罪人よ、汝の名は「若者」なり――平成18年2月15日TBS「緊急大激論SP2006!」への疑問
この文章は、ある雑誌に投稿して、番組の性格上載せることができない(シリーズではなく単発の番組なので、定量的な検証ができない、ということ)、とその雑誌の編集部から連絡をいただいたもので、従ってここで公開することとします。この文章は、平成18年2月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”全国民に喝!」を批判したものです。
公開に当たって、以下のブログにトラックバックを送っておきます。
この番組を直接採り上げたブログ:
あなたの子どもを加害者にしないために:「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”」(TBS)(中尾英司氏)
さびしんぼうのブログ♪:緊急大激論スペシャル@TBSテレビ
冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!
アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
私がお世話になっているブログで、青少年問題について触れたエントリー
女子リベ:どう少年が包囲されていくのか?(安原宏美氏:フリー編集者)
社会と権力 研究の余白に:生命と統計 少年法改正をめぐって(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
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※番組内の発言の文字起こしに関しては、全て筆者(後藤)に文責があるものとする
このような番組を放映して、一体TBSは何をしたいのだろう――それが、私が平成18年2月15日に放送された、特別番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!!」を見ての私の感想だ。この番組は、全体的に現代の若年層に対する否定的なトーンと、「大激論」という名を冠しているにもかかわらず、一方的な意見の応酬だけで貫かれており、単に出場者の、自分の「善」のイメージの露出合戦に過ぎない番組であった。
TBSのウェブサイトによると、この番組のコンセプトは以下のとおりであるという。
社会、学校、家庭……。今、子供たちを取り巻く環境で、様々な問題が山積みしている日本。
この番組では緊急大激論スペシャルと題し、子育てや教育問題を徹底的に話し合い誰がこんな日本にしてしまったのか? これから日本は子供たちにとってどうしていくべきなのか?追求していく。
http://www.tbs.co.jp/program/kodomotachi_20060215.html
などと綴られているが、実際にこの番組で行なわれたのは、単なる若年層に対するネガティブ・キャンペーン、すなわち現代の子供たちや若年層に対する不安を煽り、彼らは怖い、社会の害悪だ、どうすれば彼らに対処して自らにとって住みやすい社会になるか、ということが延々と語られただけである。
司会者は草野仁、えなりかずき、海保知里の3氏で、出演者は、勝俣州和(タレント)、草薙厚子(ジャーナリスト)、田嶋陽子(元国会議員)、松居一代(女優)、RIKACO(タレント)、やくみつる(漫画家)、山下真司(俳優)と、「本気の大人たち」として伴茂樹(青少年育成クラブ主宰)、菱田慶文(スクールパートナー)、吉川英治(明大前ピースメーカーズ主宰)、小嶋映治(叱る大人の会代表)、原田隆史(天理大学非常勤講師、東京・大阪教師塾塾頭)、喜入克(高校教師)、今村克彦(小学校教師、関西京都今村組代表)、杉浦昌子(NPOアイメンタルスクール主宰)、廣中邦充(浄土宗西居院僧侶)の9氏である。
1・番組構成の各部に関する疑問
ウェブサイトによれば、この番組の構成は次のとおりである。
番組では公共でのマナーやルールに対する若者のモラルについての「社会秩序崩壊編」、校内暴力や不登校の増加問題についての「学校崩壊編」、親が子供を、子供が親を殺してしまうような衝撃事件の増加に象徴される現在の家庭問題についての「家庭崩壊編」と3つのテーマで話し合いを行う。(前掲TBSウェブサイト)
