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2007年8月26日 (日)

俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司

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 他山の石書評雑記(フリーライター小林拓矢のブログ):[雑記][社会学]社会学の嫌われ者
 冬枯れの街~呪詛粘着倶楽部~:大澤真幸の憂鬱
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:“子どもたちが危ない”…数字的には「?」

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 世代論が権力を免責する、という構造を、私はこのシリーズの一つ前の回(「俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平」)で述べた。要するに、例えば若年層の労働環境をめぐる問題などに関して、非正規、派遣労働者の待遇や賃金の問題であるとか、あるいは学校から労働市場への参入の問題などが取り沙汰されるべきなのに、それをぼかして「日本人の働き方に関する見方が変わりつつある」と述べて、「根本的な」解決策や、「メタ的な」議論のほうが尊重されるという傾向は、まさにそれである。客観的に観測できるような問題を無視して、個々人の内面ばかりを問題視するというのは、根本的にもっとも残酷な日和見主義に過ぎない。

 さて、ブログ開設2年9ヶ月、「俗流若者論ケースファイル」シリーズ85回目にして、ついにこの人を批判することになろうとは思わなかった。首都大学東京教授、宮台真司である。今回検証するのは、宮台と石原慎太郎(東京都知事)による対談「「守るべき日本」とは何か」(「Voice」平成19年9月号)である。この対談は、どちらかといえば、東京都の青少年政策の宣伝という側面が強いが、それを推し進めるための前提として、現代の青少年が置かれている「現実」を語る、という趣旨のように見える。

 ところが、石原も宮台も、青少年問題についての基本的な認識が欠落しているとしかいいようがない代物なのだ。本書で取り扱われている青少年問題は、「ニート」についてと、「セカンドライフ」に付いてであるが、のっけから石原と宮台は、以下のようにいってしまう。

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石原 ニートがニートとして生まれた、いちばんのゆえんは何ですか。彼らはただの穀潰しだと思うね。要するに、抱えている家庭に余裕がなかったらあんな存在なんて成立しえないでしょう。

宮台 そのとおりです。でも、ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。(石原慎太郎、宮台真司[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.80)

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 少なくとも私は、私と宮台と宮崎哲弥、そして内藤朝雄の対談において、宮台が「ニート」は疑似問題であり、むしろ「ニート」を、それこそ穀潰しであると批判している方こそ問題であると述べていたはずだ。以下、引用する。

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宮台 (略)僕から付け加えると、まず旧来の「今時の若者は」的攻撃に加えて、昨今目立つのは、流動性不安がもたらす「多様性フォビア」としての若者フォビアです。処方箋は流動性フォビアの手当て。次に、本家英国と違い「失業者を含まない」日本版ニート概念は初期のフリーター批判と同じく怠業批判ルーツで、「こいつらが日本を滅ぼす」と言いつつ馬鹿オヤジが10年後の年金を心配する俗情がある。(略)最後に、スキル上昇(フリーター対策)から動機づけ支援(ニート対策)に自立支援策を拡げ、ポストと予算を獲得した公務員がいる。(略)(宮台真司、宮崎哲弥[2007]pp.100-101)

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 このような分析に、少なくとも私は大筋で同意する。また、宮台も『「ニート」って言うな!』を読んだはずであれば、我が国において「ニート」と呼ばれている人たちのおよそ半分が、「非求職型」すなわち就労意欲はあるものであるということも御存知であるはずだし、昨今増加した「ニート」もこの層の増加が原因であるということも知っているはずだ。

 さらに宮台は、《ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです》と述べるが、少なくとも最近の井出草平の著書などに見られるように(井出草平[2007])、「ひきこもり」=「脱社会的」と安易に断じることはできない。井出は、むしろ規範に対して敏感であるからこそ不登校から「ひきこもり」に至った事例もある、ということを示している。

