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2007年4月17日 (火)

本能の罠 ~戸塚宏『本能の力』から考える~

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 戸塚宏(戸塚ヨットスクール代表)が、平成19年4月の新潮新書の新刊として『本能の力』なる本を出した。とりあえず本書に対する感想としては、単なる自己肯定というか、ひたすら「自分は悪くない」ということが書かれているばかりであり、ある意味では駄々をこねているような本と言えるかもしれない(笑)。同スクールに批判的な人は、同書を読んで、「戸塚は全く反省していない!」と憤慨するかもしれないが、まあ実際そのとおりではある。とりあえず、同スクールがどのような理念で「教育」を行なっているかということが書かれており(まあ戸塚が出所したあとも自殺者が出ているわけだけれども(「週刊現代」平成18年11月28日号、pp.34-37)、その点に関する言及は一切なし)、その点においては資料的価値は確かに「ある」。

 しかし本書において真に問題とすべきは、第1章の体罰を肯定している部分ではない。そうではなく、本書のタイトルである「本能の力」という部分にある。

 まず戸塚の事実認識における間違いを検討しておきたい。以前私が石原慎太郎と義家弘介の対談を批判したときにも、広田照幸による研究を引き合いに出して反論したが(広田照幸[2001])、別に「体罰禁止」は戦後民主主義教育の元で行なわれたものではなく、明治の比較的早い時期から体罰は禁止されていた。戸塚も石原や義家とほぼ同等のことを言っているが(戸塚宏[2007]pp.23-24)、とりあえずこのことくらいは踏まえておいて欲しい。もう一つ、我が国において不登校が増加したのは、子供たちにおける「本能の力」が衰退したからだ、という認識があるけれども、滝川一廣によれば(滝川一廣[2007]pp.227-230)、少なくとも統計的には、現在よりも昭和30年代のほうが長欠率は高かった(さらに言えば我が国よりも英国や米国のほうが長欠率は高い)。もちろん、長欠や不登校に関する質的な変容は一部に見られるのだけれども、まあ統計的にはこのような事実があることを押さえておけばよろしい。もちろん、少年犯罪(まえがき)や「ニート」(第8章)に関する勉強不足も目立つ。これらに関しては、著書も含めてとにかくいろいろなところで解説してきたので、わざわざ繰り返すこともないと思うが(とりあえず前者に関しては、浜井浩一、芹沢一也[2006]を、後者に関しては、乾彰夫[2006]と雨宮処凜[2007]を参照されたし)、これらに関しては著者がそこらで聞きかじった話をそのまま記述してしまっているのは明らかである。

 事実認識に関する検討はこのくらいにして、同書において本当に問題とすべきのはどの部分なのか、ということについて述べていこう。

 さて、戸塚が本書においてその重要性を繰り返し述べるのは、戸塚が言うところの「本能の力」である。戸塚は、同書の「まえがき」において、以下のように述べている。

―――――

 本書で述べたいことは、現代の子供たちが深刻な状況にあるのは、「本能」の弱さに原因があるということです。本能を強くしてやれば、子供の抱える問題の多くは解決できるのです。そして、その本能を強くするには、体罰がきわめて効果的であることを私は現場で経験的に学び、数多くの実績を残してきたのです。

 ところがマスコミは、子供が抱える問題の本質には一切目を向けず、体罰ばかりを問題にします。彼らは自分の頭で考えることなく、戦後教育の欺瞞の象徴ともいえる「体罰禁止」を盲目的に信じ込んでいます。その間違った前提をもとに私を批判しているとしか思えません。

 私に質問をした記者はその典型でしょう。そんな批判を繰り返したところで、子供の抱える問題が解決するはずはありません。(戸塚、前掲pp.15)