と書かれているが、この番組が若年層に対する不安扇動を目的としていることを私が確認するまでは、開始から30分もかからなかった。この番組は、第1部が「社会秩序崩壊編」、第2部が「家庭崩壊編」、第3部が「学校崩壊編」となっているが、第2部と第3部はもっぱら「本気の大人たち」として出演している人々の体験談が主であり、スタジオにおける「大激論」に関しては、その時間の大半を第1部が占める。その第1部において何が議論されたのであろうか。
オープニングの後、第1部の問題提起として映されたVTRについて説明しよう。このVTRは、平成15年に実際に起こった事件を基に構成されている。その事件が、電車に乗ってきた、ヘッドフォンから音を漏らしている若い人に対して、ある中年のサラリーマンが注意した。ところがその若年は、近くにいた警察官に「酔っ払いが絡んでくる」といって、逆に自分を正当化した、というものである。
まずここで疑問が浮かぶはずだ。このような若年は、果たして現代の若年層に典型的なものなのだろうか、と。しかしそのような疑問をすっ飛ばして、この「大激論」は、現代の若年層がさも件の若年の如く、自分を正当化することにだけは長けているのに、他人の迷惑はちっとも顧みない、というイメージで語られる(注1、2)。
それだけではなく、この後の「大激論」においては、若年層に対する偏ったイメージが頻出する。このVTRの直後の、勝股州和氏の発言を引いてみよう。
草野「勝股さん、目撃したりしたことはあると思うのですが、(勝股:「ハイ」)もしあの場にいたらどうします?」
勝股「ビシッ、といいたいですけれども、怖いですね」
スタジオ笑う。
勝股「今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか」
勝股氏の語っているのは、単に報道で喧伝されるイメージを超えていないのであるが、この程度のステレオタイプはまだ甘いほうで、そのほかにも若年層をあからさまに蔑視した発言が頻出する。その中でももっとも問題を多く含んでいるのが、杉浦昌子氏と草薙厚子氏の以下のような発言である。
草野「杉浦さんはどうですか?先ほどのニュース」
杉浦「うーん。私は、生徒にはね、車両の中にそういう子がいたら、避けるようにと。私は日々子供と接してて、ちょっと感覚がゲーム感覚、ちょっとリセットしてもまた生まれ変わるんだ、ってしか考えないから、言っても無駄な人には、無駄なような気もするんですよ」
草薙「ゲームの感覚っておっしゃりましたけれども、その通りで、ゲームを長い時間やるじゃないですか。で、それがもう研究の結果出ているんですね。その世界だけなんです(えなり他「ゲーム脳」)そう、ゲーム脳と言われているんですけれども、前頭葉の前頭前野の血流が悪くなる。でその前頭前野というのが、羞恥心とか、理性とか、ここでみんなコントロールしている」
えなり「自分の感情を抑える所って言いますよね」
「ゲーム脳」や、「前頭前野」などといった、草薙氏の振りかざしている論理は、既に学問的には論破されている点が多く(注3)、議論として成立したものではない。それにもかかわらず草薙氏がそのような理論を堂々と持ち出す、というところに、現代の我が国の青少年ジャーナリズムの暗黒面が垣間見えるし、杉浦氏の発言にもまた、「ゲーム感覚」などという、現代の青少年はゲームのせいでおかしくなったのだ、と言わんばかりの表現が出ている。だがもっとも問題なのは、草薙氏や杉浦氏の発言に対して、誰も制止する人がいないことである。特に「ゲーム脳」が疑似科学であることは、既に良心的な物書きであれば知っているはずだ。
このような構成からもわかるとおり、この番組は、まず第1部において、現代の若年層がいかに「悪」であるか、ということが喧伝される。もちろん、先の勝股氏や草薙氏、及び杉浦氏に限らず、問題のある発言は多いし、それらの発言に対する反証も、今やかなり出揃っている状態である(注4)。しかし、それらが無視されるのは、やはりこの番組においては、定量的な議論よりも、「若年層=悪」というイメージ(あるいはこの番組の前提)を正当化するための「物語」であり、それゆえ出演者も、若年層の「悪」に立ち向かう「善」という図式が強調されるのだろう。
