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2007年2月 1日 (木)

俗流若者論ケースファイル83・石原慎太郎&義家弘介

 〈読者の皆様へ〉
 このエントリーを読む前に、サイト「義家弘介研究会」をご一読されることをおすすめします。

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 安倍晋三内閣が誕生し、「教育再生」を高く掲げ、その元に教育基本法が改正(というか改悪)されたけれども、この「教育再生」の元となっている理念とは、いったい何なのだろうか。

 戦後レジームからの脱却?私はそういう大言壮語はいらないと思う。なぜなら彼らは、そもそも青少年問題に関して、定量的な議論を元にしていないからだ。つい最近発表された、教育再生会議の第1次報告を見てもそこには単なる精神論ばかりが並び、例えばいじめやそれに起因するとされる自殺に関しては昭和60年頃や平成7年頃にも問題化された(伊藤茂樹[2006])、あるいは少年犯罪は増加ではなく減少している、などという事実認識は、これらの報告からは一切抜け落ちている。

 本田由紀が指摘しているとおり(本田由紀[2007])、教育を科学したことのない人たちがインパクト重視で出した提言(インパクトすらあるかどうかわからない、という疑問もあるが)に過ぎないのである。それに関しては、執筆活動に当たって、教育社会学的なものを軽くかじっている程度の素人の私から見てもわかる。要するに、自らがもう公教育を受けないことにあぐらをかいて、教育という概念で遊んでいるだけに過ぎないのである。

 で、そういうことを推進している人がどういう考えを持っているかと言うことを象徴するかのような資料を見つけた。「諸君!」平成19年3月号に掲載された、石原慎太郎(東京都知事)と義家弘介(教育再生会議担当室長、横浜市教育委員会委員、自称「ヤンキー先生」)の対談「子供を守るための七つの提言」である。この対談は、「いじめはなくせるのか」という特集の枠組みで掲載されているのだが…。

 はっきり言おう、こいつら何もわかってない。この「提言」なるものも、大半がいじめと関係ないものばかりだし、これらが子供を守るための「提言」と本気で言うのであれば、もう子供たちを侮辱しているとしか思えない。むしろこの対談を、今の「教育再生」に賛同している人がいかに短絡的な思考でもって教育を語っているかと言うことを示す証拠として、全国の親御さんたちに読んで欲しい(言い過ぎかな)。

 何せのっけから、

 1. 新たないじめを産むジェンダーフリーの是正

 ですからね。なぜジェンダーフリーがいじめを産むかというと、なんと単に義家が聞いた事例1件だけで、そういう風に断言されてしまうのである。曰く、

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 義家 (略)今のいじめの実態をみますと、これまでには考えられなかったようなケースが頻出しているんですね。たとえば、男子が女子を殴ったり、トイレで男子のズボンを脱がせて女子に見せたり、といったいじめが実際に起きている。

 石原 男が女を殴る?そんなことまで起きているんですか。それは全く論外だね。

 義家 男子による女子のいじめが起きる背景の一つには、近年進められたジェンダーフリー教育が考えられますね。(略)ジェンダーフリー論者に言わせれば「女を殴ることは男として恥ずべきことだ」というごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、というわけでしょうか。

 石原 それは浅薄きわまりない言い分で反論にも値しないが、肉体の優位性を持ったものが弱者を一方的に殴ってはならない、というのは、世界のどこでも共通する超えてはいけない最低限の規律ですよ。日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは。(石原慎太郎, 義家弘介[2007]、以下、断りがないなら同様/125ページ)

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 すいません義家さん、誰がそんなこと言ってるんですか?少なくともそのような考え方は、義家のイメージするところの「ジェンダーフリー論者」はそういっているに違いない、というのに過ぎないんじゃないの?少なくとも義家がそのように主張するのであれば、いわゆる「ジェンダーフリー教育」が蔓延する「以前」と「以後」に比して、どのようにいじめが変質したのか、なおかつそれが本当にいわゆる「ジェンダーフリー教育」が主たる原因なのか、ということを提示しなければならない。義家はそういうことをやっておらず、ただ自分が聞いて驚いた事例を「ジェンダーフリー教育」なるものと安直に結びつけて、今の子供たちと教育を嘆いてみせている。

 一兆歩ほど譲って、少なくとも義家の提示している事例においてはいわゆる「ジェンダーフリー教育」の影響が認められる、今までになかったタイプのいじめであるとしても、今度はそれが本当に全国で広がっているか、ということに関しても検証されなければならない。ましてや石原が《日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは》などと述べるためには、さらに世界各国に対する調査が必要となる。

 さらに石原は126ページにおいても、このように述べている。

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 いまの「体・徳・知」のお話にも重なるけれど、コンラート・ローレンツという動物学者が「肉体的苦痛を左内頃に味わったことのない人間は不幸な人間になる」と説いている。(略)それが今では、冷暖房のないところではいられない、ちょっとでもおなかがすけば冷蔵庫を開けて間食、という環境に子供がおかれていますね。こうした物質的な豊穣が、人間を弱くしていることは間違いない。

