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2006年3月28日 (火)

論壇私論:「論座」平成18年4月号

 ベスト:五十嵐太郎「日本橋の首都高は醜いのか」
 小泉純一郎首相は、平成17年末、日本橋の首都高を移設し、日本橋周辺の「景観」を取り戻す、という目的での有識者懇談会を発足させた。それに呼応して、例えば朝日新聞の投書欄などでもその動きに賛同し、あるいは現在の「日本橋の首都高」を高度経済成長の「負の遺産」――つまり、戦後日本はこんなに醜いものを作ってきたのだ、という意味での――として保存すべきだ、という意見が出るようになった。とはいえ日本橋周辺の「景観」に関するアイデアコンペは平成16年から始まっていた。また、平成15年7月に国土交通省が発表した「美しい国づくり政策大綱」においては、例えば《美しさは心のあり様とも深く結びついている。私達は、社会資本の整備を目的でなく手段であることをはっきり認識していたか?、量的充足を追及するあまり、質の面でおろそかな部分がなかったか?、……国土交通省は、この国を魅力ある国にするために、……行政の方向を美しい国づくりに向けて大きく舵を切ることとした》などと高らかにうたわれている。

 しかし、このような言説を易々と受け入れていいものであろうか。五十嵐太郎氏(東北大学助教授)はそこに疑問を挟む。曰く、《なんの恥じらいもなく、「美しい」と堂々と言い切ってしまう言説に、筆者は真っ先に気持ち悪さを感じてしまう。例えば、正義を掲げて戦争を続ける国家、健康を賞賛しながら病気の概念を拡大していく医療行政、あるいは安全な社会をめざして監視と排除に向かう社会と似ていないだろうか》と。しかし五十嵐氏の疑問は、このような心情的なものに終わるものではない。

 第一に、これは隠れたハコモノ行政ではないか、ということ。また、電線さえなくなれば街が美しくなるということは一様に言えないように、日本橋をそのまま撤去しても街が美しくなるのも安易な考えに過ぎない。ある記号的な存在だけを排除しても、景観がよくなるはずはない。そもそもこの「日本橋の首都高」の撤去案は、周辺の高層ビルについて全く考慮されていない。第二に、いつの時代のどのような風景をもってして「本来の日本橋」というのか。そもそも現在の日本橋は明治46年(1911年)に竣工された、ヨーロッパの様式を模倣したものである。そして、首都高は本当に醜いのだろうか。そもそも撤去・移設論は、「日本橋の首都高は醜い」という意見ばかりが先行して、本当に醜いのか、という観点に関しては問われない。

 私は実を言うと昨年の秋頃に、日本橋を見に行ったことがある。首都高から出る騒音が気になったけれども、今思ってみれば、なるほど五十嵐氏の意見はもっともで、首都高だけを問題化しても景観が良くなるわけではない。景観というものは、単に「醜い景観」をバッシングして、「醜い景観」を生み出す(とされる)「記号」だけを排除すればいいというわけではない。この文章を読んで、私は大学2年のときに受けた環境学の授業での小さな衝撃を思い出した。「美しい景観」と「醜い景観」をテーマにレポートを書いてこい、というテーマで、「美しい景観」として電線の張り巡らされた景観を採り上げたレポートが授業担当の教授によって読まれたときである。そのレポートに曰く、このような乱雑な景観にこそ美しさが存在する可能性もある、と。当時ある種の「景観幻想」に見舞われていた私にとっては、深く考えざるを得ないものだった。

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 ベター1:芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読む・case1 「誰が殺したのか」から「どうやって守るか」へ――宮崎勤事件の〈前〉と〈後〉」
 『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)の著者、芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)による注目の新連載!3ヶ月に1度掲載されるようだ。

 第1回では「理解できない」犯罪を消費する社会を分析。いわゆる「宮崎勤事件」の際は、確かにその「不可解さ」が話題となり、事件が――過去にも「不可解な」事件の例はいくらでもあったにもかかわらず――時代を象徴するかのごとき語り口がなされたが、それは好奇心の領域にとどまっていた。しかし平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、犯罪者どころか少年全体が「怪物」であるかのように捉えられ、性犯罪者に関してもセキュリティーを強化するための脅威として用いられるようになった。

