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2006年7月15日 (土)

俗流若者論ケースファイル82・半藤一利&山根基世&常盤豊&妹尾彰&新井紀子

 読売新聞に「子供の危機」みたいなタイトルで掲載されるインタヴューやシンポジウムの記事にろくなものがあった記憶はほとんどない。今回検証するのは、平成18年7月14日付読売新聞に掲載された、「読売NIEセミナー」の第12回シンポジウム「子どもの危機」である。

 御存知の方も多いと思うが、「NIE」というのは「Newspaper In Education」の略語であり、学校などで新聞を教材として活用するという教育法である。これは新聞の利権拡大とか噂されているし、私も現在の新聞が真の意味でのNIEにふさわしいかどうかは極めて強い疑問を持っている。

 そもそも新聞の(正確には「読売新聞の」?)推進するNIEなるものがいかに疑わしいものであるかということに関しては、このシンポジウムの記事、特に半藤一利氏(作家)、山根基世氏(NHKアナウンス室長)、常盤豊氏(文部科学省初等中等教育教育課程課長)、妹尾彰氏(日本NIE研究会会長)、新井紀子氏(国立情報学研究所教授)の座談会の記事を読めばわかってくるというものだ。たとえば妹尾氏は、のっけからこんなことを言い出す。

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 妹尾 子どもが起こす事件が頻繁になっている。人間性の低さ、未熟さから、利己的で自分中心の欲求を満たすことばかりを追い求めているように見える。心の豊かさを取り戻し、精神の貧しさを克服する一翼を担えるのが活字。特に新聞は、読む力、各地から、話す力を発展させる可能性を持ち、社会を知り、問題の善悪を考え、自分の将来を考えるきっかけにもなる。(半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子[2006]、以下、断りがないなら同様)

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 あまりに莫迦莫迦しくて、突っ込む気すら失せるんですけど。いやいや、何も私が突っ込みたいところは、少年による凶悪犯罪は昭和35年頃に比して激減しているし、かつても子供による「理解できない」(正確には、もし現代に起こったら直ちにマスコミによって「理解できない」と騒がれるであろう)凶悪犯罪はたくさんある、というところではない(いや、こっちも思いっきり突っ込みたいけれどね)。

 私が本気で突っ込みたいことは、現代の青少年が「心を失っている」などと平然と言ってのけることであり、なおかつそれを取り戻すために必要なことが「活字」であるとほとんど無根拠に言っていることだ。まず、青少年に「心の豊かさ」を「与える」(つくづくパターナリズム的で嫌な表現だが、こういう風に表記するほかないんだよな)ものは果たして「活字」しかできないことなのか?アニメや漫画だって十分に感動的で、なおかつ人生訓的にも深い意味を持った漫画やアニメも結構あるだろう。そもそも「活字」/「非・活字」などという風に暴力的に分割し、「活字」だけがすばらしく、「非・活字」は暴力の泉源である、などと考えるのは芸術に対する死刑(私刑?)宣告と同じではないか?(補記:この部分について、妹尾氏は「心の豊かさを取り戻し、精神の貧困を克服することの一翼を担えるのは活字である」としか言っておらず、「暴力的に分割」ということは言っていないのではないか、と質問を受けました。もちろんその通りではあり、「暴力的に分割」というのは言い過ぎだったかもしれません。その点に関しましては妹尾氏及び読者の皆様に謝罪します。ただ、このシンポジウムの記事全体を見渡してみるに、おそらく登壇者の共通認識として「現代の子供は活字に触れることがなくなったから精神が荒廃したのだ」というものがあるように感じられます。もちろん私のスタンスとしましては「精神の荒廃」と簡単に言ってのけてしまうこと自体疑わしいことであり、また本当に活字「だけ」が「精神の貧困を克服する」とは思えません。この点を私は衝いていきたいのです)ただ表現の仕方が違うに過ぎず、活字でしか表現できないものもあれば、漫画でしか表現できないものもあるし、アニメでしか表現できないものもあれば、ゲームでしか表現できないものもあるのである。

 妹尾氏の如き、自分の時代になかった表現はみんな諸悪の根源だ!みたいな駄々っ子の如き自意識丸出しの自称「識者」たちの暴走は止められないのか。こういう人たちに、たとえば漫画やアニメのDVDを差し出して「すばらしいのでぜひ見てください」と言っても、歯牙にもかけられないんだろうなあ。