 もう一つ言うと、「ニート」や「ひきこもり」について宮台の言う、「彼らは「反社会的」ではなく「脱社会的」である」という物言いは(ついでに言うと、このような物言いは、芹沢一也が指摘するとおり(浜井浩一、芹沢一也[2006])、平成10年ごろから、宮台が少年犯罪を説明するために活発に使用していたものだ)、一見すると彼らに対して「理解」を示すようなそぶりを見せながら、実際には単なる説教(それこそ「穀潰し」批判みたいに)よりも実害が大きいと私は考えている。なぜなら、第一に、少年犯罪については、過去の事例を探せば「脱社会的」と言えそうなものなどいくらでも見つかる(例えば、昭和40年10月に起こった、中学2年生の少年が、異性に対する興味から近所の主婦を殺した、というもの。詳しくは赤塚行雄[1982]を参照されたし)。第二に、そのような「定義づけ」をさせることによって、例えば統計的な状況(少年犯罪は増えていない、など)を無視する口実として使われるからである。第三に、第二の理由を引き金として、根本的に間違った政策が構築されてしまう可能性があるからだ。

 現にそのような危険性は、以下の発言にも表れている。

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石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。

宮台 郊外化です。第一段階の郊外化が一九六〇年代の「団地化」。「地域の空洞化」を埋め合わせる「家族への内開化」が内実です。専業主婦の過剰負担ですね。第二段階の郊外化が八〇年代の「ニェータウン化」。「家族の空洞化」を埋め合わせる「市場化&行政化」が内実です。コンビニ化ですね。これに今世紀に拡大した「ネオリベ(新自由主義)化」が加わり「貧しくても楽しいわが家」どころか「豊かでないかぎりコミュニケーションから見放された環境で子供が育つ」。脱社会化の背景です。(pp.81)

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 少なくともそのような戯れに興じているのであれば、少なくとも多くの「ニート」論の多くが的外れであることを証明したほうがいいのではないか、と思うのだが。言うまでもなく、このような物言いは、例えば労働法をめぐる問題などを隠蔽する。

 同様の危険性は、以下のような発言にも表れる。

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宮台 それをどう呼ぶかは別にして、「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるかです。今期青少年問題協議会の冒頭、「ニート問題は規範や道徳の伝達の問題ではなく、伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題だ」と申しあげました。

 友達や家族と一緒に映画を見て、周りが「ダメな映画だ」と語り合うのを聞き、映画が再解釈される経験が年少者によくあります。そこに注目したのがクラッパーの限定効果説。「子供がもつ素因が刺激の有害性を決める」という仮説と「子供の周囲の人間関係が刺激の有害性を決める」という仮説の複合です。刺激が素因を育てるのではないとします。

 要は情報は単独で有害無害を論じられず、情報をやりとりする「社会的基盤=台」によって意味や意義が変わります。穀潰しだと非難しても、ニートが「穀潰しですが、なにか?」と非難の意味を理解できない可能性があります。道徳や価値を伝える言葉一般にいえますが、自分も相手も同じ台の上に乗っていると感じられるからこそ説教を聞く。そうした台がない「台なし」では道徳的説教は無効です。(pp.83)

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 要するに宮台は、「ニート」については、例えば若年層の過酷な労働環境を解決したり、あるいは「ニート」を問題化する方を問題化するのではなく、まず《「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるか》どうかの問題として考えていると言うことか。私が聞いた発言と、どちらが本音なのだ。そもそも宮台が、「ニート」について《規範や道徳の伝達の問題》と《伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題》を対立軸に置いているのが気になる。また、以下のような発言もある。

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石原 やっぱり僕は親子三代で住まなくなったことが、日本の家族にとって致命的な欠陥になったと思うね。

宮台 柳田国男ですね。日本の農村では両親が生産労働に生活時間の大半を費やすので、爺ちゃん婆ちゃんが孫を育てることで社会性が伝承される、と。広田照幸のいうように、日本には親が子供を躾ける伝統がなく、世間の空洞化と母子カプセル化でむしろ躾は増大してきた。でも同時に窓意性(世間と関係ない親の勝手)も増大するから、親のいうことに従わなくなるか、従った結果かえって社会を生きられなくなる。先の依存的暴力にも関連する問題ですね。(pp.82)

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 とあるが、少なくとも広田照幸を引き合いに出すのであれば、「家庭の教育力の」低下という言説が虚構であることくらい知っていると思うのだが。

