲーム感覚」などという、現代の青少年はゲームのせいでおかしくなったのだ、と言わんばかりの表現が出ている。だがもっとも問題なのは、草薙氏や杉浦氏の発言に対して、誰も制止する人がいないことである。特に「ゲーム脳」が疑似科学であることは、既に良心的な物書きであれば知っているはずだ。

 このような構成からもわかるとおり、この番組は、まず第1部において、現代の若年層がいかに「悪」であるか、ということが喧伝される。もちろん、先の勝股氏や草薙氏、及び杉浦氏に限らず、問題のある発言は多いし、それらの発言に対する反証も、今やかなり出揃っている状態である(注4)。しかし、それらが無視されるのは、やはりこの番組においては、定量的な議論よりも、「若年層=悪」というイメージ(あるいはこの番組の前提)を正当化するための「物語」であり、それゆえ出演者も、若年層の「悪」に立ち向かう「善」という図式が強調されるのだろう。

 更にこの番組を引き立てているのが、各部の最後に挿入される(従って合計3回挿入されたこととなる)、司会者の一人である草野仁氏と、石原慎太郎・東京都知事との対談である。草野氏の発言も、また石原氏の発言も、単に巷で流布しているイメージや自らの狭い体験だけに基づいている、空疎な「憂国」話でしかない。だが、この対談映像の中には、テレビ「ならでは」の演出が施され、この番組を盛り上げるのには絶好のものとなっている。例を示してみよう。

草野「一番知事にお伺いしたかったのは、今の若者たち、社会規範を破っても平然としている、マナーを守らない、そういう傾向の若者たちが増えている、というのは結構事実ですね。その若者たちを、知事はどういう風にご覧になっていますか?」

石原慎太郎「家庭のしつけ、学校の教育のせいだともちろん思いますがね、子供に我慢させないですね」

リピート「子供に我慢させないですね」

ナレーション「子供に我慢をさせない」

 さて、ここで、私が「リピート」と示した箇所は、石原氏の発言の注目すべき箇所に対し、まず石原氏の顔が白黒のアップになり当該箇所がもう一度繰り返され、そしてその後にその発言の趣旨のメッセージが画面に登場し、それをナレーションが読み上げるというものである。これはテレビ「ならでは」の演出で、草野・石原対談においてはこのような演出が頻出する。

 また、この種の演出が用いられた石原氏の発言には、他にも次のようなものがある(字幕として出たものを挙げることとする)。

 「子供の親そのものが、だらしなく育てられた」(1回目)

 「親が無責任までは行かないが無知」(2回目)

 「肝心なものは全部人に預けた他力本願で甘ったれな風潮」(3回目)

 現代の親や青少年に対するバッシングが含まれているのはこれくらいであるが、それ以外も単なる一般的な教育論を語っているに過ぎない。このような「お題目」で教育問題が解決される、という考え方は、結局のところ自分にとっての「当たり前」を取り戻せば教育問題は解決する、という短絡的な考え方でしかない。

 草野氏と石原氏の対談も含めて、結局のところこの番組は、「絶対善」としての自分をいかに強くアピールし、自分の教育論――単に一般的な「お題目」でしかないものが大半なのだが――の正当性をひけらかす以上のものではなかった。結局のところ、この番組で行なわれたことは、大々的な「私語り」だけだったのである。

 また、冒頭の出演者を見てもらえばわかるが、この番組が前提としている「「今時の若者」は傍若無人な振る舞いばかりをする社会の害悪だ」などという一方的な考えから、少々距離を置いて考えることができる人――内藤朝雄氏や浅野智彦氏など――は一人も出ていない(「本気の大人たち」でない出演者も、番組のストーリーに追従しているだけだった。特に、草野氏と勝股氏、草薙氏、そしてやくみつる氏の発言のひどさは特筆すべきものだ)。「大激論」などと言っておきながら、人選の狭隘さは目を見張るほどだし、彼らがバッシングの対象としている若年層は、えなり氏を除いて一人も「大激論」の場に存在していない。

 なるほど、確かに、他のスタジオでは、番組が言うところの「イマドキの若者24人」が、この「大激論」を見守っていた。しかし、彼らの発言が許されたのはたった2回、しかも1回あたりの発言時間が3分もなかったのだ。

