2007年4月20日 (金)

想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~

 (H19.4.21 10:40 書名の間違いがあったので訂正しました)

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 「ご冗談でしょう」。私が書店で、「ダ・ヴィンチ」(マガジンハウス)平成19年5月号に掲載されていた、平成19年4月に新たに発売される文庫や新書の一覧で、講談社現代新書の新刊の1冊として、香山リカ(精神科医)の新著として、『なぜ日本人は劣化したか』なる本が発売される、ということを知ったときの感想である。私はかつて、少し思うところがあって、仙台市内の古本屋を数軒周り、香山のほとんどの著書を収集したことがあるが、『多重化するリアル』(廣済堂ライブラリー/ちくま文庫)の頃から急激に文章が若い世代を糾弾するようなものになるとはいえ、このような実にストレートなタイトルの本が出るとは予想だにし得なかったのである。

 しかしながら、なんと本当に出てしまったのである。しかも、内容はもはや香山自身が劣化したとしか言いようがないほどのひどさなのだ。言うなれば、香山の初期の著書である『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)に出てくるような、何らかの悩みを抱えて香山に手紙で相談してくるような人に対し、香山が「お前は劣化している。そしてこのように劣化した人間ばかりとなり、劣化した社会を構築しているのが、今の日本なのだ」と糾弾しているような本である、と考えれば、わかりやすいだろうか。

 香山の「変貌」に関してかいつまんで説明しよう。初期の香山は、おおむね、『リカちゃんのサイコのお部屋』の如き、「お悩み相談」系とでも言うべき仕事か、あるいは当時の女性における流行やテレビゲームに関して軽妙なエッセイを書いているような、単純に言えばエッセイスト的な存在であった。ただ、平成7年ごろを契機に、香山の言説の中に、なかんずく青少年や若い女性における流行を指し、これは社会の抱えている病理を表しているのではないか、と嘆いてみせるようなものが登場するようになった。とはいえ、当時の香山の態度は、そのように嘆きつつも、結局のところ嘆きを内に抱えながら考え込む、というようなスタンスで、簡単に糾弾するようなことはなかった。

 平成10年ごろには、香山の言説の中に「解離」や「離人症」という言葉が頻繁に出てくるようになる。契機は、同年に栃木県黒磯市(当時)で起こった、中学生による教師殺傷事件だ。この事件を契機に、宮台真司が「脱社会的存在」という概念を振りまいたのと同様、香山もまた「解離」「離人症」という概念を振りかざした。ただしスタンスとしては、それほど変化しているわけでもない。

 香山のスタンスが急激に変化するのは平成13年9月11日の、米国における同時多発テロである。この事件を契機に、香山は、現代人は「解離」的な状況を作り出すことによって多元的な自己を生きてきたが、現実はそういう生き方で生き抜くことはできない、だから「解離」的な人たち、なかんずく若年層を現実に引き戻すべきだ、という言説が頻出するようになった。その象徴とでも言うべき著作が『多重化するリアル』であり、この時期以降の香山のベストセラーである、『ぷちナショナリズム症候群』『就職がこわい』『いまどきの「常識」』では、おしなべてこのような認識が繰り返されている。

 そして、香山の「変貌」がもはや完全なものとなったとして認識できるのが、平成18年2月に上梓された『テレビの罠』であろう。同書においては、もはや「解離」という言葉すらほとんど見あたらず、しきりに日本人がだめになった、おかしくなったと連呼しているだけのものとなってしまったのだ。そして、完全に変貌しきった香山の象徴的な著書として記録されるべき著作――それが、『なぜ日本人は劣化したか』に他ならない。

 のみならず、同書は、主として若年層に対する罵詈雑言で満ちており、「左派」と呼ばれる側にいるはずの香山が、若年層に対する偏見を扇動しているのである。その意味では、本書は批判どころか、徹底的に糾弾されるべき本である。

 香山は同書の「まえがき」において、働こうとしない「ニート」の若年層や(このような認識が間違いであることくらい、『「ニート」って言うな!』などを読めば直ちにわかるだろうが)、子供を車に置き去りにして子供を死なせる若い母親(センセーショナルに採り上げられているだけではないか?)、そしてやる気のない東大生を採り上げ、次のように述べる。曰く、

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 私たちはこの変化を、「一過性」「一部の人だけの問題」として無視する、あるいは見守ることはできないのではないか。

 いや、「変化」などという留保つきの言い方は、もうやめよう。

 日本人は、「劣化」ししているのではないか。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。

 私自身、そういう″直感″を抱いてから、それが″真実″だと認めるまでには、やや時間がかかった。私はこれまで、病理的な現象からテクノロジーの普及まで、社会の変化をおおむね肯定的に受けとめ、解釈してきたからだ。

 しかしここに来て、私もいよいよ認めざるをえなくなった。

 日本人は、「劣化」しているのだ。

 それは本当なのか。希望はもうないのか。これから考えてみたい。(香山リカ[2007]pp.6-7)

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 《全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に》などと能書きを垂れているものの、香山が本書において、若年層ばかり問題にしており、他の世代を問題にする場合も、やはり若年層の「劣化」に結びつけて語りたがっているのは明らかである。従って、香山の言うところの「日本人」は、――多くの俗流「日本人論」がそうであるように――「今時の若者」と同義であることは言うまでもないだろう(どうでもいいけれども、香山は冒頭において、「日本人の志を取り戻せ」という趣旨の奥田碩の発言を肯定的に採り上げている。香山が「若者の人間力を高めるための国民運動」に委員として参加しているから、会長である経団連会長(現在は御手洗冨士夫にポストを譲ったけれど)は批判できないのか?)。

 しかし、感慨深いものがある。なぜならこのようなことは、少なくとも平成13年頃までの香山なら絶対に言わなかったことである。それまでの香山のスタイルというものは、社会に対してなにか言いたいけれども、とりあえず内に抱え込んで、結論を安易に出さずにしておく、というスタンスだったからだ。それがこのように断言するようになったとは。

 それはさておき、香山がここまで強く断言できるには、それなりの証拠があると見ていいだろう――だが、残念なことに、決してそうではない。香山が、日本人が「劣化」しているという証拠は、結局のところ香山の直感と、それを支持してくれそうな身近な人たちの発言なのである。真に客観的と言えるような証拠など、はっきり言って皆無なのだ。

 例を示してみよう。香山は、若年層の文字を読む能力が低下している証拠として、日本人が長い文章を読めなくなった、ということを示している。曰く、香山が最近頼まれた文章の長さに関して、当初、香山は1200字の原稿として書いた。ところが香山が編集者に問い合わせてみたところ、1200字ではなく200字であった。さらに、身近な編集者に尋ねたところ、かつては800字くらいでも多くの人が読めたが、今は200字くらいでなければ読者は読むことができない、というのが業界の常識なのだ、という。従って、日本人の知性が劣化しているのは明らかである(香山、前掲pp.14-18)。

 めまいがしてきた。だが、このような論証立てが、次から次へと続くのが本書なのである。つまり、まずはじめに自分の直感があり、それを都合良く正当化してくれるような身近な事実があり、そして自らの思っていることは正しかったのだ、日本人は劣化している!というのが本書の主たるストーリーなのである。もちろん、他の自称に関してもこれと同様。今の学生が90分の授業を聞けなくなったことの証拠としてあげているのは身近な教授。ちなみに私は、大学院生となった今まで、私の参加した全ての授業で、多くの学生が最後までしっかりと、90分の授業をしっかりと聴講していたが(まあ、中にはねる人も少なからずいるかもしれないけれど)。さらに言えば、今の学生の、授業への出席率は良くなっている、というのもよく聞く話である。ということは昔の学生は授業に出るほどの力すらなかったようである。日本人は進化しているのだ(ちなみにこの話にも根拠は示していないが、香山のやり方をまねれば、このように言うことだってできるのだ、ということを示したかっただけである)。フェミニズムやリベラルの衰退の原因について述べられたところも、引用しているのはせいぜい荷宮和子の言説や、山口二郎などの、平成17年の総選挙に関する「解説」だけであって(ちなみに、この選挙における「解説」のいかがわしさについては、後藤和智[2007]で採り上げるつもりである)、やはり公明党の協力や小選挙区制については採り上げられていない。

