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2006年8月19日 (土)

正高信男という零落

 平成18年8月の講談社ブルーバックスの新刊として、曲学阿世の徒・正高信男氏(京都大学教授)による『他人を許せないサル』が出た。

 はっきり言っておくが、本書は、書評するに堪える代物ではない。なぜなら、著者の単なる思いこみが、ただただ連発されているだけなのだ。客観的なデータはほとんどなし、あっても極めて問題の多い統計だったりする(例えば、魚住絹代[2006])。

 本当に退屈な本なのだ。若者論オタクの私からしても、本書に書かれていることはどこかで聞いたような「愚痴」ばかりであり、ちっともおもしろくない。そのため、15分もかからないうちに読了することができた(付箋をつけながら!)。

 内容としては、『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)及び、それを並べ替えただけの代物である『考えないヒト』(中公新書)と全く変わりがない。それどころか、特に後者を引いて、「事態はますます深刻になってしまった」と言ってしまっている始末の箇所まであるのだ。

 というわけで、このエントリーでは、私が見つけた主要なつっこみどころを列挙していくこととする。

 ・31ページ。電車内における携帯電話の利用(まあ、その観察も所詮は著者が見ただけなのだが)に関する記述、《彼ら(筆者注:電車内で携帯電話をいじる人たち)はケータイで何かの情報を検索しているのだろうか。字幕でいち早くニュースを入手しているのだろうか。いや、むしろ、メールのやりとりをしている頻度の方が高いに違いない》。そんなに簡単に断定するなよ。

 ・34ページ。著者によれば《ケータイの人口普及率では世界でもっとも進んでいる欧米でも、ケータイをこぜわしくそうさはまず見られない》。その証拠は?せめて写真くらい見せてくれ。

 ・37ページ。《日本人は世代を問わず、ともかく座りたがる》と書き、《身体的に緊張を保つことが困難になってきている》とする。そういうことを言うなら、かつてはどうだったか、ということを示すべきでは?

 ・45ページ。「右脳人間」「左脳人間」という言葉が出てくるが、右と左がそれぞれ別の役割を担っている、という考え方に関しては有意な批判がある(ロルフ・デーゲン[2003]、352~361ページ)。っていうか、このネタって前著の使い回しでしょ。

 ・88ページ。《いまの子どもたちというのは、目の前でいじめられている友だちがいても、その痛みを感じられない。自分の延長したところに、友達という存在を位置づけられない。テレビゲームで起きていることと、学校のクラスで起きていることが一緒になってしまったのが、テレビげーむっこの特徴だろう。つまり、現実と仮想の区別がつかないといった状況なのだろう。我々がイラク戦争をテレビで見ているのと同じような感じ方なのかもしれない。つまり、自我の延長の濃淡というものがなくなってしまった》だとさ。いささか無理のありすぎるアナロジーだ。

 ・105ページから106ページにかけて。小見出しに曰く《激増するケータイ犯罪》。しかし著者は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(NTT出版)に引用されている事例2件だけを引いて、このような犯罪が増えるものであると確信しているようだ。しかしたったそれだけの事例でいいのだろうか?

 ・112ページ。先ほど述べたとおり、あまりにも統計学的に問題の多い、魚住絹代『いまどき中学生白書』(講談社)を真に受けている。これに関しては、私の「2006年1~3月の1冊」における書評、及び「たこの感想文」と「冬枯れの街」による批判を参照されたい。

 ・119ページ。「絵文字の使用は言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点でユニークであり、それはコミュニケーションの退化である」という珍説を性懲りもなく展開している。このネタも使い回しだあ。

 ・141ページから142ページにかけて。完全にステレオタイプだけの「ひきこもり」イメージを展開している。すなわち、「ひきこもり」はネット中毒者でコミュニケーションを放棄した存在である、というもの。これを読むだけでも、少なくとも我が国における「ひきこもり」に関して全く無知であることがわかる。

 ・156ページ。括弧の中だが、《筆者個人は基本的にサルの行動になじんだ研究者である。だから、もっともっとサル化した人間がそこら中に溢れるのをじっくり見てみたいものだと願っている》キター!!