 2・この番組全体の構成に対する疑問
 はっきり言おう。この番組は、「大激論」の名を騙った「欠席裁判」なのだ。もちろんこの「欠席裁判」で「裁かれている」のは若年層であり、裁判長は司会の3人で、判事は出席者全員、弁護人はいない。しかも裁判長も完全に判事よりである。

 この番組が「欠席裁判」であると考えれば、この番組全体の流れがわかるというものだ。まず第1部に「社会秩序崩壊編」を据えることによって、現代の若年層を「被告」として視聴者に認識させる。つまり、若い世代「全員」がこの「欠席裁判」において被告人席に立たされることの「正統性」を裏付ける。そして第1部の「大討論」において、被告人の「罪科」が――全て判事の口によって、しかも定量的な証拠もなしに!――延々と語られる。そこで以下に事実誤認が飛び出していても、なんら問題はない。先にも述べたとおり、必要なのは定量的な議論ではない、「物語」なのだ。「今時の若者」という存在がいかに「悪」であるかを証明するための。従って、以下の如く、最初から事実誤認のナレーションに彩られていても、その正当性に疑問がはさまれることはない。そもそも「キレる」やら「逆ギレ」などというのは、そのような言語が「発見」されてから、新たなプロファイリングとして定着するようになった、と考えたほうがよいのではないか。

ナレーション「世界一安全といわれたこの国が、今やモラルなき無法地帯と化している。連日飛び込んでくる衝撃的な事件。その中心には、傍若無人な若者たち。やりたい放題の彼らに、社会のルールやマナーなど存在しないのか。一方で、注意すべき立場の大人たちは…。」

街頭A「すぐ若い奴はキレるじゃない何されるかわからん、はっきり言うて」

街頭B「突発的に、何かをされるとか、そういった恐怖感はありますね」

ナレーション「そう、今時の若者たちの特徴は、「逆ギレ」。善悪の見境なしにとにかくキレる。そして、キレたら最後、もう誰にも手がつけられない。かつて世界から賞賛された、日本人のモラルは…」

 そして第2部と第3部は、まさに「犯人探し」だ。「被告」としての若年層を生み出した背景として、第2部においては家庭が、第3部においては学校が採り上げられる。だがこの2つの部分は、第1部に比して、冒頭において紹介された「本気の大人たち」の取り組みの紹介が多い。現に、第1部が1人(小嶋映治氏)だったのに対し、第2部は2人だった(杉浦昌子氏と廣中邦充氏)。第3部は1人だったが(原田隆史氏)、第3部自体の短さ、そして冒頭のVTRの長さを考慮すれば、「大激論」を行なった箇所は少ないほうである。

 ここで2つ目の疑問を提示したい。この番組において一つの重要なキーワードとなっているのは、「本気の大人たち」である。要するに、「悪」としての青少年、及び一歩間違ったら「悪」の世界に踏み込みかねない子供たちを「自分たち」の手に取り戻すための「本気の大人たち」の取り組みの礼賛である。

 だが、冷静に考えて欲しい。彼らのように、様々な条件に恵まれ、かつ能力もある「本気の大人たち」は極少数である。しかしこの番組は、そのような「本気の大人たち」を礼賛することによって、かえって彼らのような能力のない(と思いこんでいる)親たちは自信をそがれてしまうかもしれない。

 この番組のように、――元々境遇や能力に恵まれた人しか発しえず、しかもメディアによってその暗黒面が隠蔽されている――「本気」を礼賛し、子供たちに対して「本気」で接しなければ、いつ子供が「悪」(=「今時の若者」!)になってもおかしくないぞ、と煽ることは、むしろ若い親たちを追いつめることにならないだろうか。そもそも多くの子供たちは、そして青少年は、ごく普通に暮らしているのである。彼らを無視し、一部の人を採り上げて、さも世代全体が危険であるかのように煽るという行為は、それこそ青少年の価値を貶めることにならないか。それともこの番組の製作スタッフは、どうせ若い奴はこんな番組など見ないだろう、とでも高をくくっているのか。だとしたら、この番組は、日頃の鬱憤がたまっている年齢の高い人たちに対して、コメンテーターたちと自己を同一化させ、その「怒り」を若年層や若い親たちにぶつけることを提供していることとなる。

 この番組のエンディングは「翼をください」だった。私はこの曲は好きである。しかし、この番組のエンディングとして流れた「翼をください」は、私がこの曲を聴いて決して抱くことのなかった嫌悪感を、私に初めて抱かせた。散々若い世代に対して不安を抱かせて、そして自分の社会の将来に暗い気持ちを抱かせて、そこから希望を持ってください、といっても無理に決まっている。