 この対談においては、宮台が石原に対して、青少年の「現実」を説明し、それを石原が解釈する、という形式で話が進んでいる。ただし、その宮台の「現実」の解釈が極めて恣意的というか、客観的、あるいは統計的な広がりや内容よりも、まず「現実」のヴィヴィッドさ、あるいは見た目の新奇性が優先するようで、それについては、以下に採り上げる「セカンドライフ」をめぐる言説にも現れている。少々長くなるが、引用しよう。

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宮台 はい。ソニーが「ホーム」という新しいメタヴァースを発表しました。こちらはユーザーの自由度が小さい配給制的空間です。こうした事例は公共性論として重大な問題を提起します。「この社会に意味があるか」にも関連します。要は「この現実が嫌なら『セカンドライフ』に出て行け」「『セカンドライフ』が嫌なら『ホーム』に出て行け」といえるのです。すると第一に、この現実を公正なものにすることや面白いものにすることへの需要が減ります。それでよいのか。第二に、そのぶんセカンドライフに「逃亡」する人が増えますが、今日の物差しでは「ひきこもり」に該当する彼らをどう評価すべきか。

 石原 感覚的にはわかるけれど、バーチャルゲームだけやっていて食べていけるの?

 宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。

 石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。

 宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。(pp.85)

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 ソースは忘却したが、少なくとも我が国の「セカンドライフ」についての評判は、広告や起業の盛り上がりばかりが先行しすぎて、我が国のユーザーはむしろ置いてけぼりにされている、という話が聞いたことがあるが、それはさておき、宮台は「セカンドライフ」を引き合いに出しておきながら、それをめぐる我が国の客観的な情報(加入率、評判など)を採り上げることは一切ない。

 いや、それは以下に挙げる問題に比べればたいした問題ではないのかもしれない。この言説における宮台の最大の問題点は、例えば《生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者》がいることは採り上げるけれども、そこから一気に跳躍して《それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です》などと語ってしまうことだ。要するに、宮台の「社会分析」みたいなものに必要なのは、客観的、あるいは統計的なデータよりも、自分が見聞きした(見た目的に)新規な事例のほうが優るということか。内田樹とどこが違うのだ。「脱社会的存在」をめぐる言説と同様、底が知れた、というべきか。

 宮台の語る、「「ひきこもり」などに代表されるような「脱社会的」な人たちが、現実での承認に嫌気がさして「セカンドライフ」や「ホーム」に逃げ込む」という言説は、例えば香山リカの「精神的にも肉体的にも劣化した存在が、「セカンドライフ」に逃げ込む」などといった言説と同様に、利用者の社会的な属性などと照らし合わせて検証される必要がある(なお、既存のインターネット・コミュニティに関する研究については、例えば池田謙一[2005]や、宮田加久子[2005]がある)。佐藤俊樹だっただろうか、情報社会に関する未来予測というのは、それがいまだに実現していない未来を語っている故、未来に託して結局のところは自分の思想を語っているに過ぎない、という言説を述べていた人がいたが、宮台の「セカンドライフ」論はまさにそういうものだ。

 ところで、この対談の終盤において、石原は以下のように語っている。

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石原 やはり、日本文化の独自性、個性をどうやって抹消させずに維持するかという問題に繋がってくると思う。人間というのは、精神や感性、情念のある不思議な動物だから、それぞれ違った風土や文化を生み出し、それが時間と空間に撫でられることで文明がかたちづくられたわけだけれど、結局、文化までもが個性を喪失すれば、その国はキンタマを抜かれた男みたいな存在にしかならない。(pp.88)

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 このような認識は宮台にも共有されているようで、この直後に、

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宮台 三島由紀夫がそんな状況を「博物館的文化主義」と呼びました。歌舞伎や能を残しても、魂を残さなければ意味がない。魂とは入れ替え不可能性であり、大英博物館に陳列できるような文物が魂であるはずがないというわけです。統治権力としての国家はクーデターや敗戦で簡単にひっくり返る程度の存在です。国家に連なる者でなく、国家によって守られるべき「何か」に敏感な者だけが国士です。「何か」とは日本人なら思わずミメーシス(感染)してしまうもの。だから国士に不可欠な要素は「感染力」です。

