想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~
(H19.4.21 10:40 書名の間違いがあったので訂正しました)
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「ご冗談でしょう」。私が書店で、「ダ・ヴィンチ」(マガジンハウス)平成19年5月号に掲載されていた、平成19年4月に新たに発売される文庫や新書の一覧で、講談社現代新書の新刊の1冊として、香山リカ(精神科医)の新著として、『なぜ日本人は劣化したか』なる本が発売される、ということを知ったときの感想である。私はかつて、少し思うところがあって、仙台市内の古本屋を数軒周り、香山のほとんどの著書を収集したことがあるが、『多重化するリアル』(廣済堂ライブラリー/ちくま文庫)の頃から急激に文章が若い世代を糾弾するようなものになるとはいえ、このような実にストレートなタイトルの本が出るとは予想だにし得なかったのである。
しかしながら、なんと本当に出てしまったのである。しかも、内容はもはや香山自身が劣化したとしか言いようがないほどのひどさなのだ。言うなれば、香山の初期の著書である『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)に出てくるような、何らかの悩みを抱えて香山に手紙で相談してくるような人に対し、香山が「お前は劣化している。そしてこのように劣化した人間ばかりとなり、劣化した社会を構築しているのが、今の日本なのだ」と糾弾しているような本である、と考えれば、わかりやすいだろうか。
香山の「変貌」に関してかいつまんで説明しよう。初期の香山は、おおむね、『リカちゃんのサイコのお部屋』の如き、「お悩み相談」系とでも言うべき仕事か、あるいは当時の女性における流行やテレビゲームに関して軽妙なエッセイを書いているような、単純に言えばエッセイスト的な存在であった。ただ、平成7年ごろを契機に、香山の言説の中に、なかんずく青少年や若い女性における流行を指し、これは社会の抱えている病理を表しているのではないか、と嘆いてみせるようなものが登場するようになった。とはいえ、当時の香山の態度は、そのように嘆きつつも、結局のところ嘆きを内に抱えながら考え込む、というようなスタンスで、簡単に糾弾するようなことはなかった。
平成10年ごろには、香山の言説の中に「解離」や「離人症」という言葉が頻繁に出てくるようになる。契機は、同年に栃木県黒磯市(当時)で起こった、中学生による教師殺傷事件だ。この事件を契機に、宮台真司が「脱社会的存在」という概念を振りまいたのと同様、香山もまた「解離」「離人症」という概念を振りかざした。ただしスタンスとしては、それほど変化しているわけでもない。
香山のスタンスが急激に変化するのは平成13年9月11日の、米国における同時多発テロである。この事件を契機に、香山は、現代人は「解離」的な状況を作り出すことによって多元的な自己を生きてきたが、現実はそういう生き方で生き抜くことはできない、だから「解離」的な人たち、なかんずく若年層を現実に引き戻すべきだ、という言説が頻出するようになった。その象徴とでも言うべき著作が『多重化するリアル』であり、この時期以降の香山のベストセラーである、『ぷちナショナリズム症候群』『就職がこわい』『いまどきの「常識」』では、おしなべてこのような認識が繰り返されている。
そして、香山の「変貌」がもはや完全なものとなったとして認識できるのが、平成18年2月に上梓された『テレビの罠』であろう。同書においては、もはや「解離」という言葉すらほとんど見あたらず、しきりに日本人がだめになった、おかしくなったと連呼しているだけのものとなってしまったのだ。そして、完全に変貌しきった香山の象徴的な著書として記録されるべき著作――それが、『なぜ日本人は劣化したか』に他ならない。
のみならず、同書は、主として若年層に対する罵詈雑言で満ちており、「左派」と呼ばれる側にいるはずの香山が、若年層に対する偏見を扇動しているのである。その意味では、本書は批判どころか、徹底的に糾弾されるべき本である。
香山は同書の「まえがき」において、働こうとしない「ニート」の若年層や(このような認識が間違いであることくらい、『「ニート」って言うな!』などを読めば直ちにわかるだろうが)、子供を車に置き去りにして子供を死なせる若い母親(センセーショナルに採り上げられているだけではないか?)、そしてやる気のない東大生を採り上げ、次のように述べる。曰く、