 ・159ページ。あくまでも核家族を悪者に仕立て上げたいらしい。これも使い回しのような気がする。

 などなど。これほどまでにどうでもいい記述が並ぶような本なのだ。繰り返すが、若者論オタクの私の目から見てもちっともおもしろい本ではない。このような本が、権威ある講談社ブルーバックスから出ている、ということに驚嘆したい人だけ買えばよろしい。

 それにしても、である。かつての正高氏、具体的に言えば『ケータイを持ったサル』の頃の正高氏は、どう見てもおかしいデータやグラフ、そしてでっち上げではないかと思わせるほどのボケをかましているような実験結果までも含めて、少なくとも「子供だまし」のテクニックは持っていたような気がする。そしてこのような「子供だまし」は、森昭雄然り、澤口俊之然り、岡田尊司然り、速水敏彦然り、丸橋賢然りと、本来「専門家」や「臨床医」であるはずの俗流若者論者の論理に共通してみられるものである(森氏の『ゲーム脳の恐怖』がトンデモ本大賞の候補に挙がったのも、ひとえに「子供だまし」があまりにも滑りすぎていたからだろう)。しかるに、『人間性の進化史』以降の正高氏は、そのような「子供だまし」すらも捨て去った。要するにこの系統の本をトンデモ本たらしめている要素である、「子供だまし」が滑ってしまう可能性がないのだ。なぜなら滑ってしまう「子供だまし」それ自体がないから。そして残ったのは「自分が不快に思うのは無条件に退化の証なのだ」という「子供だまし」どころか「子供の論理」だけだ。むしろその点を追っていきたいと思うのだが、いかがか。

 引用文献
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 魚住絹代いまどき中学生白書』講談社、2006年3月

 参考文献
 こんな駄本を読むくらいなら以下の本を読め。
 ・青少年の行動、及び青少年のメディア使用について
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 山崎敬一(編著)『モバイルコミュニケーション』大修館書店、2006年3月

 ・ウェブの将来像について
 佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月

 ・青少年犯罪について
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月

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2006年8月18日 (金)

2006年4~6月の1冊

 少々遅れてしまいまして申し訳ありませんでした。

 1:ミシェル・フーコー『(ミシェル・フーコー講義集成・5)異常者たち』慎改康之:訳、筑摩書房、2002年6月
 晩年のミシェル・フーコーの講義録。執筆現在は4・5・11巻が出ている。

 本書は「異常者たち」という問題に関する講義録である。精神科医やセクシュアリティの問題に始まり、法と犯罪、自慰などに関する話題が並び、権力やほうとは何か、ということに関して新たな視座を与えてくれる。芹沢一也『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)と議論が大きくかぶる部分も存在するが。

 2:岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 青少年のコミュニケーションを巡る考察。基本文献として最適である。青少年でコミュニケーション能力、というと、真っ先に携帯電話とかインターネットなどが槍玉に挙がり、しかも青少年のコミュニケーション能力は確実に「低下」しているものと見なされるが、本書はそのようなスタンスに積極的に立っているわけではない。生計や親子関係にまで議論が広がっているのも特徴の一つ。

 3:渋谷望『魂の労働』青土社、2003年12月
 これも権力に関する考察。基本的な視座は「労働」である。現代の、特に我が国における労働の問題を、ポストモダニズムやネオリベラリズムに対する批判、及び様々な権力論を引いて論じている。内容は少々難解なように思えるが、少なくとも学術書や哲学書を読むくらいの能力があれば本書はぜひとも目を通しておくべき。

 4:佐藤直樹『世間の目』光文社、2004年4月
 直接的には権力論ではないが、「権力」というものを考えるためにはこれも一読に値するだろう。我が国における医療、法、労働、教育、事件とマスメディアなどの関係を「世間学」という視座から読み解く画期的な試み。我が国において「世間」とは何か、そして情報化社会の進展によって「世間」はいかに変わる/変わらないか。ただ、第10章「ネット社会と「世間」」に関しては、いささか論じ尽くされた感があるような文章がかなり多く、さらに言えば小原信にも肩入れしているため少々物足りないこともあるけど。阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書)は併読しておくべき。