―――――

 まあ、言い訳としか言いようのない文章ではあるが、戸塚の言説においては、「本能」の前には全ての実証的な教育言説が無力と化する。先ほど挙げた実証的な視点が見られないことは、ひとえにこのような認識が戸塚に横たわっているからか。同書においては、教育や青少年に関する記述のほとんどが、戸塚の直感で書かれているが、戸塚の言っていることに関する客観的な裏付けはないものばかりである(戸塚、前掲pp.85の部活動に関する記述など)。

 「いじめ」だって肯定される。戸塚によれば、「いじめ」という言葉を聞いて想起されるような「いじめ」とは、本来の「いじめ」とは違うという。

―――――

 昔は異年齢集団という形で、子供はグループを作って遊んでいました。第一次反抗期に子供は母親に憎まれ口を叩いたり、言うことを聞かなくなったりします。その行動は、「母親から離れて外へ出て遊びたい」という欲求と結びついています。この欲求は進歩を促すものです。だから、三歳くらいから子供は自ら外へ出て子供同士で遊ぼうとします。このときに異年齢集団に入るわけです。この集団は三歳から十三歳くらいまでの子供たちで構成されていました。

 この集団の中では、小さな子供は大きな子供の支配を受ける。そして何年か後には自分が支配者になる。人間は被支配、支配その両方を経験しないと駄目です。被支配の経験が支配の能力を作り出していくのです。

(略)

 もちろん、支配階級の子供たちは本能でいじめているのであって、理性的、教育的観点からいじめているわけではないでしょう。それでも、子供は被支配時代にいじめられることによって進歩していきます。いじめられることによって、子供は子供なりに考えます。なぜいじめられたのか、いじめられないようにするにはどうしたらよいのか、と。

 いじめというのは本来、本能的であっさりとしたもので、相手を適切に評価しているだけなのです。体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして、必ず出口があります。(戸塚、前掲pp.65-66)

―――――

 ただし、残念ながら、戸塚の言っていることは単なる美辞麗句でしかないだろう。第一に、果たしていじめている側の評価が正当である、ということは誰が決めるのだろうか。戸塚は本書の別のところで、「体罰」の定義を《相手の進歩を目的とした有形力の行使》(戸塚、前掲pp.20)としているが、これも同様で、「相手の進歩を目的と」する、ということが、もしかしたら有形力を行使する側の身勝手である可能性を否定することはできないだろう。第二に、このように戸塚が「今の「いじめ」は間違っている、正しい「いじめ」はこういうものだ」としても、そのように述べることによって、果たして現在横行している「いじめ」をどのように解決するのか。その点に関しての言及が少しもないまま、戸塚はこのように語ってしまっているのだから、まさに美辞麗句としか言いようがないのだ。

 「本能」に依存してしまうと、特に労働環境や経済の問題が大きい問題に関しての不勉強も正当化されてしまうようで、戸塚は「ニート」に関して以下のように問題の多い記述をしている。

―――――

 こういう子供の親に話を聞いてみると、共通項らしきものがありました。それは、本当に腹を空かせた経験がない、ということです。少しでも腹が空くと、スナック菓子か何かを口に入れる。幼児の頃からずっとその調子で育ってきた。ヨットスクールに入って規則正しい暮らしをして、初めて空腹感を味わったという生徒が大勢います。

 果たして、そんなふうに育った子供が中学生、高校生になってから、生産する喜びを感じることができるのか。私は絶望的な気持ちに襲われました。とにかくできるかぎりのことはやってみようと試行錯誤を始めました。誰かが少しでも彼らの本能を解発する手伝いをしてやらなければ、彼らは生産すること、つまり仕事に喜びを感じることなく人生を送らなければならない。あまりに哀れです。(戸塚、前掲pp.161)

―――――

 経団連とか「若者の人間力を高めるための国民運動」あたりが都合よく利用しそうな認識だなあ…などという邪推はさておき、少なくともこのことが当てはまるのは、戸塚のスクールに入所してくるような一部の子供であって、戸塚が問題にしているような「ニート」全般ではない。そもそも既に多くのところから、「ニート」は労働問題である、という認識が提出されているのだが、その点に関する配慮に欠けているのではないか。

