俗流若者論ケースファイル82・半藤一利&山根基世&常盤豊&妹尾彰&新井紀子
読売新聞に「子供の危機」みたいなタイトルで掲載されるインタヴューやシンポジウムの記事にろくなものがあった記憶はほとんどない。今回検証するのは、平成18年7月14日付読売新聞に掲載された、「読売NIEセミナー」の第12回シンポジウム「子どもの危機」である。
御存知の方も多いと思うが、「NIE」というのは「Newspaper In Education」の略語であり、学校などで新聞を教材として活用するという教育法である。これは新聞の利権拡大とか噂されているし、私も現在の新聞が真の意味でのNIEにふさわしいかどうかは極めて強い疑問を持っている。
そもそも新聞の(正確には「読売新聞の」?)推進するNIEなるものがいかに疑わしいものであるかということに関しては、このシンポジウムの記事、特に半藤一利氏(作家)、山根基世氏(NHKアナウンス室長)、常盤豊氏(文部科学省初等中等教育教育課程課長)、妹尾彰氏(日本NIE研究会会長)、新井紀子氏(国立情報学研究所教授)の座談会の記事を読めばわかってくるというものだ。たとえば妹尾氏は、のっけからこんなことを言い出す。
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妹尾 子どもが起こす事件が頻繁になっている。人間性の低さ、未熟さから、利己的で自分中心の欲求を満たすことばかりを追い求めているように見える。心の豊かさを取り戻し、精神の貧しさを克服する一翼を担えるのが活字。特に新聞は、読む力、各地から、話す力を発展させる可能性を持ち、社会を知り、問題の善悪を考え、自分の将来を考えるきっかけにもなる。(半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子[2006]、以下、断りがないなら同様)
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あまりに莫迦莫迦しくて、突っ込む気すら失せるんですけど。いやいや、何も私が突っ込みたいところは、少年による凶悪犯罪は昭和35年頃に比して激減しているし、かつても子供による「理解できない」(正確には、もし現代に起こったら直ちにマスコミによって「理解できない」と騒がれるであろう)凶悪犯罪はたくさんある、というところではない(いや、こっちも思いっきり突っ込みたいけれどね)。
私が本気で突っ込みたいことは、現代の青少年が「心を失っている」などと平然と言ってのけることであり、なおかつそれを取り戻すために必要なことが「活字」であるとほとんど無根拠に言っていることだ。まず、青少年に「心の豊かさ」を「与える」(つくづくパターナリズム的で嫌な表現だが、こういう風に表記するほかないんだよな)ものは果たして「活字」しかできないことなのか?アニメや漫画だって十分に感動的で、なおかつ人生訓的にも深い意味を持った漫画やアニメも結構あるだろう。そもそも「活字」/「非・活字」などという風に暴力的に分割し、「活字」だけがすばらしく、「非・活字」は暴力の泉源である、などと考えるのは芸術に対する死刑(私刑?)宣告と同じではないか?(補記:この部分について、妹尾氏は「心の豊かさを取り戻し、精神の貧困を克服することの一翼を担えるのは活字である」としか言っておらず、「暴力的に分割」ということは言っていないのではないか、と質問を受けました。もちろんその通りではあり、「暴力的に分割」というのは言い過ぎだったかもしれません。その点に関しましては妹尾氏及び読者の皆様に謝罪します。ただ、このシンポジウムの記事全体を見渡してみるに、おそらく登壇者の共通認識として「現代の子供は活字に触れることがなくなったから精神が荒廃したのだ」というものがあるように感じられます。もちろん私のスタンスとしましては「精神の荒廃」と簡単に言ってのけてしまうこと自体疑わしいことであり、また本当に活字「だけ」が「精神の貧困を克服する」とは思えません。この点を私は衝いていきたいのです)ただ表現の仕方が違うに過ぎず、活字でしか表現できないものもあれば、漫画でしか表現できないものもあるし、アニメでしか表現できないものもあれば、ゲームでしか表現できないものもあるのである。
妹尾氏の如き、自分の時代になかった表現はみんな諸悪の根源だ!みたいな駄々っ子の如き自意識丸出しの自称「識者」たちの暴走は止められないのか。こういう人たちに、たとえば漫画やアニメのDVDを差し出して「すばらしいのでぜひ見てください」と言っても、歯牙にもかけられないんだろうなあ。
そもそも妹尾氏の考える「心」というものの実体が開示されていないというのもまた問題である。そもそも「正しい心」とはいったい何なのか?それをうやむやにしたまま現代の青少年から「心」が失われている、と言うのは詭弁である。最初から使わないのがよろしい。