 もちろん、自らに都合のいいことが書かれている記事に関して、それを疑って読むことと言うこともない。例えばモラルの「劣化」を採り上げた第2章においては、そこで採り上げられているほとんど全ての事象が、産経新聞が今年から始めているシリーズものの企画「溶けゆく日本人」なのである。ちなみにこの記事については、「はてなブックマーク」などで、少なくない人から「釣り」「ネガティヴなことばかり採り上げすぎ」「また産経か」と言われているし、そして私が見た限りでは、この意見は正しい。

 ちなみに浅野智彦らは、都市部の若年層に対するアンケート調査から、現代の若年層の道徳、規範意識は決して低下していない、という結果を出しているのだが(浜島幸司[2006])、まあこれに関しては置いておこう。

 ゲームに関する記述も、はっきり言ってでたらめの極みである。例えば、次の文章を読んでいただきたい。

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 ″お得感″を目的とする実用ものとは異なるが、すぐに目に見えて結果が出るゲームの中に「暴力的ゲーム」を加えることもできるかもしれない。

 「スーパーマリオブラザーズ」など大ヒットゲームの開発者として知られる任天堂の宮本茂専務は、〇七年三月、アメリカで行われたゲーム開発者会議で基調講演を行い、その中で「ゲーム開発業者は熱心なファンが好む暴力的ゲーム作りを偏重し、一般利用者向けの楽しいゲーム開発を怠ってきたため、ゲーム業界は過去一〇年間に信望を失ってしまった」と、自らも属する業界のあり方を厳しく批判した(産経新聞、二〇〇七年三月一〇日)。(香山、前掲pp.75)

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 だが、ここで香山が採り上げている記事は、室田雅史によれば、誤報であるというのである。これを室田は、この記事が時事通信と産経新聞で配信されたときからかなり早い時期に、さらに言えば講演の原文に依拠して論証していた。

 香山の魔術にかかれば、近年になって、いわゆる「脳トレ」系のゲームが売れるようになったことも、日本人が劣化し、ゲーマーにおける想像力や我慢する力が低下したから、ということになる(ちなみに香山は、近年はすぐに結果が出るようなゲームしか売れなくなった、と嘆いているが、その根拠もまた《あるゲーム開発者》(香山、前掲pp.71)から聞いた話である。これでは、岡田尊司が、ゲームを制作している会社は、ゲームが売れなくなることを心配しているため、ゲームが子供の脳に及ぼす悪影響に関して口をつぐんでいる、という行為が業界における公然の常識である、と陰謀論を述べたのとどこが違うのか)。実用系のゲームが登場したことによって、これまでゲームに親和的でなかった層にも市場が開拓された、という見方のほうが有力だろう。

 第一、かつての香山は、テレビゲームについては親和的な立場をとってきたのではないか?まともだった頃の香山の中でも、さらに良質な著作として、『テレビゲームと癒し』(岩波書店)があるが、少なくとも同書は、テレビゲームによる精神医学への応用など、ポジティヴな側面にも触れられており、さらに言えば安易な擁護論にも与せずに、公平に評価を与えようとする態度が出ていた。それがこのざまだ。おそらく香山をゲームバッシングに走らせた要因としては、平成17年中頃に起こった監禁事件を挙げることができるのかもしれないが(その時の香山の言説を批判したものとして、私のブログの「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」がある。ちなみに当然本書においては、ここで批判した文章と同様の論調での「萌え」批判だってあり、なおかつ問題点までそっくり同じだ)、かつて香山が、斎藤環の「ゲーム脳」批判を引いて、「ゲーム脳」説の非科学性を訴えていた(香山リカ、森健[2004])のとは隔世の感がある。

 さらに言えば、これだけではない。同書においては、何が何でも若年層が悪い、若年層の性で香山が悪いと思っている事態が生じた、ということを主張するためのこじつけだって頻出する。例えば新聞の文字が大きくなったことについて、高齢者にも読みやすいようにしているのだろうと考えるのが普通だろうが、香山はこれだって若年層のせいになってしまうのだ。

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 よく言われることだが、いま六〇代から八〇代のいわゆる高齢者と呼ばれる人たちの多くはむしろ向学心にあふれ、むずかしい本、半ば難解な哲学の講義を受けにカルチャースクールに通いもする。電革で、昔の活字の小さな時代の文庫本を熱心に読む老紳士の姿も、しばしば見かける。

 そう考えると、「字を大きくして」「中身を簡単にして」と望んでいるのは、実は高齢者ではなくて、若い人たちなのではないか、という気もしてくる。実際に冒頭に述べたように、若い女性が読む雑誌でも「かつては一テーマ八〇〇字、いまは二〇〇字」というように″簡略化″が進んでいる。この人たちに関しては、視力が低下しているわけでも長い文章を読む体力がなくなっているわけでもないことは、明らかだ。(香山、前掲pp.26-27)

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 いい加減にしていただきたい。こういうことを言っているのは全世界で香山だけだ(おそらく)。第一、このような言い方が許されるのであれば、香山のここ1年ほどの発言こそ《簡略化》の象徴ではないか。

 香山はリストカットに代表されるような若年層の「生きづらさ」に関しても、若年層の精神が本質的に弱くなっているからであり、さらに言えば若年層の「問題行動」の原因さえも、若年層の体力の低下だと述べている(香山、前掲pp.85-94)。『生きさせろ!』なる秀逸な本が香山に書評されて喜んでいる雨宮処凜は、香山がこのように述べていることをどう思うのか、是非お訊きしたいものである(雨宮さん、ごめんなさい)。

 挙げ句の果てには、このようなことを言ってしまう。これでは戸塚宏と同じではないか。

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 しかも、これまでの章で述べたように、この劣化は知識やモラルといった主に脳内での活動に限って進んでいるのみならず、体力、身体能力などからだの領域でも起きているようなのである。すぐに「死にたい」「生きるのに疲れた」とつぶやく若者の例も紹介したが、「朝、起きて″ああ、今日もいちにち生きなければならないのか″と思うとそれだけでグッタリする。夜、眠るとき″このまま明日の朝が来なければいいのに″と祈ってしまう」と訴える若者を見ていると、何かをしろ、と言われているわけではないのに、ほとんど本能のレベルで片づくような呼吸、食事、睡眠といったものがこの人たちに″とてつもない負荷″として伸し掛かっているという事実に、愕然とすることがある。

 こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らにとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。(香山、前掲pp.144-145)

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 これから香山のことは差別者であると認定しよう――私にそのように決断させてくれた文章であった。もはや何とも言うまい。

 何とも言うまい、とは言ったものの、やはり無視できない部分がある。それは、インターネットに関する記述である。香山は、インターネット上のコミュニティ「セカンドライフ」について、以下のように述べる。やはり香山は差別者でしかない。

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 では、生物として劣化し、体力も性欲も繁殖能力さえ喪失しつつある人たちは、どこに向かうのだろうか。

 その″行き先″として注目されるのが、二〇〇七年春にも日本語版サービスが始まるとされる3D巨大仮想空間「Second life(セカンドライフ)」である。(香山、前掲pp.146-147)

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 つまり、インターネットのコミュニティは、生物として劣化したものの行き着く先であると!なんという物言いであろうか。

 これに関しては、実証的な視点からの批判が必要であろう。インターネットによる社会関係資本の形成については、既に少なくない研究が積み重ねられている。

 例えば池田謙一は、インターネットのメールの利用に関してアンケートを分析したところ、テクノロジーに対する親和性が高いことや、あるいはインターネットのメールの使用が、フォーマルな集団への参加を促し、また非寛容性を減少させる効果があるのではないか、ということを実証している。他方で池田らは、元々社会関係資本に恵まれた人ほどインターネットに親和的である、という見方もできるであろう、としている(池田謙一[2005]第2章)。他にも多くの研究があり、ここでは割愛するけれども、少なくとも香山が考えているような、インターネットのコミュニティが頽廃的な世界である、という見方は辞めたほうがいいようだ。

 ちなみに、香山のインターネットに対する偏見は、やはり平成14年の『多重化するリアル』が始祖である。なぜなら同書において「解離」を蔓延させている張本人として採り上げられているのが、インターネットであり、また携帯電話であるからだ。

 さて、これまで、私は同書における、香山の態度に対して批判を重ねてきた。具体的に言えば、香山は、社会的な問題に関して、自分で勝手に「劣化」の烙印を押しては、それを薄弱なる根拠で執拗に嘆いている、という行動を繰り返しているだけであり、言説としての価値は全くない。なるほど、帝塚山学院大の教授(助手でも准教授でもない!)なら、私にでもなれるようだ。大学院を卒業したらそこに就職しようか。