更にこの番組を引き立てているのが、各部の最後に挿入される(従って合計3回挿入されたこととなる)、司会者の一人である草野仁氏と、石原慎太郎・東京都知事との対談である。草野氏の発言も、また石原氏の発言も、単に巷で流布しているイメージや自らの狭い体験だけに基づいている、空疎な「憂国」話でしかない。だが、この対談映像の中には、テレビ「ならでは」の演出が施され、この番組を盛り上げるのには絶好のものとなっている。例を示してみよう。
草野「一番知事にお伺いしたかったのは、今の若者たち、社会規範を破っても平然としている、マナーを守らない、そういう傾向の若者たちが増えている、というのは結構事実ですね。その若者たちを、知事はどういう風にご覧になっていますか?」
石原慎太郎「家庭のしつけ、学校の教育のせいだともちろん思いますがね、子供に我慢させないですね」
リピート「子供に我慢させないですね」
ナレーション「子供に我慢をさせない」
さて、ここで、私が「リピート」と示した箇所は、石原氏の発言の注目すべき箇所に対し、まず石原氏の顔が白黒のアップになり当該箇所がもう一度繰り返され、そしてその後にその発言の趣旨のメッセージが画面に登場し、それをナレーションが読み上げるというものである。これはテレビ「ならでは」の演出で、草野・石原対談においてはこのような演出が頻出する。
また、この種の演出が用いられた石原氏の発言には、他にも次のようなものがある(字幕として出たものを挙げることとする)。
「子供の親そのものが、だらしなく育てられた」(1回目)
「親が無責任までは行かないが無知」(2回目)
「肝心なものは全部人に預けた他力本願で甘ったれな風潮」(3回目)
現代の親や青少年に対するバッシングが含まれているのはこれくらいであるが、それ以外も単なる一般的な教育論を語っているに過ぎない。このような「お題目」で教育問題が解決される、という考え方は、結局のところ自分にとっての「当たり前」を取り戻せば教育問題は解決する、という短絡的な考え方でしかない。
草野氏と石原氏の対談も含めて、結局のところこの番組は、「絶対善」としての自分をいかに強くアピールし、自分の教育論――単に一般的な「お題目」でしかないものが大半なのだが――の正当性をひけらかす以上のものではなかった。結局のところ、この番組で行なわれたことは、大々的な「私語り」だけだったのである。
また、冒頭の出演者を見てもらえばわかるが、この番組が前提としている「「今時の若者」は傍若無人な振る舞いばかりをする社会の害悪だ」などという一方的な考えから、少々距離を置いて考えることができる人――内藤朝雄氏や浅野智彦氏など――は一人も出ていない(「本気の大人たち」でない出演者も、番組のストーリーに追従しているだけだった。特に、草野氏と勝股氏、草薙氏、そしてやくみつる氏の発言のひどさは特筆すべきものだ)。「大激論」などと言っておきながら、人選の狭隘さは目を見張るほどだし、彼らがバッシングの対象としている若年層は、えなり氏を除いて一人も「大激論」の場に存在していない。
なるほど、確かに、他のスタジオでは、番組が言うところの「イマドキの若者24人」が、この「大激論」を見守っていた。しかし、彼らの発言が許されたのはたった2回、しかも1回あたりの発言時間が3分もなかったのだ。
2・この番組全体の構成に対する疑問
はっきり言おう。この番組は、「大激論」の名を騙った「欠席裁判」なのだ。もちろんこの「欠席裁判」で「裁かれている」のは若年層であり、裁判長は司会の3人で、判事は出席者全員、弁護人はいない。しかも裁判長も完全に判事よりである。
この番組が「欠席裁判」であると考えれば、この番組全体の流れがわかるというものだ。まず第1部に「社会秩序崩壊編」を据えることによって、現代の若年層を「被告」として視聴者に認識させる。つまり、若い世代「全員」がこの「欠席裁判」において被告人席に立たされることの「正統性」を裏付ける。そして第1部の「大討論」において、被告人の「罪科」が――全て判事の口によって、しかも定量的な証拠もなしに!――延々と語られる。そこで以下に事実誤認が飛び出していても、なんら問題はない。先にも述べたとおり、必要なのは定量的な議論ではない、「物語」なのだ。「今時の若者」という存在がいかに「悪」であるかを証明するための。従って、以下の如く、最初から事実誤認のナレーションに彩られていても、その正当性に疑問がはさまれることはない。そもそも「キレる」やら「逆ギレ」などというのは、そのような言語が「発見」されてから、新たなプロファイリングとして定着するようになった、と考えたほうがよいのではないか。