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私たちはこの変化を、「一過性」「一部の人だけの問題」として無視する、あるいは見守ることはできないのではないか。
いや、「変化」などという留保つきの言い方は、もうやめよう。
日本人は、「劣化」ししているのではないか。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。
私自身、そういう″直感″を抱いてから、それが″真実″だと認めるまでには、やや時間がかかった。私はこれまで、病理的な現象からテクノロジーの普及まで、社会の変化をおおむね肯定的に受けとめ、解釈してきたからだ。
しかしここに来て、私もいよいよ認めざるをえなくなった。
日本人は、「劣化」しているのだ。
それは本当なのか。希望はもうないのか。これから考えてみたい。(香山リカ[2007]pp.6-7)
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《全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に》などと能書きを垂れているものの、香山が本書において、若年層ばかり問題にしており、他の世代を問題にする場合も、やはり若年層の「劣化」に結びつけて語りたがっているのは明らかである。従って、香山の言うところの「日本人」は、――多くの俗流「日本人論」がそうであるように――「今時の若者」と同義であることは言うまでもないだろう(どうでもいいけれども、香山は冒頭において、「日本人の志を取り戻せ」という趣旨の奥田碩の発言を肯定的に採り上げている。香山が「若者の人間力を高めるための国民運動」に委員として参加しているから、会長である経団連会長(現在は御手洗冨士夫にポストを譲ったけれど)は批判できないのか?)。
しかし、感慨深いものがある。なぜならこのようなことは、少なくとも平成13年頃までの香山なら絶対に言わなかったことである。それまでの香山のスタイルというものは、社会に対してなにか言いたいけれども、とりあえず内に抱え込んで、結論を安易に出さずにしておく、というスタンスだったからだ。それがこのように断言するようになったとは。
それはさておき、香山がここまで強く断言できるには、それなりの証拠があると見ていいだろう――だが、残念なことに、決してそうではない。香山が、日本人が「劣化」しているという証拠は、結局のところ香山の直感と、それを支持してくれそうな身近な人たちの発言なのである。真に客観的と言えるような証拠など、はっきり言って皆無なのだ。
例を示してみよう。香山は、若年層の文字を読む能力が低下している証拠として、日本人が長い文章を読めなくなった、ということを示している。曰く、香山が最近頼まれた文章の長さに関して、当初、香山は1200字の原稿として書いた。ところが香山が編集者に問い合わせてみたところ、1200字ではなく200字であった。さらに、身近な編集者に尋ねたところ、かつては800字くらいでも多くの人が読めたが、今は200字くらいでなければ読者は読むことができない、というのが業界の常識なのだ、という。従って、日本人の知性が劣化しているのは明らかである(香山、前掲pp.14-18)。
めまいがしてきた。だが、このような論証立てが、次から次へと続くのが本書なのである。つまり、まずはじめに自分の直感があり、それを都合良く正当化してくれるような身近な事実があり、そして自らの思っていることは正しかったのだ、日本人は劣化している!というのが本書の主たるストーリーなのである。もちろん、他の自称に関してもこれと同様。今の学生が90分の授業を聞けなくなったことの証拠としてあげているのは身近な教授。ちなみに私は、大学院生となった今まで、私の参加した全ての授業で、多くの学生が最後までしっかりと、90分の授業をしっかりと聴講していたが(まあ、中にはねる人も少なからずいるかもしれないけれど)。さらに言えば、今の学生の、授業への出席率は良くなっている、というのもよく聞く話である。ということは昔の学生は授業に出るほどの力すらなかったようである。日本人は進化しているのだ(ちなみにこの話にも根拠は示していないが、香山のやり方をまねれば、このように言うことだってできるのだ、ということを示したかっただけである)。フェミニズムやリベラルの衰退の原因について述べられたところも、引用しているのはせいぜい荷宮和子の言説や、山口二郎などの、平成17年の総選挙に関する「解説」だけであって(ちなみに、この選挙における「解説」のいかがわしさについては、後藤和智[2007]で採り上げるつもりである)、やはり公明党の協力や小選挙区制については採り上げられていない。