 都内のホテルで石原都知事とご面会したあと一緒に歩いていたら、おばさんたちが「慎太郎知事だ!」と黄色い声で騒いでいました。私なぞに目もくれず(笑)。これぞポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の「感染力」だと思います。そんな「感染力」をもつ人が昔は身近にたくさんいました。勉学動機も、自称保守が推奨する競争動機や、自称左翼が推奨するわかる喜びだけでなく、あの人みたいになりたいと感染して箸の上げ下ろしまで真似する感染動機こそ重要でした。そうしたコモンセンスの継承に鈍感な輩が保守を名乗る昨今は笑止です。彼らが文化から「感染力」を奪っています。「凄い奴」に感染して自分も「凄い奴」になる。これがミメーシスです。テクノロジーのネガティブ面を指摘しましたが、あえてポジティブ面をいえば「凄い奴」の数が減るなかでメディアが「凄い奴」を媒介する可能性ですね。(pp.88)

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 と述べている。この対談におけるコンセンサスとは、昨今の青少年問題が、我が国が国家としての「感染力」を喪失したことと、そのような状況に真剣に向きあおうとしないものたちの問題である、ということだろう(ついでに言うと、先の都知事選において、石原が当選したとはいえ前回よりも大幅に得票数及び得票率を減らしたのはどういう理由によるのでしょうね?)。然るに、冒頭でも述べたように、このような物言いなど、権力を免責するものでしかなく、大規模な文化的状況を語っているように見えて、実は何も語っていないに等しいのである。

 それにしても象徴的というか衝撃的なのは、かつて宮台は、例えば「援助交際」をめぐる言説において、そのような行動をとる少女は一部だが特別ではない、という理由で、新しい状況がきている、と言って、上の世代に退場を促していたのだ。そして、この対談においては、同様のロジックが、権力にすり寄るための口実として使われている。これは宮台の得意とする戦略的な立ち位置の転換によるものなのか、あるいは単に首都大学東京のポストが恋しいだけなのか、またあるいは権力者として政治を動かす立場になりたいのか、それとも天然なのか、それは判断しかねる。しかし、このような宮台の「転向」(?)について、宮台をカリスマとして崇め奉っていた人たち――かつての私もその一人であったことは否めないが――は、いかにして宮台を捉えるつもりなのだろうか。

 近年においては、例えば浅野智彦や本田由紀などに代表されるように、今までステレオタイプに捉えられてきた事象――例えば、若年層の道徳・規範意識や、自意識、あるいは就業、逸脱などの行動――について、できるだけ客観的に捉え、またその上でいかに若年層を社会学的に考えるか、という研究や著作が蓄積されている。そのような状況にあって、宮台などが行なってきた、何らかの新奇な「概念」をでっち上げて、そこから大上段から「現実」を語る、という行為が以下に相対化されていくのか、あるいはされるべきか、ということを考える必要があるのではないか、と思う。

 まあ、とりあえず、このエントリーで言いたいことは、以下の一言に尽きるわけで。

 「絶望した!宮台真司に絶望した!!」

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 宮台がらみで、もう一つ、おもしろい発言があったので、紹介しよう。平成17年に行なわれたという、宮台と田口ランディとの対談だという。

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 宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。

 (http://www.miyadai.com/index.php?itemid=541

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 《殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか》とは…。単に「脱社会的存在」なる定義付けが間違っていた、という考えには至らないのだろうか?

 文献・資料
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 井出草平『ひきこもりの社会学』世界思想社、2007年8月
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」、「Voice」2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所、2007年8月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 ナショナリズムの作法』インフォバーン、2007年3月
 宮田加久子『きずなをつなぐメディア』NTT出版、2005年3月

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2007年8月15日 (水)

業務連絡

 (これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)

 

後藤和智の雑記帳」開設のお知らせ
 サブブログを作りました。簡単な告知などは全てこちらでやっていく予定です。

 なお、Wikiについては、何とか9月末までには作りたいと考えております…。

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2007年8月13日 (月)

俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平

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 日本人は、過去を忘却することで遺恨を乗り越えてきた。ただ、「死者には、追憶される権利がある」(H・アーレント)。残った者が記憶にとどめないと、死は復讐する。上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか。(河野正一郎、常井健一、福井洋平[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.21)

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 《上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか》――日本人が「劣化」していると、さしたる根拠もなく主観的に決めつける人たちは、何でこんなに傲慢なのだろう?かつて私が「想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~」なる記事で批判した香山リカもそうであったが、彼らの脳内においては、我が国はどこもかしこも「劣化」し、その現実を直視し、それを克服することこそ我が国の「再生」につながるという思考が既に形成されている。

 今回検証するのは、「AERA」平成19年8月13日・20日合併号に掲載された、河野正一郎、常井健一、福井洋平による「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」である。本書においては、「再生」までは書かれていないけれども、少なくとも現代に対する傲慢な態度は変わらない。リードには、以下のようにある。

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あれから22年がたった。
当時、あの時が岐路だったとは気づかなかった。
最後に、上を向いて歩いたのはいつだったろう。
520人の命を思い出し、いま、足元を見る。
追憶すれば、未来が見える。そんな気がする。(pp.16)

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 などと能書きを垂れているものの、この記事の著者たちの現代社会に対する見方は極めて一面的である。というよりも、統計的に見れば、あるいは少し考えれば直ちに「劣化」なるものが虚像であることが明らかなようなものについて、日本人が「劣化」した証拠であり、そしてその根源は昭和60年(1985年)にあるものであると繰り返している。

 例を挙げてみよう。17ページ、2段目から5段目にかけて、渋谷の歯科医師宅で予備校生が妹を殺害したという今年初めの事件を採り上げて、そこには昭和60年を起点とする「家族」の崩壊があるとする。その「理由」について、河野らは以下のように記述する。曰く、

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 85年には、「8時だヨ! 全員集合」(TBS)の放送が終わっいる。ザ・ドリフターズの伸本工事は言う。
「家族そろってテレビを見る習慣があの年、終わったんでしょうね」
 同じ時間帯、フジテレビでは「オレたちひょうきん族」を放送、ドリフを追い落とす勢いだった。ドリフも低俗と批判されたが、その批判も親子が一緒にテレビの前に座っていればこそ。ひょうきん族が家族そろって見る内容には思えなかった。
 85年は「夕やけ二ャン二ャンの放送開始年でもある。当時、秋元康は番組の曲の詞を依頼される際、テレビ局から、「毒を入れて」と言われた。そこから「セーラー服を脱がさないで」が生まれた。
 毒をはらんだ女子高生ブームは93年のブルセラ/援助交際フームヘと直結していく。
 テレクラ。コードレスホン。深夜のコンビ二。若者の夜のライフスタイルを変える「三種の神器」が生まれたのが85年だったのは、だから偶然ではない。
 当時のセブンーイレブンの「いなりずし」CMはこう始まる。
「私は夜中に突然いなりずしが食べたくなったりするわけです。(中略)こんな自分を私はかわいいと思います」
 社会学者の宮台真司によると、いなりずしを買いにいった若い女性が、ついでに雑誌を買う。ページをめくると、テレクラの広告が出てくる。コードレスホン片手に、家族の目がない自分の部屋から電話すれば、見ず知らずの男女が会話を始める。
「コードレスホンと、自室のテレビが普及した頃から、家族の空洞化が始まった。血がつながった家族だけでなく、多様な人間関係を『家族』としないと、帰る場所のない不安な人たちが街にあふれかえることになる」(pp.17)

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 以下、疑問点を挙げるとするならば、第一に、このような事件が起こったのは、本当にそのようなものが原因なのか。もしそれが原因ならば、件の事件が頻発していなければならないのだが、少なくとも少年による凶悪犯罪は減少しているし、また20代の殺人率だって世界に比べれば極めて低い。この記事の筆者らは、本当に現代になって件の如き事件が増えたのか、ということを検証する必要がある。第二に、類似の事件を過去から探すようなことをしなかったのか。第三に、「偶然ではない」(これは本書において繰り返される文言である)と書かれているのだが、それは本当なのだろうか?第四に、宮台真司のいうところの「家族の空洞化」は何を指すのだろう。第五に、たった一件だけの事件をもってして、「家族の空洞化」が進行している、ということはできるのだろうか。