 5:貴戸理恵『不登校は終わらない』新曜社、2004年12月
 本書の内容はタイトルにつきる。すなわち「不登校は終わらない」のである。不登校を巡る言説は、「脱却できればそれでよし」などというような「幻想」がつきまとい、そこから「こうすれば不登校は治る!」「これが不登校解決の決定打だ!」といった具合の言説が雨後の竹の子の如く繁殖しているという現状があるが、本書はそのような言説に加え、さらに「不登校は既存の学校社会に対する対抗である」などという具合に不登校を肯定する言説を検討する。さらに、不登校の「当事者」はどのように不登校から脱却し、その後をいかに過ごし、また不登校に関する言説を消化したか、ということを検証する。

 ただ第4章に関しては他の章に比べて少々物足りない気がしたけれども、政策的な提言を含んでいる以上、現状と何とか妥協して最大限の成果を生み出したものと見ればよくできている。

 6:白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』東京大学出版会、2006年1月
 様々な「不平等」を巡る考察。書き手も佐藤俊樹氏や苅谷剛彦氏などといった強力なメンバーが並んでいる。教育、医療、中年無業者、さらには「不平等感」の増大まで、「不平等」に関する話題に触れるにあたってはかゆいところまで手が届く一冊といえるだろう。

 ちなみに玄田有史氏も寄稿している。内容は中年無業者で、内容としてはよくできている。それにしても玄田氏は、このような専門的な本などではかなり優れたことを書くのに、一般的な本や雑誌などになるとどうしてかなりレヴェルが落ちてしまうのだろう?

 7:岩波明『狂気の偽装』新潮社、2006年4月
 精神科医による臨床報告。心理学が安易に取り扱われるようになり、精神科医という仕事も「心の専門家」として変な羨望の視線を向けられるようになっているが、本書においては他人の心の病に真剣に向き合わなければならない精神科医の苦悩が描かれている。

 本書において強く批判されているのは、近年蔓延する「心理学主義」的論説や、さらに踏み込んだ「脳」還元主義的な言説である。本書においては曲学阿世の徒・森昭雄の「ゲーム脳」論まで批判の対象になっているほか、「PTSD」などの心理学的言説を安易に広めたがる人たちの無責任さにも批判を惜しまない。しかし実際の病者に対する視線は暖かい。

 8:堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社現代新書、2006年4月
 1980年代の消費社会論。バブル時代における経済や文化を支えるものがいかなるものであるか、ということを自らの経験に即して活写する。クリスマスやディズニーランドに代表される消費文化、及びそれとマスメディアの関係、あるいはサブカルチュアに対する視線、宮崎勤などといった80年代に関する記述はおもしろい。「若者」という存在が消費の主役としてさんざん煽られ続けた時代の風景は、その後、簡単に言えば「若者」という記号が消費されるようになった時代=現在を省察する上でも実に有益。

 ただし第5章以降はいけない。特に第5章後半から第6章までは、ほとんど俗流若者論といってもいい代物だ。故にランクをかなり下げている。特にパソコンや携帯電話に関する記述の陳腐さはもはや絶望的である。さらに最後のほうで「伝統的身体」まで称揚するかのような展開になっており、腰が抜けた。前半のよさがこちらでは完全に弱点として表出している。

 9:佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月
 最近、グーグルに関する解説書がとみに増えてきたような気がするけれども、気のせいか?本書は決してグーグルの使い方に関する解説書ではない。それどころかインターネットの未来像に関して大きな問題提起を突きつける本である。グーグルによって何が起こっているのか、そして(会社としての)グーグルはいったい何を考えているのか、そしてインターネットの将来は本当にバラ色なのか。グーグルを使わないような人(私はグーグルよりもヤフーを使っている)にとってもグーグルは関係のないものではないのだ。

 10:大竹文雄『日本の不平等』日本経済新聞社、2005年5月
 様々な賞を受賞している大著。本書第1章冒頭における「ジニ係数(不平等度を測る指標の一つ)は近年になって急増した、というわけではない」という主張をもって、本書は不平等を否定しているととらえる向きも一部にはあるが、それは断じて違う。特に「成果主義的賃金制度と労働意欲」に関して述べた第9章は必読だ。とはいえ、数式が多く用いられている章もあるため、基本的な数学の素養がないと読みこなすのは少々難しいかもしれない。ただし「不平等」に関する問題を考えるにあたっては読んでおいて損はない。特に「不平等」が俗流若者論と結びつけられて大安売りされている現状にあっては。6の白波瀬佐和子氏の本と併せて読みたい。