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 「間違いない」は長井秀和だけで十分だ。それはともかく、今更ローレンツかよ、どうせならそこで戸塚ヨットスクールを持ち出してくれるとおもしろいのに。閑話休題、ここでもステレオタイプというか、一面的な青少年認識が語られているだけである。

 2. 占領期の亡霊「体罰禁止」通達を廃止せよ

 あーあ、こいつら、歴史に無知なことをさらけ出してしまったよ(笑)。はっきり言います、体罰は、戦前から禁止されていました!現行の法律においては、体罰を禁止しているのは学校教育法の11条、及び学校教育法施行規則の13条であるが、体罰は戦前から禁止されていた。

 体罰をめぐる事例や制度に関しては、広田照幸による先行研究を参照することとしよう(広田照幸[2001]、189~224ページ)。我が国で体罰の禁止が最も早く明文化されたのは、なんと明治12年の教育令である。明治18年から数年は体罰の禁止は消えるが、明治23年の小学校令の改正で、体罰は禁止され、さらに言えばそれは昭和16年の国民学校令の制定まで持ち越される。

 さらに、大正4年1月29日、東京府のある尋常小学校において、教師が授業中にトラブルを起こし、生徒に怪我を負わせた。翌月1日、怪我をした生徒の父親が学校を相手取って訴訟を起こし、この事件は体罰「問題」として発展していくこととなる。そのあと、体罰をめぐって、新聞や教育の専門誌は侃々諤々の意見が飛び交った。裁判のほうも大審院まで持ち越され、翌年6月に被告の無罪が言い渡されるという出来事まであったりする。さらに体罰が裁判沙汰になったことは、明治30年と明治43年にもあった。

 とりあえず、これだけ挙げて、ここは終わりにする。こういう事実を提示したら、こいつらの放言と、問題の多い文部科学省の校内暴力の統計を鵜呑みにした議論なんてなんの意味もないからね。

 3. 携帯電話からの有害情報の遮断を

 少なくとも130ページにおいて、義家がフィルタリングソフトの存在について触れていることは評価できる。でも相変わらず、義家は、携帯電話に関して、悪い面を強調しているのであるが。ここで問題が見られるのは、やはり石原の発言であるが、相変わらず自分の青春を誇らしげに語っているだけなので割愛する。それにしても、石原はいい老後を過ごすことができて実にうらやましいね、自分を相対化できない酒場の愚痴程度の発言が、雑誌に載って衆目にさらされるんだから。

 4. 「親こそ教育の最高責任者」という自覚を持て

 ここも単に若い親に対する愚痴を語っているだけなので割愛。ここでは義家と石原が「ニート」に関して無知をさらけ出している発言を検証しよう。

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 義家 (略)いまニートといわれる人々は、三十になっても親が生活費をくれる。それでは、「自分で生きていこう」「よし、戦ってやろう」などという気持ちにはなり小間線よ。これは、明らかに親が弱くなってしまったからだと思います。

 石原 まったくだね。動物の生態を見ていれば、あるところで子供は乳離れをして巣立っていく。つまり親が突き放すのだけど、ニートの問題をみると、親が子供に甘えていると言ったらいいか、子離れできない親の問題ですよ。(133ページ)

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 何でこういう人たちって、「ニート」及びその親を批判する際には、すぐに動物のアナロジーを出したがるのかしらね。はっきり言いますけれども、青少年の就業機会は近年増加傾向にあるとはいえ低いままだし、非正規雇用が増えているから賃金も低い。こういう野生回帰に見えるような思想こそ、厄介なのである。なぜなら、このようにいかなる状況においても親が子供を突き放さなければならない、と主張することによって、それこそ人間において特有の背景にある経済システムを語ることを放棄してしまうから。ああ、もう何が何だかわからなくなってきた。こういう、いわば「「教育教」の信者たち」(岡本薫[2006])には何を言っても無駄なんだろうな。少なくとも、「ニート」に関する、本田由紀や中西新太郎や乾彰夫や田中秀臣や若田部昌澄などの言説くらい参照したらどうだ。

 5. 教師は「聖職者」たれ

 これも義家が精神論ばかりぶっているところなので割愛。少なくともここで述べられていることは、冒頭で挙げたサイト「義家弘介研究会」を読めば、眉につばをつけて読むべき部分でしかない。

 6. 職業体験を義務づける

 石原。いやあ笑えました。

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 石原 (略)実際に、高校で職業体験をさせると、子供たちが見違えるように生き生きし、いろんなものを掴んできますよ。たとえばガソリンスタンドやファーストフードでもいい、店員に混じって、お客の「ありがとうございました」と挨拶をする。その声が小さいと上役に叱られて、ヤケクソでも大きな声で「ありがとうございましたっ!」と頭を下げると、それは身体的なエクスタシーを伴った体験でもあるし、お客に声が届く、という点でコミュニケーションの快感を体得するきっかけにもなる。(136ページ)