 さて、ここまで、私は戸塚における認識を批判してきた。具体的に言えば、戸塚の認識に通底しているのは、現代の子供たちや青少年、若年層における問題の「本質」(つくづく戸塚はこの言葉が好きだよなあ)は、彼らにおける「本能の力」の衰退が根本的な原因であって、その原因は、戦後民主主義教育を代表とする「本能」や「力」を否定するような教育である、ということである。もちろん、このような認識に浸ることによって、戸塚が社会的な要因を排した議論を行なっていること、そしてその問題はここまで述べてきたとおりだが、このような認識を元に青少年や若年層について語っているのは、何も戸塚だけではない。

 例えば澤口俊之がいる。澤口は、やはり戦後民主主義教育をはじめとする、「適切な環境」から逸脱した子育ての環境が原因で、現代の青少年はおかしくなった、という認識を述べているが(澤口俊之[2000])、これに関しても、そもそも青少年に関する認識や客観的事実を踏まえていない点において問題がある言説と言うことができる(そういえば、澤口は理想的な環境として戸塚ヨットスクールを挙げていた。どこか象徴的だなあ)。

 そして、このような言説を振りまいているものの代表として、私は筑紫哲也を挙げることとする。読者としては、戸塚と筑紫は対極に位置するような人物だろう、と述べられる方もいるかもしれないが、筑紫の言説は、実際のところは戸塚とはかなり近いところにあるのだ。以前筑紫を批判した文章から、再度引用することとしよう。

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 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也[2005])

―――――

 いかがであろうか。この文章を読めば、少なくとも筑紫の認識は、根底のところで戸塚と相違ないではないか。

 追い打ちとしてもう一つ。

―――――

 子どもたちを一週間、自然のなかに置く。そこでどう遊ぶか、大人は指図せず放って置く。大人は野で寝そべっていて、子どもたちが危ないことにならないようにだけ注意しておればよい……。

 普段あまりにも「自然」から切り離されている者が、そこに戻ることは人間が生きもの、いや動物の一種だと実感する大事な機会だと私も思う。寒い、暑い、痛い、快い、など肉体の実感から遠ざかるように育てられている子どもたちにとっては、なおさらである。だが、これだけ遠ざかってしまうと、そこに回帰するのは容易ではない。

(略)

 自然のなかで過ごさせようと、山の中に泊めると、林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子が多い。戻った都会の自宅は人工音だらけなのだが、そこではぐっすり眠れるという。

 虫の音に美しきを感ずるのが日本人の感性で、「騒音」と見なす西洋人とそこがちがう――というのが長らく日本人ユニーク論の論拠のひとつだったのだが、そういう日本人はやがて絶滅に向かうだろう。(筑紫哲也[2006]pp.88-89)

―――――

 いかがであろうか。結局のところ、「左派」であるはずの筑紫もまた、若年層における「自然」の喪失が全ての問題の起点である、というような認識を述べているのだ。

 私はこれは危険なナショナリズムの兆候であると考える。なぜなら、少なくとも彼らの議論は、第一に青少年に関して述べる際に重要である、犯罪統計などのデータを元にしていないという問題点があるが、それよりももっとも大きな問題点として、彼らが自らの生活環境、あるいは思い出を理想とし、なおかつそれが崩壊したことこそが物事の本質である、と考えている。裏返せば、彼らの理想とする生活環境が「あった頃の」日本人と、それが「ない」異形としての「日本人」(「今時の若者」!)に、身勝手に線を引いて考えているのである。