 同書において、香山は、まず日本人が「劣化」しているという事実を認めるべきだ、そこからでないと日本人の「劣化」を食い止めることはできない、と主張している。もちろん、このような見方が傲慢であることは言うまでもないだろう。第一、「劣化」なる烙印を、特に若年層に対して執拗に押し続けているのは、他ならぬ香山だからだ。そして現代の若年層は、香山によって「劣化」している日本人の象徴であるという烙印を押しつけられ、その存在価値を減じられる。香山の言っていることは全て偏見か、そうでなければ怪しい主張の受け売りに過ぎず、内容はないに等しい。

 さらに言えば、香山は同書の中では、日本人の「劣化」に警鐘を鳴らすべき人物として書いている。香山は後書きで言い訳臭く、「自分も「劣化」しているかもしれない」と書いているけれども、本書を読む限りでは、香山にそのような認識などかけらもないことは明らかだ。

 しかしながら、香山はそのようなヒロイズムに浸ることによって、実証的な議論を参照すること、あるいは実証的であるように心がけることを放棄している。同書が客観的な根拠をことごとく欠いていることも、これが原因であろうか。

 香山は、特に『ぷちナショナリズム症候群』を出した直後から、左派の若者論の指標として、その際前線で活躍してきた。それまでは自己満足の如きエッセイや、あるいは精神分析の流行の受け売りでしかなかったのが、同書によって急に最前線に出ることとなったのだ。爾来、香山は、特に若年層の「右傾化」なるものを嘆く記事で頻出するようになった。そして、その歴史は、香山の「劣化」(!)の歴史でもあった。左派が少年犯罪や青少年の規範意識に関して、実証的な視点からの反論を試みなかった、あるいはほとんど採り上げなかったことに関しても、香山という存在があったから、ということは大げさだが、少なくとも左派は若年層に関して、理解してあげるそぶりを見せながら、本音ではバッシングしてきた(その象徴としてあるのが、本書にも一部だけだがある「ネット右翼」論である)。その象徴が香山であったのかもしれない。

 とりあえず本書に関して私が言えることは、香山こそが「劣化」した、ということだ。香山は同書の中で、日本人が「劣化」している!という自らのでっち上げた物語に酔い、もはや何も見えなくなってしまった。これ以上、香山の自己満足に我々は付き合っている必要はない。それと同時に、左派もこのように何も生み出さなくなってしまった香山とは一刻も早く決別すべきだ。優れた論者はいくらでもいる。

 とはいえ、私如きがこのような文章を書いたとしても、香山の地位は低下しないだろう(第一、このように無意味な本が平気で出版されているのだ)。ただし、私は、香山の言説を嬉々として受け入れている読者や編集者に対して訴えたいことがある。香山の言説は、結局のところ中高年層と若年層を分断させ、上の世代が下の世代に対して「こいつらが生きづらいのは自己責任だ」と罵るようなものでしかないということだ。そしてそのような言説ばかりが蔓延する将来像とは何か、考える必要があるのではないか。少なくとも香山の暴走を止めることができるのはあなた方しかいないのだ――と。

 引用文献、資料
 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」(仮題)、「論座」2007年6月号、ページ未定、2007年5月(近刊)
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007年4月

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2005年6月 6日 (月)

壊れる日本人と差別する柳田邦男

 私が俗流若者論に対して違和感を持つようになったのは高校1年の頃だ。私が高校1年だった平成12年5月、マスコミで「17歳の殺人」が喧伝され、私が世間から殺人者として見られているのではないか、という恐怖心に駆られていた。そして、私が俗流若者論に対して本格的に批判的検証を行うようになったのは、高校2年のとき、17歳になる数ヶ月前であった。最初の頃は、感情論的な「反論」ばかりであったが、大学生になってからは疑似科学批判や俗流若者論が生み出すナショナリズムやレイシズム(人種差別)に対して批判を行なうようになった。

 俗流若者論を読んでいると、吐き気を催すほどの空疎な言葉ばかりが飛び交う。国家、愛国心、日本人、心、伝統、文化、道徳、本質、堕落、失敗、そして崩壊。これらの言葉は、単なる自らの自意識の発露でしかなく、そこから読み取れるのはただ自分だけを肯定した上で若年層をしきりにバッシングしようとする残酷な意識である。

 もちろん、彼らにとっては「正義」なのかもしれない。しかし、その「正義」が現実に生きる青少年にいわれなき誤解をかぶせられ、彼らが亡国の鬼胎として不当に「政治利用」されることを正当化しているのであるから、当の青少年にとっては迷惑千万であろう。

 彼らが「日本の崩壊」を好んで語るとき、限りなく10割に近い人たちが「今時の若者」をしきりに嘆く。しかし、彼らの「憂国」は、所詮はマスコミで興味本位に報じられているような表層的なものでしかなく、マスコミの報道に対して疑ったり、あるいはマスコミが報じないような青少年の「現実」を探り当てようとする人は、この分野においては皆無である。なぜか。そのような試みは地味であるから、たとえ実りのある結果が出たとしても、人々はマスコミの喧伝する「今時の若者」なるバーチャルリアリティーに踊らされている。なので、ほとんどの人が気づかない。

 作家の柳田邦男氏の最新刊、『壊れる日本人』(新潮社)も、所詮はマスコミの「憂国」にただ乗りしたものでしかないのである。なぜ私がそう考えるのかといえば、柳田氏の問題意識が同書のあとがき(217ページ)にこのように記されているからである。

 超一流企業のエリート経営者がなぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事が続発する。若者たちが見ず知らずの相手とネットで交信して、ある日あるとき、集合して集団自殺をする。少年や少女による残忍な殺人事件が相次いで起こる。

 この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか。そう問いかけても、根源にあるものは見えにくく、答を見出すのは難しい。(柳田邦男[2005]、以下、断りがないなら同様)

 極めてデ・ジャ・ヴュに満ちた文言である。この程度の「憂国」言説において、問題視されるのが《超一流企業のエリート経営者》と《若者たち》と《少年や少女》であることはもはや定番としか言いようがない。しかも《なぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事》と《集合して集団自殺》にはかなりの飛躍があると思うのだが、柳田氏にとっては同列のものなのであろう。

 なぜか。それは、柳田氏が《この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか》と語っている通り、これらの問題は柳田氏にとっては日本人の根源において精神構造が崩壊していることの証左だからである。個人や企業構造の問題を解決する前に、一足飛びに「日本人」全体の精神病理として批判してしまうことは、短絡的なナショナリストの常套手段である。

 そして、柳田氏は、このような日本人の精神構造の崩壊をもたらしたものが、《「人間を壊す見えない魔手」「二十一世紀の『負の遺産』は心と言葉にかかわる見えないもの」「IT時代がかかえこむ見えないジレンマ」》であると推測する。もちろん、他のファクターは無視されている。柳田氏は、218ページから219ページにかけてこのように書いている。曰く、

 IT革命による情報化は、言葉の世界に直接的に影響をおよぼす。同時にIT機器とりわけメディアへの長時間の接触と依存は、心の影響を与えないわけがない。とくに子どもの場合は、心の発達と人格形成に影響をおよぼす危険性が高い。いずれにせよ、IT革命という二十一世紀型の科学技術の担い手の「負の側面」は、情報処理やコミュニケーションという見えにくいものによってもたらされ、その結果も、心と見えない世界に生じる現象なのだ。

 極めて興味深い指摘である。特に、柳田氏が《言葉の世界に直接的に影響をおよぼす》だとか《心の影響を与えないわけがない》だとか《心と見えない世界に生じる現象なのだ》だとか、定量化が難しい事例に対してただ憶測だけを重ねて警鐘を乱打していることが(しかし空回りしてばかり)。これは現代における「非社会的な若者」への不安を扇動する言論に共通して言えるもので、「反社会的な若者」が既存の「世間」によって与えられた境界線の枠組みにのっとって反社会的行動をしているのに対し、「非社会的な若者」は既存の境界線の枠組みに関わる行動をしているので、「世間」の境界線を死守するだけの俗流若者論は、彼らを「世間」の枠組みの中に再び囲い込め、としか言うことができない。「非社会的な若者」は、「反社会的な若者」とは違い、不可視的であるから、好きなように不安を扇動することが可能だ。柳田氏は、まさに「不可視的なものに対する過剰な不安扇動」をやってのけている。