ナレーション「世界一安全といわれたこの国が、今やモラルなき無法地帯と化している。連日飛び込んでくる衝撃的な事件。その中心には、傍若無人な若者たち。やりたい放題の彼らに、社会のルールやマナーなど存在しないのか。一方で、注意すべき立場の大人たちは…。」
街頭A「すぐ若い奴はキレるじゃない何されるかわからん、はっきり言うて」
街頭B「突発的に、何かをされるとか、そういった恐怖感はありますね」
ナレーション「そう、今時の若者たちの特徴は、「逆ギレ」。善悪の見境なしにとにかくキレる。そして、キレたら最後、もう誰にも手がつけられない。かつて世界から賞賛された、日本人のモラルは…」
そして第2部と第3部は、まさに「犯人探し」だ。「被告」としての若年層を生み出した背景として、第2部においては家庭が、第3部においては学校が採り上げられる。だがこの2つの部分は、第1部に比して、冒頭において紹介された「本気の大人たち」の取り組みの紹介が多い。現に、第1部が1人(小嶋映治氏)だったのに対し、第2部は2人だった(杉浦昌子氏と廣中邦充氏)。第3部は1人だったが(原田隆史氏)、第3部自体の短さ、そして冒頭のVTRの長さを考慮すれば、「大激論」を行なった箇所は少ないほうである。
ここで2つ目の疑問を提示したい。この番組において一つの重要なキーワードとなっているのは、「本気の大人たち」である。要するに、「悪」としての青少年、及び一歩間違ったら「悪」の世界に踏み込みかねない子供たちを「自分たち」の手に取り戻すための「本気の大人たち」の取り組みの礼賛である。
だが、冷静に考えて欲しい。彼らのように、様々な条件に恵まれ、かつ能力もある「本気の大人たち」は極少数である。しかしこの番組は、そのような「本気の大人たち」を礼賛することによって、かえって彼らのような能力のない(と思いこんでいる)親たちは自信をそがれてしまうかもしれない。
この番組のように、――元々境遇や能力に恵まれた人しか発しえず、しかもメディアによってその暗黒面が隠蔽されている――「本気」を礼賛し、子供たちに対して「本気」で接しなければ、いつ子供が「悪」(=「今時の若者」!)になってもおかしくないぞ、と煽ることは、むしろ若い親たちを追いつめることにならないだろうか。そもそも多くの子供たちは、そして青少年は、ごく普通に暮らしているのである。彼らを無視し、一部の人を採り上げて、さも世代全体が危険であるかのように煽るという行為は、それこそ青少年の価値を貶めることにならないか。それともこの番組の製作スタッフは、どうせ若い奴はこんな番組など見ないだろう、とでも高をくくっているのか。だとしたら、この番組は、日頃の鬱憤がたまっている年齢の高い人たちに対して、コメンテーターたちと自己を同一化させ、その「怒り」を若年層や若い親たちにぶつけることを提供していることとなる。
この番組のエンディングは「翼をください」だった。私はこの曲は好きである。しかし、この番組のエンディングとして流れた「翼をください」は、私がこの曲を聴いて決して抱くことのなかった嫌悪感を、私に初めて抱かせた。散々若い世代に対して不安を抱かせて、そして自分の社会の将来に暗い気持ちを抱かせて、そこから希望を持ってください、といっても無理に決まっている。
極めつけはこれだ。この世でもっとも不気味な「翼をください」が流れ終わった後、画面に大きく表示された文字である。
「子供たちの笑顔がこの国の未来」
このようなお題目がいかに空疎であるか、ということは、この番組を通して見たものならすぐにわかるはずだ。この番組は、決して「子供たちの笑顔」など望んでいない。子供たちが自分にとって都合のいいように成長してくれること、そして「悪」としての「今時の若者」たちが「私たち」の社会から排除されることだ。少なくともこの番組は、決して「子供たちの笑顔」のために作られているのではない。具体的に言えば、「大人たちの笑顔」なのだ。「今時の若者」を問題視してバッシングする大人たちのための番組としか言いようがないのである。だから、この番組に青少年の声、あるいは現在喧伝される青少年問題言説に懐疑的な人の声が反映されないのも、無理はないのかもしれない。