 そしてこの根底にあるのが、いわば(かつての)「日本」に対する無条件の信頼である。要するに、「かつての」日本人は無謬出会ったが、何か「問題のある」生活環境が開発された、あるいは輸入されることによって、「かつての」すばらしい日本人が壊された、という点に関しては、実際のところ多くの人が支持しているのである(戸塚、澤口、筑紫のみならず、例えばそのような傾向は、近年の高村薫や香山リカにも見られるものだ)。立ち位置の左右にかかわらず、そのような認識ばかりが横行しているような現在においては、もはや青少年に関する、科学的、客観的な議論は、もはや望めない、ということができるかもしれない。

 だが、事実や統計に基づいた研究が如実に示すのは、結局のところ問題の構造には普遍的なものと、時代によって特徴的なものがあり、さらに言えばそれらを青少年個人の問題に押しつけてはならない、ということだ。その点を踏まえない議論など、単なる理想論、あるいはイデオロギーの押しつけで終了してしまうだろう。いや、それだけではまだいいのだ。問題は、「解決策」に関しては違うことばかり述べているにもかかわらず、結局根底の認識が同じだから、なんだかんだ言って「今時の若者」は以上だ、というところで大同団結してしまうことである。そしてその兆候は既に出始めている。

 教育再生会議などの問題の多い教育政策に対して、実証的な、あるいは経済論的、政策論的な視点からの批判や反論ではなく、イデオロギーにイデオロギーをぶつけるような批判しかないというのも問題だ(その点では、いわゆる「学力テスト」の訴訟の原告として子供をダシにするのも大問題だ)。大事なのは、厳密に事実や統計に基づいた批判であって、言うなれば民主党や社民党、あるいは共産党などの野党の議員が、単純に少年犯罪は減少しており、「ニート」は労働問題であるという認識を示せばいいのである。

 また、戸塚をはじめとして、「こうすれば青少年問題は解決する!」と主張する人が多いが、確かに彼らの主張する方法論を用いれば、「彼らの施設に入所してくるような」青少年の抱える問題は解決するかもしれない。しかしながら、青少年全体の問題が解決するというのは、単なる妄想に過ぎないのではないか。このことに自覚的な「支援者」「教育者」は、私の知る限りでは、残念ながら工藤定次など極めて少数である(もっとも、工藤に関しても「家族丸ごとニート」なんて変なことを言っていたりするけれども…)。

 引用文献
 雨宮処凜『生きさせろ!』太田出版、2007年3月
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」、「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日、2005年11月
 筑紫哲也『スローライフ』岩波新書、2006年4月
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 乾彰夫(編著)『不安定を生きる若者たち』大月書店、2006年10月
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」、「新潮45」2001年1月号、pp.92-100、新潮社、2000年12月
 滝川一廣「不登校はどう理解されてきたか」、伊藤茂樹(編著)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』日本図書センター、pp.227-242、2007年2月、初出1998年
 戸塚宏『本能の力』新潮新書、2007年4月

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コメント

最近の養老孟司なんかも、子供の問題は農業やらせりゃ全部解決って言っていて、頭が腐ってます。

さて、「本能」が弱っていることが問題だと戸塚氏は言うわけですね。もし、それが正しいとすれば、その原因は環境にあるはずなので、子供に原因を求めるのは誤りですね。そもそも「本能」ですから、たとえ体罰であろうとも教育で遺伝子レベルの現象を変化させることはできません。また、体罰の結果、解消する問題があるとしえも、教育の成果というのは確率的に分散するものなので、少数の成功事例でもって、体罰OKということにはなりません。でも、いかにも若者バッシングに使われそうな、石原慎太郎好みの言説ではありますねぇ。
それにしても、新潮社は何を考えてるんでしょう?『バカの壁』が売れて以来、おかしくなっちゃったみたいですね。金は、あってもなくても人間をおかしくさせるようで。

投稿: e-takeuchi | 2007年4月17日 (火) 08時40分

ちょっと話がそれますけど香山リカ批判初めて読みました。
リベラル気取っていますけど、最近の彼女は完全に保守親父ならぬ保守ばばぁと化しています。
特に近著「仕事中うつ・・・」はひどい。
誰かばっさり切ってください。

