俗流若者論ケースファイル79・読売新聞社説
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読売新聞の、教育や青少年に関する社説の問題点については、これまで2度ほど述べてきた。連載の第15回と第72回である。その中でも、特に第15回において検証した平成17年3月16日付社説のほか、年の最初のほうで掲載される社説などに見られる傾向であるが、やたらと青少年問題の「原因」を、青少年における「愛国心」の欠如に求め、教育基本法の改正を主張する、という特徴が強く見られる。第72回で検証した社説には「愛国心」に関する記述はなかったけれども、それはほとんど例外といってもいいほどだ。
というわけで、今回検証するのは平成18年4月13日付読売新聞の社説「[教育基本法]区切りがついた「愛国心」論争」である。この社説もまた、教育や青少年問題に関する同様の社説と同様、執拗に「愛国心」を教育基本法に入れることを求めるとともに、社説における青少年問題に対する認識の乏しさもまたひけらかしている。
問題の多い、次のくだりを見てみよう。
そもそも、不毛な論議に終始していられるほど、日本の教育は楽観できる状態にない。
戦後間もない1947年に制定された現行法は、「個人の尊厳を重んじ」などの表現が多い反面、公共心の育成には一言も触れていない。制定当初から、「社会的配慮を欠いた自分勝手な生き方を奨励する」と指摘する声があった。
青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延(まんえん)などを見れば、懸念は現実になったとも言える。
自公両党は、改正案に「公共の精神」を明記することでも合意している。「親こそ人生最初の教師」との考えから「家庭教育」の条文も新設し、ニート(無業者)の増加を念頭に、「勤労の精神の涵養(かんよう)」を盛り込む。
日本社会の将来のしっかりとした基盤を作る上で、極めて重要なことだ。教育基本法の改正は時代の要請である。
(平成18年4月13日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)
まず、基本的な間違いを指摘しておこう。まず読売の社説が好んで引き合いに出す《青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化》だけれども、これははっきりいって根拠が乏しい、ということに関してはこれまでも再三述べてきた。というわけで同じことの繰り返しになってしまうが、口をすっぱくして言うと、少年による凶悪犯罪はピークの昭和35年ごろに比して著しく減少しており、過去の事例にあたってみれば(赤塚行雄[1982-1983])、もしこの事件が今起こったらマスコミは喜んで「理解できない」という論調を繰り返すだろうな、という事件はかなり多く起きていることもわかる。あまつさえ《青少年の心の荒廃》なる記述は、それがほとんど常套文句と化しているゆえ、どのようなことを指すのか、ということがあいまいである。
そもそもこの社説の書き手は青少年の心が本当に荒廃している、と考えているのかもしれないけれども、「心の荒廃」とは何か?結局のところ、マスコミが面白がって報じる若年層の「問題行動」でしかないのではないか?ちなみに社会学者の浅野智彦氏らのチームの行った調査では、青少年の道徳意識は交代しているわけではない、というデータが出ている(浅野智彦[2006])。
また、このくだりにおいて、この社説の書き手が不満に感じていること――すなわち、いわゆる「青少年の心の荒廃」なるものやライブドア事件――の原因がすべて「教育」であるとはっきりと述べられている。青少年がらみのことに関しては先ほど批判的資料をあげたけれども、ライブドアに関しても、ひたすら「教育」を連呼して、それ以前の制度の問題や合意形成、および罰則の規定について政治の責任が問われることはないのだろうか。そもそもライブドアは経団連の求めた(!)規制緩和によりインターネット事業よりも企業買収を繰り返すことがビジネスモデルとなってしまった、という側面も確かに存在する(大鹿靖明[2006])わけであり、それに関する議論はあまり行われておらず、せいぜいライブドアがフジテレビの株を取得しようとした頃くらいであろう。