少々筆が滑ってしまったが、この座談会は、とにかくこのような問題発言――新聞以外に、既存の青少年問題言説に懐疑的な本やインターネットの文章(これらを彼らは「活字」とは絶対に見なしたくないだろうね)でも読んでいれば笑い飛ばす程度の代物でしかないもの――が満載なのである。山根氏と半藤氏によるやりとりを見てみよう。
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山根 電車の中で携帯電話で話をしていても、なぜいけないのかわからない。仕事の話はできるのに、雑談ができない。そういう人に対して私たち大人は、ダメなものはダメ、という気迫が必要では。
半藤 戦後の日本人から一番失われたのは「世間」。多様な情報を拒否して、目の前にある携帯の情報しか見ない。自分好みの情報、自分にとって便利な情報にしか触れようとしないから、論理も何もない。世間など「面倒くさい」ぐらいにしか考えていない。(半藤ほか、前掲)
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それなんて俗流若者論?などとあたしは思ってしまったけれども、ここまで若い世代を見下せるのは本当にすばらしいね。速水敏彦あたりに「若者を見下す大人たち」という本を書いて欲しいよ。無理かな、あの人も「若者を見下す大人」だから。
それはさておき、このやりとりの中にも、山のような事実誤認や中傷が見られる。たとえば山根氏の発言を見てみる限り、《電車の中で携帯電話で話をして》いる人や《仕事の話はできるのに、雑談ができない》という人を「問題である」という前提で語っている直後に《私たち大人は》と語っているから、明らかにこれらのタイプの人は若い世代であると山根氏は認識している。若い世代は電車の中で、携帯電話を用いて行なっていることは電話ではなくてメールではないか?と思うけれども、その程度のことで「道徳の崩壊」みたいなことを嘆いてしまうのもどうかと思うけれども。このような発言が、自己を否定して企業側の求める姿に自分の姿を合わせる、というような「人間力」大流行の状況と見事にパラレルである…と徒に話を広げることは控えておくが(まあ、こう思わないわけでもないけれど)、大人ってそんなに立派なの?などという素朴な疑問はスルーだろう。
半藤氏も半藤氏だ。大体社会学者による若い世代に対する調査は往々にして、若い世代はむしろ他人のことを気にするようになっている、という結果が出ているのだが(たとえば、岩田考[2006])。さらに言うと、現代の若い世代は、それこそ携帯電話の普及も相まって、むしろ「場」の空気に適応した行動を行なわなければならないと強く認識するようになっている、ともいえるのである。若い世代の行動を批判するにしても、少なくとも人はおしなべて与えられたメディア状況の下で戦略的・戦術的に振る舞わざるを得ず、そう考えれば現代の若い世代も意外としたたかなのだ、という認識ぐらいは持っておくべきだろう。
少なくとも、携帯電話に関する個人的なイメージや偏見だけを以て現代の青少年を語ってしまう、ということはやめて欲しいし、論理を重視するのであればやめるべきだろう。その点からすれば、論理の重要性を語っている(はずの)半藤氏の発言は極めて感情的だ。
もちろんこの直後の新井氏における《電車のマナーと世間の崩壊は関係があるが、では世間を復活させられるかと言うことなかなか難しい。ダメなものはダメ、というルールを家庭と社会がしっかり持たなければ》というのもそもそも青少年問題に関する前提自体が間違っている、ということで批判することができる。この発言を受けて発せられた、常盤氏の以下の物言いもまた同様である。
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常盤 今の若者は社会や世間、他社との関係作りが苦手だ。他人の目を気にせず自分だけの世界を築いて引きこもってしまう。……いまの国語教育は情緒一辺倒に偏りすぎ。論理性を兼ね備えつつ、コミュニケーション技術を高める国語教育の充実が必要だ。
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《コミュニケーション技術》だってさ。ここで共通の認識として問題視されている青少年のコミュニケーションは「本物」のコミュニケーションではないのだろう。そもそも《コミュニケーション技術》が喧伝されて、なおかつその過程において青少年における、特にインターネットや携帯電話でのコミュニケーションが「本物」ではない、などと喧伝されたからこそ、青少年の《コミュニケーション技術》が低いと錯覚しているのではないか?