 そして、詳しくはこの後の議論に譲るが、柳田氏にとっての「言葉」だとか「心」だとかいった文言は、所詮は「想い出の美化」イデオロギーに満ちたものでしかなく、それが現実の青少年をいかに苦しめるものであるか、ということに対する柳田氏の想像力は、完全に放棄されている。これは、昨今の憲法や教育基本法の改正論にも共通するものでもある。柳田氏は、いつから御用ジャーナリストになったのか。

 以下、柳田氏の著書における、特に問題の多い箇所を検証していくことにしよう。

 ・7~22ページ「見えざる手が人間を壊す時代」…見えざる手が柳田邦男を壊す時代
 7ページにおいて、柳田氏はテレビで見た《東京の山の手の住宅街にある有名幼稚園の話題》について述べる。そのとき、柳田氏は、その幼稚園の多くの子供が高級車で一人一人送られる、という事実に驚愕した。確かに、柳田氏が驚いた理由もわからぬでもない。しかし、柳田氏は8ページにおいて、《子育てに関して、何か凄いことが、この国を覆いつつあるように思えた》と、一つの特殊な事情を持った(柳田氏は8ページにおいて《所得水準の高い過程であるのは確かだ》と言っていたはずだが)幼稚園における情景を元に、日本全体に関して論じてしまうのである。おかしくはないか。

 しかも11ページにおいて、柳田氏は、そのような状況にある現代の子供たちに関して(もちろん、柳田氏の誇大妄想だろうが)《今の子どもはそういう状況の中にあっても、なぜか気が変にならない。いや、実際には変になっているにちがいないのだが、みんなが同じように変になっているので、変であることに気づかないだけのことなのだろう。最近変な事件が頻発しているではないか》とさらに妄想を深化させてしまう。はっきりいって、この短い文章の中に《変》という言葉が繰り返し、しかもなんの躊躇もなく使われていることが、私にとっては恐ろしいことである。しかも《最近変な事件が頻発しているではないか》と書いて、読者の感情に訴える形をとっているけれども、柳田氏はいかなる事件を指してそういっているのか、開示を望む。

 また、柳田氏は、14ページにおいてある疑似科学について好意的に触れる。もちろん、ゲームをやると脳が異常になって、子供たちの社会性の発達を阻害する、という「ゲーム脳」理論だ。この理論に対する論理的検証、さらに思想的な検証は、精神科医の風野春樹氏が行なっているのでそちらを参照してもらうとして(風野春樹[2002])、柳田氏が、「最近の子供たちは異常だ」という一点張りでこの問題の多い「ゲーム脳」理論を信奉していることが恐ろしい。しかも、15ページから16ページにかけて、科学的検証など無用だ、と開き直っているのだからさらに戦慄する。

 その上17ページにおいて、柳田氏は、次のように述べている。

 そこで私は情報環境の変化に焦点をあてて考察しているのだが、テレビやゲームはバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だ。ところが、社会生活の経験が少なく、情報への批判力もない子どもが、毎日長時間テレビを見たりゲームにふけったりしていると、その子にとっては、仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなるばかりか、やがて仮想現実の世界のほうに現実味を感じるという逆転現象が起きてくる。そういう点で“先駆的”と言える世代が、すでに二十代になっている。

 で、柳田氏がその証左として17ページから18ページにかけて述べているのが、結局のところ《若い女の子》の行動。当然、私は腰が抜けた。柳田氏にとっては、その行動が《脳が仮想現実の世界から抜け出していない、つまり自宅のソファーでテレビを見ているのと同じ感覚で電車に乗っているからだととらえたほうが納得できる》のだそうだ。柳田氏は、ここまでわけわからずのアナロジーでも、相手が「今時の若者」ならば通用するとでも高を括っているのか。いい加減、マスコミが興味本位で採り上げたがる「今時の若者」の「問題行動」から、空疎な「時代の病理」を読み取って悦に入ることをやめてはくれないか。

 当然の如く、柳田氏は、20ページから21ページにかけて、平成12年の佐賀のバスジャック事件にかこつけて、《本来なら心の中だけの幻想で終わってしまうこういう想いを、仮想現実で終わらせないでそのまま現実世界に持ち込んでいく。「バーチャルな多重人格」においては、仮想現実が現実世界を圧倒してしまうのだ》と平気で論じてしまう。マスコミと俗流若者論によって意図的に捏造された仮想現実が、現実世界を圧倒しているのは、柳田氏のほうであろう。

 ・23~39ページ「広がるケータイ・ネット依存症」…「敵」はどこにいる?
 この章において、柳田氏は明確に携帯電話とインターネットを「敵」として「発見」する。柳田氏は、25ページにおいて、壮大な差別言説を開陳してしまっているのである。

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

 ここまでひどい差別はあるまい。何せ、柳田氏にとっては現代の若年層は《不思議な動物》、すなわち人間以外のものとして認識されているのだから。これは明白なレイシズムであろう。いつから柳田氏はレイシズムを許容するようになったのか。しかも《若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない》と、検証もなしに自らの思い込みだけでものを語ってしまっているのだから、救いようがない。もう一つ、このようなことが、どこまで広がっているのか、ということについて、柳田氏は検証したのだろうか。

 このような態度だから、柳田氏は《ビジネス界の「人の砂漠」》(26ページ)だとか《患者の顔を見ない医師》(28ページ)も、全て携帯電話とインターネットのせいにしてしまえるのである。

 笑ってしまったのは32ページで紹介されている「事例」だ。曰く、聴診器と間違えてパソコンのマウスを患者の胸に当てようとしたという。このような事例は、患者にとっては「しっかりしてくださいよ」と言いたくなるような単純なミスであるし、単にこの医者がおっちょこちょいだった、という可能性もある。しかし柳田氏にとって、こんな些細なことですらも《コンピュータ化時代ならではの問題点が見えている》のだそうだ。では聞こう。もし、ここで間違って患者の胸に当ててしまったのがメモ帳とか文鎮だったら?柳田氏は口が裂けても《コンピュータ化時代ならではの問題点》などとは言うまい。結局、柳田氏の問題意識は、この程度のものでしかないのだ。それ以外にも、柳田氏は、36ページにおいて、《四国八十八ヶ所の霊場をクルマでいかに早く回ったかを自慢する人がいるほど、効率化の価値を重視する時代だ》と、一部の(柳田氏にとって)衝撃的な事例を「時代の病理」と短絡してしまっている。

 他にも、この章においては、医療を始め、さまざまなことが、コンピュータ化時代の「負の側面」として描かれているのだが、コンピュータ以前の時代の状況がどうであったか、ということについては一切触れずじまいだ。

 結局のところ、この章は、柳田氏が携帯電話とインターネットを「敵」と見なして、それを潰すために的はずれな「批判のための批判」を重ねているだけの下らない章であり、そのような態度でいいのか、という根本的な疑問は一切放棄されているのである。

 柳田氏は、これ以降において、「非効率主義」「あいまい文化」の重要性について論じる。それについて述べたところは、私も共鳴するところは少なくない。だが、しかし。柳田氏が本書で開陳している俗流若者論は、明らかに白と黒を明確に線引きし(当然自分は「白」である)、グレーゾーンはまったく存在しない。しかも、柳田氏の文章からは、ある事象に対して多面的に検証する、という態度がまったく欠けており、「非効率主義」「あいまい文化」とは明らかに相反する執筆姿勢であることには疑いはないだろう。

 ・58~74ページ「「ちょっとだけ非効率」の社会文化論」…単なる憂国的妄想の開陳
 この章は要するに、カーナビゲーションシステムに対する柳田氏の恨み節だけで終始しているのだが、ここにも《人間同士や人と環境(街や自然)とのコミュニケーションに電気機器が介入すると、深いところで本質的なコミュニケーションはむしろ阻害されてくるのではないか》(61ページ)と、《深いところ》や《本質》などといった空疎なアナロジーが安易に使用されている。

 また、《現実とバーチャルの倒錯》というアナロジーは、この章にも出現する(70~74ページ)。しかし、ここで採り上げられている事件に関しても、そのようなアナロジーを持ち出すのは、それこそ倒錯した論理ではないか。結局のところ、柳田氏は、コンピュータ化によって日本人の「本質」が壊されている、という妄想に浸りたいだけなのかもしれない。

