正高信男という零落
平成18年8月の講談社ブルーバックスの新刊として、曲学阿世の徒・正高信男氏(京都大学教授)による『他人を許せないサル』が出た。
はっきり言っておくが、本書は、書評するに堪える代物ではない。なぜなら、著者の単なる思いこみが、ただただ連発されているだけなのだ。客観的なデータはほとんどなし、あっても極めて問題の多い統計だったりする(例えば、魚住絹代[2006])。
本当に退屈な本なのだ。若者論オタクの私からしても、本書に書かれていることはどこかで聞いたような「愚痴」ばかりであり、ちっともおもしろくない。そのため、15分もかからないうちに読了することができた(付箋をつけながら!)。
内容としては、『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)及び、それを並べ替えただけの代物である『考えないヒト』(中公新書)と全く変わりがない。それどころか、特に後者を引いて、「事態はますます深刻になってしまった」と言ってしまっている始末の箇所まであるのだ。
というわけで、このエントリーでは、私が見つけた主要なつっこみどころを列挙していくこととする。
・31ページ。電車内における携帯電話の利用(まあ、その観察も所詮は著者が見ただけなのだが)に関する記述、《彼ら(筆者注:電車内で携帯電話をいじる人たち)はケータイで何かの情報を検索しているのだろうか。字幕でいち早くニュースを入手しているのだろうか。いや、むしろ、メールのやりとりをしている頻度の方が高いに違いない》。そんなに簡単に断定するなよ。
・34ページ。著者によれば《ケータイの人口普及率では世界でもっとも進んでいる欧米でも、ケータイをこぜわしくそうさはまず見られない》。その証拠は?せめて写真くらい見せてくれ。
・37ページ。《日本人は世代を問わず、ともかく座りたがる》と書き、《身体的に緊張を保つことが困難になってきている》とする。そういうことを言うなら、かつてはどうだったか、ということを示すべきでは?
・45ページ。「右脳人間」「左脳人間」という言葉が出てくるが、右と左がそれぞれ別の役割を担っている、という考え方に関しては有意な批判がある(ロルフ・デーゲン[2003]、352~361ページ)。っていうか、このネタって前著の使い回しでしょ。
・88ページ。《いまの子どもたちというのは、目の前でいじめられている友だちがいても、その痛みを感じられない。自分の延長したところに、友達という存在を位置づけられない。テレビゲームで起きていることと、学校のクラスで起きていることが一緒になってしまったのが、テレビげーむっこの特徴だろう。つまり、現実と仮想の区別がつかないといった状況なのだろう。我々がイラク戦争をテレビで見ているのと同じような感じ方なのかもしれない。つまり、自我の延長の濃淡というものがなくなってしまった》だとさ。いささか無理のありすぎるアナロジーだ。
・105ページから106ページにかけて。小見出しに曰く《激増するケータイ犯罪》。しかし著者は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(NTT出版)に引用されている事例2件だけを引いて、このような犯罪が増えるものであると確信しているようだ。しかしたったそれだけの事例でいいのだろうか?
・112ページ。先ほど述べたとおり、あまりにも統計学的に問題の多い、魚住絹代『いまどき中学生白書』(講談社)を真に受けている。これに関しては、私の「2006年1~3月の1冊」における書評、及び「たこの感想文」と「冬枯れの街」による批判を参照されたい。
・119ページ。「絵文字の使用は言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点でユニークであり、それはコミュニケーションの退化である」という珍説を性懲りもなく展開している。このネタも使い回しだあ。
・141ページから142ページにかけて。完全にステレオタイプだけの「ひきこもり」イメージを展開している。すなわち、「ひきこもり」はネット中毒者でコミュニケーションを放棄した存在である、というもの。これを読むだけでも、少なくとも我が国における「ひきこもり」に関して全く無知であることがわかる。
・156ページ。括弧の中だが、《筆者個人は基本的にサルの行動になじんだ研究者である。だから、もっともっとサル化した人間がそこら中に溢れるのをじっくり見てみたいものだと願っている》キター!!
・159ページ。あくまでも核家族を悪者に仕立て上げたいらしい。これも使い回しのような気がする。
などなど。これほどまでにどうでもいい記述が並ぶような本なのだ。繰り返すが、若者論オタクの私の目から見てもちっともおもしろい本ではない。このような本が、権威ある講談社ブルーバックスから出ている、ということに驚嘆したい人だけ買えばよろしい。
それにしても、である。かつての正高氏、具体的に言えば『ケータイを持ったサル』の頃の正高氏は、どう見てもおかしいデータやグラフ、そしてでっち上げではないかと思わせるほどのボケをかましているような実験結果までも含めて、少なくとも「子供だまし」のテクニックは持っていたような気がする。そしてこのような「子供だまし」は、森昭雄然り、澤口俊之然り、岡田尊司然り、速水敏彦然り、丸橋賢然りと、本来「専門家」や「臨床医」であるはずの俗流若者論者の論理に共通してみられるものである(森氏の『ゲーム脳の恐怖』がトンデモ本大賞の候補に挙がったのも、ひとえに「子供だまし」があまりにも滑りすぎていたからだろう)。しかるに、『人間性の進化史』以降の正高氏は、そのような「子供だまし」すらも捨て去った。要するにこの系統の本をトンデモ本たらしめている要素である、「子供だまし」が滑ってしまう可能性がないのだ。なぜなら滑ってしまう「子供だまし」それ自体がないから。そして残ったのは「自分が不快に思うのは無条件に退化の証なのだ」という「子供だまし」どころか「子供の論理」だけだ。むしろその点を追っていきたいと思うのだが、いかがか。
引用文献
ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
魚住絹代いまどき中学生白書』講談社、2006年3月
参考文献
こんな駄本を読むくらいなら以下の本を読め。
・青少年の行動、及び青少年のメディア使用について
浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
山崎敬一(編著)『モバイルコミュニケーション』大修館書店、2006年3月
・ウェブの将来像について
佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月
・青少年犯罪について
浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月
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