しかし、これだけは言いたい。
特定の世代を過剰に問題視し、その世代は「悪」で自分の世代は「善」であり、そして自分の子供をいかに「悪」にしてはならないか、といった半ば脅迫的な子育て言説がはびこる世の中に、誰が希望を持つことができるだろうか(そして、この番組に出席していた草薙厚子氏は、まさにこのような「半ば脅迫的な子育て言説」を喧伝している人だ)。
堀江貴文被告がニッポン放送やフジテレビの実権を握ろうとしたとき、マスコミが堀江氏を批判する口実として用いたのが「放送の公共性」だった。だが、人々を絶望の淵に落としておいて何もしない、この番組に、果たして「公共性」を求めることができるだろうか。
TBSは堀江貴文を笑えるのか。
――――――――――――――――――――
注1
現に、出演者の今村克彦氏が、「このような特異な話ばかり捉えていても無意味だ」と発言したのに対し、草野氏が、「でもこのような事件もあるのだから、今の若年層はやっぱり異常だ」と今村氏の発言を退けた部分もある。曰く、
今村「いえ、だから今言われたように、刃物持っている人間に話し込もうや、って言ったって、話になりませんやんか。特異な話ばかり捉えていたら、ほんまに怖なります」
草野「もちろんそうなんですが、現実に先ほどビデオでごらん頂いたケースもある。ただ非常に気になるのは、駅員の人を呼んで、その後の逃げ方です。口実をつけて、非情に狡猾なやり方で逃げていこう、つまり自分を正当化するということは、非情に巧みである。これは昔の子供たちには多分なかったことではないかと」
更に、後に今村氏は、若い奴は大部分が怖いんだ、という趣旨の発言をしてしまう。
今村「僕はおかしいと思いますわ。怖ないってね、ここら辺の方って絶対に怖ないですやん。世の中の大部分、やっぱりあのわけの分からん若者がいたらやっぱり怖いですやん。……だから、怖いということは大前提、みんな共通して持たなあかんと。……」
注2
ちなみに、平成12年6月21日付の読売新聞によれば、JR東日本において報告された駅員や乗務員への暴力行為162件のうち、その加害者で最も多いのが50代で39人、次に多いのが40代で33人だった。
注3
草薙氏が持ち出している「ゲーム脳」理論は、既に多くの専門家や評論家によって疑義が提示されている。書籍では、斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、平成15年)、と学会『トンデモ本の世界T』(太田出版、平成16年)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書、平成17年)を、雑誌の記事では、風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」(「ゲーム批評」平成14年11月号)、大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」(「AERA」平成15年1月13日号)、小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」(「週刊朝日」平成17年3月4日号)、若狭毅「ゲームで脳が壊れる説に専門家はブーイング」(「サンデー毎日」平成18年2月26日号)を参照されたし。
注4
例えば、社会学者の浅野智彦氏らの研究グループは、平成4年と平成14年に都市部の若年層に対して行なったアンケートをもとに、若年層においては規範意識が後退(あるいは消滅)しているとはいえず、また人間関係も希薄化していない、ということを提示している(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、平成18年)。また、少年による凶悪犯罪が近年増加傾向にあるわけではない、ということも、既に多くの論者によって指摘されているし、少年による動機の不明な、あるいは短絡的な殺人事件も、今から40年ほど前の段階でも多く起こっている(赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、昭和57年)。