 極めつけはこれだ。この世でもっとも不気味な「翼をください」が流れ終わった後、画面に大きく表示された文字である。

 「子供たちの笑顔がこの国の未来」

 このようなお題目がいかに空疎であるか、ということは、この番組を通して見たものならすぐにわかるはずだ。この番組は、決して「子供たちの笑顔」など望んでいない。子供たちが自分にとって都合のいいように成長してくれること、そして「悪」としての「今時の若者」たちが「私たち」の社会から排除されることだ。少なくともこの番組は、決して「子供たちの笑顔」のために作られているのではない。具体的に言えば、「大人たちの笑顔」なのだ。「今時の若者」を問題視してバッシングする大人たちのための番組としか言いようがないのである。だから、この番組に青少年の声、あるいは現在喧伝される青少年問題言説に懐疑的な人の声が反映されないのも、無理はないのかもしれない。

 しかし、これだけは言いたい。

 特定の世代を過剰に問題視し、その世代は「悪」で自分の世代は「善」であり、そして自分の子供をいかに「悪」にしてはならないか、といった半ば脅迫的な子育て言説がはびこる世の中に、誰が希望を持つことができるだろうか(そして、この番組に出席していた草薙厚子氏は、まさにこのような「半ば脅迫的な子育て言説」を喧伝している人だ)。
 堀江貴文被告がニッポン放送やフジテレビの実権を握ろうとしたとき、マスコミが堀江氏を批判する口実として用いたのが「放送の公共性」だった。だが、人々を絶望の淵に落としておいて何もしない、この番組に、果たして「公共性」を求めることができるだろうか。

 TBSは堀江貴文を笑えるのか。

――――――――――――――――――――

 注1
 現に、出演者の今村克彦氏が、「このような特異な話ばかり捉えていても無意味だ」と発言したのに対し、草野氏が、「でもこのような事件もあるのだから、今の若年層はやっぱり異常だ」と今村氏の発言を退けた部分もある。曰く、

今村「いえ、だから今言われたように、刃物持っている人間に話し込もうや、って言ったって、話になりませんやんか。特異な話ばかり捉えていたら、ほんまに怖なります」

草野「もちろんそうなんですが、現実に先ほどビデオでごらん頂いたケースもある。ただ非常に気になるのは、駅員の人を呼んで、その後の逃げ方です。口実をつけて、非情に狡猾なやり方で逃げていこう、つまり自分を正当化するということは、非情に巧みである。これは昔の子供たちには多分なかったことではないかと」

 更に、後に今村氏は、若い奴は大部分が怖いんだ、という趣旨の発言をしてしまう。

今村「僕はおかしいと思いますわ。怖ないってね、ここら辺の方って絶対に怖ないですやん。世の中の大部分、やっぱりあのわけの分からん若者がいたらやっぱり怖いですやん。……だから、怖いということは大前提、みんな共通して持たなあかんと。……」

 注2
 ちなみに、平成12年6月21日付の読売新聞によれば、JR東日本において報告された駅員や乗務員への暴力行為162件のうち、その加害者で最も多いのが50代で39人、次に多いのが40代で33人だった。

 注3
 草薙氏が持ち出している「ゲーム脳」理論は、既に多くの専門家や評論家によって疑義が提示されている。書籍では、斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、平成15年)、と学会『トンデモ本の世界T』(太田出版、平成16年)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書、平成17年)を、雑誌の記事では、風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」(「ゲーム批評」平成14年11月号)、大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」(「AERA」平成15年1月13日号)、小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」(「週刊朝日」平成17年3月4日号)、若狭毅「ゲームで脳が壊れる説に専門家はブーイング」(「サンデー毎日」平成18年2月26日号)を参照されたし。

 注4
 例えば、社会学者の浅野智彦氏らの研究グループは、平成4年と平成14年に都市部の若年層に対して行なったアンケートをもとに、若年層においては規範意識が後退(あるいは消滅)しているとはいえず、また人間関係も希薄化していない、ということを提示している(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、平成18年)。また、少年による凶悪犯罪が近年増加傾向にあるわけではない、ということも、既に多くの論者によって指摘されているし、少年による動機の不明な、あるいは短絡的な殺人事件も、今から40年ほど前の段階でも多く起こっている(赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、昭和57年)。

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