そしてこの座談会の真打ちが、山根氏の以下の発言である――私はこの発言を見て、私はNIEなるものの真意を悟ったように思えた。
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山根 美術番組の取材をすると、12歳までの体験が生涯を支配する、ということを痛感する。子供時代にどんな風景を見て、どんな言葉に接したかが大切。体験という根っこがあって言葉は育つのに、今の子どもたちは電子メディアの中の仮想体験ばかりで、言葉が育たない。言葉がいかに心地よいものか、人にかかわることがどんなに楽しく感動するかを知れば、その子どもは言葉に対する信頼感を持つ。新聞が社会教育をしていくのと同じに、テレビも、今まで以上に子どもの教育を意識すべきだ。
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恐ろしい。テレビ・メディアの人間であるにもかかわらず、山根氏が電子メディアを不当に見下していることが。そして、山根氏が「体験」という言葉をひどく狭くとらえている――そしてその「体験」なる言葉は、結局のところ青少年バッシングを正当化するためのロジックとしてしか使われないことが。いかに電子メディアにおいてすばらしい芸術があろうとも、それは「体験」ではない、というロジックによって否定される。
そしてテレビもまた《子どもの教育を意識》されることを要求される。つまりは「教育的」な番組がもてはやされるということか。そして「教育的」でない――つまり、毎度おなじみのPTAのアンケートにおいて「子供に魅せたくない」番組として名指しされるような番組は排除されるのだろうか。そんなことは考えたくはないが、「教育的」なものばかりだけの環境に置かれれば心は豊かになる、と考えているのだろうか。
そのようにメディアが「浄化」された状況においては、むしろ「教育的でない」ものに対しての誹謗・監視が強まるだけではないのか。そもそも「教育的」だとか、あるいはその逆の「青少年に有害」というものの基準は、万人にとって共通ではない。「青少年に有害」というものは、結局のところマスコミが「これが原因だ!」と騒ぎ立てられたものに過ぎないのである。たとい凶悪な少年犯罪を起こした犯人の部屋からゲームが見つからなかったとしても、その犯人は「ゲーム世代」ゆえに「ゲームが原因」だと決めつけられる。
本来NIEとは、このような状況に対する批判意識を育てていくことではないのか。ある報道に対して、どの点に注意して読むべきかを認識し、足りないところに関しては指摘・批判する。そして可能であれば自らデータを引っ張ってくる。そのような方法論をサポートすることこそNIEの真価ではないかと私は思う。
だが、少なくともこのシンポジウムの記事を読む限りでは、そのような思想は全く感じられない。それどころか、新聞の記事を無批判に受け入れることを奨励すらしているように思える。
結局のところ、この新聞が理想とするNIEが目標としているものは何なのか?生物の出産のシーンを見て、生命の大切さに感動した、という感想文を書くことか?とりあえず、実際に観察するということを除けば、新聞よりもテレビの動物番組のほうが有利であろうし、一つのパターンの感想文を「正解」とし、教師が求めていないものを書くとやんわりと「不正解」であることを示唆する――「何々とは思わなかったのかな?」などと暗に間違いであることを示す指導をする――という事態は、教師の顔色をうかがって「模範解答」を書くような児童・生徒を増やすだけではないのか?
それとも、少年犯罪の記事に触れさせて、「今の少年はどこが問題なのか」というテーマで議論させ、「今の親や教育がおかしくなっている」「いや、社会全体がおかしいのである」という議論を闘わせて、「そもそも現代の少年は本当に問題なのか?」「このような取材手法は報道被害を生み出しているのではないか?」などという答えは圧殺し、そして最終的には「今の青少年はおかしいのだ」と大団円になってしまうのか?
そんなNIEなど願い下げだ!直ちにやめろ!!!!!
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ちょうどいい「教材」が見つかったので紹介しよう。
http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__kyodo_20060714tk023.htm
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小中学生「論理」が苦手(共同通信)
小中学生は作文で論理を上手に組み立てたり、算数・数学で問題の解き方を説明したりするのが苦手 ―。国立教育政策研究所が小学4年~中学3年(計約3万7000人)を対象に実施した「特定課題調査」で14日、こんな結果が出た。03年の国際的な学力調査でも同様の結果が出ており、論理的・数学的思考の弱さがあらためて示された。調査は指導要領の定着状況を検証、指導法改善が目的で今回が初めて。
[共同通信社:2006年07月14日 19時50分]
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さて、この記事を読んで、「現代の青少年は論理的思考が苦手だ」と思われる人がいるかもしれない。しかし、そのように認識することは正しくない。
なぜか。そもそもこの記事にあるとおり、国立教育政策研究所の「特定課題調査」は今回が初めてなのである。従って、時系列での調査がなければ(つまり、以前の世代との比較がない、ということだ)、他国との比較もない。また、どのような問題の正答率が低くて、あるいは無答が多いか、ということもこの記事からはわからない。そもそも国立教育政策研究所が何をもってして「読解力が低い」としているのかもわからない。
また、ここで引用されている《国際的な学力調査》とは、OECDによる生徒の学力到達度調査(PISA)を示すのであろう。しかし、この調査結果を「読解力低下」と結びつけることに疑問を呈する向きもある。たとえば、受験国語に詳しい石原千秋氏(早稲田大学教授)は、件の調査の設問形式に関して、《PISAの「読解力」試験は、「たたき込」んだり、「漢文の素読」をしたりするような梅実の教育では、むしろ点数が下がってしまうような性質のもの》(石原千秋[2005]、42ページ)であることを立証している。そして石原氏は、図表の読解や、文章を批評的に読んでさらに記述することが不足している我が国の国語教育では正答率が低くなることは致し方ない、としている。
共同通信の配信記事なので短いのはやむないかもしれないが、もし新聞が好んでこの記事だけを根拠に、「衝撃のデータ」などと騒ぐようであれば、地元の学校にその新聞を二度とNIEに使うな、と進言してあげましょう(笑)。
参考文献・資料
半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子「第12回読売NIEセミナー シンポジウム「子どもの危機」」(2006年7月14日付読売新聞)
浜田寿美男『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』岩波書店、2005年12月
石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005年12月
岩田考「若者のアイデンティティはどう変わったか」(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月)
岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
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