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コメント
東北の電車でJRがマナー広告と称して高校生を貶めたような広告を載せていたことがあったけど、正直電車を実際に乗って観察すると中年が一番マナーが悪いように思えてならない。(老人や体の不自由な人に席を譲らないのも携帯等の電源を切らないのも中年陣が多いような気がする…。若者をバッシングする暇があったら中年を再教育した方がいいのでは)
投稿: hts | 2006年3月11日 (土) 23時36分
議論ではなく、朗読会ですね。
TBSにも色々なセクションがありますが、こんな粗末な演出・放送を堂々とやろうと決定をした人がまた現れた、ということでしょうか…この手の企画が大分通りやすいとは云え。
煽られた側が若い人達というのが殊に問題だと思われます。マス側の選別性を挙げるまでも無く、またオーソリティを保つのにも事欠かぬよう工夫するのが得意な面の逆、批判された側が冷静に批判し返す余地を全く残さないと言うように、ジャーナリズムの基本である部分の倫理傾向は凡そ見受けられませんね。
また、過剰に煽られバッシングされた「若者」側が経験的に問題に関して熟思しており的確且つ論理的に反駁(ないし単に指摘)してくることは無い(少なくとも放送枠内で)と括り切り、制作側の偏向が露わになってしまっていると逆に感じられます。
少なくとも、このような言説をバラ撒いているようでは、何が「公共」なのかを外的に論ずることを放棄している所作としか同様に思えません。
投稿: S.S | 2006年3月12日 (日) 10時21分
タイトルを見ただけで、「あートンデモ番組だなー」とすぐ分かりました。
にしてもこれはひどいですね。
投稿: ダイスケ | 2006年3月12日 (日) 13時02分
しかし毎日系(TBSも含む)って本来左寄りのはずなのにこと若者論となると産経なんかよりも右寄りになることが往々にしてあるからなあ…。なんでなんだろう…。(同じ左でも岩波あたりは若者論に対しても比較的冷静な意見が多いのに…)
投稿: hts | 2006年3月12日 (日) 21時26分
自分たち大人と、自分たちの思い通りになる子供だけいればいい、思い通りにならない若者はいなくていい……そんな世の中。なるほど、そういうことなんですね。
投稿: hana | 2006年3月14日 (火) 22時58分
TBありがとうございました。遅くなりましたが、時間ができましたので拝読させていただきました。
TVは基本的にショーですので、こちらも割り切って眺めているのですが、とはいえ多くの人の目に触れることを思うと怖いものがあります。
特にこのように分析されているのを拝読しますと、「TVの見方」について我が子たちに教えておかなければ、と思ってしまいますね…(--;)。
我が子(今年から高&大)を見ていましても、あぁ自分の学生時代と変わらんなぁ、と思います。
ただ、変わったものがあります。それは“環境”です。モラルをなくしたのも大人。若者がキレる方向へと追いつめているのも、許容量が狭くなって一杯一杯で生きている大人でしょう。
コメンテーターの発言も、もう少し人を育てる余裕のある視点からの発言がないものかと、寂しい思いがしました。
彼らには子供がいないんでしょうかねぇ…。
人はいじくりまわされなければ真っ直ぐに伸びます。
これが、家族カウンセリングを通じて家族という現場に接している私の実感です。
投稿: 英司 | 2006年3月15日 (水) 23時46分
番組タイトルを見ただけで糞番組だと分かるので、誰も真剣に見てないでしょ
投稿: なつめ | 2006年4月 4日 (火) 10時53分
何でもかんでも子供の責任にされるのが腹立ちますね。そんな悪い事をする子供を育てた親=大人にも責任があると思います。
投稿: 服部芳尚 | 2006年5月 1日 (月) 15時51分
でも、なんでもかんでも親の責任っていうのもおかしいだろう。「フロイト先生のウソ」という本によれば、スイスのファクツ誌は、最新の分析結果を「子どもがどう育っても、親はどうしようもない」とまとめているんだとさ。
投稿: ハットリ君 | 2006年5月 2日 (火) 01時27分