 ちなみに、赤塚行雄の『青少年非行・犯罪史資料』第2巻には、以下のような事件を報じた新聞記事が引用されている。昭和39年、1964年7月の話である。

 東京、三鷹市の上連雀で、慶應大附属志木高校3学年の兄が、同校2学年の弟を殺害した。この犯人は、物盗りが入ってきたのを偽装し、逃亡中には、《事件当夜三人組の賊が侵入、自分はクロロホルムをかがされて、自由を失った》(赤塚行雄[1982]pp.375)という筋書きの元、物盗りの人相や服装、特徴などをノートに細かく記述した。ちなみにこの兄弟の父親は大学教授、母親は女性検事の第一号であった。また、この兄弟は高校に入学してから中学生を集めて野球のチームを作るも、兄(犯人)の独善的な采配からチームは分裂、家庭内でも弟の発言力が重みを増した。新聞報道は、《こんな状態にいたたまれず、F(筆者注:犯人のこと)はオノを振ったのだろう》(赤塚、前掲pp.376)としている。

 さらに、この犯人は、《学校では内気で、友達もいない孤独な少年。また動物に異常な興味を持ち、ネコをハク製にしたり、生きているヘビの皮もはぐ残虐な性格も見られた》(赤塚、前掲pp.376)という。また被害者である弟もまた、チームが分裂してから、家族に対して恒常的に暴力をふるっていたというが、《E君(筆者注:被害者)を知る人たちは、E君がこのような乱暴だったとは考えられないという》(赤塚、前掲pp.375)。

 このような事件がもし現在起こっていたとするなれば、間違いなく多くの自称「識者」たちは、「家族の崩壊」だの「心の闇」だのという言葉で、事件をスペクタクル化するだろう。しかしながら、この事件は昭和39年に起こったもの。というよりも、過去の事件をたどれば、これが現代で起こったら間違いなくマスコミや「識者」たちはここぞとばかりに意味のない「分析」を繰り返すだろうという事件などいくらでもある。

 そもそもこの記事においては、そのようなスペクタクル化さえも、日本人の「劣化」の原因とされている。そしてその発端が、まさに昭和60年の「ロス疑惑」報道であった。ところで、この「疑惑」に関する報道の過熱ぶりは、その後検証され、反省されたのでしょうか(ちなみにこの事件は、最高裁において無罪が確定している)。さらに、同様にスペクタクル化された事件は、例えば平成元年の宮崎勤事件、平成7年の地下鉄サリン事件、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件があるのだが、それらについての報道も検証されて然るべきものであるが。「AERA」だって、特に少年犯罪に関して、スペクタクル化された報道を検証するという記事を掲載したのは、寡聞にして聴いたことがない。

 19~20ページでは、「格差」についても語られてはいる。だが、そのいずれも実に下らない話。一つ目が、平成19年に甲子園の常連校、PL学園が予選で敗退したことを採り上げて、以下のように語っている。曰く、

―――――

 07年夏のPL学園野球部は大阪大会の2回戦で敗退した。3年連続で、夏の甲子園出場を果たせなかった。ある野球部関係者はこう説明した。
「大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった。勝ちに対する執念に差があるんです」
 執念の有無が、上流と下流の間に「隔壁」をつくる。
 神戸女学院大の内田樹は、国立大で授業をした際に学生から「現代思想を学ぶ意味は何ですか」と開かれた。
「(この学生は)ある学術分野が学ぶに値するかについての決定権は自分に属していると表明しているこの倣慢さと無知にほとんど感動しました」
 学ぶことから逃走する学生が増えていることに、著書『下流志向』でそう驚愕している。
 確かに、現在は「努力したら必ず報われる」とは言えない。しかし「努力は報われる」ことを信じるか信じないかで、努力する執念が二極化する。
「きわめて短期間に日本社会を階層化した原因である」
 内田の指摘は重い。
 (略)
  いまだ現役を続けるKK(筆者注:PL出身の桑田真澄と清原和博)は執念に燃えられる最後の世代だ。満創痍の清原は07年夏、ひざにメスを入れて、まだバットを放さない。右ひじのけがと年齢による衰えを努力で克服した桑田は、メジャーのマウンドにしがみついている。(pp.19)