 ・145~161ページ「人の傷みを思わない子の育て方」…人の傷みを思わない俗流若者論の育て方
 柳田氏は、145ページにおいて、《人が人を殺すのは、極めて人間的だ》と述べる。ここで言う《人間的》という言葉は、《他の動物には見られない人間特有》という意味である。柳田氏は、146ページにおいて《これほどまでに殺人が日常化し、システム化しているのは、この地球上にヒト科を措いて他にない》と述べているのだが、見方によっては、柳田氏が145ページにおいて述べているハヌマンラングール(サルの一種)の子殺しもシステム化されたもの、ということができるだろう。このような安易なアナロジーの使用は、論理を崩壊させる力を持つ。

 柳田氏は、147ページから、現代の少年や少女による殺人事件について述べる。しかし、《子どもが同じ子どもを殺すという事件が、しばしば起こるという状況はかつてなかった》だとか、《凶悪事件を起こす少年少女の低年齢化も不気味だ》と事実に反することを言う。実際問題、犯罪白書を見ればわかるとおり、少年による凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)はすべてにおいて昭和35年ごろの数分の一に減少しており(強盗に関しては近年増加が認められるが、これは実数が増加したというよりも強盗罪の基準が低くなったことに起因する。土井隆義[2003]、浜井浩一[2005])、各事例に関しても、子供が子供を殺す、という事件は少なくなかった(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。このような事実が存在することを、柳田氏はどう考えているのか。柳田氏は、青少年の凶悪犯罪について、過去にさかのぼって調査したのか。

 しかし、柳田氏は、少年による凶悪犯罪の「増加」を前提として語っているので、しばらくはその前提を受け入れることにしよう。149ページからその原因論に入るのだけれども、そこにも(当然の如く、というべきか)過度な図式化や線引きが目立つのである。
 柳田氏は、151ページにおいて、「普通」の家庭について述べているのだが、これもまた柳田氏の妄想の産物に過ぎない。曰く、

 家計を受け持つ妻は、家賃の負担を感じながら、早く持ち家に住みたいと思い、その頭金作りの一助にと、パートに出ている。おしゃれのために、自分で自由になるお金もほしいという理由もある。時折娘に絵本を買い与えることはしても、自ら読んで聞かせることはしていない。読み気加瀬をすることが、母とこのスキンシップを深めることによる安定のためにも、幼い子の感性と物語の楽しさを味わう力を身につけるためにも、非常に重要だということを知らない。

 子どもはといえば、留守番の多い鍵っ子。ひとりでテレビを見たり、ゲームで遊んだりしている。ケータイも使える。母親が留守がちなので、連絡のためにケータイを買い与えたのだ。絵本を落ち着いて読む習慣がない。保育園では、協調性が乏しく、すぐに友達を手でぶつと、保育士から言われている。

 これは今の日本では、まさに「普通」の家庭だ。つまり「一般的」という意味で「普通」なのだ。しかし、このような状態を、子育ての条件として「正常」と言えるだろうか。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の家庭や家族が「赤信号」の中で暮らしていると、それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう。

 このような図式化が今の俗流若者論では、《まさに「普通」の》若者論だ。《つまり「一般的」という意味での「普通」なのだ。しかし、このような》暴論を、青少年に関する言説として《「正常」と言えるだろうか。《「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の》自称「識者」が《「赤信号」の中で》馴れ合って暴論を開陳していると、《それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう》。

 結局のところ、これは、「批判のための批判」としか言いようがない。つまり、あらかじめ「犯罪を簡単に起こす子供達を育てる家庭」なるものを批判するために、このような図式をでっち上げているのである。柳田氏よ、貴方もジャーナリストであれば、現代の家庭に関しても綿密な取材・調査を行うべきではないか。

 当然、151ページの最後から152ページの最後においては、柳田氏の生まれ育った環境と現在の家庭環境の比較を行なうのだが、これを印象操作という。要するに、柳田氏の生まれ育った環境は過度に美化されているのに加え、現在の家庭環境は過度に醜悪化されているのである。

 そして、案の定、153ページから154ページにかけてこのようなことを述べてしまう。曰く、《どのようにすれば子供の心が真っ当に育つのかという問題に対し、国も地域も親たちも具体的で有効な対応策を見つけ出せないまま立ちすくんでいるという状況を、私は論じているのだ》と。「真っ当な心」など、イデオロギー的な妄想に過ぎないのに。

 また、柳田氏は、155ページから157ページにかけて、今規制が推し進められている「有害な」映画について述べているのだが、そこにもただ不安を煽るだけの論理だけが繰り返されるばかりだ。現在、柳田氏が問題視したがる「有害な」映画やゲームへの規制が東京都、神奈川県、埼玉県を中心にさまざまなところで行なわれているのだが、もしそのような規制が行なわれたら、柳田氏は喜ぶのだろう。「表現の自由」という、もの書きにとってもっとも大事なこともかなぐり捨てて。

 しかも柳田氏は、157ページにおいて《凶悪事件を起こした少年(少女)のほとんどが、他者の痛みを思っても見ない完璧なまでの自己中心の精神構造になっている》と言っているのだが、なぜそのような考えているのか、ということに関しては、平成16年6月の佐世保の事件における、犯人の日記、小説、ホームページでの書き込みしか触れられていない。さらに、柳田氏は、160ページにおいて、《幼少期のテレビゲームへの熱中による脳の発達のゆがみ》と書いている。幼少期からテレビゲームに熱中していた子供が、果たしてどれほどいるのだろうか。

 俗流若者論は、人の傷みを思わない。

 ・162~180ページ「ノーケータイ、ノーテレビデーを」…敵愾心の産物に期待が持てるか
 高校時代、私は教室掃除をしていたとき、友達と、「漢字を覚えてしまったら、漢字がない文章はとても読みづらくなる」ということを笑いながら話していたことがある。

 そして、そのような漢字を使わない文章が、まさか社会的に一定の地位を得た作家が、現代人に対する罵詈雑言に使うだろう事など、夢にも思わなかったのである。

 そう、柳田氏は、162ページから、165ページにかけての節で、《ケータイはカミサマ》と題して、柳田氏の携帯電話に対する敵愾心たっぷりの文章を、漢字をまったく使わないで書いているのである。読んでいて、激しい怒りが私の中に募った。これこそ俗流若者論の暴走だ、と私は確信した。このような漢字のない文章にすることで、《ケータイ》なるものに(私がこのような表現を使ったのは、《ケータイ》というのはもはやイデオロギーでしかないからであり、携帯電話及び携帯端末とは極めて乖離した存在であるからである)侵された者がいかに貧困な思考しか抱き得ないか、ということが極めて残酷に描かれているのである。柳田氏は、最初から「敵」を決めて、それに対する狼藉は、たとえ不当なものであってもいとわない、という考え方を暴走させ、ついにこのような暴挙に出てしまったのだ。本書のタイトルは《壊れる日本人》だが、壊れているのは確実に柳田氏だ。

 柳田氏は《ノーケータイデー》《「ノーゲームデー」「ノーテレビデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」》が必要だ、と述べる。しかし、私はこれらには反対である。
 なぜか。柳田氏がこのような結論に至る過程には、さまざまな狼藉と誹謗中傷がある、ということは今まで述べたとおりであり、そのようなものから生まれた思索を、到底認めることなどできないのである。

 柳田氏は、当然の如く電子メディアの悪影響について自信満々で述べて、そしてそれらの「ノー○○○デー」がいかに子供たちにいい影響を及ぼすかを、実例を引いて述べている。しかし、柳田氏の視点に決定的に欠落しているものがある。それは、子供はどこまで親の監視監督下におかれるべきか、ということと、ある不安を抱えており、それに対する脱却にインターネットが大いに役立つこともある、ということの二つである。

 前者について言うと、柳田氏が述べている通り、現代の子供たちは昔以上に親の監視監督下におかれている。だからこそ、インターネットが、彼らの唯一の「居場所」になっていることがあるのだ。柳田氏は、そのような環境におかれた子供たちに対する想像力を、果たして持っているのか、問い詰めたい。柳田氏は、インターネット以外にも子供たちが「居場所」を探し出せるような環境作りという極めて大事なことを忘れて、電子メディアから子供を引き離せ、と主張しているのだから、柳田氏の論理が時代遅れだ、ということ以前に、柳田氏の論理は極めて暴力的なのである。