 そもそも妹尾氏の考える「心」というものの実体が開示されていないというのもまた問題である。そもそも「正しい心」とはいったい何なのか?それをうやむやにしたまま現代の青少年から「心」が失われている、と言うのは詭弁である。最初から使わないのがよろしい。

 少々筆が滑ってしまったが、この座談会は、とにかくこのような問題発言――新聞以外に、既存の青少年問題言説に懐疑的な本やインターネットの文章(これらを彼らは「活字」とは絶対に見なしたくないだろうね)でも読んでいれば笑い飛ばす程度の代物でしかないもの――が満載なのである。山根氏と半藤氏によるやりとりを見てみよう。

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 山根 電車の中で携帯電話で話をしていても、なぜいけないのかわからない。仕事の話はできるのに、雑談ができない。そういう人に対して私たち大人は、ダメなものはダメ、という気迫が必要では。

 半藤 戦後の日本人から一番失われたのは「世間」。多様な情報を拒否して、目の前にある携帯の情報しか見ない。自分好みの情報、自分にとって便利な情報にしか触れようとしないから、論理も何もない。世間など「面倒くさい」ぐらいにしか考えていない。(半藤ほか、前掲)

―――――

 それなんて俗流若者論?などとあたしは思ってしまったけれども、ここまで若い世代を見下せるのは本当にすばらしいね。速水敏彦あたりに「若者を見下す大人たち」という本を書いて欲しいよ。無理かな、あの人も「若者を見下す大人」だから。

 それはさておき、このやりとりの中にも、山のような事実誤認や中傷が見られる。たとえば山根氏の発言を見てみる限り、《電車の中で携帯電話で話をして》いる人や《仕事の話はできるのに、雑談ができない》という人を「問題である」という前提で語っている直後に《私たち大人は》と語っているから、明らかにこれらのタイプの人は若い世代であると山根氏は認識している。若い世代は電車の中で、携帯電話を用いて行なっていることは電話ではなくてメールではないか?と思うけれども、その程度のことで「道徳の崩壊」みたいなことを嘆いてしまうのもどうかと思うけれども。このような発言が、自己を否定して企業側の求める姿に自分の姿を合わせる、というような「人間力」大流行の状況と見事にパラレルである…と徒に話を広げることは控えておくが(まあ、こう思わないわけでもないけれど)、大人ってそんなに立派なの?などという素朴な疑問はスルーだろう。

 半藤氏も半藤氏だ。大体社会学者による若い世代に対する調査は往々にして、若い世代はむしろ他人のことを気にするようになっている、という結果が出ているのだが(たとえば、岩田考[2006])。さらに言うと、現代の若い世代は、それこそ携帯電話の普及も相まって、むしろ「場」の空気に適応した行動を行なわなければならないと強く認識するようになっている、ともいえるのである。若い世代の行動を批判するにしても、少なくとも人はおしなべて与えられたメディア状況の下で戦略的・戦術的に振る舞わざるを得ず、そう考えれば現代の若い世代も意外としたたかなのだ、という認識ぐらいは持っておくべきだろう。

 少なくとも、携帯電話に関する個人的なイメージや偏見だけを以て現代の青少年を語ってしまう、ということはやめて欲しいし、論理を重視するのであればやめるべきだろう。その点からすれば、論理の重要性を語っている(はずの)半藤氏の発言は極めて感情的だ。

 もちろんこの直後の新井氏における《電車のマナーと世間の崩壊は関係があるが、では世間を復活させられるかと言うことなかなか難しい。ダメなものはダメ、というルールを家庭と社会がしっかり持たなければ》というのもそもそも青少年問題に関する前提自体が間違っている、ということで批判することができる。この発言を受けて発せられた、常盤氏の以下の物言いもまた同様である。

―――――

 常盤 今の若者は社会や世間、他社との関係作りが苦手だ。他人の目を気にせず自分だけの世界を築いて引きこもってしまう。……いまの国語教育は情緒一辺倒に偏りすぎ。論理性を兼ね備えつつ、コミュニケーション技術を高める国語教育の充実が必要だ。

―――――

 《コミュニケーション技術》だってさ。ここで共通の認識として問題視されている青少年のコミュニケーションは「本物」のコミュニケーションではないのだろう。そもそも《コミュニケーション技術》が喧伝されて、なおかつその過程において青少年における、特にインターネットや携帯電話でのコミュニケーションが「本物」ではない、などと喧伝されたからこそ、青少年の《コミュニケーション技術》が低いと錯覚しているのではないか?