 ベター2:東浩紀「潮流06 防犯カメラは住宅地に必要なのか」
 住宅地への防犯カメラの導入に批判する論考。特に監視の目的に関する議論は必読だろう。例えば《空港や地下鉄、繁華街などで監視が必要なのは、そこが誰にでも開かれた匿名的な空間で、通行人の招待をいちいち確認できない》。つまりここでは空間の公共性を保つために監視が導入されており、またそのようになされるべきである。それに対し住宅地や通学路は、必ずしも完全に開放された公共空間とは言いがたく、そのような空間で監視を導入してしまうと、《不気味な人間を許容するどころか、むしろ逆の傾向を強めかねない》ことになる。

 《電子的な監視は、記録や検索可能性の点で、人間の監視よりもはるかに強力である。だからこそ、その導入には理念が求められる》というメッセージは重い。

 ベター3:森千香子「悪夢の「癒し」に代わるもの」
 現在ブームになっている「癒し」とは結局のところ、苦痛から一時的に逃亡するだけのもの、すなわち「問題回避」に過ぎない。著者はその象徴として「女性専用車両」を挙げる――《「女性専用車両」という発想が、女性を「潜在的に痴漢になりうる男性」から隔離しただけ》という指摘には大いに賛同できるが、著者の男性に対するいささか嫌悪的な見方が少々問題ではないか――が、それよりも最後の2ページでなされる議論のほうが興味深い。曰く、

 「消極的快諾」を通して、上から押し付けられた規範を次第に内面化し、結果的に自分のものとしてしまうこと。大メディアが発信する言説、つまり「支配者側」の言説を、知らず知らずのうちに客観的な事実や真実と同一視してしまうこと。「現状」が今の状態以外でもありうるかもしれない、つまり「もしかしたら別の可能性もある」と問いをたてること事態を封印し、「運命」として引き受け、回避不可能な「地震」のごとく受け入れてしまうこと。このように「現状」を「変更不可能である」と自明視する姿勢の根底には、社会的事象を自然的事象のように扱う社会認識がある。
 そして、痛みの原因を突きとめるのを放棄した人々は、一時的に痛みを緩和し、忘れ、慰められることをひたすら臨むようになる。すなわち日本社会に繁殖し続ける「癒し」とは、私たちの苦痛の「根源」をすっぽりと覆い隠す「優しさ」の別称なのである。この意味での「優しさ」は、支配の暴力を覆い隠し、問題の所在を見えにくくして、結果的には支配的価値観に同化する「沈黙」をうながす装置として機能するかのようだ。

 俗流若者論とか、そうだよね。

 ベター4:貴戸理恵「「生きづらい私」とつながる「生きづらい誰か」」
 『「ニート」って言うな!』の私の文章を読んだ人はわかると思うが、件の本の冒頭において私は自らの「生きづらさ」の体験――高校1年の時分、自分が犯罪者として見られているのではないか、と恐怖に脅えていたこと――を語っている。これは明らかに「当事者の語り」である。この論考においてはそのような「当事者の語り」の限界と可能性が仔細に論じられている。結論部分とそれに近い部分の、《一人称単数の「私の語り」》が《他の誰かの生きづらさ》とつながっていくことの可能性が述べられた部分は興味深い。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部・第6談 ケンカの覚悟と真の「品格」を求む!」
 「国家の品格」論に対する批判は見事。《頭の悪い伝統主義者や事象「愛国」政治化がまたぞろ、この種の事件を悪用して言論統制や復古調教育を唱導している》(宮崎)、《彼(筆者注:藤原正彦氏)が西洋化によって失われつつあると嘆く「国柄」だって、江戸時代に本居宣長から「日本古来の思想をゆがめた」と避難された外来思想の儒教にもとづく》(川端)。あと、いわゆる「一夫多妻男」が何度も面白おかしく採り上げられる状況って、確かに嫌気がさすよね。

 ワースト:荷宮和子「「象徴」などいらない」(特集「女性のための皇室お世継ぎ問題」)
 いつも思うけれど、荷宮氏の文章というものは他人を見下すことに目的がおかれているという気がしてならない。この文章も自分を高みにおいた単なる愚痴でしかない。あと、ここは「論座」なのだから、《(藁)》みたいな2ch的表現はやめてくれ!

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