 また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」の解決にはむしろインターネットが有効だという(斎藤環[2003])。電子メディアの負の側面ばかりを強調して、それらを突き放すことによってよい面だけを生かすようにしよう、と柳田氏は述べているけれども、そんなことは単なる幻想に過ぎない。使用する過程で、いい側面も悪い側面も出てくるものだ、それは電子メディアに限ったものではないが。

 とにかく、敵愾心にまみれた汚れた「対策」に、何の期待が持てようか。

 ・181ページ~198ページ「異常が「普通」の時代」…そもそも「異常/普通」とは?
 182ページ、柳田氏は、前出の佐世保の事件について、《ケータイ・ネット時代ならではの側面に絞って詳しく分析した》と書いている。あれが《詳しく分析した》結果なのだ、と言われると、へそで茶を沸かしてしまう。これまで述べたとおり、柳田氏は、マスコミで報じられているあらゆる事件事象から、日常の些細な失敗まで、全てをコンピュータ化時代の病理に強引に結び付けて述べているのだから、本書は最初からアンフェアなスタンスで書かれている、ということを我々は自覚すべきだろう。

 183ページから184ページにかけて、柳田氏は、佐世保の事件の犯人の、長崎家庭裁判所佐世保支部による「審判決定要旨」を引用して、さらに185ページにおいて教育評論家の尾木直樹氏のある調査も引用して、この犯人の人格特性と絡めつつ、現代の子供たちがいかに危険であるかについて警鐘を鳴らす(書き飛ばす)。

 しかし、この尾木氏の調査に問題がある。尾木氏の調査は、平成10年に行われたもので、東京、京都、福島、長野の保育士456人に対して「子どもと親の最近の変化」についての調査をした、というものである。それによると、《1、夜型生活、2、自己中心的、3、パニックに陥りやすい、4、粗暴、5、基本的しつけの欠落、6、親の前ではよい子になる》という傾向が見られたらしいが、このような調査は、そのような答えを示した保育士が何を基準に語っているか、ということが問われるべきだろう。そもそもこのような回答には、「想い出の美化」というものが関わっている可能性もなくはないだろう。尾木氏、そして柳田氏は、そのことに関してコントロール(影響を排除すること)を行なったのか。しかし、柳田氏は、そのような疑問をはさむことはない。

 これ以外の内容は、柳田氏が以前に書いていた内容と大部分で重複するので、検証は控える。しかし、これだけは言いたい、柳田氏は、過去の自分を過剰に美化し、さらに現代の子供たちに過剰なまでの敵愾心を煽ることによって、差別や短絡的なナショナリズムの復活に貢献しているのだ、貴方はいつからそのような御用ジャーナリストになったのか、と。

 とりあえず、個々に関する検証はここで終わりにしよう。

 実を言うと、私は柳田氏のこの文章を、新潮社の月刊誌である「新潮45」に「日本人の教養」として連載していたときから愛読していた(もちろん、突っ込むことを楽しみにして。「日本人の教養」は、今も連載中)。柳田氏は、ノンフィクション界では相当の業績を残した人である、ということは知っていたし、また柳田氏の文章もいくつか読んだことがあるので、柳田氏がこのような文章を書いていることに、この連載の第1回を読んだ私は強い衝撃を覚えた。

 柳田氏のこの文章は、決して人間の視点で書かれたものではない。それでは、何の視点で書かれたものなのか。神の視点なのか。いや、違う。

 それは、政治の視点である。柳田氏は、過度に政治言説化された「今時の若者」のイメージを疑うことをせず、それどころかそれにただ乗りする形で、「今時の若者」の「政治利用」、要するに「今時の若者」を異物と見なして、それに対する「対策」をこそ至上の政策課題とする形で、本書は書かれている。そのようなスタンスで書かれた本書を、どうしてフェアーな書といえようか。本書は、限りなく政治に隷属された、人間味のない、罵詈雑言ばかりが繰り返された文章としかいえない。

 確かに、本書で問題のある部分として採り上げた以外の場所には、納得できる、あるいは共感できる部分もある。しかし、本書の中で「今時の若者」を敵視した文章に触れると、それ以外の部分で得た感動を一挙に裏切られてしまう。考えてみれば、本書で問題視しなかった部分でも、うわべだけの空疎な美辞麗句が頻出していた。

 このような、「今時の若者」を個々まで堕落せしめた「原因」を探し出し、それを排除する、あるいはそれに対する敵愾心を煽ることによって、子供たちを「今時の若者」にしないために、それらを過剰に敵視する。このような「残酷な温情主義」が、実在の子供たちを囲い込み、問題の解決を遅らせて、青少年から「居場所」を奪う。そして、このような残酷な温情主義と、子供たちを「国家」に従わせることによって自立心と社会性を育もうとする倒錯した論理が、戦略なき憲法と教育基本法の改正、あるいはメディア規制として析出している。

 そうでなくとも、今、手軽な社会批判として、多くの自称「識者」がインターネットを敵視し、自分の「理解できない」事件は何でもインターネットが原因と決め付ける。そして、インターネットを過剰に問題視し、「今の社会はここまで駄目になってしまった」とのコメントを流せば、マスコミは好意的にそれを紹介し、事件の真相を掘り起こすことを放棄して、そのような「憂国」に終始してしまう。

 なるほど、確かにインターネットや携帯電話といった存在、あるいはひきこもりや不登校といった存在は、強固な共同幻想によって結び付けられた「世間」にとっては「境界線の撹乱者」だ。そして今、その「境界線の撹乱者」に対して起こっている過剰なバッシングが、少年犯罪や「オタクの犯罪」にかこつけて行なわれている。しかし、我々にとって必要なのは、そのような「境界線の撹乱者」に対してどう向き合うか、ということではないか。

 俗流若者論は逃避の論理だ。俗流若者論は、自分の持っている幻想と、「世間」という幻想に逃げ込むことにより、自分を絶対化して、他者の痛みに気づくことを阻害させる。まさに、俗流若者論に感化した人こそ、他者の痛みを思わない存在である。柳田氏もそうだ。

 今、この文章を書いているときに、ラジオを聴いている。声優がパーソナリティを務めているラジオで、最近のものはメールでやり取りするものも多くなったが(小森まなみ氏の番組など、メールを使っていないものもある)、これらのラジオに共通するものは、あらゆる作業の手を止めて静かに、あるいは勉強や作業をしながら、リスナーはパーソナリティの発言を楽しみ、番組にあてられる手紙やメールをを媒介して、電波によって多くの人がその空間を共有できる。そこには確かに「人間」がいる。このように、一人一人のリスナーに即しつつ、しかし不特定多数のリスナーにも、電波の向こうの情景を楽しむことができる。俗流若者論が決して実現し得ない、メディアを通じた濃密な時間が、そこにはある。「人間」によってつむがれる言葉は、強く、深く、美しい。

 柳田氏のこの文章は、元々は手書きでかかれたものであろうが、その言葉が「政治」と強く結びついており、「人間」の入る余地がなくなっている。「政治」に隷属させられた言葉は、輝きを失い、魂を殺し、弱く、浅く、醜い。

 もう一度言おう。

 貴方は、いつから、このような物言いを許された、御用ジャーナリストになったのか、と。

 参考文献・資料
 風野春樹[2002]
 風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」=「ゲーム批評」2002年11月号、マイクロマガジン社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』2001年5月、春秋社
 柳田邦男[2005]
 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年6月 4日 (土)

俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説

 1件の衝撃的な凶悪少年犯罪だけをもって、その世代について語った気になってみせる、ということがいかに愚かであることは、この連載で何回も述べている通りである。たった1件の凶悪犯罪をもって、現代の若年層を訳知り顔で語ってしまう人たちは、その認識に至るまでの交渉を放棄し、飛躍した考えでもって世間の「同情」を得て、そして若年層に対する敵愾心を煽る。

 笑止千万。彼らの視点に欠けているのは、まず、大多数の少年が凶悪犯罪を起こしていないことである。現在、たとえば殺人犯に関して言うと、現在我が国で1年間で検挙される少年殺人犯の数は約110人前後(昭和35年ごろの約4分の1)であるから、少年の人口から考えてみれば、現代の青少年が、青少年に「悪影響」を及ぼす風潮なるものによって毒されている少年たちがなぜこれほどまでに殺人を犯していないのか、というところまず突っ込むべきであろう。