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 《身体的なエクスタシー》《コミュニケーションの快感》って…行き着く先は自己啓発ですか。職業教育であるにもかかわらず、目的はこういう自己啓発的なことって、どこか間違っていないか。このあとに義家は、東京において奉仕の必修化を「大変な前進」と評価しているけれども、第一そういう政策は青少年に関する認識からして根本から間違っていて、って、もう何度も言ってきたので正直うんざりしてきた。

 7. 土曜半ドン復活でゆとり教育脱却

 えー、PISAの学力テストで成績が高かったクラスは、必ずしも授業時間が長いわけではなく…って、こういうことも無視しているんだろうな(まあそもそも、PISAのテスト自体、日本の学力概念とは違うところの学力をテストしているわけだけれども)。

 それはさておき、私が吹いたのは、やはり石原のここ。

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 石原 義家さんみたいに現場の経験があり、若い人の実態を知っていると、非常に具体的に、こうした対策が講じられない限り救われないという実感をお持ちでしょう。いま、教育についてあれこれ言っている識者には、現場を見た上で言っているのか、と問いたいね。(137ページ)

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 そういうことはまず教育再生会議の連中に言ってくださいよ、石原さん。そもそもあの会議に有識者として呼ばれている人自体、教育現場とはほとんど関係ない人たち、関係があったとしても、義家と陰山英男という、それこそメディアがこぞって採り上げるような人でしょ。そもそも義家自体、若年層の実態を知っているかと言うことに関しても、極めて怪しいことは、やはり秀逸なサイト「義家弘介研究会」で言われているとおりである。こういう人に対して、石原はこの対談の締めとして、《政府と横浜市はいい人を迎えたね》(138ページ)と義家を絶賛しているけれども、確かにいい人を迎えたと私は思う、ただし格好の批判材料として。

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 まあ、ここまで義家と石原の対談を批判した来たけれども、正直に言おう。少なくともこの2人に、教育政策を任せられるか、といったら、私は断固として任せてはいけないと思う。なぜなら、青少年に対するネガティヴな思いこみばかりを語り、それで立派な教育論を述べた、と思いこんでいるのだから。前提からして間違っているのではないか、ということを、こういう人たちは考えないのだろうか。

 考えないのだろうな。そもそも彼らは自分にとって都合のいいように青少年の姿を構築しているだけであって、本当に子供のことを考えているわけでもなければ、リスクマネジメントをしているわけでもない。これは、教育基本法が改正(というよりも改悪)されたことにより、軍国主義的な青少年が増える、とか妄想している左側にも言えること。要するに、子供たち、若年層を、自らのイデオロギーの型に強引に当てはめて、その上で遊ぶことしか考えていないのである。この石原と義家の対談はまさにその典型だけれども、こういう右側の妄想じみた教育言説に関して、根本から揺るがすような証拠(少年犯罪の凶悪化を否定する資料の他、探せばいくらでも見つかるものだが)を提示してこなかった左側もまた問題である。

 その証拠に、「教育再生会議」には、真に教育学の専門家といえるような人が一人もいない。これは、左派に属する論壇人や編集者の罪でもある。かの悪名高き「教育改革国民会議」にさえ、専門家として藤田英典が委員となっていたのだが、今の「教育再生会議」には、藤田のような役割を果たす人間がいない。この「再生会議」に限らず、教育基本法「改正」に関する審議においても、高橋哲哉や広田照幸などが承認として発言したものの、彼らの意見は受け入れられなかった。それどころか、昨年末における「オーマイニュース」の教育に関する特別企画さえも、発言者は全て専門家ではなかった。つまり、教育学の専門家の権威が、少なくとも政治とメディアのレヴェルで低下しているのかもしれない、ということだ。

 だからこそ安倍政権の「教育改革」に反対するものは、本田由紀ではないがそれこそ教育を科学するという視点を前面に出し、そういう人がいないことこそ問題だ、というフェイズで批判していくべきである。菊池誠がNHKの「視点・論点」で「蔓延するニセ科学」という論説を発表して話題になったが、左派、特に左派メディアの編集者は、今こそ「蔓延するニセ教育学」という視点でもって、専門家をフルに活用すべきではないか。「軍国主義」だの「精神の支配を許すな」だのといった下らないイデオロギーよりも、「王様は裸だ」と叫び続けることが大事なのだ。左派メディアの受け手もまた、耳学問程度でいいから、教育社会学的な視点を学んだほうがいい。

 引用・参考文献
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 本田由紀「教育再生会議を批判する」、2007年1月29日付朝日新聞
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 伊藤茂樹「「死にたい」気持ちを「わかって」あげるな!」、「論座」2007年1月号、pp.86-91、朝日新聞社、2006年12月
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』、講談社現代新書、2006年1月

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