投稿: おいどん | 2007年4月17日 (火) 23時20分

>新潮社は何を考えてるんでしょう?
まあ新潮だからねえ…。あそこの評論は下劣を極めるし…(これは同じ週刊誌系右派の文春と比較しても明確。)。

投稿: hts | 2007年4月18日 (水) 19時00分

 後藤さんもお見抜きのとおり、戸塚は戦前の教育への回帰を明らかに求めていると思います。
 以前、自分は戸塚ヨットスクールへの事実上の無罪に近い判決に抗議する集会の実行委員長をやっていたことがありました。
 そのときに他の実行委員からまわってきた教育系研究者の文書にそういった内容のものがあったのを覚えています。

 彼の「脳幹論」というのは、現代の西洋医学とも異なり、かといって中医学などの東洋医学とも異なる妙な話です。
 空腹経験云々の話は、自律神経にからむ話なのか? 中医学の肝(肝臓と自律神経)についての問題なのか? 両方とも違うでしょう。それは戸塚の暴力をごまかすための詭弁であり、国粋主義のイデオロギーの遠まわしな表現です。(ていうか、世代とか階層が違うだけで悪者扱いという時点でもう……)

最後の段の、青少年問題の全体解決ということを目指すのは、ファシズムだと思います。


投稿: ワタリ | 2007年4月18日 (水) 22時56分

では、戸塚宏が絶対視する「本能」に基づき、男性は一人の例外もなく道行く女性をいきなり組み伏せて押し倒し、抵抗する女性を殴りつけて強姦し、突いて突いて突きまくることを合法化しましょう。「本能」の名のもとにはいかなる行為も免責されるのですから……こう書けば本能の力とやらの野蛮さが、よく理解できるでしょう。

戸塚宏や石原慎太郎のような露骨な男根崇拝を唱える愚者も多いのですが、一方で内田樹や斎藤孝といった「体感知」を絶対視する老人礼賛も、見えづらいですが全く同じカテゴリに属するものと思います。

投稿: Lenazo | 2007年4月19日 (木) 06時49分

 かつて高度成長やバブルで好景気だった時には、「モノが豊かになって近頃の子どもは堕落した、もっとハングリー精神を養え」という言説がよく見受けられました。この言説が正しければ、90年代以降の不景気で育った世代や、現代のワーキングプア層は、ハングリー精神に満ちあふれた素晴らしい人材になってるはずなんですが、大体ハングリー精神なんて今じゃ誰も言わないです。
 自然の力だの身体性だの言うのも、しょせんはその程度のものなんでしょう。私の住んでる所は典型的な農業地帯=イナカですが、近隣の中学校は最近までかなり荒れてました。自然云々論は東京あたりじゃウケがいいんでしょうが、実態はそんなもんです。
 話は変わりますが、私のブログでこちらを紹介させていただきました。ご了承ください。

投稿: shira | 2007年4月19日 (木) 21時20分

TVキャスター辛坊治郎は報道番組内で「(少年犯罪が増えているというのはマスコミの世論操作だという主張に反論して)少年犯罪は減っているが、子供の人数単位の犯罪件数は増えている」と反論しています。

投稿: anomy | 2007年4月20日 (金) 10時13分

>子供の人数単位の犯罪件数は増えている

発生率のことを言っているのであれば、全然、事実と違いますな。
そういえば、何かのシンポジウムで、「少年犯罪は増えていない」という反論に「件数や発生率は減っても、低年齢化という問題がある」と答えたのに対し「高年齢者の犯罪自体が減少しているので、必然的に低年齢者の犯罪比率が大きくなっているだけで、低年齢者の件数や発生率自体は増えていない」と反論された一件がありましたっけ?