 そしてこの座談会の真打ちが、山根氏の以下の発言である――私はこの発言を見て、私はNIEなるものの真意を悟ったように思えた。

―――――

 山根 美術番組の取材をすると、12歳までの体験が生涯を支配する、ということを痛感する。子供時代にどんな風景を見て、どんな言葉に接したかが大切。体験という根っこがあって言葉は育つのに、今の子どもたちは電子メディアの中の仮想体験ばかりで、言葉が育たない。言葉がいかに心地よいものか、人にかかわることがどんなに楽しく感動するかを知れば、その子どもは言葉に対する信頼感を持つ。新聞が社会教育をしていくのと同じに、テレビも、今まで以上に子どもの教育を意識すべきだ。

―――――

 恐ろしい。テレビ・メディアの人間であるにもかかわらず、山根氏が電子メディアを不当に見下していることが。そして、山根氏が「体験」という言葉をひどく狭くとらえている――そしてその「体験」なる言葉は、結局のところ青少年バッシングを正当化するためのロジックとしてしか使われないことが。いかに電子メディアにおいてすばらしい芸術があろうとも、それは「体験」ではない、というロジックによって否定される。

 そしてテレビもまた《子どもの教育を意識》されることを要求される。つまりは「教育的」な番組がもてはやされるということか。そして「教育的」でない――つまり、毎度おなじみのPTAのアンケートにおいて「子供に魅せたくない」番組として名指しされるような番組は排除されるのだろうか。そんなことは考えたくはないが、「教育的」なものばかりだけの環境に置かれれば心は豊かになる、と考えているのだろうか。

 そのようにメディアが「浄化」された状況においては、むしろ「教育的でない」ものに対しての誹謗・監視が強まるだけではないのか。そもそも「教育的」だとか、あるいはその逆の「青少年に有害」というものの基準は、万人にとって共通ではない。「青少年に有害」というものは、結局のところマスコミが「これが原因だ!」と騒ぎ立てられたものに過ぎないのである。たとい凶悪な少年犯罪を起こした犯人の部屋からゲームが見つからなかったとしても、その犯人は「ゲーム世代」ゆえに「ゲームが原因」だと決めつけられる。

 本来NIEとは、このような状況に対する批判意識を育てていくことではないのか。ある報道に対して、どの点に注意して読むべきかを認識し、足りないところに関しては指摘・批判する。そして可能であれば自らデータを引っ張ってくる。そのような方法論をサポートすることこそNIEの真価ではないかと私は思う。

 だが、少なくともこのシンポジウムの記事を読む限りでは、そのような思想は全く感じられない。それどころか、新聞の記事を無批判に受け入れることを奨励すらしているように思える。

 結局のところ、この新聞が理想とするNIEが目標としているものは何なのか?生物の出産のシーンを見て、生命の大切さに感動した、という感想文を書くことか?とりあえず、実際に観察するということを除けば、新聞よりもテレビの動物番組のほうが有利であろうし、一つのパターンの感想文を「正解」とし、教師が求めていないものを書くとやんわりと「不正解」であることを示唆する――「何々とは思わなかったのかな?」などと暗に間違いであることを示す指導をする――という事態は、教師の顔色をうかがって「模範解答」を書くような児童・生徒を増やすだけではないのか?

 それとも、少年犯罪の記事に触れさせて、「今の少年はどこが問題なのか」というテーマで議論させ、「今の親や教育がおかしくなっている」「いや、社会全体がおかしいのである」という議論を闘わせて、「そもそも現代の少年は本当に問題なのか?」「このような取材手法は報道被害を生み出しているのではないか?」などという答えは圧殺し、そして最終的には「今の青少年はおかしいのだ」と大団円になってしまうのか?

 そんなNIEなど願い下げだ!直ちにやめろ!!!!!