何でもかんでも「教育」の責任にしてしまうことは、さまざまな弊害を持っており、そしてこの社説はその弊害を見事に示している。「教育」という言質を振りかざすことによって、自分が不快に思っている問題を個人の精神の問題にすることができ、制度や政策は一切不問になる。さらにこのようなことによって、同じ世代がいつホリエモンになるかわからないぞ!と脅しをかける効果が生じる、要するに一つの世代(あるいはその世代以前の世代も含む)も一緒くたに敵視することができる。
だが、精神主義ですべてが解決できる、と思い込むのは、それこそ「大東亜戦争」的な考え方ではないだろうか。また、極端な一人をベースにして一つの世代を丸ごとバッシングしてしまう、というのは、単なる差別でしかないのではないか。
そして、このような考え方こそが、昨今の教育基本法、さらには憲法までも変えようとしている動きを支えるものであるということに、私は一種の恐ろしさを覚えてしまう。要するに一つの世代を敵視した上で、憲法や教育基本法を変えようとしているのである。そしてこのような挙動は、マスコミが現代の青少年を怪物のごとく報じるような論調なくして成り立たなかったと見て間違いないだろう。この文章において、ライブドアが経団連ではなく「今時の若者」の延長として語られているところを見ても、その構図は浮かんでくる。
そのようなことは「ニート」についてのくだりにも言えることで、「ニート」は本当に問題なのか、あるいは企業や政治の問題は無視なのか、という反論が直ちに浮かんでくる。
そして読売の社説には、《教育基本法の改正は時代の要請である》などと書かれている。嗤うべし。青少年言説に対してろくな検証も行わないまま「時代」を作り上げてきたのは、ほかならぬマスコミである。
しかしこの問題には左派にも責任がある。第一に、左派もまた青少年をイデオロギー闘争の対象にしてきたこと。左派の文言として用いられる、「教育基本法を改正して「愛国心」を押し付けると戦争を肯定するようになったり、他者への想像力が失われる」というものもまた、青少年を莫迦にした物言いでしかない。第二に、左派の少年犯罪に対する認識が、その大部分において右派と共有していることである。というのも、右派が少年犯罪の根源として「愛国心」や父性の欠如を槍玉に挙げるのに対し、左派は少年法・教育基本法の改悪に反対しながらも少年犯罪の根源を「適切な愛」なるものの欠如、あるいは「ライフハザード」などというわけのわからぬものに求め、結局のところ澤口俊之や「ゲーム脳」などといった疑似科学を肯定してしまう(小林道雄[2000-2001]、瀧井宏臣[2004]、清川輝基[2004])。
だが、左派がとるべき行動は違う。右派の挙動に対し、左派は青少年問題言説の虚妄を指摘し、(若者論による)教育基本法や憲法の規制、及びメディア規制を支える基盤それ自体を突き崩すべきなのである。今のところそのような行動を採っている衆議院議員としては泉健太氏(民主党)や保坂展人氏(社民党)あたりを挙げることができるけれども、このような動きはもっと大きくなるべきで、相手が俗情に訴えてくるのに対し、こちらは理詰めで攻めるべきだ。「国歌の品格」とか言っている人に何を言われてもひるんではいけない(そもそもありもしない「少年犯罪の急増・凶悪化」をでっち上げて「品格を取り戻せ!」っていっている人よりも、「少年犯罪の急増・凶悪化」を酒の肴にしている人たちを批判する人のほうがよほど「品格」があるよね)。
参考文献・資料
赤塚行雄(編)『青少年飛行・犯罪史資料』全3巻、刊々堂出版社、1982年3月(1巻)、1982年11月(2巻)、1983年5月(3巻)
浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
広田照幸『《愛国心》のゆくえ』世織書房、2005年9月
清川輝基「「メディア漬け」と子どもの危機」(「世界」2003年7月号、岩波書店)
小林道雄「少年事件への視点」(「世界」2000年12月号~2001年3月号、岩波書店)
岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
大鹿靖明「小泉と経団連が太らせた」(「AERA」2006年2月6日号、朝日新聞社)
芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月
瀧井宏臣『こどもたちのライフハザード』岩波書店、2004年1月
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