―――――

 はいはい下流志向下流志向。それはさておき、これについてもいくらでも対案を挙げることができる。第一に、PLが甲子園の土を踏めなくなった原因として、他のチームが強くなったというという考えには至らなかったのだろうか。第二に、《ある野球部関係者》(って誰?)のいうところの《大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった》時代と、そうでない時代の成績の差を、筆者らは説明する必要がある。第三に、何でPLの話から一気に学生一般の話になってしまっているのか。第四に、何も格差(ある意味では、こういう言葉を使うから、内田の如き「格差は経済問題ではない」という輩がのさばるという背景もあるが)や貧困は昨今になって突然降ってわいたものではない。

 もう一つは、昭和60年(もう飽きた)における男女雇用機会均等法の制定が、「男社会に媚びる女とそうでない女」の、いわば「女女格差」を生み出した、という話。どうせなら、昭和60年ならぬ、昭和61年に制定された労働者派遣法を説明したほうがいいと思うのだけれども(派遣法については、門倉貴史[2007]によくまとまっている)。所詮は中森明夫をして「アエラ問題」なる造語を作らせしめた「AERA」、経済や労働環境の問題はスルーなのだろう。

 これだけ我が国が「劣化」したといわれている事象を殊更に採り上げて、そしてその「原因」を探る、というこの記事は、果たして昭和60年のどのような事件に起因しているのだろうか、という皮肉はさておき、この記事において行なわれているものは、この記事の大半を構成しているような、殊更採り上げる必要のない些細なこと(本書冒頭で採り上げられているような、阪神が優勝し、また中曾根康弘が靖国に公式参拝したこの年に、W杯の予選の最終戦(韓国戦)で、多くの若い世代が「全日本」を熱心に応援するようになってから、若年層にとって「愛国心」はファッションとなった、などという議論はその最たる例だ。まあ、これにより、ここ数年で「愛国」ブームが発生した、という香山リカの妄言は否定されたけれども(笑))や、あるいは明らかに一つの原因を同定することが可能な事象(マスコミの犯罪報道の問題など)、また検証不十分な事象(家族内の殺人事件に象徴される「家族の空洞化」)について、ろくに検証せずに、日本人の心性が変化(=劣化)したからだ、と安易に決めつけるような行為である。

 このようなことは、実をいうと類似することを行なっているものが存在する。それは昨今の政権与党、特に教育再生会議に代表されるような教育政策、あるいは「若者の人間力を高めるための国民運動」に代表されるような青少年政策である。要するに、予算や(金と人の)再配分、あるいは労働環境の改善や労働法の遵守などといった次元で解決されるべき問題を、日本人の意識が変化したからだ、という理由で過度に一般化させ、「国民全員で解決しなければならない」と煽るやり方である。そしてそこで用いられるのが世代論であり、また免罪符を与えられるのは権力である。

 何もそこまで話を広げなくても、といわれるかもしれないが、問題解決の優先度を見誤り、あるいは世間の空気に便乗してエビデンスに基づいた検討を怠り、時には真に責任を問われるべき存在を免罪し、あるいは真に問題にすべき事象を隠蔽する。それこそが、昨今の政権与党における教育政策、青少年政策における特徴であると同時に、俗流若者論の特徴でもある。このような青少年問題における、権力とマスコミの共鳴こそが、青少年政策に暗い影を落としている。そのようなことに無自覚なマスコミが多数存在することこそ問題なのである。

 ところで、このような若者論の蔓延は、昭和60年の何に起因するのですか、河野さん、常井さん、福井さん?

 引用文献・資料
 赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、1982年11月
 門倉貴史『派遣のリアル』宝島社新書、2007年8月
 河野正一郎、常井健一、福井洋平「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」、「AERA」2007年8月13日・20日合併号、pp.16-21、朝日新聞社、2007年8月

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