(宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて
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「現代の理論」(明石書店)平成20年新春号に、私の書いた文章「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」(pp.100-109)が掲載された。今回は、この文章について、著者自身による若干の解題を書いてみることとしたい。
まず、この文章が掲載されたいきさつであるが、実をいうと件の論考は、編集部から頼まれて執筆したものではなく、自分で書いてみた文章を売り込んだものだ。というのも、平成19年8月、このブログにおいて「俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司」という文章を書いて、そもそも我が国の若者論にとって宮台とはいかなる存在であったか、ということを考えずにはいられなかったからだ。そこで私はかつて収集していた宮台の若者論を改めて読み直し、そして分析を加えてみた。そしてそれを様々な雑誌や知り合いの編集者に売り込んだのである。
売り込む過程で、様々な人から様々なアドバイスをいただいた。また元の原稿を見せた編集者がまた別の編集者に読ませたりということもあった。そんな中、幸運にも、売り込んだ雑誌の一つであった、「現代の理論」の編集部の方から、文章を掲載させて欲しいとの連絡があり、私は早速それに応じた。まず、私のつたない論考を掲載することを認めてくださった編集部の方に、この場を借りてお礼を申し上げたい。
さて、本題に入ろう。本稿のタイトルは、ずばり「さらば宮台真司」である。そもそも宮台は、平成6年の、いわゆる「ブルセラ論争」によって、若年層の「味方」、あるいは「理解者」「代弁者」としての地位を築いた。宮台は当時から、若年層における「道徳観の低下」という言説を批判し、若年層の道徳は壊れているように「見える」だけで、それはむしろ世間などの「大きな物語」が消えたからだ、という論陣を張っていた。
そのような傾向は、平成7年、オウム真理教の事件より加速する。宮台は「終わりなき日常」を連呼していた。そこで比較されたのは、「オウム信者」、すなわち強迫観念的な「さまよえる良心」を持ち、その「良心」故に大事件を起こすようなものと、「女子高生」、すなわち「オウム信者」が抱えているような大変革への願望を持たず、「終わりなき日常」を「生き抜いている」ものであった。宮台は、前者を否定し、さらにオウム事件における評論家たちの言説をも否定し、後者を肯定した。
このような論理が展開されているのは、「オウム完全克服マニュアル」という壮大なサブタイトルがつけられた、『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)である。さらに、同書の文庫版あとがきには、宮台の「勝利」が宣言されていた。具体的にいえば、「女子高生」的なものが蔓延することによって、「オウム信者」的なものが生きづらくなり、その「救済」をしなければ大変なことになる、というものであった。
事実宮台は、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件の直後、『まぼろしの郊外』(朝日文庫)や『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)、『学校を救済せよ』(尾木直樹との共著、雲母書房学陽書房)などで、「専業主婦廃止」などの「救済」プログラムを打ち出した。
だが、宮台は、ここで若年層を見誤っていなかったか。例えば『終わりなき日常を生きろ』で採り上げられている事例も、実のところ実証性というものはなく、ただ自分の身の回りのインタヴューくらいでいろいろと妄想を構築しているものであったし、少年による凶悪犯罪も1960年代に比してはずっと少ないし、「酒鬼薔薇聖斗」事件が本当に宮台のいうような性質のものであったかということもわからない。この手の事件は、それ以降はほとんど起こっていないからだ。
そればかりではない。宮台はのちに、平成8年頃より、いわゆる「援助交際」に関するフィールドワークを辞めた、と公言している(『制服少女たちの選択』(朝日文庫)文庫版あとがき)。宮台にとって平成8年頃は《「とてもポジティブな時代」》が《終わった》(宮台真司[2006]p.395)ものであり、さらにその時代以降の「援助交際」女子高生は《私にとってのエイリアン》(宮台真司[2006]p.397)であると公言してすらいる。
思えばこの時期あたりから、宮台の言説は実証性をかなぐり捨て、若年層に対する突飛なイメージをひたすら煽り続けるようなものに変貌していた、といえるかも知れない。宮台が教育政策などとの忖度をろくに行なわずに、簡単に「救済」などと述べるようになったのも、宮台にとって若年層が「理解可能」な存在でなくなったことが原因といわざるを得ない。もちろん、変わったのは若年層というよりも、宮台の若年層に対する見方である。
そうなれば、宮台が平成10年頃より連呼するようになる「脱社会的存在」なるテーゼも理解できようというもの。宮台が安易な「社会防衛」に走ったのも、結局のところ宮台が若年層をモンスターとしてしか捉えていなかったことの証左なのである。なお、「現代の理論」文中ではスペースの都合上で触れられなかったが、この部分は芹沢一也の『犯罪不安社会』(浜井浩一との共著、光文社新書)での分析に大いに触発されている。ただ私の視点が芹沢と違うのは、芹沢が少年犯罪に対して寛容さを失っていく社会を掘り下げていくのに対し、私はその後の宮台の言説がいかに実証性に欠けているものであるか、ということを証明している。