 11:上野成利『暴力』岩波書店、2006年3月
 これも権力論。ハンナ・アレントやヴァルター・ベンヤミンの暴力論=権力論の概説書。「暴力」を中心に「秩序」や「法」などの概念をとらえ直していく試み。

 12:鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書、2005年5月
 三島由紀夫は「愛国心」という言葉を不快に思った。なぜか。我が国においては左右を問わず「愛国心は持って当然」というような議論が溢れているが(左派における「愛国心は強制するものではない、自然と生まれるものだ」という議論もまた、結局のところ「愛国心」を持つことそのものに対して否定しているわけではない、当然視しているきらいすらある)、そもそも「愛国者」が大量にはびこる現状は果たして喜ばしきものか。歴史、右翼、そして天皇制からの問い。

 ワースト:丸橋賢『退化する若者たち』PHP新書、2006年5月
 関連:「『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状」「『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏からの回答
 どう見ても差別主義の産物です、本当にありがとうございました。本書は歯科医による俗流若者論である。で、その主張が「今時の若者は戦後の食生活によって歯並びが悪くなっており、さらに戦後民主主義教育によって「型」を教えられていないから堕落したのだ」という内容。この手の議論の現状認識における誤謬や、このような議論が引き起こす差別主義の罠は既に関連記事において論じているので、今更繰り返す必要はない。

 しかしながら私が残念に思うのは、このような「科学的」俗流若者論が、主としてこの本の著者の如く医学的分野によって担われていることだ。脳科学にしろ、あるいは心理学にしろ同じである。このような議論が、それこそ本書の如く残酷な差別主義を生むことに関して、左派に属する論壇人はもっと自覚的であるべきだ。今左派に求められているのはこのような「医の乱調」に対する批判的視座なのである。

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2006年8月 5日 (土)

「セクシュアリティ」第27号発売のお知らせ、及び「POSSE」シンポジウムのお知らせ、他

 (これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)

 

・「セクシュアリティ」第27号発売のお知らせ
 「セクシュアリティ」第27号にインタヴューが掲載されております。
 http://www.seikyokyo.org/shoseki/sexuality/sexuality_27.html

 ・「POSSE」シンポジウムのお知らせ
 NPO(申請中)「POSSE」が主催する平成18年9月2日のシンポジウムに参加します。

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9月2日(土) シンポジウム/  POSSE始動  <フリーター・ニート論>を超えて

      

日時:2006年9月2日(土)  18時30分~21時5分 (18時開場)
パネリスト:竹信三恵子さん(朝日新聞記者、著書に『「家事の値段」とは何か』など)
       萱野稔人さん(東京大学21世紀COE研究員、著書に『国家とはなにか』など)
       木下武男さん(昭和女子大学教授、著書に『日本人の賃金』など)
       後藤和智さん(『「ニート」って言うな!』著者、東北大学4年生)
       園良太さん(フリーター、「ネオリベトーク  新自由主義と私たち」参加者)
             菅野存さん(NPO労働相談センター

場所:北沢タウンホール(小田急線・京王井の頭線  下北沢駅南口より徒歩5分
             /世田谷区北沢2-8-18/TEL:03-5478-8006)

プログラム          <第一部>講演
              「非正規雇用と若者」(竹信三恵子さん)
        「流動化する労働と再編成される権力」(萱野稔人さん)
        「フリーターのアソシエーション運動」(木下武男さん)
              <第二部>パネルディスカッション「若者3000人の現実」

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http://www.npoposse.jp/schedule.htm

 ・大阪経済法科大学「市民アカデミア2006」シンポジウムのお知らせ
 大阪経済法科大学アジア太平洋研究センターのシンポジウムに参加します。場所は東京麻布台セミナーハウスです。

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シンポジウム 12/9(土):『〈ニート〉って言うな!』
                            ―格差社会日本の今と将来を考える

          パネリスト:本田由紀、内藤朝雄、熊沢誠、後藤和智

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http://www.keiho-u.ac.jp/academia06/renzoku1.html

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