投稿: シグマ | 2007年4月21日 (土) 09時32分

この種の現代文明・文化批判者は、農業、それも米を中心とした農耕の村に、
現実離れした美意識とノスタルジーを抱いています。
実際には、外国人研修生を時給300円、残業費も違法に低い、
休憩時間なし、トイレに行くだけで罰金、女性には夜ばい、
呼びやすいように日本人みたい名前をつける、自殺者も出る・・・という条件でつかいつぶし、使いいたぶり、使い殺しているというのに。
ある全国紙のカメラパーソンに聞いた話ですが、
ネット通販で隙間商売をして成功した人に対する村八分も「すっごい」とか。
わたしのブログのコメント欄でも、宗教をおしうりされた農村での終業の話もありました。
経済問題を道徳問題にすりかえ、
自然豊かな田舎の農村(漁村)に行けばいい、といった論調は、
教育と医療や左翼の関係者だけではなく、
一部の右派エコロジストにもひろく分布しています。
「派遣村にいるホームレス等は田舎へ帰れ」という話とニートや少年犯罪への自然主義処方は論理的に同型です。
しかしくわしく話を聞くと、その人たちは都会出身の失業者に目がいっていない。
田舎と自然と農業を唱えるだけで、各自治体の有効求人倍率(ネット上にもグラフがあります)をみたら、
都会のほうが職のあることも無視している。
個人のライフヒストリーを聞けば、それを言っている当の本人は、田舎から都会にでてきているんですよ。
それはその人の故郷が乱開発で荒らされ、または職がないためだったりする。
なのに彼ら彼女らの現実逃避的な幻想のなかの田舎・自然・農村は、
光り輝く産業センターであり、
すべての問題児や失業者を吸収する無限の経済成長地、
またはどんな病気も癒し愚かさを減じるパワースポットか聖地として思い描かれているのです。
または人情あふれる「人間力」の高い、「コミュニケーション」の選良ばかりが住みつく不思議な世界です。
もちろんこれは浮き世ばなれした妄想にすぎません。
田舎のほうが車が多いため、都会から田舎にひっこしたほうが花粉症がひどくなった、
田舎では車に乗ってばかりで歩かないので、都会の人のほうが地下鉄の階段等でよく歩行運動をしているといった
田舎幻想とは別の体験談もあります。しかし田舎礼賛者は無視します。
でも自分(と身内)だけは都会(特に首都)に住み、その利便のよさを楽しむわけです。

なお戸塚は近代西洋の進歩主義が自然を破壊してきたのに、
教育にかこつけてその「進歩」概念をみずから使用しています。これは語るに落ちたのです。
進歩主義に反対するなら、個人の進歩ということにも同時に懐疑的になり、
「しょうがい者が健常者と同じように仕事ができなくてもいいじゃないか」
「学校がなくてもいいよ」「会社づとめ以外の労働も大事だ」
「ならば生存権、ベイシックインカムだ」
とならなくてはえせ反進歩主義であり、ただの金儲け・売名をともなう殺人行為の事後正当化にすぎません。

東大農学部を出たあと京都に来たある院生さんは、
それこそ「徴農」でもやらなければたてなおせないほど日本の農業は危機に瀕していると言って"徴農"に賛成だと言います。
しかしこのエントリーで話題にされている戸塚なり筑紫といった論者グループには、
そうした使命感はないでしょう。(あればよいというのではありませんが。念のため。)

あと、戸塚等の施設に入る子には戸塚流があうかといえば、
戸塚体験者等にインタビューしてみないと分からないですね。
戸塚らはそういう人を寮に入れてもうける商売をやっているのです。
自分たちに都合の悪いことはまず言わないだろうし、
時には認知の不協和により彼ら彼女らには見えなくなっていることもあるでしょう。

生態学の分野では、まったく人の手の入らない純粋な「自然」環境は(めったに)ないとされています。
読者が利口になって自然や農村への幻想と子ども・若者への偏見をふりまき排除をあおる論者の議論を批判していかねば、
この種の言説はこれからも猛威をふるいつづけるでしょう。

投稿: ワタリ | 2010年5月30日 (日) 06時12分

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