――――――――――――――――――――

 ちょうどいい「教材」が見つかったので紹介しよう。

http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__kyodo_20060714tk023.htm

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小中学生「論理」が苦手(共同通信)
 小中学生は作文で論理を上手に組み立てたり、算数・数学で問題の解き方を説明したりするのが苦手 ―。国立教育政策研究所が小学4年~中学3年(計約3万7000人)を対象に実施した「特定課題調査」で14日、こんな結果が出た。03年の国際的な学力調査でも同様の結果が出ており、論理的・数学的思考の弱さがあらためて示された。調査は指導要領の定着状況を検証、指導法改善が目的で今回が初めて。

[共同通信社:2006年07月14日 19時50分]

―――――

 さて、この記事を読んで、「現代の青少年は論理的思考が苦手だ」と思われる人がいるかもしれない。しかし、そのように認識することは正しくない。

 なぜか。そもそもこの記事にあるとおり、国立教育政策研究所の「特定課題調査」は今回が初めてなのである。従って、時系列での調査がなければ(つまり、以前の世代との比較がない、ということだ)、他国との比較もない。また、どのような問題の正答率が低くて、あるいは無答が多いか、ということもこの記事からはわからない。そもそも国立教育政策研究所が何をもってして「読解力が低い」としているのかもわからない。

 また、ここで引用されている《国際的な学力調査》とは、OECDによる生徒の学力到達度調査(PISA)を示すのであろう。しかし、この調査結果を「読解力低下」と結びつけることに疑問を呈する向きもある。たとえば、受験国語に詳しい石原千秋氏(早稲田大学教授)は、件の調査の設問形式に関して、《PISAの「読解力」試験は、「たたき込」んだり、「漢文の素読」をしたりするような梅実の教育では、むしろ点数が下がってしまうような性質のもの》(石原千秋[2005]、42ページ)であることを立証している。そして石原氏は、図表の読解や、文章を批評的に読んでさらに記述することが不足している我が国の国語教育では正答率が低くなることは致し方ない、としている。

 共同通信の配信記事なので短いのはやむないかもしれないが、もし新聞が好んでこの記事だけを根拠に、「衝撃のデータ」などと騒ぐようであれば、地元の学校にその新聞を二度とNIEに使うな、と進言してあげましょう(笑)。

 参考文献・資料
 半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子「第12回読売NIEセミナー シンポジウム「子どもの危機」」(2006年7月14日付読売新聞)
 浜田寿美男『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』岩波書店、2005年12月
 石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005年12月
 岩田考「若者のアイデンティティはどう変わったか」(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月)
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月

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2006年7月14日 (金)

俗流若者論ケースファイル81・梅崎正直&吉田清久&佐藤ゆかり&青山まり&岡田尊司

 以下のサイトにトラックバックします。
 冬枯れの街:ゴーストハント~幽霊の正体見たり枯れ尾花~
 西野坂学園時報:愛国教育に少子化の解決策を求める愚

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 朝日新聞社の「論座」においては、平成17年10月号から、かつて宮崎哲弥氏(評論家)が平成12年5月号から平成15年3月号まで行なっていた週刊誌批評に、新たに川端幹人氏(元「噂の眞相」副編集長)を加えて、対談形式とした週刊誌批評の連載が始まっている。その連載において、宮崎氏も川端氏も、週刊誌の「アエラ化」をしきりに嘆いている。とはいえ、そのような傾向は、私の知っている限りでは――そして宮崎氏も川端氏も十分熟知しているであろう――既に前々から見られていた。

 特に「読売ウィークリー」においては、平成14年頃、有名人の顔が表紙を飾るのではなく、巻頭記事をイメージした絵や写真などが表紙に据えられるようになってから、果たしてこれは「AERA」なのかと疑ってしまうような記事が巻頭に来るようになった。「35歳未婚女」とか「ニート家庭「凄絶」白書」とかいった感じに。部数アップのためかどうかは知らないが、少なくともこういう記事を巻頭に持ってくることが、果たして新聞社の週刊誌がやることか?「AERA」だってもう少しまともな記事を巻頭に持ってくるだろう(ちなみに私は今年に入ってから「AERA」を毎号購読しているが、ざっと見た限りではここ3か月は就職やビジネスの記事が巻頭に据えられることが多い)。「AERA」だって、中森明夫氏が言うところの「アエラ問題」関係の記事は雑誌の中ほどにあることが多いのに、「読売ウィークリー」は堂々と最前面に出してくるのである。本家の「AERA」さえも凌駕してしまったのかと錯覚するほどだ。

 いっそ「アエラ問題」などという言い方はやめて「ヨミィ問題」と呼ぶことにしようか。そもそも「ヨミィ問題」は「アエラ問題」に比して青少年や若い親たちに対する憎悪とか偏見が強い(まあ青少年問題に関しては「アエラ問題」もほとんど同様かもしれないけど)。従って「アエラ問題」「ヨミィ問題」記事は必然的に俗流若者論が出てくる確率が高くなる(『「ニート」って言うな!』で私が採り上げた、「AERA」平成17年4月25日号の、石臥薫子「姉御負け犬と潜在ニート男」はその典型である)。