 「理解できない」もの、すなわち漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話に対して彼らが過剰に反抗する理由は、そのようなものが社会に台頭することによって、彼らの自意識の基盤が崩れるからに他ならない。要するに、俗流若者論とは自意識の問題なのである。すなわち、彼らの幻想する共同性の質を、例えばゲームやインターネットがもたらすコミュニケーションは突きつけているのだが、彼らがこの「問い」に答えるのを避けるからこそ、メディア悪影響論を基盤とした俗流若者論が生まれる。俗流若者論は逃避の論理でもある。そして、彼らの逃避を正当化するのが、「風潮」とか「現代」とか「時代」とか「本質」とか、それこそ実体を伴っていない空疎な美辞麗句であり、あるいは「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」といった、レイシズムのための「人種」捏造である。

 というわけで、このような私の考えを頭に入れつつ、平成17年2月17日付毎日新聞の社説を読んでほしい。この社説は、平成17年2月に大阪府寝屋川市で起こった教師刺殺事件について論じた社説であるのだが、突っ込みどころが満載だ。今回は、特に問題のある箇所を全文引用して、検証しようと思う。この社説の3段目から4段目である。

 かつて学校への不満は、窓ガラスなどを壊して発散するケースが多かった。いまは、いとも簡単に教職員を殺傷する。時代の影を感じる。

 最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている。

 少年も小学校の卒業文集に「ゲームクリエーター」への夢を描いていた。この事件の背景にゲーム文化の影響があるのか、注意深く分析しなければならない。

 「ゆとり教育」のあり方を見直すために15日開かれた中央教育審議会の初総会では、委員から「少年が閉じこもってゲームをしていて、生活のリズムが崩れた。身体を動かす場所があって、よいコミュニケーションが取れていたら」との発言があった。

 周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている。

 いったい何が少年の心の傷となったのか、その過程と社会的な背景を可能な限り解明する必要がある。そのことが遠回りに見えても、学校への襲撃を避けるための手掛かりとなる。

 (2005年2月17日付毎日新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 いや、ここまで露骨な俗流若者論を平気で社説で開陳できる毎日の社説子の強心臓ぶりに、ほとほと感心してしまう。例えば《かつて学校への不満は、窓ガラスなどを壊して発散するケースが多かった。いまは、いとも簡単に教職員を殺傷する》などと簡単に言ってしまっているけれども、それを裏付けるような事例的・数値的証拠を提示していないのだから、これは単なる「居酒屋の愚痴」の領域を超えることはないだろう。

 また、《最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている》だとか《周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている》だとかいう記述を見たときは、思わず笑ってしまった、このような、思い込みに基づいた俗説を、いまだに毎日の社説子は信じているようである。

 大体、毎日の社説子は、「テレビゲーム=誰とも関わらずに一人で部屋に閉じこもってやるもの」だとか「少年の孤立化を促し、社会性の発達を阻害する」という偏ったイメージをいまだに信奉しているのだから救いようがない。もちろんそれはゲームのイメージの一面ではあるけれども、はっきり言ってそれは悪い一面をさらに強調して、よい一面(例えばゲームを仲介したコミュニケーションが成り立つこと)に対する検証をまったく放棄している行為に他ならない。

 そもそも《テレビゲーム世代の特性》とはなんなのか?もし、毎日の社説子がそのような図式化を行なうのであれば、《テレビゲーム世代》による殺人と《テレビゲーム世代》以前による殺人を峻別すべきであろう。もちろん、《バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》という、既に論破されつくしている俗説ではなしに。もう一つ、《それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》ということについて、どこまでが《現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》状態であるかという定義もまず必要なのではないか。

 しかも、この毎日社説子が引いている《15日開かれた中央教育審議会の初総会》における発言の中に《少年が閉じこもってゲームをしていて、生活のリズムが崩れた。体を動かす場所があって、よいコミュニケーションが取れていたら》という発言があることには失笑を感じ得なかった。では聞こう。《体を動かす場所》が子供たちから奪われていたら?これは大袈裟に言っているのではない。実際問題、小学生がキャッチボールをしているときに、誤ってそれが関係のない子供の胸に当たってしまい、しかもその子供が死亡してしまった事件に関する裁判について、ボールを投げた子供に対する「親の監督責任」が司法によって問われたという実例があるのだ。すなわち、子供は親の監督の元でしか遊べない、という時代が到来しているのではないか、というのは少々大袈裟かもしれないが、それでも「ゲーム」という存在に頽廃的なイメージを供給し続けるのは、そろそろやめるべきではないか。

 毎日社説子は、《周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている》と気楽なことを言う。しかし、現在の学校や地域にそれが可能か、という議論もあることを忘れてはならない。学校に関して言うと、明治学院大学非常勤講師の内藤朝雄氏は、現在の学校の状況について、《生徒にされた人たちは、たまたま同じ箱に強制収用された他人たちと一日中べたべた共同生活し、諸関係のアンサンブルのようにふるまうことをきめ細かく強制される》(内藤朝雄[2004])ものであると批判している。内藤氏は、このような環境下によって生まれる集団意識が生み出す全能意識こそが、深刻な「いじめ」を引き起こす、とも論じている(内藤朝雄[2001])。内藤氏の視点から言えば、毎日の社説子の学校観は、あまりにも能天気なものといわざるを得ないだろう。

 また、地域にしても、東北大学助教授の五十嵐太郎氏が、見えない「敵」に対抗するために地域を閉鎖化させている様子を淡々と論じている文章を見ていると(例えば、五十嵐太郎[2004])、「今時の若者」なる存在に脅える地域社会に、青少年を育成する能力があるのか、と疑問を持ってしまう。

 現在、「今時の若者」への敵愾心を最も煽っているのは、マスコミといわざるを得ない。そして、残念ながら、今回採り上げた毎日の社説を始め、多くのマスコミが、そのような現状を棚に上げて、ひたすら「今時の若者」に対する「対策」としての政策ばかり掲げている。このような倒錯した状況を突き崩すのは、もはや外部からの圧力を強化するほかないのではあるまいか?

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 内藤朝雄[2001]
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

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2005年2月15日 (火)

トラックバック雑記文・05年02月15日

 MIYADAI.com:第二回 TEPCOインターカレッジデザイン選手権を終えて(宮台真司氏:社会学者)
 *☆.Rina Diary.☆*:持病が。(佐藤利奈氏:声優)
 宮台氏の文章は、建築に関する話です。私は現在大学の建築学科に通っているので、短文ながらも興味深い指摘があります。

■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。

 私も、大学の課題で住宅を設計したことがありますが、住宅を設計するには、自らのやりたいようにやるだけではなく、たとえば社会学的な視座も必要なわけです。何せ、住宅を設計することは、単に何かを作るだけでなく、住宅と社会のかかわりも真剣に考えなければいけないわけで。だから、建築家と社会学者はどんどん関わりを深める必要があると思います。授業がらみで「住宅建築」「新建築」などといった建築雑誌を読むことが多くなりましたが、建築家の作品や論考のみならず、もっと社会学的な論考を載せてほしいと思います。どこかの新聞やオピニオン雑誌が「建築と社会」を取り扱った対談や特集をやってくれないものでしょうか。
 ちなみに佐藤氏のサイトにある《持病》とは、《「お引越ししたい病」》なんだそうな。引越しすると、自らの住環境や、周囲の人間関係も変わります。「引越ししたい」という「病」にかかってしまうことは、常に新しい環境を求めることなのかもしれません。これがいいことなのか、悪いことなのかは、もう少し深く考えてみる必要がありそうです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:公務員からドーゾ
 「国民総背番号制」に関する文章ですが、私としては、導入は慎重にやるべきだと思います。もちろん、この制度には利点も多数あるでしょう。しかし、制度を導入することによって新たなリスク、たとえば、予算、セキュリティ、偽造される可能性をあらかじめ勘案・予測しておく必要もあることは明らかです。これでリスクが少なく、利点が大きいというのであれば、私は導入してもいいと思いますが、不安要素が多すぎます。まず、国民が理解を示しているか。次に、管理とセキュリティは万全か。特に後者については、省庁のホームページが簡単にセキュリティを破られて進入されるという報道が多くなされていることからも分かるとおり、我が国の政治におけるセキュリティに関する知識が足りないことも不安要素たりえます。「ヤースのへんしん」では、