もちろん、自らに都合のいいことが書かれている記事に関して、それを疑って読むことと言うこともない。例えばモラルの「劣化」を採り上げた第2章においては、そこで採り上げられているほとんど全ての事象が、産経新聞が今年から始めているシリーズものの企画「溶けゆく日本人」なのである。ちなみにこの記事については、「はてなブックマーク」などで、少なくない人から「釣り」「ネガティヴなことばかり採り上げすぎ」「また産経か」と言われているし、そして私が見た限りでは、この意見は正しい。
ちなみに浅野智彦らは、都市部の若年層に対するアンケート調査から、現代の若年層の道徳、規範意識は決して低下していない、という結果を出しているのだが(浜島幸司[2006])、まあこれに関しては置いておこう。
ゲームに関する記述も、はっきり言ってでたらめの極みである。例えば、次の文章を読んでいただきたい。
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″お得感″を目的とする実用ものとは異なるが、すぐに目に見えて結果が出るゲームの中に「暴力的ゲーム」を加えることもできるかもしれない。
「スーパーマリオブラザーズ」など大ヒットゲームの開発者として知られる任天堂の宮本茂専務は、〇七年三月、アメリカで行われたゲーム開発者会議で基調講演を行い、その中で「ゲーム開発業者は熱心なファンが好む暴力的ゲーム作りを偏重し、一般利用者向けの楽しいゲーム開発を怠ってきたため、ゲーム業界は過去一〇年間に信望を失ってしまった」と、自らも属する業界のあり方を厳しく批判した(産経新聞、二〇〇七年三月一〇日)。(香山、前掲pp.75)
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だが、ここで香山が採り上げている記事は、室田雅史によれば、誤報であるというのである。これを室田は、この記事が時事通信と産経新聞で配信されたときからかなり早い時期に、さらに言えば講演の原文に依拠して論証していた。
香山の魔術にかかれば、近年になって、いわゆる「脳トレ」系のゲームが売れるようになったことも、日本人が劣化し、ゲーマーにおける想像力や我慢する力が低下したから、ということになる(ちなみに香山は、近年はすぐに結果が出るようなゲームしか売れなくなった、と嘆いているが、その根拠もまた《あるゲーム開発者》(香山、前掲pp.71)から聞いた話である。これでは、岡田尊司が、ゲームを制作している会社は、ゲームが売れなくなることを心配しているため、ゲームが子供の脳に及ぼす悪影響に関して口をつぐんでいる、という行為が業界における公然の常識である、と陰謀論を述べたのとどこが違うのか)。実用系のゲームが登場したことによって、これまでゲームに親和的でなかった層にも市場が開拓された、という見方のほうが有力だろう。
第一、かつての香山は、テレビゲームについては親和的な立場をとってきたのではないか?まともだった頃の香山の中でも、さらに良質な著作として、『テレビゲームと癒し』(岩波書店)があるが、少なくとも同書は、テレビゲームによる精神医学への応用など、ポジティヴな側面にも触れられており、さらに言えば安易な擁護論にも与せずに、公平に評価を与えようとする態度が出ていた。それがこのざまだ。おそらく香山をゲームバッシングに走らせた要因としては、平成17年中頃に起こった監禁事件を挙げることができるのかもしれないが(その時の香山の言説を批判したものとして、私のブログの「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」がある。ちなみに当然本書においては、ここで批判した文章と同様の論調での「萌え」批判だってあり、なおかつ問題点までそっくり同じだ)、かつて香山が、斎藤環の「ゲーム脳」批判を引いて、「ゲーム脳」説の非科学性を訴えていた(香山リカ、森健[2004])のとは隔世の感がある。
さらに言えば、これだけではない。同書においては、何が何でも若年層が悪い、若年層の性で香山が悪いと思っている事態が生じた、ということを主張するためのこじつけだって頻出する。例えば新聞の文字が大きくなったことについて、高齢者にも読みやすいようにしているのだろうと考えるのが普通だろうが、香山はこれだって若年層のせいになってしまうのだ。