 そしてそこで出てくる俗流若者論は実に下らないものが多い。B級テイストが実にあふれている。しかしB級テイストがあふれる俗流若者論もまた、若者論コレクターたる私の興味をそそってしまい、結果として収集しては批判したくなってしまう…ああ、コレクターの哀しき定めよ。

 なんて痛い自分をさらけ出している時間ではないので、とっとと文章の検証にはいる。今回検証するのは、梅崎正直、吉田清久(「読売ウィークリー」編集部)、佐藤ゆかり(ライター。政治家ではない)、青山まり(ライター)の各氏による、「読売ウィークリー」平成18年7月23日号の巻頭記事「40歳のセックスレス事情 「女はいらない」男たち」である。

 いや、この記事って、本当に「アエラ問題」っていうか、「ヨミィ問題」っていうか、そのような記事が抱える独特のB級テイストにあふれているんですよね。たとえば最初の1ページで、我が国において40~44歳の男性の7.9%が童貞である、という調査結果に過剰に驚いていたりとか(「第2回男女の生活と意識に関する調査報告書」という統計がソースらしい)。そしてそれについてわざわざ「専門家」にお伺いを立ててみたりとか。そんなの個人の勝手だろう、というあたしの疑問は完全にスルーしますよと言わんばかりに「解説」をつけてみるわけさ。

 そこであたしは一抹の不安感を抱いたんだ。というのもその「専門家」の中には、なんと『脳内汚染』(文藝春秋)の著者である岡田尊司氏(精神科医)が出てきているんだよ!!そしてあたしの懸念はついに現実のものとなってしまうんだが…これに関しては後で述べることとしよう。

 気を取り直して記事の検証作業を続けることとする。まあ、セックスレス、晩婚化、非婚化を過剰に嘆いてみせては何の益体もない「解説」をつけるという前半部分に関しては、はいはい大きなお世話ですよ、以外の感想を持ち得ないのでスルーすることとする。また、アダルトビデオなどがあおるような女性を満足させなければいけない、というイメージがかえってプレッシャーとなっている、という指摘もある程度は的を得ていると思う。だが15ページの最後のほうに入って、雲行きが怪しくなってくる。亀山早苗氏(ノンフィクション作家)が出てくるあたりからである。

―――――

 男女関係の諸相を取材してきたノンフィクション作家の亀山早苗さんは、こう話す。

 「40歳代よりもっとセックスに弱くなっているのは30歳代、20歳代だと思います。彼らと話していると、仕事や趣味優先で、デートやセックスの優先順位は低い。『セックスしなくて何がいけないの』と言い換えされてしまいます」

 亀山さんによれば、30歳代男性に多いのは、女性とのコミュニケーションをいとう傾向だ。女性とのデートは面倒くさい、何を話していいのかわからない――という男性も多い。仕事やパソコンに没頭しているほうが楽。ましてやセックスなど……。(梅崎正直、吉田清久、佐藤ゆかり、青山まり[2006]15ページ)

―――――

 文脈を無視してなぜかパソコンが出てきてしまったのは、ここで一種の複線を引いているからだろう――すなわち、パソコンなどの「ヴァーチャル」に「没頭する」青少年の精神のあり方こそが問題なのだ、という論理に展開させるための。また、ここで都合よく論じる対象を40代から30代以下にシフトさせている。

 さあさあここでやって来ましたよ、伝説の『脳内汚染』の著者、岡田尊司氏のご託宣が。それでは岡田さん、歌っていただきましょう、想いを込めて!!

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 前出の岡田さんは、「しない男性」が増える遠因として意外な指摘をする。「テレビ」だ。

 前出の日本家族計画協会調査の未経験率は、40~44歳男性が7.9%だったのに対し、すぐ上の45~39歳男はゼロだった。

 「両世代間の育ち方の何が違うのかを考えると、そこにテレビがある。40~44歳は、生まれたときから家庭にテレビがあった最初の世代なのです。家族の団欒も、皆がテレビの方を向くようになり、正面から視線を交わして話をすることが少なくなった。そのことが、対女性関係に影響しているのではないでしょうか」