例えば、平成19年3月に出された鼎談本である『幸福論』(鈴木弘輝、堀内進之介との共著、NHKブックス)の以下の記述を見てみよう。
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ところがどうしたことか(笑)、偏差値七〇以上の大学でも学力はどんどん落ちているし、「人間力」にいたるとベキ乗くらいの速度で落ちている。分かりやすく言えば、「こいつはすごい」と思う人間に出会う可能性が十分の一以下に減った。それは間違いありません。(宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介[2007]p.35)
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ギャグでいっているのだろうか。そもそも宮台はこのようなことを示すデータを一つも示していない。それどころか「人間力」などという(客観的な評価が不可能故に判断基準にするには極めて問題の多い)言葉を安易に用いているのだから、その言説のレヴェルはたかが知れているところだろう。結局のところ宮台のいっていることはいわゆる「ニセ科学」に他ならない。「ニセ科学」というと自然科学系のものを我々は想起しがちだが、宮台のような社会科学系のものにも注意を支払う必要がある。
それにしても宮台の最新のインタヴューである「出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題」(「現代」平成20年2月号にも掲載されている)を読むと、いかに宮台が自らのやっていたことについて反省していないかということがわかる。例えば、
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全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。(以下、断りがないなら全て「出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題」からの引用)
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私の見る限りでは、これは明らかに宮台のことである。なぜなら宮台は、平成9年頃、それこそ全体性など無視して若年層の「救済」「サルベージ」などを語り、舌の根の乾かぬうちに「脱社会的存在」などと不安を煽ったからだ。
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不安はマスメディアにとっての最大のエサです。潜在的な不安があれば、不安を煽って視聴率を増やす戦略をとります。その結果、犯罪が増えていなくても、人々の不安だけが膨らむことになります。その延長線上に重罰化や監視カメラを要求する世論が盛り上がります。
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「冬枯れの街」のエントリー「恐怖、この思念凝結兵器さえあればこの先千年を経てもなお統べる事ができよう!内在する恐怖によって~宮台転向記念碑~」でも突っ込まれているとおり、平成10年頃から若年層に対する不安を散々煽ってきたのも宮台である。
嗤うべきところは他にも多数あるので省略するけれども、我々は、宮台こそが若年層に対する不安を煽り続け、そして統計やデータ、及び科学的な検証によらない青少年言説を発信し続けてきた、ということを正しく認識すべきではないだろうか。そしてそのような言説が許されてきた「90年代」という時代の若者論についても、はっきりとノーを突きつけなければならないだろう。
そもそも90年代の若者論とは、青少年「問題」の肥大化と、青少年をめぐる解釈合戦によってその「問題」をバブルの如く大きくしていたような議論に他ならない。その中心にいた一人が、間違いなく宮台であった。今はそのような不安を鎮静させるのが先決でないか。そうしなければ、それこそ教育基本法の「改正」や、教育再生会議、あるいは種々の青少年「対策」のような、根拠のない不安に裏付けられた政治の動きを止めることはできないだろう。
ところで宮台は、こうも述べている。
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ちなみに、文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。
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私の論考が、宮台の《前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営み》となれば、著者としてうれしいことこの上ない(苦笑)。
引用文献:
宮台真司『制服少女たちの選択』朝日文庫、2006年12月
宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介『幸福論』NHKブックス、2007年3月
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