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よく言われることだが、いま六〇代から八〇代のいわゆる高齢者と呼ばれる人たちの多くはむしろ向学心にあふれ、むずかしい本、半ば難解な哲学の講義を受けにカルチャースクールに通いもする。電革で、昔の活字の小さな時代の文庫本を熱心に読む老紳士の姿も、しばしば見かける。
そう考えると、「字を大きくして」「中身を簡単にして」と望んでいるのは、実は高齢者ではなくて、若い人たちなのではないか、という気もしてくる。実際に冒頭に述べたように、若い女性が読む雑誌でも「かつては一テーマ八〇〇字、いまは二〇〇字」というように″簡略化″が進んでいる。この人たちに関しては、視力が低下しているわけでも長い文章を読む体力がなくなっているわけでもないことは、明らかだ。(香山、前掲pp.26-27)
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いい加減にしていただきたい。こういうことを言っているのは全世界で香山だけだ(おそらく)。第一、このような言い方が許されるのであれば、香山のここ1年ほどの発言こそ《簡略化》の象徴ではないか。
香山はリストカットに代表されるような若年層の「生きづらさ」に関しても、若年層の精神が本質的に弱くなっているからであり、さらに言えば若年層の「問題行動」の原因さえも、若年層の体力の低下だと述べている(香山、前掲pp.85-94)。『生きさせろ!』なる秀逸な本が香山に書評されて喜んでいる雨宮処凜は、香山がこのように述べていることをどう思うのか、是非お訊きしたいものである(雨宮さん、ごめんなさい)。
挙げ句の果てには、このようなことを言ってしまう。これでは戸塚宏と同じではないか。
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しかも、これまでの章で述べたように、この劣化は知識やモラルといった主に脳内での活動に限って進んでいるのみならず、体力、身体能力などからだの領域でも起きているようなのである。すぐに「死にたい」「生きるのに疲れた」とつぶやく若者の例も紹介したが、「朝、起きて″ああ、今日もいちにち生きなければならないのか″と思うとそれだけでグッタリする。夜、眠るとき″このまま明日の朝が来なければいいのに″と祈ってしまう」と訴える若者を見ていると、何かをしろ、と言われているわけではないのに、ほとんど本能のレベルで片づくような呼吸、食事、睡眠といったものがこの人たちに″とてつもない負荷″として伸し掛かっているという事実に、愕然とすることがある。
こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らにとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。(香山、前掲pp.144-145)
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これから香山のことは差別者であると認定しよう――私にそのように決断させてくれた文章であった。もはや何とも言うまい。
何とも言うまい、とは言ったものの、やはり無視できない部分がある。それは、インターネットに関する記述である。香山は、インターネット上のコミュニティ「セカンドライフ」について、以下のように述べる。やはり香山は差別者でしかない。
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では、生物として劣化し、体力も性欲も繁殖能力さえ喪失しつつある人たちは、どこに向かうのだろうか。
その″行き先″として注目されるのが、二〇〇七年春にも日本語版サービスが始まるとされる3D巨大仮想空間「Second life(セカンドライフ)」である。(香山、前掲pp.146-147)
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つまり、インターネットのコミュニティは、生物として劣化したものの行き着く先であると!なんという物言いであろうか。
これに関しては、実証的な視点からの批判が必要であろう。インターネットによる社会関係資本の形成については、既に少なくない研究が積み重ねられている。
例えば池田謙一は、インターネットのメールの利用に関してアンケートを分析したところ、テクノロジーに対する親和性が高いことや、あるいはインターネットのメールの使用が、フォーマルな集団への参加を促し、また非寛容性を減少させる効果があるのではないか、ということを実証している。他方で池田らは、元々社会関係資本に恵まれた人ほどインターネットに親和的である、という見方もできるであろう、としている(池田謙一[2005]第2章)。他にも多くの研究があり、ここでは割愛するけれども、少なくとも香山が考えているような、インターネットのコミュニティが頽廃的な世界である、という見方は辞めたほうがいいようだ。