 そして現代の環境に目を向けると……本誌のセックスレス男性アンケートでは、「セックスよりも楽しいこと」に、未既婚者とも「仕事」「パソコン」を多く挙げていた(18ページの囲み記事参照)。

 「パソコンの操作環境、つまり自分の意志通りに対象を操作できる環境に慣れた人は、相手に主導権を持たれると不安、不快になる。恋愛やセックスのような相互的関係は苦手で、不自由に思う傾向があります。また、仕事でストレスが大きくなると、体内でステロイドホルモンが分泌され、性欲低下の原因になります」(岡田さん)

 パソコンと仕事依存。30~40歳代の男性の生活環境に、ごく当たり前にあるものだろう。これがセックスレスを産むのか、逆に、女性と向き合うことを回避するために仕事やパソコンに向かうのか――「ニワトリと卵」のスパイラルの中で、オトコたちの性は衰え、そしてニッポンの少子化は静かに進んでいく。(梅崎ほか、前掲、16ページ)

―――――

 うーん、いいねえ。特に最後における、「オトコ」「ニッポン」というカタカナ表記がすばらしい。このように表記することによって、本来「あるべき姿」である「男」「日本」ではなく、現状が本来「あるべき姿」からは「退化」した「オトコ」「ニッポン」であると嘆くことができ、さらに少子化の原因を全部昨今のそれこそ「オトコ」「ニッポン」のせいにすることができるのだから。

 これは俗流若者論が作るネバーランドである。要するに、経済的原因とか、あるいは脅迫的子育て言説と俗流若者論の蔓延(あたしは特にこの2つが少子化にもたらす影響を無視してはならないと思ってるんだけどね)の検証をスルーし、青少年の「内面」こそが問題であるとすることができるのだから。俺たち大人は悪くない!悪いのはみんな「あいつら」なんだ!という駄々っ子の如き叫びが聞こえてきそうだ。「大人」という無謬の殻に閉じこもる限り、「大人」たちはイノセンスの殻にこもることができる。そして現在、この無謬の殻の役割を果たしているのが、単純に言えば高度経済成長期的な価値観である。これはこの記事に限らず、たとえば「下流社会」論や「かまやつ女」論にも強く見られるものである(って、両方とも三浦展じゃん)。

 岡田氏もまた、これほどまでに単純なメディア悪影響論を信奉しているという姿がまた滑稽である。そもそもこれが精神科医の「分析」なのか、と私は疑ってしまう。そんなことはそこらの俗流保守論壇人にもいえることだ。

 それにしても岡田氏の単純すぎるパソコンに対する理解はどうにかならないものか、このインターネットやネットゲーム全盛の時代に。私はネットゲームはやったことはないけれども、ネットゲームの普及がこれまでのゲームのあり方を変えることは誰にでもわかる話だろう。

 記事の書き手の名誉のために付け加えておくと、19ページには赤川学氏(東京大学助教授)のインタヴューが掲載されており、タイトルの「恋愛至上主義こそ元凶だ!」という内容の通り、むしろ「コミュニケーション能力」重視の傾向こそが問題だ、という良心的な内容になってはいる。しかしこのインタヴューが記事の中でコラムとして引き合いに出されるのではなく、最後の最後で、しかも(統計的に極めて怪しい)セックスレス男性に対する「調査」のあとに書かれているのだから、おそらく読む人はそれほど多くはないかもしれない。第一、この記事自体が「恋愛至上主義」に染まっているし。結局のところ、「どう見てもエクスキューズです、本当にありがとうございました」としか言いようがないのである。赤川氏が気の毒である。

 いや、ここまでねちっこく批判したけれども、私がこの記事の書き手に対してもっとも言いたいことは次の一言に尽きる。

 で、あんたらはこの記事で何が言いたかったの?

 参考文献・資料
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月
 堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社現代新書、2006年4月
 梅崎正直、吉田清久、佐藤ゆかり、青山まり「40歳のセックスレス事情 「女はいらない」男たち」(「読売ウィークリー」2006年7月23日号、読売新聞社)

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2006年7月 5日 (水)

「論座」平成18年8月号発売のお知らせ、他

 (これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)

 

・「論座」平成18年8月号発売のお知らせ

 「論座」平成18年8月号の書評欄内、「本から時代を読む」欄で、「「俗流若者論」と対峙する」という文章を書きました。ご一読を。

 

http://opendoors.asahi.com/data/detail/7474.shtml

 