 結局は「指紋」などの、個人を特定できる体の一部を判定基準とするしかないと思うのです。
 それなら、背番号は必要ないわけですよね。

 と、番号を振る以外にも(偽造されにくい?)やり方があることを示唆しています。しかし、たとえば指紋を用いる場合にも、指紋データの漏出が問題になるでしょうから、サイバー政治戦略とは複雑なものです。
 ちなみに、「ヤースのへんしん」には、こんな面白い案もあります。

 まずは、公務員だけ先に背番号を付けて見たらどうでしょうか?
 保険証も免許証、ETC、定期券、クレジットカード、各種メンバーカードなどを一元的にオンラインで管理するわけです。
 東京に出張してるはずなのに、大阪の居酒屋でカードを使い、定期券で家まで電車で帰ってるとか、残業してるはずなのに役所の最寄の駅から5時15分に電車に乗ってるとか。
 「カラ出張」もできなくなるし、「カラ残業」もできなくなる。
 公務員の事件では、個人が特定できずにうやむやにされることが多いわけですから、背番号はいいかもしれませんよね。
 国が導入したいなら、まずは公務員だけ3年ほど導入してみたらどう?
 国民から給料を貰ってるんだから、国民を代表してやってみればいいんじゃない。

 まあ、公務員の不透明なカネの使い方を明らかにする、ということはできるのかもしれません。
 しかし、木村氏のブログで奇妙に思えるのは、「国民総背番号制」の導入の議論が、なんと偽造通貨の横行から始まっているのです(実際には他のブログからの引用で、木村氏が制度導入による犯罪の抑止効果を論じているわけではありませんが)。
 これでいいのでしょうか。
 《個人の認証の問題》というのであれば、なぜ国民総背番号制でなければいけないのでしょうか。「ヤースのへんしん」のような指紋認証システムとか、あるいはNシステム(自動車のナンバープレートの認証システム)のようなシステムでもいいはずです。このブログの筆者は、なぜ国民に番号を振る必要があるのか、という根本的な疑問に答えきれていない気がします。
 あまつさえ、このようなことを言っているブログさえありました(ブログ名は挙げません。木村氏のブログから探してください)。

 近年、凶悪な事件が連続して起こっており何か悲しい状態になっています。そして、もし国民総背番号制と登録制度があったら、犯罪に対して抑止効果があるのでは、と思わざるを得ません。

 正気の沙汰か、と思ってしまいます。《凶悪な事件》が何を指すのか分かりませんし、《国民総背番号制や登録制度》がどのような犯罪にどのように抑止力として働くのか、ということに関してはまったくあいまいなままです。はっきり言いますが、国民総背番号制度を導入して抑止力になりうるのは、私が考える限り脱税ぐらいではないか(これに関しても、木村氏が言うとおり、同時に所得税を申告制にすれば、所得税に関しては抑止力を失う)。国民総背番号制や登録制度を導入したところで、マスコミを騒がせるような凶悪事件を防げると考えるのは、まったくお門違いもいいところでしょう。
 それにしても、最近、「強い〈国家〉が自分の不愉快なものを癒してくれる!」という考えが出てきているのが気になります。具体例を挙げれば、憲法および教育基本法改正に奔走する一部の議論。これらを改正すれば、国家が自立することによって、国民にも自立心が生まれ、少子化も少年犯罪もみんな解決できる!って言っている改正論者は、まともな社会学者や経済学者を莫迦にしていますね。憲法に関する視座については、長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)を推薦します。少なくとも憲法と青少年問題を強引に結び付けて考えることのアホらしさが分かります。
 それから、ここでも何度か採り上げた「有害情報規制」。言っておきますけれども、この規制を導入する人にとっての「有害情報」とは、単に「自分の道徳的観念に照らし合わせて気に入らない情報」であり、それ以上のものではないのでしょうか。実を言うと私も、このブログで散々オタクメディア規制を批判してきましたけれども、露骨な性描写はむしろ嫌いです。しかし、嫌いなら見なければいいのではないでしょうか。いうなれば「見たくないものを見ないですむ権利」ですね。それを無視して国家による規制を求めるのは、国家と国民が自分と同じ価値観を持ってくれないと困る、ということに過ぎないのではないでしょうか。同じ論理で、いわゆる「禁煙ファシズム」も批判できます。私だってタバコは「大」を10回繰り返したくなるぐらいに嫌いです。しかし、嫌いであれば遠ざかればいい、あるいは分煙を主張するべきでしょう。自分の志向にあわないものは国家が規制しろ、という言論を、私は「生活保守主義的プチナショナリズム」と名づけます。どっかの俗流精神科医の「ぷちナショナリズム症候群」なる空疎な「若者論」とは一味違うぞ!これに関しては、また稿を改めて論じる必要がありそうです。

 山崎宏之のウェブログ:【大阪寝屋川中央小侵入事件】「ゲーム大好き」「ひきこもり」無職・17歳卒業生(山崎宏之氏)
 凄惨な事件がおきてしまいました。犠牲者のかたがたには、心から同情を禁じえません。
 しかし、この事件の報道(山崎氏のブログでは朝日新聞の記事が引用されていましたが、読売新聞も同じようなことを報じていました)が、またぞろ「ゲーム」「ひきこもり」を強調しているのは、なぜなのでしょうか。どうしてほかの要因を見ようとしないのでしょうか。「動機」(これが信用に足りうるものである保証はない)すら明らかにされていないのに、すぐさま「ゲームの影響で凶悪な犯罪を起こしてしまった」と思わせてしまうような報道、あるいは「「ひきこもり」は凶悪犯罪と親和性が高い」と思わせてしまうような報道をしてしまうのでしょうか。結局のところ、このような報じ方をする記者は、「自分とは関係ないところから凶悪事件が起こったのだ!自分の生き方は正しい!」という考え方に染まっているのではないか、と思えてなりません。ここから「生活保守主義的プチナショナリズム」が生まれてしまうのですね。ちょっと議論が飛躍してしまいましたが。
 話を戻しましょう。なぜ「ゲームの影響」「ひきこもり」を強調することはいけないことか。その原因として真っ先に投げかけられるべき疑問は、「ゲームが大好きな青少年はいっぱいいるし、「ひきこもり」の青少年もたくさんいると聞く。しかし、それではなぜ彼らは犯罪を起こさないのか」というものです。多くのゲーマーや「ひきこもり」の青少年が凶悪犯罪を起こさないのだから、この凶悪犯罪者を犯罪に駆り立てたものは、ゲームや「ひきこもり」以外の何か、と考えざるを得ません。安直なプロファイリングは、ある属性の人を凶悪犯罪者予備軍に仕立て上げることによってのみ成立するものですから、慎重でなければならないのは明らかでしょう。むしろ大事なことは、このような事件の再発を防ぐためには何が必要か(更生システムの見直しなど)、被害者遺族の心理的なショックを癒すためには、そしてこの犯罪者の処遇は、ということに他ならないはずです。特定の属性を持った人々や特定の世代に対する敵愾心を煽ったところで、何も変わらないのです。
 それにしても猟奇的な少年犯罪報道の「不変ぶり」にも、驚かされるところがありますね。

 もう少し「ゲームの影響」について語らせてください。
 最近になって、いろいろなところで長崎県教委による、小中学生の「死生観」をめぐるアンケートが話題になっていますね。なんでも、小中学生の約1.5割が「死んだ人が生き返る」と考えているのだとか。このような結果に関して、多くの人が「ゲームの影響」を疑っているようです。しかし、長崎県教委のアンケートを見ると、「リセットできるから」と考えたのは、なんと「生き返る」と答えた者の中のたった7パーセント!全体で見ると、0.07×0.15×100=0.85[%]となり、「ゲームの影響で死生観が麻痺している」のは全体の0.85パーセントに過ぎないのです。
 ついでにこの統計も疑ってみましょう。「死んだ人が生き返る」と答えた者への、その「理由」を尋ねる項目があるのですが、

 ①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
 ②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
 ③ゲームでリセットできるから
 ④その他

 これでは誘導尋問ですよ。このアンケートの設計者は、何が何でも「メディアの悪影響」を捻出したいようですね。しかし、こんな杜撰な調査では、少なくとも統計学的な知識を持った社会学者には相手にされないでしょうね。近く、これを題材にして、久々の「統計学の常識やってTRY」をやろうと思います。
 ゲームに関しては、「コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)」という良心的な団体がありますので、こちらのウェブサイトもチェックしてみる必要があるでしょう。

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