ちなみに、香山のインターネットに対する偏見は、やはり平成14年の『多重化するリアル』が始祖である。なぜなら同書において「解離」を蔓延させている張本人として採り上げられているのが、インターネットであり、また携帯電話であるからだ。
さて、これまで、私は同書における、香山の態度に対して批判を重ねてきた。具体的に言えば、香山は、社会的な問題に関して、自分で勝手に「劣化」の烙印を押しては、それを薄弱なる根拠で執拗に嘆いている、という行動を繰り返しているだけであり、言説としての価値は全くない。なるほど、帝塚山学院大の教授(助手でも准教授でもない!)なら、私にでもなれるようだ。大学院を卒業したらそこに就職しようか。
同書において、香山は、まず日本人が「劣化」しているという事実を認めるべきだ、そこからでないと日本人の「劣化」を食い止めることはできない、と主張している。もちろん、このような見方が傲慢であることは言うまでもないだろう。第一、「劣化」なる烙印を、特に若年層に対して執拗に押し続けているのは、他ならぬ香山だからだ。そして現代の若年層は、香山によって「劣化」している日本人の象徴であるという烙印を押しつけられ、その存在価値を減じられる。香山の言っていることは全て偏見か、そうでなければ怪しい主張の受け売りに過ぎず、内容はないに等しい。
さらに言えば、香山は同書の中では、日本人の「劣化」に警鐘を鳴らすべき人物として書いている。香山は後書きで言い訳臭く、「自分も「劣化」しているかもしれない」と書いているけれども、本書を読む限りでは、香山にそのような認識などかけらもないことは明らかだ。
しかしながら、香山はそのようなヒロイズムに浸ることによって、実証的な議論を参照すること、あるいは実証的であるように心がけることを放棄している。同書が客観的な根拠をことごとく欠いていることも、これが原因であろうか。
香山は、特に『ぷちナショナリズム症候群』を出した直後から、左派の若者論の指標として、その際前線で活躍してきた。それまでは自己満足の如きエッセイや、あるいは精神分析の流行の受け売りでしかなかったのが、同書によって急に最前線に出ることとなったのだ。爾来、香山は、特に若年層の「右傾化」なるものを嘆く記事で頻出するようになった。そして、その歴史は、香山の「劣化」(!)の歴史でもあった。左派が少年犯罪や青少年の規範意識に関して、実証的な視点からの反論を試みなかった、あるいはほとんど採り上げなかったことに関しても、香山という存在があったから、ということは大げさだが、少なくとも左派は若年層に関して、理解してあげるそぶりを見せながら、本音ではバッシングしてきた(その象徴としてあるのが、本書にも一部だけだがある「ネット右翼」論である)。その象徴が香山であったのかもしれない。
とりあえず本書に関して私が言えることは、香山こそが「劣化」した、ということだ。香山は同書の中で、日本人が「劣化」している!という自らのでっち上げた物語に酔い、もはや何も見えなくなってしまった。これ以上、香山の自己満足に我々は付き合っている必要はない。それと同時に、左派もこのように何も生み出さなくなってしまった香山とは一刻も早く決別すべきだ。優れた論者はいくらでもいる。
とはいえ、私如きがこのような文章を書いたとしても、香山の地位は低下しないだろう(第一、このように無意味な本が平気で出版されているのだ)。ただし、私は、香山の言説を嬉々として受け入れている読者や編集者に対して訴えたいことがある。香山の言説は、結局のところ中高年層と若年層を分断させ、上の世代が下の世代に対して「こいつらが生きづらいのは自己責任だ」と罵るようなものでしかないということだ。そしてそのような言説ばかりが蔓延する将来像とは何か、考える必要があるのではないか。少なくとも香山の暴走を止めることができるのはあなた方しかいないのだ――と。
引用文献、資料
後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」(仮題)、「論座」2007年6月号、ページ未定、2007年5月(近刊)
池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007年4月
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