・「神保町小説アカデミー」からのお知らせ

 同会からの宣伝の依頼があったので公表します。

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●ダイジェスト

巨椋修氏×雨宮処凛氏 miniトークライブも実施!!
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ・日時 7月14日18時~21時(&二次会)
 ・場所 ちよだプラットフォームスクウェア(東京都千代田区)
 ・主催 ニート・不登校・ひきこもり NEXT VISION FORUM

 << 映画『不登校の真実』上映会のお知らせ >>
    http://next-forum.dreamblog.jp/15/16

                   申込締切 7月13日(木)22時00分
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ◆イベント概要

 名称: 映画 『不登校の真実』上映会
    サンプル映像あり
    → http://www.geocities.jp/office_piko/daizyoubu/eizou.htm
 日時: 平成18年7月14日(金) 午後6時開場、6時半上映開始(約73分)
 場所: ちよだプラットホームスクエア 5F会議室
    (東京都千代田区神田錦町3-21)
    http://yamori.jp/modules/tinyd5/

 定員: 40名(定員になり次第締め切らせていただきます)
 参加費: 1,800円(1ドリンク+軽食付き)

 上映後、監督の巨椋修さんと雨宮処凛さんによるminiトークライブも実施
 <その後、二次会へ(二次会のみの参加も可)>
 *二次会参加費=3,000円

 ◆映画『不登校の真実』紹介

 (映画『不登校の真実』上映委員会WebSiteより抜粋
 → http://www.max.hi-ho.ne.jp/oguosa/futoukou/

 ○テーマ

 この作品は、現在13万人を越える不登校児を取り巻くドラマと、その周辺
 にスポットをあて、不登校とその周辺をテーマにしたビデオ映画です。

 ○原作

 『不登校の真実』巨椋修(おぐらおさむ)著 きんのくわがた社刊

 ○企画意図

 この作品では、不登校児の心理、親や教師の立場と心理などを描くことに
 よって不登校に悩む当人や親、教師の方々に一つのヒントや励ましになり
 、地域の理解や協力を得ることができるようになればと思い企画いたしま
 した。また、出演やスタッフに、不登校経験者が参加協力をしています。

 現在、不登校問題の解決とは「学校へ復帰することである」という考え方
 が主となっています。そのため、学校へ復帰さえすればいい。学校へ復帰
 することのみが、不登校問題の解決であるという思いが、多くの人々にあ
 るのは否めません。

 しかしわたしたちは学校へ復帰することだけが、問題の解決ではなく、学
 校へ復帰することもの一つの方法だし、学校へいかなくても方法はいろい
 ろと多くあることをしって欲しい。と考えており、そういった思いがこの
 作品のコンセプトとなっています。

 ○巨椋修プロフィール

 小説家・漫画家・映画監督。1982年「デラックスマーガレット」(集英社)
 で漫画家デビュー。1996年、小説「実戦! ケンカ空手家烈伝」(福昌堂
 刊)にて小説デビュー。同年、総合格闘技・陽明門護身拳法道場を発足。
 2003年、映画「不登校の真実」監督。2004年、富山大学非常勤講師。著作
 には、『不登校の真実』(きんのくわがた社)『新版 丹下左膳』(コア
 ラブッスク、リイド社)『お父さん、お母さん、肩の力を抜きませんか』
 (コアラブックス刊)等多数。 日本映画監督新人協会役員

  ・映画『不登校の真実』制作委員会
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/oguosa/futoukou/

  ・不登校・ひきこもり・ニートを考えるブログ
  http://plaza.rakuten.co.jp/ogura/

 ◆雨宮処凛プロフィール

 1975年北海道生まれ。ゴスロリ作家。元パンク歌手&元政治活動家。アト
 ピーが原因で受けたイジメを発端に、不登校、家出、リストカット、自殺
 未遂などを繰り返す。その壮絶な半生を描いた『生き地獄天国』(太田出
 版)は大きな反響を呼び、以後『自殺のコスト』(太田出版)、『暴力恋愛』
 (講談社)、『EXIT』(新潮社)など数多くの話題作を生み出している。
 ドキュメント映画『新しい神様』(監督・土屋豊)にも出演。

  ・雨宮処凛公式ホームページ
  http://www3.tokai.or.jp/amamiya/

  ・すごい生き方 ブログ
  http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/

 ◆申込・問い合わせ
  ------------------------------------------------------------
  ○申し込み先:http://next-forum.dreamblog.jp/5/15
  ※申込み締切り:7月13日(木)22時まで

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